ビデオゲームとイリンクスのほとり

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『プレイ・マターズ 遊び心の哲学』感想文

面白かった。特に最後の方のチャプター7「デザインから建築へ」とチャプター8「コンピュータ時代の遊び」の各章は、ほとばしるドライブ感が楽しい。挑発される気持ち良さがあった。

 

本書はゲームについての本ではなく、「遊び」を主題としている。そして、遊びに力点を置いた上で、ホイジンガやカイヨワとは違う視点で遊びを捉えている。その特色は次の7つの特性に現れている。

 

【遊びの七つの特性】
・遊びは文脈に依存する(contextual)P22
・遊びはカーニバル的なものであるP30
・遊びは流用的である(appropriative)P30
・遊びは撹乱的である(disruptive)P34
・遊びは自己目的的である(autotelic)P36
・遊びは創造的である(creative)P38
・遊びは個人的なものである(personal)P39

 

これらの特性はホイジンガやカイヨワの議論では扱いが低かったように思えた「遊びの遊びらしさ」をすくい取っているように感じる。遊びの持つ「不真面目さ」とはどういうことなのか、それをかなり真っ直ぐに表現してくれているように思った*1。上記の7つの特性の中で最も頻出するのは「流用的である」という表現だ。どう解釈していいのか難しい面もあるが、だいたいにおいて「本来の目的とは違うあり方で表現したり用いたりすること」と捉えて読んだ。この(本来の目的との)「ズレ」こそが遊びの本質的な1つの側面を示していると思った。Chapter2「遊び心」の章でも言及されるが、この「ズレ」は真面目な行為に対してだけでなく、遊びにおいてもまた発揮される。このことは、次に挙げるような遊びを「両義性のゆらぎ」として捉える記述とも関わるのではないだろうか。

 

「秩序と混乱の戦い、創造する意思と破壊する意思の戦いである(P28)」

「抵抗と服従のあいだの絶えざるダンス(P90)」

「いずれの活動も、複数の境界、複数の意味のあいだを行き来できるという両義的な性格を持っているからである(P132)」

「遊びの美は、しばしば統制と混沌の緊張関係のうちに生じる(P133)」

「本書では遊びを、流用とそれに対する抵抗のダンスとして、〜(P155)」

 

遊びが流用的であるとすると、そのあり方はかならず「本来的なもの」を前提とする。常に「本来」を念頭に置きつつ、そうでないものを志向する行為を遊びと言うならば、遊びが即自的に遊びであるということはあり得ないのかもしれない。それがつまり「両義性のダンス」というような表現になるのだろうか。そしてこのダンスというのは常に二つのフラットに並んだ項の往復だけではなく、よりメタ的に発展していくケースもある。遊びをさらに遊ぶことで、また別の遊びになるような場合がある。こう考えると、遊びの持つ「破壊力」は、なにかこう徹底したところがあると感じた。

 

Chapter7「デザインから建築へ」のゲームデザインに対する論考も読んでいて非常にワクワクした章だった。これは最近のAAA大作のビデオゲームを遊ぶゲーマーにとって非常にアクチュアルな議論ではないだろうか。あまりに整備されすぎてプレイヤーを「そのようにしか動かせない」ようにする遊びは、はたして本当に遊びなんだろうか?という問題とも思えたからだ*2。高度にデザイン(設計)されたゲームを遊んでいるときに、「俺はゲームを遊んでいるのか、ゲームに遊ばされているのか?よく分からない」という感覚に陥ることがある。当たり前のように「遊び」だと思っているビデオゲームが「遊びらしく無い部分」を孕んでしまう。それをゲームデザインという言葉から炙り出している点が面白い。遊びの主体は誰なのか?というのは、重要な問いだと思った。

 

また、この点はChapter8「コンピュータ時代の遊び」にもつながる。コンピュータによって実装されるルール、その「システム」は「遊び」と決定的に違う部分がある。

 

「遊びはパフォーマンスであり、事を起こすことである。それに対して、「システム思考」は還元であり、事を収めることである。(P153)」

 

デジタルゲームアナログゲームを比較した時に、ルールが幾分自由になるアナログゲームの方がより「遊び的」であるように感じるのは、ロマン的なものの見方もあるだろうが、こうした「システム思考」の侵入度合いが、デジタルゲームの方が高いからだとも考えられる。

 

そして何よりChapter8で面白いのは次のテーゼだろう。

 

「あらゆる電算処理は遊びである(P159)」

 

コンピュータがプログラムされて動く様が、遊びとして解釈される。「プログラムが機械を流用してプログラム自身を表現する」のは、遊びが何かを別のものとして流用して自己表現することと類似している。それは個人的であり、表現的である。本書では明確に指摘されていないが、遊びの自己目的的な特性もまた、コンピュータの多目的であるがゆえの「無目的性」に近いとも感じた。コンピュータをハックする「遊び」が、コンピュータというものの特性とも繋がるこの議論は、なぜこんなにもコンピュータと遊びは相性が良いのかという疑問に一つの考える道筋を与えられたような気がした。一方で先述の「システム思考」と「遊び」の決定的なちがいを合わせて考えると、まだまだこの辺りも色々と議論を深めていく余地がありそうで面白い。

 

ゲーム研究では置いていかれがちな「遊び」の側面を強調してくる本書は、ゲームというものを考える上でも大きな刺激になる本だと思った。

 

 

*1:特にカイヨワの議論について言えば、遊びの不真面目さという特性を全く無視しているわけではないし、扱いが低かったというのは言い過ぎかもしれない。しかしシカールの方がもっと直接的にそういう「遊びらしさ」に踏み込んでいると感じる。例えば、カイヨワの『遊びと人間(講談社学術文庫)』のP89にある「遊びと日常生活がまじりあうようなことがあれば、遊びの本質そのものが堕落し、破滅するおそれのあることは、たやすく予見できるのだ」という考え方とシカールの議論は大きく異なっていると思う。

*2:自分は読んでいて『レッド・デッド・リデンプション2(RDR2)』を想起した