ビデオゲームとイリンクスのほとり

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『Untitled Goose Game』におけるベルは何を意味しているのか?

2019年にリリースされたガチョウが主人公のゲーム『Untitled Goose Game〜いたずらガチョウがやって来た!〜』は、かなり独特の雰囲気をまとっている。

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日本語タイトルの副題にある通り、ガチョウが色んなイタズラをして、街の人たちを困らせる、というコンセプトは分かりやすいものの、「このコンセプトがどれだけ面白いのか?」と疑問に思い、中々手を出せない人もいると思う。最初にそういう人にお伝えしたいのは、このゲームはあなたが想像する通り、そこまで面白いゲームではない。しかもかなりボリュームは少なめだ。日曜日の昼下がりに、どうしてもやる事がなくて暇で、しかもサクッとその日のうちに最後まで楽しめるような娯楽を求めているなら、とてもいいゲームだろう。そうでないなら、まあ、無理をすることはない。他に欲しいゲームを買うのも手だと思う。

しかし、そうした評価とは別に、やはり本作はプレイ後に独特の後味を与えてくれることは間違いない。それは達成感とも物語的な感動というのでもない。なんだかよく分からないけど、決して嫌ではないピースフルな気持ちにさせてくれる。本稿はその感覚がどのようにもたらされているかを少し書いてみたいと思う。大したネタバレがある話ではそもそもないが、ネタバレを気にせずに書くので、今後実際にプレイしたいと思っている人は注意願いたい。

「アンチゲーム」としての批評性

本作は暴力というものを丁寧に避けている。ガチョウが人間にいたずらをする話なので、それに怒った人間がガチョウを蹴り飛ばしたりしそうなものだが、そういう事態は発生しない。せいぜい、そのエリアから追い出されるくらいのことしか起きない。暴力を避けているということは、ゲームに平和的な雰囲気をもたらしていること以上に、本作がゲームとして独特であることを意味している。現代の多くのゲームは暴力を描く。暴力はプレイヤーにとって刺激であり、モチベーションであり、快感を与えるものとして利用されている。もちろん非暴力的なゲームも数多くあるが、本作は暴力の存在を意識した上で、あえてこのようなゲームを作ろうという信念があって制作されていると感じる。というのも、様々なイタズラによって人間の多くは怒ったり、文句を言ったりするし、なによりガチョウが引き起こす事態は意外にシビアでもあるからだ。そんな風に互いに衝突はするのだけど、あえて暴力は描かない。暴力を意識しつつ、描かない。それはちょうど『メタルギア』が戦争や兵士という存在を描きつつも、真正面からぶつかる暴力ではなく、背後に周り、隠れるというゲームメカニクスによって、暴力を全く別の視点から描いたことに似ている。しかし『メタルギア』のようにゲームらしいカタルシスも物語の選択もない。本作は、古臭いポイント&クリックのアドベンチャーゲームと素朴なステルスゲームの要素を最低限のゲームらしさとして許容し、あえて「アンチゲーム*1」を作ろうとしたと考えられる。

目的の無意味さ

本作が最も「アンチゲーム」であると感じさせたのは、ラストのくだりである。この箇所が本作を独特の作品にしている。ポイントはゲーム開始当初にある。

ゲームが始まってすぐ、プレイヤーは土に埋まったいくつかのベルを見つける。

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当然プレイヤーはそれを取ろうとするのだが、取ることはできない。ここで多くのゲーマーはこう思った筈だ。「あれはいつか取ることができるようになるのだろう」と。ここが本作の一つのフックになっている。あのベルは一体なんなんだろう?あそこに埋まっているのはどうしてなのか?それが最後に明らかになる。ラストで、ガチョウは街のミニチュアのステージに入る。このミニチュアが何のために作られた物なのかはよく分からないが、世界には以下のリンク先にある街のミニチュアテーマパークがいくつかあるので、それらがイメージされているのかもしれない。

Miniature park - Wikipedia

弱くて小さかったはずのガチョウが怪獣のように街をのし歩くというのは、ボーナスステージのようでもあり、いかにもゲームらしい趣向だ。いずれにしろ、ガチョウは街のミニチュアの終着点で、あの最初に見たベルを入手する。そしてそれを持ち帰るという目的を与えられる。そこでようやくプレイヤーは気がつく。「あ、最初に見たあのベルはそういうことか」と。

このゲームにおけるベルがとても面白い存在となっているのは、そのベルがゲームにおける「目的」の存在を揺さぶっているからだ。一般的にゲームにおける目的は全て「未来」に向かっている。いつか魔王を倒す。いつか伝説の宝を手にする。いつか囚われの姫を救出する。ゲームの目的は全て未来にある。しかし『Untitled Goose Game』におけるベルは「過去」に属している。もう既にいくつも手に入れたはずのベルであり、そこに1個ぐらい新たに加わろうと、そのこと自体にあまり(人間からすると)意味はない。考えてみると、このゲームで行うあらゆる行為とその目的は、未来に向かっていないばかりではなく、人間にとってほとんど意味のない行為ばかりである。なぜそんなイタズラをするのか。それはガチョウにしか分からない。

しかし、多くの他のゲームは、人間にとって意味のある(ように見える)目的を提示して、それを実行させている。ボタンをポチポチ押すという、言ってみればチャチな行為に、物語や設定によってやや過剰で壮大な目的を与えてきたのがゲームというものの基本的な様式だった。それは常に輝かしい未来のために設定されていた。しかし本作はその点で大きく既存のゲームと異なる。ベルは既に手に入れた「過去」の反復でしかない。ガチョウにとって、それは既に「3周目」や「4周目」なのかもしれない。何の意味があるのかと思いながらこなしてきたタスクの最後に、最も究極的に無意味な課題が与えられる。しかしそのことが単なる投げやりな無意味さとなっているのではない。プレイヤーはガチョウのことを自分のことのように思ってきたかもしれない。だが「ガチョウはやはり単なるガチョウ(untitled goose)」でしかない*2。もちろんそれは最初から知っていたはずのことかもしれないが、それが「ヒカリモノを集めてしまう習性」を通して改めて理解させられるというトリッキーな気付きの構造になっている。これまで提示されてきた数々のイタズラのタスクも、恣意的で無意味に思えてきたが、これらも全て「ガチョウがしていること」と考えることで、その無意味さ自体がキレイに回収されている。そもそも目的の意味なんてのはガチョウにしか分からなくて当たり前だったのだ。じゃあ、なぜそんな無意味なことを僕らはしているのか。

『Untitled Goose Game』は、ゲーマーがゲームに対して思い込んでいた当たり前を、ゲームの慣習を応用しつつ我々に全く覆した形で「お返し」してくる。考えようによっては、本作は我々ゲーマーの生態を描いているとも考えられる。というのも、ビデオゲームという遊びは、時に無意味で非生産的な時間潰しのように言われることがある。非ゲーマーは私たちゲーマーのことを、ベルを集めるガチョウのように見えているのかもしれない。ガチョウとそのベルは我々ゲームを遊ぶ者たちの比喩なのかもしれないのだ。そう考えると、実に本作は批評的なゲームだと思えてくる。

 

*1:「アンチゲーム」という言葉はそこまでしっかりと定義されたり、世の中での使い方が確立された言葉ではないと認識している。例えば『moon』(1997)のようなゲームを指す言葉として使われているが、本稿では「従来のゲームで通用している慣習を逆手に取って、従来のゲームのあり方を問うような批評的な側面を持つゲーム」ぐらいの意味で使っている。

*2:追記 : 2021.04.20  ここでは"untitled"が"goose"に掛かるように書いているが、どちらかと言えば"game"に掛かる(=無題のゲーム)と考えるべきかもしれない。本稿の論旨に大きく影響するわけではないけれど。