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ビデオゲームとイリンクスのほとり

ビデオゲームを中心としたレビュー・コラム記事です。 Twitter ID: @turqu_boardgame

名作『ウォッチドッグス』に見る不気味な「メタスコアの谷」

メタスコアという数字がある。おそらくコアなゲーマーには説明の必要もない当たり前の存在であろう。その存在を知っているばかりか、その功罪についても、また一家言ある方も多いと思う。

メタスコアとは、アメリカのMetacriticというサイトが集計している映画・音楽・ゲームなどの作品に対する100点満点形式の評点を指す。

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このスコアは各種大手レビューサイトに計上された点数を集計し、百分率化した上で平均化した数字である。様々なレビューサイトを横断的かつ網羅的に見ていくことは、マニアにとっても骨が折れる作業だ。それゆえマニアにとってメタスコアはとても有用なツールでもある。集合知的な評価ではあるが、特徴的なのは素人のレビューを集めているわけではないというところだ。商業的な、ある程度の規模を持ったレビューサイトの評価を集めているところがポイントである。

映画や音楽やテレビドラマのメタスコアもあるが、中でもビデオゲームのメタスコアはファンに対して大きな力を持っていると思われる。経験的には、前世代機(XBOX360PS3Wii)の頃に急速にその存在感を増したような印象がある。

2001年にサイトとして立ち上がったMetacriticが、IT情報の大手サイトCNETに買収されたのは2005年である。その2005年にXBOX360がアメリカでロンチしている。2008年のガーディアン誌に、Metacritic創設者Marc Doyle氏へのインタビュー記事が載っている。そこで「ここ数年で、メタスコアはネット上のゲーム報道においてとても重要な要素になっている」と書かれている。この記事を参考にするなら、メタスコアは約10年前から次第にその影響が強くなってきたと言える。やはりそれは、ちょうど前世代機のハードが普及してきた歴史と重なる。そして、ゲームは専ら家庭用ゲーム機で遊んでいた筆者のようなゲーマーにとって、グラフィックのHD化、洋ゲーの普及、日本のゲームの凋落、オンラインの一般化、モバイルゲームの台頭というゲーム業界を複雑化(?)させる様々な象徴的出来事とともにある歴史である。

■「メタスコアの谷」とは

そんな複雑なビデオゲームの世界において、メタスコアはかなり有用な情報源である。しかし、同時にメタスコアには様々な否定的な議論もある。こうした単一の数字で、作品を大雑把に語ってしまっていいのか、という理屈は最もだ。もちろん、ほとんどの人は適切な距離感を保ちつつ、このメタスコアというものに接しているように思う。しかし、普段そんな冷静な態度でメタスコアに接している人でも、メタスコアにときおり不気味な感覚を抱くことがあるのではないだろうか。

筆者がメタスコアに感じる不気味さをここでは、「メタスコアの谷」と名づけてみたい。これは何かというと「主にメタスコア80点前後の作品に感じられる、妥当で適切な点数であるのに、どこか実態を捉えきれていないと感じる違和感」を意味する。メタスコアが90点を越えるような高得点の場合や極端に低得点な場合には感じない、そんな中間的な作品に感じる違和感。それを「メタスコアの谷」と仮に呼んでみよう。

この「メタスコアの谷」という言葉は、リアルな人間に近いCGやロボットに見られるという「不気味の谷現象*1」のアナロジーから発想して名づけている。この「不気味の谷」現象自体については、個人的にとても懐疑的なのだが、これが人口に膾炙したことにはとても興味を持っている。実態はどうあれ、多くの人がこの「不気味の谷」という現象に妙な説得力を感じている。たとえそれが枯れ尾花であったとしても、「幽霊を見た」という体験自体に偽りがないのと同様、「不気味の谷」にも不思議なほどリアルな感覚があるのだろう。

「メタスコアの谷」も実体としては、「気のせい」なのかもしれない。そこで、もう少しこの「メタスコアの谷」を具体的に記述してみよう。そのために、ここ最近の話題作『ウォッチドッグス(Watch_Dogs)』を題材として書いてみようと思う。筆者は、この『ウォッチドッグス』がまさしく「メタスコアの谷」に入り込んだ作品であると考えている。まさに『ウォッチドッグス』は、2014年7月20日現在、PS4版でメタスコア80点を獲得している。

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80点と言えば、確かに高得点である。しかし、多くのゲーマーは、80点前後の作品を「よくできてはいるけれど、どこか欠けている作品」だと捉えるのではないだろうか。実際に『ウォッチドッグス』を遊んでみて、この80点という点数がそれほど間違っているとか、実態からかけ離れているとは思わない。しかし、筆者はそれでも強い違和感を感じている。これは80点程度の作品なのか?と頭の片隅にいるもう一人の私(ゲーマー)がささやきかけてくるのだ。

Amazonレビューに見られる「海外での評価の低さ」の虚像

『ウォッチドッグス』がメタスコアの谷に落ち込んでいると強く感じたのは、Amazonでのこのレビューを見たときだ。

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タイトルにあるとおりこのレビュアーは最終的に本作を「面白いです」と評価している。しかし、冒頭に次のように書いているのだ。

「海外版の評価が低かったので迷いましたが、(略)」

ちなみに海外での『ウォッチドッグス』の評価は、発売時点から、84点ほどのメタスコアを獲得しており、その後、多少は低下したものの、概ね『ウォッチドッグス』は高評価を獲得し続けている。しかし、重要なのは、このレビューが本作*2に対するレビューの中でも「最も参考になった」とされているという事実である。おそらくこれは「評判よりも確かに面白かった」と感じる人が多かったということだ。穿った見方をするなら、「ウォッチドッグスは高評価である」という事実とは異なる「ウォッチドッグスは海外での評価が低い」という実感を多くのユーザーが抱いていたことを示しているように思える*3

問題にしたいのは、このような私たちの期待の問題も含め、『ウォッチドッグス』という名作が、こうした迂遠な形でしか評価されないという環境や状況である。おそらく、素朴に「これは素晴らしい作品です」という評価のされ方よりも、「これはメタスコアより良いものです」という評価のされ方の方が、私たちにとってリアリティや説得力があるのだ。それは単に作品の問題ではなく、その作品を受け止める私たち自身の問題である。

ではこのような私たちの問題とは一体どのようなものであるのか。具体的な事例として以下の3つの『ウォッチドッグス』の特徴をきっかけに考えてみよう。その特徴とは「ドライブバイのないカーチェイス」「いつの間にかマッチングされるオンライン」「カッコワルイ主人公」の3つである。

■ドライブバイのないカーチェイス

1つ目はドライブバイである。ドライブバイとは、運転する車の中から銃撃できるシステムを指す言葉だ。GTA3以来、オープンワールドゲームにはほとんど当たり前のようにこのシステムが実装されてきた。しかし、『ウォッチドッグス』にはこの伝統的な(?)システムが存在しない。車を運転している時は、たとえ片手で扱えるピストルであっても撃つことはできないのだ。

f:id:tuquoi:20140719225837j:plain ↑ぶつけて相手の車を止めるのが基本。敵車の耐久力は低く、なぜか自車の耐久力は高いため、敵車をやっつけることはそれほど難しくない。

これが特に気になるのは、カーチェイスの追跡側になった時である。猛スピードで逃げる敵の車を止めなければならない。しかし相手の車の真後ろにつけていても、そのタイヤを撃ってパンクさせることはできない。基本的には、自分の車を相手にぶつけて停止させる。『ウォッチドッグス』でのカーチェイスについて、最初ここで大きな違和感を感じた人も多いと思われる。

しかしこの「ドライブバイの不採用」というのは、実に面白い提案でもあるのだ。

これは従来からある「ドライブバイの困難さ」に対する回答になっている。実はドライブバイというのは、かなり難易度の高い操作でもある。そもそも猛スピードで車を運転をするだけでもそれなりに難しいのに、それに加えて、銃撃の狙いを定めなければならない。ドライブバイは高い操作スキルを要求する。実際、この困難さはこれまでも多くのオープンワールドゲームでも問題になってきたと思われる。なぜならこれまで多くのゲームでこれに対する対策案が提示されてきたからだ*4

おそらく、『ウォッチドッグス』は従来の対策案とは異なる、新たなドライビング中の戦闘を実装しようとしている。それがハッキングしながらのドライビングだ。

『ウォッチドッグス』は運転中、様々な電気装置をボタン一つでハッキングして起動させることができる。例えば信号や可動橋や地中のガス管など。そうした道路にあるモノをタイミングよくハッキングすることで追跡している車や、追ってくる車を事故らせて停止させることができる。これはまさに難度の高い操作を求めるドライブバイ問題に対する1つの対策として実装されたように思われる。それほど難しい操作をしなくても、運転中に派手な攻撃を繰り出すことができる。

ドライブバイがないことを欠如としてではなく、新しい体験の提案として評価したい。おそらく『ウォッチドッグス』のグリップ力の低い車の挙動もかなり意図的である。単にスピードを出して逃げ切るのではなく、併走しやすい状況で、如何に敵の車を罠に落としこめるかを問うているのである。走り方自体が一つの攻撃や防御になるドライビングアクションを目指したのだと考えられる。

■いつの間にかマッチングさせられるオンライン

2つ目のテーマはオンライン要素だ。『ウォッチドッグス』には新鮮な仕掛けが施されたマルチプレイが搭載されている。しかしこの要素、実はオフラインプレイとオンラインプレイの境目をかなり曖昧にしたまま実装されている。だから、集中的にオフラインキャンペーンを進めたくとも、突然オンライン対戦が始まったりする(これはゲーム内で侵入と呼ばれる)。もちろん、これを拒否する設定も可能だが、人によってはこれをキャンペーンの楽しみを妨害する邪魔なシステムだと受け取るかもしれない。

なぜこのようなオフラインプレイを邪魔するようなオンラインプレイを提案しているのだろうか。それは「オンライン尾行」や「オンラインハッキング」というモードを体験するとよく分かるのではないかと思っている。

「オンライン尾行」「オンラインハッキング」とは、侵入者が突如として自分を監視し始める一風変わった対戦ゲームである。侵入されたプレイヤーは侵入してきたプレイヤーを街中から探さなくてはならない。大まかな場所は示されるが、多数いるMOBキャラのなかのどれが侵入者であるのかは分からない。もちろん姿かたちは、ランダムに決められる。白人女性の姿をしていることもあれば、黒人男性というキャラクタであることもある*5

f:id:tuquoi:20140719230751j:plain ↑赤丸で囲まれているのが侵入されたプレイヤー。画面の右下の花壇の陰に隠れる筆者(侵入者)を探して殺すため、アサルトライフルを持ってキョロキョロしている。

侵入された側は侵入者を見つけなければならない。もちろん、簡単に見つからないように侵入者は必死になって隠れる。ビルの谷間などいかにも隠れやすそうな場所に潜むのも一つの方法だ。しかし『ウォッチドッグス』ではもう一つ全く異なる隠れ方がある。それは群衆に隠れるというやり方だ。AIで制御された群衆のMOBキャラたちが街には無数にいる。その群衆の中に侵入プレイヤーは隠れるのだ。もし、群衆の中にいかにも「人間くさい」動きをしているキャラがいたら、それこそが侵入者である。このシステムが面白いのは、侵入する側は、いかにもAIっぽい動きをすることでバレにくくなるという点にある。

例えば、オープンワールドゲームにおいて赤信号で正しく停まるということはほとんど誰もしないだろうと思う。するにしても、それは単なる気まぐれだろう。しかし、筆者はオープンワールドで初めて「戦略的に赤信号で止まる」という経験をした。侵入されたプレイヤーが、侵入者である筆者の運転する車を目の前で見過ごしていった時は、言いようのない快感を感じた。交通法規を守って赤信号で正しく停まる筆者のことを相手は人間だと思わなかったのだ。人間らしく動かないことの楽しさ。これが『ウォッチドッグス』の提案する新しいオンライン体験だ。『ウォッチドッグス』のおかげで、ゲームの世界では如何に赤信号で停まることが非人間的な行為であるのかを知った。電柱や人をなぎ倒すような無茶で乱暴な運転をする方が、むしろ人間的な行為であることを逆説的に知ったわけだ。

しかし、こうした仕組みをオンライン/オフラインというモードとして明確に分けてしまったらどうだろうか。もちろん、オンラインプレイに専念したいという欲求には素直に答えることができるだろう。しかし、先ほどまで単なるコンピュータだとしてしか思っていなかった群衆、障害物としてしか見ていなかったMOBキャラが、突如として違う意味を帯びる体験は、オンとオフのモードが明確に区別されていたら味わうことができなかったかもしれない。私たちがこれまで培ってきた「当たり前」を前景化し、これまでにない新鮮な体験を味わうためには、是非ともオフライン世界と隣り合わせでなくてはならなかったのではないだろうか。

『ウォッチドッグス』のオンラインは、普段オンライン/オフラインで見知っている「ゲームの当たり前」を揺るがすような体験を提案しているのである。

■カッコワルイ主人公

最後は主人公の描かれ方についてである。『ウォッチドッグス』の主人公はなぜか微妙にかっこよくない。妙なナードっぽさがある。これまでのゲームの主人公はなんだかんだ言ってもリア充であった。いや、少なくとも元リア充であった。大抵は妻がいて、愛する息子や娘がいることが多かった。あのクレイトスでさえ元リア充である。家族の死というような強烈なトラウマを抱えることができるのが、リア充である。しかし『ウォッチドッグス』の主人公に愛する娘や息子はいない。しかし彼は姪のために戦うのである。姪である。いや、確かに姪はかわいいだろう。大切な存在だ。しかし、いきなりそれをトラウマとして抱え込み、「闘ってしまう」主人公。これは共感を得ることに成功している設定なのだろうか。

また、彼は帽子を脱がない。いや、もちろん、回想的なカットシーンでは帽子を脱ぐこともある。しかしゲームプレイをしている時は頑なに帽子を脱がない。寝るときぐらい帽子を脱いでも良さそうなものだが、彼は脱がない。頑固なのだ。

彼が変わっているのは、帽子だけでない。彼はずっとスマホをいじっている。なんと売店でジュースを買って店員の目の前で飲む時ですら、スマホをいじっている。目の前の店員がこちらを凝視しているその視線を避けるかのようにスマホをいじる。スマホを触りながらジュースを飲む主人公の姿は少しだけいじけているようにさえ見える。

f:id:tuquoi:20140719104236j:plain↑店員の目の前でもスマホを見続ける主人公。会計の時、こういう態度をリアルにしてしまっている人も、最近では多いのではないだろうか。

あと、彼は基本的に人の話を聞かない。死んでしまった姪の母親である妹から「危ないことはやめてくれ」と言われても「いや、俺が守る」と謎の応答をして憚らない(結局、その後、守りきれず、妹は誘拐される)。彼は中二病的世界観で動いている。おそらくトラウマが過ぎてしまい、自分が何をやっているのか良く分からなくなっているのだろう。

そして主人公が着替えられる衣装のバリエーションが凄い。なぜならほとんどテクスチャーと色以外に違いがない。

f:id:tuquoi:20140719232403j:plain ↑色とテクスチャ以外の変化に乏しい衣装の数々。ゲームにおける衣装替え一般に対する皮肉のようにしか思えない。

どの衣装もあまりに同じで、これは現代アート的な何かなのかと最初疑ったほどだ。日本の美少女ゲームで見られた判子絵キメこなに近いシュールさを感じる。

以上の様な奇妙な設定や描写をどのように感じるだろうか。筆者は、これはとても革新的だと感じた。実は上記のような不自然さは、『ウォッチドッグス』を製作したUBIモントリオールの別の作品『アサシンクリード』シリーズでも既に見られていた特徴でもある。同じような衣装ばかりを着て、フードを被り、妙に気取った態度や思わせぶりな発言をするアサシン。しかし『アサシンクリード』がファンタジーでいられたのは、あの時代設定や背景があったからだ。中二病的でも許される文脈があった。しかし『ウォッチドッグス』は現代である。おそらく開発側としても、これまでの「かっこつけ」をそのまま「身近な現代社会」に配置してしまっては明らかに「おかしい」ことに気付いているのではないか。しかし、この違和感こそが『ウォッチドッグス』の革新性になっているように思う。

よく他のゲームとの違いを強調するため、主人公について「これまでのゲームに良くあるようなヒーロー的な主人公とは違い、彼にはとても弱い側面もあり……」などど語られることがある。しかし『ウォッチドッグス』の主人公の「こじらせ具合」に比べればかわいいものである。これまでのどんなゲームの主人公よりも「残念な」主人公だ。しかし、単にかっこ悪いのではない。かっこいいのか悪いのか、その境界線を曖昧にするという挑戦的なデザインになっている。

もちろんこれは等身大の主人公を描こうというのでもないだろう。『ウォッチドッグス』の意匠には、倒錯しているがゆえの現代的なリアリティを感じる。もはや「正しいヒーロー」を現代社会においてリアルに描こうとすること自体が、とてつもなく非リアルであるということを『ウォッチドッグス』は訴えているように思える。なぜ現代的なヒーローは全身タイツの変態ばかりなのか。現代では変態でしかヒーローでいられないという矛盾を『ウォッチドッグス』は素朴に描いているのではないだろうか。

■メタスコアと実感を隔てる道路は一方通行ではない

上記に挙げた3つの特徴は、どれも人によっては欠点になるかもしれない。いや、事実欠点として責めることが妥当であるのかもしれない。しかし私たちゲーマーは、そろそろ、そうした答え合わせから自由になってもいいだろう。

もしかしたら、私たちゲーマーはメタスコアというものを心の底で怖れているのではないだろうか。なぜなら、得点が異常に高いゲームだけを買っていれば、確かに質の高いゲームを効率的に味わうことができるからだ。しかしそれでは猿である。ボタンを押せばエサが出てくる。そんなボタンを押す猿になってしまう。私たちは心の底で、こうした事態を怖れ、その象徴としてのメタスコアを畏怖しているのではないか。

だからこそ、「メタスコアの谷」には、私たちが人間として積極的にゲームを味わうことを可能にする多様性が潜んでいる。『ウォッチドッグス』が80点のゲームとして妥当であることと、その点数に感じる物足りなさや違和感は容易に両立するのだ。重要なのはそれぞれの判断のブレを楽しむように、軽快に行ったり来たりできることだ。

人によっては、『ウォッチドッグス』を散々楽しくプレイした後で、なぜこれが80点なのかと答え合わせをするかのように、様々な欠点を後から発見した人もいるだろう。しかし筆者はそれが誤りだとは思わない。むしろ、メタスコアのおかげでそのような批判的な視点を獲得できたのだと考える。だから、答え合わせが悪いなどとは全く思わない。重要なのはそういう方向性にだけ閉じてしまわないことだ。道は一方通行ではない。メタスコアよりも「私が感じた実感」の方が得点が高い部分だってあるだろう。であるならば、それが何なのかと逆に問う道もあるはずなのだ。谷に落ち込むだけが正しいのではない。そこから這い上がる道もまたあるはずだ。

私たちがゲームを自らの意志で楽しむための秘境は、「メタスコアの谷」にこそ、待ち構えているように思う。あなたにとってメタスコアの谷に落ち込んだゲームは何だろうか。それはかけがえのない「あなたのための魅力を備えたゲーム」ではないだろうか。

*1:CGやロボットが、リアルな人間に近づくにつれて通常は親近感を抱くが、ある一定レベルまでリアルになると途端に嫌悪感を感じる現象。不気味の谷現象 - Wikipedia

*2:ここではPS4版の特典なしの通常版ウォッチドッグスを対象にしている。なお限定版については、また別のレビューが「最も参考になった」となっていることを念のため付記する。

*3:もちろんこれは「期待したよりもメタスコアが低かったのだ」と解釈できる話でもある。何より『ウォッチドッグス』は1年以上前から期待されたトリプルA級 の大作だった。当然似たような作品である『GTA V』に比肩しうるような作品であることが期待されていた。そうした期待に比べれば、80点というメタスコアは低いのかもしれない(一方『GTA V』は97点という驚異的なメタスコアを獲得している)

*4:例えば、運転手が別にいて、主人公はシューティングに専念できるようにする、という対策案がある。セインツロウシリーズでは、主人公に無限に弾が出るロケットランチャーが与えられ、敵を撃つことに専念するパターンが多い。同乗者は別にいて、そのNPCが運転を担当する。また別の対策としては、ドライブバ イの時は強い視点補正がなされるパターンがある。相手の車に狙いをつけると、自然とレティクルが当たるように強く補正されることで、難易度の軽減を図っている

*5:この姿は相手から見たときだけ普段と違うキャラクタになっている。自分のディスプレイには普段通りの主人公の姿が映っている。この表象の非対称性もとても面白い