ビデオゲームとイリンクスのほとり

ブログになる前の軽い話は以下で話してます。■Discord : https://discord.gg/82T3DXpTZK 『ビデオゲームで語る』 ■映画の感想は『映画と映像とテキストと』というブログに書いてます。https://turque-moviereview.hatenablog.com/ ■Twitter ID: @turqu_boardgame

映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

『オブラ・ディン号の帰港 Return of the Obra Dinn』の情報の飢餓感の良さについて

※本記事では物語などのネタバレはしてません。

ニンテンドースイッチ版『オブラディン号の帰港(Return of the Obra Dinn)』をクリアした。一応攻略情報などはシャットアウトして、なんとか自力で60人全員の安否を解明できた。クリアまで10時間。とても素晴らしいゲーム体験だった。

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このゲームは乱暴に言えば「5人の中で、1人だけ嘘つきがいます。彼らの話を聞いて、それは誰か当てましょう?」みたいな論理パズルの60人バージョンである。帰港した船舶オブラディン号には60人の乗客が1人も生きて残っていなかった。そんな状況で、主人公は不思議な時を巻き戻す懐中時計を使って、様々な情報を収集し、誰がどのように死んでしまったか、はたまた生きているのかを解明していくという筋書きになっている。

 

論理パズル的なゲームだが、自分が最後までクリアするにあたっては、全てがロジカルに答えを導き出せたわけではない。「4人まで絞ったけど、あとは分からん!」みたいな状況になり、総当たりで無理矢理答えを出してしまった部分も多い。ただ、そういう体験も含めて実に楽しかったことは間違いない。ちゃんと答えを論理的に導き出せなくても、答えだけでも当たっていれば「それでよし」としてくれるいい意味での"いい加減さ"がある。この"いい加減さ"はおそらく本作をより間口の広い作品にしているポイントなのではないかと思う。

 

また本作を論理パズルと表現してしまうと、若干違った印象を与えてしまうと思うのは、情報量の感覚についてである。いわゆる普通の論理パズルでは、情報というのは比較的過剰に与えられる。その過剰に感じられる情報をいかに整理して、相互に矛盾しないように並び変えるかが重要だ。しかし『オブラディン』では少し違う。本作では、前半部分で確かに大量に情報が与えられるものの、中盤から謎解きのための情報に飢えることになる。ここからがいわゆる「ゲームらしい感覚」と「物語世界を味わう感覚」の二面性が感じられる本作の醍醐味とも言える良さがある。

 

本作は中盤くらいで、基本的な情報は出そろう。しかしそれらの情報だけでは、到底多くの部分が特定できないのではないか?と、その全体像の見晴らしの悪さに茫漠とした気分をプレイヤーは味わう。情報が圧倒的に足りないように思えるのだ。ゲーム的にも辛さが大きくなっていくところで、ここで踏ん張れないとちょっとクリアまでいけないというケースはあるだろう。ここを先程の"いい加減さ"で突破するか、もう一つこの『オブラディン』特有の「情報を作り出す感覚」を楽しめるかが重要になってくる。

 

中盤以降の情報に飢えている状況で、実は地味に人物同士の関係性や場所の特性などが見えてくることがある。「この男はやたらコイツと一緒にいるな。ということは…」とか「コイツがこの場所にいることが多いということは、もしかして職業はこれか?」とか、実はこれまで情報だと思っていなかったことが、ヒントになってきたりする。こういう「観察によって情報を生み出す」感覚の面白さに気がつくと、『オブラディン』というゲームへの見方が変わってくる。情報の与え方の無骨さが、むしろ魅力にも感じられ、そこにある素っ気ない事実の塊が「わたしだけに見せる顔」のような官能さを生み出す。ここまでくると『オブラディン』はより愛おしいゲームになってくるだろう。

 

一部、死因が分かりにくかったりする部分もあるものの、そういう点も含めて、プレイヤーへの媚びなさが、この作品を彫刻のように削り取って自分だけの形にするような喜びにつながっている。ゴロッとした情報の原木が、次第に美しい彫像のような姿に変わっていくこの感覚。最初は全く馴染みも何もなかったはずの60人の一人一人の名前が、最後には全て知り合いの名前のように思えてくる。話の展開や内容などに大きな驚きがあるわけではないけれど、最後、60人の安否情報が綺麗に埋まったリストを見ていると、そこに単なるテキストを超えた余白の存在を感じ、なんとも言い難いゲーム独特の物語体験を味わうことになる。

 

ゲームでしか味わえない物語というものがあるとするならば、『オブラディン号の帰港 Return of the Obra Dinn』は、まさにそれを与えてくれる傑作の1本であるだろう。

 

 

スマホゲーム『フローレンス』の逆説的な表現方法の素晴らしさについて

2018年にスマホでリリースされた『フローレンス(Florence)』。本当に素晴らしいゲームで、多くの人が絶賛するように将来にわたって何年も参照される傑作だろう。

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日常生活の何気ない動作をささやかなインタラクション*1で表現したところに本作の特徴がある。これは言ってみれば「文体の発明」であったことが多くの人にインパクトを与えたのだろう。今までデートでの会話をああいうジクソーパズルを使って表現することで「初めてのデートでのぎこちなさ」や「段々と気のおけない関係になっていく様」をプレイヤーに感じさせたことはなかったのではないかと思う。

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本作のこうした特徴の素晴らしさには私自身も異論はないのだが、本稿では少し違う観点、主に「インタラクションの停止」ということについて書いてみたいと思う。

インタラクションの停止効果

先述のデートでの会話をジクソーパズルで表現する箇所もそうだが、通勤電車でSNSを見る場面も秀逸である。

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SNSのフォロワーの投稿画面をしっかり確認することなく機械的に「いいね!」や「お気に入り」を押すこの日常的な行為は、ゲームを進めるための機械的・作業的な行為との類似性を感じさせる。物語を味わうタイプのゲームでよくある「行為で結果が変わる面白さ」を提供するデザインとは異なり、『フローレンス』で重要なのは「行為そのもの」である。*2

しかし、この「行為の結果」でなく「行為そのもの」に重点を置く、というのは『フローレンス』というゲームだけの専売特許ではない。他のゲームでも例えば強い敵を配置するのは、単にその強敵に勝つという結果(物語展開〕にだけ意味があるのではなく、「勝つのに苦労した!」という行為そのものから味わう感覚や感情にも重点が置かれている。しかし、『フローレンス』が特徴的なのは、「何かをする」ということだけではなく、「何かをしない」「何かをさせない」ことが巧みに利用されている点ではないかと思う。これをわたしは『フローレンス』における「インタラクションの停止効果」と呼びたい。

以下に、そうした「インタラクションの停止効果」の具体的なシーンを3つ挙げよう。

 

①職場のシーン

チャプター11では、同棲を始めて恋に浮かれるフローレンスの姿が描かれる。その際、職場でのフローレンスの仕事の様子が描かれるのだが、この描写はゲームの前半(チャプター1)と同じ画面下部に金額のパネルがある画面構成である。チャプター1の時は、パネルの金額の部分をペアになるように選択するインタラクションが必要であった。

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しかし恋に浮かれるチャプター11で同じ描写が出てきた時は、金額部分がプレイヤーに押される前に自動的に選択され、あっという間に仕事の場面は終了してしまう。

これはあえてプレイヤーによるインタラクションを停止することで、「恋に夢中になっているフローレンスは仕事での体感スピードも速い」ことを示している。かつてチャプター1でプレイヤーにさせていた「つまらない仕事」が、チャプター11では勝手に終了してしまうことで、その幸せぶりをプレイヤーに想像させることに寄与している。これはプレイヤーが「行為できない」ことを巧みに利用した演出と言えるだろう。

②恋の終わりのシーン

2人の恋が終わるシーンでもインタラクションの停止効果を見ることができる。喧嘩をしてしまった2人が描かれる場面は2回あるが、2回目の喧嘩シーン(チャプター14)では、2人が背中を向けあったままベットで寝ている姿がジグソーパズルを組み立てるインタラクションとして描かれる。

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しかしこのパズル、ちゃんとした絵として組み立てることができない(凹凸が合わない)。パズルとして完成しないようになっているのだ。チャプター15の破れた写真を組み合わせるインタラクションも同様に、どうしても完成することができない。このように「ゲームとして解決できない」感覚をプレイヤーに味わわせることで、この恋がもはや修復不可能なことを示している。これもまたインタラクションの停止を活用した演出と言えるだろう。*3

③成功へと至る絵を描くシーン

フローレンスは絵を描くことを趣味としている。その絵を描くという行為は度々、プレイヤーのインタラクションによって表現される。例えば、チャプター7の恋人の鉛筆画を描く場面がそうだ。また、同棲を始めるチャプター11でも同様のインタラクションを行うことで恋人の絵を描く。すこし趣向は違うが、チャプター2の子供時代にヨットの絵を描く場面では、ヨットの絵に様々な模様を置くというインタラクションを行う。


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しかし、彼女が大きな成功を手にするチャプター19以降の「絵を描く」シーンでは、全くプレイヤーに「絵を描く」という直接的なインタラクションをさせない。なぜ恋人の絵を描く時はインタラクションをさせたのに、社会的な成功に繋がる絵を描く場面はインタラクションさせないのだろう。これが「ゲーム」であるなら、むしろ成功こそをプレイヤーのインタラクションと共に味わうようにしただろう。しかしあえて『フローレンス』はその逆を行なっている。

これは、「社会的な成功」であることが、インタラクションを伴うことで「嘘くさく」なることを避けたからではないだろうか。『フローレンス』は最初から最後まで、とにかく「日常的な」インタラクションをさせてきた。「こういうのってよくあるよね」を感じさせるためにインタラクションが用いられてきた。ここでプレイヤーのインタラクションによって彼女が成功を手にしてしまったら、これまでのインタラクションとのバランスが取れない。これまでの手慰みで描いていた絵とは違うことを示すために、あえてプレイヤーによるインタラクションは停止させられたと考えられる*4

これら3つのシーンに共通するのは、インタラクションの停止が「非日常」を描くことに極めて効果的に使われているということである。①では恋愛に舞い上がる幸福感を、②では恋が終わるいたたまれないほどの緊張感を、③では奇跡的とも言える社会的な成功を、それぞれ「インタラクションの停止」によって表現している。

『フローレンス』が表現するもの

『フローレンス』はゲームという媒体でありながら、ゲームが得意とするような「問題の解決」「恋の成就」「社会的成功」というものをゲームらしいインタラクションで描いていない。これはゲームという表現形式が、そういった華々しい成功や達成を描きがちであることへの巧みなアンチテーゼになっている*5。ゲームは「非日常」を描くことが得意なのだという固定観念を『フローレンス』は見事に転倒している。そして、むしろ「日常」を描くことにインタラクションが用いられ、「非日常」を描くためにインタラクションの停止や「できない」ことが用いられる。この逆説こそが『フローレンス』の物語としてのリアリティを担保する。ゲームは夢物語や壮大な絵空事を描くためだけのものではないということ。むしろインタラクションは「現実そのものなんだ」ということ*6。そしてなによりプレイヤーの干渉できないところに「物語がある」ということを、『フローレンス』は表現している。

このゲーム的逆説を巧みに示したところに、『フローレンス』の特筆すべき達成があるのではないだろうか。

 

*1:本稿では物語を進めるために単にページを送るだけではないようなプレイヤーの行為全般を「インタラクション」と呼ぶ。厳密に「単にページを送ること」と「そうではないもの(インタラクション)」を分けるのは難しいところがあるが、ページ下部にある次ページを開くための矢印を押すとか、画面をスクロールして次コマに移るなどの行為は前者と考えている。フィクション世界にある事物(の表象)を操作するような行為は後者と考えている(時計の針を動かすとか棚に飾っているぬいぐるみをうごかすとか)。

*2:例えば、チャプター10において、同棲生活を始めるにあたり、誰の持ち物を優先的に棚に置くのか、どんな風に置くのか、その行為自体に意味(同棲を始める恋人気分の模倣)があるのであって、自分の物より恋人の物を優先しようがしまいが、物語にはなんら影響を与えない

*3:この演出に似たものは既存のゲームでも存在しており、例えばRPGなどの「負けイベント」と呼ばれるものはこの演出に近いものであるだろう。

*4:もう一つインタラクションさせなかった理由として「彼女自身の意思」を示すためだったという解釈はあるかもしれない。プレイヤーの行為すら干渉させないでフローレンス自身に描かせるために、あえてインタラクションを排したという考え方もできそうである

*5:ときめきメモリアル』の藤崎詩織をラスボスと呼び、恋人になることを「攻略する」とか「倒す」と呼ぶ感覚との違いを思い起こしたい

*6:この辺りは松永伸司『ビデオゲームの美学』(慶應義塾大学出版会,2018)の第七章の議論から発想を得ている

『アストラルチェイン』ゲームとして「純粋」じゃないところが好きという感覚について

2019年。ニンテンドースイッチで発売された『アストラルチェイン』。素晴らしいアクションゲームだった。「拮抗」難易度で一通りクリアしたが、そこまで難しくなかったため、多少のガチャプレイでも進めることができて非常に気持ちよく遊べた。発売前は『ニーアオートマタ』っぽいと聞いていて不安だったのだけど(ニーアはアクションが単調に感じて2周目の途中で辞めてしまったから)、本作は見事なプラチナゲームズ集大成という作品だった。

 

アクションゲームとしての素晴らしさは多くのブログや記事、SNSでも言われていることだが、個人的にはアクション部分以外の要素の「ちょうど良さ」が気に入った。と言ってもストーリーが良かったということではない。ストーリーテリングや脚本はイマイチ(まあ普通)だったのだが、いわゆる捜査パートやメインのアクション以外のゲーム部分がとても良かったと思ったのだ。

 

ネットなどでプレイした人たちの感想を見て「もっとアクションやバトルだけをさせて欲しい」「捜査パートが邪魔」といった意見があることは知っている。そしてそういう感想が出ることもよく理解できる。それだけバトルの出来が良く、楽しいということでもあるだろう。そうした感想を理解しつつも、しかしそれでもやはりバトル以外のゲームパートが本当に素晴らしいと思うのだ。このように思うのはちょうど直前まで『ファイアーエムブレム 風花雪月』を遊んでいたことも関係する。『風花雪月』では、メインとなるストラテジーパート以外の学園での育成パートの楽しさがよく言及されている。しかしこの学園での育成パートはゲームとして見ると結構単調で、遊びとしては決して洗練されているものではない。ありきたりだし、凡庸な出来だ。しかしこれがメインのストラテジーバトルと融合することで、非常にプレイヤーを楽しませる要素になっている。奇妙な話だが「ゲームとしてそれほど面白くない」ことがむしろゲーム全体の楽しさに有利に働いているのではないかと思わせるところがある。

 

『アストラルチェイン』もその点で少し似ている気がする。激しいバトルアクションが一番のウリであることは間違いないが、突然倉庫番のようなパズルゲームを遊ばせたりしてくる。また古臭いアドベンチャーゲームのような聞き込みと証言集めと推理のような遊びを提示したりもする。こういう一見すると「邪魔」にしかならなさそうな要素が、ほどよくプレイに起伏を与え、ゲーム作品の彩りとしてプレイヤーを楽しませてくれる。とはいえ、作り手としてもこうした要素が「邪魔」なものとして嫌がられる可能性は十分に想像できただろう。だからこそ、この「そこまでよくできてるわけではない遊び」が、なぜこんなにもいい感じに楽しめる要素になっているのかは少々不思議でもある。

 

物語をクリアすると、エピローグ的なチャプターが開始する。このチャプターは物語本編と違ってひたすらバトルを繰り返す趣向になっている。これはこれで楽しいのだけど、ただバトルを繰り返していると、どうも虚しさなのか飽きなのか、よく分からないが負の感覚を抱く。もちろんバトル自体は楽しい。楽しいのだけど、どこか物足りない。これは個人的な趣味が入る話なのだが、私はゲームにオマケ的に付いてくるアーケードライクなゲームモードというのが苦手だ。ひたすら敵を倒すモードとか、あの手のモード。エンドコンテンツ的に備わっている場合もあるのだけど、どうもやる気になれない。ゲーム本編の2周目を遊ぶ方が、なぜか肌に合っている。どうもそういう「純粋なゲーム」が苦手なのだ。ストーリーがそういう意味で「濁り」として機能する場合も多いのだけど、それ以外にメインとは違うタイプの遊びがそういう「濁り」として働いているものが好きだ。少し昔の日本のRPGなどで、突如現れるパズルゲーム(遺跡の中の石像を移動させて上手いこと扉を開ける、みたいなやつ)が好きなのだ。そういう異物の存在にゲームを遊んでいると不思議な安心感というか、ホッとした感覚を得る。

 

『アストラルチェイン』にはそういう古いけれど、どこかゴチャゴチャとした雑多なるゲームの良さを感じ、妙にノスタルジーを刺激するところがあるなぁと思った。