ビデオゲームとイリンクスのほとり

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人間と見分けがつかないAIでも、対戦ゲームにおいて苦手なことは何か?

以前ツイッターで書いたことをまとめました。(まとまってない)

 

AIが人と見分けがつかない動きをするようになった時に、人は果たして「相手がAIだ」と分かっていても満足するのだろうか。人は対戦の中身だけではなく「(人であるとかAIであるとかの)肩書き」とも対戦しているのではないか。そんなことを下記の記事を読んで思った。


[G-Star 2018]AIの発展により,オンラインゲームは「プレイスタイルを問わず皆が満足できる」ものになる? Nexon Korea副社長にインタビュー

 

対戦相手の「肩書き」


人が対戦の中身だけではなく、対戦相手の「肩書き」も判断して、その対戦の楽しさを評価している事は、何もAIに限った話ではない。

 

例えば、小学生だと明らかに分かる対戦相手に大人が連勝しても、その大人は素直に喜べない。それは対戦の「質」が低いからという理由だけではない。なぜなら、同じような「質」の戦いであっても、相手が明らかに大人であれば、そのプレイヤーはもっと素直に喜べたかもしれないからだ。対戦の「質」以上に「肩書き」は重要な評価の要素になりうる。それは、ある意味「不純な」評価なのかもしれないが、そういう評価が事実上なされることは多いだろう。


対戦相手がAIだとAI的な動きをするから、その対戦に面白味がない、ということはもちろんある。しかし、それはAI技術が発展途上であるからだ。では、仮に人と見分けがつかない動きをAIがしたらどうなのか。どれだけ人に近い動きをしても「相手が負けても感情的に悔しがることが絶対にないAI」であった場合、人間相手に勝つ興奮に比べると少々劣った喜びしか感じられないかもしれない。

 

ここで一つ考えるのは、対戦相手がAIなのか人間なのかをプレイヤーに知らせることは制作サイドの倫理として今後どのくらい求められるか?ということだ。

 

例えば対戦相手であるAIが本当に人間と見分けがつかない動きをするようになった時に、そのAIをAIだと素直に言わずに人間であるかのように(制作サイドの意向により)詐称したとする。プレイヤーはAIよりも人間に勝てることにより強い満足度を感じるのならば、詐称することはある意味正しい。しかしそういうやり方には強い欺瞞も感じる。仮に後で「いやあれは人間ではなくAIでした」と言われたら、きっと不快になるプレイヤーもいるだろうし、少なくともガッカリすることはあるだろう。積極的に人間だと詐称しなくても、対戦相手が人間なのかAIなのかを明示せず、ごちゃ混ぜにするという方法なら、より採用しやすいかもしれない。しかしやはりそれも僅かに欺瞞を感じさせる。

 

そういうプレイヤーを騙すようやり方を避けるとなると、AIをより人間と同じような存在だと感じさせる方向に努力は向かうかもしれない。例えばAIと対戦する時、そのAIが何者であるのか全く分からなければ対戦相手として味気ないと感じる。しかし仮にそのAIが、金属製のカラダを持ち、隣に座って「ヨロシクオネガイシマス」などと片言であっても喋るロボットだとしたら、どうだろう。そんなAIであるならば、人間と対戦する時の醍醐味に多少は近いものを感じられる。たとえAIであっても、その名前、アバター、対戦履歴、プレイスタイルなどを示すことで人格を演出することができるかもしれない。

 

AIであっても人格を持っていると感じさせるならば、対戦相手として受け入れたくなる。ただ、これは逆に言うと「相手が人間である」という実に些細な情報が、いかに多くの文脈をプレイヤーに与えているかということを示している。この情報を本記事では「肩書き」と呼んだが、この「肩書き」をどのようにして構築していくかが今後のゲームにおけるAIのカギになるかもしれない。はたして、そういうAIの人格を育てることと、手っ取り早く「本物の」人間を大量に動員することと、一体どちらが経済合理的に有利なのだろうか。正直言って分からないなと思う。

 

対戦における接待

 

また、対戦ゲームにおける接待ということについても考えてみたい。接待麻雀とか、接待ゴルフなど、それはゲームとしてはいささか不純なセッションである。しかし満足度の高いゲームセッションを意図的に構築することを接待的と表現することもできる。接待には微妙なニュアンスがある。このことは、別の言い方として次のように言えないだろうか。接待は「接待であるということを明示的に言わないこと」が接待の成立条件になると。そこで、AIに接待されて嬉しいのか考えよう。私は、対戦相手がAIであると伝わることは、同時に「接待であることが伝わってしまう」と考える。

 

AlphaGoのような事例を待つまでもなく、AI(コンピュータ)が人間より強いプレイヤーになることは以前から自明であった。そして、ハードウェアもソフトウェアも更に技術発展していくことを考えると、このことは今後更に多くの人に認識される当たり前の事実になるだろう。それは裏返せば、仮に絶妙に良い試合となって人間が勝てる対戦相手(AI)がいたとしても、その対戦相手(AI)は本気で私たちプレイヤーに勝とうとはしてないことを示してしまう。つまり接待していることが常に明らかになってしまう。

 

しかし、対戦相手が人間である場合なら、プレイヤーは、わずかであっても相手の「本気」を信じることができるし、接待でない可能性を信じられる。「接待してもらっちゃったなー」という接待相手に対して、たいていの大人は「いやいやそんなことないですよ。お強いですねぇ」と答える。たとえそれが茶番だと分かっていても人間ならそう言えるし、成立するのだ。しかし相手がAIでは茶番をすることが難しい*1。それゆえ接待が接待として成立する条件を満たさなくなってしまう。

 

結局のところAIとの対戦は昔ながらの「レベル3までのCPUには勝てたぞ。次はレベル4のCPUだ、頑張ろう」というスタイルと根本的には変わらなくなってしまう*2。そこで絶妙な難易度曲線を提供することもまた接待の1つの形であろう。しかし、あからさまに接待されているという事実を受け入れた上で、それでも接待を受け続け、継続的にそれを快楽として享受し続けるというのはやや倒錯的でもあり、多くの人にとって難しいのではないかと考える。

 

AIで何が解決されるのか

 

AIと対戦することにおいては「肩書き」の構築に難しさがあり、また「接待」の成立にも困難がある。今後AI技術が発達するとして、ゲームの対戦でAIを使うことにより、結局何を解決したかったのかが問われるようになるだろう。例えば、プレイヤーの数を充分に確保できない時の保険としてのAI(ボット)には一定の需要があるかもしれない。しかしそれは限定的な話だろう。基本的には、確率的により多くの人が満足できる戦い(セッション)を数多く成立させるためのAIが求められているのではないだろうか*3。だとすると、そこにはAIであるがゆえの根源的な難しさが「肩書き」と「接待」の問題としてあると思うのだ。

 

一方で、本稿では対戦ゲームに限定してAIについて書いているが、協力プレイでは別かもしれない*4。協力プレイ時のパートナーとしてAIを用いるならば、上記に挙げた「肩書き」と「接待」の困難さをいくらか減らすような気がしている。全く個人的な予想であるが、AIはこれから倒すべき相手ではなく、共に協力する相手として存在感を増していくのではないだろうか。

 

 

*1:人間の場合は「調子」というものがあると信じられる点も対戦相手が人間であることの利点かもしれない。どんな強い相手でも調子の悪い時がある。たとえ調子が悪くても、普段強い相手なら相手が接待してくれたわけではなく、調子が悪かったのだ、と考えることで、接待された時よりはその勝ちを素直に喜べる。そんな考え方もできるだろう。しかしAIだと途端にそういう理由付けは難しくなる。

*2:自分の実力が向上していく喜びは接待を受ける喜びとは別の喜びだろう

*3:それはほぼ経済的なコストの問題に思えてしまうがゆえに、個人的にはゲームのAIの話にはロマンが感じられない。そうではない話になることを期待している

*4:例えば協力プレイで共闘したAIと対戦するとなると相手に人格をより感じられるかもしれない。また、段々とプレイが上手くなっていくAIなども考えられるだろう