ビデオゲームとイリンクスのほとり

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『ゴースト・オブ・ツシマ』の「変な感じ」を受け入れないことは、不寛容なのか?

2020年7月17日に発売された『ゴースト・オブ・ツシマ(Ghost of Tsushima)』。元寇をテーマにした侍が主人公のオープンワールドなアクションゲームだ。侍が広大なフィールドで冒険するという作品は、多くの日本人ゲーマーが長く待ち望んだ作品だった。そして発売間もないが、本作は非常に多くの日本人から受け入れられ、そして高い評価を受けている。本稿では世評とは乖離した自分の本作への感覚について書いてみたい。

 

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私は本作をプレイし始めて、オープニングのところで大変気持ちが萎えてしまった。ただ、この残念な気持ちは色々と複雑で、本作が「およそ日本の武士や日本の時代劇では言いそうにないことやありそうにない雰囲気をバシバシ放っていた」から単純に残念だったわけではない。第一に気になったのは、その脚本があまり優れたものではない点だ。主人公、境井仁の行動原理が「平和」や「民のため」という薄っぺらい言葉で飾られていることに、この先繰り広げられる物語の持つ射程がかなり狭いのではないかという強い懸念を感じさせた。実際、やはり脚本は最後まで優れたものではなかった*1。しかし、ゲームとしては、これまでのオープンワールドゲームの良い部分を適度に取り込み、快適度の高いゲームプレイはとても楽しく、決して凡作ではない良作であったことは嬉しかった。単純に面白いゲームだった。

 

私が気になったのは、この作品に対する多くのユーザーの評価だ。「外国人が作ったこの『奇妙な日本』を受け入れてこそ、寛容で心の広い正しい態度なんじゃないの?」とでも言いたげな数々の世間の声には首を傾げてしまう。中には「歴史事実厨にはツライかもしれないけど、わたしにはめっちゃ面白かったです」みたいな言い回しも多く、それは「歴史的事実という細かいことを気にして、せっかくの楽しいゲームを楽しめない狭量な人間は、つまんないやつだなあwww」ということを言いたいのだろうと感じた。しかしこうした感覚は私にもまだ理解できる。人が楽しんでいるものにイチャモンを付ける人間は野暮だというのも一理ある。しかし一番納得いかないのは、次のような感想だ。*2

『ゴースト・オブ・ツシマ』は時代劇としても、よく出来ている

正直、その評価は理解できない。『ゴースト・オブ・ツシマ』が面白いゲームであることは否定しない。しかしそれと時代劇としてレベルが高いかどうかは別の話である。時代劇とは全く別の価値基準から『ゴースト・オブ・ツシマ』を評価するのは理解できる。しかし日本人が作る時代劇の平均点をそんなに簡単に「超えた」みたいに言うことが決して良いこととは思わない。これまで時代劇として作られた作品数や時代劇への批評の積み重ねから、常識的に考えても、そんなに簡単に超えられるほど、層の薄いジャンルとは思えないからだ。

 

『ゴースト・オブ・ツシマ』は日本の何を参照しているか分からない

まず第一に言っておきたいのは、別に「史実に沿って忠実に作ることがとにかく大事だ」とは私は全く思っていない。だいたい日本の時代劇も相当に都合よく史実を無視している。私が『ゴースト・オブ・ツシマ』に強い失望を覚えたのは、この作品が日本の時代劇の何を参照しているのかが、よく分からない点だ。確かにサムライらしい格好はしているし、自らサムライだとも言っている。しかしそのステレオタイプな印象だけのサムライ像の先には何もない。武士同士の年長者への言葉遣いや、農民への武士の態度が、これまで既存の時代劇をどれだけ参考にしたのか甚だ疑わしくさせる。『ゴースト・オブ・ツシマ』が参照しているサムライの描き方の明確な参照先が全く分からない。既存の時代劇の武士像とは異なる黒澤明的な武士像を多少は参考にしているような気はするが、それでもよく分からない。繰り返しになるが、歴史的事実を参照することが大事だと言いたいのではない。「歴史」でなく「(既存の)時代劇」をちゃんと参照(参考に)してほしいという話だ。

 

この「参照先が分からない」というのが、なぜ問題なのか。1つはそうした先行作品を参照しない作りが私の趣味に合っていないということがある。ただこれは私の好みの問題でしかない。もうひとつ別の理由として、これまで積み上げてきた創作物の歴史的な蓄積を無視して、製作者の狭い了見でのみ作品を作り上げた場合、普通に考えて良い作品をつくることは難しいということがある。例えば境井仁の悩み「武士としての誇りを汚すような闘いをして良いのか?」は、完全にゲーム制作者の頭の中で考えた「ハリボテの悩み」のように思える。それは既存の作品を参考にせず、「自分の頭だけで」考えて創作しているからだ。既存の時代劇で考えると、忠臣蔵という時代劇は、武士道的価値観を賛美する物語であるが、仇討ちと称してやっていることは夜襲である。だからと言ってその「寝込みを襲う」ことに悩む赤穂浪士などはいない。みな忠義に則って仇討ちしていると思っている。対して、他国からの侵略という悲惨な被害を受けているのにも関わらず、ステルスキルごときに悩むナイーブな境井仁というキャラクターは、いかにも急ごしらえの安易なキャラクター造形に思える。既存の時代劇を参照して、それに何かを足したり引いたり反転したり、そうした先行作品へのリスペクトが『ゴースト・オブ・ツシマ』の脚本にはほとんど感じられない。

 

『ゴースト・オブ・ツシマ』は伝奇モノなのか?

本作が完全に「伝奇モノ」の発想で制作されていることが明確であれば、そこに既存の時代劇への参照がなくてもある程度は理解できる。ネットでは「『ニンジャスレイヤー』を受け入れた日本人が『ゴースト・オブ・ツシマ』を受け入れるのは当然」というような意見もある。しかし『ニンジャスレイヤー』は全く異なる。『ニンジャスレイヤー』は明らかにトンデモ日本を描こうとして描いている。作者もファンもそこを大前提に理解して鑑賞している。しかし『ゴースト・オブ・ツシマ』は決してトンデモ日本を描こうとはしていない*3。であるならば、『ニンジャスレイヤー』を評価するように『ゴースト・オブ・ツシマ』を評価することは自明に適切な姿勢ではないだろう。また制作側に立って考えると、想像するに日本のローカライズチームは本作をできる限り「リアル系(既存の時代劇らしさ)*4」に寄せようと多くの努力を注いでいるように見える。これは原作が持つ志向が(トンデモ系ではなく)リアル系であったからであろう。しかし原作の脚本はリアル系を志向しつつも、既存の時代劇や歴史を丁寧に踏まえるというリアルにこだわることが十分にできず、意図せずして結果的にトンデモ系のようにもなってしまっている。結局のところ『ゴースト・オブ・ツシマ』は、トンデモ系にもリアル系にもなりきれないという中途半端な作品になっている。

 

本作の脚本は時代劇というよりはむしろ西部劇や海外ドラマや西洋ファンタジーを参照先としている。そこに、日本のサムライ劇の皮を被せているだけである。多くの日本人が違和感を持つであろう境井仁と石川先生との関係などは、日本の時代劇ではありえない描かれ方である。それ自体が悪いと言っているわけではない。なぜあのような関係描写を日本の時代劇というフォーマットで描かなければならないのか。これまでの時代劇文化の蓄積を無視する態度が、薄っぺらさに繋がってしまっていると考える。主人公の親代わりである志村などは、武士道を信奉する保守的な男というよりは、理不尽な教義を盲信するカルト教団の幹部のように見える。武士道をカルトとして描くならそれはそれで面白い試みと思うが、そこまでの政治的信念がこのゲームにあるわけでもないだろう。そこには「日本の時代劇ならでは」の描写は存在しない。単に「日本の時代劇のスキン」を被せただけの描写であり、ドラマとしての時代劇としては総じて残念なものであったと思える*5。また先ほど例に挙げた境井仁と石川先生の関係は、「日本の時代劇的社会」というものに全く無頓着であることを端的に示している。あんなに簡単に目上の者に対して反抗したり皮肉を言ったりすることはあり得ないし、逆に目上の者が目下の者にあれだけペラペラと心情を語ったりしない。それはあたかも海外ドラマ・洋画のような関係描写であり、時代劇であのような師弟関係を描いているものはあまり思い浮かばない。むしろスターウォーズで描かれる師弟関係の方が近いように思える。なによりゲーム後半で、毒を使った戦法により主人公は罪に問われるわけだが、国難とも言える蒙古襲来にあれだけの手柄を立てたことが、たったそれだけの事で責められるというのは、あまりに説得力がないのではないか。こんな罪の問われ方をする社会が一体どういう社会なのか、正直分からない。手柄を立てた英雄が社会から認められないと言うのはよくある話ではあるが、日本の時代劇という舞台を通した工夫というのが、そこにはあまりあるように思えない。

 

以上のような点からも、社会が押し付ける価値観(忠孝や誉れ)に苦しむ物語なのに、その社会構造を説得的に描かないで語るのは無理があると思われる。そのため「時代劇としてもレベルが高い」と評価を下すことはあまり妥当とは思えない。いずれにしろ物語としての説得性がない点はやはり残念である。ゲームとしては面白いかもしれないが、時代「劇」(ドラマ)として今ひとつな作品だと私は考える。

 

繰り返すが、私が『ゴースト・オブ・ツシマ』を「時代劇としてもスゴイ」と評価することに反発するのは、「この作品を良い」と評価してはいけないと言いたいからではない。ましてや「時代劇としてスゴイ」と評価するな!と言いたいわけでもない。安易に「時代劇としてもスゴイ」と語るのは、時代劇という伝統的(とも思えるような)なジャンルが持つ「重み」のようなものを搾取しようとしていると感じられ、そこに抵抗を覚えるからだ。

 

リスペクトとは何か

例えば、ゲームに出てくる鎧の一部が、すごく精巧にリアルに再現されているからと言って、単純にそれが日本文化へのリスペクトと言えるわけではないだろう。日本人がアボリジニを描くゲームを作ったとして、そこにアボリジニのリアルな調度品を細かく登場させるが、それが本来の使われ方と全く違う仕方で描いたとしたら、普通に「アボリジニの人たちに失礼かもしれない」と思わないだろうか。そういう基本的な態度をスキップして「外国人が日本のサムライを好きで使っているんだから、多少間違ってても許そうよ」というのは、少し先取りし過ぎな態度ではないだろうか。もちろんそういう「寛容さ」が間違ってるとは思わない。ジャンルを盛り上げるためにそういう「寛容さ」が重要な面もあるだろう。そして安易に「文化盗用だ」と非難するのも適切ではないと思う。更に進んで、そういう「トンデモ」が魅力的だと「あえて良く評価する」ことも全然理解できる。しかしそれはあくまで倒錯である。なぜそんな「一周回った見方」をみんなが好んでするのか。

 

何より『ゴースト・オブ・ツシマ』は倒錯した面白さを突き詰めた作品では全くない。わざと「トンデモ日本」をやろうとしているわけではない。単に無知と無関心があるだけである。このことは日本人だから思うだけではない。日本の文化を知る外国人であってもすぐに理解できることだ。現にDigitally Downloadedというサイトのレビューでは次のように言われている。

 

西洋的なストーリーテリングの伝統(オープンワールド)に重点を置いたジャンルを取り上げて、そこにうわべだけの「日本的な」要素を過度にコピーペーストしているだけで、物語と(ゲーム的)構造の間にある齟齬を歩み寄りさせることを全然していない。

Digitally Downloaded: Review: Ghost of Tsushima (Sony PlayStation 4)

 

引用元のレビュー記事では更に「なぜ元寇というテーマにしたのか、不思議に思う」とも書かれている。この記事でも決してこのゲームがつまらないとは言っていない。しかし「なぜ元寇なのか」「なぜ日本の鎌倉時代なのか」が全く分からない。製作者たちがリスペクトしているのは「時代劇的な絵面」だけで、その時代劇という文化や風習や思想や歴史にはほとんど興味がない*6。百歩譲って、突然景色を見て和歌を詠み始める武士が鎌倉時代にいたって別に良いとわたしは思う。そういうフィクションがあってもいいだろう。しかしそこで描かれる和歌に和歌としての面白さもゲームとしての面白さもなく、そして和歌の報酬になぜ鉢巻が手に入るのか、その理由も分からなければ、日本の時代劇文化にリスペクトを持っていると素朴に評価することはためらってしまう。

 

わたしが危惧するのは『ゴースト・オブ・ツシマ』を日本の文化や時代劇をリスペクトしたものだという雑な評価があることで、将来生まれるかもしれない、より日本の文化や時代劇にリスペクトを持つゲーム作品が出現した時に、それを正しく評価できなくなるのではないかと思うからだ。今、時代劇を見ている人は減っている。『ゴースト・オブ・ツシマ』程度で、「良い時代劇」と言ってしまうのはもったいないのではないかと思う。そして、少なくとも違和感を感じているなら、そしてそこにあるリスペクトが薄っぺらいと思うならば、そう主張することがある程度あっても良いのではないか。それができるのは、日本の文化に相対的に親しんでいる日本人だからこそだろう。わたしが一番違和感を感じているのは、そういう意見があまりにも少ないことだ。『ゴースト・オブ・ツシマ』が大好きな人がいても良いのだけど、ネットには絶賛ばかりで、「残念だ」という人があまりに少ないことにアンバランスさを感じてしまう。

 

最後に、先にDigitally Downloadedから引用したレビュー記事の最後の言葉を掲げて締めくくろう。わたしはこうしたレビューが存在していることに強い安心感を感じている。そして同じような事を感じた多くの仲間たちに、あなた1人だけではなく同じことを思う仲間が世界にはいるという事を伝えたいと思う。ちなみにこの記事を書いた人(Matt S.氏)は日本に何度も訪れており、対馬にも行ったことがあり、日本の有名なお城のかなりの数を訪れており(少なくとも25以上)、鎌倉時代の本も何冊も読んでいるそうである。

 

(ラストオブアス2とは)対照的に、『ゴースト・オブ・ツシマ』は、試みたあらゆる物語の要素は上手くいっていない。結局のところ、(開発元の)サッカーパンチは、クロサワからインスパイアされた壮大な歴史物語を作ろうとして、歴史としてもクロサワのパスティーシュ(作風の模倣)としても失敗しているものを作り出した。このゲームを愛する人はいっぱいいるだろうし、そういう人がこのゲームを楽しむことは何よりだと思う。しかし、こうした失敗を見過ごしたり、このゲームの品質に無関係だと免責したりするべきでもないだろう、芸術作品としても娯楽作品としても。

(おわり)

 

補記(2020.08.14):「『ゴーストオブツシマ』は外国人だからこそ、これだけ日本らしさをちゃんと描けたのだ」みたいな言説がネットでもいっぱいあるのを見ると、20数年前にラモス瑠偉が人気者だった時の事を思い出す。「ラモスこそ、本当のサムライだ」とか「彼こそ日本人が失ってしまったものを持っている」とかみんながこぞって喜び勇んで語っていた。みんながそれを嬉しそうに語るのが本当に面白いと思うし、人は変わってないなと思う。

 

 

 

*1:脚本は優れていないが、演出という点においては魅力的なところが多い。例えば、後半で冥人の型を敵の隊長の首を落として会得するシーンはとても素晴らしかった。

*2:具体的には、次のようなツイートにこのような感想が見られる。

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*3:次の製作者インタビューからも、決して『ゴースト・オブ・ツシマ』の製作陣がトンデモ日本を描きたいわけではないということが分かる。

『ゴースト・オブ・ツシマ』開発者インタビュー。侍を味わうための究極のアクション作りとは? 登場人物たちの名前の由来も判明 | ゲーム・エンタメ最新情報のファミ通.com

*4:ここで「リアル系」という言葉を使っているが、この言葉は若干誤解を与えるかもしれない。わたしは別に事実に沿っていることを指してここで「リアル系」と言っているわけではない。日本の時代劇に寄せていることを指して、ここで仮に「リアル系」という言葉を使っているだけである。『ゴースト・オブ・ツシマ』が事実的だとか事実的でないとかを言いたいわけではない。

*5:逆に、ではこれまでのゲームにおいて優れた時代劇表現ができていた例があるのか?というのは本稿に対する極めて妥当な反応だと思うので、個人的に素晴らしかった思う例として『天誅 参』の藤岡鉄舟のテキストを挙げたい。あれは素晴らしく時代劇だった。

*6:風景の美しさがよく評価されているが、序盤にある稽古場の情景などは過剰に赤が強調されており、やや下品な絵面だなと個人的には感じた。ラッセンぽいというか。