ビデオゲームとイリンクスのほとり

ブログになる前の軽い話は以下で話してます。■Discord : https://discord.gg/82T3DXpTZK 『ビデオゲームで語る』 ■映画の感想は『映画と映像とテキストと』というブログに書いてます。https://turque-moviereview.hatenablog.com/ ■Twitter ID: @turqu_boardgame

映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

名作『In Other Waters』知性がもたらす生き物への賛歌

2020年11月にニンテンドー スイッチでもリリースされた『In Other Waters(イン・アザー・ウォーターズ)』。開発はJump Over the Ageという開発スタジオだが、メンバーはロンドンに住むGareth Damian Martinという1人だけの開発者のスタジオのようだ。販売会社(パブリッシャー)は Fellow Travellerである。なお、本稿では、記事の後半からネタバレを行う。

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本作の舞台は地球から遠く離れた異星「グリーゼ667Cc」の海の中であり、その星にまつわる謎を解き明かしていくというストーリーになっている。それだけ聞くと『Subnautica(サブノーティカ)』のようなゲームを想像しがちだが、本作は全く異なるタイプのゲームだ。クリアまで以下のような非常に素っ気ない(けれど端正で美しい)ビジュアルの画面だけでゲームが進む。

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体感だがクリアまでの時間の約90%はこの画面を見て過ごすことになる。そのため好き嫌いは大きく別れる作品かもしれない。クリアまで4時間程度であり決して長いゲームではないが、ほぼ文字だけで進行するストーリーと生物学的なテキストを楽しめないと、このゲームを楽しむことは難しいかもしれない。

f:id:tuquoi:20210710010222j:imageゲーム内の生物図鑑。かなりの量のテキスト。

私自身は生物学は高校の時にやった程度であり、ほとんど知識はないわけだが、本作では生物学の美味しそうなところを適度にピックアップしている。「なるほど、この生き物はこんな変わった生態なのか」と比較的簡単にこの手の面白さ感じさせてくれるところは、とても楽しい。「たったこれだけのサンプルでそんな生態まで分かる?」という疑問はもちろん抱くのだが、それはそれで、とてもゲームらしさがあるとも言えるだろう。

ゲームでプレイヤーがAIとなる作品

本作の主人公はエラリー・ヴァスという女性の海洋生物学者だ。彼女の姿はゲーム中に一度も登場することがない。彼女の語る言葉をテキストとして読むことができるだけだ。プレイヤーはその学者を操作するわけではなく、その学者が身に付ける潜水スーツのAIとなり潜水操作を担うことになる。間接的にエラリーを操作するが、プレイヤー自身はAIなのだ。

ゲームでプレイヤーが人間ではなく、AIとなるパターンは時折ある。最近であれば『デトロイト・ビカム・ヒューマン』(2018・SIE)や『Obsevation』(2019・Devolver Digital)のようなゲームでもプレイヤーはAIとしての役割を担っている*1。ゲームとしては、ロボット(AI)の方が人間の場合よりも行動の制御がしやすいという利点があるのかもしれない。古くは、スーパーファミコンの『ワンダープロジェクトJ 機械の少年ピーノ』(1994・エニックス)のような作品もある。*2

さて、こうしたプレイヤーをロボット(AI)にする開発上のメリットとは別に、AIをプレイヤーが演じることによって、ある特殊な効果が生まれる。それは「機械に心が宿る」ということを説得的に描ける、ということだろう。ロボット(AI)を物語に出す以上、「機械と人間の違いは?」というテーマは当然扱いたくなるテーマと言える。小説や映画であれば、その機械(AI)の振る舞いをいかに人間らしく描くか、などに工夫が施されるのだろうが、ゲームの場合だと人間であるプレイヤーにAIの役回りをさせることで、機械から人間への跳躍というものを随分と稼ぐことができる。その機械に心が宿っても不思議はない、なぜならプレイヤーがその背後にいるからだ。しかしこのメタ的なプレイヤーという存在を物語の中のテーマとして活用するのは、やや反則というか、単純には論理が繋がらないようにも思える。

このように考えると本作『In Other Waters』の操作対象であるAIというのは、少し変わった立ち位置にあると考えられる。というのも、物語の冒頭でプレイヤーたるAIはエラリーから「人間みたいね」といきなり言われる。つまりこのAIは最初から「人間扱いされる」ことから始まっている。では、物語の最初で「人間とAIの違い」のテーマは終わっているのかというと、そうでもないところが本作の妙味であると考える。この描き方が非常に美しいと私は感じたし、それが本作が名作だと思う主な理由である。

以下、物語のラストまでネタバレを含めてそのことを示していきたいと思う。

AIは「感覚の先」に行けるのか

主人公のエラリー・ヴァスは鬱屈とした生活をしていた。好きな人には逃げられ、仕事も雇われ研究員として悶々としたものを抱えた覇気のない日常をおくっている。しかし、彼女の元にかつて愛した女性ミナエ・ノムラ博士からメッセージが届く。それはある異星からのメッセージだった。そのメッセージに導かれるようにエラリーはその異星「グリーゼ667Cc」の海に潜る。彼女を突き動かしたのは、かつて恋人未満に終わったミナエである。しかし彼女はエラリーを手ひどく裏切っている。この愛憎半ばのまま、しかしミナエを追ってしまうエラリーの想いにはやるせなさがある。とはいえ、エラリーの苦しみというのは極めて個人的なものだ。仕事であり、恋人である。しかし、この物語がドラマティックなのは、そんなエラリーが人類規模の犯罪というものを発見する過程にある。エラリーはミナエのメッセージに導かれるままにその異星を調べるうちに、バイカル社という会社が行う未曾有の犯罪の証拠を発見する。バイカル社はミナエの雇い主でもある。

エラリーの生が個人の枠組みを超えて、人類や社会という大きな枠組みに接続される、というのは物語としてはよくあるものだと言える。全く個人的な旅から始まって、世界を揺るがす大きな問題に気がつくというのは典型的なパターンだ。しかしこの『In Other Waters』が美しいのは、その個人的な欲望と社会との間の接続に「科学者としての生き様」がパーツとして挿入されている点にある。彼女は最初、この特殊な状況に戸惑ったり、ミナエへの複雑な想いを抱えつつも、目の前に見る生物学的な世紀の発見に夢中になってしまう。人類が出会う初めての異星生物。そのファーストコンタクトに科学者としての関心が強く刺激される。新種の生物に命名したり、分類を施したり、生態の仮説を提示してみたり、エラリーのはしゃぎっぷりが、無機質なテキストだからこそ実に誠実に伝わってくる。AIは限られた認知能力しかないからこそ、プレイヤーの想像力でエラリーという人間の感情や仕草が構築される。本作のAIが単なる機械ではなく、同じ生物として「同胞」となることは、こうした「認知能力の制限」によって巧みにプレイヤーの想像力が動員されることによってもたらされている。このことは、五感の先にある感情や気持ちの理解が「AIにもできるかもしれない」という可能性を感じさせる。限られた認知能力だからこそ、余計に「その感覚を超えた先」に人間とAIに共通項があるように感じられてしまう。くじらと馬は似ても似つかないが、同じ哺乳類として理解できるように、「感覚的な認知としては違うように見えるが、同じモノとして理解する」というのは、極めて知的な抽象化という能力である。これがエラリーの科学者としての側面と響き合う。科学的な分類行為は無味乾燥に見えるけれど、むしろ無味乾燥であるからこそ、AIと人間が分け隔てなく理解できる。そうした抽象化が理解できるならば「感覚の先の気持ち」とかもひょっとしたら分かりあえるかもと期待したくなる。この部分が本作の簡素なUIがもたらすキモではないかと考える。

イカル社の罪と生き物の価値

本作の世界観において、人類は一度地球を破壊している。こういう罪が背景にあるからこそ、バイカル社のやったことは二重に重い。グリーゼ667Ccという異星を、地球と同じように再び殺してしまったことに、エラリーは深い憤りを感じている。面白いのは、そのバイカル社が行ったもう一つの大罪、事故にあった多くの従業員を見殺しにしたという分かりやすい罪がそこまで強く前面に出ていない点である。普通のドラマであれば、そちらの行為こそ、極悪非道な行為としてセンセーショナルに描かれるものだろう。惑星の生態系を壊すことと事故で人間を見殺しにすること、どちらが重い犯罪とは簡単には言えないが、本作では明らかに生態系を壊すことの方にエラリーの怒りは向けられているように感じられる。そして、プレイヤーはAIであるため、ただただ残されたメッセージログによってその事故による不幸を想像するしかない。こうして、図らずもプレイヤーは人類という枠組みを超えて、生物一般の視点という高みにまで連れていかれることになる。そして、どこか人間を超越したような心境に至ってしまうのは、やはりエラリーが科学者である、ということが強く作用している。彼女の科学者としての知的能力によって、この星の生物は絶滅させられそうになりながらも、したたかにそして力強く生き延びているということが判明する。この生物たちの執念は、科学者だからこそ深く共感できた奇跡でもある。そしてその執念が形を成したものとして、操作対象である「AI (オキ)」も存在している。ここでは、オキは単なる人間的な知性体なのではない。人間の系譜を引き継いだ生物種として存在している。人工知能として優れているからオキに価値があるのではない。ただ生き延びたことを証明する存在として、単なる生き物として、そのこと自体に大きな価値があるのだ。*3

「人類を超えるAI」の全く新しい形

プレイヤーの操作対象であるオキは、これまで想定されてきたAIとは大きく異なる次元で評価される。例えば、オックスフォード大学のニック・ボストロム教授が言及する「スーパーインテリジェンス(超知能)」。このタイプのAIは、昔からSFに登場する「人類を超えて脅威となるロボット」と同じようなものだと言える。しかし『In Other Waters』では、全く違う視点から「人類を超えるAI」を描く。AIの進化の度合いを、能力という尺度で測るのではなく、「生き残りし者」という尺度で測ることで、オキは人類という種を超える。私たちはAIの知性が人間よりも高くなることを怖れたりする。それは能力の高いものがより生き残るのだと思っているからだ。しかしグリーゼ667Ccの生き物たちは賢いから生き残ったのではない。決して高い知性があるから生き残れるとは限らない。しかし、この「 優れた知性が生き残るとは限らない」という「知性の限界」を知ることもまた、エラリーのような科学的な知性と探求によって初めて考えることができる。知性の限界は、知性によって知るしかないのだとすると、その混在したあり方をエラリーは体現しているようにも思える。

というのも、エラリー自身もまた、この事件を通して、科学者として「生き残りし者」となるからだ。ここで言う「科学者」も「知性」も人間社会や制度という枠を超えた一つの「生態」として捉えるのが適切なのかもしれない。彼女はバイカル社の罪を人類を超えた生物一般に対する罪として捉える。学者として記録を残すことが「復讐」になる。それは「生き延びること」の証になるものだろう。

プレイヤーは最初、ゲームの中の自分(オキ)は「たいして何もできない存在だ」と軽く見做していたはずだ。「こういうゲームなんだな」と。しかしそのような状況の中で、プレイヤーは否応もなく生き物としての自分(オキ)を感じざるを得なくなる。いや、元々プレイヤーは人間であり、生き物であったのだけど、しかしオキのフィルターを通して、想像よりも遥かに長い時間軸での「生き物であること」を突きつけられる。

本作は「AIと人間の違いは?」というテーマを、科学者の知性とバイカル社の犯した罪の物語によって超えていく。そしてそのことにより「AIと人間が拠って立つ地平が、実は同じかもしれない」という視点が切なさと共にもたらされる。本作は、知性とは何かを問いつつ、その知性が垣間見せる生き物への賛歌を綴った名作と言えるのではないだろうか。

 

*1:プレイヤーがAIというかロボットになるタイプのゲームとしては、『ちびロボ!』『サガ・フロンティア』などが思いつくが他にもあったような気がする。意外に少ないかもしれない。

*2:ワンダープロジェクトJ』の場合は、もう少し複雑な操作体系になっており、プレイヤーはピーノを操作すると言うよりは、ピーノを操作するためのティンカーというロボットを操作する、という設定ではある。

*3:島田虎之介『ロボ・サピエンス前史』もまた、本作に少し似たテーマを持つ漫画作品だろう。『ロボ・サピエンス前史』もまた人類という種を超えるようなところがあるが、ただ、『In Other Waters』よりもずっと人類への愛が濃い作品だろうと思う。

『バイオ8』はシリーズで最もメタ的な視点に満ちた批評的傑作

バイオハザード ヴィレッジ(以下、バイオ8)』は2021年4月に発売されたバイオハザードシリーズ本編の流れを汲む作品だ。"VILLAGE"の先頭4文字"VILL"をローマ数字のⅧに見立てており、本編としては8作目になる。またタイトルにある通り、一つの村を中心に物語は展開していき、最後まで完結する。この閉鎖された舞台で話が最後まで進むのも、初代から続くシリーズらしさを持っていると言えるだろう。

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本作を最初にプレイし始めた時には、私はかなりガッカリした。序盤は物語の展開が激しい割には移動することぐらいしかできないし、かと言ってかなり初期の段階でサラッとショットガンが手に入り、スナイパーライフルやグレネードランチャーのような強力な武器も割とスンナリと入手できてしまう。弾がそれほどカツカツになることもなく、ゲーム展開がサッパリとしている割には、妙にガチャガチャとコミカルで超現実的なフレーバーでゲームの世界観が描かれる。全般的にチグハグさとアンバランスさを感じてしまい「正直、このゲームはダメだな」と思ってしまった。この感想が変わってくるのは湖のステージをクリアしてからぐらいだったが、それでも物足りなさを感じつつ1周目をクリアした。しかし、気まぐれで2周目を難易度「ハードコア」でプレイしてみると、本作に対する印象はガラッと変わった。ものすごく面白いのだ。特に序盤のライカン襲撃の緊迫感とクリアした時の達成感は1周目では中々味わうことができないものだった(なおクリア特典の引き継ぎをしての周回プレイ)。このゲームがゲームとして十分に面白いと思えてくると、本作のチグハグにしか感じなかった雰囲気や世界観や演出というのも段々と素晴らしいものに見えてきた。

なぜイーサンは、初っ端に指を2本失うのか?

村での探索が始まる初期の場面で、イーサンはいきなりライカンという人狼に襲われて左手の2本の指を失う。バイオシリーズというと、どんなに瀕死になっても回復薬やハーブを飲む(?)だけで全回復するという謎の体質が前提となっている。しかし本作においては、失われた2本のイーサンの指は最後の最後まで回復しない。

シリーズの中でも「修復されない身体」というものを描いたのは本作が初めてではないだろうか。しかし一方で、多くの人が「え!」と思うのは城での右手の切断と接続(?)だろう。なんで回復薬を振り掛けただけで切断された右手首がキッチリと繋ぎ直すことができるのか?と多くの人が驚いた場面だ。

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このシーンを見た時に、人によっては本作が「夢オチ」なのではないか想像した人もいるかもしれない。しかし考えてみると、咬み傷や裂傷で致命傷を受けても従来シリーズではハーブでアッサリと回復してきた。今まではそれに疑問を持たずにきたわけで、本作の右手のように切断と回復をああして描写されると今更ながら私たちは非現実的に感じてしまう。ファンタジーとリアリズムの混在は正にシリーズの特徴だったが、そこはゲームらしいお約束として、これまで明には作品内で説明をしてこなかった。しかし『バイオ8』はそれをあえて堂々と説明する。ラストで明らかになるイーサンの特異体質は、結局説明として妥当なのかなんなのかよく分からないわけだが、その直球さには『バイオ8』という作品の真髄が現れていると私は考える。バイオシリーズの持っていたご都合主義とお約束をそのまま戯画化しており、セルフパロディに皮肉とユーモアと歴史を盛り込んでいる。指を2本失うことで、イーサンの指の数が8本になることは、本編8作目にして、これまで明確には語ってこなかった「修復されない身体」と「修復される身体」の矛盾を描こうとする覚悟が表れているのではないだろうか。

いかにもゲームらしい4人の貴族たち

本作には時折メタ的な視点がイーサンや登場人物のセリフとして表現される。初期に城に忍び込んだイーサンがハイゼンベルクに捕まり、そこで言われるのは「ゲーム」という言葉だ。「いよいよゲームの始まりだ!」とゲーム自身が語る。

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本作のストーリーは正直言って起伏の少ないプロットだと言える。バラバラにされた娘を、4人の敵ボスからそれぞれ奪い返すだけのストーリーとも言える。3つの紋章でも、8つのクリスタルでも、本作のように4分割された身体でもなんでもいいが、なぜゲームはやたらとキーアイテムを集めたがるのか。そこに物語としての本質的な理由はない。ゲームという商品が備えるべき機能として、目的となるオブジェクトを集めさせているに過ぎない。『バイオ8』においても、4人の貴族が誰なのか、どういう葛藤を抱いているのか、そういうことは二の次になる。

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そんなことを知ってか知らずかイーサンはメタ的に「何でもアリだな…」と語ってしまう。解像度と描画能力の圧倒的な向上により、ゲームはもう一つの現実を描こうとしてきた。そんな世界的な業界の流れからすると、バイオハザードというシリーズはやや古臭く、ゲームとしてのお約束がやや冗談めいてきてしまっていた。なぜ木箱に銃弾がしまわれているのか。なぜ花瓶を割るとアイテムが出てくるのか。なぜそんなパズル的仕掛けを建物内に施す必要があるのか。全てがゲームの都合でしかないものを『バイオ2〜4』の頃には素朴にそのまま表現していたように思う。いくつかの言い訳があったが、なぜ警察署に謎のオブジェクトや銅像やパズル的仕掛けが満ちているのか、それを恥ずかしがるようなメンタリティは薄かったように思う(『バイオ2』で言えば「警察署は元美術館だったのだ!」で説明しようとする面の皮の厚さ!ある意味すごい)。それが『バイオ5』や『バイオ6』のような変遷を経て、『バイオ7』においてよりリアルな意味づけによって舞台を描こうとする方向に変化してきた。例えば『バイオ7』では、謎かけギミックを狂人である男が作り上げた妄想的なゲームとして描いており、これまでとは一線を画すリアルな世界設定でバイオ世界を描いていた。

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↑『バイオ7』のルーカス。やや知性のある狂人。変なパズルの存在がこの狂人の元で作られたと思えば比較的リアルな設定だったと言える。

『バイオ7』はそうしたややコミカル的になっていたシリーズの謎かけギミックを、海外ドラマ風の持ち味で(シリーズとしては)新たなリアリズムとして描いた。しかしその前作を裏切るように、続編の『バイオ8』がここまで自覚的にコミカルとファンタジーを前面に押し出してきたことは、極めて内省的なシリーズへの自意識を逆に感じさせる。

『バイオ 8』は中途半端なのか?

『バイオ8』のチグハグで中途半端にも見える世界観の描き方は、単に「作りの下手さ」や「制作都合上の妥協」によって、たまたまそう作り上げられたに過ぎないのでは?と思う人も多いだろうと思う。そうした見方はある程度妥当性があると思われる。例えばIGN Japanによる『バイオ8』のレビューでは「ホラーとしてもアクションとしても中途半端」と評しており、この見方には一定の説得力があると考える。

『バイオハザード ヴィレッジ』レビュー 水と油な部分はあるものの、豪華なパフェのように多くの要素を取り揃えたホラーアクション

しかし、私はこの作品は中途半端だという非難はある程度妥当だとしても、かなり自覚的にこうした中途半端な作品が、意図的に作られていると考える。なぜ『バイオ8』はいかにもゲームっぽい世界観を素朴に描きつつも、『バイオ4』ほどにはアクションゲームという方向性に振り切っていないのか。それは『バイオ8』の特徴がバイオハザードというゲームのアイデンティティを追求するところにあるからだと考える。奇妙で不自然なギミックやアイテムがあったとしても、そうであることの理由を説明しないのはシリーズの伝統だった。謎の洋館に石片を挟むと扉が開く仕掛けが存在することに、物語世界の中で理由づけはなかった。しかし、そうしたことを真面目にカットシーンやテキストによって説明することが果たしてバイオシリーズの役目なのだろうか。『バイオ7』を経た上で、そういう自問自答が『バイオ8』の開発者の中にはあったのではないか。だからこそ、このいかにもゲーム的で、一見すると幼稚なギミックの数々を伝統に則って配置はするものの、従来のシリーズらしく単に説明しないのではない。『バイオ8』では専制君主たるマザーミランダの被害者でもある4人の貴族という歪な存在により、このいかにもゲーム的な世界が作られたのだとメタ的な自覚と共に説明しようとする。しかし、その必然性であったり、プロット上の脈絡というものは『バイオ7』ほどには特に頑張って説明したりはしない。様々な紆余曲折を経てきたシリーズの歴史の長さゆえに、すでに色んな試みがなされてきてしまった中で、『バイオ8』は針に糸を通すようにささやかながら巧みなオリジナリティを表出したのだとわたしは考える。

イーサンとは何者だったのか?

しかし、私のこうした『バイオ8』擁護は、やや牽強付会な強引な読みだという誹りは免れないだろう。しかし、イーサンという主人公について考えると、やはりこの作品が持つメタ的な視点には非常に強い意志を感じてしまう。『バイオ8』においてイーサンとは何者だったのか。これはもう端的に言って「ゾンビ」であったわけだ。

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しかも始祖、原種に近い能力で不死身の肉体を持ったゾンビだった。今まで散々にゾンビを蹴散らしてきたバイオシリーズで、初めてゾンビが無双をする物語を描いたのが『バイオ8』なのだ。しかもイーサンの顔は最後まで分からない。何者なのか一切わからないまま、ほとんど無名のゾンビとして最後には死んでしまう。これまでかなりコミカルで、やや安っぽさも漂う英雄的な主人公ばかりが登場してきたバイオシリーズにあって(レオンのあのキャラの安っぽさ!)、イーサンは初めて無名で普通の人間のように現れて、そして死んでいった主人公である。もちろん今後の作品で実はイーサンは何か特別な存在だったと「判明」するかもしれないが、それはそれである。

悲しい家族ドラマを見せるのもこれまでのシリーズ作品では無名のNPCの市民や日記に残るテキストばかりで、主人公格はいつもどこか浮世離れしたファンタジカルな存在だった。イーサンが初めて主人公でありながら、素朴な家族ドラマの中心人物でもあった。そして彼自身がゾンビであった。死を克服するゾンビが最後に死に、生殖によってこの世に新たな生(ローズマリー)を残す。イーサンという存在はそうしたバイオシリーズの矛盾を一身に寄せ集めたような存在だった。これまでのバイオシリーズでは、主人公はかなり単純にヒロイックなイメージで描かれてきたからこそ、この『バイオ8』のイーサンという存在の描写の複雑さは目を惹く。

ただ過去の作品からの逆張りをするのでもなく、かと言って伝統に則った同じことを繰り返すのでもない。『バイオ8』はこれまでのバイオを真面目に反芻しまくった結果、その多大なる産みの苦しみを感じる批評的な傑作だと言えるのではないだろうか。

 

『It takes two』は「大切な人とプレイして欲しい1本」とかいう最大級のクソコメントがしたくなる傑作

It takes two』は、2021年最高の1本になりうる作品だ。1人では遊べない。もちろんコントローラー2個を器用に1人で扱うことができれば、プレイ可能かもしれないが、そんな虚しさ200%の遊びをする人は少ないだろう。

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このゲーム、とにかくよくできている。まずアクションとしての「手触り」が非常に良い。ジャンプもダッシュも実に手に馴染む感じがある。あまり3Dプラットフォームゲームに慣れていない妻と娘と一緒にプレイしたが、最後までクリアできたのは、この操作の気持ちよさが要因として大きかったと思う。 

そして、そのほんわかとした世界観からは想像できないほどにスペクタクルに満ちた映像表現もまた満足度を高める。アクションゲームとして単純に面白いことはさることながら、一つのステージをクリアするたびにド派手な爆発や巨大なオブジェクトの縦横無尽なモーション、豪勢なテクスチャやアセットのバリエーションによって、とにかく見た目にも退屈しない。一回の短時間のプレイでも十分すぎるほどにお腹を満たしてくれる。多くの人の評価にある通り、全般的にメカニクスも見た目もバリエーションが多く「贅沢な」ゲームである。

と、そんなわけでゲームとしてはどんな批評においても絶賛されている本作ではあるのだが、今ひとつストーリー(物語)については語られていないような気がする。しかし物語も決して出来の悪いものではない。その語りには色々と面白い部分があると思っている。それを本稿では書いてみたい。なお、以降、物語の後半、終盤の展開についても語る。

(追記 : 2022.9.14 論理展開を明確にするため、大幅に改稿しました。)

Dr.ハキムは災害のような存在

物語の観点から本作を語る前に、物語を進行させる役割のDr. ハキムについて、簡単に述べたい。Dr.ハキムは、両親から離婚をする話を聞かされた娘が、二人の仲直りを望み、その時に落とす涙によって呼び起こされた本の精霊のようなキャラクターである。Dr. ハキムは本作において物語の進行役のような役割を担っている。精霊のようなキャラクターと言っても、決して可愛らしかったり優しいキャラクターではなく、身勝手で道化的な振る舞いをする。そんな態度に、コーディ(夫)とメイ(妻)の二人は序盤から頭にキているが、結局はヨリを戻すという話において、その「ムカつきキャラ」が必要なピースとなっている点が面白い。

f:id:tuquoi:20210601163544p:imageDr. ハキム

恋人(夫婦)の険悪な関係が、以前の仲の良かった関係に戻る物語をドラマティックに描くのは意外に難しい。というのも「互いを人間として尊重し、適切で寛容なコミュニケーションをとれば仲良くなれる」などと言っても、話として盛り上がるものにはなりにくい。当然、何かの困難を2人が乗り越えるという話になることはとてもよくあるパターンだろう*1。ただ、そうしたプロットの場合、どうしても夫婦の一方、つまり当事者自身が活躍などをして、もう一方の当事者(相手)を感心させる、という流れになりやすい。

本作では、メイ(妻)とコーディ(夫)はオープニングで既に離婚を決めており、2人自身は仲直りをしたいとは思っていない。では誰が仲直りを望むかと言えば、それは彼らの一人娘ローズである。もちろん、娘が両親の関係修復を望むことは極めて自然なことである。だからといって「娘がかわいそうだから」という理由だけで、夫婦関係を維持・修復するような物語が、果たしてハッピーエンドと言えるかどうか、微妙だろう。

本作では、両親の関係修復を望む娘の涙が、娘ローズの意志とは関係なく、Dr. ハキムを召喚し、そのハキムが実に身勝手に仲直りを強制させる、という展開になっている。ここで重要なのは、夫婦関係の修復は誰かの思惑ではなく、ほとんど成り行きでその関係修復が進んでいくという点である。

更に注目すべき点は、Dr.ハキムとはマトモなコミュニケーションが取れないところにある。彼は人の話を聞かない。ただただ暴走機関車のごとく物事を推し進めようとする。Dr.ハキムの行動はいわば「災害」のようなものなのだ。彼がまともな会話ができて、コミュニケーションが取れる関係であった場合「余計なお節介はやめて下さい」という要請に彼は応えなくてはいけなくなる。しかし、聞く耳を持たないハキムは、この家族にとって、1人の登場人物というよりも、全くの外部的な存在となる。押さえておきたいのは、家族の愛情などによって、この家族が修復しているのではなく、災害のような環境の困難さによって「結果的に」修復する話であるということだ。これが後の考察とも関連する。

恋の継続を謳うことが意外に難しいのはなぜか?

男女2人の恋愛を描いたゲームである『フローレンス』(2018)というスマホゲームがある。また最近だと『マケット』(2021)という作品でもそうだが、これらの作品では恋愛の破綻が描かれている。昔からある「騎士が囚われの王女(Damsel in distress)を救い出し、2人は末長く暮しました」という古典的な物語は、今やゲームでもなかなか見かけない。姫救出物語の典型的な例と思えるマリオシリーズでさえ、2017年発売の『スーパーマリオ オデッセイ』では、最後に、マリオとピーチ姫は結ばれない。エンディングでピーチ姫は一人気球に乗りクッパとマリオを置き去りにして去ろうとする。ゲーム作品におけるジェンダー表現の変化として、こうした事は多くのゲーム作品に見られる最近の傾向である。ある種のリアリティを追求するにあたり「二人の男女が末長く暮しました」を素朴に描くことは端的に困難になっている。こうした傾向の理由はいくつかあると思うが、1つは社会の中におけるジェンダー観の変化が大きいだろう。そして、その理由とともに、「救出」はゲームという表現形式に合っている一方で、「その後の幸せな恋愛の継続」はゲームという表現形式に合っていないということが、より自覚されるようになったからではないかと考える。この考え方の背景には「プレイヤーキャラクター(PC)とノンプレイヤーキャラクター(NPC)の非対称性」がある。これについて少し詳しく述べたい。

救出の非対称性と恋愛の対称性

クラシックな救出をテーマとしたゲームでは、主人公は囚われの姫を救出するのに相当の苦労や努力を重ねる。一方で、囚われの姫の事情というのはプレイヤーのキャラクターに比べてどうしても描写が薄くなってしまう。これは映画や小説であっても同じタイプの物語であればある程度は同じだろう。しかし、小説や映画であれば、主人公と同じくらい姫側の描写を描くことは可能かもしれない(例えば同じくらいの時間やページ数をかけて描くことによって)。しかし、ゲームでそれをするのであれば、姫側もプレイ可能なキャラクターとして登場させない限り、どうしても非対称性が生まれてしまう。ゲームにおいては、同じ物語の登場人物と言っても、操作できるプレイヤーキャラクターと(PC)と操作できないノンプレイヤーキャラクター(NPC)はその立場が大きく異なってしまう。救出という行為をゲームで描きやすいのは、勇者による姫の救出という行為の非対称性が、PCとNPCの非対称性と合っているからだ。姫側を主人公と同等にプレイさせたら、それは単純な救出劇ではなくなるだろう。それは既に姫の「脱出劇」であり、おそらく主人公側の素朴で英雄的でヒーロー中心の救出劇にはならない。

そして、救出後の恋愛関係継続を地続きでゲームで描くことは更に難しい。恋愛関係が対等な互いの同意と好意によって継続するという前提からは、ゲームにおけるPCとNPCの非対称性はかなり都合が悪いからだ。これは映画や小説であっても、男もしくは女からの一方的な見方に終始した作品が「恋愛ファンタジー」としてやや否定的に捉えられてしまうのと似ているかもしれない。そしてゲームの場合、更に操作できる「量」によっても、両者を同一レベルで扱わないとゲームとして恋愛を描いても、どうしても一方的な(操作できるキャラの)視点に偏った恋愛劇になりかねない。辛うじて恋愛の成立までは描くことはできても(相手を目標物のように捉え、それをゲットするまでの物語として描くことができたとしても)、その恋愛関係を継続して維持するという段階の描写になると、操作の非対称性が邪魔になり途端に難しくなってしまう。ゲームで「2人は結婚して末永く暮らしました」というエピローグを付けることの難しさは、操作をしてもいないNPCのその後の人生を決定づけることへのためらいにある。これは救出する側が男性ではなく、女性の場合に逆転して考えてみると、よりイメージしやすいかもしれない。「囚われた王子様は、その女性剣士によって助けられて、その後、2人は結婚して末永く暮らしました」というエピローグを聴いて、「王子様自身は、どう考えていたのだろう?」という考えが頭をよぎるのだとしたら、逆に助けられるのがお姫様の場合には同じように「お姫様自身はどう考えていたのだろう?」と「なぜ思わないのか?」を考えてみると、より「2人は末永く〜」というエピローグを付けることの難しさが分かりやすくなるかもしれない。

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It takes Two』はそういう意味で、ほとんど破綻しかかった恋愛(夫婦生活)を無理やり継続させるという、極めてゲームという表現形式では難しい物語を描こうとしている。そしてそう考えると2人同時プレイを強要する本作のシステムは、恋愛継続の物語を描くため非常に都合が良い。それぞれが互いに相手に何を思うかを正にゲームナラデハの仕組みによって表現可能になるからだ。例えば、プレイヤーAは敵を倒すために相方であるBにもっとこう操作してほしいと思っている。しかしBの視点から見ると、Aが望むことは分かるものの、その通りに操作するにはAからは見えにくい障害があるため難しいのであり、そこに両者の意思疎通の難しさが生じる、という場面が本作では数多く発生する。これはまさに恋愛関係や夫婦関係で生じるコミュニケーションの難しさに似ている。

しかし、本作は、ゲーム特有の表現を使って夫婦の恋愛劇を描きたかったのかというと、そうではないと私は考えている。

むしろ、本作が真に描きたかったのは、ゲームを誰かと一緒にプレイするという行為そのものである、と考える。恋愛劇は、本質ではなく、表層的な飾りにすぎないのではないか。以下に、その点を理由とともには述べていきたい。

描きたいのは愛の魔力ではなく、ゲームの魔力

理由の1つ目は、本作の描く夫婦像が極めて保守的なイメージによって描かれているという点にある。夫のコーディは家事に専念していて、妻のメイが仕事一筋であることにコーディが不満を持っているという設定になっている。こうしたイメージはかつての専業主婦の妻が、仕事に夢中な夫に不満を抱くというテンプレ的なメロドラマ設定の男女逆バージョンに過ぎない。これを男女入れ替えて表現したら、おそらく「古臭すぎる夫婦像」として受け入れられなかっただろう。しかし、本作が現代の夫婦関係を時代にあった形でリアルに描くということに興味がないのであれば、このようなテンプレ表現であってもなんら不思議はない。現代社会のシリアスな夫婦の機微を描きたいわけではないのだから、今やスタンダードとなった夫婦共働きで現代的な夫婦像である必要がなかったのではないか。*2

理由の2つ目は、子供の描き方についてである。娘のローズは夫婦関係修復のためのキーパーソンであるのに、あまり何を考えているのよく分からない。離婚について相談をもちかけられる場面で静かに受け入れるような態度を見せた後で、部屋で一人になると両親の元サヤを望むという姿は非常に健気であるし、可哀想で心を揺さぶる。ドラマとして拙いわけではないが、人物の内面を深く描くようなドラマにはなっていない。また、ラストの「わたしが原因で離婚する」という素朴で幼いローズの誤解は、両親の離婚を自分が原因だと思い込むというよくある描写であり、とても自然ではあるものの、それまで物語として特に布石があったわけでもなく、かなり唐突にラストにそれが語られる。また、象のぬいぐるみが壊れてしまう鮮烈なエピソードも、ローズ自身の心情や親子関係を示すような要素があまり感じられない。もしもっとエモい物語を描きたいならば、ローズの切実さをより訴えるようなシーンがあっていいだろう。しかしそれはないし、エンディングもまたかなり淡白なのだ。やはりここにも夫婦関係や親子関係を濃密に説得力をもって描こうという意思は弱いと感じさせる。

こうした描写から、やはり本作は本気で夫婦愛や親子愛や家族愛を描こうとした作品ではないと思える。では、本作で、この夫婦の物語にはどのような役割があるのだろうか。私の考えでは、それは、夫婦愛や家族愛そのものを描くための物語なのではない、というものだ。つまり、物語の役割は比喩なのだ。何の比喩か。それはゲームの比喩なのである。繰り返すが、『It takes two』が描きたいのは、ゲームをプレイするという行為そのものである。特に、「2人で一緒にプレイする」という事象そのものなのだ。だから格闘ゲームのパロディや、マリオカートレインボーロードのオマージュが登場する。こうした子供の頃に2人でゲームを遊んだタイトルのパロディを出すのには理由がある。よくネットなどではゲームの2人プレイについて度々次のようなことが言われる。

「2人で遊ぶとどんなゲームも楽しくなってしまう」

あまり面白くない凡庸なゲームでも2人で遊ぶと自然と楽しくなってしまうということを意味するこの言葉。この協力プレイの魔力こそが『It takes two』の描きたいものではないだろうか。本作の開発者であるジョセフ・ファレスの過去作を振り返ると、彼のビデオゲーム一作目である『ブラザーズ : 2人の息子の物語』も同様である。兄弟の感動的な物語ではあるものの、『ブラザーズ』の圧倒的な魅力はゲームをコントローラーでプレイするということが果たすゲームならではの独特な演出にあった。その発想こそがキモの作品だったと言えるだろう(『ブラザーズ』は、残念ながらSwitch版が悲惨な出来の移植であるため、PC版を強くオススメする)。

では、夫婦愛や家族愛の物語というのは、単なる添え物であり、比喩でしかないのだろうか。一概にそうとは言えない面もある。本作の物語がゲームではなく、一般的な映像作品であれば、最後、夫婦が仲直りするという展開をただ漫然と見つめるだけになっただろう。そこに納得感や説得力は薄かったかもしれない。なぜなら、物語自体には説得力もリアリティも薄いからだ。しかし、ゲームである本作の場合、本作をクリアしたプレイヤーである2人には独特の空気が流れているはずだ。「もう一度仲良くなって良いかもしれない」そう思わせるだけの奇跡を起こしたのは、物語としての設定、プロット、台詞の秀逸さではない。「2人でゲームをして楽しんだ」という事実そのものだ。その事実があるからこそ、このやや拙い物語で許せてしまうのであり、理不尽に仲直りしても良いのである。そして何より、本作の持つ独特のノスタルジーがある。かつて一緒にファミコンスーファミをプレイした時のようなそういう良いことばかりが思い出せるような過去の煌めき。それがうまい具合に、かつての幸せだった恋愛期間とオーバーラップされて、巧みに物語内の夫婦愛を錯覚させる。様々なゲームシステムがごっちゃ煮にされているのは、ある意味で過去の回想であり、美味しいところだけをつまみ食いするようなノスタルジーに似た贅沢さでもあるだろう。It takes two』は、そうした畳み掛けるような物量によって、恋愛の魔力とゲームの魔力を混同させることを達成している作品である。

それゆえ、この夫婦関係を修復しようという強い意志を持つ登場人物は不要になるのだ。Dr.ハキムという災害のような存在がきっかけとして働けばいい。あとの関係修復の奇跡はゲームの魔力が担ってくれる。これは子供の希望によって、望まない夫婦関係を持続させるという、あまり「正しくない」物語になることも巧みに避けているという面もあるだろう。

誰とプレイするかが物語の説得力を決める

だからこそ、本記事タイトルにあるように「大切な人とプレイして欲しい」ゲームなのだ。そんな安い映画のプロモーションコメントみたいなことをつい言ってしてしまいたくなるのは、そのあまりにも贅沢な錯覚の旅路は、ゲーム外の「大切な人」との共有によって更に増幅されるからだ。いや、もしかしたら、プレイ後はプレイする前よりも、相手がもっと大切な人になってしまうかもしれない。そういう安っぽいロマンを心から信じさせるに足る実力を持っているゲームの傑作だ。人を気持ちよく錯覚の魅力に落とし込むことができるのが『It takes two』という作品自身の魔法であり、ひいては多人数で遊ぶゲームというものが本来的に持っている魔力なのだろう。

 

*1:映画『ダイハード』『トゥルーライズ』など

*2:本作における男女の単純な裏返しは随所に見られる。例えば、ゲーム中盤で、騎士と魔法使いに変身して進む場面がある。肉体派の騎士を妻のメイが、魔法使いがコーディになっている。格闘ゲームパートも戦うのは妻のメイである。TPSパートでも銃で敵を撃つという勇ましい役割は妻のメイが担っている。あまりにこの逆転が分かりやすくなされていて、ある意味素朴ささえ感じさせる。