ビデオゲームとイリンクスのほとり

ブログになる前の軽い話は以下で話してます。■Discord : https://discord.gg/82T3DXpTZK 『ビデオゲームで語る』 ■映画の感想は『映画と映像とテキストと』というブログに書いてます。https://turque-moviereview.hatenablog.com/ ■Twitter ID: @turqu_boardgame

映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

『アストラルチェイン』ゲームとして「純粋」じゃないところが好きという感覚について

2019年。ニンテンドースイッチで発売された『アストラルチェイン』。素晴らしいアクションゲームだった。「拮抗」難易度で一通りクリアしたが、そこまで難しくなかったため、多少のガチャプレイでも進めることができて非常に気持ちよく遊べた。発売前は『ニーアオートマタ』っぽいと聞いていて不安だったのだけど(ニーアはアクションが単調に感じて2周目の途中で辞めてしまったから)、本作は見事なプラチナゲームズ集大成という作品だった。

 

アクションゲームとしての素晴らしさは多くのブログや記事、SNSでも言われていることだが、個人的にはアクション部分以外の要素の「ちょうど良さ」が気に入った。と言ってもストーリーが良かったということではない。ストーリーテリングや脚本はイマイチ(まあ普通)だったのだが、いわゆる捜査パートやメインのアクション以外のゲーム部分がとても良かったと思ったのだ。

 

ネットなどでプレイした人たちの感想を見て「もっとアクションやバトルだけをさせて欲しい」「捜査パートが邪魔」といった意見があることは知っている。そしてそういう感想が出ることもよく理解できる。それだけバトルの出来が良く、楽しいということでもあるだろう。そうした感想を理解しつつも、しかしそれでもやはりバトル以外のゲームパートが本当に素晴らしいと思うのだ。このように思うのはちょうど直前まで『ファイアーエムブレム 風花雪月』を遊んでいたことも関係する。『風花雪月』では、メインとなるストラテジーパート以外の学園での育成パートの楽しさがよく言及されている。しかしこの学園での育成パートはゲームとして見ると結構単調で、遊びとしては決して洗練されているものではない。ありきたりだし、凡庸な出来だ。しかしこれがメインのストラテジーバトルと融合することで、非常にプレイヤーを楽しませる要素になっている。奇妙な話だが「ゲームとしてそれほど面白くない」ことがむしろゲーム全体の楽しさに有利に働いているのではないかと思わせるところがある。

 

『アストラルチェイン』もその点で少し似ている気がする。激しいバトルアクションが一番のウリであることは間違いないが、突然倉庫番のようなパズルゲームを遊ばせたりしてくる。また古臭いアドベンチャーゲームのような聞き込みと証言集めと推理のような遊びを提示したりもする。こういう一見すると「邪魔」にしかならなさそうな要素が、ほどよくプレイに起伏を与え、ゲーム作品の彩りとしてプレイヤーを楽しませてくれる。とはいえ、作り手としてもこうした要素が「邪魔」なものとして嫌がられる可能性は十分に想像できただろう。だからこそ、この「そこまでよくできてるわけではない遊び」が、なぜこんなにもいい感じに楽しめる要素になっているのかは少々不思議でもある。

 

物語をクリアすると、エピローグ的なチャプターが開始する。このチャプターは物語本編と違ってひたすらバトルを繰り返す趣向になっている。これはこれで楽しいのだけど、ただバトルを繰り返していると、どうも虚しさなのか飽きなのか、よく分からないが負の感覚を抱く。もちろんバトル自体は楽しい。楽しいのだけど、どこか物足りない。これは個人的な趣味が入る話なのだが、私はゲームにオマケ的に付いてくるアーケードライクなゲームモードというのが苦手だ。ひたすら敵を倒すモードとか、あの手のモード。エンドコンテンツ的に備わっている場合もあるのだけど、どうもやる気になれない。ゲーム本編の2周目を遊ぶ方が、なぜか肌に合っている。どうもそういう「純粋なゲーム」が苦手なのだ。ストーリーがそういう意味で「濁り」として機能する場合も多いのだけど、それ以外にメインとは違うタイプの遊びがそういう「濁り」として働いているものが好きだ。少し昔の日本のRPGなどで、突如現れるパズルゲーム(遺跡の中の石像を移動させて上手いこと扉を開ける、みたいなやつ)が好きなのだ。そういう異物の存在にゲームを遊んでいると不思議な安心感というか、ホッとした感覚を得る。

 

『アストラルチェイン』にはそういう古いけれど、どこかゴチャゴチャとした雑多なるゲームの良さを感じ、妙にノスタルジーを刺激するところがあるなぁと思った。

『ファイアーエムブレム 風花雪月』は期待以下の作品だと思ったが、2周目にガラッと印象が変わった

初めてファイアーエムブレムをクリアできた*1。2019年に発売されたシリーズ最新作『ファイアーエムブレム 風花雪月』。面白かったかと問われれば、正直そこまで面白かったわけではない。期待したほどストーリーも会話テキストも楽しめなかった。メタスコアなどで、ちょっと期待が大きくなりすぎたかもしれない。(2周目で評価が大きく変わるが、それは記事後半で)

 

かなり序盤の段階で、メインストーリーの戦闘での推奨レベルを超えてしまい、ほとんどラストまで苦労することはなかった(ノーマル・クラシックでプレイ)。時折、事故のように殺されてしまうことがあったが、本作の特徴の一つである「やりなおし機能(天刻の拍動)」で簡単に「待った」ができるのは良かった。最後まで1ユニットも失うことなくクリアできたのはこのやりなおし機能のおかげで、途中面倒くさくなって停滞することがなかった。クリアまで1ユニットも失いたくなかったので、仮にこのやりなおし機能がなかったらと思うと少しゾッとする。もし戦闘の終盤にちょっと強い敵ユニットにバコッと一撃で不意に殺されたら、あの単調で簡単な戦闘をまた最初から繰り返すのかと想像するだけでうんざりしてしまう。

 

また、やられてしまった時に「ああ、これは自分のミスだったな」とあまり素直に思えず、自責感のあまりない「事故」のように感じることが多かった。これは自分がまだファイアーエムブレムというゲームのコツを掴みきれていないからだろう。そのくせ「すごく簡単だったな」とも強く感じている。なのであまりコツが分かってないのに、簡単にクリアできてしまったという感覚が、本作に対する自分の大きな不満の1つであると思う。

 

物語については、黒鷲の帝国ルートで一回クリアしただけなので、全貌は見えていない。しかしそこまで物語の謎について「知りたい」と思えない。そう感じる理由の1つには、自分が選んだ帝国ルートのせいもあるかもしれない。ただ、それに加えて出てくる登場人物たちにあまり思い入れが生まれず、この世界に魅力が感じられなかったからというのもある。もちろん自分の学級(クラス)の生徒たちとは、かなり色々と思い出ができた。ただどの人物もテンプレ的なキャラクターに見えてしまい、いかにも安く作られたアニメっぽいなという印象である。キャラクターの書き分けという事情もあるのだろうが、各キャラクターの持つ煩悶や苦悩は、字面としては重々しいが(戦争や人種間の差別など)、かなり軽薄で安易に感じた。同じテンプレキャラクターによる群像劇なら『イース8』の方が背伸びをしていない分、素直に楽しめたかなと思ってしまう。例えば、褐色の肌の人物も出てくるが、どの人物もアフリカ系の顔の造りをしていない。別にそれはそれで良いのだけど、そういう表現を「あえて」避けていることの意図を説明できなさそうに思える。そういうところが重めの話をしていてもヌルく安易に感じる要因かもしれない。ものすごくいやらしい言い方をすれば「アジア人が作っていると思われてるから、許されてるだけなんじゃないの?」という気がする。

 

これだけ大量の人物を登場させて、それぞれを丁寧に描くことは難しい。しかし本作には現実社会における国家とか民族とか戦争とか差別とか家族とか身分制度とか、そういうものへの参照があまり感じられない。なんだか頭の中で考えただけの薄っぺらい苦悩という印象が拭えない(2周目での感想だが、唯一ツィリルの描写だけは少し面白いと思った)。登場人物たちはまだ子供である、というのがある意味彼らの言動が子供っぽいことの言い訳になるのかもしれないが、やはり子供ばかりが出てくる『ペルソナ4』や『ペルソナ5』に比べると脚本のレベルは低い。本作は、単に作りが結果として子供っぽいだけで、それは子供らしさを子供らしさとして描けているわけではないように感じる。

 

またキャラクターの設定を掘り下げる支援会話など、単につまらない会話を見るだけでパラメータが上がっていくシステムは、作業ゲーとしてもあまりに無機質で、ほとんどノベルゲームのTipsを見るようなものでしかない。それでもそれを見ないと損をする(支援値というパラメータがそれを見ることで上がる)と思うと、やらずにスキップすることもできず、正直、後半は若干苦痛でもあった。ところで『風花雪月』のシナリオやライティングがまともだと言われているということは、ここ最近のファイアーエムブレムシリーズの脚本がいかに酷かったを想像させて、それはそれで逆に興味が出てくる。

 

こんなに不満はいっぱいあるのだけど、ついつい遊んでしまう魅力は確かにあった。学園パートにおける遊びもほとんどゲームとしてギリギリだが、それでも続けて遊んでしまったことは事実だ。戦略ゲームとしての戦闘パートと育成シムとしての学園パートの、辛味と甘味の絶妙な取り合わせが良いバランスになっていたのだろう。緊張感溢れる戦闘パートでのささくれ立った気持ちを学園パートの優しさが癒すという繰り返しが、プレイヤーのモチベーションの維持に見事に効いていたのだと思う(戦闘パートの簡単さを差し引いても)。

 

是非、本シリーズで上手くいったシステムは継続して、次回作では更なる脚本の向上を目指して欲しいと思う。

 

……ここまでが1周目クリア時点の感想である。あまり気乗りはしなかったが、なんとなく2周目を金鹿(ハード・クラシック)で始めてみた。いやぁ、これがすこぶる楽しい。以下は、そのプレイを踏まえた感想を書いていく。

 

序盤のマップから、ハードモードのハードらしさを味わうことになった。油断をするとドンドンと体力を削られていく。しかし決して難しすぎはしない。まあ、対処できる程度の難しさなのだ。しかしこの緊張感は初めて「ファイアーエムブレムを遊んでるな」という気持ちを感じさせてくれた。

 

戦闘のほどよい難しさ(と言ってもハードでも相当簡単だという人が出てくるのはよく理解できる)は、もちろん良かったのだが、この世界の仕組みというかパラメータの効率的な上げ方が2周目にしてようやく理解できるようになり、作業でしかなかった学園パートが途端に楽しくなった。どんなパラメータを上げようが戦闘で全く危うげなく勝つこと以外想像できなかったノーマルモードでの1周目と違い、より最適化した部隊編成を目指しつつ、それでもどんな育成をしてもおそらく負けはしないだろうが、適切な育成をすれば戦闘がより楽になりユニットを失うリスクも減るだろうと思える程度の難易度が、プレイに安心感と程よい緊張感をもたらす。この感覚が味わえただけでも2周目を始めて良かったと思う。

 

育成でパラメータをいじくる遊びが楽しくなると、軽薄にしか思えなかった生徒たちの支援会話なども途端に許せるようになってきた。逆にこれ以上重くなっても、1ユニットも殺さないプレイをすること(これは個人的にそう決めているだけのことだが)が嘘かなという気さえしてくる。死と隣り合わせの生活でありながら日常では軽薄でいるという違和感が1周目では単なるリアリティ不足のように感じていたが、2周目のプレイでは「それはそれであるかもしれない世界」として受け入れられる。これこそゲームというものの妙味という気がする。単純にこのゲームをアニメ化されても、アホくさい学園物語と妙にドラマティックな学友の死という食い合わせの悪そうな要素のちぐはぐ感で楽しめなさそうである(それはもちろん「下手なアニメ化をすれば」ということではあるが)。しかし「さっきは危なかった。マジでヤラれてたかもしれなかった」という当事者意識が加わることで、表層的に見える生徒たちの会話にも勝手にコチラが深みと屈託を読み込んでしまう。ゲームという形式の面白味であると思う。

 

しかしだとするとなぜ本作はこれまでの最近のシリーズ作品に比べてこんなにも評判が良いのか、自分にはよく分からない(軽めの会話と重めの戦闘の化学反応という側面は最近のシリーズの別作品でも多少はあったのではないか、知らんけど)。そんなことを考えていると、過去のシリーズ作品をより遊んでみたいと思った。

 

 

*1:今まで『紋章の謎』と『覚醒』と『烈火の剣』を遊んでみたことがあるけれど、数時間で面倒になって辞めてしまった

『キャサリン フルボディ』をクリアした

良かった。ゲーム部分はブロックを適切に移動させながら上へ上へと壁を登っていくパズルゲーム。パズルゲームらしく抽象度が高く、壁やブロックがその物語世界の中で何を表現しているのかが特に明示されないので、物語パートとゲームパートの分離度が非常に高い。8年前(2011年)にPS3XBOX360でリリースされた時も、そのどこかトンがったゲームの有り様が異彩を放っていた。ずっと気になっていたのだが、今回改訂版である『キャサリン フルボディ』が2019年に最新機種でリリースされて遊ぶことができたのは嬉しかった。

 

まず物語については、脚本が比較的しっかりしていて、結婚と妊娠と浮気をめぐる恋愛劇としてちゃんと楽しめるものになっている点が良かった*1。男性主人公の視点で物語は紡がれていくわけだが、どの女性キャラクターも主人公に都合がいいだけの単純な存在ではない。また親友の男たちも、微妙な屈折をそれぞれ抱えている。主人公をとりまく様々な人物との会話はとても楽しいものだった。

 

ただ、その主人公の苦しみの原因や有様というのは比較的ベタで、ドラマや漫画として表現したらとても凡庸なものには見えるだろう。また、その苦悩を表現するゲーム部分(パズル)が、この物語においてどのような位置付けなのかが若干分かりづらい。単純に考えれば「悩ましいことや人生の重大な決断から逃げ続ける男が、単に逃げるのではなく、むしろ問題に真正面から向かっていくことで初めて『生きる』ことができた物語」なのだというくらいには解釈できるだろう。しかし最後まで「逃げるパズル」であることは変わらず、ゲームと物語が両立しているという納得感は得られづらいかもしれない。

 

しかし一方で、この突拍子も無い「羊の格好をして壁を登りまくる」という設定をこの物語の中に組み込めたことは、ゲームだからこそできた表現だとも思う。この奇妙すぎる設定を映画や小説や漫画やアニメで物語の中に組み込もうとすると、かなり前衛的な表現になってしまうが*2、ゲームであれば「プレイヤーが遊ぶ部分」であることをある種の言い訳にして、このような奇妙な設定や世界観を言わば「堂々と」組み込むことができる。『キャサリン』はゲームというものの多様な表現方法の可能性を示す好例になっているのではないかと思う。

 

最後に、改訂版である『キャサリン フルボディ』で追加されたリンというキャラクターについて。このリンというキャラクターは最初からいたのではないかと思うほど、物語の中に深く組み込まれている。おそらくこのリンというキャラクターは主人公の加害性を強調するという役割を担っているように思った。元々いた2人のキャサリンに対しては、もちろん、それぞれ「浮気」という形で相手を傷つけるわけだが、それでも基本的には主人公に都合よく物語は回収されていく。その点、普通にプレイした場合、リンに対しては最後に傷つけて離れてしまうルートになるプレイヤーが多いと思われる(ただ、仲良くなるルートもある)。特にリンは最初、主人公によって助けられるというエピソードから始まる。つまりリンに対しては精神的に優位な立場に立っていることが前提で、だからこそ終盤のリンを傷つける場面が際立つ。無意識に相手(リン)を傷つける、というのは、ほとんど無理やり「浮気をさせられる」という本編の主人公の無意識と対になっているとも捉えられる。意識してなくても、意図してなくても、相手を傷つけることはあるのだという、(元々の)本編だけだとちょっとスルーされがちな部分が強調されるようで面白いと思った*3

 

色々な意味でどこか危うさを感じさせるゲームであり、逆にそこが魅力でもあるゲームであった。

 

 

*1:色々なモチーフに日本らしさが出ていたり、妊娠を告げられて男がタジタジする、というのもあまり海外のドラマや映画で見ない気がするのだけど、どうなんだろう。この作品が海外でどのような受容のされ方をしているのかは少し興味がある。

*2:アニメなら幾原邦彦的なものか。

*3:キャサリンの重要なモチーフとして「無意識」というのはあるかもしれないなと思う。そもそもゲームの主な舞台は夢であるし。牽強付会かもしれないが、同じアトラスの『ペルソナ4ゴールデン』ではラカンに言及したりもしている。