ビデオゲームとイリンクスのほとり

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傑作『ラストオブアス2』のポリコレ表現とエリーの最後の決断について

2020年。前作から7年ぶりにリリースされた『ラストオブアス パート2(The Last of Us Part 2)』は、間違いなく傑作だった。まさかこれほどの傑作が生まれるとは、前作のあまりに素晴らしいラストシーンからは想像ができなかった。これ以上は蛇足にしかならないと、前作を評価する人であればあるほど、そう予想しただろう。しかしそのネガティブな予想は幸運にも覆されることになった。しかし一方で『ラスアス2』を評価しない人もいる。そのような状況において、どのような点が素晴らしかったかを書くことには多少の意義があるだろう。なお、本稿はネタバレをしまくるので、未クリアの方は注意願いたい。

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複雑なものを複雑なままに描く

『ラスアス2』には魅力的な人物が何人も登場するが、中でもディーナの存在が面白いと感じた。序盤のディーナは、思い入れのあるエリーとプレイヤーとの間に突如として割り込んできた「やや目障りなキャラクター」にも感じられる。バイセクシャルであり、アジア人男性のジェシーとかつて恋人関係でありながら、エリーとも物語の最初の方で性的な関係を結ぶため、ディーナに対しては、あまり良い感情を抱かなかったプレイヤーもいるかもしれない。

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エリーの恋人であるディーナ

 

そんなディーナだが、彼女はシアトルのダウンタウンで、自らの出自について語る場面がある。ダウンタウンにあるユダヤ教の会堂シナゴーグを訪れた時のことだ。ここで彼女はユダヤ人の「生き残ること」へのこだわりを語る。この信念はディストピア世界において、とても重要な意味を持つ。また、彼女が妊娠をして、次の世代へ繋がる子供を持つ役割を持たされたことは、この信念と呼応させているのだろう。

そして、『ラストオブアス』シリーズのディレクターであり、共同脚本を書くニール・ドラックマンはイスラエル系のアメリカ人である。彼は10歳まで、ウェストバンクと呼ばれるイスラエルとヨルダンの間にある地域で育っている。小さい頃には、紛争による暴力の現場を何度か目撃しているようだ。ディーナの描写には、いくぶん彼自身のリアルな経験が反映していると考えても、あながち間違いではないだろう。

Neil Druckmann - Wikipedia

 

本作は「ポリコレを意識しすぎた作品」などという批判を度々受けている。しかし、本作の「正義」へのこだわりは決して浅薄なものではないと考える。例えば、それを示すのが先ほど挙げたディーナのキャラクター設定である。ディーナはバイセクシャルであり、この点をLGBTQなど多様性のための表面的なキャラ設定だとみなす人もいるだろう。しかし単にバイセクシャルを「珍しい見せ物」としているわけではない。その一端は、ディーナがユダヤ教ユダヤ人の民族的価値観に対しても愛着を持っていることを示す場面に現れている。単に表面的にリベラルを象徴するだけの存在としてではなく、伝統的な価値観にも足場を持つ複雑なアイデンティティを持つ存在として描かれている。こうした1人の人間を右か左かに分けることをあえてしない複雑性の描写は、『ラスアス2』の特徴と言えるのではないだろうか。

 

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カルト教団の社会の中で育ったレブ

 

アビーのパートナーとなるレブもそうした存在である。レブは身体的には女性であるが、トランスジェンダー*1としての苦しみを抱えている。これもまた「LGBTQへのあざとい目配せ」だと感じる向きもあるだろうが、決してそんな単純なものとして描いてはいない。というのも、彼が所属するカルト教団は男らしさや女らしさについて極めて保守的な考え方の社会を築いており、その社会との葛藤を描いているからだ。彼はそうした教団社会の中にあって、女として生きることに強い疑問を抱き、最終的には教団を裏切るところまで行ってしまう。重要なのは、彼は物語の間、ずっと教団への信仰心を失わないという点だ。教祖のことをずっと信じ続けている。自分を苦しめる教義なら捨て去ればいいと、第三者は思うかもしれない。例えばアビーはそう思うからこそ、レブに「そんなひどい目に合いながら、まだ信じてるの?」と素朴に聞いてしまう。しかしそんな単純なものではないのだ。ここにもまた、単なる1か0かに分けることができない複雑性の描写を見て取ることができる。

 

ディーナがエリーとキスをするパーティの場面も興味深い。キスする2人を見咎めたセスという初老男性は「勘弁してくれよ、口達者なレズとはね(big-mouthed dyke)」とエリーたちを嘲笑する。そんなセスに対して、すかさずジョエルは間に割って入り「とっとと失せろ」とセスを非難する。この時、エリーはセスよりもジョエルに対して激怒する。このジョエルへの激怒を描いた点が本当に素晴らしい。「(初代のラストのように)勝手に当事者になって、勝手に私を助けるな」とエリーは怒っているのだ*2。この事は前作のジョエルの行為に怒っているエリーを示すと共に、マイノリティに憑依して正義を示そうとするマジョリティへの微妙な気持ちを示しているように私は感じられた。ニール・ドラックマンは決して安易な気持ちでマイノリティを描いているわけではないと私は考える。彼は物事が常に複雑であるということから逃げることなく、複雑さを複雑なままに描いている。

 

復讐劇が陥りがちな浅薄さ

もう一点、強調したいのは、復讐というテーマと最後のエリーの決断についてである。復讐は、強力なモチベーションとなりうるため、復讐というモチーフは度々ゲームで使われることがある。しかし現代において、この復讐を100%良いこととして描くことは逆に難しい。そのため「不幸の連鎖を止める」とか「復讐をしても虚しい」などのロジックを用いて、復讐が持つ問題点を浮かび上がらせ物語に屈託を設けるパターンが非常に多い*3

 

『ラスアス2』も概ねこの復讐の問題点を取り上げているとは言えるのだが、他のゲームと違いとても自覚的だと感じるのは「復讐は良くない」という安易なメッセージに安住しない姿勢である。「復讐が決して良くはない」なんてことは分かりすぎるくらいに分かっている。この点は以下の動画レビューにおいても指摘されている通りであるだろう。このレビューは比較的納得感も高いものなので、ぜひクリアした人は一度見てほしい*4

 

youtu.be

 

エリーの復讐の意思はいつまで維持されたのか

復讐というのは、長期的にその意思を保ち続ける事は難しい。基本的に、復讐は「割に合わない」からだ。例えば復讐に向かうトミーやエリーを押し留めるのはマリアである。ジョエルは夫の兄とはいえ、マリアにとっては距離の遠い存在だ。しかしそうした距離感があるからこそ、マリアは復讐の「割りの合わなさ」を理性的に理解している。マリアは冷静で合理的だ。またジェシーやディーナは、エリーの復讐に協力するわけだが、それも若さゆえの無鉄砲さで付いてきている。だから親となることで守るべきものができたディーナは「今度は行けない」と断るようになってしまう。しかしこれはディーナが冷静で合理的になったからだと言える。

 

割に合わないという点で、復讐したいという意思はとても儚いものだ。憎しみを長期間に渡って維持していくことは難しい。エリーは確かに当初はアビーを本気で憎んでいた。しかし、終盤のサンタバーバラでのエリーはアビーを本当に憎んでいたのだろうか。仮にジョエルの死のフラッシュバックに苦しめられなかったら、彼女は復讐の旅を再開しただろうか。エリーはアビーを憎んでいるから殺すのではなく「殺すしかない」という妄執によって復讐の旅を再開する。終盤のトミーの「復讐しに行って欲しい」という願いもまたその「殺すしかない」を強化する*5。ここではエリー自身の意思で本当に復讐を行っているのかは相当に疑わしくなっている。きわめつけは、ラストの闘いである。なぜ「戦え」とエリーはアビーに戦うことを強制させたのか。本当に憎いのなら、ただ殺せば良いはずである。しかしもはや理由も論理も憎しみも喪失しているエリーにとって、アビーは襲いかかってくる敵としてでないと殺せなくなってしまっている。つまり彼女の復讐の意思はここでは限りなく小さくなってしまっている。

以下のサイトにおける考察では、この『ラスアス2』の物語を「復讐」ではなく「許し」の物語として解釈している。この考え方は面白いと思う。

note.com

 

本稿ではこれとはまた違った観点から、なぜエリーは最後にアビーを許したのか、その理由を2つの観点から述べてみたい。まずは、なぜ最後のエリーの決断をプレイヤーに選ばせるというスタイルにしなかったのかを示し、その上でなぜエリーはアビーを許すという物語になったのかを書きたい。

 

「選択できない」ことの意味

一つ目の観点は、本作がゲームであることについてである。

ラスト、エリーはジョエルの言葉を思い出す。「俺はもう一度同じことをするだろう」と。この「もう一度」というのは2重に意味が重なっている。一つは物語内のジョエルの心情としての意味だが、もう一つはこれがプレイヤーに向かった言葉でもあるということだろう。ゲームで分岐点があり、やり直しをしたら、プレイヤーはさっきとは違う選択肢を選んだりする。その方が「お得」だし「面白い」からだ。しかしジョエルの人生における決断は異なる。初代『ラストオブアス』で次のように思ったプレイヤーも多いだろう。「最後に、ジョエルがエリーの命を差し出していたら、世界はどうなっていただろうか?」と。しかしジョエルは「もしも、もう一度神様がチャンスをくれたとしても、俺はきっと同じことをする」。それを変えることはできない。エリーは思ったに違いない。ここでアビーを殺すことは、何度やり直しても後悔しない行為なのか?と。ここでレブがアジア系であることが効いてくる。レブとアビーは明らかに血縁関係が無いように見える。しかし自分の命を賭けてでもアビーはレブを守ろうとする。その関係は、エリーとジョエルが擬似親子であることと、相似形をなす。アビーの物語の詳細は分からなくても、この地獄の中でどのような歴史を積み重ねて生きてきたのかをレブの存在はエリーに感じさせる。そして擬似親子であるとするなら、アビーはジョエルに相当する。今、首を絞めているアビーはもう1人のジョエルかもしれないのだ。アビーを殺すことは、本当に後悔しない選択肢なのか。エリーの復讐心には、最後、複雑な感情が渦巻いている。決して憎しみ一色で塗りつぶされているわけではない。

 

では、プレイヤーはどうなのか。プレイヤーはアビーの物語を細かく把握している。彼女がジョエルを殺したのも、レブを助けるために苦労したことも、オーウェンへの思いも、友人を全て失ってしまったことも、全部知っている。彼女は決して残虐な人殺しではなく、むしろ善良な人間である。じゃあ、アビーを許せるのか。これは人によるだろう。許せないとする人はやはりエリーとジョエルへの強い思い入れがあるからだ。しかし決して心の全てが「アビー殺すべし」に固まっているわけではない。なぜなら知ってしまったからだ、アビーのこれまでの生き様を。アビーは死すべき人間だと100%断罪することもまた(人によっては差異があるだろうが)できないはずだ。

 

じゃあ、このようなゲーム内の人物もプレイヤーも、複雑な感情が混合した状態なら、ゲームとしてどのようにするのが正解なのだろうか。一つはゲームだからこそできる「マルチエンディング」という手法がある。最後にエリーが首を締めるアクションの入力をプレイヤーに選択させる。こういう解決策があることは当然、製作側も分かっていたはずだ。しかしあえてそれをしなかった。エリーの複雑な復讐心は、殺すことと生かすことの可能性を等しく見せてしまったら、その複雑さがスポイルされてしまう。ゲーム的に選択できることによって、エリーの感情が、どちらか一つの状態にプレイヤーの中で単純化されてしまう。製作者はそれを恐れた。だからむしろ「選択できないこと」によって、エリーの感情の複雑さを複雑なままに描くことに成功しているのではないだろうか。しかしこれだけの理由では、どちらの結末でもよかったはずだ。次に、なぜ「アビーを殺さない」という結末になったのかを考えてみよう。

 

ジョエルとの決別としての『ラスアス2』

もう一つの観点は、エリーを対比的に捉える視点である。まず第一に、アビーは復讐の成功者であるという点がポイントだろう。アビーはジョエルを殺すことで見事に復讐を果たした。しかもそれだけではない。アビーは、エリーとトミーを殺すことなく見逃している。なぜ彼らをアビーが見逃したのかは、一つの謎である。実際、ディーナが「なぜ見逃してくれたのか?」と疑問を挟むシーンがある*6。詳しいことは分からないが、これはアビーの復讐が完璧であるためではないだろうか。つまり、復讐の過程で罪なき者を殺してしまっては、アビーはそれをきっかけに復讐を後悔してしまうかもしれない。アビーには、復讐の完璧な成功者としての役割が与えられている。アビーの物語によって、復讐を成功させた場合の世界線(分岐)は、ある程度描かれていると考えられる。だからこそ、その対比としてエリーは、最後まで復讐の失敗者として描かれる。

また、第二に、ジョエルとエリーとの対比がある。前作のラストのジョエルの行為は極めて勝手である。決してエリー自身の意思ではなかった。そのジョエルは罪なき人を「殺す」決断をした。一方で、エリーは罪あるアビーを「生かす」ことにした。この決断はジョエルの決断と対称を成している。仮に立場が逆転しジョエルがエリーの立場に立ったら、絶対にアビーを殺すだろう。だからこそ、エリーは「生かす」ことによってその父であるジョエルを超える。長い道程の果てに、復讐をするという意思が極限にまで小さくなってしまったエリーは、自らの意思をどのようにしたら回復できるのか。このまま殺すことはジョエル(やトミー)の意思ではないのか。だからこそエリーはアビーを「生かす」。「ラスアス2」は、「父との決別」の物語ではないかと考える。アビーを許すことでエリーはジョエルと決別しているのである。*7   ジョエルの「たとえ他の多くの人間が死んでも構わない。エリーお前だけは生きてくれ」という呪いとエリーの意思を封じ込める権力性を、アビーを許すことによってエリーはくつがえし、自らの意思を回復しようとしたのだ。

 

そして『パート3』へ

ここからは単なる妄想だが、『パート3』では、『パート2』の最後のエリーの決断をどう捉えるかが物語の鍵になるのではないだろうか。そして『ラスアス2』は父との決別がテーマだとすると、『パート3』には、母親というモチーフが何らかの捻りを加えて入ってくるかもしれない。仮に完結作となるならば、もしかしたらとうとうマルチエンディングを採用してくるかもしれない(なんとなくそうして欲しくないとは思っているが)。また初代『ラスアス』のラストのエリーは本当にジョエルの言ったことを信じたのか。この点は『パート3』で蒸し返してほしいところだ*8。以上は、勝手気ままな妄想に過ぎない。いずれにしろ、一見すると蛇足のようにも思える『パート2』のサンタバーバラ面は、壮大な『パート3』のプロローグとしての役割を担っているのではないだろうか。

 

最後だが、短くまとめると次のように言えるだろう。『ラスアス2』は、復讐の是非を問うものではない。むしろ、復讐をせざるを得ないところに追い込まれた人間がどう自らの意思を回復するのか、その複雑さを描いた物語である。ここにもまた、LGBTQの描写と同様に、複雑さを複雑さのままにアイデンティティの問題を描こうとした信念が貫かれているように思う。(おわり)

 

 

追記(2020.07.10): 以下のディレクターと脚本家へのインタビュー記事はぜひ読んでほしい。本稿で書いた「選ばせなかったこと」についても言及されていたりする。

The Last of Us Part II Interview with Neil Druckmann & Halley Gross | IndieWire

 

追記(2020.07.13): 当初は、エリーの最後の決断を「父殺し」として捉えていたが、それは流石に言い過ぎかもしれないと考え直し、「父との決別」という表現に変更した。

 

*1:レブについては、語られる情報が少ないため、広義のトランスジェンダーと言った方が良いかもしれない。

*2:もちろん、ほぼ親としての存在であるところのジョエルからそうした言葉を聞くことの強い戸惑いもあったかもしれない。

*3:例えば、復讐相手を結果的に殺すかどうか選択できる『GTA4』のようなゲームも正にこうしたロジックの中にある作品だろう

*4:この動画レビューはとても冷静で説得的なものであるが、いくつかの点で、私は違う立場を取っている。主な違いは3点ある。「1.そんなに胸糞な展開ではない」「2.最後のサンタバーバラ面は物語的に蛇足とは考えてない」「3.衝撃的で意外だと思った展開はそんなにない」以上が違いとして挙げられる。2については後述する

*5:ここで、トミーがなぜここまで復讐にこだわるのか、若干判然としない気持ちを抱く人も多いと思う。しかし「彼は怪我を負ってもう復讐できない体になった」ことと「マリアと別居することになった」という2点が、彼に復讐を余計に執着させる要因になったのではないかと考えることはできるだろう。

*6:シアトルの1日目

*7:この辺りはかなり「捻れ」が製作者によって意識的に設けられている。アビーを許す事はジョエルと決別することだと本稿は主張しているが、その首を絞めているアビーはジョエルにも相当する(レブにとって)わけで、ジョエルを救いつつ、離れるという不思議な状態を作り出している。

*8:多くの前作プレイヤーが不満を思ったことの1つに、前作最後のジョエルの言葉をエリーは信じた、と『ラスアス2』は前提にしているように見える点がある。私自身、エリーはジョエルの言葉を完全には信じていないけど、あえて「わかった」と言ったと前作の時点では考えた。それを今更嘘だとエリーがショックを受けるのは、(まあ、受けるかもしれないが)あまりにナイーブでエリーの内面が単純なものに思えてしまう。しかしやはりエリーはジョエルの言葉を信じないままに、あえて「わかった」と言っていたという可能性はまだ残っていると私は思っている。理由は2点ある。一つは、オープニングでトミーがジョエルの告白を聞いて「(エリーは)信じたのか?」とわざわざ問うている。これは「素朴にエリーは信じた」と捉える必要はないことを示していると思う。2点目はラスト、エリーがジョエルに対して「それ(生きた証)を奪ったんだよ!」と怒る場面。これに対して、ジョエルは一切謝っていない。「もう一度同じことをする」と返すのみだ。ここでもエリーは「わかった」と受け止める。エリーにとってその返答は決して意外なものではなかったということを示すのではないだろうか。まあ、願望的な解釈かもしれない。