ビデオゲームとイリンクスのほとり

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スマホゲーム『フローレンス』の逆説的な表現方法の素晴らしさについて

2018年にスマホでリリースされた『フローレンス(Florence)』。本当に素晴らしいゲームで、多くの人が絶賛するように将来にわたって何年も参照される傑作だろう。

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日常生活の何気ない動作をささやかなインタラクション*1で表現したところに本作の特徴がある。これは言ってみれば「文体の発明」であったことが多くの人にインパクトを与えたのだろう。今までデートでの会話をああいうジクソーパズルを使って表現することで「初めてのデートでのぎこちなさ」や「段々と気のおけない関係になっていく様」をプレイヤーに感じさせたことはなかったのではないかと思う。

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本作のこうした特徴の素晴らしさには私自身も異論はないのだが、本稿では少し違う観点、主に「インタラクションの停止」ということについて書いてみたいと思う。

インタラクションの停止効果

先述のデートでの会話をジクソーパズルで表現する箇所もそうだが、通勤電車でSNSを見る場面も秀逸である。

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SNSのフォロワーの投稿画面をしっかり確認することなく機械的に「いいね!」や「お気に入り」を押すこの日常的な行為は、ゲームを進めるための機械的・作業的な行為との類似性を感じさせる。物語を味わうタイプのゲームでよくある「行為で結果が変わる面白さ」を提供するデザインとは異なり、『フローレンス』で重要なのは「行為そのもの」である。*2

しかし、この「行為の結果」でなく「行為そのもの」に重点を置く、というのは『フローレンス』というゲームだけの専売特許ではない。他のゲームでも例えば強い敵を配置するのは、単にその強敵に勝つという結果(物語展開〕にだけ意味があるのではなく、「勝つのに苦労した!」という行為そのものから味わう感覚や感情にも重点が置かれている。しかし、『フローレンス』が特徴的なのは、「何かをする」ということだけではなく、「何かをしない」「何かをさせない」ことが巧みに利用されている点ではないかと思う。これをわたしは『フローレンス』における「インタラクションの停止効果」と呼びたい。

以下に、そうした「インタラクションの停止効果」の具体的なシーンを3つ挙げよう。

 

①職場のシーン

チャプター11では、同棲を始めて恋に浮かれるフローレンスの姿が描かれる。その際、職場でのフローレンスの仕事の様子が描かれるのだが、この描写はゲームの前半(チャプター1)と同じ画面下部に金額のパネルがある画面構成である。チャプター1の時は、パネルの金額の部分をペアになるように選択するインタラクションが必要であった。

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しかし恋に浮かれるチャプター11で同じ描写が出てきた時は、金額部分がプレイヤーに押される前に自動的に選択され、あっという間に仕事の場面は終了してしまう。

これはあえてプレイヤーによるインタラクションを停止することで、「恋に夢中になっているフローレンスは仕事での体感スピードも速い」ことを示している。かつてチャプター1でプレイヤーにさせていた「つまらない仕事」が、チャプター11では勝手に終了してしまうことで、その幸せぶりをプレイヤーに想像させることに寄与している。これはプレイヤーが「行為できない」ことを巧みに利用した演出と言えるだろう。

②恋の終わりのシーン

2人の恋が終わるシーンでもインタラクションの停止効果を見ることができる。喧嘩をしてしまった2人が描かれる場面は2回あるが、2回目の喧嘩シーン(チャプター14)では、2人が背中を向けあったままベットで寝ている姿がジグソーパズルを組み立てるインタラクションとして描かれる。

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しかしこのパズル、ちゃんとした絵として組み立てることができない(凹凸が合わない)。パズルとして完成しないようになっているのだ。チャプター15の破れた写真を組み合わせるインタラクションも同様に、どうしても完成することができない。このように「ゲームとして解決できない」感覚をプレイヤーに味わわせることで、この恋がもはや修復不可能なことを示している。これもまたインタラクションの停止を活用した演出と言えるだろう。*3

③成功へと至る絵を描くシーン

フローレンスは絵を描くことを趣味としている。その絵を描くという行為は度々、プレイヤーのインタラクションによって表現される。例えば、チャプター7の恋人の鉛筆画を描く場面がそうだ。また、同棲を始めるチャプター11でも同様のインタラクションを行うことで恋人の絵を描く。すこし趣向は違うが、チャプター2の子供時代にヨットの絵を描く場面では、ヨットの絵に様々な模様を置くというインタラクションを行う。


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しかし、彼女が大きな成功を手にするチャプター19以降の「絵を描く」シーンでは、全くプレイヤーに「絵を描く」という直接的なインタラクションをさせない。なぜ恋人の絵を描く時はインタラクションをさせたのに、社会的な成功に繋がる絵を描く場面はインタラクションさせないのだろう。これが「ゲーム」であるなら、むしろ成功こそをプレイヤーのインタラクションと共に味わうようにしただろう。しかしあえて『フローレンス』はその逆を行なっている。

これは、「社会的な成功」であることが、インタラクションを伴うことで「嘘くさく」なることを避けたからではないだろうか。『フローレンス』は最初から最後まで、とにかく「日常的な」インタラクションをさせてきた。「こういうのってよくあるよね」を感じさせるためにインタラクションが用いられてきた。ここでプレイヤーのインタラクションによって彼女が成功を手にしてしまったら、これまでのインタラクションとのバランスが取れない。これまでの手慰みで描いていた絵とは違うことを示すために、あえてプレイヤーによるインタラクションは停止させられたと考えられる*4

これら3つのシーンに共通するのは、インタラクションの停止が「非日常」を描くことに極めて効果的に使われているということである。①では恋愛に舞い上がる幸福感を、②では恋が終わるいたたまれないほどの緊張感を、③では奇跡的とも言える社会的な成功を、それぞれ「インタラクションの停止」によって表現している。

『フローレンス』が表現するもの

『フローレンス』はゲームという媒体でありながら、ゲームが得意とするような「問題の解決」「恋の成就」「社会的成功」というものをゲームらしいインタラクションで描いていない。これはゲームという表現形式が、そういった華々しい成功や達成を描きがちであることへの巧みなアンチテーゼになっている*5。ゲームは「非日常」を描くことが得意なのだという固定観念を『フローレンス』は見事に転倒している。そして、むしろ「日常」を描くことにインタラクションが用いられ、「非日常」を描くためにインタラクションの停止や「できない」ことが用いられる。この逆説こそが『フローレンス』の物語としてのリアリティを担保する。ゲームは夢物語や壮大な絵空事を描くためだけのものではないということ。むしろインタラクションは「現実そのものなんだ」ということ*6。そしてなによりプレイヤーの干渉できないところに「物語がある」ということを、『フローレンス』は表現している。

このゲーム的逆説を巧みに示したところに、『フローレンス』の特筆すべき達成があるのではないだろうか。

 

*1:本稿では物語を進めるために単にページを送るだけではないようなプレイヤーの行為全般を「インタラクション」と呼ぶ。厳密に「単にページを送ること」と「そうではないもの(インタラクション)」を分けるのは難しいところがあるが、ページ下部にある次ページを開くための矢印を押すとか、画面をスクロールして次コマに移るなどの行為は前者と考えている。フィクション世界にある事物(の表象)を操作するような行為は後者と考えている(時計の針を動かすとか棚に飾っているぬいぐるみをうごかすとか)。

*2:例えば、チャプター10において、同棲生活を始めるにあたり、誰の持ち物を優先的に棚に置くのか、どんな風に置くのか、その行為自体に意味(同棲を始める恋人気分の模倣)があるのであって、自分の物より恋人の物を優先しようがしまいが、物語にはなんら影響を与えない

*3:この演出に似たものは既存のゲームでも存在しており、例えばRPGなどの「負けイベント」と呼ばれるものはこの演出に近いものであるだろう。

*4:もう一つインタラクションさせなかった理由として「彼女自身の意思」を示すためだったという解釈はあるかもしれない。プレイヤーの行為すら干渉させないでフローレンス自身に描かせるために、あえてインタラクションを排したという考え方もできそうである

*5:ときめきメモリアル』の藤崎詩織をラスボスと呼び、恋人になることを「攻略する」とか「倒す」と呼ぶ感覚との違いを思い起こしたい

*6:この辺りは松永伸司『ビデオゲームの美学』(慶應義塾大学出版会,2018)の第七章の議論から発想を得ている

『アストラルチェイン』ゲームとして「純粋」じゃないところが好きという感覚について

2019年。ニンテンドースイッチで発売された『アストラルチェイン』。素晴らしいアクションゲームだった。「拮抗」難易度で一通りクリアしたが、そこまで難しくなかったため、多少のガチャプレイでも進めることができて非常に気持ちよく遊べた。発売前は『ニーアオートマタ』っぽいと聞いていて不安だったのだけど(ニーアはアクションが単調に感じて2周目の途中で辞めてしまったから)、本作は見事なプラチナゲームズ集大成という作品だった。

 

アクションゲームとしての素晴らしさは多くのブログや記事、SNSでも言われていることだが、個人的にはアクション部分以外の要素の「ちょうど良さ」が気に入った。と言ってもストーリーが良かったということではない。ストーリーテリングや脚本はイマイチ(まあ普通)だったのだが、いわゆる捜査パートやメインのアクション以外のゲーム部分がとても良かったと思ったのだ。

 

ネットなどでプレイした人たちの感想を見て「もっとアクションやバトルだけをさせて欲しい」「捜査パートが邪魔」といった意見があることは知っている。そしてそういう感想が出ることもよく理解できる。それだけバトルの出来が良く、楽しいということでもあるだろう。そうした感想を理解しつつも、しかしそれでもやはりバトル以外のゲームパートが本当に素晴らしいと思うのだ。このように思うのはちょうど直前まで『ファイアーエムブレム 風花雪月』を遊んでいたことも関係する。『風花雪月』では、メインとなるストラテジーパート以外の学園での育成パートの楽しさがよく言及されている。しかしこの学園での育成パートはゲームとして見ると結構単調で、遊びとしては決して洗練されているものではない。ありきたりだし、凡庸な出来だ。しかしこれがメインのストラテジーバトルと融合することで、非常にプレイヤーを楽しませる要素になっている。奇妙な話だが「ゲームとしてそれほど面白くない」ことがむしろゲーム全体の楽しさに有利に働いているのではないかと思わせるところがある。

 

『アストラルチェイン』もその点で少し似ている気がする。激しいバトルアクションが一番のウリであることは間違いないが、突然倉庫番のようなパズルゲームを遊ばせたりしてくる。また古臭いアドベンチャーゲームのような聞き込みと証言集めと推理のような遊びを提示したりもする。こういう一見すると「邪魔」にしかならなさそうな要素が、ほどよくプレイに起伏を与え、ゲーム作品の彩りとしてプレイヤーを楽しませてくれる。とはいえ、作り手としてもこうした要素が「邪魔」なものとして嫌がられる可能性は十分に想像できただろう。だからこそ、この「そこまでよくできてるわけではない遊び」が、なぜこんなにもいい感じに楽しめる要素になっているのかは少々不思議でもある。

 

物語をクリアすると、エピローグ的なチャプターが開始する。このチャプターは物語本編と違ってひたすらバトルを繰り返す趣向になっている。これはこれで楽しいのだけど、ただバトルを繰り返していると、どうも虚しさなのか飽きなのか、よく分からないが負の感覚を抱く。もちろんバトル自体は楽しい。楽しいのだけど、どこか物足りない。これは個人的な趣味が入る話なのだが、私はゲームにオマケ的に付いてくるアーケードライクなゲームモードというのが苦手だ。ひたすら敵を倒すモードとか、あの手のモード。エンドコンテンツ的に備わっている場合もあるのだけど、どうもやる気になれない。ゲーム本編の2周目を遊ぶ方が、なぜか肌に合っている。どうもそういう「純粋なゲーム」が苦手なのだ。ストーリーがそういう意味で「濁り」として機能する場合も多いのだけど、それ以外にメインとは違うタイプの遊びがそういう「濁り」として働いているものが好きだ。少し昔の日本のRPGなどで、突如現れるパズルゲーム(遺跡の中の石像を移動させて上手いこと扉を開ける、みたいなやつ)が好きなのだ。そういう異物の存在にゲームを遊んでいると不思議な安心感というか、ホッとした感覚を得る。

 

『アストラルチェイン』にはそういう古いけれど、どこかゴチャゴチャとした雑多なるゲームの良さを感じ、妙にノスタルジーを刺激するところがあるなぁと思った。

『ファイアーエムブレム 風花雪月』は期待以下の作品だと思ったが、2周目にガラッと印象が変わった

初めてファイアーエムブレムをクリアできた*1。2019年に発売されたシリーズ最新作『ファイアーエムブレム 風花雪月』。面白かったかと問われれば、正直そこまで面白かったわけではない。期待したほどストーリーも会話テキストも楽しめなかった。メタスコアなどで、ちょっと期待が大きくなりすぎたかもしれない。(2周目で評価が大きく変わるが、それは記事後半で)

 

かなり序盤の段階で、メインストーリーの戦闘での推奨レベルを超えてしまい、ほとんどラストまで苦労することはなかった(ノーマル・クラシックでプレイ)。時折、事故のように殺されてしまうことがあったが、本作の特徴の一つである「やりなおし機能(天刻の拍動)」で簡単に「待った」ができるのは良かった。最後まで1ユニットも失うことなくクリアできたのはこのやりなおし機能のおかげで、途中面倒くさくなって停滞することがなかった。クリアまで1ユニットも失いたくなかったので、仮にこのやりなおし機能がなかったらと思うと少しゾッとする。もし戦闘の終盤にちょっと強い敵ユニットにバコッと一撃で不意に殺されたら、あの単調で簡単な戦闘をまた最初から繰り返すのかと想像するだけでうんざりしてしまう。

 

また、やられてしまった時に「ああ、これは自分のミスだったな」とあまり素直に思えず、自責感のあまりない「事故」のように感じることが多かった。これは自分がまだファイアーエムブレムというゲームのコツを掴みきれていないからだろう。そのくせ「すごく簡単だったな」とも強く感じている。なのであまりコツが分かってないのに、簡単にクリアできてしまったという感覚が、本作に対する自分の大きな不満の1つであると思う。

 

物語については、黒鷲の帝国ルートで一回クリアしただけなので、全貌は見えていない。しかしそこまで物語の謎について「知りたい」と思えない。そう感じる理由の1つには、自分が選んだ帝国ルートのせいもあるかもしれない。ただ、それに加えて出てくる登場人物たちにあまり思い入れが生まれず、この世界に魅力が感じられなかったからというのもある。もちろん自分の学級(クラス)の生徒たちとは、かなり色々と思い出ができた。ただどの人物もテンプレ的なキャラクターに見えてしまい、いかにも安く作られたアニメっぽいなという印象である。キャラクターの書き分けという事情もあるのだろうが、各キャラクターの持つ煩悶や苦悩は、字面としては重々しいが(戦争や人種間の差別など)、かなり軽薄で安易に感じた。同じテンプレキャラクターによる群像劇なら『イース8』の方が背伸びをしていない分、素直に楽しめたかなと思ってしまう。例えば、褐色の肌の人物も出てくるが、どの人物もアフリカ系の顔の造りをしていない。別にそれはそれで良いのだけど、そういう表現を「あえて」避けていることの意図を説明できなさそうに思える。そういうところが重めの話をしていてもヌルく安易に感じる要因かもしれない。ものすごくいやらしい言い方をすれば「アジア人が作っていると思われてるから、許されてるだけなんじゃないの?」という気がする。

 

これだけ大量の人物を登場させて、それぞれを丁寧に描くことは難しい。しかし本作には現実社会における国家とか民族とか戦争とか差別とか家族とか身分制度とか、そういうものへの参照があまり感じられない。なんだか頭の中で考えただけの薄っぺらい苦悩という印象が拭えない(2周目での感想だが、唯一ツィリルの描写だけは少し面白いと思った)。登場人物たちはまだ子供である、というのがある意味彼らの言動が子供っぽいことの言い訳になるのかもしれないが、やはり子供ばかりが出てくる『ペルソナ4』や『ペルソナ5』に比べると脚本のレベルは低い。本作は、単に作りが結果として子供っぽいだけで、それは子供らしさを子供らしさとして描けているわけではないように感じる。

 

またキャラクターの設定を掘り下げる支援会話など、単につまらない会話を見るだけでパラメータが上がっていくシステムは、作業ゲーとしてもあまりに無機質で、ほとんどノベルゲームのTipsを見るようなものでしかない。それでもそれを見ないと損をする(支援値というパラメータがそれを見ることで上がる)と思うと、やらずにスキップすることもできず、正直、後半は若干苦痛でもあった。ところで『風花雪月』のシナリオやライティングがまともだと言われているということは、ここ最近のファイアーエムブレムシリーズの脚本がいかに酷かったを想像させて、それはそれで逆に興味が出てくる。

 

こんなに不満はいっぱいあるのだけど、ついつい遊んでしまう魅力は確かにあった。学園パートにおける遊びもほとんどゲームとしてギリギリだが、それでも続けて遊んでしまったことは事実だ。戦略ゲームとしての戦闘パートと育成シムとしての学園パートの、辛味と甘味の絶妙な取り合わせが良いバランスになっていたのだろう。緊張感溢れる戦闘パートでのささくれ立った気持ちを学園パートの優しさが癒すという繰り返しが、プレイヤーのモチベーションの維持に見事に効いていたのだと思う(戦闘パートの簡単さを差し引いても)。

 

是非、本シリーズで上手くいったシステムは継続して、次回作では更なる脚本の向上を目指して欲しいと思う。

 

……ここまでが1周目クリア時点の感想である。あまり気乗りはしなかったが、なんとなく2周目を金鹿(ハード・クラシック)で始めてみた。いやぁ、これがすこぶる楽しい。以下は、そのプレイを踏まえた感想を書いていく。

 

序盤のマップから、ハードモードのハードらしさを味わうことになった。油断をするとドンドンと体力を削られていく。しかし決して難しすぎはしない。まあ、対処できる程度の難しさなのだ。しかしこの緊張感は初めて「ファイアーエムブレムを遊んでるな」という気持ちを感じさせてくれた。

 

戦闘のほどよい難しさ(と言ってもハードでも相当簡単だという人が出てくるのはよく理解できる)は、もちろん良かったのだが、この世界の仕組みというかパラメータの効率的な上げ方が2周目にしてようやく理解できるようになり、作業でしかなかった学園パートが途端に楽しくなった。どんなパラメータを上げようが戦闘で全く危うげなく勝つこと以外想像できなかったノーマルモードでの1周目と違い、より最適化した部隊編成を目指しつつ、それでもどんな育成をしてもおそらく負けはしないだろうが、適切な育成をすれば戦闘がより楽になりユニットを失うリスクも減るだろうと思える程度の難易度が、プレイに安心感と程よい緊張感をもたらす。この感覚が味わえただけでも2周目を始めて良かったと思う。

 

育成でパラメータをいじくる遊びが楽しくなると、軽薄にしか思えなかった生徒たちの支援会話なども途端に許せるようになってきた。逆にこれ以上重くなっても、1ユニットも殺さないプレイをすること(これは個人的にそう決めているだけのことだが)が嘘かなという気さえしてくる。死と隣り合わせの生活でありながら日常では軽薄でいるという違和感が1周目では単なるリアリティ不足のように感じていたが、2周目のプレイでは「それはそれであるかもしれない世界」として受け入れられる。これこそゲームというものの妙味という気がする。単純にこのゲームをアニメ化されても、アホくさい学園物語と妙にドラマティックな学友の死という食い合わせの悪そうな要素のちぐはぐ感で楽しめなさそうである(それはもちろん「下手なアニメ化をすれば」ということではあるが)。しかし「さっきは危なかった。マジでヤラれてたかもしれなかった」という当事者意識が加わることで、表層的に見える生徒たちの会話にも勝手にコチラが深みと屈託を読み込んでしまう。ゲームという形式の面白味であると思う。

 

しかしだとするとなぜ本作はこれまでの最近のシリーズ作品に比べてこんなにも評判が良いのか、自分にはよく分からない(軽めの会話と重めの戦闘の化学反応という側面は最近のシリーズの別作品でも多少はあったのではないか、知らんけど)。そんなことを考えていると、過去のシリーズ作品をより遊んでみたいと思った。

 

 

*1:今まで『紋章の謎』と『覚醒』と『烈火の剣』を遊んでみたことがあるけれど、数時間で面倒になって辞めてしまった