ビデオゲームとイリンクスのほとり

ビデオゲームや映画を中心としたレビュー・コラム記事です。 Twitter ID: @turqu_boardgame

映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

ゲームは不健全であるということの心地良さについて

どこかの地方自治体で、ゲームのプレイ時間を規制する条例ができるとか。そんな話をテキトーに耳にしていると、ゲームが大好きな諸氏から「そんな条例はけしからん」という批判が出る。ビデオゲーム大好きな私からしても、そんな条例は困ったことだと思うのだが、条例それ自体の是非は別にして、ビデオゲームは大切な文化だからみんなでリスペクトしましょう的な動きについては、ついつい天邪鬼に警戒してしまう。というのも「ゲームって不健全だよね」という感覚がこの社会にあることの複雑でややカオスな位置付けを私は愛しているからだ。当然、ゲームは大切な文化だし、不当で根拠にも乏しい条例など無くせばいいとは思う。世の中ですべき議論がこの私のどうでもいいコダワリを焦点にしていないことは十分に理解している。ただ、私にとってゲームというのは「不健全としての良さみ」を持つものなのだ。もちろん「良い」と直言するのは少しためらわれる。それでも、そういうささやかな「良い」が確かにある。

 

不良が「悪い」ことをかっこいいと思う、そういう幼い気持ちに近いかと言ったら、そうなのかもしれない。でも、ゲームの持つ不健全さは、確かにゲームの魅力の一部なのだ。好きな女の子に「休みの日はずっとゲームやってます」と言いづらい。その言いづらさが良い。「休みの日はフットサルやってます」そんな物言いと対等なぐらい世の中で市民権を得た「ゲーム」をやっているつもりなど私にはない。なんだか嫌なのだ、それが。脱臭されて、みんなから「あら、素敵な趣味ですわね」なんて言われる「ゲーム」なんてのには、落ち着かない。偏見に晒されていてこそのゲームだろうと思う。電車の中で、堂々とプレイされているスマホゲームなどを観ていると、少し羨ましい気がする一方で、少し気の毒な気もする。いかがわしさをスポイルされ、すべてのトゲを抜かれてしまったハリネズミのような、この感覚。単なる気取りだとバカにするだろうか。いやそれはもちろん、確かにバカなのだ。自分の好きな趣味が、世の中の多くの人から祝福されて、認められて、「まっとう」だと思われる。そんなのは少し嫌だと言っているのだから。バカなのだ。しかし、本当にみんな自分の趣味が世の中の大通りであることを全く疑わない趣味人になりたいだろうか。自分の趣味に存在する「毒」こそを愛する気持ちはないだろうか。

 

ゲームの持つ「いかがわしさ」は決して失われない。どんなにゲームの社会的地位が上がったとしても、それはゲームから全く消えて無くなることはないだろう。しかしそのことは悪いことばかりじゃあない。もちろんそんないかがわしさによって不当な偏見を持たれることもあるだろう。しかし、それこそがゲームを趣味とする者にとってのささやかなプライドにもなる。こんな風に言えば、それはやや倒錯気味であることを自慢する者の姿を想像するかもしれない。そういう面はある。あるのだけど、それだけでもない。ゲームのいかがわしさを知るということは、背を向けたはずの「まっとうさ」をも同時に纏うことでもあるのだ。「ゲームのいかがわしさを知っているというまともさ」こういう傲慢な快をもたらすのもまた、ゲームのいかがわしさを受け入れるからではないか。「何がノーマルとかまっとうとか、そんなことは誰も決められない」そんなお題目はもはや猫も杓子も唱える常識になりつつある。だからこそいかがわしきを知り、まっとうであること知る、とうそぶくことがある独特の快感となる。仮にもしゲームがまっとうになってしまったら、世界からまた一つ、まっとうさもいかがわしさも消えてしまう。それはわたしにとって、とても寂しいことだ。