ビデオゲームとイリンクスのほとり

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【海外翻訳記事】ストーリーテリングの観点から~チャイルドオブライトVSバリアントハート

本記事は、アメリカのゲームサイトGamasutraに投稿されたレビュー記事になります。レビュー対象は「バリアントハート:ザ・グレイトウォー」と「チャイルドオブライト」。この2作品をストーリーテリングの観点から比較考察しています。なかなか辛辣なレビューでもあります。筆者の方はAlice Rendellさんというゲームデザイナー。彼女は、今年(2015年)発売予定の『Zodiac(ゾディアック)』というJRPGスタイルのゲームの開発にも携わっているようです。また『Zodiac』は音楽を崎元仁さん、シナリオを野島一成さんが担当しているなかなか期待したくなる作品です。(Zodiacの紹介記事- ファミ通

 

オリジナル記事:Mad hatter and Alice "Perspectives on Storytelling. Valiant Hearts vs Child of Light" and Gamasutra

 

翻訳について、色々間違いもあるかもしれませんが、お気づきになられた方はぜひ教えて頂けると嬉しいです。では、以下、記事本文になります。

 


 

ストーリーテリングの観点から~『チャイルドオブライト』VS『バリアントハート』

Alice Rendell

2014年、プレイ前に最も期待したゲームは、UBISOFTのインディスタイルの作品である『バリアントハート:ザ・グレイトウォー』と『チャイルドオブライト』の2本だ。とりわけチャイルドオブライトは、2D横スクロール、ターン制バトルのJRPGであり、かなり早い段階から興味をひかれた。私が現在開発に取り組んでいるゲームである『ゾディアック(Zodiac)』とも近い。しかし主な理由としては、物語世界とキャラクターが私の心に直接的に響いたからだ。チャイルドオブライトは、アーサー・ラッカム風のおとぎ話の世界として描かれている。私もこの2つのテーマは個人的に大好きである。そして、メインキャラクターであるオーロラ。彼女の設定は、普段私たちがJRPGで連想するようなキャラクターとはかなり異なっており、その点がこのゲームを注目すべき作品としている。一方、バリアントハートは、確かに面白そうだったが、私の期待としては2番手に甘んじていた。チャイルドオブライトの物語世界の方が、わたしにとってはゲームデザイナーとプレイヤーの両方の面から明らかに適していたし、その素晴らしさを期待していた。しかし、この2つのゲームを実際にプレイしてみて、私の期待とは完全に反対のことが起こったのだ。バリアントハートに夢中になる一方、チャイルドオブライトには、落胆し続けることになった。もちろん、期待が大きすぎたこともあるが、結局はそれ以上に問題があった。チャイルドオブライトは、基本的なストーリーテリングの過ちを犯していた。バリアントハートと並べてみると、単に上手くいってなかったというよりも、実にダメなものに思われた。

 

チャイルドオブライト:ずっと押韻しつづける演出は適切だったのか

最初に、チャイルドオブライトが遊べる詩(playable poem)だと聞いたときは、その可能性にとてもワクワクした。それはとてもロマンティックに聞こえたし、美しいイメージの贅沢で雄弁な会話を想定していた。素晴らしい手書き風のアートワークを見て私はなるほどと思った。そのアートワークは実に詩の世界ともマッチしていて、この幻想的で夢のような世界を作り上げるのにとても適していると思った。しかし、その代わりにもたらされたものは韻(ライム rhyme)だった。会話、ナレーション、声、全てに韻が踏まれていたのだ。実際、二行連句だったり、韻文だったりと様々だが、押韻することだけはずっと一貫している。「遊べる詩」というこの面白いアイデアが薄っぺらなわらべ歌(nursery rhymes)になってしまっていることに私は失望した。詩作について知っている人ならば、詩であるためには必ずしも韻を踏む必要はないということは理解しているだろうし、作家としては、これはあまりに初歩的なミスだろう。時には、文章が韻を踏むことを望んでいないのにも関わらず、当初の方針にあわせるため、こじつけでそうしているものもあった。紙の上では素晴らしいものに思えたこの方針は、最終的にうまく実現されていなかった。最初のテキストを我慢してようやく、私はこれ以上ハマることは無理だと悟った。私にとっては完璧な物語世界が約束されていたはずなだけに、失望はとても大きかった。結局のところ、この押韻によって、私はこのゲームを楽しめなくなってしまったし、不幸にもそれがこのゲームの良い面、バトルシステムやキャラクターやアートを汚してしまっていた。以下に上手くいっていないと思う主な理由を挙げよう。

  • 余分なテキストを生んでしまっている。純粋に韻を踏むためだけに会話に挿入される文章や単語がある。私はJRPGにあるようなボリュームのあるテキストを期待していたが、不必要なものは残念なだけである。
  • 流れを邪魔している。詩を作ることの本質は、内省のために立ち止まるような一片を作り上げることである。再読して、意味が広がり、解釈して、議論する。ゲームの場合、個々のテキストについて、こうしたことをする時間はほとんどない。言われている内容を理解するために、会話をもう一度読んで遊びの流れを中断するようなことはしたくない。
  • 不必要である。遊べる詩というアイデアは素晴らしかった。ナレーションによるカットシーンではそれはうまくいっていた。最初の部分では、ゲームの雰囲気をなんとか保ちつつ、プレイヤーにおとぎ話の世界に浸れるようにしてくれていた。しかし、会話の部分では、それは無理やりで邪魔なものになってしまった。ストーリーを理解させるのにも、楽しむのにも失敗しているのだ。

 

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『チャイルドオブライト』では、会話が韻を踏んでいるせいで、ストーリーを理解することが難しくなってしまった。

 

バリアントハート:言葉を使わないストーリーの語り方

『バリアントハート:ザ・グレイトウォー』でストーリーテリングが成功している主な要因は、テキストや会話を使わないで、ストーリー、キャラクター、イベントを明確に伝えているその力にある。UIを除けば、テキストは章ごとのカットシーンにしか出てこない。その他はすべて示唆的で、キャラクターの身ぶりやフキダシのアニメーションが使われている。とりわけこのフキダシのアニメーションは効果的だ。そのフキダシが人物の個性を示すだけでなく、プレイヤーに次に取るべき行動を、イメージだけを使って教えてくれる。ゲームで、プレイヤーへの指示をほとんどイメージだけでやろうとするのはとてもリスキーな決断だ。たいていの場合、わたしたちは、プレイヤーが分からなかった時のため「保険としてのテキスト」という安全策に頼ってしまう。しかし、バリアントハートは、イメージだけで即座に理解できるし、この方針を実現しているだけでなく、その適切なやり方の模範例ともなっているのだ。ストーリーが進むにつれて、私はどんどんとキャラクターにのめりこむようになった。次々と展開するイベントによって信じられないほど自分が感情的になっていることに気付いた。ある場所では、手をとめ、自分が泣いてしまっている(そう、泣いたのは一度だけではないんだけど)ことに気付いた。単なる動きのあるイメージだけで、ほとんどのメディアが「保険としての言葉」に頼ってしまっている世界で、これが達成されることはめったにない。バリアントハートという作品は、力強いストーリーテリングの作品として評価されるべきだし、ピクサーの『ウォーリー』や古典的短編アニメ『スノーマン』のような言葉のないストーリーテリングの傑作と肩を並べるにふさわしい作品である。

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『バリアントハート』は、ストーリーとゲーム内指示をイメージだけ使って明確に伝えることに成功している。

 

作品の比較:ゲームメカニクスでストーリーを表現する

言葉を使わないストーリーテリングというのは、バリアントハートが物語を描くのに使った素晴らしい方法の1つでしかない。本作は、他にも、ストーリーを語るのにメカニクス自身を用いるということをしている。パズルなら壊れたパイプの修理させるとか、アクションなら落ちてくる爆弾を避けるといったように、ゲーム中の各課題は、それぞれの状況にちゃんと合わせて作られている。全てが、ゲームの物語(narrative)を支援するものであり、その逆ではなかった。はっきり言えば、バリアントハートの基本的なゲームプレイは特に目新しいものでも、革新的なものでもなかった。しかしその世界の文脈にしっかりと組み込まれており、決してありきたりなものに感じられなかった。むしろ、それぞれの場面がおのおの異なった体験に感じられた。たとえ、同じメカニクスを開発者が何度も再利用していると分かったとしても、そうなのだ。これは、戦闘を除けば、同じような地形を利用したパズルの要素を持つチャイルドオブライトとまさに対照的である。例えば、すぐ閉まってしまうゲートがあり、それを開放するボタンを押すというパズルがある。これは昔からよくある地形パズルだ。作品世界の中で場違いというわけではないが、その作品世界を特により良くするようなものでもない。さて、自分のペースであちこち飛び回るような時間的余裕があるときに、オーロラにとって、はたしてこうしたパズルを急いで解く必要があるだろうか。また、なぜ特定の場所にはレバーやドアがあるんだろうか、他の同じような場所にはそんなものないのに。一方、バリアントハートでは、常にパズルを急いで解かずにはいられなかった。なぜなら、ストーリーがそれを求めていたからだ。もし、わたしがある状況下で(例えば、地雷を避ける時のように)ゆっくり進んだとしたら、その状況が文脈の中で上手く作用しているからである。チャイルドオブライトのパズルは全然楽しくないわけではないし、面白いものもある。しかし、バリアントハートと直接比べてみると、その世界観の中のズレとして強調されてしまう。

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『バリアントハート』は、ストーリーに適合させるようにパズルの仕組みを使っているが、『チャイルドオブライト』はパズルをその物語の状況に差し挟んでいるだけである。

 

作品の比較:サポートするお助けキャラ

アドベンチャーゲームにおけるサポート役の存在は、古くからあるゲームの慣習だが、上手く使うのは簡単でない。よくあるのが、そうしたサポートキャラがウザかったり、無用なものになってしまったり、時にはその両方だったりすることがある(ゼルダのナビもそうでしょ?)。チャイルドオブライトのイグニキュラスは、不幸にもその両方に当てはまってしまっている。イグニキュラスは、失礼で、あまり好きになれないだけでなく、戦闘時の敵側を遅くする能力が(面白いけれど)ほとんど不要だった。同じようなことが呪文やポーションを使ってもできるのである。こうしたナビのようなホタルは、なかなかうまくストーリーにフィットしないように思える。というのも、こういうヒドいお助けキャラは、プレイヤーを補助するためだけのものでしかないと感じられるからだ。一方で、バリアントハートでは、犬が登場する。この犬は、単にパズルでプレイヤーを助けるだけでなく、プレイヤーが操作するキャラクターの人物像を明らかにしたり、補ったりする。メインの操作キャラのうち1人は、命の危険を冒してこの犬を助けるが、その時にプレイヤーは俄かにそのキャラクターの高潔さや勇気や思いやりを更に知ることになるのである。それはささいな振る舞いにすぎないが、キャラクターの人柄についてとても多くのことを伝えてくれる。付け加えるなら、パズルでこの犬を使うというのは、単にふさわしく感じるというより、むしろ正しい。というのも、その犬のために課題があえて設計されたのだと感じるよりも、その場の状況やシナリオの文脈から、犬によってのみその課題が解決できるのだと思わせてくれるからである。これはチャイルドオブライトのイグニキュラスのような、無理やりな組合せとは全く違う。この二つのゲームを直接比較すると、バリアントハートが優れているところにチャイルドオブライトがまたもや及んでいないということがよく分かる。

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『バリアントハート』の犬というお助けキャラは、ストーリーやゲームプレイの中核ともなる。一方でイグニキュラスは弱々しい付け足しでしかない。

 

結論

私は、本記事の大部分でチャイルドオブライトにおけるストーリーテリングの問題を強調してきた。しかし、このゲームをとても楽しんだということも言っておきたい。特に、戦闘システムは非常に面白かったし、アートワークについては息を呑むような素晴らしさだった。しかし、結局のところ、脚本に伴う問題により、私が望むようにはこのゲームにハマることはできなかったし、「恋に落ちるようなゲーム」という期待が「単に好きなゲーム」に置き換わってしまった。私が直後にバリアントハートをプレイしたからチャイルドオブライトの欠点が強調されたわけでなく、この欠点がこの二つのゲームの間の無視できない違い生んでいるのである。しかしながら、バリアントハートで成功しているあらゆるポイントについて、チャイルドオブライトのミスから教訓を得ることができる。そして、この二つの作品を直接比較することで、良いストーリーだけでなく、ストーリーの語り方もまたとても重要なのだとはっきりするのである。

 

さあ、これで言いたいことは、ぜんぶ言った。

では、さようなら。良い一日を!