2026年1月にThe Game Bakersというフランスのゲーム開発会社から『Cairn(以下、ケルン)』というゲームが正式リリースされた(体験版は2024年の12月に配信されていた)。本作は登山をテーマにしたゲームである。

登山ゲームと言うと、私には思い出深いゲームが一つある。1998年に初代PlayStationでリリースされた『蒼天の白き神の座』というゲームだ(座は「くら」と読む)。私はこのゲームが大好きで、特にエンディングを初めて迎えた時にはとても感動したことを覚えている。『蒼天の白き神の座』は登山隊の隊長として隊員たちを統率しながら、未踏の山を登頂するシミュレーションゲームである。アクション的な要素はなく、ルート選択や道具を使うタイミングを考え、雪崩や凍傷など様々なアクシデントから隊員たちの被害を最小限にしつつ、なんとか山頂を目指すゲームだった。しかし『ケルン』は1人の登山家アーヴァを直接操作するアクション要素の強い作品である。ただ、そのアクションというのもいわゆるマリオのようなアクションとはかなり異なり、レバーを倒せばキャラがその方向に簡単に移動するわけではない。左右の手でどの岩を掴むのか、足をどの位置に置くと体勢が安定するのか、文字通り一挙手一投足を慎重に判断しながら、それこそカタツムリのようにジリジリと進めていく一風変わったアクションゲームだ。全く異なるタイプのゲームではありながら,私は『ケルン』のネットでの紹介記事を初めて読んだ時に『蒼天の白き神の座』を思い出した。というのも『ケルン』で踏破する未踏の山の名前がマウント「カミ」だったからだ。「また神の山に登れるのか……」と思わず『蒼天の白き神の座』というタイトルを思い起こしてしまった。
そんなわけで大変に楽しみにしていた『ケルン』だが、クリアまでゲームを終えた今、私にとって大切な登山ゲームがまた一つ増えたと思った。『ケルン』は傑作ゲームだった。私が本作を傑作だと思う理由は色々あるが、エンディングが素晴らしかったというのが理由としては大きい。しかし本作の登頂時のエンディングというのは、プレイヤーを戸惑わせる変わったエンディングでもある。本稿では、その戸惑いも踏まえつつ、なぜ本作のエンディングを素晴らしいと思ったのか、それを書いてみたい。
アーヴァの叫び声
『ケルン』の主人公アーヴァが目指すのは「カミ」と呼ばれる世界一の標高の山である。「カミ」には足だけで登っていけるような緩やかな勾配の場所は少ない。その行程のほとんどを垂直に切り立った崖をロッククライミングの要領で全身でへばりつくようにして登っていくしかない。掴みどころが悪ければ、すぐに滑落してしまうし、場所が悪ければあっけなく死んでしまう。プレイ当初に私がすごく印象的に感じたのは、滑落した時のアーヴァの叫び声である。彼女はものすごい不機嫌で激しく罵るように咆哮する。最初に聴いた時には少し驚いた。落下によって体を打ちつけた痛みによって叫ぶのではない。それであれば、他のゲームでもよくある叫び声だ。そうではなく、明らかにイラつき、何かに怒っているような叫びなのだ。その怒りの対象は滑落した自分自身に向けられたものかもしれないが、あまりにその怒りが激しいことに驚いた。しかし、この叫び声と私が本作のエンディングが素晴らしいと感じたことは強く関連している。
アーヴァは怒りを糧に登頂を目指す
本作に対する感想をネットで検索していると、「アーヴァというキャラクターに感情移入できない」とか「アーヴァというキャラが好きになれない」という意見を時々目にする。この気持ちは私にも少し理解できる。
本作では登山をする時にクライムボットというロボットに支援をしてもらいながら登る。このやや近未来的で、かなり優秀な自律型ロボットはゴミからチョーク*1を作り出したり、ピトンと呼ばれる登山用の杭を修理したり、クライマーの体勢を支える役割*2を担っている。
登山用自律型ロボットのクライムボット
そうした登山用の機能に加えて、このクライムボットには、ふもとや故郷にいる家族や友人との通信機能が備わっている。時折、彼らからのボイスメールがクライムボットを通じて届く。友人らは過酷なアーヴァの挑戦に対して励ましの声を伝えてきたりもするのだが、そんな応援のメッセージばかりではない。例えばクリスというアーヴァのエージェントは、スポンサーの機嫌をいかに取るべきかというとても俗っぽい話をしてくる。また、アーヴァの(おそらく)恋人と思われるナオミという女性は明確にアーヴァの登山にかける情熱を「理解できない」と語る。当然そこには「そんな危険な登山はやめて欲しい」という願いが色濃く滲んでいる。ナオミの気持ちは多くのプレイヤーにも理解しやすいものだろう。しかし、アーヴァはそんなメッセージを翳りのある表情で聞きながらもほとんど黙殺する。しかしある中盤の難所において、溜まっていたものが爆発するように、ナオミのメッセージに対してアーヴァは激しい怒りを見せる。命懸けで崖を登っている時に、ナオミからメッセージが届く。ナオミは「なぜ馬鹿みたいな岩を登るの?」と問い、家族であるペットの猫が病院で死に、それをナオミはたった一人で見送ったという話をする。家族やナオミを全く省みない態度を責めるようなそのメッセージにアーヴァは怒り、そしてクライムボットの通信アンテナをへし折ってしまう。
通信アンテナをへし折るアーヴァ
このカットシーンを見たプレイヤーの中には、やや「引いて」しまった人もいるかもしれない。ナオミのささやかな幸せを望む気持ちに共感する人も多いだろう。アーヴァをとても傲慢な人間だと思う人もいるだろうし、実際アーヴァは傲慢でもあるのだろう。
ただ、こうした場面を見ていると、アーヴァが滑落した時に罵るように叫ぶのは、単に自分の不甲斐なさだけが理由ではないと思えてしまう。彼女は常に無理解の壁に囲まれている。なぜ危険を冒してまで山に登るのか。この理由が、アーヴァ自身にもハッキリとしていない。終盤には「なぜ山に登るのか私にも分からない……」とアーヴァが悩むシーンもある。つまり彼女は理解されないということに悩みつつ、自分自身もまた自分の欲望を理解できないことを知っている。自分でもよく分からない欲望を、他人が理解するのは難しい。アーヴァは他人からは理解してもらえないことを先取りして理解している。だからこそ彼女は叫ぶのではないか。それは届かないということが痛いほどに分かっていることから来る叫びだ。滑落による自由落下で重力から一瞬解放され、落下した自分の体を起こそうとする時に思わずそんな声が漏れ出てしまうのだとしたら、私はその叫び出したい気持ちが少しだけ理解できるような気がするのだ。
狂気は5%くらい理解できる
叫び声だけではない。私を含め多くのプレイヤーは、アーヴァの気持ちが不思議と少しだけ分かるのではないだろうか。それは他者から理解されないという苦しみが分かるというだけではない。他人からは理解されないような執着や欲望が、多かれ少なかれ、私を含め誰にでもあるからではないか。仕事でもアイドルでもゲームでも恋人でも、何を思い浮かべてもいいだろう。そういう欲望を、はたして能動的に私が求めているのか、はたまた、全く受動的に何かによって求めさせられているのか。自分の欲望なのに、それが分からない。その「欲望の根本の分からなさ」が、むしろ他者の狂気をわずかに分かる気持ちにさせる。完全に100%理解できるわけではない。しかし、ほんの5%ぐらい、他人の狂気を私たちはその「分からなさ」を通して理解できてしまう。しかし、この「5%ぐらい理解できてしまう」ということはかえって厄介でもある。なぜなら全く理解できなければ、それは理解できない別世界のものとして、シャットアウトすることができるからだ。しかし5%ぐらい理解できるからこそ、人はどうしても何かを伝えたいと思ってしまうし、伝えられるかもしれないと期待してしまう。しかし他人の狂気について、5%を超えて大きく理解が前進することはないし、その理解を0%にして無視することもできない。理解と無理解の狭間で宙ぶらりんになり、そのことが苦しみをもたらす。
私が本作『ケルン』のエンディングが素晴らしいと思ったのは、この理解と無理解の宙ぶらりんの状態を美しく描くことに強い覚悟を決めていると思えたからだ。
戸惑うほどに幻想的なエンディング
私は『ケルン』というゲームが、登頂後に、どう物語を終わらせるかに、クリア前の時点で非常に興味があった。登頂時のエンディングをどう描くかは想像するだに難しい。アーヴァは頂上で何を思うのか。下界に居るナオミと和解するのか。はたまた何か人生について悟るようなものがあるのか。マウント「カミ」の頂上を目指す旅があまりに過酷であるので、登頂にはそれに見合う価値をプレイヤーとしてはついつい求めてしまう。しかし一方で、そんな分かりやすい価値が手に入るわけでもないだろうと冷静に思ったりもする。なぜならそれは過酷な挑戦でありながら、単に「高い山に登った」ということでしかないからだ。頂上に到達することで分かりやすい価値が得られました、という物語はむしろ嘘くさいとさえ思える。
であるからこそ、エンディングをどう描くかは難しい。
先ほど、私はアーヴァの狂気の欲望を、理解と無理解の宙ぶらりんとなったものだと書いた。私たちは宙ぶらりんのものを見ると、それをどこかに落ち着け、理解という地面に着地させたくなってしまう。しかし『ケルン』のエンディングはそうではない。この宙ぶらりんを完全に引き受けると覚悟したエンディングを描いたのだ。
『ケルン』の登頂エンドは以下の動画で見れる。
- YouTube
このエンディングを最初に見た時には多くのプレイヤーが驚いたのではないだろうか。人によっては、そのあまりに幻想的な表現に戸惑いを覚えたりもしただろう。その非現実的な描き方を好きじゃないと思う人がいても不思議ではない。
エンディングの場面では、アーヴァは頂上で叫び、それから眼下に広がる景色を眺めた後に、おもむろになんと次は星を登り始める。文字にすると何を言っているのか分からないだろうが、まさに文字通り星を手で掴み、星に足をかけ、そして空を登っていく。いつしか登り続けるアーヴァは流星になって、凄いスピードで夜空を駆け上っていく。多くのプレイヤーを置いてけぼりにする破格に幻想的なエンディングである。プレイヤーはそれまで自由の効かない手足や岩のでっぱりや寒さや空腹や渇きという、極めて現実的な物理現象に苦しめられてきた。しかし、エンディングで、いきなり流星になるアーヴァという幻想的な表現をぶつけられるわけで、戸惑うことは当然だと言える。私も戸惑った。しかし、このエンディングのポイントは、何を描いたか?ということではなく、むしろ何を描かなかったのか?ということではないかと私は考える。
アーヴァの下山はなぜ描かれないのか?
登頂エンドが描かなかったこととは何か。ここではそれを2つ示したい。
まず1つ目はクライムボットに対するアーヴァの感情だ。頂上に到達する直前で、これまで苦労を共にしてきたクライムボットが故障してしまうというイベントが発生する。もはや役に立たなくなったクライムボットを捨てるか、故障したロボットを運びながら頂上を目指すか、という二択の選択肢が現れる。そこで私はクライムボットを連れていくことに決めた。ロボットとはいえ、情のようなものを感じたからだ。この選択は登頂後のムービーにも反映されて、頂上にはクライムボットと共にいることが描かれる。しかしそこにクライムボットはいるはいるのだが、エンディングにおいてそのクライムボットはほとんど何の役割も果たさない。一言アーヴァがクライムボットに声をかけたりするかな?と私は思ったが、それさえしない。そしてアーヴァは1人、星の瞬く夜空を駆け上っていってしまう。エンディングでは、クライムボットとの心の交流はほぼ描かれない。
2つ目は、アーヴァの下山である。もちろん登頂エンドとは別に下山エンドがあることは把握している。ここでは登頂エンドにおいて下山が描かれない点について考えたい。
ゲーム後半に差し掛かるところで、山で火を焚いて登山家の状況を、周囲の山脈に住む人たちに伝えるというイベントが描かれる。「カミの頂上を目指しているなら、これこれの合図の火の目印を出す」というテキストがあるのだが、それとは別に「カミの登頂後の下山では、これこれの火の合図を出す」というテキストも併せて書かれている。これを見た時、私は登頂後には下山パートがあるのかな?と想像した。その下山の時に、このもう一つの合図を出すのだろうと想像したのだ。しかし下山パートはなく、エンディングでは全く下山するような様子は描かれない。
クライムボットとの交流や下山が描かれないとはどういうことか。そこにこそまさにこのエンディングの描きたいことがあるように思える。エンディングが描きたかったこと。それは「アーヴァは登り続ける」ということだ。それだけがアーヴァにとって重要なことであり、欲望なのだ。その欲望はどこからやって来るかという問いとは無関係にただ事実として存在している。アーヴァ自身が望んでいるのか、妄想的な思い込みなのか、DNAに刻まれた本能なのか、それは分からない。流星になるアーヴァは、まさに流星が光り輝きながら落下していくことが物理法則に従った、ただありのままの存在であることと相似形でもある。光りたいから光るのではなく、落ちたいから落ちるのでもない。ただ光り、落ちる。しかし流星とは違いアーヴァは登山家である。だからこそ流星とは全く別のベクトルの天に向かって登るように、しかしその様子は落ち続けていくように自然でもあるのだ。
登頂時のエンディングは、アーヴァが実は死んでいて魂だけがカミの頂上に到達したのだ、とか、アーヴァは頂上で文字通り天に召され死んだのだ、という解釈もあるようだ。そうした解釈を聞きなるほどと思った。確かにそうした解釈も可能だ。実際、そのように製作者が考えている可能性も多分にある。
しかし私は、あのエンディングが現実的な登頂後のアーヴァの気持ちや状況を描いたものだと理解している。アーヴァは今も現実的に登り続けているのではないか?と思うのだ。
『下山の哲学 ---登るために下る』という本がある。 竹内 洋岳(たけうち ひろたか)という登山家が書いた本だ。竹内は日本人で初めて、8000メートル級の峰を14座、全て登りきった登山家である。彼はその本で次のようなことを書いている。
山の頂上とは一点しかなく、その先には空しかない行き止まりですが、そこから下っていく先は、どこに向かうのか、どこまで行くのかを、自由に選び、おもいえがくことができます。
---『下山の哲学 登るために下る』P253
私たち常人であれば、「下山」とは生きるための行為であり、「下山」という言葉からは、下界や故郷にいる家族や友人たちと過ごす時間を想起する。引用した言葉はとても穏やかな口調であるが、よくよく考えてみると、恐ろしいことを言っている。タイトルにもある通り、次の山に登るために降りるというのは尋常ではない。しかもその目指す頂上は単なる"一点"であり通過点でしかないなどと言ってしまうのだ。なんでそんな通過点のために命を賭けるのかと私などは思ってしまう。しかし、この「登るために降りる」という境地は、まさに「登り続ける」というアーヴァの狂気の世界ととても似ているのではないだろうか。
そして、先に書いた通り、この一見すると常人の理解を阻むような狂気の世界を、不思議なことに私たちは5%くらい理解できてしまう。ただ厄介なことに、この「理解したい、理解されたい」という気持ちは、ロボットと情を交わしたり、下界で家族や友人たちと幸せな時間を過ごすアーヴァという表現と相性がいい。カミを登頂した後に、ナオミと仲直りするエピソードがあったら、僕たちは単純に満足してしまうかもしれない。しかし世界はそんなに都合良くできてはいない。アーヴァは登り続けるし、ナオミとは仲違いしてるかもしれないし、故障したクライムボットのことなんて次の登山の時には完全に忘れているかもしれない。アーヴァにとって大切なのは登り続けることだからだ。そう、『ケルン』の山頂で迎えるエンディングは安易な理解に安住しない表現であるからこそ、アーヴァの狂気を私たちは「狂気のままに」むしろ理解できる。その逆説はかえって現実的である。アーヴァはおそらく慎重にカミを下山しただろう。次の山に登るために。そして気に食わないスポンサーとも会ったりしただろう。次の山に登るために。ナオミとも理解しあえず文句を言われ続けているだろう。次の山に登るために。アーヴァは下山後に早速新しいクライムボットを購入し、相変わらず酷使しているだろう。次の山に登るために。
こう考えると登頂エンドとはまた別の下山エンドも違った見え方がするのではないだろうか。あの下山エンドは単なる妥協の産物ではなく、また一つの現実的な覚悟の現れのように私には思えた。
本作の登頂エンディングは私たちにも宿る5%の狂気に触れる力がある。安易に理解をむさぼろうとしない覚悟の表現であるからこそ、理解に頭が追いつく前に心が震えてしまった。そんなプレイヤーはきっと私だけではないはずだ。