ビデオゲームとイリンクスのほとり

ブログになる前の軽い話は以下で話してます。■Discord : https://discord.gg/82T3DXpTZK 『ビデオゲームで語る』 ■映画の感想は『映画と映像とテキストと』というブログに書いてます。https://turque-moviereview.hatenablog.com/ ■Bluesky: https://bsky.app/profile/turqusumi.bsky.social

映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

膨大な「チェックリスト」を処理するように感じるゲームは一体何が悪いのか?

時折、ゲームを遊んでいると「チェックリストをひとつずつ処理しているような感覚」になる。私がこの「チェックリスト(のような)ゲーム」という概念を最初に意識したのは、アメリカの掲示板型コミュニティサイトRedditの以下の投稿を読んでからだ。おそらく2015年くらいのポストで、今から10年前と古い投稿だが、今なおこの感覚というのは十分に多くの人に伝わるだろうし、興味深いものではないだろうか。

タイトル: オープンワールドゲームを膨大な「チェックリスト」のように感じさせないものは何か?

『マッドマックス*1』は、この点で多くの批判を受けたが、多くのオープンワールドゲームについても同じ話はよく聞く。批評家はそれを単なる時間潰しとか、プレイ時間を水増ししていると言う。しかし実際彼らが求めているのは何なんだろうか?良きオープンワールドの要素とは何だと考えられるのだろう?静的ではない形で世界がプレイヤーのアクションに反応するように感じられることだと言う人もいるけれど、それはRPG以外だと、どういうふうにできることなんだろうか?*2

https://www.reddit.com/r/Gaming4Gamers/s/V6Mws3R7oK

この「チェックリスト」という言い方には明らかにネガティブな評価が含意されている。本稿で示すのは、このチェックリストの悪さというのは一体何なのか?ということである。

エスト一覧の便利さ

チェックリストという言われ方がなぜされるのか。それは多くのゲームに実装されているクエスト一覧のようなものがイメージされているからだろう。ではそうしたクエスト一覧のような機能が設けられるのは、なぜだろうか?

f:id:tuquoi:20251023181305j:imageサイバーパンク2077(2020, CD PROJECT RED)』のクエスト一覧。"ジャーナル"として受注しているタスクが一覧としてまとめられている

それはとても当たり前の話かもしれないが、クエスト一覧が便利なものだからだろう。特にオープンワールドのゲームであれば、様々なタスクが用意されている。例えば最近私が遊んでいる『ゴースト オブ ヨーテイ*3』には、「捕虜を助ける」「賞金首の指名手配犯を追う」「失くしたものを探す」など様々な依頼が多数存在している。それらを全て覚えておくことはプレイヤーには難しい。そこでクエスト一覧のようなリストが用意される。こうしたクエスト一覧があるのは、ノンリニアなゲームである。リニアに(直線的に)ゲームが進行する場合、受注しているタスクをわざわざ一覧化する必要はない。ノンリニアなゲームではプレイヤーに選択の自由をもたらすために、複数のタスクを同じタイミングで受注できるようにしている。面白いのは、わざわざノンリニアにすることで作り出した自由を、今度はクエスト一覧が抑制しているように見えるところだろう。そもそもタスクを選択する自由がなければ、チェックリストは生まれなかったかもしれないのだ。

チェックリストは何が悪いのか?

では、そもそもチェックリストはなぜ悪いのだろうか。それは、先に書いた通りチェックリストがある種の不自由さを感じさせるからだ。エスト一覧がチェックリスト化することで、それがさも「やらされ仕事」のように感じられる。この感覚については、昨今のオープンワールドゲームを何作かプレイしていれば、時折感じることだろう。しかし、これが「なぜ悪いのか?」と考え始めると意外に難しい。先に書いた通り、クエスト一覧は、プレイヤーが記憶できない量のタスクを代わりに覚えておいてくれる便利な機能だ。基本的にクエスト一覧はただそこにあって「絶対にやれ!」と命令するわけではない。ゲームシステムとして(クエスト一覧自体が)強要することはなく、ただ便利なメモ帳として存在しているに過ぎない。クエスト一覧を単純に悪者にするのは難しいようにも思える。

私はその問題を、エスト一覧の仕様の問題というよりも、むしろそのクエスト一覧という存在自体の問題ではないかと考える。その点をもう少し具体的な作品を参照しつつ説明しよう。

先ほども挙げた『ゴースト オブ ヨーテイ』だが、本作もオープンワールドで複数のタスクから自由にタスクを選んで進めていけるノンリニアなゲームである。この『ゴースト オブ ヨーテイ』にもクエスト一覧があるのだが、いわゆるリストのような一覧形式の見た目ではなく、すこし凝ったUIとなっている。

f:id:tuquoi:20251023181727j:image『ゴーストオブヨーテイ』のクエスト一覧。縦横にクルクルとタスクが回るように表示される

上記の画像のように、一枚のカードが一つのタスクを示している。そのタスクカードが縦横にローテーションすることで、いま受注している複数のタスクを閲覧することができる。この表現が特徴的なのは、従来のリスト形式のように各タスクを単純な上下関係として表現していない点にある。各タスクがリスト形式で並んでいれば、人はどうしてもリストの上にあるタスクから順番に片付けたくなってしまう。もしくは1番上にあるタスクが優先的だと思ってしまう。しかし『ゴースト オブ ヨーテイ』のようにローテーションするクエスト一覧では、どのタスクが1番上にあるかが示されない。各タスクを並列的に表現することで、自由にどのタスクからでも選択可能だと感じさせる。チェックリストといえば、上から順番に機械的に単純な作業をしていくだけというイメージがあるが、このUIはそうしたイメージを植え付けないよう、プレイヤーの心理に配慮した工夫があるように思われる。

しかし、このささやかな配慮がどこまで成功しているかは非常に疑わしい。というのも、いくらこのように工夫したとしても、今抱えているタスクがそこにあり、それを一つ一つ解決していく必要性はなお強く感じられるからだ。私自身も細かなタスクを全て処理してから、メインの物語を進めようかな、などと考えてしまう。やはりクエスト一覧のUI自体に問題があるというよりかは、その存在自体にこそ、プレイヤーはある種の強制性を感じてしまう。『ゴースト オブ ヨーテイ』のようにUI上の工夫をしたとしても「よし!色んなタスクを自由に選べるなあ」と単純にプレイヤーが感じるとは思えない。 クエスト一覧はどのような仕様であっても、ただ存在するだけでプレイヤーに「やらさせる仕事のように感じ」させてしまう。これは程度の差こそあれ、根本的な解決が難しい問題に思える。

エスト一覧が存在しない作品

また別の作品についても考えてみよう。ノンリニアオープンワールドのゲームでも、クエスト一覧が存在しないゲームもある。例えば世界的に大ヒットした『エルデンリング*4』がそうだろう*5。このゲームをチェックリストを潰していくようなゲームと評価する批評を、私は見たことがない。この作品ではクエストの完了漏れや忘れてしまったタスクが放置される問題は基本的にゲームシステムとして救われることがない*6。そのため、プレイヤー自身もどのタスクをどれだけこなしたかを正確に把握していない場合がほとんどだろう。プレイヤーによってはクエスト一覧というメモ帳がないことに不満を覚えた人もいるかもしれない。しかしこういうプレイングの快適さに無関心であることが『エルデンリング』という高難易度のゲームとしてのスタイルに合致している。厳しく、スパルタ的な姿勢がクエスト一覧のような親切な機能を備えなくても良い理由になっているとも言える。

もちろんこれは全てのゲームが『エルデンリング』のようにクエスト一覧をなすくべきだという話ではない。そこはどういうゲームを目指すかという基本的な制作方針に依るだろう。ただ、「チェックリストを潰すような感覚」についてだけ言えば、クエスト一覧が存在しなければ、その感覚は相当程度、低減されるものと考えられる。

そして先の『ゴースト オブ ヨーテイ』の例と合わせて考えれば、クエスト一覧のUIをどれだけ工夫しても解決をすることは難しく、クエスト一覧という存在それ自体がプレイヤーに「やらされ感」を感じさせてしまうと言えるのではないだろうか。

ドラクエ3の「おもいで」機能

では、「チェックリストを処理していくような作業感」をプレイヤーに感じさせないためには、『エルデンリング』のようにクエスト一覧の存在そのものを消すしかないのだろうか。

ここで、『ドラゴンクエスト3 HD-2D版*7 (以下、ドラクエ3 HD-2D版)』のある機能に着目したい。それは「おもいで」という機能である。この機能自体、ゲーム全般の体験にとってそれほど成功しているとは言い難いのだが、チェックリスト問題を考える上では非常に面白い機能である。

まず「おもいで」機能について簡単に説明しよう。

f:id:tuquoi:20251023182413j:imageドラクエ3 HD-2D版』のおもいで機能。NPCとの会話が後から参照できる

この機能は村人などNPCとの会話を記録できる機能である。ある特定のボタン*8を押すと、会話が終わった後でも、直前の会話がまるごと記録される。そしてその記録を30個まで貯めておき、いつでもメインメニューから再読することができる*9。いわば簡易的なメモ帳機能である。この機能は見ようによってはクエスト一覧として機能する。記録しておいたNPCとの会話テキストには様々なヒントが書かれており、それを眺めればこれから達成すべきタスクのリストとして使える。注目すべきはこの機能が従来のクエスト一覧のような「やらされ感」をそこまで感じさせない点にある。それはなぜだろうか?

「おもいで」機能の2つの特徴

「おもいで」機能が「やらされ感」を醸し出さないのは、2つの特徴があるためと考える。

その1つ目が、ヒントにならないようなどんな会話でも記録できるという点にある。例えば、ドラクエではおなじみの、町の入り口に立ち「ここはアリアハンの町だよ!」と教えてくれるNPCとの会話。こういう会話も記録できる。もちろん、普通はそんな会話を記録したりはしない。無意味で無駄だからだ。人によっては、ゲーム上の攻略には何の役にも立たないが、ふと気に入ってしまった素敵なセリフを記録するケースはあるだろう。もちろん攻略ヒントのメモ帳として「おもいで」機能を使っていた場合にはそうした情報はノイズになるかもしれない。しかし、むしろこの無駄を許容している点こそが、この「おもいで」機能が単なるチェックリストになってしまうことを防いでいると私は考える。

2つ目の特徴が、この機能が完全に会話テキストのコピーでしかないという点だ。例えば、先程の画像にもあった以下の会話Aは、ある村(カザーブ)の旅商人から聞いたものである。

A「このあいだ  北西の森の奥に  野草を取りに行ったとき  アルミラージと  遭遇しましてね。」

これが従来のクエスト一覧であれば、例えば以下のようなテキストBとして書き込まれるだろう。

B「カザーブの旅商人: 北西の森の奥にアルミラージ」

両者のテキストには違いがある。その違いはフレーバー的な、ゲーム内世界の味わいを感じさせる要素がBからは失われている点である。しかし私がここで着目したいのは、その点ではない。より重要なのは、Bのテキストを生み出したのはプレイヤーではなく、メタ的なシステムでしかないと感じさせる点にある*10。そのように簡潔に要点をまとめたテキストである方がむしろ、書いたのは私ではなく、第三者が自動で記述したものであるという感覚を強める。便利で整理されたクエスト一覧だからこそ、それはプレイヤーにとってよそよそしい存在になる。「おもいで」機能のようにそのまま完コピでメモされる方が、「わたし自身が残したメモ」として感じられるのではないだろうか。

先に私は、エスト一覧という存在それ自体がプレイヤーに「やらされ感」を感じさせてしまうと書いた。しかし「おもいで」機能を踏まえると、それは少し訂正が必要である。より正確に言えば、プレイヤーがより直接的に「その存在に関与する」ことが、この「やらされ感」に関係している。そのため「やらされ感」を減らすためには存在自体を消す必要はなく、「その存在に関与すること」が必要である

ドラクエ3 HD-2D版』の「おもいで」機能を踏まえ、この「存在に関与する」とはどういうことかをもう少し具体的に説明しよう。

リスト項目の出現に責任を持つ

通常のクエスト一覧は、私たちがその存在に関与することができていないと私は考える。それをもう少し具体的なイメージで考えてみよう。

冒険者であるあなたは、ある街に到着したばかりだ。そしてその街でお金稼ぎをしたいと考える。そこで早速あなたは冒険者ギルドに向かう。冒険者ギルドには、町の人からの様々な悩み事が持ち込まれている。今、ギルドに持ち込まれた依頼が5個あるとしよう。あなたはギルドの受付で、そららの依頼をどう受注するだろうか?

オープンワールドゲームに慣れたプレイヤーなら、5個すべての依頼をとりあえず受注するのではないだろうか。そして5個のタスクがクエスト一覧には並ぶ。もちろんリアルに考えると少しおかしい。達成できそうな依頼だけをまずは受注する方が普通だろう。しかしゲームにおいて、そういった気遣いをすることはあまりない*11。その時点で受注することにそれほどデメリットがなければ、まずはとりあえず受注する。なぜなら何度も冒険者ギルドに来るのが面倒だからだ。また、達成期間までに時間制限がある場合もあるが、それでも受注しないよりはした方が良い。なぜなら受注せずに達成できない場合でも、受注した上で期間内に達成できない場合でも、いずれにしろ同じだからだ。「ギルドの信用を失うのでは?」などということもリアルな場合であれば気になる点だろうが、そうしたパラメータ(例えばギルド信頼度のような)が実装されていなければプレイヤーはそうは考えない。今ある依頼は全て受注するのがほとんど場合に最適解となる。

ここで言いたいのは依頼やクエストなどの受注の細かな仕様の話ではない。昨今のオープンワールドゲームにおいて、何かのタスクを自分のタスクとして出現させることにデメリットがないことがほとんどであり、それはつまりエスト一覧の各項目を出現(存在)させること自体には何ら強い意志は働いておらず、できる限り出現させることがほぼ自動化されているということである。先に私が「通常のクエスト一覧は、私たちがその存在に関与することができていない」と言っている事態はこれである。私たちはクエスト一覧の各項目の出現にほとんど責任を持たないままに追加している。確かに受注したのはプレイヤーかもしれないが、それは単に最適解だから受注しているに過ぎない。そのため、クエスト一覧はいつの間にかプレイヤーに対してよそよそしい存在になる。単にこなすだけの「やらされ仕事」のチェックリストになってしまうのは、その出現に責任を持てていないからだ。*12

ドラクエ3 HD-2D版』の「おもいで」機能はその点において、各項目の出現にプレイヤーがより深く関与していることを感じさせる。なぜなら、ヒントにならない情報であってもその一覧には載ってしまうし、自動的にタスクの要点だけが載るものでもないからだ。無駄なものや有用度の低い情報も、プレイヤーの選択次第ではそのまま載ってしまう。そのプレイヤーと情報との直接性こそが、いわゆるチェックリスト問題を回避させていると言えるだろう。

エスト一覧に宿る「私の不在」

エスト一覧を「やらされ仕事」のチェックリストのように感じている時、私たちはそこに「私の不在」を見ている。面白いのは、手書きの攻略メモ帳にはそれを感じないということである。なぜならそれを書いたのは私自身であることは明白であるし、間違いや不足や無駄があることもまた感じ取れるからである。そうした一見するとネガティブでしかない要素も含めて「それが私だ」と感じているということだろう。「不完全である方が私らしい」などと言えば、やや面映い気もするが、クエスト一覧をつまらないと感じ取る時、実はそうしたかなり繊細な違和感を直感的に看取しているのかもしれない。だとしたら、それは一度も失敗せずにゴールまで辿り着けるゲームがつまらないと感じ取ることと実は極めて似ている話かもしれない。

*1:2015, Warner Bros. Interactive Entertainment。2015年9月(日本版は10月)に発売された映画『マッドマックス』の世界観のオープンワールドゲーム。

*2:原文は以下の通り。

What makes an open world game not feel like a massive "checklist"?

Mad Max received a lot of criticism for this, and I hear it a lot when it comes to open world games. Critics describe it as busywork, or time wasting ways to artificially lengthen the game. But what exactly ARE they looking for? What's considered good open world content? I've heard some say the world should feel like it is reactive to your actions rather than fully static, but how is this done outside of RPGs?

*3:2025, SIE。戦国時代の末期、北海道(蝦夷地)を舞台にしたオープンワールドゲーム。

*4:2022, フロムソフトウェア

*5:正確に言えば、火山館からの依頼は手紙というアイテムとして受注するため、この依頼だけはクエスト一覧のように後からも参照できる。ただし、これは例外的なものであるので、基本的にはクエスト一覧がないと言っても差し支えがないと考えている

*6:どのクエストも絶対にやらなければならないものは限定され、全体としてのゲームデザインも、クエストのやり漏れなどが問題とならないような工夫がおそらくされているのだろう

*7:2024, スクエアエニックスドラクエシリーズの3作目をリメイクした作品。単なる移植ではなく、グラフィックなどを全面的に描きかえ、ゲームシステムにも多くの変更が加えられている。

*8:Switch版なら+ボタン、PS版ならOptionボタン

*9:この「おもいで」機能は、スーパーファミコン版の『ドラクエ3』にあった「おもいだす」という呪文をリメイクした機能だと思われる。その呪文を唱えると、直前に会話したNPCとの会話テキストが再び参照できる効果だったようだ。私自身はスーパーファミコン版は未プレイであるため、以下の記事を参照してほしい。なおこの呪文はファミコン版『ドラクエ3』にはなかったようだ。https://wikiwiki.jp/dqdic3rd/%25E3%2580%2590%25E3%2581%258A%25E3%2582%2582%25E3%2581%2584%25E3%2581%25A0%25E3%2581%2599%25E3%2580%2591

*10:仮にその世界の中を実際に冒険して、手元にメモ帳があれば、むしろBのように要点だけをまとめてメモしたかもしれない。そういう意味ではBはよりリアリティがある表現となるかもしれない。例えば、Bのようなメモを冒険者の日記として表現する作品はあるかもしれない。しかし仮にそのような物語世界の事物(日記)としてクエスト一覧を表現したとしても、それはむしろプレイヤー自身が残した文書として感じられないのではないか?と思われる

*11:依頼を受注するのにお金が掛かるゲームもあるにはある。モンハンは、かつては受注時にお金(契約金)を払う必要があった。しかし、いつの間にかその仕様が失われてしまったことを考えるとタスクの受注においてコストを低める方が良いという判断がなされたのだろう。本稿では非常に低いコストでバンバンとタスクを受注できることをややネガティブに表現しているが、多くのゲームでタスクの受注時にコストを要さない仕様となっていることを考えると、おそらくそうした方が良い理由が必ずあるものと思われる。開発者はおそらく死ぬほどそういうことを考えた上で、タスクの受注はしやすくしていると想定されるため、それが良いとか悪いとか、そういう話を本稿ではしたいわけではないし、本稿の主張とほとんどその点は関係がない

*12:「出現に責任を持つ」ということは、実はその依頼やタスクがどのようにプレイヤーの元にやってくるかは、あまり関係がないことも考えるべきだろう。いわゆる「巻き込まれ的なイベント発生」はプレイヤー自らが望んだタスクではなかったりするが、むしろそういうタスクの方がその出現(存在)を覚悟を持って受け入れている場合がある。例えば『Days Gone(2019, SIE)』では、組織のリーダーから電話が掛かってきて、プレイヤーとしては受動的にタスクが増えることがある。しかしそうした形で発生した依頼の方が、見知らぬ村人からの「木の実を10個集めてきて欲しい」みたいなつまらない依頼をプレイヤーが受注する時よりもずっと責任感を感じるだろう。この辺りの違いを意識するためにも「クエスト受注の出現(存在)に関与する」という観点が有効ではないか?と考えている。また更に付け加えるなら、その点を考えた時に「やりがいのあるクエスト」ということをついつい考えてしまいがちだが、『ドラクエ3 HD-2D版』の「おもいで機能」は「やりがい」とは少し無関係なところで上手く機能している点を改めて強調したい。『ゼルダの伝説 ティアーズオブキングダム』のコログ運搬などは「つまらないタスクだけど、そこまでやらされ感を感じない(気もする)」を考える上で面白いかもしれない。

『デススト2』の物語は失敗している

2025年にリリースされた『デスストランディング 2 : on the beach(以下、デススト2)』。『デススト2』は、前作から引き続き、荷物を運ぶゲームである。そんな「おつかい*1」のようなゲームでありながら、しっかりとした遊びごたえで長く楽しめる一風変わった作品である。私は前作『デスストランディング (以下、デススト1)』を高く評価している。というのも、KONAMIという古巣を離れて、あんな奇妙なゲームを完成まで作りきり、それを多くの人に売った(届けた、などという穏当な言い方は逆に失礼だろう)というのはとてつもない偉業であると考えるからだ。小島秀夫という人はすごい。こんな「変わったゲーム」であるのに、意外なほど面白く、そして楽しめる作品であることは大きな驚きでもあった。こんなゲームを作れる人はそうそういないだろう*2

しかし前作『デススト1』の時点でも、その物語は決してそこまで面白いものではなかった。『デススト1』の物語は様々に解釈できるかもしれないが、素朴に解釈するならそれは「人と人との繋がりを取り戻す物語」だったと言える。その結論は人によっては説教くさいとか色々な批判はあるだろうが、個人的には特段説教くさいとは思わなかった。私はとても「普通の素直な物語だな」と思った。そのためでもあるだろうが、特に面白いとも思わなかった。すごく変わった設定のSFだなとは思ったが……。

繋がりの二面性

しかし『デススト1』では、その繋がりに対して、暴力*3というネガティブな側面を意識していた点は重要である。『デススト1』の主人公サムの目的はアメリという女性を探しに行くことである。アメリはサムの姉であり、その肉親との繋がりを求めるプロットがストーリーの主軸になっていた。しかし最後にアメリは人類に対して脅威をもたらす存在(絶滅体)であることが判明してしまう。この設定は、おそらく繋がりの二面性を分かりやすく示している。つまり繋がりが人類の繁栄にも絶滅にも繋がっている。前作『デススト1』の時には、繋がりの持つそうした正と負、もしくは生と死の二面性が明確に意識されている。もちろん、そうした二面性に悩むというのは決して新奇性のある話とは言えない。世の中にあるほとんどのお話は何かの二面性に悩むのだ。スパイダーマンでもバットマンでもそうだろう。

とはいえ、その二面性を踏まえた上で、あえて『デススト1』は繋がりの「正(生)」を讃えるストーリーとなっていた。主人公サムは「接触恐怖症」という病を克服し、ルーという未来に繋がる子供を最後に得る。そうして繋がりの連鎖に、繋がりを拒否していたサムが組み込まれていく。このように考えると『デススト1』の物語は極めてオーソドックスな、困難とその克服を描く物語である。そのため、物語としてはその主張がとても分かりやすくもあった。「他人との関わりは色々と面倒だけど、ちゃんと他人とつながろうよ」というわけだ。

しかし『デススト2』では、そうした葛藤が分かりにくくなっている。繋がりがもたらす有害性や暴力が、ほとんどヒッグスという敵役に一任されており、物語を通してあまり屈託もなく、終盤まで比較的平板な語られ方が続く。概ね『デススト2』では「繋がり」は良いことしかもたらさない*4。『デススト2』は「みんなで繋がるといいよね」というある意味では『デススト1』よりも遥かに割り切った物語になっている(ように私には見える)。

以上の点を概観として押さえた上で、さらに詳しく見ていこう。

繋がることに対する躊躇の描写不足

『デススト2』には、繋がることへためらいがほとんど描かれない。唯一、トゥモローという異世界から来た少女だけは、安易に心を開かない人物として最初は登場する。しかし、すぐに主人公たちと仲良くなっていく。サムにはどんどん仲間が増えていくし、みんなは優しくケアの心に溢れている*5。そして何より、作中で多くの「切断」つまり繋がりが絶たれるエピソードが語られるものの、それらはエンディングに向かって、あれよあれよと修復していってしまう。その典型的な例はルーの存在だろう。前作に引き続きサムと冒険を共にしている赤ん坊のルー。ルーは死んだと思ったけど死んでなかった。自分の子供だと思ってなかったけど自分の子供だった。なんなんだ、それは。つながりの「切断」に悩むドラマを描きながら、結局その「切断」をそもそも無かったことにする。それがご都合主義だから良くないと言いたいわけではない。結局「繋がってた方が良いよね」というのではあれば、「切断」に悩んでいたこと自体が安っぽくなってしまう。なぜ悩みを安っぽくする必要があるのかが分からない。

前作『デススト1』では、ルーとは血のつながりはないけど、冒険を通して血のつながりとは別種の固有のつながりへと結実していた。繋がりの二面性を抱えつつも、それを昇華している物語だったと解釈できるだろう*6。伝統的な繋がりである「血」を乗り越えることで、単に繋がりを賞賛するのでもなく、また否定するのでもないからだ。『デススト1』の物語だって、相当に凡庸ではあるけれど、少なくともなぜそう描きたいのかは理解できた。主張とドラマは一定の一致をみていた。しかし『デススト2』は繋がりへのためらいがないばかりか、繋がりをあまりに素朴に肯定しているように見える。そのくせ「オーストリラリアを(カイラル通信で)繋ぐことは、アメリカへの植民地化を意味しないのか?」などと物語の序盤で心配したりする。そういう悩みをストーリーの最後まで抱えながら何らかの解決を試みるならまだしも、ほとんどその問題にスポットライトは当たらない。特に真面目にその問題に取り組むわけでもない。結局、重要な問題意識がどこにあるのかが、よく分からないのだ。

不自然な安部公房の引用

先に書いたとおり、繋がりがほとんど無条件に良いものとして描かれがちな『デススト2』だが、実はかなり明確に繋がりへのためらいが表現されているところがある。それが『デススト2』のキャッチコピーである。

f:id:tuquoi:20250916124220j:image公式ページより

上記のとおり『デススト2』のプロモーションでは明確に「 我々は繋ぐべきだったのか?」と問うている。これは明らかに繋がりへのためらいを示唆する疑問だろう。しかしエンディングまで通して、サムがどれだけ繋がることへのためらいを示したというのか?もちろん「ためらいの描写」が少ないなら少ないで良い。しかし「我々は繋ぐべきだったのか?」と疑問をプロモーションで示しておきながら、それについての説明が十分に物語の中でされていないというのは端的におかしい。ためらいの自覚があるなら、それをちゃんと物語で描くべきだろう。

最もそれが象徴的に現れたのは、エンディングでの安部公房の言葉の引用である。『「今日」をさぐる執念』というエッセイから次の言葉が引用されている。

生きるということは、けっきょく、未来の中に自分を思い描くことかもしれない。
そして未来はかならずやって来る。だが、そのやって来た未来のなかに、予期していた君の姿があるとはかぎらないのだ。
— 安部公房「『今日』をさぐる執念」

X(Twitter)などを見ると、この言葉を「良い言葉」「感動的な言葉」として解釈している人もいるようだが、この文章は少なくとも明るい未来を言祝ぐ言葉ではない。特に前半の「生きるということは、けっきょく、未来の中に自分を思い描くことかもしれない」という言葉は「未来のことを考えながら今日を生きよう」というような肯定的な話では全くなく、むしろ呪いである。重要なのは最後の「そのやって来た未来のなかに、予期していた君の姿があるとはかぎらないのだ。」という言葉である。安部公房は、現在(今日)と未来は、どうしようもなく断絶していると言っているのだ。しかし人は未来を思い描かないわけにはいかない。なぜなら人は、かならず今日の積み重ねの先に未来がある、つまり未来に繋げることで、今を価値あるものと思いたいからだ。それは見ようによっては呪いのようなものだ。しかし「今日」や「予期していた君の姿」なんてものは、未来には跡形もなくなっているかもしれない。今日の積み重ねの先に未来があるなんて、そんな保証は何もない。そんな深い諦観とも言える残酷な真実について安部公房は語っている。決して明るい話ではない*7

今、必死になっている努力さえ、未来からしたら無かもしれない。こういうラディカルなことを言っているからこそ、安部公房の言葉は非常に面白いのだ。「みんなで繋がって、明るい未来に向かって頑張ろう!」みたいな通俗的な教訓めいた要素が一切ない。安部公房は残酷に「繋がらない」と言っているのであり、繋がらないことに覚悟せよと言う。

ひるがえって『デススト2』はどうなのか。トゥモローやフラジャイルやレイニーに助けられながら冒険をゴールまで進めていくサムにどれだけ「繋がらない」ことの覚悟が描かれたというのか。全く足りていないと感じる。何より、安部公房の言葉を引用するのであれば、ちゃんと物語内容と呼応した形で、引用するべきであるだろう。「物語では直接描いてないけど、繋がること自体の難しさも認識していますよ」というアリバイ作りのような引用は、決してかっこいいとは思えない。

小島秀夫の生き様にある「繋がらなさ」

しかし、私は小島秀夫安部公房の先の言葉を誤解しているとは全く思っていない。X(Twitter)で誤解した解釈をするプレイヤーはいても、おそらく小島秀夫自身は正しく安部公房の先の言葉を理解している。小島監督は正にその生き様において「つながらなさ」を切実な問題として感じていると想像されるからだ。

『デススト2』で、ニールというキャラクターが登場する。そしてそのビジュアルは『メタルギアソリッド(MGS)』の主人公スネークを彷彿とさせるバンダナをしている。明らかにスネークのイメージを想起させるビジュアルになっている。しかしそのニールはMGSで描かれるスネークのような超人的で英雄的な存在ではなく、主人公サムの妻を寝取った間男であるのだ。おそらく小島秀夫自身、スネークを間男として描く未来は到底想像もしていなかったに違いない。メタルギアという巨大になった遺産を自ら受け継ぐことも許されず、かと言ってそれを素朴に真似たスパイゲームを作るわけにもいかない。「やって来た未来のなかに、予期していた君の姿があるとはかぎらない」ことを誰よりも痛切に感じているのは小島監督自身だろう。しかしそうであるならば、その切実さや痛みを『デススト2』の物語の中で私は見たかった。そうでなければ、安部公房のあの言葉は単なる嘆きにしかならない。

『アポカリプスホテル』の見事さ

これまで述べたとおり、『デススト2』の物語は繋がりの二面性への切実な問題意識も不十分であり、かつ、そこを何らかの形で解決へと昇華させることもできていない。繋がりが大切だと言いたいだけなら、こんなややこしいSF設定は不要だろう。この物語が成功しているとは到底言えない*8

しかし一方で以下のように擁護することはできるかもしれない。

安部公房のような繋がらないことへの諦めを徹底したら、絶望するしかない。安部公房を引用しつつも、希望をあくまで描こうとしたところにこそ小島秀夫の本意があるのだ」と。もちろんそのように解釈することはできる。しかし先に書いたとおり、十分な説明がないことは否定しようがない。『デススト2』には、ゲーム内世界で独自のSNSが運営されている。そのTwitterInstagramを模したようなSNSでは呑気にみんなが「いいね」をし合っている。現代の繋がりの過剰さや異常さを象徴するSNSをこんなにも牧歌的にしか描けない物語が、「繋がり」の持つ悩ましさを描けているとはやはり思えない。

また、安部公房の言うように繋がりは絶望的に期待できないとしても、それでも希望を巧みに描くとはできる。2025年に放映されたアニメ『アポカリプス ホテル』のエンディングはその巧みさの具体的な事例だと言えるだろう。素晴らしい作品であるためネタバレしないで語るが、『アポカリプスホテル』のエンディングは、今日と未来とが絶望的に断絶していたとしても、それを乗り越えて私たちが幸せになることはできるとあっけらかんと肯定する。しかしそこには諦め切った断絶があるだけではなく、繋がりを求めて努力していたこと自体が、断絶した未来を別のカタチで明るくする要因となっている。つまり、切断と繋がりの矛盾を、巧みに同時に描いているのだ。「切断すれば良い」と諦めるのでもなく、「絶対に繋がっていなくてはダメ」と思い込むのでもない。現代を生きる私たちに、一つの光を見せる物語らしい解決策の提示である。

決して『デススト2』が『アポカリプスホテル』のような物語を描けばよかったと言いたいのではない。未来との断絶をたとえ受け入れたとしても、巧みにそれを乗り越えられるような展開を見せた『アポカリプスホテル』のような成功事例がある以上、『デススト2』が安部公房の絶望にただ闇雲にアンチテーゼを述べているだけでは、何の芸もない失敗としか言えないということである。

 

*1:おつかいという言葉はビデオゲームの文脈においては、少し特別なニュアンスを持つ。単純作業的で、知的な努力を必要としない、ゲームとして安直なタスクを意味するものとして、「おつかい」という言葉は使われる

*2:なお、私は『デススト2』を60時間ほどプレイしてクリアしている。本稿では『デススト2』の物語は批判しているものの、ゲームとしては60時間遊ぶに足る面白い作品であったと思っている。ただ、ゲームとしてみた時にも『デススト1』とあまり変わってないなというやや残念な印象も抱いている。

*3:「なわ」と「棒」という安部公房の言葉を引用することでその二面性を『デススト1』の時には表現していた

*4:もちろんAPAS4000に繋がることで、そのシステムに支配されるという負の面が語られているとも言える。とはいえ、APAS4000がもたらすものが「停滞」であるという点が解釈を難しくさせている。確かにダイハードマンによる「停滞を避け、私たちは移動を求める」という演説は感動的だが、APAS4000が何を象徴して(比喩となって)いるのか分かりにくい。例えば昨今のSNSという巨大なシステムがもたらす分断と混乱は「SNSが停滞を求めるからなのか?」と言うと、そう考える人は少ないだろう。むしろSNSがもたらすのは過剰な接続や交流であり、それは停滞とは真逆のイメージではないだろうか。そう考えるとAPAS4000は現実のSNSを象徴しているとは素直に考えにくい。何かやばそうな人類補完計画みたいな存在がAPAS4000である、という曖昧な印象で終わってしまっている人は少なくないだろう。現に、クリアしたプレイヤーの記憶にはヒッグスばかりが残り、プレジデントが一体どういう存在だったのか覚えてない人も多いのではないだろうか。

*5:マザーフッドのドクターを取り巻く仲間たちには、最初、繋がりへのためらいがあったと言えなくはないだろう。彼女たちは理不尽な暴力を男たちから受け、自警団的に周りと隔絶しようとする。しかしドクター周りの一連の話を、繋がりの困難さと捉える人は少ないのではないか。なぜならサムは男でありながら、マザーフッドの人たちに比較的すんなりと受け入れられていくからだ。

*6:もしかしたら、『デススト2』では、こう繋がりをつまらなく描くことで血のつながりのどうでも良さを逆説的に描いているのもしれないが、そう解釈させる他のコンテキストが足りなさすぎるだろう

*7:この辺りの解釈が本当か?と思う人は、安部公房の『第四間氷期』というSFを参照してほしい。時間がないならWikipediaのあらすじを読むだけでも理解の助けになるだろう

*8:若干蛇足的なことを言うならば、前作の最後でサムが接触恐怖症の病を克服してしまったことが、『デススト2』を繋がり偏重にさせた大きな要因なのかもしれない

「サブスクやフリープレイのゲームはなぜ遊ばれないのか?」を考える

なんとなくPS Plusというゲームのサブスクサービスに入って長い。7,8年は入っている気がする。もっと長いかもしれない。毎月貰えるフリープレイはありがたく頂いているが、ほとんどのゲームは起動はおろか、ダウンロードさえしていない。

また、昨年までXBOX GAME PASS for PC(2021年にPC GAME PASSに名前が変わった)にも加入していた。かなりの数のゲームがほとんどタダのような値段で遊ぶことができたサービスだったので色々と便利ではあったのだが、昨年末(2024年11月)に期限が来た。しかし、これ以上は更新しようと思わなかった。ほとんど遊ばなかったからだ。

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よく言われることだが、サブスクやフリープレイ(無料配布)で手に入るゲームは遊ばない。おそらくちゃんと遊んでいるユーザーもいるのだろうが、わたしは遊ばなかった。いやどちらかと言うと「遊べなかった」と言った方が正確かもしれない。あまり遊ぶ気がしなかったのだ。ちょっと欲しいなと思い、いつか遊んでみたいと思っていたはずのゲームがサブスクによって、個別にお金を払わずに遊べると知っても、なぜか後回しにしてしまう。

これはなぜなんだろうか。

もちろん、理由はいくつか思い当たる。例えば、お金を払ったゲームであれば、払った分の価値を取り戻したいと思ってより熱心にプレイするのかもしれない。買ったゲームを起動しないなんてことは流石にあまりない。

しかし、これもどこか「本当の」理由でないような気がしてしまう。というのも、サブスクのゲームの「プレイのしなさ」はどこかもっと特殊な感じがするのだ。例えば、「良いゲームだ」「よくできている」と初回プレイが好印象であっても*1、サブスクやフリープレイの場合、なぜか序盤でプレイが止まってしまうことが少なくない。もちろん、たとえ数千円を出して購入しても、つまらないゲームであればプレイをすぐに止めてしまうことは多い。数千円の出費は痛いが、そのためだけにつまらないゲームを何十時間も遊ぶほど暇ではない。だからつまらなくてプレイを止めることは購入したゲームであってもよく起きる。しかし、購入したゲームの場合、面白いのにプレイしないという事態はそこまで発生しない。私の感覚では、なぜかサブスクやフリープレイのゲームでよく起こる現象なのだ。

これは、よくよく考えると非常に不思議な話だと言える。先ほど「価値を取り戻したくてプレイする」という話をしたが、もし仮にこれが正しければ、サブスクやフリープレイであれば購入金額分の価値を取り戻す必要がない。そして、「面白いゲーム」であるなら、なおのことプレイすればするほど価値の積み上げができる。つまり本来であれば購入金額に充てなければいけないプレイの価値をそのままプラスの価値として純粋に享受できる。 購入金額分のマイナスがないから、いきなりプラスから始まるはずだ。つまり積極的にプレイすればするほど「得になる」と考えても不思議はない。しかしサブスクで遊べるゲームは面白くてもプレイしない。それは一見辻褄が合わないように思える。

上記のような疑問を踏まえつつ、「サブスクはなぜ遊ばないのか?」を説明するため、以下の2つの考え方を順番に検討していきたい。

①「購入した」という状況においてのみプレイを継続させるような価値を生み、購入金額を取り戻す必要のない状況(フリープレイやサブスク)では、そうした価値を生まないため、プレイが継続しない

②プレイすることで、何か金に換算できる価値が生まれるわけではなく、別の価値を生んでいる。購入した場合は、その別の価値が生まれやすく、それが長くプレイするということに繋がっている

①の考え方は「サブスクだとプレイしない」をそのまま捉える考え方だ。しかし少し考えただけでもなかなか難しい道だとわかる。同じゲームであっても購入したかどうかという(一見)本質的ではない条件によって、プレイに価値が生まれたり生まれなかったりすることになる。①を突き詰めるのであれば、その仕組みの説明を構築する必要があるが、それはとても難しそうだ。例えば友達から借りたゲームでも、やはりサブスクやフリープレイと同じように価値を生まないのだろうか?仮に生むとするとそれはなぜで、何が購入と違うのか。こうしたことを考えてみると、あまり筋が良くない考え方に思える。いずれにしろ「購入したかどうか」が、プレイの価値、ひいてはゲームの面白さに強く寄与する、ということを受け入れる必要が出てきてしまいそうだ。これは「全くない」とは思わないものの*2、一般化するには難しい発想ではないかと思う。「そのゲーム買ってないので、つまらないですね。買ってたら面白いけど」とはなかなか言えないだろう。

では①を訂正して、②のような考え方で話を進めてみよう。

プレイすることで何か価値が生まれることは確実だろう(そうでないなら、誰もプレイしない)。しかし、②は、それが購入金額というお金の価値を補填するものでないと考える。ではどのようにして、「購入する」と「プレイする」を関係付けられるのか?それは、プレイが直接的に購入金額を補填するのではなくて、購入金額を補填できるような別の価値を発見するための必要な工程としてプレイがあると考える。無駄にややこしく言ってしまっているので、もう少し具体的に言おう。そのゲームが「面白い」と思えるところまで、我慢してプレイする可能性を高めるのが「購入」という行為(条件)である、ということだ。

このように考えれば、「なぜサブスクやフリープレイのゲームは遊ばないのか?」に対する有効"っぽい"一つの解答が得られる。つまり、「プレイそれ自体が購入金額の取り戻しにはならないのだが、面白さを発見するところまで我慢しようという気持ち(金額と別の価値)を購入という行為が高める。そのため、購入した方が結果的に作品の真価(金額に換算できる価値)に気づく可能性が高くなり、より長くプレイされがちなのだ」と。これによって、購入したかどうかを直接プレイの価値に接続する①の弱点を回避することができ、間接的に両者を関係づけることができる。

しかしやはりこの考え方でも、「不思議だ」とした「面白いゲームなのに、サブスク等だとプレイが続かない」という現象の答えにはならない。この問題は、すぐに手に入るはずの価値をなぜ獲得しないようとしないのか?という問題である。面白いと分かっているなら遊べばいいのに、サブスクだと遊ばない。①のような「購入すると面白くなる」という少し無理のある(購入と面白さを短絡する)考えを持ち出さなくても良い点が、②の長所だった。だから面白くなるまでに時間のかかるゲーム(スルメゲー)だと、サブスクの場合、そこまで到達できず長く遊ばれる可能性が低くなってしまうということを②は説明できる。しかし、短時間で面白い!と思わせるゲームもなぜか遊ばない理由が、相変わらずうまく説明できないのだ。

さてこうして考えてみると、①や②のような考え方では、「サブクスだと遊ばない」現象の一部を説明することはできても、「面白いのにサブスクだと遊ばない」を説明するのは難しそうに思えてくる。では、何が①や②の考え方の問題点なのだろうか。私はそれが「購入」と「プレイする」の関係を因果関係で捉えている点にあると考える。それゆえ、その因果関係を直接的に説明しようとしたり(①)、間接的に説明しようとしたり(②)してきた。しかし、それは因果ではなく、単に相関しているだけではないか?と発想を転換してみることが必要なのではないだろうか。「購入」は原因なのではなく、単に相関しているだけであり、「プレイする」の本当の原因は別にあると考えるのだ。

それが次のような考え方だ。

③あるゲームを強く遊びたいと思う。つまりあるゲームに対して高いモチベーションがある状態だと、そのゲームを長くプレイする可能性が高い。そして高いモチベーションがある時に人はそのゲームを購入する。

こうした考え方の場合、「購入」と「プレイ」を因果関係で結ぶ必要がなくなる。つまり「購入するからプレイするのだ」と考える必要がなくなる。そうではなくて、「購入した時」というのは往々にして「そのゲームを強く遊びたいと願っている時だ」ということに過ぎない。つまり一義的には購入したかどうかは関係ない。「強く遊びたいゲーム」だからこそ、長くプレイする。サブスクの場合、強く遊びたいと願わなかったとしてもプレイできる状況に売り手側から、ある意味、唐突にユーザーに提供される。だからこそ、起動はおろかダウンロードさえしなかったりする。別に、「今」遊びたいわけではないからだ。だけど、以前ちょっと興味を持ったゲームであれば「起動してみようかな」と思うことはある。しかし「今」強く遊びたいと思っているわけではない。だから、たとえ面白くてもそのプレイが長続きしない。プレイするモチベーションが低い所から始まっているからだ。この③のように考えることで、「なぜサブスクやフリープレイのゲームは面白くてもあまり遊ばないのか?」ということについて少しだけ整合的に考えることができるように思う。

さて、淡々と議論を進めて③の考え方まで示したが、実は③は少し変わった考えを前提としている。それは「あるゲームをそれなりに長く遊ぶかどうかは、ゲームの面白さそれ自体よりも、そのゲームを遊ぶ前から持っている遊びたいと願うモチベ(やる気)の高さが影響する」という考え方だ。逆にモチベ(やる気)が低くても、面白いゲームであれば長くプレイされるはずだ、という考えの場合、③のような考え方を取るとしても「サブスクの場合は面白くてもプレイしない」ということが説明できなくなる。

何の根拠もないのだが、なんとなく私にはこの「プレイの継続性は、面白さよりモチベ(やる気)が影響する」というのは、意外に正しいような気がしている。もちろんプレイしている途中で、このモチベ(やる気)が変化していくこともあるわけだが、ゲームを初めてプレイする前の「このゲームをやってみたい!」という謎の思い込みはゲームにおいてプレイの継続性に強く関連しているような気がするのだ。謎の、と言うのはもちろん、そのモチベ(やる気)はプレイする前に抱くものであり、言わば、先入観のようなものでしかないからだ。一つの作品を十何時間以上も遊ぶゲームというジャンルにおいて、私たちは「思い込み」という先入観によって駆動されているというのは、一見不思議なようでいて、どこか妙な説得力があるように私には思えるのだ。

*1:最近であれば、『Animal Well』、『ペルソナ3リロード』『COCOON』はどれも素晴らしい作品だと思ったが、数時間でプレイを止めてしまった

*2:子供の頃、親に買ってもらったゲームよりも、自分のお小遣いで買ったゲームの方が強い思い入れが感じられる、などはその例だろう