ビデオゲームとイリンクスのほとり

ブログになる前の軽い話は以下で話してます。■Discord : https://discord.gg/82T3DXpTZK 『ビデオゲームで語る』 ■映画の感想は『映画と映像とテキストと』というブログに書いてます。https://turque-moviereview.hatenablog.com/ ■Twitter ID: @turqu_boardgame

映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

『AI : ソムニウムファイル』垣間見せる寒さへの自覚と自意識の哀しみ(ネタバレなし)

2019年にリリースされた『AI : ソムニウムファイル』。発売から随分時間も経ち、今更ながらクリアしたのだが、率直に感じたのは「キツイな」ということだった。このことはネットをはじめ、本作への評価で多く言われる「下ネタやギャグが寒い」こととも、もちろん関係する。しかし、私はそうした下ネタのギャグの寒さそれ自体が根本的な問題だと思っていない。寒いギャグがもたらす欠点はもちろんあるが、この作品が本当に哀しいのは、そうした寒さへの自覚である。本稿ではそれを示していきたいと思う。

AI:ソムニウムファイル

なお、本作の特徴であるソムニウムパートはとても素晴らしい仕掛けであると感じている。ソムニウムパートとは、登場人物の夢の世界に入り込んで、その人のいわゆる深層心理の中で、心に秘めた謎を解き明かすパートである。パズル的なメカニクスでもあるが、一般的なパズルよりもヒラメキが重視されるタイプのゲームで、昔からある脱出ゲーム*1に近いシステムとなっている。その夢の世界にある事物にアクションを行い、仕掛けを動かして、与えられた課題をクリアしていく。脱出ゲームについての概要は以下のウィキペディアを参照してほしい。

脱出ゲーム - Wikipedia

もちろんこのゲームパートにはいくつかの批判があるものの、このパートはストーリーテリングと脱出ゲームをつなぐかなり有用な仕掛けとして、個人的には大いに可能性を持つアイデアではないかと思っている。しかし、本稿では、こうしたゲームメカニクスを主題にしたいわけではない。語りたいのは、本作の脚本についてである。その脚本が持つ哀しみとはなんなのか、順番に説明していきたい。

あまりに懐かしさを感じさせる下ネタ

本作で、度々寒いと評価されている下ネタがどういうものか具体的に見てみよう。

本作の主人公は、伊達という名の警視庁に所属する捜査員である。その彼は端正な顔立ちをしており、いわゆるハンサムな見た目をしている。他の登場人物からハンサムだと指摘される場面もある。また格闘術にも長けており、暴漢やヤクザであれば撃退しまえるほど強い。そして謎のメカニカルな拳銃(Evolverという)を所持しており、射撃の腕前も相当なものだ。そんなヒーロー的な資質を持つ主人公だが、実はエロ本や性に対して異常な執念があり、エロ本と聞くと超人的な力を発揮するという設定がある。

エロ本に異常な執着を見せる主人公

この設定だけ聞くと、人によっては意味不明に感じるかもしれないが、美少女ゲームなどの一昔前の国産アドベンチャーゲームを知っている人には、どこか懐かしい感じさえする設定だろう。美少女ゲームに限らず、『シティハンター』の冴羽獠のようなキャラクターを想起してもいい。いずれにしても20年近く前(またはそれ以前からある)「カッコいいけど、軽薄」「普段はおふざけキャラなのに、いざという時は真剣になる」、そんな伝統的な男性キャラ設定であるのだ。この設定だけに限らない「『提灯怖い』と言ってみて」と女性キャラに(ちょう"ちんこ"わい、と)言わせようとする下ネタとか、とにかく時代錯誤感がすごい。この他にも「(女子高生に)パンツ見たい」とか「パフパフ」とか「(胸の大きい受付嬢に対して)揉みたい」とか、そういうノリがこれでもかと出てくる。それは主人公の言動だけの話でもない。作品全体として、あえて下ネタや寒いギャグを言っているという感じである。こうしたギャグを性差別的なものと批判することはできるが、私が指摘したい問題はそうではない。

例えば、私が気になるのは、むしろ次のような場面に現れている。ある捜査の流れの中で、主人公の伊達は、小学生を新宿2丁目のゲイバーに連れていき「同性愛者は苦手か?」と問わせる選択肢をプレイヤーに提示する。

唐突な選択肢

ここでその利発な小学生女子(みずき)は、「同性愛者に苦手意識はなく、むしろリスペクトしている」という意見を淡々と語る。語っている内容自体が特に問題だと言うのではない。実際、そこまで差別的な発言や表現はないと考える(細かく言えば、かなり気になる点を含む発言や選択肢ではあるが、そこは置いておく)。私が気になるのは、この脚本を書いた人間の自意識である。なぜここで唐突に同性愛者に対する"感覚"についての選択肢が出てくるのか。そのゲイバーにはいかにもなキャラ造形の「ママ」が出てくる。おそらく製作者は少しだけ感じているのだ。こういう凡庸なイメージのマイノリティ属性を持つキャラクターを描く事に対して、どこか不安を感じている。だからこそ「まともなこと」を小学生のキャラクターに喋らせてしまう。エラソーに説教を垂れるのでもなく、何かしらの正義を語るのでもない。ただ、素朴に、正直に、普通のことを、感じたままだという体(テイ)で、だからこそ、まだまだ子供とも言える小学生のみずきに語らせるのだ。これは宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』で10年以上前に語った

「自分は一度反省したのだから倫理的である」という免罪符

---『ゼロ年代の想像力』第十三章 昭和ノスタルジアとレイプファンタジー

このメンタリティとそれほど変わらない。ただ、当時、宇野が批判したような決断主義の暴力性のような切迫した問題はここにはなく、ただひたすらに「娯楽作品としてこれくらいは許されるでしょ?」という目配せがあるだけだろう。ここで私が言いたいのは、善いとか悪いとかいう差別の問題ではない。作者は分かっている。ギャグが寒いことも、下ネタがそこまで受けないことも。エロ本なんて読んでいる人間はもういないということも(高齢者以外で)。私は、ただ、その「自覚の哀しさ」を言っているのだ。

自覚してれば「いい」のか?

本作の脚本が持つ哀しさは、こうした自覚と自意識にある。本作の自意識を典型的に示しているのは、本作に備わっているTip集(用語集)である。アドベンチャーゲームでは、よくこうした用語集というものが備わっている。都市伝説や科学ネタなど、その手の用語が頻繁に出てくるタイプのアドベンチャーゲームでは珍しくない。この用語集には、様々な作者の自意識が表現されている。

例えば、次の画像は用語集にある「ズッ友」の説明である。

「作者への許し」などプレイヤーにとってはどうでもいいだろう

このゲームの作者は生真面目である。おそらく載っている用語については、ちゃんと調べた上で、正確に書くことを当たり前のこととして実践している。そして、その上で、「ズッ友」が死語になってしまっているかもしれないことをわざわざ言い訳している。この言葉だけではなく、いわゆる「中二病」についても、何回かゲーム内で言及され、「逆にそれがむしろ中二病ではないか?」というようなヒネったツッコミもしている。作者は自らが、そして自らの作品がどのように見られるか、そして見られる時に「わたしはその見方について気が付いていますよ!」ということを言わずにはいられない。これは、ある意味で、生真面目なその作風とも通じている部分なのだろう。またエピローグ近くになって解放されるTipsとして「〇〇寄生時の〇〇の謎」(〇〇はネタバレ防止のため伏せる)や「エピローグの時期」があるが、これはシナリオ上の穴を埋めるような解説文である。ここでは、プレイヤーのほとんどが気が付かないような穴(やや不合理な点)をわざわざ説明している。以下の画像は「エピローグの時期」というTipsの説明文の切り抜きである。作品中に出てくる年数への想定されるツッコミについて説明している。

「そのツッコミ、分かってますよ」と言わずにいられない

こうした自意識や自覚の表明と、頻出する下ネタやしょうもないギャグはほとんど同じことを表現してしまっている。つまり「あえてやってますよ」「自覚していますよ」ということの表明なのだ。そしてもちろんそれは寒いギャグだけではなく、ポリコレやコンプライアンスに対してもそうなのだ。「わかってますよ」「あえてやってますよ」。本作は、それを言い続けている。誰も本気で責めたりなどしていないのに、言わずにはいられないのだ。そうでなければ、ほとんど過剰とも言える下ネタやギャグをあそこまで詰め込んだりしない。いわば数に物を言わせて、ある種、それが作風だと言わんばかりに、下ネタやギャグを詰め込んでいる。

「ウケないギャグでも百回言えば、許される。だって私は分かってやっているんだから」

どうだろう。それは少し哀しい姿勢ではないかと私には思えてしまう。

ツッコミたいのはそこじゃない

シナリオの穴や差別的表現の問題や論理矛盾など、そうした脚本上の問題点に神経質になるのは当然であり、クリエイターとして当たり前のことだろう。しかし、おそらく本作がユーザーとして対象とする「いい大人」の大多数は、些細な誤りや矛盾点をそこまで気にしたりはしていないのではないか。いや、あまりにも明からさまな間違いや矛盾点は、ミステリー作品の品質に関わるため、丁寧に取り除いてほしいと思う。その意味において、本作はとても丁寧に作られた作品だと思っている。おそらく開発中に数多く指摘された矛盾点や誤りを、ちゃんと一つ一つ丁寧に潰しながら作り上げていったのではないかと想像する。だからこそ、ある程度の品質にまで到達した作品の細かな瑕疵については、大目に見るプレイヤーも多いだろう。

本当に気になるのはそういう小さな問題点ではない。例えば、以下の画像は、幼いころのヒロインが手遊びで喜ぶシーンである。

そんな喜び方するコドモいる?

とても純粋で、飾り気のない子供であることを表現したかったのかもしれないが、そんな「勝った勝ったぁー!」みたいな喜び方をする子供がいるだろうか。それがイノセントな少女の表現として、(実際にいるかどうかとは関係なく)脚本家として採用するに足る表現なんだろうか。また虐待する親を表現する箇所でも気になる。

育児放棄する親への表現として、何が言いたいのか分からない

育児放棄してしまう親の問題。それをシビアに描きたいのだとしたら、果たして本作で表現された硝子や沖浦のように表現することが適切なんだろうか。全くリアリティのない、ただ「こう描くとわかりやすいのではないか」という陳腐な表現で描かれている。また、硝子のように「子供をたたいてしまう」ことに開き直る親があまりいると思えない(いや、そりゃ中にはいるだろうが)。ましてやバーのような場所で、告白するように子供への虐待を語る親の描写として、真に迫るような描写とは全く思えない。

こうした「人間を描く」ことへの無神経さの方が、プロット上の論理的な誤りよりも遥かに気になってしまう。もちろん、人それぞれ趣味があるし、気になることも異なるだろうとは思う。特に本作を、サスペンスやミステリーとして評価するのであれば、そうした「人間が描けていない」ことをより小さな問題だと見なすこともできるだろう。私が言いたいのは、「人間が描けていないから駄目だ」というような論評ではない。重要なのは、本作では、こうした人間描写に対する問題への自覚や自意識はほとんど語られていないという点である。あんなに下ネタには自覚的なのに、人間描写のリアリティには無頓着であること。そこが哀しいのだ。

空虚な言葉遊びを楽しめるのか

本作には、様々な言葉遊びが出てくる。タイトルにあるAIはもちろん、人工知能のAIを意味しているが、「あい」と呼んで「愛」や「哀」や「Eye(眼)」や「I(私)」にも掛けている。公式なタイトルの発音は「アイ ソムニウムファイル」のようなので、むしろ人工知能の方がサブで、「愛」や「哀」の方がメインの意味なのかもしれない。そして、本作の各章の冒頭には章タイトルが出てくるが、それはにはすべて「AI」の音が入っている。

「告解(こっかい)」など、すべての章タイトルにアイの音が入っている

こうした言葉遊びは、よくあるものだと思う。本作には確かにAIというか、人間の同一性に関する示唆に富む描写もある。例えば、顔認証や虹彩認証など、生物的な認証とは異なる「人格認証」とも言えるようなアイデアは、個人的にとても面白いと思った。しかし、果たしてタイトルに持ち出すほど、AIがテーマとして深く語られたのかは大変に怪しい。本作には、アイボゥと呼ばれるAIが登場し、発音からも分かるようにそれは、主人公の相棒として活躍する。そしてその発音は「Eye ball」とも掛かっている。そのアイボゥは主人公の義眼の中に収まっているAIなのだ。そんなAIである相棒とのバディものとしての側面がある作品である。しかし、それが果たしてAIであることにどれほど意味があったのかは疑わしい。いわば、子供向けアニメに出てくる主人公に寄り添う妖精のようなパートナーとほとんど違わない、普通に人格を持つパートナーでしかないからだ*2。またそれは「愛」や「哀」というテーマについてもそうだ。家族愛や恋人との愛、そして哀しみなどは確かに描かれているものの、とても凡庸な描写におさまっている。具体的にいえば、応太編では、道楽息子に向けた母親の愛が描かれるが、実に退屈な三流ドラマでしかなかった。他作品に目を向けると、応太と同じような大学を中退してしまった子供への親の愛を描いた作品として『ナイト・イン・ザ・ウッズ』(2017)のような優れた作品が思い浮かぶ。『ナイト・イン・ザ、ウッズ』でも、大学を身勝手に中退してしまった子供に優しく接する親が描かれるが、その親の抱える躊躇や悲しさもまた僅かな言葉によって静かに描かれている。そこには子供を応援したい気持ちと叱ってやりたい気持ちの切ないほどの葛藤が見てとれる。子供もさることながら、親もまたひとりの人間であることが痛みを伴って見ている側に伝わる描写なのだ。そういう描写と比較すると、本作の親の愛の描写の稚拙さは、一層明確になるだろう。

そんな三文芝居しか描かれない割には、ダジャレには執心し、様々な同音異義語を多用して、言葉遊びだけはこだわっている。例えば、登場人物の一人である沖浦連珠が経営する会社はレムニスケートという名前だが、レムニスケートとは連珠形と呼ばれる曲線図形であり、それは沖浦の名と同じ意味になっている(レムニスケート図形は、無限大♾のマークをイメージすると分かりやすい)。そしてその元妻である硝子の苗字は灘海(なだみ)であるが、その音は涙(なみだ)とも近い。レムニスケートの図形を半分にすると涙型になる。こうした言葉遊びに対するささやかな考察の遊びは、ある程度、製作者側の意図するこだわりでもあるのだろうが、物語で描かれるあまりに浅薄な人間描写を目にすると、そんな考察も虚しくなってしまう。

本質的な議論や主題はおきざりにしても、言葉遊びだけにはこだわりを見せるというのは、どこか空転しているような寂しさを感じる。それは、ひたすら言い訳によってロジックや下ネタへの自覚と自意識だけは表現するのに、普通の人間を描くことには、とんと無頓着になってしまう歪さに似ているのだ。

伝統的日本産ADVはどのように進化するのか

ストーリードリブンの、いわゆるアドベンチャーゲームと言われるジャンルはとても難しくなっている。海外の極めて優れたアドベンチャーゲームが大量にリリースされる中で、伝統的な日本のアドベンチャーゲームはどうやって独自の進化をしていくのだろうか。それはとても難しい問題を抱えているように感じるのだ。『AI:ソムニウムファイル』のプロットやトリックは、素晴らしいものだったと思う。打越鋼太郎というクリエーターの才能が決して衰えていないと感じさせる作品だった。しかし、私からすると、こと脚本については『Ever17』のころから、全く変わっていないし、全く進歩しているような気がしない。ただただ自覚と自意識の羅列が増えてしまっているだけのように思えてしまう。全く感情移入も共感もできない、ただかわいくて不思議なところがあるヒロインを描き続けることに、どのような意味があるのか、いまひとつ分からないのだ。そしてそれは、なぜあんなに下ネタや寒いギャグを作品に詰め込みたいのか、いまひとつ分からないことと似ている。

海外の「正しい」アドベンチャーゲームを遊んでいると、「けっ、エラソーに」と思うことはある。鼻持ちならないなと思うことも少なくない。しかし、彼らの真面目さをバカにすることはできない。もちろん商売として「正しさ」を表現しているような人も中にはいるだろう。しかし、大部分の彼らは極めて真面目だと思うのだ。彼らは、性癖をポリコレによって単純に否定などしていない。むしろ、性癖を表現しつつ、更に真面目に考えようとしている。そうした真面目さや「正しさ」へのカウンターがもちろんあっていいし、日本のアドベンチャーゲームにはそうしたカウンター表現としての役割が何かあるかもしれないと思う。しかし、一方で、そうした海外作品の鼻持ちならない「正しさ」には確かな力がある。そして、端的にそうした「正しい」表現の方が、「わかりやすい」ということもあるのだ。打越の表現する下ネタが、分かりにくくなっているというのは、単に時代的な古さというだけではなく、そうした現代的な「正しさ」の分かりやすさに対するやや愚直な観察が足らない面もあるのではないだろうか。『AI:ソムニウムファイル』には素晴らしい点もあるだけに、そんなことが気になってしまう作品でもあった。そして個人的には、そういう「正しさ」を、日本のアドベンチャーゲームにこそ、真面目に、かつ、本気でおちょくってほしいとも思うのだ。

*1:CRIMSON ROOM』(2004, Web)『SIMPLE DSシリーズ Vol.27 THE 密室からの脱出 〜THE推理番外編〜』(2007, DS)など

*2:例えば、ロボットを相棒とする『TITAN FALL2』のような優れたバディものを見ると、いかに本作が物足りなものであるかは分かりやすいだろう。

死にゲー好きにはたまらない『ドルアーガの塔(アケアカ)』があまりに楽しすぎる

2022年6月。『アーケードアーカイブス ドルアーガの塔』がリリースされた(PS4/Switch)。小学生の頃、『ドルアーガの塔』はファミコンでプレイしていたが、そこまでハマったわけでなかった。せいぜい到達しても10階ぐらい。全部で60階まであることは知っていたから、到底クリアできるとも思わなかった。正直「楽しかった」という思い出があるわけでもない。ただ、近所のお兄さんがカラー刷りの攻略本を持っていたことを印象深く記憶している。その本には不思議と憧れた。なんだか神秘的で、厳かなものに見えた。その攻略本のせいか、少し大人な人が遊ぶ、高尚なゲームだと子供心に思ったのかもしれない。ファミコン版は1985年発売。今回購入したアーケードアーカイブスは、その前年、1984年にゲームセンターで稼働したバージョンを移植したものになる。私は、そのアーケード版をゲームセンターでプレイしたことはない。

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ドルアーガの塔』は見下ろし型のアクションRPGだ。アクションと言っても激しいアクションは全くない。スティック以外に使うボタンはひとつだけ。そのボタンを押すと剣を振る動作をするが、その振る動作で敵を殺すのではない。むしろ振る動作の途中に敵と接触してしまうと主人公が死んでしまったりする。ボタンを押しっぱなしにすると剣を突き出した状態になる。その状態で敵に重なると相手を倒すことができる。攻撃よりもむしろ防御方法である盾の使い方が特徴的かもしれない。盾はほとんどの遠距離攻撃を防ぐ事ができるが、慣れないと扱いがやや難しい。使えるアクションは少ないながら、敵の動きを一つ一つ学びながら攻略していく。やってみると分かるが、今のゲームと比べるとかなり変わったアクションゲームである。

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1階から60階までの各階(フロア)に宝箱が1つだけ隠されており、特定の条件(グリーンスライムを3匹倒す、とか、呪文を歩きながら盾で3回受け止める、とか)を満たすと、宝箱が出現する。宝箱を確実に取っていかないと、途中でほぼクリア不可能になる仕様である。しかし時々取ると不利になる宝箱もあり、それは取らないようにする必要がある。各フロアの宝箱の出現条件はアーケード稼働当初は手探りだったそうだ。当時の人たちはよくそれでクリアまでしていたものだと思う。

ただアーケードアーカイブス版は、宝箱の出現条件がボタン一つで確認できる。また中断セーブも可能である。しかし、それもゲームをリセットすると消えしまうし、1つしか中断セーブは作れない。それなりに親切な機能ではあるものの、Nintendo Switch Onlineレトロゲームにある「巻き戻し機能」のような機能はない。

死にゲーに通じる魅力

こんな古いゲームに今更自分がハマるとは全く思わなかった。レトロなゲームを好んで遊ぶ人がいることは知っている。しかし私は、最新のゲームの豪華で配慮のあるゲームが好きなのだ。昔のゲームは辛すぎる。見た目もショボい。自分はそういうものを好まない人間だと思っていた。もっとメジャーで分かりやすいものが好きなタチなんだと思っていた。

しかし、ハマってしまった。なぜこんなにハマったんだろうか。私がハマった理由は、死にゲーと言われる作品をプレイする時に似た、以下の3つの特徴ゆえだと思われる。

■宝箱出現手順を毎回実施するのが楽しい

フロアごとに決まった宝箱出現条件が設定されている。それを達成するのが楽しい。この楽しさは『ダークソウル』などの死にゲーで周回プレイをする時や、あるステージに来た時などに毎回決まった動きをなぞるように実施するのが楽しいことに少し似ている。(『ダークソウル』のセンの古城を手慣れたルーティンでこなして進んでいく楽しさをイメージしてもらえると分かるだろうか)

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そして、この手順を覚える事自体が、何かスキルを学んでいるような気持ちにもなり楽しい。また、宝箱を出現させることが試練の難易度としてちょうど「できるんだけど、油断すると死ぬ」程度であり、その点もいい。というのも宝箱を出現させず、ただ突破すればいいフロア(取ると不利になる宝箱のあるフロア)の方が、難しいケースも多く、宝箱出現の難しさは、ゲーム全体の中で真ん中辺にある難しさなのだ。ある程度ゲームの内容が分かってくると、敵の攻撃を掻い潜り、いかに相手の数を減らすかが重要になってくる。そうした戦闘の難しさに対して、宝箱出現のイベントがちょっどいい中間ステップとしてモチベーションを維持してくれる。おそらく戦闘だけを続けるゲームデザインであったら、疲れたり、単調に感じてしまったことだろう。

■着実に上手くなり、時々、運で突破できる

敵の動きを学ぶことで、どんどん上手くなる。スタート位置、鍵、扉などはランダムだが、各フロアのダンジョンの形はフロアごとに決まっている。敵の動きなどは覚えて特徴を把握することで確実に生存率を上げることができる。動体視力や反射神経がそこまで必要なゲームでもない。「死なないプレイ」をいかに心掛けるかによって明らかに長く遊べるようになり、回数をこなすことで、着実に上手くなる。しかし、それだけでなく、何回か繰り返していると、運良く「あ、うまくいった!突破できちゃった」という事がある。この試行と努力の果てに、運によってたまたま良い感じの状況が生まれて突破できる。これは、死にゲーと呼ばれるゲームで感じる達成感にどこか似ている。

■ゲーム後半の無双感と歯応えの両立

ゲーム後半になると主人公がかなり強くなる。特にツルハシ(マトック)という壁を壊すアイテムが無限回使えるようになると、状況を強引に突破できるようになり、無双感が出る。しかし昔のアーケードゲームらしく、常に一撃死の危険はある。この辺りのさじ加減が見事である。死んでしまった時に、十分強いのだからその程度の困難であれば突破できたはずなのに、と反省する一方で、強くなっているからこそ、強引に進もうとしてしまったという驕りも感じたりする。

後半になるにつれて無双感が出るだけでなく、テンポ感が上がってくるところも非常に面白い。フロア29階以降は60階まであっという間という気もする。実際の時間では決してそんなことはないのだが。

ゲーム前半と後半とで、ちゃんと異なる歯応えが感じられるようになっており、各フロアごとに「ここではどういう体験をさせたいか」がバリエーション豊かに考えられている。最初から最後まで見た目は変わらない一本調子のゲームに見えながら、全般を通して様々な成長を感じさせる「冒険感」を味わえる造りは見事と言う他ない。

ビジュアルのまとまりの良さ

ファミコン版では取るアイテムによって、見た目が変わったりしなかったが、アーケード版だと取得した盾や剣によって少しだが見た目が変わる。この変化はとても些細なものだが、どこか愛おしい感じがある。苦労して取ったエクスカリバーの刀身が青色だったりするわけだが、この変な感じも面白い。

また、ラスボスまで含めてあらゆる敵がほぼ同じ大きさなのも、面白い。ドラゴンも主人公と同じくらいの1マスに収まる大きさである。

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今のゲームのように巨大なボスを出せば、それだけそのボスは強く見えるだろう。しかし、本作のラスボスであるドルアーガは数々のアイテムを集めていかないと全く歯が立たない強敵でありながら、その大きさは主人公と同じくらいで、決して大きくない。それゆえ、当然ショボくも見えるのだが、単に巨大さで強さを見せつけるのではないところが、不思議と味わい深くもある。一方で、見た目は主人公と同じだが、本当はもっとデカいんだろう、と想像させる敵もいる。例えば上記写真のドラゴンは非常に長い炎ブレスを吐く。この巨大なブレスによって見た目よりも大きな敵であるように感じてしまう。

これらの表現は、限界のある制約や仕様の中で、最大限に敵を強く見せるには、どう表現したら良いだろうか?と開発者が試行錯誤したことを伺わせる。その努力にはどこか切なくなるような気持ちさえ抱く。そしてそれを独特の味わいとして、こうして受容できてしまうのも、何よりゲーム自体が面白いということによるのだ。

フロア13をクリアしよう

ぜひこの傑作を多くの人に味わってほしい。そして挑戦をした人には、ぜひフロア13のステージを宝箱を出現させてクリアできるようになるまで頑張ってみてほしい。ここが安定してクリアできるようになった時、私は『ドルアーガの塔』の魅力に目覚めた。

本作は難しいゲームであり、理不尽でもある。しかしアーケードアーカイブス版がもたらしたヒントや補助機能によって、今遊んでもめちゃくちゃハマれるゲームになっている。私は素朴にビデオゲームというのは年々、進化しているものだと思っている。今のゲームの方が、基本的には昔のゲームより優秀だと。しかし、昔のゲームもまた、名作とされるレトロゲームには、今なお色褪せないとてつもない魅力を秘めていることを本作によって今更ながら実感した。「レトロゲームなんて、ノスタルジーで遊ぶものでしょ?」というのももちろんある面では真実なのだが、『ドルアーガの塔』は、そんな思い込みに潜む「傲慢さ」をまざまざと自覚させてくれた。そのような意味でも、まごうことなき傑作ゲームだと思う。

【補記 2022/10/31】

10クレジットでクリアした時のプレイに機械音声で実況を入れた動画を作成しました。

『ドルアーガの塔』10CCクリア - YouTube

最初は中断セーブをしながら遊んでいましたが、今はいつの日かワンコインクリアすることを目指して遊んでいます。(ようやく5コインぐらいでクリアできるようになってきた)

 

傑作『DRAINUS』心のどこかで待っていた新時代シューティング

2022年5月にSTEAMでリリースされた『DRAINUS(ドレイナス)』。ノーマル2周目をクリアし、ハード2周目をプレイしている状態で、この感想記事を書いている。難易度や開発コンセプトなどを巡りネットでは少し話題になったが、そんな点も含め、感じたところを書いていきたい。なお、今のところPC版だけで、SwitchやPS4などコンソール機で発売されていないが、ぜひ移植してほしい作品だ。

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追記(2023.02.01): 『DRAINUS (ドレイナス)』のNintendo Switch版がとうとう2023年2月2日に発売される。多くの「下手の横好きシューター」にオススメしたい。これまで「初心者向けシューティング」という宣伝文句を冠した作品は単に凡作や駄作でしかなかった、そんな苦い思い出を持つ私を含めた全てのにわかシューターにとって救いとなる傑作だと私は思っています。

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全般的な感想

非常に満足した。「傑作」と言いたくなってしまう。そのくらい良かった。やや大袈裟な言い方になってしまうが、「新時代のシューティングだ」と感じた。初めて『真・三國無双(初代)』をプレイした時に近い感動を思い出した。と、こう書くと微妙だろうか。「ん?褒めてんの?もしかしてdisってる?」と思われたかもしれない。「無双って…」と。

ただ、私は完全にこれは褒めている。皮肉とかではなくて、『ドレイナス』は、本気で一つの新しい時代の節目になる可能性がある作品だと思っている。『無双』は草刈りゲームなどと揶揄されることもあるが、あれはとてつもない発明だった。「ゲーマーじゃない普通の人が、普通に遊べる3Dアクション」であり、『無双』は奇跡的な作品だと私は思っている。ゲーマーは忘れがちだが、3Dアクションの操作は普通の人とってかなり難しい。それを達成しているだけでもすごいことだ。『ドレイナス』もまた普通の人が普通に遊べるという奇跡を、シューティングというジャンルで起こした作品であり、『ドレイナス』はジャンルの意味を変えるかもしれない傑作だと感じている。

『ドレイナス』が凄いのは、「シューティングってこうじゃなきゃいけないのかな?」と下手の横好きシューターが畏れ憚っていたことを「別にそんなことないよ。これでいいんだよ」と力強く後押ししてくれたところだ。この寄り添ってくれる感じは、決して何か一つのメカニクスやアイデアや仕様によって達成されているのではないだろう。あくまで、「この作品はこうあるべきだ」という強い信念の下に、あらゆる要素をその信念に志向する形で作られたと感じる(実際はどうか知るべくもないが)。

なお、私自身のシューティング歴を少しだけ書いておく。おそらくこの辺りがこの作品への評価を分ける重要な要素になる。

私がシューティング(いわゆる英語で言うところのshoot 'em up)に明確に興味を持つようになったのは、5,6年前で、あまり上手いわけではない。比較的遊んだゲームは『ダライアスバーストCS』『ケツイ』『バトルガレッガ』など。正直、シューティングと言っても何を遊べば良いのか最初は分からなかったので、かなり癖の強い『バトルガレッガ』などを遊んだりしてしまったが、あまり上手くなれなかった。3面を1upしつつ、ノーミスでクリアするのが全然安定しなくて、辛くなってやめてしまった。『ケツイ』もやはり4面くらいで、頑張る心を失ってしまった。それでも、それぞれ30時間ぐらいはやっていると思うが、根気もなければ下手でもあり恥ずかしい限りだ。両作品とも時々遊びたくなるから、作品としては大好きである。正に下手の横好きシューターであると自己認識している。一番遊んだのは『ダライアスバーストCS』で、おそらく130時間くらいは遊んでいる。QUZルートでノーミスクリアの実績(トロフィー)を取れたことは数少ない自慢できることの一つかもしれない(でもノー被弾クリアは諦めた)。ただ、そのトロフィーを取って満足してしまい、遊び尽くすようにはプレイできていない。

点数稼ぎ(スコア)はあまり興味が持てず、しかし狙わないのもシャクなのである程度頑張るのだが、そうなると余計にミスも増えて嫌になる、なんてパターンが多い。私は1cc(ワンコインクリア)を目指す遊びの方が得点稼ぎよりも好きなのだと思う。例えば、点数稼ぎが「遊びの本質」と思われる『デススマイルズ』などはあまり夢中になれず、早々に積んでしまった(稼ぎに本質がある、という上記の判断も正しいのかは自信がない)。いずれにしろ、シューティングは気になる作品を買ってはみるものの、少し遊んで積みゲーになってしまった作品が多い。

難しいことが問題なのか

シューティングは自分にとってかなり難しい。ジャンルの平均難易度が、他ジャンルのゲームに比べて、突出して高い。私はソウル系や『Sekiro』など難しいとされている3Dアクションは好きだが、シューティングに比べると、『Sekiro』などは相当易しいゲームだと感じる。3Dアクションの中でも難しいとよく言われる『ニンジャガイデン』の最高難易度と比べてもそうだろう。私にとってはそれくらいシューティングは難しい。もちろん人による向き不向きもあるだろう。しかし、名作と言われるシューティングでも、その難しさに辛くなってしまうポイントは、単に「難しい」というだけでは少し言葉が足らない気がする。好きになりたいのに、挫折してしまう。それはどの辺りにあるのだろう。

私としては、シューティング作品の多くが、「覚えて対処する」というタイプの努力だけでは、早々に上達の限界が来てしまうところに、私にとっての「難しさ」があると感じる。もちろんシューティングにも「覚えて対処」する場面は多い。しかし、手を動かし、指を動かし、楽器を弾きこなすような訓練が、シューティングの場合、3Dアクションに比べて遥かに多く必要になる。なぜ「覚えて対処」がシューティングの場合に上手くいかないかと言うと、シューティングはもっと長い時間単位のシーケンスでの一連の操作スキルが求められるからだと考えている。例えば『Sekiro』であれば、適切にとるべきアクションが、もっと短い単位で区切られる。敵ボスのこの攻撃の時は、この動きをする、この攻撃の時はこの動きをする、とそれぞれ分割して覚えていくことで、その敵ボスに対象できるようになる。仮に途中でミスをしても、次の行動サイクルの単位からやり直しが効きやすい。しかしシューティングは、その行動サイクルの単位が長い。どこからどこまでを一つの区切りとするか、この判断からして難しい。例えば、従来のシューティングだと、ボスの特定の攻撃はその攻撃が始まる前から、画面の左端に寄っておいて、その上で、次の攻撃に備えて、ボスのある部位を集中攻撃して破壊しておかないと、次のシーケンスでほぼ死んでしまう、みたいなことが普通にある。シューティングが上手くなるには、かなり長いシーケンスでの一連の流れるような操作スキルが必要になる。そしてそれはある種のリズム感のようなもので補い実行する必要がある。難度が高いと言われる3Dアクションの方が、言ってみれば行き当たりばったりにプレイができる「易しさ」がある。私が一番ハマったシューティングが『ダライアスバースト』であることと、『ドレイナス』を気に入ったというのはおそらく関連するだろう。『ダラバー』は設置バーストによって、各場面での生存のための対処方法が明確で、そうした「覚えて対処」が効きやすいパズル的な点は共通するかもしれない。

『ドレイナス』の区切りの短さ

『ドレイナス』は、その点、すこし難しめのアクションゲームをプレイする感覚に近い。2面のコンテナから4つ足のロボットが何体も出てくるシーンなどは象徴的だろう。あれは、初見だと意外に硬くて強いと思った人もいるかもしれないが、一度倒せるようになると、全くミスしないで倒せるようになる。シューティングで同じような巨大なモブ敵が何体も出てくる場面というのは、大抵、プレイヤーの生存率を削るような存在だ(ケツイ 4面のナイトメア連続出現とか)。しかし『ドレイナス』で同じような敵が出てくる時は、それはあくまで練習のために出てくるようなところがある。敵の動きや癖を覚えるために何回も出てくる。一回一回が区切られ、その区切りで生存できるなら次も生存できる。これまでのシューティングゲームが、クレジットごとの複数回プレイによって訓練させるのに対して、『ドレイナス』は一回のプレイの中でちゃんと訓練して上手くなるまでの過程を体験させてくれる。

これはやはり区切りの短さという面が大きいと感じる。従来の名作シューティングは、1つのステージを通して、同じような局面というのがあまり出てこない。1つのステージにおいて、それぞれの部分がそれぞれ異なる意味を持って、全体として有機的に連動している。これはこれで芸術的な仕上がりを感じるが、『ドレイナス』の場合、各シークエンスの独立性が高く、悪く言うとぶつ切れな印象はある。しかし、一回のプレイの中で、ある程度の満足感を与えるという意味では、現代的なユーザビリティの高さや成熟さを見事にシューティングというジャンルでも達成しているように思える。

何より、ゲームオーバーでコンティニューする時、シューティングでは定番の「即時その場での復活」ではなく、チェックポイント制を取っていることは大きい。「即時その場での復活」の方が、初心者がクリアしやすいという点では良いのだが、これはシューティングのような難度の高いゲームをわざわざ遊ぶ人にとっては屈辱でしかない。しかし『ドレイナス』はチェックポイントまで戻して、その時の機体のパワーアップ状態で再開する。このチェックポイント制によって、従来のコンティニューが与えていた屈辱は軽減され、ミスは「悪い夢だったんだ」と都合よく頭の中で編集カットしてなかったこととし、自分のスキルによって一定の区間を確かに踏破できたのだ、という自尊心を保つことができる。*1

明確でノリやすいストーリーテリング

『ドレイナス』が巧みだと思ったのは、ストーリープロットにタイムトラベルのネタを持ってきた点だ。正直言って、これまでのシューティングでの物語やフレーバーテキストというのは、独りよがりではないかと感じていた。説明不足な割に大袈裟すぎるというか、唐突な感情移入を要求されるというか。シビアすぎるゲームプレイと共にあると、そうしたテキストも良いのかもしれないし、アーケードゲームとしてのビジネスモデルに制約される部分も大きいだろう。しかし『ドレイナス』のプロットと物語上のフックは非常にわかりやすい。はっきり言ってしまえばベタベタである。しかし、この分かりやすい話のトリックこそが、素晴らしい。全く偉ぶるようなところがなく、特に一周目が終わった段階の、縦と横が反転したロンドンという街のビジュアルの面白さと、ゲームシステムとタイムトラベルネタの連動は、狙い澄ましたベタさでありつつ、見事に2周目へのモチベーションとなっている。

「恋バナがなぜ面白いかといえば、それは恋バナであるからだ」というようなある種の割り切りに近く、タイムトラベルネタは実に分かりやすく人を楽しませてくれる。こういうサービス精神のある物語は、シューティングというジャンルで意外にこれまで実装されてこなかったのではないか。いやもちろん『アインハンダー』のような素晴らしいストーリーテリングのゲームもあるにはあったが、ああしたゲームが例外のようになっていたことこそが、シューティングというジャンルの閉塞性だったのかもしれない。

そしてこれは個人的な趣味ではあるが、『ドレイナス』が美少女的な素材に走らなかった点もどこか好ましいと思う。

開発意図は理解して批評すべきか

本作の開発者のTwitterにおいて、IGN Japanのレビュー*2に対するネガティブな反応として「びっくりするほど開発意図が伝わっていない!」というツイートがあった*3。最初、このTwitterでの反応を見た時、正直言うと、私は開発者側に否定的な印象を持った。というのも、そもそも開発意図の把握や伝達の正確さというのは、客観的に判断することは極めて難しいし、そもそも第三者レビューというのは基本的に作者の意図とは違った観点に立つからこそ価値がある。また、(たとえ理解していないように見えても)意図を理解した上で、レビュアーがあえて言っている可能性はどこまでも否定できない。そもそも作者自身の言葉であっても、作者の意図が正しく表明されるとは限らない。たとえ本人がそう言っているからと言って、それが「正しい」かどうかは、正しさを測る観点により相違する。この辺りはあらゆる芸術作品においても同様であるだろうし、もちろんビデオゲーム作品についても同じだろう。作者の意図についての話は、概要的にはこちらの2つの記事が参考になる。

芸術作品の「最適」な解釈を求めて:ジェロルド・レヴィンソン「仮想意図主義」について - obakeweb

作者の意図と作品の解釈 - 9bit

しかし、このゲームを実際にプレイしてみて、なんとなく開発者側の気持ちも分からないではないなと思った。これもまた勝手な想像でしかないのだが。

まず、既にネットでは多くの人が指摘していることだが、「開発者が高い優先度を置いている要素がほとんど肯定的に言及されず、開発者が相対的に優先度を下げた点について批判的に言及されていることに、両者のすれ違いがある」ということなのだと思う。私としては一番感じたのは、この作品は初心者だけに向けた作品ではないということだ。初心者だけではなくて、シューティングをやりたいけど、上手く遊べない、でも遊びたいと思う、ある意味こだわりの人に向けた作品なのだ。だから、「初心者向けとしてどうなんだろう?」という批判が仮にあったとしても少し違うように思う。そこまで簡単すぎるゲームではない。完全なビギナーというよりも「やる気もあるし、矜持もある。しかしマジでシューティングはどれもこれも難しすぎだろ!」と心折れてきた人たちに向けたゲームなのだ。だからこそのチェックポイント制であり、カスタマイズ可能な高性能機体であり、従来のシューティングに近い一撃死モードの名前はRidiculous(ばかげた)、ゲーム内の日本語では「理不尽」という名前なのだ。「理不尽」だからこそ、通常のノーマルやハードをプレイすることに引け目を感じる必要がなくなる。

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本作はある種の「救い」である。これまで望んでも手に入らない、なんなら「お前が下手なだけでしょ?」と疎外され続けてきたシューティングに憧れを持つ者たち。本作は彼らへと遅れて届いたパーティへの招待状なのだ。それを「ヌルい」「底が浅い」と一刀両断することはできるし、もしかしたらそれは正しい批判かもしれない。『無双』だって、「深みがない」という批判は正しいだろう。それでもその「正しさ」とは全く別の論理によって成立してしまう遊びがある。それはフロンティアであるし、新たな地平である。私の実力が低すぎて、『ドレイナス』の底が浅いかどうかの判断は上手くできないが、本作が「救い」として働いてしまう事実については無視できない。それは単に「簡単だから与えられたもの」ではない。本作は「無理して1ccしなくてもいい。それでも感じられる歯応えがある」ということをシューティングでも実現可能だと希望を見せてくれた作品だ。

私としてはこのゲームが切り開く未来のシューティングに心躍らないわけにはいかない。『ドレイナス』は第一歩である。おそらく無数に改善や進歩が図れるところはあるだろう。しかしこの偉大な一歩によって開けた風穴の大きさには、1人の下手の横好きシューターとして興奮してしまう。ぜひ本作が日本に限らない世界中の多くのシューティングに憧れてきたゲーマーの自尊心と矜持に響くことを願ってやまない。

*1:補記(2022.6.4)ハード2周目をクリアしてアーケードモードにトライしたが、なるほどチェックポイント制の通常モードを最初に持ってきたかったのがようやく分かった気がした。チェックポイントからのやり直しとはいえ、ある一定区間を限られた残機でクリアできた人なら、従来のシューティングゲームのように「即時その場で復活」のアーケードモードで1ccクリアできるかもね、がんばってねという狙いだったのだと感じた。実にきめの細かい道程を示してくれていると感心した。ただ、最初にプレイする通常モードは、ある意味トレーニングモードでもあるわけで、だからこそアーケードモードを最初からやりたかったという人がいても不思議ではないかもしれない。

*2:該当のレビュー→気軽に食べられる名作シューティングの幕の内弁当『DRAINUS』レビュー

*3:該当ツイート→ladybug 2Dゲームクリエイターグループ on Twitter: "びっくりするほど開発意図が伝わっていない! #DRAINUS #ドレイナス https://t.co/OvNnopr7CI" / Twitter