ビデオゲームとイリンクスのほとり

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映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

『メタファー』に本当は言って欲しかったこと

2024年10月11日にアトラスからリリースされた『 メタファー:リファンタジオ(以下、メタファー)』。海外での評判も高く*1、体験版が楽しかった私も発売日近くに購入し、ようやくクリアができた。クリアまでは約90時間。初回プレイで無事にベストエンディングに到達した。

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本作の特徴はファンタジー的な世界観でありながら、現代社会を意識したモチーフに満ちているところにある。なんと驚くことにファンタジー世界に「選挙制度」というものを導入して、それを主人公が勝ち抜くというストーリーがメインで描かれる。ストーリーのオープニングでは、国王の死と野心的な将軍の策謀というとても中世ファンタジー的な筋書きで進んでいく。そして、この世界にはツノの生えた人間やエルフのような種族など、いわばファンタジー世界の住人らしい人たち(亜人種)が多数派を形成していて、逆に「普通の人間」は少数派である。そして亜人種も含めた人間種を指す言葉として「ニンゲン」という言葉は使われていない。なんとゲーム内に登場する凶悪な異様の化け物たちが「ニンゲン」と呼ばれている。このことから話はグッとSFぽくなる。そんな舞台設定の中で、主人公が愛読している幻想小説に描かれた世界はビジュアル的には現代日本(東京タワーやビル群)のイメージで描かれる。ここから「あれ?このゲーム世界は、私たちの世界と実は繋がってるの?」とプレイヤーとしては思うわけだが、面白いのは主人公たちはその幻想小説の世界を「差別もなく、公平なチャンスに満ちた理想的な世界」と考えているところだろう。主人公たちが憧れ、目指す先の世界として私たちの現実世界が設定されている。しかしプレイヤーとしては当然私たちの社会が理想郷ではないということを知っているので、おそらく多くのプレイヤーはこれをどういう風に最終的に整理していくのかに興味を向けることになる。

以上に示した通り、本作は現実社会を踏まえた非常に政治的なメッセージを持った作品と言える。しかし、本稿では、『メタファー』という作品がある種の政治的なメッセージとしては失敗していることを示したいと思う。なお、念の為に言うと、これはストーリーがつまらないとかゲームがつまらないという話ではない。そういう主張がしたいわけではない点は、念の為、強調しておきたい。

現実を幻想(理想)化する

以下、ややネタバレ気味に語っていこう。

本作が分かりにくいのは、「幻想(ファンタジー)」という言葉が「理想」や「現実」と複雑に絡み合うところにある。

まず第一に、このゲームの世界が、魔法のある中世的な舞台であり、いかにもファンタジーの世界であるため、私たちプレイヤーはこのゲーム内世界を幻想的だと捉える。しかし、一方でゲーム内の主人公たちはその世界とは異なる異世界を幻想的な世界として捉える。この時点で、本作は既に幻想と現実が入り組んだ設定となっている。

その上で、ゲーム内の主人公たちはその異世界を理想郷として考える。先に述べた通り、その異世界は小説という形で表現されているのだが、その異世界のビジュアルは私たちの現実世界のビジュアルに近いものとして描かれる(東京タワーやビル群で描かれる)。つまり「幻想であり理想であり現実でもある」という奇妙な描かれ方をしている。

しかし、ストーリーの終盤になると、その異世界(私たちの現実世界)は決して「理想郷ではない」とも語られるのだ*2これは私たちプレイヤーとしては「それはそうだよな」とか「知ってた」と思うような話ではあるが、主人公の「認識の一変」としてかなりドラマティックに描写される。なによりこの「認識の一変」とともに、主人公はある大きな決断をする。それがつまり、そのゲーム世界を単なる幻(ファンタジー)の世界としてではなく、現実として生きるという主人公の強い覚悟である。この覚悟は幻想(理想)を捨てず、諦めず、「夢」として叶えようとする決意であり、「幻想への憧れ」が現実を変化させるパワーの源になる 。

以上のように書いていくと幻想と現実という単語が複数の文脈で使われているため、非常にややこしく見えるかもしれないが、実はものすごく単純な話をしている。骨子としては「理想(幻想)に憧れて、それを糧に現実を変えよう」というスローガンが回りくどく語られているだけなのだ。

ではこのような回りくどい語り口にはどのような面白さや意義があるのか。それは「現実を幻想(理想)化する」という点にある。つまりゲーム世界の住人にとって(私たちの)現実世界というのは、ある一面を切り取ればかなり理想的で、幻想的で、ファンタジーのような世界だ、ということだ。「選挙制度」などは見方を変えれば、まるで魔法のようなものだ、というわけである。私たちは「高度に発達した科学は魔法にしか見えない」などの言い方で、科学を魔法の比喩で語ることはある。しかし社会制度を魔法とは中々表現しない。この視点の変化というのは大変に面白いと言える。

しかしである。結局のところ主人公たちが「幻想」というものをどう捉えているか?という点においては全く別のメッセージもまた強く打ち出されるのだ。それは物語の終盤である。主人公はラストバトルの途中でこの異世界(私たちの現代社会)に「転生」することを誘われる。しかし主人公はそれを否定する。その(私たちの)現実世界だって、きっと理想郷ではないだろうと語り(=認識の一変)、異世界転生を拒否するのだ。「なろう小説の主人公みたいに異世界でハッピーになるのではなく、逃げることなくゲーム世界を現実として生き抜く」と。このメッセージを強調するなら、『メタファー』と言う作品は非常にありきたりな「厳しい現実を生き抜け」系のメッセージを発しているように思える。これまでにこんなに回りくどい話をしてきたのに、最後になって随分と単純なメッセージだなと思わなくはない。ただ、繰り返すが本作の設定の面白味としては、私たちの現実社会を「幻想」「憧れ」として描く点にある。

だが、この「私たちの現実社会を憧れとして描く」その理由について、あまり丁寧に語られてはいない。私たちの現実社会を「理想郷ではない」とわざわざ言っている点からも、単純に私たちの社会を現状肯定したり、「俺たちの社会って実はスゲー」と素朴に言いたいわけではないのだろう。考えられることとしては、「私たちは私たちが持っている魔法のような社会制度、例えば選挙を大切にしましょう。」という教訓なのかもしれない。私たちはファンタジー世界にある種の理想を見るけれど、ゲームの中の彼らにとっては私たちの世界こそが逆に幻想的なんだという視点の逆転の面白さは確かにある。

いずれにしろ重要なポイントとして「幻想が力の源になる」と何度も繰り返されるものの、実際に頑張る場面は「幻想に逃げ込むのではなく現実で頑張れ」というものすごくスパルタ的メッセージになっている点にある。

幻想という言葉が本当に必要か?

冒頭で記した通り、私は『メタファー』という作品がある種の政治的なメッセージを届けるという点においては、残念ながら失敗していると考えている。

それは前述のとおり「ありもしないファンタジーに逃げ込むのではなくて、現実で戦え」というスパルタ的なメッセージであるから、というだけではない。それはそれで凡庸なメッセージだとは思うが、私が失敗だと捉える1番大きな理由は「幻想」という言葉が本当に必要であったのかがよく分からない点にある。詳しく見ていこう。

本作では戦闘によってパーティが全滅するたびに、プレイヤーは「Fantasy is dead(幻想は死んだ)」というメッセージを見させられることになる。

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『メタファー』は比較的全滅することが多いRPGであるため、このメッセージを見る機会は多い。このメッセージを見たプレイヤーが何を思うかと言えば「幻想は死んではいけないんだな」ということである。RPGにおいて全滅は失敗であり、やり直すべき行為だ。その場面でこのメッセージを幾度となく見せられるということで、「幻想というものを大切にせよ」というメッセージをプレイヤーは受け取ることになる。

そして、本作のラストでは「幻想」を「今はまだ無いものを信じること」としている。そしてその「幻想に価値があることを示して欲しい」という願いが、モアという登場人物によって語られる。

f:id:tuquoi:20241118142131j:imageモア: 今はまだ無いものを信じることに価値があること…『幻想が現実を塗り替える』ことを私の代わりに示してくれ。

おそらく本作において「幻想(ファンタジー)」という概念がずっと使われてきたことの理由はこれである。「幻想が現実を変える」から「幻想には価値がある」し、大切にしなければならないのだ。そしてパーティが全滅したら「幻想は死んで」しまうし、それは避けるべきであると。しかし先に示した通り、ストーリーの終盤でかなり劇的な演出と共に「幻想の世界(理想郷)に逃げ込むこと」が否定されている。主人公はどんなに苦しく絶望的な状況にあっても「現実」で戦うことを選択するからこそカッコいいのであり、魅力的なのだ。『メタファー』という作品の1番の問題点はここにある。つまり「幻想」という言葉を良いものであったり、悪いものであったり、あまりに都合よく使い分けているところにある。 

先のモアの願い(幻想が現実を変えることを示して欲しい)という言い方を考えてみよう。このように「幻想」を 良い意味で使っている場合、それは「現実を変える力」の意味で使われている。おそらく、これは「夢」という言葉に近い意味で使われていると考えられる。

f:id:tuquoi:20241124230457j:imageゲーム内でも「理想を夢見る」という言い回しが出てくる

しかし例えばあの有名なキング牧師の「わたしには夢がある(I have a dream)」の演説にある「夢」を「幻想」という言葉に置き換えることはできないだろう。それは「幻想」という言葉には、「まやかしでしかない」という否定的なニュアンスが「夢」より強くあるからだ。

では、試しに「夢が現実を変えることを示して欲しい」という言葉であればどうか?おそらくメッセージの主張としては大きく変わらないだろうが、それではあまりに凡庸な言い方になってしまう。そこで「幻想が現実を変えることを示して欲しい」という少し変わった言い方をすることで、ある種の異化効果による面白みは生まれるのかもしれないが、残念ながら「幻想」の持つ「夢」よりも強い否定的なニュアンスがあることの理由、つまり「幻想」という言葉を使わなければいけない理由がよく分からないのだ。

もちろんゲームを愛し、ファンタジー世界を愛してきた私たちゲーマーとしては、「幻想」というものがとても魅力的であり、時には人生を生きる上で活力になるということを知っている。そしてそれを賛美したい気持ちは、痛いほどによく分かる。しかし、そのプレイヤーの「幻想」という言葉への愛着に頼りすぎではないか?と思うのだ。「夢」や「憧れ」と言えば良いだけのことをわざわざ「幻想」という言葉で、なんとか言おうとしているところにやや無理があるように感じられてしまう。その点が本作の1番の失敗であるように思う。

魔法や幻想を使うなら

実は2023年に「選挙」というものを取り上げたファンタジー世界を舞台にしたゲーム作品がリリースされている。『The Cosmic Wheel Sisterhood』というタイトルで、Steamや家庭用ゲーム機にもリリースされている。この作品でも主人公が魔女界のトップを決める選挙に参加し、その中でどのように振る舞うかが描かれる作品である。

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この作品は魔女たちの世界を描いた作品であるため、当然、魔法やファンタジー的な要素は出てくるし、それらをとてつもない大きなパワーを持つ要素として描いている。

『The Cosmic Wheel Sisterhood』という作品が素晴らしいのは、魔法が大きな力を持つものでありながら、人の生き様や運命を変えるのはそういう魔法のような力だけではなく、まさに人々の意思や行動や連帯なのだと示すところにある。魔法があれば世界を変えられるのではない、ということを言うためにこそ、「魔法」が逆説的に作品テーマとして要請されているのだ。これは非常に興味深い描き方である。

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ひるがえって『メタファー』という作品を振り返って見ると、魔法を大きなパワーを持つものとして描きつつ、その「幻想」を夢として描くにすぎない*3。そこには幻想やファンタジーがなぜ物語として要請されたのかあまりよく分からない描き方になっている。もちろんそういう「幻想」を思い描く人間の「想像力」を讃えたいのかもしれないが、もし仮にそうだとしたら、そこにファンタジーのような世界設定はあまり必要がない。人間には「今ここにない理想」を思い描く力がある!と言えばいいだけだ。魔法や耳の長いエルフのような亜人種を登場させる必要がどこにあったのかが分からない。むしろここ何十年かの人類の歴史の勉強でもした方が、よほど「世界は変えられる!」と信じられるのではないか?例えば、20年前と大きく変わった私たちの倫理観や道徳の方が、よほどファンタジーと言えるのかもしれない*4

しかし私としてはこの作品を政治的なメッセージを持つ作品として全くダメだったとは思わない。本作にも重要な希望となるメッセージがあるように思われるのだ。そこを最後に示したい。

ダメなものを信じていい

本作はゲーム中盤で、ある遺跡を訪れることになる。そこはビルガ島の竜宮遺跡と呼ばれる建造物である。ゲーム内世界で異教とされているムツタリ族の宗教の教義にとって、竜宮遺跡は重要な場所とされている。本作では支配的な宗教として「 惺教(せいきょう)」というものが登場する。国教のような存在であり、それ以外の部族的な宗教は迫害されている。もちろん、ムツタリ族の信仰も迫害されている。

そのムツタリ族には若い巫女を竜に捧げるというかなり野蛮な習慣があり、主人公たちの仲間になるユーファという女性は、そのいけにえとして捧げられることになっていた。その窮地を主人公一向が助けることで、ユーファは仲間になるのだが、ユーファ自身はその野蛮ないけにえという宿命を受け入れている。むしろ自分たちの種族の助けになるならと自ら望んでいけにえになろうとする。

当然多くのプレイヤーが想像する通り、主人公たちはいけにえになろうとするユーファを説得して、彼女の命を助けるのだが、ここで私としては意外なことを主人公一行の1人が言うのだ。その1人とは、都会の騎士団というエリート集団にかつて所属していたヒュルケンベルグという人物である。彼女は次のように言うのだ。

「長い間、ビルガ島の生贄は、ただの野蛮な生贄だと思っていた。」

「(自ら生贄になろうとするのは)素晴らしい覚悟だ」

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このセリフが面白いのは、いけにえというのは、「野蛮だからやめるべきだ」と、頑張って言わないようにしている点にある。ここでいけにえを止める理由がどうであるかは重要ではない。そうではなく、いけにえという、いかにも野蛮な習慣を単純に否定しないし、自らいけにえとなって部族を守ろうとするユーファの覚悟を讃えてさえもしている。何より「ただの野蛮な生贄だと思っていた」というこれまでの偏見に対して反省の弁を述べている。都会的で洗練された考え方を持っていたヒュルケンベルグが、自らの考え方を相対化して反省するのだ。

『メタファー』には、こういう「ダメなものを信じてもいい」と解釈できてしまうような、見ようによっては謎の寛容さがある。これはあらゆるものを相対化してしまう危険性を当然孕んでいるのかもしれないが、私にはこれが本作の持つ掛け替えのない希望のように思えた。結局、いけにえという慣習を否定するにしても、もっと本人達自身が納得する形でやめさせなければならない、という実はかなりアクチュアルで実践的な有り様を示しているのではないか。これは決してあるゆるものを相対化して「悪もまた別の正義なのだ」などと語って満足するようなものではない。なぜならいけにえはちゃんと辞めさせているからだ。「そういう慣習もありかもですねー」などと言って賢しらぶっているだけではないのだ。

『メタファー』が「幻想」というものを大切に思うのは、正にこういう「ダメなもの信じても良い」というどこか切実な願いなのではないか。埒もないファンタジー世界を愛してしまうことの、そのどうしようもなさこそが切なくも愛してしまう理由なのではないか。仮にそうだとしたら、まさにそのダメさこそを私は本編で讃えて欲しかった。幻想は現実を変える力があるから素晴らしいのではない。現実を変える力がなくても、そういうダメで役に立たないものであっても良いのだと。私は『メタファー』にそう言って欲しかったのかもしれない。

 

*1:メタスコアは94という高得点を獲得している。

https://www.metacritic.com/game/metaphor-refantazio/

*2:モア戦の前後の会話

*3:ただ、ここで『メタファー』における魔法の描き方について少しだけ擁護しておきたい。『メタファー』では魔法の力の源を人々の「不安」だとしている。そしてある重要なアイテムがその「不安」を吸収している。しかしその「不安」を吸収しきれず、人々の間に不安が溢れ出ていることで世情は不安定になっている。その不安を溜め込み、人々に不安をもたらすアイテムはおそらくSNSのメタファーとして考えられているのではないかと私は考える。この点は現代社会のファンタジー世界への置き換えとして非常に興味深いものではあると思う。しかしその不安を無造作に投げ込み、そこから溢れる不安に「真正面から立ち向かうことが重要だ」というこれまた中々にスパルタなメッセージとなっている点、『メタファー』という作品の凡庸さが浮き出ることとなっていて残念でもある。せっかく少し(おそらく作品内で唯一)面白い設定であるのに、そこを活かしきれていない印象がある

*4:一応、なぜ「幻想」が単なる夢よりも良いのか?その説明として「幻想こそが人々を不安から解き放ち、行き詰まった現実を変える力となったか…」というセリフがある。しかしそんな「麻酔」のような不安の解消が、「幻想」というものの価値を支えているのだとしたら、それこそ儚いものに思えてしまう。f:id:tuquoi:20241124230400j:image

「パルワールドが、なんかムカつく」を非専門家である私たちはどのように語れば良いのか?

『パルワールド』が再び話題になっている。2024年9月19日に、任天堂(とポケモン)が、『パルワールド』を開発・販売するポケットペアに対して、特許権の侵害を理由に提訴した。

「パルワールド」開発元を提訴 特許権侵害でポケモンと―任天堂:時事ドットコム

『パルワールド』は2024年1月にPCやXBOXでリリースされたゲームだが、その時にもモンスター(『パルワールド』ではパルと言う)のビジュアルが『ポケットモンスター』シリーズのそれを強く想起させるものであったため、リリース直後にはかなり強い反発が発生した。

脅威の大ヒット『パルワールド』ゲーム制作会社はパクリ疑惑完全否定。ポケモンファンから脅迫も | ギズモード・ジャパン

さて、今再び、任天堂(とポケモン)による提訴ということで、この話題について多くの人が意見を述べている。

自分の日本語圏での観測範囲の限りでは、「パルワールド側を責める意見が多い」と感じている。そんな中、「今回の提訴は、ポケモンと似ているとされるデザインに絡む著作権ではなく、特許権で訴えている」という点を喚起しようとする意見もよく見られる。実際、日経ビジネスの以下の記事でも、その点がポイントとしてわざわざ挙げられている。少し引用しよう。

一方で、パルのデザインがポケモンシリーズに似ているとの指摘がユーザーから出ていた。(略)

今回の訴訟のポイントは、任天堂ポケモンが、キャラクターデザインなどの著作権の侵害ではなく、特許権の侵害で提訴している点だ。

(太字は引用者)

任天堂、「パルワールド」開発元を提訴 著作権ではなく特許権侵害で:日経ビジネス電子版

さて、私を含めて、一般的なゲームファンは特許や著作権の専門家ではないし、その多くはゲーム業界の慣行をよく知る業界内部の人間でもないだろう。こういう時に、どのようにこうした問題について語れば良いのだろうか。何か1つを語れば、その何倍もの反論が返ってくるネット空間。こういう場で意見を言うことはとても難しい。であるなら沈黙することが正しいのだろうか。もちろんそれも一つの答えだろう。しかし言いたい気持ちをただ闇雲に押さえ付けるのも、精神衛生上、良くはない。

この記事が訴えたいのは、専門家でもない私たちが、どのように語るのが良いのか?というその一つのモデルを提示することだ。特に「パルワールドがなんかムカつくな……」と思う人がどのように語るのが良いのかを示したい。結論を先に述べるならば、それは「理由を語りすぎない」という語り方である。唐突すぎて「は?」と思うかもしれないが、順番にその意見に至る道程を見ていこう。

嫌う理由をどう述べるか?

私たちは何かを嫌ったり、ネガティブな意見を述べる時に、その理由を合わせて述べようとする。あるゲーム作品が嫌いだという時であれば、そのゲームが嫌いな理由を併せて述べる。これは至極当然のことで、誰にでも当てはまることだろう。ただ、その「理由を述べる」という時には、実は以下の2つのことをおそらくしている。

1つ目は、嫌いのポイントを限定することで、「嫌いの場所」を述べること

2つ目は、なぜ嫌うことが正しいのかという「嫌いの妥当性*1」について述べること

上記の2つはかなり近い話でもあるのだが*2、実は異なった観点の話でもある。もう少し具体的に考えてみよう。例えば「ドラクエ」が嫌いな人がいる。その人が次のように語ったとする。

ドラクエが嫌いだ。それはドラクエの戦闘システムのせいだ。ある程度のバリエーションはあるものの、結局同じような戦い方にどうしてもなってしまう。」

意見の中身は無視して、その構造に注目したい。先ほどの2つの分類で言えば、「戦闘システム」を取り出しているところが「嫌いの場所」を示している。そして「結局同じような戦い方」というところが「嫌いの妥当性」を語ろうとしている*3

この二つを分けて考えることで、私たちは「嫌う理由」を語る時の「本当に言いたいこと」がもう少し見えてくる。それはどういうことか。「妥当性」についての議論というのは、つまり「あるべき論」であり、理由を語るという意味では、これ(妥当性)が中心的な話になる。一方で「場所」について語っている時というのは、理由を語っているのではなく、嫌いの対象、その選定結果について語っているに過ぎない。それは理由を語っているのではなく、あくまで議論の対象を限定しているだけだ。なぜこんな回りくどい話をするのか。それは、私たちは「場所」について語っているだけでも、なぜかそこに「妥当性」を自動的に見出してしまうからだ。特にその分野に詳しい人同士であればなおさらである。

例えば、先のドラクエの例であれば、「ドラクエ嫌いなんだよね。戦闘システムがさぁ……」と一言言っただけで、ある程度、お互いにドラクエRPGの昨今の動向に詳しい人であれば、なんとなく分かり合えてしまう。「戦闘システムがさぁ……」と「場所」について言われただけだが、自動的に「妥当性」が見出される。聞き手は「ああ、とても素朴なターン制システムだし、少し敵が強くなると状態異常が全然効かないし、まあ、古臭くなってる感じはあるし、工夫のしがいは少ない戦闘システムかもね」と語られていない「妥当性」を勝手に補う。「妥当性」は幽霊のようにハッキリしないのに、勝手に召喚されていつの間にか形を持ってしまうのだ。 

嫌いの理由をどこまで語るか

私たちは、「嫌いの場所」について語るだけでは満足しない。どうしても「妥当性」について語りたくなってしまう。それは話し手だけでなく聞き手もそうであり、語られていない「妥当性」を勝手に補ってしまうかもしれない*4

それくらい、私たちは「嫌う」ために「妥当性」を求めるし、判断しようとする。「嫌うことが正しい」と承認されたいし、「本当に正しいか」を判断したい。しかし私たちはその「妥当性」を詳細に語るための知識や経験を持っていないことがある。 だから「妥当性」を語ることはすごく難しい。これは単に難しいというだけではなく、語るためのスタートラインに立つことも難しいのだ。しかし逆に「場所」についてであれば、少なくとも語るためのスタートラインに立つことはできる。嫌っているのは発言者本人だし、何が嫌いかを全く理解しないままに嫌うことは基本的にはないはずだからだ。

では改めて『パルワールド』について考えよう。『パルワールド』を嫌う時に、まずその嫌っている「場所」を明確にすることはできるだろう。

  • モンスターのデザインがあまりにポケモンに似通っている点
  • 開発会社のトップの発言や態度
  • ゲームのシステム(モンスターへの暴力的なアクションができることなど)

上記に挙げたのは一部の例に過ぎないが、何を嫌っているのかを明確にすることはできる可能性が高い。しかし、その「妥当性」について考え始める時にはそんなに簡単に話は済まない。

  • どういうタイプや形式のデザインの「似ている」は許されて、何が許されないのか
  • 開発会社のトップの発言の放埒な発言の何が許せなくて、それはどういう意味でダメなのか
  • 様々な暴力的なゲームがある中で、なぜ『パルワールド』の持つ暴力性は許せないのか

こういうことを考えるのが「妥当性」についての議論である。しかしこれは非常に難しい。なんなら、究極的にどこにも「答え」などないかもしれない。例えば、「ポケモンのようなかわいいモンスターを虐めたい」という欲望を持っている人の欲望を「悪だ」とか「そうあるべきではない」と断定することはできない。この難しさは多くの人が理解できるだろうし、そんなことを断定してしまうことの危険性もなんとなく多くの人は理解しているのではないか。

わたしが気になっているのはこの点である。つまりポケモンを守ろうとする側も、パルワールドを擁護する側も、この「妥当性」を明確にすることの難しさを理解していると前提して考えるべきではないか?ということだ。ほとんどの人が「法律にひっかからなければ何をしても良い」とは思っていないし、それをある程度判断できると考えている。しかし一方で「法律に引っかからないことの中で、何が悪で何が悪でないかの判断は難しい」ということも同時に理解している。著作権とは何か、剽窃とは何か、ソフトウェアにおける著作権のあり方がどうあるべきか、そういう専門的な話に深い知見がなかったとしても、公正であることや公平であること、逆に創造性を保つためにある程度の模倣は必要であることも理解されている。繰り返すが、この2つの面(法律を破らなくても悪いことはある、でも、何が悪いかを決めるのは難しい)を、実は結構多くの人が理解している、その前提を共有することが大切な気がするのだ。

なぜその前提を改めて強調したいのか。それは、「(専門的な話を)生半可な知識で語るのは良くない」という意見では見えなくなるポイントがあるからだ。ここで話がややこしいのは「生半可な知識で語るのは良くない」はかなり正しい意見であり、それ自体否定しづらい点にある。しかし多くの人は専門的に正しい話がしたいわけではない。「え、これが正しいと思うけど、そうじゃないの?」という不安の共有と解消を求めて語っている。そういう人に対して「ちゃんと事実や業界を調査して、制度や法を理解せよ」と語るのは、正しいけれどポイントがズレていると私は思う。しかし多少のズレはあろうが、この正しい意見を否定する訳にはいかない。では、この状況において、私たちは何を語るべきなのだろうか。それが最初に語った「理由を語りすぎない」ということだ。先の言葉で言えば、「妥当性」については一旦置いておいて、「場所」について深く語っていくという、本記事で提案したいモデルになる。

「感想」は劣っているのか

「理由を語りすぎない」となると、それは「感想」にすぎないのではないか?と思うかもしれない。「それってあなたの感想ですよね?」という言葉に代表されるように、理由や根拠なき意見は「感想」でしかなく、劣った意見だと思われがちだ。しかし、単純にはそうではない。朴訥に見えながらも、練られた「感想」というのはある。

例えば次のような感想というのは、「感想」に過ぎないのだが、批判の難しい意見でもある。

「法律のことは分からないけど、ちょっとパルワールドは、ポケモンのデザインを真似しすぎだと思うな。みんながこういうことをしだしたら嫌だなあ」

上記のような意見はネットでもよく見る、取り立てて目新しい要素もない意見に思えるだろう。しかしいくつかの防御策を意識的に張っている。

まず第一に「法律のことは分からないけど」と、法律の話がしたいわけではないと布石を打っている。専門的な領域に踏み込まない宣言から始まっているとも言える。

また「パクリ」という言葉をあえて使わずに、「真似しすぎ」と言っている。もちろん「パクリ」と言っても良いのだが、「パクリ」には明らかにネガティブなニュアンスがある。もし「嫌いの場所」を示す段階、つまり事実認識の時点で価値判断を含む言葉を使ってしまうと「結論ありきで最初から叩きたいだけでは?」と捉えられるかもしれない。

そして「妥当性」については、あくまで私の「思い」や「感じ方」に頼っている。そのことで他者からの批判を封じている。「そう思うこと」は誰も否定することはできない。しかし最後に私の感想だけで終わるのではなく、「みんながこういうことをしだしたら」と仮定の話へと踏み出すことで、この人が嫌がっていることが「パクリ行為が横行するゲーム業界になって欲しくない」ということが伝わる。「感想」は常に説得力が弱いわけではない。「嫌いの場所」を深掘りして、「一社だけパクリを恥じない会社があることはまだ我慢できる。でも、それをみんながやるようになったら嫌なんだ」と「嫌いの場所」を一段階深く捉えることで、説得力は増すかもしれない。「嫌いの妥当性」を高めるには、数値データの提示や制度や権威ある人の言葉、いわばエビデンスによって高めるのかもしれない。しかし、「嫌いの場所」はそれらに頼らなくても、何を嫌っているかという芯の部分を掘り出すことができれば、それだけの迫力が生まれる。「感想」には「感想」のやり方がある、ということだ。

こういう深掘りを進めることで、もしかしたらある人は「実は私が嫌がっていたのは、パクリよりも『パルワールド』がそこまで面白くない、という点だったんだ!」と全く別の観点に気がつくことだってあるだろう。注意のために言っておくが、こうした「場所」の中身について私は議論したいわけではない。どんな結論でも良いのであって、重要なのはいかに「私が本当に嫌いな部分」を炙り出すことができるか?である。

「感想」は難しい

あなたが嫌いなのは本当はどこなのか?これは考え始めると実はめちゃくちゃ難しい。しかしその「正解」を知っているのは「あなた」だけだ。「感想」というのは考え始めるととても難題なのだ。その切れ味にこだわろうと思えば、どこまでもこだわることができる。なぜならそれは自分への問いだからだ。それでいて、それはどんな鉄壁な論理よりも守りに強い。なぜならそれは自分が思うことだからだ。それを侵すことは誰にもできない。

その感想を追求するための有効な一つの考え方が「妥当性」にこだわるのではなく、「場所」にこだわるということではないかと思う。それはつまり「分かりやすい理由を語りすぎない」語り方であり、分かりやすい理由に安住して、それに頼りすぎないということでもある。

具体的に「分かりやすい理由に安住する」例を挙げよう。例えば、RPGの主人公は喋るべきか?という議論がある。ドラクエなどが典型的だが、主人公は喋らない。「主人公が喋るのが嫌だ」という人も少なくない。ではその「嫌いの理由」を考えた時によく言われる理由が次のようなものである。

主人公が喋らない方が、プレイヤーによるキャラへの同一化(なりきること)がしやすい

これは確かにそういう面があるかもしれないが、よくよく考えると疑問も多い。例えばドラクエの最新作『ドラゴンクエスト11』の主人公はドラクエの伝統に則り、喋らない。しかしそのキャラクターのビジュアルは固定化されており、髪型や顔などは全く変えることもできない。この時、なぜ「ビジュアルが固定されてない方が遥かにプレイヤーとキャラの同一化は図りやすい」と言わないのだろうか。キャラが喋ることで、プレイヤー自身が主人公になりきることを妨げるのであれば、当然そのビジュアルの固定化もまた批判される要素となるだろう。この「ビジュアルの固定化は都合よく無視して、喋りについてだけ同一化の障害になる」と考えてしまうことこそ*5、典型的な「分かりやすい理由に安住してしまう」ケースではないかと思う。このような中途半端で一見最もらしい理由(同一化しやすい)を掲げて「喋る主人公」を嫌うぐらいなら、「いや、なぜ喋らない方が良いのかは分からない!それがドラクエなんだという思い込みに過ぎないのかもしれない。けれど、その思い込みや幻想を大切にしてほしい。ドラクエらしさを失わないでほしい!」と切実に訴える「感想」の方が、私ははるかに誠実さと真剣味と説得力を感じる。

「嫌い」が嘘でないなら、それを更に「本当か?」と問い続ける。世の中の、自分の外にある安直な理由に頼らない!という覚悟を決めること、そして時には「理由がない」ことを受け止めることが重要である。易々と分かりやすい「場所」で留まらない追求の姿勢が、実は「感想」には必要なのだ。それはそんなに簡単な話ではない。

感想という一票を守る

感想というのは、選挙における一票の投票権のようなものだ。それはたったの一票でしかなく、とても弱い力でしかない。しかしそれは揺るぎない1票でもある。しかしその1票を中途半端な知識などで大きく強いものに見せかけようとすると、せっかくの1票を毀損してしまうことになるかもしれない。それはとてももったいないことだろう。多くの人が「そう思う」のであれば、理由はなくても、それはきっと何かの力になる。「理由を語りすぎない」意見は、決して単純で簡単で安易で劣ったものではない。それはどんな論破やエビデンスさえ突き破るかもしれない力を秘めている。

わたしたちの「感想」に必要なのは、時に理由に頼らないで自分の気持ちをそのままに表明する勇気と、自己への弛まぬ問いかけではないかと思う。それは決して愚かでも劣っているのでもない。圧倒的な理由が明確にない、ということを私自身が知っていること、そこではあたかも反転術式するような力強さというものが、むしろ生まれるのだと私は思っている。

*1:ここで使う「妥当性」という言葉は適切な言葉なのか、かなり迷った。他により良い言葉が思いついたら、変えるかもしれない。ここでの「妥当性」は"適切であるという性質や傾向"という日常的に使われるニュアンスの意味で使っている。しかしより正確にいうなら「妥当性を担保する根拠」というような意味で使ってもいる。この点もあまり適切でないと思うが、ごめんなさい。

*2:本当を言えば、この2つを厳密に分けることはできないかもしれない

*3:もう少し丁寧に 「嫌いの妥当性」を語るなら次のように言い直してもいいかもしれない。「 結局同じような戦い方にどうしてもなってしまう。それはつまりプレイの多様性が欠如していて、戦略を工夫する余地が少なく、戦闘の醍醐味である『思考して勝つ楽しみ』を欠いているからだ」とか。

*4:逆に「好き」であれば、それは端的に「好き」と語ることだけで満足できることが多いのかもしれない。その理由はよく分からない。ただ「嫌う」ことに伴いがちな攻撃性が「好き」にはないからかもしれない。ただ、この記事の議題から外れるので、「嫌い」と「好き」の違いの話はここまでで止めておこう。

*5:「喋り」の方が「見た目」より、キャラの人格を表現する、より本質的な特徴となり得るのだ、という議論をするなら別である。しかしそこまで「喋り」について突き詰めた議論は見たことがあまりない。あれば読みたいので教えて欲しい。

スト2の頃の格闘ゲームは(私にとって)COM対戦がメインの遊びだった

『スト2』が自分の世界に現れたのは、家から少し離れたところにあるおもちゃ屋の店頭だった。なぜこれが話題になったのか、今は全く思い出すことができない。しかし『スト2』はすごいという話は子供たちの間に瞬く間に伝わり、その「スト2のおもちゃ屋」の入り口には放課後、人だかりができるようになった。

画面は大してスクロールすることもなく、比較的狭い画面の中を男たちが戦いあう。そのゲームプレイはとても新鮮だった。私は最初、丸いレバーを上から包むように握っていたが、ある時、年長者の上手い人のレバーの握り方が違うことに気がついた。レバーの軸を中指と薬指の間に挟み、下から包むように握っていた。自然と私はそれを真似するようになった。

最初は昇竜拳が出せなかった。しかしそのうちに出せるようになった。低めの高さで、昇竜拳を当てるとどこか嬉しかった。相手の肉体を抉っているような手触りを感じた。遊ぶのは専らCOM対戦(CPU対戦)だった。最初はボーナスステージを超えるあたりまで進めるだけだったが、次第に四天王にまで行けるようになった。バルログの動きに翻弄されながらも、段々と安定してベガまで行けるようになった。そしてクリアできるようになった。嬉しかった。飽きもせず何回もリュウとケンでクリアをした。人との対戦は全然やらなかった。

家から近くにある別のおもちゃ屋には『スト2』ではなく、『餓狼伝説』が置かれるようになった。それもまた夢中で遊んだ。次に『スト2』も入り、『ワールドヒーローズ』が入り、『龍虎の拳』が入り、『サムライスピリッツ』が導入された(本当に当時、この順番で導入されたかは自信がない。記憶違いもあるかもしれない)。そちらのおもちゃ屋も大盛況になった。友達で集まり、交代で『サムライスピリッツ』を遊んだ。人同士の対戦は全くしなかった。ただ黙々と子供たちはコンピュータとの対戦を繰り返していた。それで幸せだった。『龍虎の拳』で初めてコンピュータ相手に龍虎乱舞を当てた時、友達と歓声を上げた。

2023年の『ストリートファイター6』に納められた1人用モードは、発売前は楽しみにしていた。しかし数時間遊んで、そのあと進めていない。人との対戦の方が遥かに刺激的だし、面白い。1人用モードはなかなかモチベーションを維持できなかった。 

だからこそ思い出す。子供の頃になんであんなにCOM対戦に夢中になれたのか。おとなしく交代交代で遊ぶ。お互いに戦うこともせず、1人孤独に筐体に向かいあった。それは今からするととても奇妙な遊び方にも思える。友人とどんな話をしたのかは全然覚えていない。ただその空間をみんなで共有したことを覚えている。良いとか悪いとかではなく、人と対戦しなければ意味がないと格闘ゲームを捉えるようになったのはいつの頃からなのか。そう思うようになってしまったことに言いようの無い寂しさと切なさを覚える。COM対戦にはプレイの多様さはそれほどないし、人と切磋琢磨する面白味もない。「ザンギエフを画面端でジャンプ大キックだけで倒すことの何が面白のか?」と問われたら、ただただ照れ隠しに頭を掻くしかない。でもそれでも良かった。それで良かったし、それが良かった。

私たちはバカで愚かで、適切な言葉を持たなかった。学校で目立つこともなく、スポーツもできないし、勉強も特に好きではなかった。しかし、1人コンピュータと対戦することで、なぜかそこに謎のコミュニケーションが生まれていたのだと思う。何を喋ったのか覚えていないのは当たり前だ。何も喋ってなどいないのだから。黙々と私たちはプレイをした。そうすることで何かを共有していたことは間違いない。それは単にブームに乗った遊びをみんなでした、というだけのことなのかもしれない。ただ、そこに言葉がなかったことの妙なロマンチックさがある。それを思い出すと無性に懐かしくなる。奇妙な遊びだったからこそ、かけがいのない時間だったような気がしてくる。

久しぶりに地元に帰ると、「スト2のおもちゃ屋」はすでに潰れてコンビニになっていた。今はただあの時の記憶だけが残っている。