ビデオゲームとイリンクスのほとり

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『あつまれ どうぶつの森』は泣きゲーである

歳を取ると涙腺が緩みやすくなるというのは、やはりあって、別に全然泣けるような状況でもないのに、無性に泣けてしまうということがある。

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少年時代をゲームで過ごし、ゲームと共に育ってきた僕たちの世代は、ゲームの軽薄さというものを世間からの視線によって強く感じてきた。ゲームによって涙を流すことがどういうことなのか、それが映画を見たり小説を読んだりして流す涙とどう違うのか。僕たちはそれを誰からも教えてもらうことなく育ってきた世代である。だって僕たちより前には誰もゲームで涙を流す「いい大人」なんていなかったのだから。

 

3月に発売された『あつまれ どうぶつの森』は、すぐさま娘を虜にした。初めてリュウグウノツカイを釣った時の驚き。それを親に喜び勇んで伝えようとする幼さの残る様子。珍しい魚を先に釣られたことを妬むその姿。父は新しい魚を釣っても、それを博物館に寄贈するかどうかいつも悩む。私と同様、その「寄贈する権利」を子供に譲ってやろうとしたことのある親はきっといっぱいいるだろう。妻に聞くと、同じようなことを考えていた。

 

テントしかなかったはずのあの無人島が今や町のようになっている。しかしその町は決して整然と作られているわけではない。無造作に植えられた花畑と、妙に律儀に植えられた生垣と、おもむろに置かれているレックス作の昆虫の模型。混沌とした様子のこの島は確かに世界で唯一の島であり、それはもう美しいとかキレイだとか、そういう基準で測ることが難しいほどの時間と共にある。

 

2020年は確実に10年後も新型コロナと共に語られる一年だろう。運が良いことに、私たち家族は今日、明日の命を心配するような状況にはない。しかし、この異常な状況でモヤモヤとしたものを心の片隅に抱えながら日々を生きている。親ができることはただ子供の身体的な健康を気にかけて、無闇に外出をしないようすることぐらいで、その心のうちまで、うまくカバーができていると考える親は少ないだろう。そんな夏の夜に、娘があつ森の花火大会を見ている。「住民呼び出し」で、私たち夫婦も娘と並んでその打ち上げられる花火を見ている。娘ははしゃぎ、つねきちの怪しいくじ引きでやたらと散財をしている。風船を手に持ち、島を走り回っている。クジで当たった小さな花火を砂浜で上げている。

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毎年家族3人で地元の花火大会に行っていた。かなり大きな花火大会だ。しかし今年は中止である。毎年その日は妻の作るお弁当を持って、混み合う人混みを掻き分けて、ビニールシートを敷いて花火を見ていた。風流を解さない僕などは後半には飽きてきて、スマホを見ようとするのだが、大抵、人の集まる花火大会の会場は電波が混み合いネットも繋がらない。そういうどうしようもなく野暮な過ごし方でさえ、何かとても素敵な日々だったと思えてしまう。日曜日の気怠い夜に、娘があつ森の花火大会ではしゃいでいるのを見ると、思わず涙が流れてしまう。何かが悲しいのでも、特に嬉しいわけでもない。ただただ泣ける。娘も大きくなった。初めて家族3人で花火大会に行った時のことをどれだけ彼女は覚えているだろうか。これ以上大きくなれば、もうあと何回も親と一緒に花火大会に行くこともないかもしれない。

 

つねきちのいかにも胡散臭い口上が、打ち上がるマイデザインの花火が、余るほど集まった風船たちが、今年の花火大会の記憶として残ることに、ゲームと共に育ってきたわたしなどはコロッとやられてしまう。あつ森は泣きゲーである。自分がプレイしていない時にこそふと泣かされてしまう泣きゲーである。