ビデオゲームとイリンクスのほとり

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フィルカル『特集 ネタバレの美学』を読んで、ビデオゲームのネタバレについて考える

今さらだが、『フィルカル Vol.4 No.2』(2019)の「特集 ネタバレの美学』を読んだ。一部の記事は既に読んでいたりもしたのだが、今回通しで読んでみて大変面白かったので、その感想を書きたいと思う。特に私の好きなビデオゲームに絡んで考えることも多かったので、既に散々議論されている話かもしれないが、その点についても書いてみたい。

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ビデオゲーム作品の鑑賞は典型的な能動的鑑賞

まずは1つ目の「謎の現象学 ーミステリの鑑賞経験からネタバレを考えるー」(高田 敦史)。本論に入る前の整理の段階の議論がとてもスッキリしていて読んでいて気持ちが良かった。そして何より本論が始まって導入される「能動的鑑賞」は、ネタバレのメインストリートと思える場所の「悪さ」を非常に分かりやすく説明してくれていたように感じて、納得感が高かった。なにより、この「能動的鑑賞」というのはゲームを強く想起させる。

本論文でテーマとなっているミステリーだが、「誰が犯人か?」を強調するミステリーは英語圏では「パズルミステリー」と言われたりもする。パズルと言うと、それはかなりゲームに近い。

ゲームにおけるネタバレにもおそらく様々な種類があるが、いわゆるゲーム内物語としてのネタバレとは別に、ゲーム固有のゲーム的なネタバレというのものがあるだろう。一般的には攻略情報と呼ばれるものだ。攻略情報はゲーム特有のネタバレ情報の一つのあり方であるように思う。そして攻略情報は、明らかに「能動的鑑賞」を妨げる。「自分の力で攻略しなかったら、それは単なる作業じゃん!」という言い方などで表現されるのは、この論文が指すところのネタバレの悪さと同じものだろう。ただ攻略情報というとゲームの中でも特にビデオゲームによく見られるもので、アナログゲームボードゲームの攻略情報という言い方はあまりされない。近い情報に定石やノウハウ集のようなものはあるかもしれないが、それらはネタバレらしさが、攻略情報ほど無いように思える*1

本論文では、能動的鑑賞の事例として3つのタイプが挙げられている(P24)が、ゲームの場合は更に身体的行為というものがあるだろう。ビデオゲームなどで繰り返し鍛錬をすることで得られる身体的な(指先の)スキルは基本的にネタバレによって毀損される面が少なく、パズルの解法のようなネタバレが推理や予想など心的行為を大きく毀損するのとは対照的だろう。この辺りはゲーム特有のネタバレの美学というものがありそうな予感をさせる。

また、説明の第二段階(P31)以降の価値判断と価値享受の話も、正にゲーム特有の体験をイメージさせる。ゲームという商品が主に価値享受の側面に注力して作られた商品であることはおそらく多くの人が納得するところだろうし、それゆえ若干「下に見られる」的なところもあるだろう。何より鑑賞後というよりも、鑑賞中の経験が重要視されるところはゲームという形式の重要な性質とも絡む。

ラストで語られるネタバレの不可逆性(取り返しのつかなさ)というのは、ネタバレの悪さにおける一つの重要な柱なんだろうと思う。これは3つ目の森氏の論文でも感じたところだ。後でまた触れたいと思う。

ネタバレと認知的コスト

2つ目の論文は「なぜネタバレに反応すべきなのか」(渡辺一暁)。素朴な話として、冒頭の方で、パイロットとネタバレの事例があり、ああした事例提示によって「冷静に議論に入れる」というのはあるなぁと思った。どうしても「ネタバレは是か非か」という話になると、すぐに喧嘩っ早くなってしまいそうになる面もあり、それはそれで面白みであるのだけど、そういう「是か非か」の議論というのは中々発展しづらい面がある(そういう議論でも面白く発展させられちゃう才能のある人ももちろんいるのだろうが)。なので生死の問題とネタバレの問題をあえて比較するような事例が出てくると分かりやすく議論の範囲が限定される気持ちになり、良いなと思った。

こういう美学の議論の面白さというのは、議論がどんどんと狭まっていくその過程にあったりするので、それを行おうと様々な「ネタバレへの嫌疑」を挙げて議論をすすめていく本論文は読んでいて楽しかった。ただ、論の構成がかなり複雑な印象もあって、ラストの「無用なタスクを引き受けさせ」ることの悪さというのは直感的には理解しづらい部分もあった。というのも通常ネタバレというのは「鑑賞コストを下げる」という印象があるからだ。これはネタバレ情報を事前に知っておくことで重要な箇所に集中して効率的に鑑賞できるということでもあるし、無駄にハラハラしたくないから結末を知ってから読むというような事例からもイメージされるものでもある。もちろんその事は本文内にも明記されているが、一般的には「(ネタバレは)認知的負荷を下げる」方が理解しやすいと思う。

ただ、この「認知的負荷を上げる」パターンも、ビデオゲームの事例を考えるとより理解しやすいかもしれないと思った。

例えばゲームで、「このダンジョンにはいくつか宝箱があるが、全ての宝箱を発見すると、最後にもう一つ隠された宝箱が出現する」というようなネタバレがあったとしよう。このネタバレを見たことで、それが本当なのかどうか、または、隠された宝箱の中身が欲しくて、ダンジョン内の宝箱を全て発見するように隈なく探索するプレイをしてしまうかもしれない。この情報が嘘かどうかは置いておいて、こうしたプレイによって本来であれば「スッと抜けて大して苦労しないプレイ」が想定されていた序盤のダンジョンを、無駄に苦労してプレイヤーを疲弊させてしまう可能性がある。こうした経験はゲーマーであれば、何度か出会ったことがあるのではないだろうか。個人的にはネタバレによって負荷が上がる経験は、映画や小説などよりもゲームの方が実感としてある。

本論文のようにやや直感的にはレアなケースとしてのネタバレの悪さを提示しているように思える説も、こうして別のメディアや形式に移して考えることで、「たしかにそれあるかも」と思えた。私としてはそう考えることで、翻って、「小説や映画でも同じようにネタバレで認知的負荷が上がるケースって、やっぱりあるかも」というように改めて本論文に沿った視点で見ることができた。そういう思考の旅のきっかけに本論文はなった点が、とても面白かった。

ネタバレの倫理的悪さの分析

3つ目の論文は「鑑賞前にネタバレ情報を読みにいくことの倫理的な悪さ、そしてネタバレ許容派の欺瞞」(森功次)。

観賞前にネタバレ情報を読みにいくことの倫理的な悪さ、 そしてネタバレ許容派の欺瞞 森 功次 | フィルカル

この論文は特集の中でも、ネタバレ否定の最右翼、タカ派として異彩を放っていて面白かった。本論文の煽り性というか、キャッチーさはさることながら、(もちろん筆者は「大真面目に」書いていると思うのだが)ネタバレを巡る世の中の議論の捻れのようなものを感じさせるところも味わい深い。

一般論として、芸術の批評とか鑑賞ということを考える人で、素朴に「ネタバレ悪!」と思うような人はあまりいなくて、だからこそそういう通念によって見落とされてしまう要素が明確に言葉になっていることが面白かった。「工夫を発見する楽しみ」とか、もちろん分かっていても意外にちゃんと言葉にしていなかったなと思う。というか心の底で馬鹿にしていた自分に気付かされるようなところがある。

その上で、本論文を読んだ時に感じた違和感を3点挙げる。

1点目は、鑑賞効率(P85、P89)についてだ。これは2つ目の渡辺氏の論文にも関わることかもしれない。森氏の論文では、ネタバレ情報に事前に自発的に接するのは、鑑賞効率を重視して「アートワールドで重視されてきた姿勢をーー軽視することだろう」と語っている。これ自体は基本的にはその通りだと思う。ただ、鑑賞効率を高めるという価値観が、本来的な鑑賞に良い影響を与えるケースをもっと積極的に擁護する道はありそうだ。特に「二度目、三度目の鑑賞からでも得られる価値」というようにネタバレの不可逆性に立った森氏の説明は諸刃の剣にもなるのではないかと思った。

これは、ビデオゲームについて考えることで発想したものだ。ビデオゲームは一つの作品を味わうのに50時間以上掛かることが珍しくない。これは映画であれば25本を見る時間に相当するわけで、こうした大作ゲームの場合、一本のゲームを2度、3度と鑑賞することが珍しい。そのためか、その1回目のプレイを如何にプレイヤーに飽きずにプレイさせるかに、現在のゲーム製作では多大な労力がかけられている。で、これはゲーム特有というわけではないのだろうが、ゲームにおいて良く見られる事象として「ゲーム実況動画を見ることでそのゲーム作品を再びやる気になる」というケースが結構あるのだ。これは途中でやめてしまったゲームをネタバレによって再開させるケースだ。森氏はネタバレの不可逆性の問題点(かけがいのない1回目の鑑賞を捨てること)を示し、これはこれで全くその通りで問題だと思うのだが、一方で失われてしまった1回目の鑑賞の機会をネタバレが回復することがある。ネタバレがなければ0であったものが0のままであることもまた「捨てる必要のない芸術的メリットを捨てて」いることに相当しないだろうか。*2

2点目は、有意義なバーター論法への反論(P91)についてだ。ここは正直言うとちゃんと自分が理解できていないだけかもしれないが、「他人の鑑賞をも正確に予測しなければならない」という問題はネタバレ否定派にも当てはまるのではないかと思った。松永氏の森氏への反論(P117)にも近いような気はするが、全知全能でないのはネタバレ否定派も同じで、それがより良い鑑賞につながる保証がなく「データが不正なまま」な点は同じではないかと感じた。ネタバレもしないが、自発的なネタバレ接触も別に容認するという意見であれば、「何もしてない」ので「不正な取引」ではないが、他者の自発的なネタバレ接触の倫理的な悪を咎める以上、それにはやはりネタバレ許容派と同様の全知全能が求められてしまうのではないだろうか。

3点目は、商業主義によるネタバレの悪さ(P96〜)についてである。この議論は非常に面白いと思ったし、確かにそういう面もあると思う。ただ、どちらかと言えば商業主義によって「ネタバレしない」場面の方が私は気になってしまう。なのでこれは反論というよりも私の個人的な違和感を表明しているだけの話かもしれない。最近のビデオゲームでは、ゲーム機本体の機能として実況機能が付いている。ボタン一つで簡単にゲーム実況が配信できるのだ。しかし一部のゲームでは、特定のゲームのセクションを配信禁止に設定していることがある。もちろんその配信禁止箇所は、そのゲームソフトを作る制作会社の意向によって決められている。例えばエンディングのみ配信禁止にしたり、一方でほとんどのストーリー部分を禁止設定にした作品もあり、様々なケースがある。これらは、いわば商業主義によってネタバレ禁止が行われているケースであるとも言える(もちろんそれは商業主義という理由によるだけではないが)。こうしたネタバレ禁止を目的とした配信禁止措置は特に海外において批判されることが多く、おそらくそれは自由なゲーム鑑賞を妨げるものとして批判されている。以下のリンクはそれに関連した記事の一つである。

「『ペルソナ3』を配信させてほしい」と90分懇願し続けるVTuberの配信が話題に、「#CallioP3」運動へ発展。ただし一部ファンの暴走に批判も | AUTOMATON

個人的にはネタバレするという方向性だけではなく、ネタバレしないという方向性においても商業主義が優先するのであれば、同じような気持ちの悪さを感じる。先に示した記事などは、まさしく商業主義によってネタバレ許容の方に腐敗した例とも言えるかもしれないが、一方で(ゲーム制作会社による)ネタバレ禁止が悪しき商業主義として批判されているケースと見ることもできる。「商業主義に基づいたネタバレ禁止はどういう悪さなのか?」という議論ができそうに思った。

ネタバレに関わる対立する規範

4つ目の論文は「ネタバレは悪くて悪くない」(松永伸司)だ。18のネタバレパターンの分類は非常に読んでいて気持ちが良かった。またネタバレ議論の対立が、「美的自由の規範」と「美的努力の規範」の対立であると捉え直されるのは、とても説得的だと感じた。

かなり普遍的な議論なので、本論文をビデオゲームに絡めるのはやや強引かもしれないが、ビデオゲームでは「美的自由の規範」がかなり強く意識される面があるのではないかと思った。鑑賞者の行為を促すビデオゲームという形式は、プレイヤーの自由というか自律性というか、そういうものを尊重する文化が鑑賞文化にも製作者側の意識においても、広まっているような気がする。ゲームにおいてネタバレが問題になることはあるが、問題となるのはやはり物語の筋をバラすようなパターンが多く、それは決してゲームという固有の形式に依存する話ではない。一方で、いわゆる攻略情報のネタバレがゲーム特有の問題だと考えるが、一般的に攻略情報を見るということが、サスペンス映画やミステリー小説のネタバレ接触ほど、忌避されていないように個人的には感じる。このあたりは、単にゲームがプレイヤーの自律的な行為に依存した形式だからというだけでなく、ゲームの攻略情報はたった一言でネタバレしにくい、などの性質も関与してそうで、色々考えたくなるところがある。例えば、ミステリーのネタバレなど、犯人の名前という短い言葉ひとつで、鑑賞経験に大きな影響を与えるということが、重要な特徴のようにも思える。また、5つ目の論文の感想にも後述するが、多くのゲームが複数の挑戦を備える構造であるため、そのうち一つをネタバレされても作品全体に対する鑑賞経験への影響が他のメディアに比べて少ないのではないかとも思う。とまあ、色々考えを巡らすことができて大変楽しい。

あと個人的に松永氏の文章は「註釈から垣間見える気持ち」を勝手に読み取るのが好きで、本論文でもそういう楽しみがあった。(私の勝手な思い込みも多分にあると思うので、特に言明しないけど、ムフフって楽しんでる)

ネタバレ感想の構造

5つ目の論文は「見破りましたか?騙されましたか?ー「ユージュアル・サスペクツ」感想文の分析ー」(竹内未生)。自分がこうした概念分析の手法について馴染みがなく、この論文で示される意義というのを十分に理解できていないかもしれないが、色々と考えを発展させることができる議論だと感じた。特にネタバレというと「是か非か」のような議論(感想の応酬)になりがちで、それは未鑑賞者を想定した議論であることが多い。既鑑賞者に向けたネタバレの構造というのはとても面白い研究対象だと感じるし、事実、ネタバレ擁護者の多くはこのあたりに擁護する根拠を置いている場合も多いだろう。

また、「ラストシーン」への着目も面白いと思った。というのは、この視点によりビデオゲームのネタバレの特徴が現れるように思うからだ。ゲーム特有のネタバレ情報として、本稿ではずっと攻略情報というものを取り上げているが、攻略情報がラストシーンやどんでん返しというものと(小説や映画と比べると)ほとんど結びつかないような気がする。いや、もちろんラスボスのネタバレというものはあるのだけど、それは中盤のボスのネタバレとあまり価値の位置付けとして変わらないし、変わる部分としてはやはり物語のネタバレ的なものでしかないように思える。つまりゲーム固有のネタバレから見えてくることの一つに、ゲームが持つ「繰り返し構造」があるのではないかと思った。映画や小説の場合、仮に挑戦を用意するものであっても一つの作品が一個のまとまりある挑戦として作られる一方で、ゲームは一つの作品の中にその挑戦が繰り返し複数用意されるものである。おそらくこの構造の違いは、ゲームのネタバレ感想の構造にも影響を与え、映画のネタバレ感想とは異なる構造で書かれるということが、ゲームのネタバレ感想文を分析したら見えてくるかもしれない。

本論文で一点気になったのは「回収されない伏線」(P139)についての議論だ。キントが左手で思わず払うというシーンは、普通に考えてラストシーンで直接的に回収されていると考える。正に「障害は嘘だった」という結末で片が付いている。ここでおそらく示されるのは「気付かれない伏線は、伏線なのか?」という問題であるだろうと思われるので、私の疑問はそういう意味でイチャモンに過ぎないかもしれないが、「「回収」がないものも「伏線」」(P142)というような言い方には若干の違和感を感じた。ただ、「言われなきゃ分からない伏線に対するネタバレはネタバレなのか?」というような疑問は面白いトピックになりうるだろうと思う。

 

ネタバレの悪さの「度合い」

というわけで、5篇の論文についてそれぞれ感想を書いたが、最後に個人的に気になっている点を書いて終わりたいと思う。

私はネタバレを基本的には避けて作品を鑑賞しようとするが、ネタバレをあまり強く否定しすぎることにもやや嫌悪感を感じている。私がネタバレ忌避の態度で気になるのは、ネタバレ警告文の存在だ。私はあらゆるネタバレ警告文が、美的に少し許容できない。

今、手元に2016年に発行された新海誠特集のユリイカがある。この雑誌に載せられた批評文のほとんどにネタバレ警告文が付いている。毎回毎回太字で強調されたネタバレ警告文を読んでいると「ユリイカ新海誠特集とか買う奴で、ネタバレを気にしてる奴なんか、おるのかいな?」と若干の気持ち悪さを感じてしまう。

私がネタバレ警告文で気になっている点を整理すると以下の2点だ。

1つはネタバレへの配慮が度が過ぎているのではないか?ということ。先程のユリイカのように、なんというか、やや慇懃無礼に感じるほどのネタバレ配慮のドレスコード化が進んでいることが少し面白くない。

もう1つは、少し言及したがネタバレ警告文というものがどのように書いても、美しく表現できないという点だ。批評文を書きたい人で、自らの文章にネタバレ警告文を入れたい人っているのだろうか。この歪でどうしてもはみ出してしまうメタ的な性質を持つネタバレ警告文は、文章の中で美しく潜り込ませることが難しいように思う。

特に2つ目の「ネタバレ警告文の美しさの問題」で言いたいのは、個人的な美的センスの問題もあるのだが、ネタバレの悪さというのは「ネタバレ警告文の醜さという『どうでもよさ』」と拮抗する程度に、「悪さのレベルが低い(=あまり悪くない行為)」ではないかと思うのだ。今回ネタバレ特集を読んで、今後は更にこういう「ネタバレの悪さはどの程度悪いのか?」という議論を読んでみたいと思った。

 

*1:アナログゲームやポードゲームの多くが、対人戦であることがその一つの理由にはなりそうである。『パンデミック』のような協力プレイ型のボードゲームには攻略情報(=ネタバレ)があり得るように思う。

*2:0とか1とかいう言い方は少し森氏の議論とズレるような気もする。ゲームの場合、ある程度の攻略情報の提示により、明らかにその鑑賞体験が上がるということがよくある。難しかったゲームのシリーズが最新作で難易度が下がることで、評価が上がるということは頻繁にある。それと同じことがネタバレによって引き起こされる例というようなものをここで芸術的メリットとして考えた方が(0とか1とか言うよりも)適切かもしれない。