ビデオゲームとイリンクスのほとり

ブログになる前の軽い話は以下で話してます。■Discord : https://discord.gg/82T3DXpTZK 『ビデオゲームで語る』 ■映画の感想は『映画と映像とテキストと』というブログに書いてます。https://turque-moviereview.hatenablog.com/ ■Twitter ID: @turqu_boardgame

映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

名作『ウォッチドッグス』に見る不気味な「メタスコアの谷」

メタスコアという数字がある。おそらくコアなゲーマーには説明の必要もない当たり前の存在であろう。その存在を知っているばかりか、その功罪についても、また一家言ある方も多いと思う。

メタスコアとは、アメリカのMetacriticというサイトが集計している映画・音楽・ゲームなどの作品に対する100点満点形式の評点を指す。

f:id:tuquoi:20140718233239j:plain

このスコアは各種大手レビューサイトに計上された点数を集計し、百分率化した上で平均化した数字である。様々なレビューサイトを横断的かつ網羅的に見ていくことは、マニアにとっても骨が折れる作業だ。それゆえマニアにとってメタスコアはとても有用なツールでもある。集合知的な評価ではあるが、特徴的なのは素人のレビューを集めているわけではないというところだ。商業的な、ある程度の規模を持ったレビューサイトの評価を集めているところがポイントである。

映画や音楽やテレビドラマのメタスコアもあるが、中でもビデオゲームのメタスコアはファンに対して大きな力を持っていると思われる。経験的には、前世代機(XBOX360PS3Wii)の頃に急速にその存在感を増したような印象がある。

2001年にサイトとして立ち上がったMetacriticが、IT情報の大手サイトCNETに買収されたのは2005年である。その2005年にXBOX360アメリカでロンチしている。2008年のガーディアン誌に、Metacritic創設者Marc Doyle氏へのインタビュー記事が載っている。そこで「ここ数年で、メタスコアはネット上のゲーム報道においてとても重要な要素になっている」と書かれている。この記事を参考にするなら、メタスコアは約10年前から次第にその影響が強くなってきたと言える。やはりそれは、ちょうど前世代機(XBOX360PS3Wii)のハードが普及してきた歴史と重なる。そして、ゲームは専ら家庭用ゲーム機で遊んでいた筆者のようなゲーマーにとって、グラフィックのHD化、洋ゲーの普及、日本のゲームの凋落、オンラインの一般化、モバイルゲームの台頭というゲーム業界を複雑化(?)させる様々な象徴的出来事とともにある歴史である。

■「メタスコアの谷」とは

そんな複雑なビデオゲームの世界において、メタスコアはかなり有用な情報源である。しかし、同時にメタスコアには様々な否定的な議論もある。こうした単一の数字で、作品を大雑把に語ってしまっていいのか、という理屈は最もだ。もちろん、ほとんどの人は適切な距離感を保ちつつ、このメタスコアというものに接しているように思う。しかし、普段そんな冷静な態度でメタスコアに接している人でも、メタスコアにときおり不気味な感覚を抱くことがあるのではないだろうか。

筆者がメタスコアに感じる不気味さをここでは、「メタスコアの谷」と名づけてみたい。これは何かというと「主にメタスコア80点前後の作品に感じられる、妥当で適切な点数であるのに、どこか実態を捉えきれていないと感じる違和感」を意味する。メタスコアが90点を越えるような高得点の場合や極端に低得点な場合には感じない、そんな中間的な作品に感じる違和感。それを「メタスコアの谷」と仮に呼んでみよう。

この「メタスコアの谷」という言葉は、リアルな人間に近いCGやロボットに見られるという「不気味の谷現象*1」のアナロジーから発想して名づけている。この「不気味の谷」現象自体については、個人的にとても懐疑的なのだが、これが人口に膾炙したことにはとても興味を持っている。実態はどうあれ、多くの人がこの「不気味の谷」という現象に妙な説得力を感じている。たとえそれが枯れ尾花であったとしても、「幽霊を見た」という体験自体に偽りがないのと同様、「不気味の谷」にも不思議なほどリアルな感覚があるのだろう。

「メタスコアの谷」も実体としては、「気のせい」なのかもしれない。そこで、もう少しこの「メタスコアの谷」を具体的に記述してみよう。そのために、ここ最近の話題作『ウォッチドッグス(Watch_Dogs)』を題材として書いてみようと思う。筆者は、この『ウォッチドッグス』がまさしく「メタスコアの谷」に入り込んだ作品であると考えている。まさに『ウォッチドッグス』は、2014年7月20日現在、PS4版でメタスコア80点を獲得している。

f:id:tuquoi:20140718235108j:plain

80点と言えば、確かに高得点である。しかし、多くのゲーマーは、80点前後の作品を「よくできてはいるけれど、どこか欠けている作品」だと捉えるのではないだろうか。実際に『ウォッチドッグス』を遊んでみて、この80点という点数がそれほど間違っているとか、実態からかけ離れているとは思わない。しかし、筆者はそれでも強い違和感を感じている。これは80点程度の作品なのか?と頭の片隅にいるもう一人の私(ゲーマー)がささやきかけてくるのだ。

Amazonレビューに見られる「海外での評価の低さ」の虚像

『ウォッチドッグス』がメタスコアの谷に落ち込んでいると強く感じたのは、Amazonでのこのレビューを見たときだ。

f:id:tuquoi:20140718235550j:plain

タイトルにあるとおりこのレビュアーは最終的に本作を「面白いです」と評価している。しかし、冒頭に次のように書いているのだ。

「海外版の評価が低かったので迷いましたが、(略)」

ちなみに海外での『ウォッチドッグス』の評価は、発売時点から、84点ほどのメタスコアを獲得しており、その後、多少は低下したものの、概ね『ウォッチドッグス』は高評価を獲得し続けている。しかし、重要なのは、このレビューが本作*2に対するレビューの中でも「最も参考になった」とされているという事実である。おそらくこれは「評判よりも確かに面白かった」と感じる人が多かったということだ。穿った見方をするなら、「ウォッチドッグスは高評価である」という事実とは異なる「ウォッチドッグスは海外での評価が低い」という実感を多くのユーザーが抱いていたことを示しているように思える*3

問題にしたいのは、このような私たちの期待の問題も含め、『ウォッチドッグス』という名作が、こうした迂遠な形でしか評価されないという環境や状況である。おそらく、素朴に「これは素晴らしい作品です」という評価のされ方よりも、「これはメタスコアより良いものです」という評価のされ方の方が、私たちにとってリアリティや説得力があるのだ。それは単に作品の問題ではなく、その作品を受け止める私たち自身の問題である。

ではこのような私たちの問題とは一体どのようなものであるのか。具体的な事例として以下の3つの『ウォッチドッグス』の特徴をきっかけに考えてみよう。その特徴とは「ドライブバイのないカーチェイス」「いつの間にかマッチングされるオンライン」「カッコワルイ主人公」の3つである。

■ドライブバイのないカーチェイス

1つ目はドライブバイである。ドライブバイとは、運転する車の中から銃撃できるシステムを指す言葉だ。GTA3以来、オープンワールドゲームにはほとんど当たり前のようにこのシステムが実装されてきた。しかし、『ウォッチドッグス』にはこの伝統的な(?)システムが存在しない。車を運転している時は、たとえ片手で扱えるピストルであっても撃つことはできないのだ。

f:id:tuquoi:20140719225837j:plain ↑ぶつけて相手の車を止めるのが基本。敵車の耐久力は低く、なぜか自車の耐久力は高いため、敵車をやっつけることはそれほど難しくない。

これが特に気になるのは、カーチェイスの追跡側になった時である。猛スピードで逃げる敵の車を止めなければならない。しかし相手の車の真後ろにつけていても、そのタイヤを撃ってパンクさせることはできない。基本的には、自分の車を相手にぶつけて停止させる。『ウォッチドッグス』でのカーチェイスについて、最初ここで大きな違和感を感じた人も多いと思われる。

しかしこの「ドライブバイの不採用」というのは、実に面白い提案でもあるのだ。

これは従来からある「ドライブバイの困難さ」に対する回答になっている。実はドライブバイというのは、かなり難易度の高い操作でもある。そもそも猛スピードで車を運転をするだけでもそれなりに難しいのに、それに加えて、銃撃の狙いを定めなければならない。ドライブバイは高い操作スキルを要求する。実際、この困難さはこれまでも多くのオープンワールドゲームでも問題になってきたと思われる。なぜならこれまで多くのゲームでこれに対する対策案が提示されてきたからだ*4

おそらく、『ウォッチドッグス』は従来の対策案とは異なる、新たなドライビング中の戦闘を実装しようとしている。それがハッキングしながらのドライビングだ。

『ウォッチドッグス』は運転中、様々な電気装置をボタン一つでハッキングして起動させることができる。例えば信号や可動橋や地中のガス管など。そうした道路にあるモノをタイミングよくハッキングすることで追跡している車や、追ってくる車を事故らせて停止させることができる。これはまさに難度の高い操作を求めるドライブバイ問題に対する1つの対策として実装されたように思われる。それほど難しい操作をしなくても、運転中に派手な攻撃を繰り出すことができる。

ドライブバイがないことを欠如としてではなく、新しい体験の提案として評価したい。おそらく『ウォッチドッグス』のグリップ力の低い車の挙動もかなり意図的である。単にスピードを出して逃げ切るのではなく、併走しやすい状況で、如何に敵の車を罠に落としこめるかを問うているのである。走り方自体が一つの攻撃や防御になるドライビングアクションを目指したのだと考えられる。

■いつの間にかマッチングさせられるオンライン

2つ目のテーマはオンライン要素だ。『ウォッチドッグス』には新鮮な仕掛けが施されたマルチプレイが搭載されている。しかしこの要素、実はオフラインプレイとオンラインプレイの境目をかなり曖昧にしたまま実装されている。だから、集中的にオフラインキャンペーンを進めたくとも、突然オンライン対戦が始まったりする(これはゲーム内で侵入と呼ばれる)。もちろん、これを拒否する設定も可能だが、人によってはこれをキャンペーンの楽しみを妨害する邪魔なシステムだと受け取るかもしれない。

なぜこのようなオフラインプレイを邪魔するようなオンラインプレイを提案しているのだろうか。それは「オンライン尾行」や「オンラインハッキング」というモードを体験するとよく分かるのではないかと思っている。

「オンライン尾行」「オンラインハッキング」とは、侵入者が突如として自分を監視し始める一風変わった対戦ゲームである。侵入されたプレイヤーは侵入してきたプレイヤーを街中から探さなくてはならない。大まかな場所は示されるが、多数いるMOBキャラのなかのどれが侵入者であるのかは分からない。もちろん姿かたちは、ランダムに決められる。白人女性の姿をしていることもあれば、黒人男性というキャラクタであることもある*5

f:id:tuquoi:20140719230751j:plain ↑赤丸で囲まれているのが侵入されたプレイヤー。画面の右下の花壇の陰に隠れる筆者(侵入者)を探して殺すため、アサルトライフルを持ってキョロキョロしている。

侵入された側は侵入者を見つけなければならない。もちろん、簡単に見つからないように侵入者は必死になって隠れる。ビルの谷間などいかにも隠れやすそうな場所に潜むのも一つの方法だ。しかし『ウォッチドッグス』ではもう一つ全く異なる隠れ方がある。それは群衆に隠れるというやり方だ。AIで制御された群衆のMOBキャラたちが街には無数にいる。その群衆の中に侵入プレイヤーは隠れるのだ。もし、群衆の中にいかにも「人間くさい」動きをしているキャラがいたら、それこそが侵入者である。このシステムが面白いのは、侵入する側は、いかにもAIっぽい動きをすることでバレにくくなるという点にある。

例えば、オープンワールドゲームにおいて赤信号で正しく停まるということはほとんど誰もしないだろうと思う。するにしても、それは単なる気まぐれだろう。しかし、筆者はオープンワールドで初めて「戦略的に赤信号で止まる」という経験をした。侵入されたプレイヤーが、侵入者である筆者の運転する車を目の前で見過ごしていった時は、言いようのない快感を感じた。交通法規を守って赤信号で正しく停まる筆者のことを相手は人間だと思わなかったのだ。人間らしく動かないことの楽しさ。これが『ウォッチドッグス』の提案する新しいオンライン体験だ。『ウォッチドッグス』のおかげで、ゲームの世界では如何に赤信号で停まることが非人間的な行為であるのかを知った。電柱や人をなぎ倒すような無茶で乱暴な運転をする方が、むしろ人間的な行為であることを逆説的に知ったわけだ。

しかし、こうした仕組みをオンライン/オフラインというモードとして明確に分けてしまったらどうだろうか。もちろん、オンラインプレイに専念したいという欲求には素直に答えることができるだろう。しかし、先ほどまで単なるコンピュータだとしてしか思っていなかった群衆、障害物としてしか見ていなかったMOBキャラが、突如として違う意味を帯びる体験は、オンとオフのモードが明確に区別されていたら味わうことができなかったかもしれない。私たちがこれまで培ってきた「当たり前」を前景化し、これまでにない新鮮な体験を味わうためには、是非ともオフライン世界と隣り合わせでなくてはならなかったのではないだろうか。

『ウォッチドッグス』のオンラインは、普段オンライン/オフラインで見知っている「ゲームの当たり前」を揺るがすような体験を提案しているのである。

■カッコワルイ主人公

最後は主人公の描かれ方についてである。『ウォッチドッグス』の主人公はなぜか微妙にかっこよくない。妙なナードっぽさがある。これまでのゲームの主人公はなんだかんだ言ってもリア充であった。いや、少なくとも元リア充であった。大抵は妻がいて、愛する息子や娘がいることが多かった。あのクレイトスでさえ元リア充である。家族の死というような強烈なトラウマを抱えることができるのが、リア充である。しかし『ウォッチドッグス』の主人公に愛する娘や息子はいない。しかし彼は姪のために戦うのである。姪である。いや、確かに姪はかわいいだろう。大切な存在だ。しかし、いきなりそれをトラウマとして抱え込み、「闘ってしまう」主人公。これは共感を得ることに成功している設定なのだろうか。

また、彼は帽子を脱がない。いや、もちろん、回想的なカットシーンでは帽子を脱ぐこともある。しかしゲームプレイをしている時は頑なに帽子を脱がない。寝るときぐらい帽子を脱いでも良さそうなものだが、彼は脱がない。頑固なのだ。

彼が変わっているのは、帽子だけでない。彼はずっとスマホをいじっている。なんと売店でジュースを買って店員の目の前で飲む時ですら、スマホをいじっている。目の前の店員がこちらを凝視しているその視線を避けるかのようにスマホをいじる。スマホを触りながらジュースを飲む主人公の姿は少しだけいじけているようにさえ見える。

f:id:tuquoi:20140719104236j:plain↑店員の目の前でもスマホを見続ける主人公。会計の時、こういう態度をリアルにしてしまっている人も、最近では多いのではないだろうか。

あと、彼は基本的に人の話を聞かない。死んでしまった姪の母親である妹から「危ないことはやめてくれ」と言われても「いや、俺が守る」と謎の応答をして憚らない(結局、その後、守りきれず、妹は誘拐される)。彼は中二病的世界観で動いている。おそらくトラウマが過ぎてしまい、自分が何をやっているのか良く分からなくなっているのだろう。

そして主人公が着替えられる衣装のバリエーションが凄い。なぜならほとんどテクスチャーと色以外に違いがない。

f:id:tuquoi:20140719232403j:plain ↑色とテクスチャ以外の変化に乏しい衣装の数々。ゲームにおける衣装替え一般に対する皮肉のようにしか思えない。

どの衣装もあまりに同じで、これは現代アート的な何かなのかと最初疑ったほどだ。日本の美少女ゲームで見られた判子絵キメこなに近いシュールさを感じる。

以上の様な奇妙な設定や描写をどのように感じるだろうか。筆者は、これはとても革新的だと感じた。実は上記のような不自然さは、『ウォッチドッグス』を製作したUBIモントリオールの別の作品『アサシンクリード』シリーズでも既に見られていた特徴でもある。同じような衣装ばかりを着て、フードを被り、妙に気取った態度や思わせぶりな発言をするアサシン。しかし『アサシンクリード』がファンタジーでいられたのは、あの時代設定や背景があったからだ。中二病的でも許される文脈があった。しかし『ウォッチドッグス』は現代である。おそらく開発側としても、これまでの「かっこつけ」をそのまま「身近な現代社会」に配置してしまっては明らかに「おかしい」ことに気付いているのではないか。しかし、この違和感こそが『ウォッチドッグス』の革新性になっているように思う。

よく他のゲームとの違いを強調するため、主人公について「これまでのゲームに良くあるようなヒーロー的な主人公とは違い、彼にはとても弱い側面もあり……」などど語られることがある。しかし『ウォッチドッグス』の主人公の「こじらせ具合」に比べればかわいいものである。これまでのどんなゲームの主人公よりも「残念な」主人公だ。しかし、単にかっこ悪いのではない。かっこいいのか悪いのか、その境界線を曖昧にするという挑戦的なデザインになっている。

もちろんこれは等身大の主人公を描こうというのでもないだろう。『ウォッチドッグス』の意匠には、倒錯しているがゆえの現代的なリアリティを感じる。もはや「正しいヒーロー」を現代社会においてリアルに描こうとすること自体が、とてつもなく非リアルであるということを『ウォッチドッグス』は訴えているように思える。なぜ現代的なヒーローは全身タイツの変態ばかりなのか。現代では変態でしかヒーローでいられないという矛盾を『ウォッチドッグス』は素朴に描いているのではないだろうか。

■メタスコアと実感を隔てる道路は一方通行ではない

上記に挙げた3つの特徴は、どれも人によっては欠点になるかもしれない。いや、事実欠点として責めることが妥当であるのかもしれない。しかし私たちゲーマーは、そろそろ、そうした答え合わせから自由になってもいいだろう。

もしかしたら、私たちゲーマーはメタスコアというものを心の底で怖れているのではないだろうか。なぜなら、得点が異常に高いゲームだけを買っていれば、確かに質の高いゲームを効率的に味わうことができるからだ。しかしそれでは猿である。ボタンを押せばエサが出てくる。そんなボタンを押す猿になってしまう。私たちは心の底で、こうした事態を怖れ、その象徴としてのメタスコアを畏怖しているのではないか。

だからこそ、「メタスコアの谷」には、私たちが人間として積極的にゲームを味わうことを可能にする多様性が潜んでいる。『ウォッチドッグス』が80点のゲームとして妥当であることと、その点数に感じる物足りなさや違和感は容易に両立するのだ。重要なのはそれぞれの判断のブレを楽しむように、軽快に行ったり来たりできることだ。

人によっては、『ウォッチドッグス』を散々楽しくプレイした後で、なぜこれが80点なのかと答え合わせをするかのように、様々な欠点を後から発見した人もいるだろう。しかし筆者はそれが誤りだとは思わない。むしろ、メタスコアのおかげでそのような批判的な視点を獲得できたのだと考える。だから、答え合わせが悪いなどとは全く思わない。重要なのはそういう方向性にだけ閉じてしまわないことだ。道は一方通行ではない。メタスコアよりも「私が感じた実感」の方が得点が高い部分だってあるだろう。であるならば、それが何なのかと逆に問う道もあるはずなのだ。谷に落ち込むだけが正しいのではない。そこから這い上がる道もまたあるはずだ。

私たちがゲームを自らの意志で楽しむための秘境は、「メタスコアの谷」にこそ、待ち構えているように思う。あなたにとってメタスコアの谷に落ち込んだゲームは何だろうか。それはかけがえのない「あなたのための魅力を備えたゲーム」ではないだろうか。

*1:CGやロボットが、リアルな人間に近づくにつれて通常は親近感を抱くが、ある一定レベルまでリアルになると途端に嫌悪感を感じる現象。不気味の谷現象 - Wikipedia

*2:ここではPS4版の特典なしの通常版ウォッチドッグスを対象にしている。なお限定版については、また別のレビューが「最も参考になった」となっていることを念のため付記する。

*3:もちろんこれは「期待したよりもメタスコアが低かったのだ」と解釈できる話でもある。何より『ウォッチドッグス』は1年以上前から期待されたトリプルA級 の大作だった。当然似たような作品である『GTA V』に比肩しうるような作品であることが期待されていた。そうした期待に比べれば、80点というメタスコアは低いのかもしれない(一方『GTA V』は97点という驚異的なメタスコアを獲得している)

*4:例えば、運転手が別にいて、主人公はシューティングに専念できるようにする、という対策案がある。セインツロウシリーズでは、主人公に無限に弾が出るロケットランチャーが与えられ、敵を撃つことに専念するパターンが多い。同乗者は別にいて、そのNPCが運転を担当する。また別の対策としては、ドライブバ イの時は強い視点補正がなされるパターンがある。相手の車に狙いをつけると、自然とレティクルが当たるように強く補正されることで、難易度の軽減を図っている

*5:この姿は相手から見たときだけ普段と違うキャラクタになっている。自分のディスプレイには普段通りの主人公の姿が映っている。この表象の非対称性もとても面白い

【コラム】PS4のSHARE機能を通して見えてくるSNSで僕たちが共有しているモノ

2/22。PS4を購入した。このPS4について色々と言いたいことはあるのだけど、1つだけ。PS4の今回の目玉と言っていい機能、SHARE機能について書いてみたい。

■圧倒的に簡単なSHARE機能

このSHARE機能。一体何かと言えば、プレイしたゲーム動画のリアルタイム配信を可能にする機能だ。リアルタイムな動画配信と聞いても、ほとんどの人は「え?そんなこと私やるかな?」と思うだろう。ゲーム実況やゲーム動画配信という行為があることは知っていても、まだまだハードルは高い。自分が配信する側になるとは思っていない人も多い。それも当然だと思うが、PS4が凄いのは、従来の動画配信にあった高いハードルを一気に低くした点にある。

どのくらい簡単なのか。ネットワーク環境とUstream(もしくはTwitch)のアカウントを持っていることを前提とすると、動画配信までに掛かる手間は、ボタンをたった4回押すだけだ。SHAREボタンを1回に、(スティックを多少動かすが、)あとは○ボタンを3回押すだけ。たったこれだけで自分のPS4はインターネットの世界で生放送の状態になる。

正直に言えば、これはWiiUミーバースへの投稿よりも手軽だ。WiiUミーバースというのは、WiiUゲーム専用のネット掲示板のようなシステムだ。ゲームごとにコミュニティと呼ばれるカテゴリがあり、ユーザがそれぞれのゲームについて投稿を行う。しかし、そんな分かりやすいミーバースというサービスよりも、ずっとSHARE機能は簡単なのだ。そして、ミーバースよりもずっとSHARE機能は今風なSNSサービスだと感じた。今回は、その感想を核に、本記事を書いてみたいと思う。

ソーシャルネットワークはコミュニケーションなのか?

昨今、家庭用ゲーム機市場がSNSの巨大な市場に飲み込まれて行くという話はとてもよく聞く話だ。ここ10年のゲーム業界はまさしくそのような有様だったと思う。そんな状況にあって「今はゲームの時代じゃない。コミュニケーションの時代なのだ」という分析がされてしまうのも、安易ではあるかもしれないが、あながち間違いではないだろう。

しかし果たしてSNSが満たしてくれる欲求は、本当にコミュニケーション欲求なんだろうか?そのことを改めて考えてみたい。SNSが「まともなコミュニケーションではない」と評する人も多いが、僕が言いたいのはそういうことではない。SNSでの体験は、まさにコミュニケーションとは別の体験なのではないか、ということだ。

SNSでの体験は日常的なコミュニケーションとはかなり様相が違う。facebookTwitterやLINEでの発信は何らかの反応を常に期待しているだろうか。"フォロー"、"リツイート"、"ふぁぼ"、"いいね!"、"スタンプ"という言葉を交わさないやりとり。これらはコミュニケーションなんだろうか。僕は、これらの行為は従来のコミュニケーションとは全く別の行為なのだ、と考えている。もちろん友人とfacebookTwitterやLINEでコメントを交わしたり、その反応を楽しむことはコミュニケーションと言える。しかし、SNSの心地よさは、そういうコミュニケーションの快感であるだけでなく、むしろ「存在感のやりとり」とでも言うべき、別の行為によるものではないか。そして、何よりPS4のSHARE機能が目指したのも、まさにこの「存在感のやりとり」ではないかと感じたのだ。

■存在感のやりとり

この「存在感のやりとり」とは何だろうか。これは、例えば、次のようなTwitterでのやりとりをイメージしている。

ゴールデンウィークなど少し長い連休最後の夜に「あー、明日からまた仕事か」と誰かが呟く。その後に同じような内容のツイートが連続してタイムラインを流れる。中には「明日から、お仕事の人お疲れ様ですw わたしは明日まで休みです」とのツイートが見られたり、「嘘だ。明日が月曜なわけないじゃないかw」と若干おどけた様なツイートが現れたりする。そんな一連のツイートを眺めながら、あなた自身は何も呟くことなくそっとアプリを閉じ、明日の出勤に向けて床に就く。

上記のような現場は果たしてコミュニケーションが成立していると言えるのだろうか。誰一人、特定の誰かを意識して話しているわけではない。まさしく呟きは独り言のようなものであり会話ではない。意味のある情報が伝達されるわけでも、お互いに共感しあうわけでもない。しかし、確かに何かが伝わっている。その何かとは、あえて言えば「わたしがいる」「だれかがいる」という存在感だ。内容に感動したり、共感したり、情報が増えたりすることが重要なのではなく、ただ、その存在感や息遣いだけが伝わる。そんなやりとり。これを「存在感のやりとり」と言うとしよう。

すると、この「存在感のやりとり」というのは、やはりコミュニケーションと全く似て非なるものだと思うのだ。言葉を用いない「ふぁぼ」や「いいね!」や「スタンプ」が会話の終わりに使われるのも当然だ。それは一方通行であることが重要なのだ。もちろん、そうした一方通行になりがちなやりとりが上手くかみ合うこともあるし、上手くいかない時もある。もう一つ重要なのは、上手くいったかどうかを誰も評価したり承認したりしなくてもいいという点にある。

僕たちが普段コミュニケーションと言っているものには、常に「正しいコミュニケーション」が想定されている。僕らにとってコミュニケーションは、ただ発話することで終わるのではなく、必ず一定の判断や評価に晒されることへの覚悟を試される。だからこそコミュニケーションは怖くもあり、楽しくもある。一方で、他人の評価から自由な「存在感のやりとり」という欲望があるとするなら、それは、覚悟を必要としない、コミュニケーションとは全く別の欲望なのではないかと思うのだ。

TwitterでTLを眺め、誰にともなく語りかけるとき、やはりそれは何かを伝えている。LINEの既読通知は、人の意思と無関係なのではなく、ある一定の意思を持って通知される。ほとんど無意識に押しているfacebookmixiの「いいねボタン」も、ちゃんと何かを伝えようとしている。それは従来のコミュニケーションのような緊張感はないが、確かな意思を持って実行される欲望なのではないか。そして、その伝えているものが情報の内容自体ではない、ということだ。

ほとんど無意味と思えるそうした行為。そこには相手の存在感を感じ取り、また自分の存在を相手に伝えるという極めて微かなやりとりがある。そしてそれらは一方通行で、誰からも正式に評価されないし、承認もされないかもしれない。しかし、それゆえ「正しさ」に囚われることもない。内容ではなく、その内容を発している、発せられているという行為自体に価値があるやりとり。それが「存在感のやりとり」だ。

PS4のSHARE機能はそういう欲望の最先端を目指しているように思える。ただ単にゲームをする。そしてそれを誰かが見ている。知らない人が5人見ている。コメントする人もいるが、全くコメントしない人もいる。5人の視聴者がいて、いつの間にかそれが3人になり、ある時なぜか6人に増えていたりする。従来のコミュニケーションはそこにはなく、ただその時間を共有しているという人の存在感だけが通じ合う。無機質な視聴者数やコメント数だけがその存在を伝える。視聴者が0人ということも珍しくはない。

こうした「存在感のやりとり」こそ、今のSNSが実現しているやりとりの先鋭的な形の1つではないかと思う。内容が伝わる以前に、そういう内容を発信する私自身の存在が微かに伝わっていく。私自身が見せ物になり、それを閲覧する人(がいるという認識)が刺激になる。

その点、WiiUミーバースは従来型のコミュニケーションの形に囚われてしまったように思う。私自身の存在とは別に、作品としての「投稿内容」が、サービスの核になっている。おそらくそれは「正しいコミュニケーション」を想起させる。ミーバースでよく目にする極めてキレイに描かれた手書きの投稿は、逆にわたしやあなたの存在感を伝えない。投稿内容の出来不出来が前面に出てきてしまい、「存在感のやりとり」を阻害する。

そう考えると、SNSソーシャルゲームやゲーム実況に「なんだか馴染めない」と思う人の多くは、発信されている内容が「評価されないこと」や「作品となりえないこと」への違和感を感じているのかもしれない。しかし、かなり多くの人が「評価するもの」と「評価されないもの」との間を、むしろ楽しむように、漂っている。そうした漂流を楽しみながら、中には他人に評価される作品であることを強く目指す人もいるだろうし、一方で、小さなコミュニティの中の「存在感のやりとり」で十分な満足を感じる人もいる。もちろん、その真ん中あたりに漂う人も多い。

しかし、ふと改めて疑問に思う。明確な応答を受けたり、評価されたりしない「存在感のやりとり」。なぜ、こんな地味な行為が持続性を持って実行されるのか?

そのことを次に書いてみたい。

■微かであることの意味

「存在感のやりとり」は、本当に欲望されているのだろうか。それが「評価に値しないもの」であるならば、そもそも多くの人が好んでそれを実施する動機も薄いのではないか。単に「存在感をやりとり」をするだけならば、繁華街の雑踏の中にでも身を置いた方がよほど他人の存在を感じることができるのではないか。そんな反論もあるだろう。その点をPS4の配信機能で感じた体験を元に考えてみよう。

先日、PS4でゲーム配信をした時、とても綺麗に連続でヘッドショットが決まり、敵を打ち倒したことがあった。その際、見知らぬ人から"Great!"と一言コメントを貰った。たったそれだけのこと。おそらくほとんど意味はない。まともなコメントはそれ1つだけだった。しかし0ではない。そして、むしろここが重要ではないかと感じた。

単に雑踏の中に身を置くことと、SNSで「存在感のやりとり」をすることの違いはここにある。つまり、微かに意味が存在しているということ。そして、微かであるからこそ意味が膨張するということだ。テクノロジーが僕たちの存在の解像度を上げることで、微かな意味の発掘を可能にした。

Twitterで自分のツイートが10回リツイートされる。それはとてもとても小さな出来事で、取るに足らない話でしかない。しかしそれは10RTという確かな数字となって示される。とても些細であると分かっていても、数字には妙な迫力がある。リツイートでもフォロワー数でも何でもいいが、99が100になった瞬間、何かが達成されたような気になる。その"+1"の違いが100と110の違い以上に意味があると感じてしまう。

100万人のテレビの視聴者が101万人に増えても、それは誤差でしかない。しかし、5人の視聴者数が10人に増えたら、むしろそこに意味を見出してしまう。それだけの解像度で相手やわたしの存在が見えることで、意味を見出すことができる。普段、評価から無縁な真っ白な世界の中で、ポツッと小さな突起が差異として不意に出現する。そのわずかな"+1"の突起に僕らは各々、独自の意味を盛り込む。

ある人の発言がふと、わたしの心に引っかかる。そんな時、「この人の発言は、わたしのあの時の発言に呼応したものなのかな?」という妄想を誰も責めることはできない。「存在感のやりとり」はあらゆる評価を避けるからだ。そうして個々に意味を与えられた(妄想的なものを含めた)因果関係は時間とともに消え去るかもしれないが、相手の存在感だけは、"+1"のコメント、"+1"のフォロワー、"+1"のいいね!として、SNSの世界に残り香のように溜まっていく。こうして、僕たちは「わずかな存在感のやりとり」にさえ満足感が得られるようになっていく。

今後、PS4のSHARE機能はどうなるだろう。誰もがこの機能を使って、ゲームを楽しみ、そしてゲームを配信する世界がやってくるだろうか。いや、それはそれでとても嘘臭い。UstreamやTwitchはもちろんのこと、そもそもニコニコ動画Youtubeでさえ「みんな」が使っているサービスというわけではない。そういうサービスを利用するのは一部の人だけだ、という見解は常に正しい。と言うよりもむしろ、SNSやソシャゲに現れるこの「ソーシャル」という概念は、まさしくこの「みんな」を解体して再構築するところから始まったのではないかと思う。

小学生のころ、「みんなが買っているから」とおもちゃをねだった人もいるだろう。親たちは「みんなって誰よ?」と反論することで、そうした議論を終わらせてきた。かつて「みんな」という存在は確かに曖昧だった。しかし、いまやその「みんな」という存在を、小さいながらも圧倒的な具体性を持って示せる時代になったのかもしれない。存在の解像度の向上により、大人の鑑賞に堪えうる「みんな」が形成されるようになった。

PS4のSHARE機能はまさにそういう小さな「ソーシャル(みんな)」の成立とともにある機能ではないかと思っている。

【コラム】なぜオープンワールドゲームは、電源を切る前にぶらぶらと散歩をするのか?

オープンワールドゲームとは何なのか。テレビゲームが好きなゲーマーであれば、そうしたジャンルがあることは理解しているだろうし、そうしたジャンルへの自分なりの評価というものも持っていると思う。この言葉は単にゲームの一ジャンルを表現しているだけには留まらない。様々な場所で、この「オープンワールド」という言葉自体が議論や論争の原因になっている。「何がオープンワールドなのか」「このゲームはオープンワールドと言えるのか」こうした多くの議論があることは承知で、しかし、この記事ではオープンワールドの定義に関する議論を一旦保留し、より観念的なテーマを扱いたい。それはオープンワールド自由の関係についてだ。

1. なぜオープンワールドゲームは不自由なのか?

なぜ、自由というテーマを取り上げたのか。それは様々なオープンワールドゲームに対して、常にこういう意見が散見されるからだ。

「この(オープンワールド)ゲームは、そんなに自由じゃない」

オープンワールドという言葉には、常に自由という言葉が付いて回っている。オープンワールドという言葉をWikipediaで見てみると次のように書かれている。

「広大な世界を自由に動き回って探索・攻略できる」
自由に仮想世界を動きまわることができ、目的にいつ、どのようにアプローチするかをかなり自由に選ぶことができる」
Open World -Wikipedia 英語版

オープンワールドの定義において、自由という概念は重要だ。実際に、ゲームニュースサイト『Game*Spark』の「あなたの考えるオープンワールドゲームの定義」という企画記事によれば、「自由に移動できるシームレスで広大な世界」という要素が、多くの人にとってオープンワールドに必要だと認識されているようだ。字義通りに解釈すれば、オープンワールドは「開かれた世界」だ。しかし世界が単に開けた、広大な世界であるだけではプレイヤーにとって意味がない。プレイヤーにとって「開かれているため」には、手足を望むままに伸ばせるような自由を体験できなければならない。

しかし、オープンワールドにおける自由への期待はすぐさま頓挫してしまう。「こんなこともできないのか」「僕はこうしたかったのに、そうさせてくれないのか」。そんな壁に、思いのほか早くぶち当たる。ゲーマーが抱く自由の期待値は常に高く、オープンワールドはそうした理想的な自由に常に敗北する。オープンワールドゲームの代表作である「GTAシリーズ」や「The Elder Scrollsシリーズ」など、この業界における最高峰と言えるオープンワールドゲームでさえその足枷からは自由でいられない。オープンワールドゲームの敗北は、自由を目標とした時点で、敗北する運命が決定づけられていたと言っても過言ではないだろう。

では、オープンワールドゲームが追い求める自由というのは、そうしたいつかは負けると分かっている自由の果てへの無謀な挑戦ということでしかないのだろうか。僕は、そうではない、と考える。つまり現在のオープンワールドゲームが確立した自由は、それとは異なる自由を実現したからこそ、これだけ興隆したのではないかと思うのだ。その自由とは一体何なのか。この記事ではそれを粗く描いてみたいと思う。

2. ゲームの中での日常の誕生

オープンワールドゲームの代表作「GTAGrand Theft Auto)」。このゲームはある町に住み、自動車泥棒や強盗を働きながら、ギャングとして成り上がるゲームだ。このゲームを初めてプレイした時、僕は「なんて古臭いゲームなんだ」と強く感じた。

GTAシリーズの代表作と言える「GTA3」の最初のミッションは、娼婦をある地点からある地点にまでドライブして送迎するという内容だ。銃撃もなければ、車での逃走劇もない。時間制限さえない。単に車を走らせて、A地点からB地点にまで行くだけのゲームである。まるでドラクエのお使いのようなミッションだ。しかしGTAというゲームは、基本的に全編通して、こうしたお使いをしつづけるだけのゲームなのだ。もちろん、銃火器を取り扱うこともできるし、様々な車や船や航空機に乗ることもできる。いろいろな装飾やオプションは付くが、しかし、根本的にはこうしたことの繰り返しで進む。つまりGTAというゲームの実際のゲーム部分というのは、これまで他のゲームでやってきたことの焼き直しと言ってもいい古臭い内容なのだ。(ちなみに僕はGTAシリーズの大ファンだ)

では、GTAの何が画期的だったのか。それは「ゲームの中にゲームが入っている」という構造にある。つまりレースゲームやガンアクションゲームが、GTAというゲームの中に入っているという「Games in a Game」の構造にある。中に入っている個々のゲームに新規性はない。しかし、ゲームというおもちゃ箱の中に様々なゲームが入り、統合されているという構造にこそ特徴がある。それゆえ「古臭い」という感想は、GTAというゲームの新規性とも共存することができる。

では、こうした「Games in a Game」の構造により、何が生まれたのか。それはゲームの中での日常が誕生した、ということではないだろうか。ゲームの世界というのは基本的に非日常である。戦場であったり、冒険であったり、レースであったり。ゲームというのは常に非日常を舞台とした世界で進行する。しかしこの特殊な構造の中にあるゲームを停止することで、ゲームに日常を取り戻すことが可能になった。

GTAを開発しているRockstarという会社で広報マネージャーをしていたブライアン・バグロー氏はこんなことを言っている。

GTAは、(中略)日常生活が営まれる世界で、プレイヤーはもう一人の別の人物になれるんだ」

バグロー氏が語るように、GTA日常生活が営まれる世界(a whole world going about its daily business)を実現している。GTAは(オブリビオンFalloutも)「Games in a Game」の構造により、日常を獲得した。ミッションとミッションの狭間でプレイヤーは日常に戻る。従来のゲームは、プレイヤーをマリオのように常にゴールポストに向かうよう急かしてきた。この非日常というのは、単に緊急の事態や状況を示しているだけではない。非日常は、常に最終的な目標(ゴール)を背負わされている。悪の魔王に代表される強大な敵を倒すことで、あらゆるゲームの主人公は世界を救う必要に迫られている。しかし、日常を取り戻すことで、こうした世界を救う必要性から開放される。

オープンワールドゲームが実現した自由は、プレイヤーに手足を好き勝手に動かせるような身体的な自由を与えてくれただけではない。僕が思うに、より観念的な世界を救わなくてもいい自由を与えてくれたのが、オープンワールドゲームが切り開いた自由の新境地だ。オープンワールドが大量の(瑣末な)サブミッションに埋め尽くされるのは、表面的には色々なミッションを選択する自由だが、それは常に世界を救わなくてもいい自由と表裏一体でもあるのだ。

そして、僕が考えるオープンワールドゲームの自由の意義はもう1つある。上記の世界を救わなくてもいい自由は、ゲームの中の主人公にとっての自由である。しかしその主人公はプレイヤー自身でもある。プレイヤーにとって、その自由はどういうことを意味するのだろうか。それこそが、オープンワールドゲームが切り開いたもう1つの自由だと僕は考える。

3. オープンワールドゲームが実現したもう一つの自由とは

日常と言う世界は、危機に瀕していない。事実として世界が危機に瀕しているかどうかに関係なく、プレイヤーが世界の危機を意識してしまっては、日常は訪れることがない。それゆえ、日常が訪れたと意識することは、ゲームの主人公が自らの役割を脱ぎ捨てることでもある。ゲームの主人公はその存在意義を自覚的に失うのが、平和な日常という空間だ。

かつてファミコン時代のRPGでは、技術的な制約から主人公が立ち寄った場所だけが画面上に表示された。宿屋に入れば、それまで見えていた街の景観は姿を消し、宿屋の中だけが画面に表示された。世界は常に主人公とともにあった。主人公のいる場所しか、世界は存在しなかった。主人公が街に入った瞬間に住人は出現し、主人公が話し始めた瞬間に武器屋は営業を開始する。主人公の行動に合わせた世界という構造に問題がなかったのは、主人公が常に非日常にあったからだ。全ては「主人公が世界を救う」という目的のために世界は存在している。

しかし、日常を取り戻したオープンワールドの世界ではそれが許されない。世界を救うことをやめた主人公の周りから世界が消失しないために、世界の住人(その他大勢)は高度なAIにより、より人間らしく、より自分勝手に、世界の重大事とは無関係に行動するよう迫られる。世界を救う目的とは無関係の住人は、こうして日常とともに生み出される。しかしゲームの中の主人公がそうした世界を救う目的とは無関係の住人を意識することはない。当然だ。主人公はその世界の中にいて、「世界を救う目的とは無関係かどうか」という視点で住人を眺めたりしないからだ。では、こうした住人を「世界を救う目的と無関係である」と意識するのは誰か。もちろん、それはそのゲームを遊ぶプレイヤー自身だ。

むしろ、プレイヤーは世界を救う目的とは無関係の住人の存在を意識することを強制される。というのも日常に戻ることで、主人公が主人公であることを止めてしまうからだ。主人公という存在は仲介役だ。プレイヤーとゲーム世界との仲介役を果たしていた主人公が存在意義を失い半透明になることで、プレイヤーは直接その世界を意識するようになる。「この街の住人は突き飛ばされると転ぶのか」「あ、警官に追われている奴がいる」「昼になるとあのキャラは畑の方に勝手に出かけるんだな」「自分の車にぶつけられて怒っている奴がいるなぁ」。オープンワールドの世界でぶらぶらと散歩する中で、こうしたことを意識するのは、絶対に主人公キャラではなく、プレイヤー自身である。主人公という存在が存在感を失い、半透明になる。次第に、主人公が死んでしまっても、主人公の存在とは全く関係なく世界は存続し続ける、という直観をプレイヤー自身が得る。ゲームの中で日常を取り戻すことで、主人公という媒介が消失し、プレイヤーの意識が前面に押し出される。

ゲームの目的を担う主人公を失い、それでいてゲームの世界をプレイヤーが直接体験している時、プレイヤーは「ゲームをプレイしつつゲームをしていない」という奇妙な状態に陥る。ゲームをすることもしないことも強制されない世界。それはまさしく、ゲームをしなくてもいい自由をプレイヤーは獲得するのではないか。

オープンワールドの中でぶらぶらと散歩をするのはなぜなのか。ぶらぶらと散歩をするのは、その多くが電源を切る前の余興であったりはしないだろうか。これは極めて自然なことなのだ。なぜなら、もうプレイヤーはその散歩をする少し前から既に(ゲームの中の)ゲームを止めて、日常を取り戻していたからだ。そしてこの時、「そのぶらぶら散歩はゲームなのか?」という問いは意味を持たない。なぜなら世界を救うことを止め、日常を取り戻すことを可能にし、ゲームをしないことを用意したのは、他ならぬそのゲーム自身だからだ。そんな奇妙な体験をオープンワールドゲームが用意し、ゲームプレイヤーはその奇妙な体験を望む。

ゲームをしたくないのに、ゲームをしたいという矛盾に満ちた欲求。こんなわがままに答えるため、まさしくゲームがゲームを否定するという奇妙さこそ、オープンワールドゲームの現代性ではないだろうか。その点において、ヘビーユーザ向けジャンルであるオープンワールドゲームは、実はライトゲーマー向けのゲームらしくないソーシャルゲームや実際にゲームを遊んでいないゲーム実況の観戦などと同じ時代性を有しているのではないかと思う。

オープンワールドゲームは、出来ることを増やすという身体的な自由を拡張しただけではなく、精神的な「ゲームをしない自由」を与えたという点において、極めて新たな自由をプレイヤーに与えたジャンルなのだ。

 

★参考リンク

オープンワールドWikipedia日本語)

Open WorldWikipedia-English)

『あなたの考えるオープンワールドゲームの定義』結果発表 (Game*Spark)

The roots of open-world games(gamesradar)

結局のところ「Minecraft」とは何だったのか? 数々の常識を打ち破ったモンスタータイトルが指し示す,ゲームのこれまでとこれから4gamer.net)