ビデオゲームとイリンクスのほとり

ビデオゲームや映画を中心としたレビュー・コラム記事です。 Twitter ID: @turqu_boardgame

映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

「ソシャゲがダメな理由」なんて、そんな都合のいい普遍的な理屈など存在しない

わたしは、いわゆる「ソシャゲ」が嫌いだ。「ソシャゲ」という呼び名が良いかはよくわからない。「ガチャゲー」でもいい。とにかく「あの手」のゲームが好きではない。ちょっとばかし憎んでさえいると言ってもいい。しかしこんなわたしでも、ネットを見ていて常々思うのは「ソシャゲが嫌いなこの気持ちを正当化してくれる、都合のいい理由なんか、そんな簡単にはないぞ」ということだ。

 

やれ「ソシャゲはゲームとして低レベルだ」とか「絵柄で釣ってるだけ」とか「射幸心を煽ってる」とか「商売としての倫理がなってない」とか、まあなんでもいいのだけれど、そういう批判によって、「ソシャゲ」という一つのジャンルをみんなが納得するような普遍的な理由でもって貶めることができるという幻想を早く捨てるべきだ。そういう批判はすべてソシャゲ嫌いなハードコアゲーマーの愛する「正しいゲーム」にもいつかど真ん中でブーメランとして返ってくる。まあ、返ってこようとこまいとそんな事はどうでもいい話なのだが(本稿の主旨として)。

 

僕たちソシャゲ嫌いが辛うじてできることは次のことだ。

 

自分の嫌いを追い続けること。決してゴール(最終解決)に安易にたどり着かないこと。

 

それ以外にはやれることはない。ちなみに言えば、好きな理由についても同じように安易にゴールに至ってはいかんだろうと思う。が、それはまあ別の話だ。

 

ともかく、一番手堅い方法は(ジャンルではなく)個々の作品ごとに批判することだろう。それは多分最も正しい姿勢だと思う。しかしまあ、なかなかそれは難しい。だいたい嫌いなゲームをまじめに批判するまでやり込むのは、なんというか、それはそれで不健康な行為だ。そうなると普通は「分からないなら黙っておく」が正しいわけだが、これはこれでストレスも溜まる。適切に沈黙できる立派な人間ばかりではないし、わたし自身もそういうことが上手くできない。そこまで理解した上で、ではどうしても何かを表現したいならば、どうしたらいいのだろう。

 

それはもう素朴に「嫌いである」ことの無根拠さから逃げることなく、「嫌いである」と語るのが良いだろう。嫌いであることの理由や根拠。これが曲者だ。理由や根拠を述べるなということではない。その理由や根拠によって「わたしの『嫌い』が正しいものになる」と考えないようにすべきだということだ。だいたい、いかにソシャゲが駄目であるかを合理的に説明できると思うのは、ある意味「逃げ」である。自分のこの嫌いな感情を客観的に権威づけ、「他人任せ」にし、主観的であることから「逃げ」ようとするからである。「嫌い」は数学の公式のように無人称的に成立するものではない。わたしやあなたや誰かが「嫌う」からこそ、初めて生じるものだ。

 

しかし、理由なく何かを嫌うのは難しい。だから、たとえボロボロの論理でもソシャゲが駄目な理屈があると飛びつきたくなる気持ちは理解できる。しかしそういう中途半端な理由付けは、自分を縛ることになる。なぜならいつかあなたもわたしもソシャゲが好きになるかもしれないからだ。「おれは絶対にソシャゲなど好きにならない」そう思うのは自由だ。しかし、「今は嫌いだけど、もしかしたら好きなることもないわけではないかもしれない」そう想像するのが、ゲーム好きのサガではないか。色んなスマホゲームに裏切られてきた過去が実はどんなソシャゲ嫌いゲーマーにもあるのではないか。むしろスマホにも期待していたかつての自分の方が「ソシャゲ嫌い」に凝り固まる今の自分より、遥かに懐が広かったのかもしれない。人間は変わりうると想像することは絶対に損ではない。「変われ」と言うのではない。かもしれない、で十分だ。

 

仮にソシャゲのある特定の性質が嫌いな理由になるのだとしよう。しかしその性質を持ったあらゆるゲームを嫌う自信があなたにはあるのか。もし「ある!」と自信を持って言えるのならば、端的にあなたは勉強不足なのかもしれない。どんな趣味であっても、多数の作品に触れていると「なんで、おれはこの作品のことが嫌いになれないんだ?あんなに嫌いな要素があるのに!」と思うことがある。そういう自分の中の「他者」を発見したことが一度でもあるのならば、嫌っていい理由に簡単に安住してはいけない。少なくとも、普遍的にみんなが嫌うべき規範的な理由があるのだと思ってはいけない。

 

あなたの「嫌い」の根源的な理由づけは存在しない。しかしである。理由がなくても、あなたがソシャゲが嫌いだということは最大限に尊重されるべきだ。理由がなかったら嫌ってはいけないなどという法はない。嫌っていいのだ。わたしも嫌いだ。その理由を追求するのも良い。しかし簡単にネットに転がっている、Googleで検索したらすぐに出てくるような脆弱な理由付けに満足してはいけない。無根拠であることを、怯える必要はない。嫌いなものは嫌いでいい。堂々と「根拠はないが嫌いである」と言えばいい。

 

根拠なく嫌うことは傲慢にも見えるかもしれない。いやそれは傲慢である。しかし傲慢で良いのだ。だって趣味なのだから。中途半端な理由付けで自分の嫌いを正当化*1するより、よほど「正しい」と思わないだろうか。

 

 

 

*1:当たり前のことなので、強調するのも野暮かもしれないが、自分の「嫌い」を分析することにはとても意味があると思う。正当化というのが何を指すのかは明示していないが、「『嫌うべき』というニュアンスを帯びる」ぐらいの意味で本稿では使っている