ビデオゲームとイリンクスのほとり

ビデオゲームや映画を中心としたレビュー・コラム記事です。 Twitter ID: @turqu_boardgame

映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

『ビートセイバー(Beat Saber)』をプレイした。

PSVRで『ビートセイバー(Beat Saber)』をプレイした。Moveコントローラーが2本必要なので、始めるには少し敷居が高いが、これは良いゲームだった。

 

このゲームのプレイ動画などを見れば、どういうゲームなのかはだいたい想像がつくと思う。そして実際、その通りのゲームである。意外性はほとんどない。しかし、驚くべきはそのプレイに伴う快感だ。全く想像通りのゲーム内容でありながら、想像の一段上を行く快感がある。プレイする前は「まあ、楽しそうだよね」と斜に構えていたが、実際にやってみたら、リズムに合わせてスパスパとキューブが斬る気持ち良さ、その体験の純度の高さに驚いてしまった。この気持ち良さは、職人的な手の込んだ調整により実現されている部分も大きいのかももしれない。

 

VRリズムゲームとしては『サンパー(Thumper)』があった。あのゲームは視覚的インパクトと低音の押しの強さで迫ってくる感じが印象的だったが、『ビートセイバー』はもっと素直にリズムに乗る楽しさを提供してくれる。ヘッドセットを被るなど始めるのに手間がかかるVRゲームだからこそ、このスマートさは非常に上手く機能している。

 

黒い背景画面に、線画的でシンプルなオブジェクトというのは『Rez』を想起させる。音ゲーらしいビジュアルであるが、VRゲームの場合、こういうビジュアルに安心感というか、落ち着きの良さを感じる。それは、ちょうど現状のVR機器が持つスペックで「無理をしていない感じ」が、このゲームの持つ長所として感じられているからかもしれない。VRはまだ発展途上にある技術だが、だからこそ生まれた傑作だとも思う。

 

しかし、このゲーム、難しい。キャンペーンモードで難易度Hardが出現するあたりから、何回もやり直しが必要なステージが連続して出てくる。やはりVRゲームと難しさというのは共存が難しい。ヘッドセットを被る煩わしさが何回もやり直す気持ちを萎えさせる。VRゲームで何度も繰り返し上達していくタイプのゲームをどのようにプレイヤーに頑張らせるか。その課題は、ハードの進化に依るところが大きいだろう。しかしそれ以外のソフトウェア的な努力がどのようになされるかも楽しみにしたいところだ。

 

AIとゲームで対戦するということ

以前ツイッターで書いたことをまとめました。(まとまってない)

 

AIが人と見分けがつかない動きをするようになった時に、人は果たして「相手がAIだ」と分かっていても満足するのだろうか。人は対戦の中身だけではなく「(人であるとかAIであるとかの)肩書き」とも対戦しているのではないか。そんなことを下記の記事を読んで思った。


[G-Star 2018]AIの発展により,オンラインゲームは「プレイスタイルを問わず皆が満足できる」ものになる? Nexon Korea副社長にインタビュー - 4Gamer.net

 

対戦相手の「肩書き」


人が対戦の中身だけではなく、対戦相手の「肩書き」も判断して、その対戦の楽しさを評価している事は、何もAIに限った話ではない。

 

例えば、小学生だと明らかに分かる対戦相手に大人が連勝しても、その大人は素直に喜べない。それは対戦の「質」が低いからという理由だけではない。なぜなら、同じような「質」の戦いであっても、相手が明らかに大人であれば、そのプレイヤーはもっと素直に喜べたかもしれないからだ。対戦の「質」以上に「肩書き」は重要な評価の要素になりうる。それは、ある意味「不純な」評価なのかもしれないが、そういう評価が事実上なされることは多いだろう。


対戦相手がAIだとAI的な動きをするから、その対戦に面白味がない、ということはもちろんある。しかし、それはAI技術が発展途上であるからだ。では、仮に人と見分けがつかない動きをAIがしたらどうなのか。どれだけ人に近い動きをしても「相手が負けても感情的に悔しがることが絶対にないAI」であった場合、人間相手に勝つ興奮に比べると少々劣った喜びしか感じられないかもしれない。

 

ここで一つ考えるのは、対戦相手がAIなのか人間なのかをプレイヤーに知らせることは制作サイドの倫理として今後どのくらい求められるか?ということだ。

 

例えば対戦相手であるAIが本当に人間と見分けがつかない動きをするようになった時に、そのAIをAIだと素直に言わずに人間であるかのように(制作サイドの意向により)詐称したとする。プレイヤーはAIよりも人間に勝てることにより強い満足度を感じるのならば、詐称することはある意味正しい。しかしそういうやり方には強い欺瞞も感じる。仮に後で「いやあれは人間ではなくAIでした」と言われたら、きっと不快になるプレイヤーもいるだろうし、少なくともガッカリすることはあるだろう。積極的に人間だと詐称しなくても、対戦相手が人間なのかAIなのかを明示せず、ごちゃ混ぜにするという方法なら、より採用しやすいかもしれない。しかしやはりそれも僅かに欺瞞を感じさせる。

 

そういうプレイヤーを騙すようやり方を避けるとなると、AIをより人間と同じような存在だと感じさせる方向に努力は向かうかもしれない。例えばAIと対戦する時、そのAIが何者であるのか全く分からなければ対戦相手として味気ないと感じる。しかし仮にそのAIが、金属製のカラダを持ち、隣に座って「ヨロシクオネガイシマス」などと片言であっても喋るロボットだとしたら、どうだろう。そんなAIであるならば、人間と対戦する時の醍醐味に多少は近いものを感じられる。たとえAIであっても、その名前、アバター、対戦履歴、プレイスタイルなどを示すことで人格を演出することができるかもしれない。

 

AIであっても人格を持っていると感じさせるならば、対戦相手として受け入れたくなる。ただ、これは逆に言うと「相手が人間である」という実に些細な情報が、いかに多くの文脈をプレイヤーに与えているかということを示している。この情報を本記事では「肩書き」と呼んだが、この「肩書き」をどのようにして構築していくかが今後のゲームにおけるAIのカギになるかもしれない。はたして、そういうAIの人格を育てることと、手っ取り早く「本物の」人間を大量に動員することと、一体どちらが経済合理的に有利なのだろうか。正直言って分からないなと思う。

 

対戦における接待

 

また、対戦ゲームにおける接待ということについても考えてみたい。接待麻雀とか、接待ゴルフなど、それはゲームとしてはいささか不純なセッションである。しかし満足度の高いゲームセッションを意図的に構築することを接待的と表現することもできる。接待には微妙なニュアンスがある。このことは、別の言い方として次のように言えないだろうか。接待は「接待であるということを明示的に言わないこと」が接待の成立条件になると。そこで、AIに接待されて嬉しいのか考えよう。私は、対戦相手がAIであると伝わることは、同時に「接待であることが伝わってしまう」と考える。

 

AlphaGoのような事例を待つまでもなく、AI(コンピュータ)が人間より強いプレイヤーになることは以前から自明であった。そして、ハードウェアもソフトウェアも更に技術発展していくことを考えると、このことは今後更に多くの人に認識される当たり前の事実になるだろう。それは裏返せば、仮に絶妙に良い試合となって人間が勝てる対戦相手(AI)がいたとしても、その対戦相手(AI)は本気で私たちプレイヤーに勝とうとはしてないことを示してしまう。つまり接待していることが常に明らかになってしまう。

 

しかし、対戦相手が人間である場合なら、プレイヤーは、わずかであっても相手の「本気」を信じることができるし、接待でない可能性を信じられる。「接待してもらっちゃったなー」という接待相手に対して、たいていの大人は「いやいやそんなことないですよ。お強いですねぇ」と答える。たとえそれが茶番だと分かっていても人間ならそう言えるし、成立するのだ。しかし相手がAIでは茶番をすることが難しい*1。それゆえ接待が接待として成立する条件を満たさなくなってしまう。

 

結局のところAIとの対戦は昔ながらの「レベル3までのCPUには勝てたぞ。次はレベル4のCPUだ、頑張ろう」というスタイルと根本的には変わらなくなってしまう*2。そこで絶妙な難易度曲線を提供することもまた接待の1つの形であろう。しかし、あからさまに接待されているという事実を受け入れた上で、それでも接待を受け続け、継続的にそれを快楽として享受し続けるというのはやや倒錯的でもあり、多くの人にとって難しいのではないかと考える。

 

AIで何が解決されるのか

 

AIと対戦することにおいては「肩書き」の構築に難しさがあり、また「接待」の成立にも困難がある。今後AI技術が発達するとして、ゲームの対戦でAIを使うことにより、結局何を解決したかったのかが問われるようになるだろう。例えば、プレイヤーの数を充分に確保できない時の保険としてのAI(ボット)には一定の需要があるかもしれない。しかしそれは限定的な話だろう。基本的には、確率的により多くの人が満足できる戦い(セッション)を数多く成立させるためのAIが求められているのではないだろうか*3。だとすると、そこにはAIであるがゆえの根源的な難しさが「肩書き」と「接待」の問題としてあると思うのだ。

 

一方で、本稿では対戦ゲームに限定してAIについて書いているが、協力プレイでは別かもしれない*4。協力プレイ時のパートナーとしてAIを用いるならば、上記に挙げた「肩書き」と「接待」の困難さをいくらか減らすような気がしている。全く個人的な予想であるが、AIはこれから倒すべき相手ではなく、共に協力する相手として存在感を増していくのではないだろうか。

 

 

*1:人間の場合は「調子」というものがあると信じられる点も対戦相手が人間であることの利点かもしれない。どんな強い相手でも調子の悪い時がある。たとえ調子が悪くても、普段強い相手なら相手が接待してくれたわけではなく、調子が悪かったのだ、と考えることで、接待された時よりはその勝ちを素直に喜べる。そんな考え方もできるだろう。しかしAIだと途端にそういう理由付けは難しくなる。

*2:自分の実力が向上していく喜びは接待を受ける喜びとは別の喜びだろう

*3:それはほぼ経済的なコストの問題に思えてしまうがゆえに、個人的にはゲームのAIの話にはロマンが感じられない。そうではない話になることを期待している

*4:例えば協力プレイで共闘したAIと対戦するとなると相手に人格をより感じられるかもしれない。また、段々とプレイが上手くなっていくAIなども考えられるだろう

『ナイト・イン・ザ・ウッズ』をクリアした。

『ナイト・イン・ザ・ウッズ(Night in the Woods)』をクリアした。素晴らしい作品だった。アメリカ文学に対する教養が全くないので想像するだけだが、色々な文芸作品からの影響を感じる。下記記事のフラナリー・オコナーも全然読んだ事がないので、ぜひ機会あれば読みたい。
 
『ナイト・イン・ザ・ウッズ』とフラナリー・オコナーの関係について - 名馬であれば馬のうち


自らの生き方に思い悩む主人公や人生の残酷さに向き合い続ける友人達の葛藤が、日常的な言葉で巧みに語られる。どの言葉も箴言のような重みや仰々しさがあるわけではない。絞り出すような数々の素朴な言葉は「人生を選択してきたのはお前だろ」という世の圧力への怨嗟を、適切な量感で表現する。中には表現がレトリカルすぎると感じるものもないではないが、いやいやそれでも実直に胸に迫ってくる言葉が多い。

 

本作は信仰や神様についても語られるし、テーマとして大きいのかもしれないが、キリスト教などに馴染みがなく、うまくその手のメッセージを僕には摑み取れなかったかもしれない。しかし、神様とメイたちとの距離感は、神とはほとんど無縁に生きてきた僕と神との距離感にむしろ近いのかもしれない。(それでも多くの点で違いはありそうだが)


本作においては「偶然」が重要な概念だと感じた。主人公にとって「偶然」だけがリアルであり、でもその「偶然」だけでは満足できない彼らの悩みは決して若者だけの悩みではない。いい大人たちもまた閉塞感のある田舎町で燻り、結果として「偶然」にグロテスクな神様を見出してしまう。


人生の責任を背負っているからこそ、大人たちは人生に意味を見出さざるをえない。そんな大人たちよりも、偶然の無意味さや無関心さに耐える主人公たちの方が、人生に真面目なのかもしれないと思える時がある。一見すると無気力で軽薄で不真面目に見えるメイやグレッグの方が、悪を悪として判断できるのであり、それは逆説的な無責任さゆえの真面目さとも思える。

 

傑作『バタフライスープ』が示すもの。私たちは「属性」の組み合わせではない

『バタフライスープ』という傑作ノベルゲームがある。PCで日本語でもプレイできるので、是非多くの人にプレイしてほしい(ちなみに、お金を払うこともできるが、無料でもプレイ可能だ)。クリアまでは3~5時間。大きな分岐はなく、ほぼ読み進めるだけの物語だが、本作の紡ぎだすテキストは非常に説得力と魅力を兼ね備えている。

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『バタフライスープ』の舞台はカリフォルニア。アジア系が多く住む地区に一人のインド系のディーヤという少女がいる。彼女と周りにいる女子高生*1の4人が中心となり、彼女たちが参加する野球同好会での練習、試合、学校生活、悩み、そして恋が描かれる。

本作には波乱のドラマやあっと驚くような展開があるわけではない。描かれる姿は極めて日常的な姿であり、多くのプレイヤーにとってささやかな共感を呼ぶような物語だ。そんな静かなテキストの中で比較的ドラマティックに描かれるのは、その恋である。ディーヤは幼いころに、同じ地区に住む韓国系のミンという少女に恋をした。それは淡いあこがれのようでもあり、しかし確かに「好き」という感情を含むものである。


ディーヤがその気持ちを自覚するシーンでは、実に繊細ながら決して芝居がかることのない自然な感情の動きが表現される。同性である女の子に特別な感情を抱くことへの微かな抵抗感やとまどい。そんなシーンを味わうと、彼女たちをレズビアンだと、そうレッテルづけることに僕はわずかに躊躇いを感じてしまう。いや、確かに彼女はレズビアンであり性的マイノリティなのかもしれない。しかし、そういう存在だとレッテルづけて「済ませてしまう」ことに抵抗を感じる。それは本作『バタフライスープ』に対しても同様である。これはLGBTをテーマにしたゲームなんだと、ただそういう風に特徴づけることに少し抵抗を感じるのだ。

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自分のミンへの気持ちを否定するディーヤ

『バタフライスープ』の主要な登場人物は、バイセクシャルであったり、レズビアンだったりとセクシャルマイノリティを強く意識した作品であることは明白である。そのため、本作は「百合ゲー」であり「LGBTをテーマにしたゲーム」として当然語られる。それはもちろんその通りであるし、どこも間違ってはいない。しかし本作を「そうしたゲーム」として、決して単純に扱ってはいけないような、そんな気持ちにさせる何かがある。こう感じるのは、本作が「対象を限定づけないことの大切さ」を強く伝える物語であると思うからだ。


印象的なシーンがある。主人公のミンとその双子の兄弟ジュンソがまだ幼いころのエピソードだ。彼女たちは、アメリカに住む人口構成のうち、アジア系の割合が5割を超えていると思っている。なぜなら、彼女たちの周りにはアジア人ばかりがいるからだ(もちろんそれは、そういう「地区」だからだ)。そんな彼女に白人の友人ヘイデンはこう反論する。「テレビに出ている人がなんでみんな白人か考えたことあるか?」と。その事実はアジア系であるミンたちは当然認識している。そこでこう反論するのだ「いや、アジア系の両親は子供たちに俳優のような職業についてほしくないと思っているからテレビでアジア系の露出が少ないんだ」と。

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テレビでアジア系の露出が少ないのは、アジア系の親が「しっかり」しているからだと主張するジュンソ

僕らは、そんな幼い頃のミンやジュンソたちと似ている。属性を見て「これこれはXなんだ」と思い込んでしまう。問題が根深いのはそういう思い込み自体よりも、思い込みに「理由付け」がなされることだろう。なぜなら、理由付けによって「Xではない可能性」を積極的にそぎ落とし「Xではない可能性」への想像力を抑え込んでしまうからだ。

この「Xではない可能性」というのは『バタフライスープ』において、非常に重要な要素だと考える。例えばミンという少女の描かれ方は、正にそれを示している。彼女は「女」であり「アジア系」である。しかし、暴力を忌避するような性格ではないし、野球やテレビゲームが好きであるし、勉強は苦手だし、強権的な親には全力で抵抗をする。ミンはそういう「女である」「アジア人である」等の属性から逃れようとしている。彼女は属性やレッテルに付随する思い込みに対して「Xではない可能性」を常に(ほとんど理由なく)示し続ける。

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「女の子」であることから逃れるため、ミンは長い髪を突然切り落とす。

加えて重要なのは、彼女は「XでないからY」というように簡単には別のものにも断定できない点だ。ミンはピッチャーとしてナックルボールという変化球を投げる。このどこに飛んでいくか分からないナックルボールがミンという存在と重ね合わされていることは明白だろう。彼女は「Xではない可能性」を体現するからと言って、「XじゃないからYである」というものでもないのだ。彼女は何をするか分からない「常にXではない存在」であり続ける。彼女が破天荒に暴力的であるのは、理由によって何かを否定して別の何かに安住するのではなく、否定しつづけることそのものを表現しているからだ。「Xじゃない」ことそれ自体がミンという人物を特徴づけている。


では、そんなミンという存在は、ただすべてを破壊・否定しつくすのか。そうではない。そして、ここに『バタフライスープ』という物語が感動的である理由がある。ミンはどこに飛んでいくか分からないナックルボールのような存在であるが、それをちゃんと受け止める他者がいる。その他者がディーヤである。

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投げるのも、キャッチするのも難しいナックルボール

ディーヤだけはミンの投げるナックルボールを確実に受け止める*2。ディーヤというキャッチャーによってミンは「否定だけの存在」ではなくなる。ミンはただディーヤから愛されるだけではない。ディーヤを愛し、愛されることを望む。ディーヤとの愛によって、ミンはわずかに「ミンらしさ」を失う。彼女の普段からの暴力性は影を潜めてしまう。ルールを守り、正しく野球をプレイしてしまう。ミンがミンらしさをわずかに失うことを含めて、ミンはミンなのだ。そしてそれは他のキャラも同様である。

ノエルもアカーシャも常に「Xではない可能性」をはらんでいる。ノエルは親にとっていい子であり続けない可能性が示唆されるし、アカーシャは単に能天気なおフザケでは誤魔化せない悩みを抱えている。彼女たちは常に属性やカテゴリーから逃れる道に一歩足を踏み入れている。しかしだからと言って、今の在り方を全否定するわけではない。ノエルは親を軽やかに騙して、彼女なりの親との新しい付き合い方へと踏み込んでいくし、アカーシャはカミングアウトによってシリアスなキャラになるのではなく相も変わらずフザけたキャラであり続ける。何か表面的に見える属性やレッテルを否定しつつも、単に全否定するだけでは汲み尽くせない「余り」を抱える存在として生きているのである。


プレイヤーは『バタフライスープ』の様々なエピソードで描かれる差別や偏見への苦しみに共感する。しかしそれだけではなく、私たちは常にまだ形の定まらないそんな「余り」のようなものを抱えていることを気づかせてくれる点に共感する。それは1つの希望でもあるからだ。わたしたちは属性の組み合わせで語り尽くせる、そんな明確な形を持った単純な存在ではない。決して分類され切らない「余り」のある存在である。それは今ある世界を否定するだけのスパっと割り切れるキレイな世界でもない。今の自分から繋がるグチャグチャとした割り切れないものが残る世界だからこその希望がある。

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うまく、キレイにいかないことが決して失敗ではないことを静かに語りかけてくれる

『バタフライスープ』をプレイしていると、決して泣くようなシーンではないところで、不意に泣きそうになることがある。どんなに大人になっても『バタフライスープ』が身近であり、常に「余り」の部分を抱えることで、私たちは「うまくやること」「正しくやること」だけが進むべき道ではないことが示唆される。そんな割り切れない歪つな世界の、歪さゆえの優しさに、つい泣いてしまうのかもしれない。

 

 

 

*1:作品内では9年生とされている。9年生は、アメリカの多くで日本の高校1年生に相当する学年

*2:ここで、ディーヤがミンのナックルボールをキャッチできることの「理由が明示されない」ことは重要だろう

傑作インディーゲーム『セレステ(CELESTE)』ゲームにしかできない物語表現の極点

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セレステ(CELESTE)』は歯ごたえのあるアクションゲームである。クリアまでに2000回以上も死ぬことになったが、その旅は単に「歯ごたえがある」旅ではなかった。それは「自らを救済する旅」であった。それは一体どういうことなのか。単なるアクションゲームがどうしてプレイヤー自らを救うことができるのか。それを少し書いてみたいと思う。


セレステ』は横スクロールの2Dアクションである。"ジャンプ"と"ダッシュ"と"壁登り"という主に3つの操作で、針山や奈落を飛び越えながら進んでいく。非常にシンプルなゲームシステムである。何度も死を味わう難易度であるが、やり直しのためのリードタイムは短く、大きく進行を戻されることもない。本作のシステムは決して独創性があるものではなく、似たような作品としては『N++』や『スーパーミートボーイ』という作品が挙げられるだろう。しかしそれらの名作に勝るとも劣らない素晴らしいレベルデザインであり、単純なアクションゲームとして見たときにも『セレステ』は非常に高い完成度の作品である。

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しかし、本稿ではそうしたアクションゲームとしての素晴らしさを主に訴えたいのではない。本作を唯一無二の傑作足らしめているのは、その物語の存在にあると考えるからだ。物語がゲームとどのように融合しているのか。そのことを主に書いてみたい。

 

セレステ』の物語とは

まずは『セレステ』の物語はどのようなものか、それを簡単に見てみよう。(※以下、ネタバレ)

主人公Madelineは、なぜか山を登っている。その理由は分からない。山の名前はセレステ山。セレステ山を登る彼女は、途中、廃墟のようなホテルで自らの分身「わたしの一部」と出会う。その分身はなぜか山を登ろうとするMadelineを執拗に邪魔する。そんな妨害にも関わらず、必死に山を登り続けるMadeline。しかし旅の後半で、遥か下の谷底にまでMadelineは落ちてしまう。絶望するMadeline。そんな彼女に分身は語りかける。「だから何度も登るのを止めてきたのに」と。分身は彼女のネガティブな思考の化身なのだ。しかし、その後、分身とのやりとりの中で、山を登るのに分身が本当は必要な存在だと確信する。そのことに気付いた彼女は分身「わたしの一部」との融合を果たす。その力を身につけレベルアップした彼女は最後にセレステ山の山頂に辿り着くことに成功する。

細かい脇道の話を除くと、概ね上記のような流れが本作の物語である。ありていに言ってしまえば、自分の弱さを認めることが大切だと語る物語である。一見すると『セレステ』はそんなありがちで凡庸な物語に見える。抑制がききつつも効果的なセリフの数々は実に素晴らしいが、この物語自体に特別な仕掛けがあるというわけではない。

 

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セレステ』がMadelineの物語を語る上で達成したことは何か。それはゲームプレイが物語の解釈を構成するという点にある。『セレステ』の物語は、そのゲームプレイ抜きにしては十分に味わうことができない。もちろん、それは他のさまざまなゲームであっても大なり小なりそうである。ゲームプレイにおいて苦労して難題を乗り越えたからこそ、エンディングで感動を味わうことができる。その点はどんなゲームでも同じである。しかしながら、『セレステ』が物語とゲームプレイの融合という点で特別なのは、ゲームを遊ぶ際の「苦労」と「意義」の2つが物語解釈の重要なファクターになっている点にある。

 

ゲームを遊ぶことは「辛い」?

まずは「苦労」の方から見てみよう。
ゲームは何によって「苦労」を味わうのか。それは多くのゲームでは、強力な敵や謎解きや障害物などの存在である。この点は『セレステ』も同様なのだが、本作の主人公Madelineは、実は物語上、そうしたゲームに現れる分かりやすい敵や障害物とは違うものによっても苦しめられている。

Madelineは日々の生活の中で苦しんでいる。彼女はパニック発作や"うつ"を経験しており、人生に対してよそよそしく生きている。生きていること自体の、そこはかとない苦しみ。それは泣き叫ぶような苦しみではない。彼女はうつの体験を「海の底にいるようだ」や「閉所恐怖症なのに、一方で自分が曝されているにも感じる」と表現する。これらは決して分かりやすい苦しみではない。しかし、確かに存在する苦しみだ。

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セレステ』が凄いのは、こうした言葉では表現しづらい苦しみをゲームプレイを通してプレイヤーに伝えることに成功している点である。なぜなら、プレイヤーが味わう苦しみとMadelineのそれが「似て」いるからだ。ゲームの中で何回死のうとも、現実世界のプレイヤーには強い痛みがあるわけではない。しかしどこか心をザワザワとさせる不快さやイライラを感じる。何度も何度もカジュアルな死を繰り返し停滞感を味わう。なんとか進んだ先にもまだ道は続いていく。そんな閉塞感。『セレステ』は昨今のゲームでは珍しいほどに「達成感」を演出しない。チャプターをクリアしても、そこにプレイヤーを誉めそやす優しい人は出てこない。この「達成感を感じさせない演出」というのはかなり意図的だと考えられる。彼女は「何かを見つけたくて」山を登っている。彼女は「達成」を渇望している。なのに「これでもう十分だよ」という達成はなかなか得られない。プレイヤーの感じる閉塞感は、Madelineが感じる閉塞感の模倣でもある。

 

こうしたMadelineの悩みに対して、プレイヤーはテキスト以上に共感してしまう。プレイヤー自身もまた日常で「自分が感じているかもしれない閉塞感」をつい想像してしまう。プレイヤーはゲームで味わう「苦労」と日常で感じる「苦労」をオーバーラップさせてしまうのだ。


ゲームは「何のため」に遊ぶのか?

次にゲームを遊ぶ「意義」について考えてみよう。

Madelineは物語の後半で、谷底に突き落とされる。一度は絶望に陥るものの、敵対していた分身「わたしの一部」が本当は「怖がっている」ということに気がつき、物事の見方を変える。Madelineは敵であった分身と和解をする時に次のように語りかける。「怖がってても、別にいいのよ」と。

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この瞬間にこれまでのゲームプレイで味わってきたあらゆる「苦労」が昇華される。重要なのはそれが「達成感」のためではないということである。セレステ山に住む老婆は次のように語る。「癒しの最初のステップはな、問題と向き合うことなんじゃ」。

 

セレステ』は何かを達成したからこそ癒しを与えるのではない。「問題と向き合う」ことそのことをもって、癒しとする。そして実はそのことをプレイヤーは頭よりもずっと体で理解している。なぜなら、まさにそれがゲームをプレイする理由であるからだ。『セレステ』という難度の高いアクションゲームになぜ私たちは好き好んで立ち向かうのか。わたしたちは「さあ、達成感を得るために難しいゲームをがんばるぞー」などと普通考えない。ゲームの目的はゲームをプレイすることそれ自体なのだ。ゲームはクリアするためだけに遊ぶのではない。クリアすれば全ての苦労が報われるから遊ぶのではない。苦労もまたゲームプレイの一部であり、そこにもまたかけがいのない価値がある。そしてそれは人生とも図らずも似ていることに気づかされるのだ。わたしたちは何かを達成するためだけに生きているのではない。何かを得るためにゲームを遊ぶのではないのと同様に、何かを得るための人生でなくてもいいのだと。

だからこそ、Madelineが分身との融合を果たす瞬間は、言葉以上に、わたしたちは救われてしまう。

 

「ただ生きていくことを肯定する」。言葉はキレイでも、「ただ生きていく」ことの意義はとらえどころがない。しかしこれがゲームをプレイすることに喩えられることで説得的になる。なぜなら「良いゲームは、ただプレイするだけでプレイヤーを充足させる」からである。『セレステ』というゲームのクオリティが人を楽しませるのみならず、ただゲームをするということを肯定させ、それが日々の人生を受け入れて生きていくことに重なる。ゲームとしての品質が、人生を肯定させるのだ。


人生とゲームが重なるとき

セレステ』は「人が生きる」ということを描く作品である。もちろん人生とゲームは違う。しかしそれを錯覚*1させてしまうのは、本作が「良きゲーム」であるからこそ感じられる体験を物語のテーマに見事に当てはめてみせるからだ。物語の主人公Madelineの感情が、ゲームプレイで感じるプレイヤーの感情そのままが当てはまるように感じられるからである。
セレステ』は、ゲームにしかできない物語表現を達成した傑作である。

*1:これが錯覚であるのは、セレステの後半は堰をきったように達成感を感じさせる演出やレベルデザインを施しているからだ

『ドラクエ11』になぜ我々はガツンとやられてしまったのか?

※本記事はドラクエ11の結末を含め様々なネタバレを含みます。

ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて』は名作である。これはプレイ開始当初には考えもしなかった評価である。しかしクリア後そのように評価せざるを得ないという気持ちになった。おそらくドラクエ11には両極端の評価が混在している。そのことについて少し考えてみたい。

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■欠点の多いドラクエ11

ドラクエ11には多くの欠点がある。その欠点はあまりにあからさまで堂々としている。『Witcher 3』や『Fallout 4』と言った世界の大作RPGをプレイしたことがある者にとっては驚くほど稚拙に感じられる部分が多い。

特に気になるのはマップやエリアデザインの部分だろう。端から端までそれほど時間が掛からず行き来ができるほど1つのエリアは狭く、その癖、隣のエリアや街に移動するには十数秒のローディングが挟まる。仮にそれぞれのエリアごとに凝ったギミックや様々な進行ルートが仕込まれているのであれば、こうした仕様を理解もできるが、ドラクエ11の各エリアはとてもシンプルで探索の自由度も低い。30年前の初代ドラクエ1をプレイするとそのワールドマップの移動の自由さに逆に驚くほどである。ドラクエ11は30年前というFC時代に回帰するでもなく、PS2ぐらいの10数年前という中途半端な時代に先祖返りしているように見える。それゆえ余計に陳腐に見えてしまう。

この他にも文句をつけようと思えばいくらでもつけることができる。見えない壁が数多く存在し、小さな段差が登り降りできない場面の多さに呆れた人は多いだろう。また、伝統芸だと分かっていてもカットシーンに吹替えがないことはとても不自然だった。シナリオの展開は序盤は特に眠くなるほど退屈であり、旅の途中で仲間になるキャラクターたちの魅力もあまり伝わってこない。戦闘においても、なぜ主人公がフィールド上で攻撃を先に加えているのに敵方の先制攻撃としてターンが始まる場合があるのだろう。と文句をつけ始めたらキリがない。

しかし世間でのドラクエ11の評価は高い。こうした世間での高評価と自分の感じ方の乖離に戸惑う人がいたことは十分想像できる。ドラクエ11は最近のコンソールやPCゲームを多くやっている人ほど困惑する出来のゲームだった。

しかし、最後までプレイした今となっては、筆者にとって「ドラクエ11はまごうことなき傑作」である。真に驚くべきは、こうした無数の欠点を全て「許せる」と思わせてしまう腕力なのである。ネットでは「物理で殴る」というスラングがあるが、ドラクエ11ほど物理で殴ってきたゲームはない。小賢しいコアゲーマーを正に腕力で殴り倒すゲームであり、素直に私はノックアウトされてしまった。

ドラクエ11とノスタルジー

ではドラクエ11がプレイヤーをKOさせた武器とは一体なんなのだろうか。それは一言で「ノスタルジー」ということになるのだと思う。ドラゴンクエスト30周年*1というタイミングで、徹底的にノスタルジーにこだわり、それを利用しつくした作品がドラクエ11である。そしてこれが可能なゲームシリーズというのは意外にあまりないようにも思うのだ。マリオやソニックなど長く続く人気タイトルはあるものの、ノスタルジーをこれだけ堂々と活用した作品はそうはない。

では、ドラクエ11が凄いのは単に懐かしさを感じさせる要素が多いからなのだろうか。そうではないだろう。ドラクエ11が凄いのは、そのノスタルジーを感じさせるための構造をそのままドラクエ11の物語の骨格としたところにある。そのことをドラクエ11の物語の流れから見ていこう。ドラクエ11のストーリーを「勇者」というテーマを中心に捉え、その骨格だけを取り出すと以下の通りとなる。

  • -----ゲーム開始(フェーズ1)---------
  • ①かつて伝説の勇者ローシュが存在した。それは語られるだけの古き存在である。
  • ②その生まれ変わりである主人公がいる。彼はいきなり序盤で勇者であることを否定される。
  • ③本編は主にその勇者の肩書きを取り戻すための旅である。
  • ④旅の果てに勇者のつるぎを手にしたところで、主人公はそれを魔王に奪われ、再び勇者であることを失う。
  • ------世界崩壊(フェーズ2)---------
  • ⑤そこから再度、勇者であることを取り戻す旅が始まる。
  • ⑥最終的に魔王を倒し、名実共に勇者となる。
  • ------クリア後の時渡り(フェーズ3)---------
  • ⑦主人公はあらゆる者を救うため、過去へと戻る。そして邪神を倒し、三度、勇者であることを取り戻す。
  • ⑧最後、その真なる勇者のチカラを伝説の賢者セニカへと渡す。そして間接的にローシュに真に勇者であることを取り戻させる。真エンドクリアとなる。


本作は大きく3つのフェーズに分けられる。それは上記の通り「世界崩壊」と「クリア後の時渡り」で分けられる。

フェーズ2が始まる際、④で世界が闇に包まれ主人公は海底王国からある浜辺へと舞い戻ってくる。その時プレイヤーはおそらくこう思うのだ。「ああ、ここ!この浜辺に戻って来たのか。懐かしいな!」と。

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↑懐かしのデルカコスタ地方。

 

そうしたささやかな「懐かしい」をクリア後は更に何度も味合うことになる。フェーズ3の⑦以降、各地で再び多くのNPCや景色や音楽と出会う。同じ世界を何度も旅をさせる。ドラクエ11はたった一つの作品の中で何度も「戻ってきた」や「取り戻す」を繰り返す。そして、それはドラクエシリーズの歴史とも通じる。何度も何度も世界を救ってきたことの模倣となる。では、こうした「戻ってきた」や「取り戻す」がどのようにノスタルジーと関わるのか、その点を以前放送されたあるテレビ番組での議論を元に考えてみよう。

■なぜ人は懐かしがるのか

Eテレでかつて『哲子の部屋』という番組があった。2015年5月28日の回で「人はなぜやたらと懐かしがるの?」というテーマが扱われ、そこでとても面白い場面があった。ゲストの批評家・石岡良治氏が「夕日が沈むいくつかの映像」を見せる。それらの映像を見ると、人は問答無用に懐かしいと思ってしまう。同番組に出演しているマキタスポーツ氏及び清水富美加氏もそう感じた。しかし実はその夕日の映像、日本ではなく異国の情景であり、しかも完全にCGで作られた夕日の映像まで含まれていた。つまり、リアルでは1回も見たことがないばかりか、この世には存在しない情景に懐かしさを覚えていたのである。しかし、それでも懐かしく思ってしまう。その番組では次のような言葉が語られていた。

『人は何かを懐かしむのではなく ただ懐かしがりたい』

懐かしむのにその「対象(何か)」は必要ないというのだ。しかしではなぜ人はそんなにも懐かしむのか。それを哲学者ジャンケレヴィッチの言葉を引用して「時間とは"逆行できないもの"としてしか考えられない」からとする。二度と取り戻すことができない過去だからこそ、人は懐かしむのだと。沈む夕日に象徴されるように時間の変化を直接目にした時に人は「取り戻せない過去」を見て取る。「夕日」それ自体が懐かしいのではない。夕日によって「時間の取り戻せなさ」が喚起されることで人は懐かしむのだ。

ここでドラクエ11の物語を振り返ると、副題の「過ぎ去りし時を求めて」とあるように、本作は「取り戻せない過去」を求める物語である。いや、「過去」だけではない、「勇者であること」や「破壊された故郷」なども取り戻そうとする。

 

しかし、本稿で主張したいのは、ドラクエ11は本当に取り戻せている物語なのか?ということである。むしろ逆なのではないか。④以降の世界や⑦以降の世界は、それまでの世界と同じようでいながら、一変している。それは「過ぎ去りし時」をまざまざと見せつけてくる。④以降の世界の変化はわかりやすいだろう。しかし⑦以降の世界も大きく変わっているのだ。見た目としては時渡り後の⑦以降の世界は④以前の世界と似ている。しかし、ウルノーガを再度倒した後の世界は大きく1回目のクリア時点とは変わってしまう。重要なのは決してかつての世界は取り戻せないというということである。その最たるものがベロニカである。(取り戻したいかどうかは別にして)ベロニカのいない世界はもう取り戻せない。ベロニカを失った悲しみの時は、真エンドを迎えた後には「過ぎ去りし時」になってしまうのだ。本作はタイムトラベルの物語であるのだが、意外にも『シュタインズゲート』や『オールユーニードイズキル』や『ビューティフルドリーマー』にあったような「ウンザリするような同じことの繰り返しとそこからの脱出」というモチーフが登場しない。「タイムトラベル物」ではあるが「ループ物」とは違うのだ。「ループ物」がはらむ過去改変の悩みや悲しみは影を潜め、ずっとドライに過去を置き去りにして次に進んでいるように見える。それは「似ているが異なる物語」を連続して味わうという体験であり、まさにドラクエシリーズを何作かクリアするような体験に似ているのである。

■取り戻せないものの象徴 ローシュ伝説

そして考えたいのは本作におけるローシュという存在である。ドラクエ3をやったことがあるプレイヤーはローシュたちを「懐かしさを感じさせる存在」と捉えるだろう。

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しかし重要なのはそうした30、40代の世代が懐かしいと思うことではない。筆者は、ドラクエの初期3部作をプレイしていない人が本作をプレイしてもドラクエ11はノスタルジーを感じさせると考える。それは、ローシュ伝説が「取り戻せない」という体験を巧みに感じさせるからだ。

物語の最後、裏エンドで、主人公は「ローシュ伝説」に僅かに介入をして、勇者ローシュにトゥルーエンドとも言える結末を取り戻させる。しかしここでプレイヤーは逆説的に二重に「取り戻しができない」ことを感じ取るのである。その1つは、その伝説のトゥルーエンドが実際はどのような結末になったのか主人公自身が(そしてプレイヤーも)具体的には味わうことができないということ。そして、もう1つ。それはプレイヤー自身の過去、即ち現実世界での「勇者だったあの頃」を思い起こさせはするものの、その過去を取り戻せないと感じさせるということだ。あの裏エンドのスタッフロールがその気持ちを否応なく強める。

ローシュそのものが懐かしいのではない。人はただ懐かしがりたいのである。ローシュはその象徴的な存在として「懐かしさ」を喚起する装置なのである。*2 大人になりファンタジーの世界を旅する者は、過去にどこかでファンタジー世界に虜になった過去を持っている。なぜなら、ファンタジーが「所詮ファンタジーでしかない」と理解するからこそ、「『あの頃』はもっと純粋にファンタジーを楽しめていたような気がする」と「あの頃」を創造してしまうからだ。そんな「あの頃」をローシュ伝説は喚起する。しかし、ドラクエ11は、プレイヤーをローシュとして体験させたりはしない。それはもう「取り戻せない過去」なのだ。

■なぜドラクエ11は中途半端に古臭いのか

なぜドラクエ11はこれほどまでに「中途半端な古臭さを持つ作品」であるのかを改めて考えよう。本作はFC、SFC、PS、PS2、DS、Wiiまでのあらゆるドラクエのキメラとして存在している。むしろ最新の『Witcher 3』や『Fallout 4』や『マスエフェクト』のように全く新奇な存在として存在してはならない。30年間の多様なシリーズ体験者、そのあらゆる人々にとってぼんやりと懐かしいはずの存在であるためには、見た目的にもシステム的にもPS2世代までの要素をつぎはぎした存在、そして決して過去のドラクエそのものでもない存在になる必要がある。そして、「ドラクエシリーズを過去何作もクリアしてきた」かのような近似体験を、3回のフェーズに分けたキメラ的ドラクエ11が模倣的に追体験させる。繰り返すが、それは本物の過去のドラクエシリーズの体験ではない。過去そのものを取り戻させないからこそドラクエ11は「ただ懐かしい」へとつながるのである。そこにローシュという存在が最後のダメ押しで挿入される。ローシュはかつて勇者だったころの象徴的な自分である。ドラクエ11の主人公がドラクエ3の主人公と似ても似つかないサラサラヘアーの線の細い主人公であることによって、プレイヤー自身は最初に疑似的に勇者であることを奪われる。しかし、その勇者らしからぬ主人公によってかつての自分(ローシュ)はようやく勇者たりえるのである。その上で畳みかけるように裏エンドのスタッフロールでプレイヤーは気が付いてしまうのだ「もうあの頃の勇者である自分ではない」のだと、どれだけゲーム内で勇者であることを取り戻しても、リアルとしての自分が勇者になることはないということを。ゲームの中の本物の勇者はサラサラヘアーのイケメン青年なのだ。明に言わなくてもプレイヤーは気が付いてしまう。「取り戻せない」のだと。「取り戻せない」からこそドラクエ11は徹底的に「ただ懐かしく」させる作品なのである。

ドラクエ11は過ぎ去りし時を求める物語であると同時に、過ぎ去りし時を取り戻そうとしても取り戻せないことに否応なく気付かせる体験である。そこでは、常に何かを置き去りにして、しかし少し後ろ髪を引かれながら前に進むしかないという、時間がもたらす切なさを見つめる物語でもあるのだ。ドラクエ11の主人公は正に「時間」を象徴した存在である。彼はどんな時も振り返らない。前に黙々と進み続けるのだ。勇者という存在が「過去への振り返り」と「前に進む」という矛盾をまとめ上げたところに、取り戻せないものの圧倒的な美しさが映える。ここにドラクエ11の秀逸さがあるのではないだろうか。(了)

 

 

 

*1:実際は31年目。2016年が30周年だった

*2:想像を逞しくすれば、ドラクエ9が懐かしくないのは、特に30代以上にとって、それが思い出補正を受けるほど過去でも、取り戻せない過去でもない「つい最近のこと」だからと筆者は考える。とは言え、8年前のゲームである。仮に当時ドラクエ9を10歳でクリアした子がドラクエ11を18歳でクリアするケースを考えれば、裏エンドのスタッフロールでドラクエ9を懐かしいと感じることもあるだろう。

『ゼルダの伝説 BotW』の探索はなぜワクワクするのか。新作ゼルダに宿る『ハズレの美学』

ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド』は稀代の傑作である。それゆえ『ゼルダの伝説BotW』を褒める記事は既にたくさん存在する。だから、もうこれ以上何を言うのかという思いがないではない。しかし咲き乱れる賞賛の中に、もう1つぐらいささやかな記事が加わっても罰は当たらないだろう。そんな思いで書いてみた。本記事では、『ゼルダの伝説BotW』の持つ数ある美しさの中から、ある1つの美点を取り出して述べてみたい。それを筆者は「ハズレの美学」と呼びたいと思っている。


ハズレとの出会い

筆者は『ゼルダの伝説BotW』をWiiU版で70時間、Switch版で60時間ほどプレイしている。2周目となったSwitch版ではまだクリアはしていないが、四神獣を解放し、試練の祠は100余りクリアしている。1周目の時は、楽しくて楽しくて前のめりでプレイしていたためか、細かい部分で感じた様々な面白さをちゃんと覚えていない。2周目になって何度も「すごいな、これ」と改めて冷静に感心している。そして2周目のある時、「あっ」と思ったことがあった。

それは多くの人が最初に到達するカカリコ村でのこと。村に最も近い祠から見えるある「でっぱり」に登った時のことだった。

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↑右側に見えるでっぱり。崖に突如としてあるこのでっぱりは何か特別なものに見えた。

 

この「でっぱり」。自然の造形物としては不自然ながら、人工物というにはあまりに素っ気ない。あえて言うならゲーム的なでっぱりであった。確実にあそこには何かあるな(コログあたりかな)と思った。本作をプレイしたことがある人なら、このゲームは正にそういう「思いつき」の連続であることを知っているだろう。少なくとも筆者はその時そう思った。そして登ったのである、そのでっぱりに。

しかし、そこには何もなかった。宝箱さえなかった。何も起きなかったのだ。ジャンプしてみたり、爆弾を置いてみたりしたが、特に何も起きない。そして思ったのだ。「ああ、ここはハズレなのか」と。その瞬間に、筆者がなぜこのゲームの、特に「探索」がこんなにも楽しいのか、その一端を垣間見た気がしたのだ。

同じようなことは別の場所でもあった。それは高地の雪嵐吹きすさぶある山頂に到達したときのことだ。「ここには何かあるんだろう?」と思い、視界の悪い中、苦労して登頂したその先、そこには特に何もなかった。この山頂はハズレであった。

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↑ウォルナー山。単に寒いだけの山だった。

 

また別の山でも同じようなことがあった。山頂がきれいに割れているいかにも怪しげな山があった。そこにも何かあるだろうと思って登ってみた。しかしここでも特に何か発見があるということはなかった。

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↑山頂がきれいに割れている怪しげなクーホ山。とはいえ山頂に特に何かあるわけではない。

 

実は意外に多くのプレイヤーはこうした体験を『ゼルダの伝説BotW』でしているのではないだろうか。「何かあるとおもったけど特になかった」という体験は本作で何度か味わうことになる。そしてこのハズレの体験こそが本作のデザインの1つの美しさであり、ハズレこそがプレイヤーの探索の期待をコントロールしているのではないかと思ったのだ。

他のオープンワールドにおける探索要素

いくつかここに比較的広いマップを歩き回りアイテムを収集するような要素があるゲームのマップ画面を見てみよう。

1つ目は『アサシンクリード ジンジケート』。19世紀のロンドンに暗殺者となって暗躍するステルスアクションだ。シリーズの持ち味である高い所にも自由に登ることができるフリーランは『ゼルダの伝説BotW』の壁のぼりを髣髴とさせるが、スタミナ切れなどは特にないため遊びの質としてはかなり趣が異なっている。
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↑左側「収集アイテム」の分母がこのエリアでの収集アイテムの総数。実際集めようとすると結構数がある。

 

2つ目は『Far Cry 4』。先の「アサクリ」もそうだが、この作品も『ゼルダの伝説BotW』との共通点が多いゲームとして、よく名前の挙がるシリーズの作品だ。先進的な文明から隔離され、部族的習慣が息づく土地を舞台に生き延びる一人称視点のサバイバルアクションである。

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↑これを拡大すると更に多くの宝箱のアイコンなどが表示される。

 

3つ目は『Rise of Tomb Raider』。PS時代に人気を博し、映画化もされた人気シリーズの最新作だ。女性冒険家を主人公に据えたアクションアドベンチャーであり、前作で過去作から刷新されオープンワールド化した*1

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↑1つ1つのエリアは狭いながら、画面左のリストにある通り、収集物は種類・数ともに豊富である。


4つ目は『ホライゾン ゼロ ドーン』。たまたま『ゼルダの伝説BotW』と同時期に出た、これまた中々の名作である。文明が壊滅した遠い未来の世界を舞台にした本作は、美しい環境のビジュアル、多彩な機械獣との戦闘、SF的設定の物語が魅力の作品である。

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↑マップ上には数多くのアイコンがひしめき合っている。


いかがだろうか。それなりに評価の高いここ最近のオープンワールドゲームのマップには、実に多くのアイコンが配置されていることが分かる。『ゼルダの伝説BotW』以外の多くのゲームでも、マップに満遍なく収集アイテムやミッションポイントや拠点が配置されているのだ。*2

しかしあえて断言するが、上記四作品に『ゼルダの伝説BotW』ほどの探索の魅力はない。だからダメなゲームだと言いたいわけではない。ただ、『ゼルダの伝説BotW』に備わっている「この先に何が待っているのか、行って探索してみたい」という探索のワクワクがこれらの作品にない事は確かなのだ。

「当たりの保証」によって失われたもの

なぜこれらの作品には豊富に目標物が配備されているのに、『ゼルダの伝説BotW』ほど探索のワクワクがないのだろう。上記四作品と『ゼルダの伝説BotW』との違いは何か。筆者はその理由の1つが「全てが『当たり』である」ということではないかと考えている。上記作品群のマップのアイコンにはハズレがないのだ。「そこに収集アイテムがありますよ」というヒントアイコンはほぼ100%正しく、行けば必ず何かがあった*3

振り返るに、これまでのオープンワールドでは、マップ上に記されるヒントはほとんど全て「当たり」を意味していたように思う。先ほど例を挙げていない「スカイリム」や「GTA5」などもマップ上に何かのアイコンが出たら、それはほぼ必ず「当たり(=目的地)」を示している。そこに行けば何かが始まり、そこに行けば何かが見つかる。すると、プレイヤーがすることはその「当たり」に向かっていくことだけ。いや、もちろんこの要素に全く「探索」らしさがないとは言わない。いくつかのゲームはそこで「ルート探索」的な遊びを提示する。ゴールは分かっても、どうしたらそのゴールに到達できるのかを探す、そんな遊びを提示するわけだ。しかし、そうした遊びも全て「100%当たり」という保証があっての遊びに過ぎない。下手をすれば、それはすぐさま「作業」へと変貌してしまう。つまり「当たりの保証」が「探索のワクワク」を押し下げているのだ。

とはいえ、こうした収集要素が退屈な作業となることへの懸念に、これまでの作品が全く無頓着であったわけではない。上記に挙げた各作品でもその問題はちゃんと意識はされ対策が試みられている。よく見られる対策は次の2つのパターンだろう。1つはヒントアイコンが「広範囲のだいたいこの辺」を示すことで、目的物の場所を少し曖昧にするという方法だ。

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↑「範囲」で示された収集物のアイコン。画像は『ホライゾンゼロドーン』のもの。

 

プレイヤーに探索する余地を残すことで、プレイヤーは「狭い範囲でのゴールポイント」を探索することになる。もう1つは、そもそも「当たり」のアイコンを表示しない方法だ。この方法の場合、NPCの話や事前に入手したドキュメントなどから、自発的にどの場所に行けばいいかを探ったりする。

1つ目の解決策のように範囲としてどれだけぼやかしても、アイコンが「当たりを保証」していることに変わりはない。そういう意味で『ゼルダの伝説BotW』は、その正解を置かないという2つ目の方法を大きく採用していると言える*4。しかし、単に「当たり」アイコンを置かないというのではない。地図には地名と等高線を描いた。そして探索という行為を「地図を読む」「地形を読む」ことへと昇華させた。その上で『ゼルダの伝説BotW』はもうワンクッションを置いたのだ。それが「ハズレ」の存在である。『ゼルダの伝説BotW』の地名や等高線はすぐさま「当たり」を示すとは限らない。本作は常に褒めてくれる都合がいいだけの存在ではないのだ。そこに実際に行ってみたとしても、必ず何かがあるわけではない。どんなに高い頂や怪しげな丘に登っても、それは「単なるハズレ」かもしれないのだ。

 

ゼルダの伝説BotW』を賞賛する時、人々はこう語った。「どこに行っても、ちゃんと何かがある。だからついつい探索してしまうんだ」と。これは全くその通りだ。だが、その裏の顔があるのではないか。つまり「どこかに行ってみても、そこに必ず何かがあるとは限らない」。「何かがある」だけがプレイヤーの期待をコントロールするのではない。「何かがない」こともまた影で期待をコントロールしている。だからこそ、「俺が」「私が」「僕が」見つけたということが陳腐化しない。

しかし、こうしたハズレがただ用意されているだけではない。筆者は以下の2つのハズレのデザインがこのハズレの美学を支えていると考える。

物量による期待の底上げ

ハズレを引くのは確かに残念だ。しかし、その残念さはちゃんと緩和されるようになっている。それは『ゼルダの伝説BotW』のご褒美の膨大な物量によってである。試練の祠が120個にコログの実は900個。宝箱に至っては一体どれだけあるのか分からないほどに存在する。たとえハズレを引いてしまっても「でも次は何かあるかもしれない」と思えるだけの物量がある。「ハズレだった」→「でも次は何かあるかも」→「そして事実ある」というこのハズレと当たりの連鎖は、ハズレの残念さを緩和するだけではない。この緩急によって、期待は常に高い水準を保つ。

先に挙げた四作品は、いずれもそれなりの物量のご褒美を用意していた。しかしそれが『ゼルダの伝説BotW』ほど探索のワクワクに寄与しないのは、ヒントアイコンが「100%の当たり」を示すことで、逆に「100%のハズレ」の場所さえも明確にしてしまったからだ。一方『ゼルダの伝説BotW』は、当たりとハズレの区別を不明瞭にした。そのことにより、プレイヤーの想像力の中で勝手に「当たりらしきもの」が大きく膨らんでいく。想像力によって膨らんだその物量イメージを最大限に活かしつつ、「ハズレと当たりの反復」によってプレイヤーの期待をマップ全体に瀰漫させているのだ。*5

ハズレの二重底

「ハズレの美学」を支えるもう一つの仕組み、それはハズレの中には、二重底になっているものがあるという点だ。最初見た時には「ハズレかな」と思うものの中には、後々になって実は「当たり」だったと分かるものがある。特に「コログの実」という収集要素において顕著だ。やるべきアクションが分からず最初はハズレと思いスルーしてしまう、そんなパターンがある。

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上の写真に見える何か意味ありげに並ぶ3本の木。これなどは、地図上や見た目にはいかにも怪しいにも関わらず、最初は意味が分からずスルーしてしまった人も多いと思う。しかし、どこかでふと「当たり」に気が付く。〇〇すれば「ハズレ」が「当たり」に生まれ変わるんだと気が付く。

プレイヤーにとって「ハズレ100%」を少しだけ曖昧にする。それがハズレの二重底だ。「もしかしたらあの時のハズレはハズレではなかったかも」と疑い始めると、これまで過去に体験してきたあらゆるハズレへの見方が変化してくる。それだけではない。まだ出会っていない未来のハズレもまた、本当にハズレだと断定できるのか次からは確信が持てなくなる*6。これは長期間に渡って、当たりへの期待を高止まりさせる秘かな心理的要因となるのではないだろうか。

ハズレと当たりの彼岸

ゼルダの伝説BotW』のハズレの美学とは何か。それは「当たりとハズレの境界を曖昧にすること」だ。今向かっている高い丘の上には何があるのか。それは物量という期待によりおそらく「当たり」と想定されるのだが、しかし100%の確信はない。しかもそれが「ハズレ」だと分かった後も、どこまで「ハズレ」として確信を持てばいいのかはよく分からない。事実「ハズレ」だったとしても、次には「当たり」に出会えるという予感がなんとなくある。こういう「当たりとハズレの境界を曖昧にすること」は、オープンワールドというスタイルのゲームの原初的な感動に通底してしていると筆者は考える。

初めて「GTA3」やそのシリーズをやった時に筆者は何に感動したか。その1つは「路地裏の存在」であった。ビルの谷間にあるゴミ収集ボックスの存在。積み挙げられたベニヤ板やタイヤ、ビニールシートを被った資材。そういうゲームとして意味が有るのか無いのかよく分からない存在に、街全体としての息遣いを感じた。意味もなくブラブラと歩くことに何か街を探検しているような気分があった。そこでは当たりもハズレもなかった。

時代は進み、オープンワールドは進化した。そして大量の明示的なご褒美が用意されるようになった。確かにその方が嬉しい。何もない路地裏を探検しても、それが自己満足に過ぎないなら、いつかは飽きてしまうかもしれない。路地裏の探検に意義を見出せない人もいるだろう。だからもっとより楽しみやすくするために、様々な場所に宝箱やアクティビティが仕込まれた。しかしご褒美を用意すると、今度はそれを取りっぱぐれるストレスや、それらを1つ1つ探索することへの面倒さが問題になった。だから地図を用意した。宝の地図だ。あらゆる宝の場所を記した地図は、収集癖を十分に満たすものだった。

しかしプレイヤーは底なしに貪欲だった。どこに何があるか分かっている些細な宝物を、どうして取りに行かなくてはならないのか?と問い始めたのだ。これは難しい問題だ。自由を売りにするオープンワールドと、どこに行けばよいか分かっている不自由な収集要素という「矛盾」にどのように折り合いを付ければいいのか。これはオープンワールドという構造が長い時間を掛けてより面白くするために自ら積み上げてしまった逆説的な課題であったように思う*7

 

だからこそ『ゼルダの伝説BotW』がもたらした解答は進化を続けるオープンワールドという枠組みの中で、王道でありつつも極めて華麗に見えるのだ。サブでしかなかった探索要素にもう一度輝かしい光をあてた。他のゲームが探索要素を遠慮がちにメインディッシュの隣に盛り付ける中、『ゼルダの伝説BotW』は堂々とお皿の中央に盛り付けてきた。探索要素をメインディッシュとして恥ずかしくない豪勢さに仕立て上げて勝負してきたのだ。

 

ゼルダの伝説BotW』の解答。それは「ハズレと当たりの境界を曖昧にする」ことであり、「ハズレと当たりの彼岸」へと再び到達する道を示したことだ。僕達の冒険は正解だけで舗装された道を歩むものじゃない。向かった先に何もないこともあるからこそのロマンなのだと。(了)

 

 

 

*1:新生トゥームレイダーオープンワールドと呼んでいいかは議論のあるところだろう。本稿では議論の主体がそこではないので、ここでは仮にそうみなす

*2:これら収集アイテムのアイコンは、そのアイテムが取得されるとマップ上から消える。しかし『ゼルダの伝説BotW』では全く逆で、収集アイテムを発見するとマップ上にそのアイコンが現れる。この表現のベクトルの違いは象徴的な違いと言えるかもしれない。

*3:『ライズオブトゥームレイダー』は他の3作品に比べて収集アイテムの場所を示したマップを獲得するために、多少歯応えのある探索が必要だ。ただしそのマップを入手した後、収集アイテムの収集自体は他の3作品と同様作業感が強い

*4:特にコログの実についてはそう言える。一方、試練の祠は上記2つの複合策とも言える。センサーが範囲内での正解の存在を指し示すからだ。またシーカータワーからの祠のマッピングは「100%当たりのアイコン」を「自分で作る」という点が特徴的と言えるかもしれない

*5:また一方で膨大な物量は「諦め」も程よく与えてくれる。例えば、コログ図鑑を用意しなかったり、コログの実が900個の半分以下でポーチ拡張が最大化できるのは、この膨大な収集要素を適度なところで切り上げて諦めを促すために必要な配慮だっただろう。おそらく数百個以上のコログの実を集めた頃には、「ハズレ」のストレスはかなり高まり、「当たり」への期待を十分に維持できないレベルにまでなっていることも想定される。膨大な物量はそうしたところに行きつく前に他に興味が向くための緩衝として機能しているのではないだろうか。一方で図鑑写真というこれまた中々ボリュームがあるのに、コンプリート目標が明確な収集要素も用意されている。目的物がどこにいるかは近くに行くまで分からないというのも、正解地点を明確にしないという点で筋が通っている。しかも撮り逃しや面倒さへの救済策まで備えている。抜け目がない

*6:そんな当たりかハズレか分からないものに、プレイヤーはまさにスタンプを置きたくなる

*7:例えば、探索対象のアイテムの価値を高めるというのも一つの解決策に見えるが、そういうアイテムのゲーム内価値が高ければ高いほど、自由にさせることはゲーム側がプレイヤーの体験をコントロールしにくくなるというリスクを生じさせる