ビデオゲームとイリンクスのほとり

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【コラム】PS4のSHARE機能を通して見えてくるSNSで僕たちが共有しているモノ

2/22。PS4を購入した。このPS4について色々と言いたいことはあるのだけど、1つだけ。PS4の今回の目玉と言っていい機能、SHARE機能について書いてみたい。

■圧倒的に簡単なSHARE機能

このSHARE機能。一体何かと言えば、プレイしたゲーム動画のリアルタイム配信を可能にする機能だ。リアルタイムな動画配信と聞いても、ほとんどの人は「え?そんなこと私やるかな?」と思うだろう。ゲーム実況やゲーム動画配信という行為があることは知っていても、まだまだハードルは高い。自分が配信する側になるとは思っていない人も多い。それも当然だと思うが、PS4が凄いのは、従来の動画配信にあった高いハードルを一気に低くした点にある。

どのくらい簡単なのか。ネットワーク環境とUstream(もしくはTwitch)のアカウントを持っていることを前提とすると、動画配信までに掛かる手間は、ボタンをたった4回押すだけだ。SHAREボタンを1回に、(スティックを多少動かすが、)あとは○ボタンを3回押すだけ。たったこれだけで自分のPS4はインターネットの世界で生放送の状態になる。

正直に言えば、これはWiiUミーバースへの投稿よりも手軽だ。WiiUミーバースというのは、WiiUゲーム専用のネット掲示板のようなシステムだ。ゲームごとにコミュニティと呼ばれるカテゴリがあり、ユーザがそれぞれのゲームについて投稿を行う。しかし、そんな分かりやすいミーバースというサービスよりも、ずっとSHARE機能は簡単なのだ。そして、ミーバースよりもずっとSHARE機能は今風なSNSサービスだと感じた。今回は、その感想を核に、本記事を書いてみたいと思う。

ソーシャルネットワークはコミュニケーションなのか?

昨今、家庭用ゲーム機市場がSNSの巨大な市場に飲み込まれて行くという話はとてもよく聞く話だ。ここ10年のゲーム業界はまさしくそのような有様だったと思う。そんな状況にあって「今はゲームの時代じゃない。コミュニケーションの時代なのだ」という分析がされてしまうのも、安易ではあるかもしれないが、あながち間違いではないだろう。

しかし果たしてSNSが満たしてくれる欲求は、本当にコミュニケーション欲求なんだろうか?そのことを改めて考えてみたい。SNSが「まともなコミュニケーションではない」と評する人も多いが、僕が言いたいのはそういうことではない。SNSでの体験は、まさにコミュニケーションとは別の体験なのではないか、ということだ。

SNSでの体験は日常的なコミュニケーションとはかなり様相が違う。facebookTwitterやLINEでの発信は何らかの反応を常に期待しているだろうか。"フォロー"、"リツイート"、"ふぁぼ"、"いいね!"、"スタンプ"という言葉を交わさないやりとり。これらはコミュニケーションなんだろうか。僕は、これらの行為は従来のコミュニケーションとは全く別の行為なのだ、と考えている。もちろん友人とfacebookTwitterやLINEでコメントを交わしたり、その反応を楽しむことはコミュニケーションと言える。しかし、SNSの心地よさは、そういうコミュニケーションの快感であるだけでなく、むしろ「存在感のやりとり」とでも言うべき、別の行為によるものではないか。そして、何よりPS4のSHARE機能が目指したのも、まさにこの「存在感のやりとり」ではないかと感じたのだ。

■存在感のやりとり

この「存在感のやりとり」とは何だろうか。これは、例えば、次のようなTwitterでのやりとりをイメージしている。

ゴールデンウィークなど少し長い連休最後の夜に「あー、明日からまた仕事か」と誰かが呟く。その後に同じような内容のツイートが連続してタイムラインを流れる。中には「明日から、お仕事の人お疲れ様ですw わたしは明日まで休みです」とのツイートが見られたり、「嘘だ。明日が月曜なわけないじゃないかw」と若干おどけた様なツイートが現れたりする。そんな一連のツイートを眺めながら、あなた自身は何も呟くことなくそっとアプリを閉じ、明日の出勤に向けて床に就く。

上記のような現場は果たしてコミュニケーションが成立していると言えるのだろうか。誰一人、特定の誰かを意識して話しているわけではない。まさしく呟きは独り言のようなものであり会話ではない。意味のある情報が伝達されるわけでも、お互いに共感しあうわけでもない。しかし、確かに何かが伝わっている。その何かとは、あえて言えば「わたしがいる」「だれかがいる」という存在感だ。内容に感動したり、共感したり、情報が増えたりすることが重要なのではなく、ただ、その存在感や息遣いだけが伝わる。そんなやりとり。これを「存在感のやりとり」と言うとしよう。

すると、この「存在感のやりとり」というのは、やはりコミュニケーションと全く似て非なるものだと思うのだ。言葉を用いない「ふぁぼ」や「いいね!」や「スタンプ」が会話の終わりに使われるのも当然だ。それは一方通行であることが重要なのだ。もちろん、そうした一方通行になりがちなやりとりが上手くかみ合うこともあるし、上手くいかない時もある。もう一つ重要なのは、上手くいったかどうかを誰も評価したり承認したりしなくてもいいという点にある。

僕たちが普段コミュニケーションと言っているものには、常に「正しいコミュニケーション」が想定されている。僕らにとってコミュニケーションは、ただ発話することで終わるのではなく、必ず一定の判断や評価に晒されることへの覚悟を試される。だからこそコミュニケーションは怖くもあり、楽しくもある。一方で、他人の評価から自由な「存在感のやりとり」という欲望があるとするなら、それは、覚悟を必要としない、コミュニケーションとは全く別の欲望なのではないかと思うのだ。

TwitterでTLを眺め、誰にともなく語りかけるとき、やはりそれは何かを伝えている。LINEの既読通知は、人の意思と無関係なのではなく、ある一定の意思を持って通知される。ほとんど無意識に押しているfacebookmixiの「いいねボタン」も、ちゃんと何かを伝えようとしている。それは従来のコミュニケーションのような緊張感はないが、確かな意思を持って実行される欲望なのではないか。そして、その伝えているものが情報の内容自体ではない、ということだ。

ほとんど無意味と思えるそうした行為。そこには相手の存在感を感じ取り、また自分の存在を相手に伝えるという極めて微かなやりとりがある。そしてそれらは一方通行で、誰からも正式に評価されないし、承認もされないかもしれない。しかし、それゆえ「正しさ」に囚われることもない。内容ではなく、その内容を発している、発せられているという行為自体に価値があるやりとり。それが「存在感のやりとり」だ。

PS4のSHARE機能はそういう欲望の最先端を目指しているように思える。ただ単にゲームをする。そしてそれを誰かが見ている。知らない人が5人見ている。コメントする人もいるが、全くコメントしない人もいる。5人の視聴者がいて、いつの間にかそれが3人になり、ある時なぜか6人に増えていたりする。従来のコミュニケーションはそこにはなく、ただその時間を共有しているという人の存在感だけが通じ合う。無機質な視聴者数やコメント数だけがその存在を伝える。視聴者が0人ということも珍しくはない。

こうした「存在感のやりとり」こそ、今のSNSが実現しているやりとりの先鋭的な形の1つではないかと思う。内容が伝わる以前に、そういう内容を発信する私自身の存在が微かに伝わっていく。私自身が見せ物になり、それを閲覧する人(がいるという認識)が刺激になる。

その点、WiiUミーバースは従来型のコミュニケーションの形に囚われてしまったように思う。私自身の存在とは別に、作品としての「投稿内容」が、サービスの核になっている。おそらくそれは「正しいコミュニケーション」を想起させる。ミーバースでよく目にする極めてキレイに描かれた手書きの投稿は、逆にわたしやあなたの存在感を伝えない。投稿内容の出来不出来が前面に出てきてしまい、「存在感のやりとり」を阻害する。

そう考えると、SNSソーシャルゲームやゲーム実況に「なんだか馴染めない」と思う人の多くは、発信されている内容が「評価されないこと」や「作品となりえないこと」への違和感を感じているのかもしれない。しかし、かなり多くの人が「評価するもの」と「評価されないもの」との間を、むしろ楽しむように、漂っている。そうした漂流を楽しみながら、中には他人に評価される作品であることを強く目指す人もいるだろうし、一方で、小さなコミュニティの中の「存在感のやりとり」で十分な満足を感じる人もいる。もちろん、その真ん中あたりに漂う人も多い。

しかし、ふと改めて疑問に思う。明確な応答を受けたり、評価されたりしない「存在感のやりとり」。なぜ、こんな地味な行為が持続性を持って実行されるのか?

そのことを次に書いてみたい。

■微かであることの意味

「存在感のやりとり」は、本当に欲望されているのだろうか。それが「評価に値しないもの」であるならば、そもそも多くの人が好んでそれを実施する動機も薄いのではないか。単に「存在感をやりとり」をするだけならば、繁華街の雑踏の中にでも身を置いた方がよほど他人の存在を感じることができるのではないか。そんな反論もあるだろう。その点をPS4の配信機能で感じた体験を元に考えてみよう。

先日、PS4でゲーム配信をした時、とても綺麗に連続でヘッドショットが決まり、敵を打ち倒したことがあった。その際、見知らぬ人から"Great!"と一言コメントを貰った。たったそれだけのこと。おそらくほとんど意味はない。まともなコメントはそれ1つだけだった。しかし0ではない。そして、むしろここが重要ではないかと感じた。

単に雑踏の中に身を置くことと、SNSで「存在感のやりとり」をすることの違いはここにある。つまり、微かに意味が存在しているということ。そして、微かであるからこそ意味が膨張するということだ。テクノロジーが僕たちの存在の解像度を上げることで、微かな意味の発掘を可能にした。

Twitterで自分のツイートが10回リツイートされる。それはとてもとても小さな出来事で、取るに足らない話でしかない。しかしそれは10RTという確かな数字となって示される。とても些細であると分かっていても、数字には妙な迫力がある。リツイートでもフォロワー数でも何でもいいが、99が100になった瞬間、何かが達成されたような気になる。その"+1"の違いが100と110の違い以上に意味があると感じてしまう。

100万人のテレビの視聴者が101万人に増えても、それは誤差でしかない。しかし、5人の視聴者数が10人に増えたら、むしろそこに意味を見出してしまう。それだけの解像度で相手やわたしの存在が見えることで、意味を見出すことができる。普段、評価から無縁な真っ白な世界の中で、ポツッと小さな突起が差異として不意に出現する。そのわずかな"+1"の突起に僕らは各々、独自の意味を盛り込む。

ある人の発言がふと、わたしの心に引っかかる。そんな時、「この人の発言は、わたしのあの時の発言に呼応したものなのかな?」という妄想を誰も責めることはできない。「存在感のやりとり」はあらゆる評価を避けるからだ。そうして個々に意味を与えられた(妄想的なものを含めた)因果関係は時間とともに消え去るかもしれないが、相手の存在感だけは、"+1"のコメント、"+1"のフォロワー、"+1"のいいね!として、SNSの世界に残り香のように溜まっていく。こうして、僕たちは「わずかな存在感のやりとり」にさえ満足感が得られるようになっていく。

今後、PS4のSHARE機能はどうなるだろう。誰もがこの機能を使って、ゲームを楽しみ、そしてゲームを配信する世界がやってくるだろうか。いや、それはそれでとても嘘臭い。UstreamやTwitchはもちろんのこと、そもそもニコニコ動画Youtubeでさえ「みんな」が使っているサービスというわけではない。そういうサービスを利用するのは一部の人だけだ、という見解は常に正しい。と言うよりもむしろ、SNSやソシャゲに現れるこの「ソーシャル」という概念は、まさしくこの「みんな」を解体して再構築するところから始まったのではないかと思う。

小学生のころ、「みんなが買っているから」とおもちゃをねだった人もいるだろう。親たちは「みんなって誰よ?」と反論することで、そうした議論を終わらせてきた。かつて「みんな」という存在は確かに曖昧だった。しかし、いまやその「みんな」という存在を、小さいながらも圧倒的な具体性を持って示せる時代になったのかもしれない。存在の解像度の向上により、大人の鑑賞に堪えうる「みんな」が形成されるようになった。

PS4のSHARE機能はまさにそういう小さな「ソーシャル(みんな)」の成立とともにある機能ではないかと思っている。

【コラム】なぜオープンワールドゲームは、電源を切る前にぶらぶらと散歩をするのか?

オープンワールドゲームとは何なのか。テレビゲームが好きなゲーマーであれば、そうしたジャンルがあることは理解しているだろうし、そうしたジャンルへの自分なりの評価というものも持っていると思う。この言葉は単にゲームの一ジャンルを表現しているだけには留まらない。様々な場所で、この「オープンワールド」という言葉自体が議論や論争の原因になっている。「何がオープンワールドなのか」「このゲームはオープンワールドと言えるのか」こうした多くの議論があることは承知で、しかし、この記事ではオープンワールドの定義に関する議論を一旦保留し、より観念的なテーマを扱いたい。それはオープンワールド自由の関係についてだ。

1. なぜオープンワールドゲームは不自由なのか?

なぜ、自由というテーマを取り上げたのか。それは様々なオープンワールドゲームに対して、常にこういう意見が散見されるからだ。

「この(オープンワールド)ゲームは、そんなに自由じゃない」

オープンワールドという言葉には、常に自由という言葉が付いて回っている。オープンワールドという言葉をWikipediaで見てみると次のように書かれている。

「広大な世界を自由に動き回って探索・攻略できる」
自由に仮想世界を動きまわることができ、目的にいつ、どのようにアプローチするかをかなり自由に選ぶことができる」
Open World -Wikipedia 英語版

オープンワールドの定義において、自由という概念は重要だ。実際に、ゲームニュースサイト『Game*Spark』の「あなたの考えるオープンワールドゲームの定義」という企画記事によれば、「自由に移動できるシームレスで広大な世界」という要素が、多くの人にとってオープンワールドに必要だと認識されているようだ。字義通りに解釈すれば、オープンワールドは「開かれた世界」だ。しかし世界が単に開けた、広大な世界であるだけではプレイヤーにとって意味がない。プレイヤーにとって「開かれているため」には、手足を望むままに伸ばせるような自由を体験できなければならない。

しかし、オープンワールドにおける自由への期待はすぐさま頓挫してしまう。「こんなこともできないのか」「僕はこうしたかったのに、そうさせてくれないのか」。そんな壁に、思いのほか早くぶち当たる。ゲーマーが抱く自由の期待値は常に高く、オープンワールドはそうした理想的な自由に常に敗北する。オープンワールドゲームの代表作である「GTAシリーズ」や「The Elder Scrollsシリーズ」など、この業界における最高峰と言えるオープンワールドゲームでさえその足枷からは自由でいられない。オープンワールドゲームの敗北は、自由を目標とした時点で、敗北する運命が決定づけられていたと言っても過言ではないだろう。

では、オープンワールドゲームが追い求める自由というのは、そうしたいつかは負けると分かっている自由の果てへの無謀な挑戦ということでしかないのだろうか。僕は、そうではない、と考える。つまり現在のオープンワールドゲームが確立した自由は、それとは異なる自由を実現したからこそ、これだけ興隆したのではないかと思うのだ。その自由とは一体何なのか。この記事ではそれを粗く描いてみたいと思う。

2. ゲームの中での日常の誕生

オープンワールドゲームの代表作「GTAGrand Theft Auto)」。このゲームはある町に住み、自動車泥棒や強盗を働きながら、ギャングとして成り上がるゲームだ。このゲームを初めてプレイした時、僕は「なんて古臭いゲームなんだ」と強く感じた。

GTAシリーズの代表作と言える「GTA3」の最初のミッションは、娼婦をある地点からある地点にまでドライブして送迎するという内容だ。銃撃もなければ、車での逃走劇もない。時間制限さえない。単に車を走らせて、A地点からB地点にまで行くだけのゲームである。まるでドラクエのお使いのようなミッションだ。しかしGTAというゲームは、基本的に全編通して、こうしたお使いをしつづけるだけのゲームなのだ。もちろん、銃火器を取り扱うこともできるし、様々な車や船や航空機に乗ることもできる。いろいろな装飾やオプションは付くが、しかし、根本的にはこうしたことの繰り返しで進む。つまりGTAというゲームの実際のゲーム部分というのは、これまで他のゲームでやってきたことの焼き直しと言ってもいい古臭い内容なのだ。(ちなみに僕はGTAシリーズの大ファンだ)

では、GTAの何が画期的だったのか。それは「ゲームの中にゲームが入っている」という構造にある。つまりレースゲームやガンアクションゲームが、GTAというゲームの中に入っているという「Games in a Game」の構造にある。中に入っている個々のゲームに新規性はない。しかし、ゲームというおもちゃ箱の中に様々なゲームが入り、統合されているという構造にこそ特徴がある。それゆえ「古臭い」という感想は、GTAというゲームの新規性とも共存することができる。

では、こうした「Games in a Game」の構造により、何が生まれたのか。それはゲームの中での日常が誕生した、ということではないだろうか。ゲームの世界というのは基本的に非日常である。戦場であったり、冒険であったり、レースであったり。ゲームというのは常に非日常を舞台とした世界で進行する。しかしこの特殊な構造の中にあるゲームを停止することで、ゲームに日常を取り戻すことが可能になった。

GTAを開発しているRockstarという会社で広報マネージャーをしていたブライアン・バグロー氏はこんなことを言っている。

GTAは、(中略)日常生活が営まれる世界で、プレイヤーはもう一人の別の人物になれるんだ」

バグロー氏が語るように、GTA日常生活が営まれる世界(a whole world going about its daily business)を実現している。GTAは(オブリビオンFalloutも)「Games in a Game」の構造により、日常を獲得した。ミッションとミッションの狭間でプレイヤーは日常に戻る。従来のゲームは、プレイヤーをマリオのように常にゴールポストに向かうよう急かしてきた。この非日常というのは、単に緊急の事態や状況を示しているだけではない。非日常は、常に最終的な目標(ゴール)を背負わされている。悪の魔王に代表される強大な敵を倒すことで、あらゆるゲームの主人公は世界を救う必要に迫られている。しかし、日常を取り戻すことで、こうした世界を救う必要性から開放される。

オープンワールドゲームが実現した自由は、プレイヤーに手足を好き勝手に動かせるような身体的な自由を与えてくれただけではない。僕が思うに、より観念的な世界を救わなくてもいい自由を与えてくれたのが、オープンワールドゲームが切り開いた自由の新境地だ。オープンワールドが大量の(瑣末な)サブミッションに埋め尽くされるのは、表面的には色々なミッションを選択する自由だが、それは常に世界を救わなくてもいい自由と表裏一体でもあるのだ。

そして、僕が考えるオープンワールドゲームの自由の意義はもう1つある。上記の世界を救わなくてもいい自由は、ゲームの中の主人公にとっての自由である。しかしその主人公はプレイヤー自身でもある。プレイヤーにとって、その自由はどういうことを意味するのだろうか。それこそが、オープンワールドゲームが切り開いたもう1つの自由だと僕は考える。

3. オープンワールドゲームが実現したもう一つの自由とは

日常と言う世界は、危機に瀕していない。事実として世界が危機に瀕しているかどうかに関係なく、プレイヤーが世界の危機を意識してしまっては、日常は訪れることがない。それゆえ、日常が訪れたと意識することは、ゲームの主人公が自らの役割を脱ぎ捨てることでもある。ゲームの主人公はその存在意義を自覚的に失うのが、平和な日常という空間だ。

かつてファミコン時代のRPGでは、技術的な制約から主人公が立ち寄った場所だけが画面上に表示された。宿屋に入れば、それまで見えていた街の景観は姿を消し、宿屋の中だけが画面に表示された。世界は常に主人公とともにあった。主人公のいる場所しか、世界は存在しなかった。主人公が街に入った瞬間に住人は出現し、主人公が話し始めた瞬間に武器屋は営業を開始する。主人公の行動に合わせた世界という構造に問題がなかったのは、主人公が常に非日常にあったからだ。全ては「主人公が世界を救う」という目的のために世界は存在している。

しかし、日常を取り戻したオープンワールドの世界ではそれが許されない。世界を救うことをやめた主人公の周りから世界が消失しないために、世界の住人(その他大勢)は高度なAIにより、より人間らしく、より自分勝手に、世界の重大事とは無関係に行動するよう迫られる。世界を救う目的とは無関係の住人は、こうして日常とともに生み出される。しかしゲームの中の主人公がそうした世界を救う目的とは無関係の住人を意識することはない。当然だ。主人公はその世界の中にいて、「世界を救う目的とは無関係かどうか」という視点で住人を眺めたりしないからだ。では、こうした住人を「世界を救う目的と無関係である」と意識するのは誰か。もちろん、それはそのゲームを遊ぶプレイヤー自身だ。

むしろ、プレイヤーは世界を救う目的とは無関係の住人の存在を意識することを強制される。というのも日常に戻ることで、主人公が主人公であることを止めてしまうからだ。主人公という存在は仲介役だ。プレイヤーとゲーム世界との仲介役を果たしていた主人公が存在意義を失い半透明になることで、プレイヤーは直接その世界を意識するようになる。「この街の住人は突き飛ばされると転ぶのか」「あ、警官に追われている奴がいる」「昼になるとあのキャラは畑の方に勝手に出かけるんだな」「自分の車にぶつけられて怒っている奴がいるなぁ」。オープンワールドの世界でぶらぶらと散歩する中で、こうしたことを意識するのは、絶対に主人公キャラではなく、プレイヤー自身である。主人公という存在が存在感を失い、半透明になる。次第に、主人公が死んでしまっても、主人公の存在とは全く関係なく世界は存続し続ける、という直観をプレイヤー自身が得る。ゲームの中で日常を取り戻すことで、主人公という媒介が消失し、プレイヤーの意識が前面に押し出される。

ゲームの目的を担う主人公を失い、それでいてゲームの世界をプレイヤーが直接体験している時、プレイヤーは「ゲームをプレイしつつゲームをしていない」という奇妙な状態に陥る。ゲームをすることもしないことも強制されない世界。それはまさしく、ゲームをしなくてもいい自由をプレイヤーは獲得するのではないか。

オープンワールドの中でぶらぶらと散歩をするのはなぜなのか。ぶらぶらと散歩をするのは、その多くが電源を切る前の余興であったりはしないだろうか。これは極めて自然なことなのだ。なぜなら、もうプレイヤーはその散歩をする少し前から既に(ゲームの中の)ゲームを止めて、日常を取り戻していたからだ。そしてこの時、「そのぶらぶら散歩はゲームなのか?」という問いは意味を持たない。なぜなら世界を救うことを止め、日常を取り戻すことを可能にし、ゲームをしないことを用意したのは、他ならぬそのゲーム自身だからだ。そんな奇妙な体験をオープンワールドゲームが用意し、ゲームプレイヤーはその奇妙な体験を望む。

ゲームをしたくないのに、ゲームをしたいという矛盾に満ちた欲求。こんなわがままに答えるため、まさしくゲームがゲームを否定するという奇妙さこそ、オープンワールドゲームの現代性ではないだろうか。その点において、ヘビーユーザ向けジャンルであるオープンワールドゲームは、実はライトゲーマー向けのゲームらしくないソーシャルゲームや実際にゲームを遊んでいないゲーム実況の観戦などと同じ時代性を有しているのではないかと思う。

オープンワールドゲームは、出来ることを増やすという身体的な自由を拡張しただけではなく、精神的な「ゲームをしない自由」を与えたという点において、極めて新たな自由をプレイヤーに与えたジャンルなのだ。

 

★参考リンク

オープンワールドWikipedia日本語)

Open WorldWikipedia-English)

『あなたの考えるオープンワールドゲームの定義』結果発表 (Game*Spark)

The roots of open-world games(gamesradar)

結局のところ「Minecraft」とは何だったのか? 数々の常識を打ち破ったモンスタータイトルが指し示す,ゲームのこれまでとこれから4gamer.net)

「超ファミコン」読み終わって思わずブログ更新してしまったよ。【コラム】ファミコン30周年に想いを寄せて

今年でファミコン誕生から30周年である。もはや自分がそんなに歳を取ってしまったのかと思わざるを得ない。30年とはもはやひとつの時代とも言える長さだ。10年単位で世相や風俗を分割するなら、既にその3回分を過ごしてしまっている。

しかし、自分自身が30年以上生きてきた事実よりも、ファミコンが既に30年前に生まれたものだということの方が遥かに感慨深い。少なくとも今の30代、40代にとって当時の生活に多大な影響を及ぼしたはずのファミコン。しかし、それを讃える報道も、評価する報道も、議論する報道も大手メディアにおいてほとんどない。ドラマ「ノーコン・キッド」の放送や書籍「超ファミコン」発売などの例はあるが、多くの場合ネットの片隅でささやかに懐かしむ程度になってしまっている。

しかし、そんな程度のものではないだろうと思う。テレビゲームは僕たちの世代にとって遊びであり、映画であり、小説であり、音楽だった。子供の頃の僕らにとって全ての文化的な活動がそこに過剰なほど一極集中していた。ゼビウスドルアーガの世界観に想像を膨らませ、スーパーマリオの裏技について語り、ドラクエ3アレフガルドに衝撃を受け、FFの音楽を耳コピして教室のオルガンで弾く。それは本当にもう一つの世界だった。ビットの奥の方に確かに存在する世界を、子供たちは旅していた。

ファミコンを知っている僕たちは最新のどのようなタイプのゲームを見ても、どこかに昔からあるゲームとの共通点を見出してしまう。別に進化していることを否定したいわけではなく、フッと頭の中でそうした懐古的な思いが宿る。もちろん、昔を知らない若い人と最新ゲームの楽しみ方が変わるわけではない。何かをよりよく理解しているわけでも、決して賢いわけでもない。しかし、確かに何かを僕たちは既に知っていて、そのことをどうしても意識せざるを得ない。

考えてみれば、この30年間、テレビゲームの世界は恐ろしいスピードで進化した。グラフィックは高精細・高密度になり、音楽は豊かな音階や音質を手にし、ゲームプレイはより親切で僕たちに寄り添うようになった。少し前のものが異常に古く感じられてしまう諸行無常ビデオゲームの世界だ。こんな体験は一度だけじゃない、30年で何回も味わってきた。とりわけプラットフォームとしてのハードが世代交代する度に、旧世代のハードは単に古くなるのではなく、寂しさや切なさと共に消えていった。もちろんファミコンもその流れの中で過去のハードとなっていった。

そんな経験を重ねることで、より一層変わらないモノも静かに着実に僕の中に蓄積していく。もちろん昨今の「スカイリム」「Call of Duty」「GTA」などの大作に投資された開発額や人材は、ファミコンのそれに比べれば遥かに巨大だ。僕がどれだけ「変わらない」と呟こうとも、現実として、物理的に大きな隔たりが厳然として存在している。しかし、それでもあえて言えるのではないか。ゲームにおける変わっていないモノが確かにあるのだと。

なぜそう言えるのか?

それは、この30年間、テレビゲームにおいて変わらないモノというのは、決してゲーム自身のことではないからだ。むしろ、それを遊ぶ僕たちこそが驚くほど変わらない。だからこそ、娯楽という神様に捧げられた供物であることの偉大さはいつまでも廃れることがない。ゲームほど僕たちは進化できない。だからこそ、かつての家庭用ゲーム機がくれた遊びの輝きはいつまでも曇らない。

30年の時を跳躍するのは、僕たちとゲームとの関係それ自体だ。おそらく30年後も、いやその先も変わっていないだろう。未来のゲームはどうなっているかと妄想する僕は、すでにそれを遊ぶと決めていかかっている点においてきっと変わっていない。それは、新しいゲームソフトの発売日を待ち望む30年前の小学生の僕となんら変わるところがない。

ある1本のゲームを楽しめなくなることよりも、発売日を楽しめなくなることの方が数倍恐ろしく悲しい。ゲームに飽くということは、発売日やクリスマスや誕生日に心躍らないということだ。ゲームがつまらなくなるということは、ゲーム自体の問題というよりも、ゲームとの関係の問題であり、引いては僕自身の問題ともなるだろう。だからこそ変わらないモノは過去への懐古であるだけでなく、常にまだ見ぬ未来へと確かにつながっている。

ファミコンよ。30年後も変わらず、僕らの視線の先には今なお新しいゲームがワクワクと共に待っている。そのゲームがどんな形であるかは、決して分からないのだけれど。