2024年10月11日にアトラスからリリースされた『 メタファー:リファンタジオ(以下、メタファー)』。海外での評判も高く*1、体験版が楽しかった私も発売日近くに購入し、ようやくクリアができた。クリアまでは約90時間。初回プレイで無事にベストエンディングに到達した。
本作の特徴はファンタジー的な世界観でありながら、現代社会を意識したモチーフに満ちているところにある。なんと驚くことにファンタジー世界に「選挙制度」というものを導入して、それを主人公が勝ち抜くというストーリーがメインで描かれる。ストーリーのオープニングでは、国王の死と野心的な将軍の策謀というとても中世ファンタジー的な筋書きで進んでいく。そして、この世界にはツノの生えた人間やエルフのような種族など、いわばファンタジー世界の住人らしい人たち(亜人種)が多数派を形成していて、逆に「普通の人間」は少数派である。そして亜人種も含めた人間種を指す言葉として「ニンゲン」という言葉は使われていない。なんとゲーム内に登場する凶悪な異様の化け物たちが「ニンゲン」と呼ばれている。このことから話はグッとSFぽくなる。そんな舞台設定の中で、主人公が愛読している幻想小説に描かれた世界はビジュアル的には現代日本(東京タワーやビル群)のイメージで描かれる。ここから「あれ?このゲーム世界は、私たちの世界と実は繋がってるの?」とプレイヤーとしては思うわけだが、面白いのは主人公たちはその幻想小説の世界を「差別もなく、公平なチャンスに満ちた理想的な世界」と考えているところだろう。主人公たちが憧れ、目指す先の世界として私たちの現実世界が設定されている。しかしプレイヤーとしては当然私たちの社会が理想郷ではないということを知っているので、おそらく多くのプレイヤーはこれをどういう風に最終的に整理していくのかに興味を向けることになる。
以上に示した通り、本作は現実社会を踏まえた非常に政治的なメッセージを持った作品と言える。しかし、本稿では、『メタファー』という作品がある種の政治的なメッセージとしては失敗していることを示したいと思う。なお、念の為に言うと、これはストーリーがつまらないとかゲームがつまらないという話ではない。そういう主張がしたいわけではない点は、念の為、強調しておきたい。
現実を幻想(理想)化する
以下、ややネタバレ気味に語っていこう。
本作が分かりにくいのは、「幻想(ファンタジー)」という言葉が「理想」や「現実」と複雑に絡み合うところにある。
まず第一に、このゲームの世界が、魔法のある中世的な舞台であり、いかにもファンタジーの世界であるため、私たちプレイヤーはこのゲーム内世界を幻想的だと捉える。しかし、一方でゲーム内の主人公たちはその世界とは異なる異世界を幻想的な世界として捉える。この時点で、本作は既に幻想と現実が入り組んだ設定となっている。
その上で、ゲーム内の主人公たちはその異世界を理想郷として考える。先に述べた通り、その異世界は小説という形で表現されているのだが、その異世界のビジュアルは私たちの現実世界のビジュアルに近いものとして描かれる(東京タワーやビル群で描かれる)。つまり「幻想であり理想であり現実でもある」という奇妙な描かれ方をしている。
しかし、ストーリーの終盤になると、その異世界(私たちの現実世界)は決して「理想郷ではない」とも語られるのだ*2。これは私たちプレイヤーとしては「それはそうだよな」とか「知ってた」と思うような話ではあるが、主人公の「認識の一変」としてかなりドラマティックに描写される。なによりこの「認識の一変」とともに、主人公はある大きな決断をする。それがつまり、そのゲーム世界を単なる幻(ファンタジー)の世界としてではなく、現実として生きるという主人公の強い覚悟である。この覚悟は幻想(理想)を捨てず、諦めず、「夢」として叶えようとする決意であり、「幻想への憧れ」が現実を変化させるパワーの源になる 。
以上のように書いていくと幻想と現実という単語が複数の文脈で使われているため、非常にややこしく見えるかもしれないが、実はものすごく単純な話をしている。骨子としては「理想(幻想)に憧れて、それを糧に現実を変えよう」というスローガンが回りくどく語られているだけなのだ。
ではこのような回りくどい語り口にはどのような面白さや意義があるのか。それは「現実を幻想(理想)化する」という点にある。つまりゲーム世界の住人にとって(私たちの)現実世界というのは、ある一面を切り取ればかなり理想的で、幻想的で、ファンタジーのような世界だ、ということだ。「選挙制度」などは見方を変えれば、まるで魔法のようなものだ、というわけである。私たちは「高度に発達した科学は魔法にしか見えない」などの言い方で、科学を魔法の比喩で語ることはある。しかし社会制度を魔法とは中々表現しない。この視点の変化というのは大変に面白いと言える。
しかしである。結局のところ主人公たちが「幻想」というものをどう捉えているか?という点においては全く別のメッセージもまた強く打ち出されるのだ。それは物語の終盤である。主人公はラストバトルの途中でこの異世界(私たちの現代社会)に「転生」することを誘われる。しかし主人公はそれを否定する。その(私たちの)現実世界だって、きっと理想郷ではないだろうと語り(=認識の一変)、異世界転生を拒否するのだ。「なろう小説の主人公みたいに異世界でハッピーになるのではなく、逃げることなくゲーム世界を現実として生き抜く」と。このメッセージを強調するなら、『メタファー』と言う作品は非常にありきたりな「厳しい現実を生き抜け」系のメッセージを発しているように思える。これまでにこんなに回りくどい話をしてきたのに、最後になって随分と単純なメッセージだなと思わなくはない。ただ、繰り返すが本作の設定の面白味としては、私たちの現実社会を「幻想」「憧れ」として描く点にある。
だが、この「私たちの現実社会を憧れとして描く」その理由について、あまり丁寧に語られてはいない。私たちの現実社会を「理想郷ではない」とわざわざ言っている点からも、単純に私たちの社会を現状肯定したり、「俺たちの社会って実はスゲー」と素朴に言いたいわけではないのだろう。考えられることとしては、「私たちは私たちが持っている魔法のような社会制度、例えば選挙を大切にしましょう。」という教訓なのかもしれない。私たちはファンタジー世界にある種の理想を見るけれど、ゲームの中の彼らにとっては私たちの世界こそが逆に幻想的なんだという視点の逆転の面白さは確かにある。
いずれにしろ重要なポイントとして「幻想が力の源になる」と何度も繰り返されるものの、実際に頑張る場面は「幻想に逃げ込むのではなく現実で頑張れ」というものすごくスパルタ的メッセージになっている点にある。
幻想という言葉が本当に必要か?
冒頭で記した通り、私は『メタファー』という作品がある種の政治的なメッセージを届けるという点においては、残念ながら失敗していると考えている。
それは前述のとおり「ありもしないファンタジーに逃げ込むのではなくて、現実で戦え」というスパルタ的なメッセージであるから、というだけではない。それはそれで凡庸なメッセージだとは思うが、私が失敗だと捉える1番大きな理由は「幻想」という言葉が本当に必要であったのかがよく分からない点にある。詳しく見ていこう。
本作では戦闘によってパーティが全滅するたびに、プレイヤーは「Fantasy is dead(幻想は死んだ)」というメッセージを見させられることになる。
『メタファー』は比較的全滅することが多いRPGであるため、このメッセージを見る機会は多い。このメッセージを見たプレイヤーが何を思うかと言えば「幻想は死んではいけないんだな」ということである。RPGにおいて全滅は失敗であり、やり直すべき行為だ。その場面でこのメッセージを幾度となく見せられるということで、「幻想というものを大切にせよ」というメッセージをプレイヤーは受け取ることになる。
そして、本作のラストでは「幻想」を「今はまだ無いものを信じること」としている。そしてその「幻想に価値があることを示して欲しい」という願いが、モアという登場人物によって語られる。
モア: 今はまだ無いものを信じることに価値があること…『幻想が現実を塗り替える』ことを私の代わりに示してくれ。
おそらく本作において「幻想(ファンタジー)」という概念がずっと使われてきたことの理由はこれである。「幻想が現実を変える」から「幻想には価値がある」し、大切にしなければならないのだ。そしてパーティが全滅したら「幻想は死んで」しまうし、それは避けるべきであると。しかし先に示した通り、ストーリーの終盤でかなり劇的な演出と共に「幻想の世界(理想郷)に逃げ込むこと」が否定されている。主人公はどんなに苦しく絶望的な状況にあっても「現実」で戦うことを選択するからこそカッコいいのであり、魅力的なのだ。『メタファー』という作品の1番の問題点はここにある。つまり「幻想」という言葉を良いものであったり、悪いものであったり、あまりに都合よく使い分けているところにある。
先のモアの願い(幻想が現実を変えることを示して欲しい)という言い方を考えてみよう。このように「幻想」を 良い意味で使っている場合、それは「現実を変える力」の意味で使われている。おそらく、これは「夢」という言葉に近い意味で使われていると考えられる。
ゲーム内でも「理想を夢見る」という言い回しが出てくる
しかし例えばあの有名なキング牧師の「わたしには夢がある(I have a dream)」の演説にある「夢」を「幻想」という言葉に置き換えることはできないだろう。それは「幻想」という言葉には、「まやかしでしかない」という否定的なニュアンスが「夢」より強くあるからだ。
では、試しに「夢が現実を変えることを示して欲しい」という言葉であればどうか?おそらくメッセージの主張としては大きく変わらないだろうが、それではあまりに凡庸な言い方になってしまう。そこで「幻想が現実を変えることを示して欲しい」という少し変わった言い方をすることで、ある種の異化効果による面白みは生まれるのかもしれないが、残念ながら「幻想」の持つ「夢」よりも強い否定的なニュアンスがあることの理由、つまり「幻想」という言葉を使わなければいけない理由がよく分からないのだ。
もちろんゲームを愛し、ファンタジー世界を愛してきた私たちゲーマーとしては、「幻想」というものがとても魅力的であり、時には人生を生きる上で活力になるということを知っている。そしてそれを賛美したい気持ちは、痛いほどによく分かる。しかし、そのプレイヤーの「幻想」という言葉への愛着に頼りすぎではないか?と思うのだ。「夢」や「憧れ」と言えば良いだけのことをわざわざ「幻想」という言葉で、なんとか言おうとしているところにやや無理があるように感じられてしまう。その点が本作の1番の失敗であるように思う。
魔法や幻想を使うなら
実は2023年に「選挙」というものを取り上げたファンタジー世界を舞台にしたゲーム作品がリリースされている。『The Cosmic Wheel Sisterhood』というタイトルで、Steamや家庭用ゲーム機にもリリースされている。この作品でも主人公が魔女界のトップを決める選挙に参加し、その中でどのように振る舞うかが描かれる作品である。
この作品は魔女たちの世界を描いた作品であるため、当然、魔法やファンタジー的な要素は出てくるし、それらをとてつもない大きなパワーを持つ要素として描いている。
『The Cosmic Wheel Sisterhood』という作品が素晴らしいのは、魔法が大きな力を持つものでありながら、人の生き様や運命を変えるのはそういう魔法のような力だけではなく、まさに人々の意思や行動や連帯なのだと示すところにある。魔法があれば世界を変えられるのではない、ということを言うためにこそ、「魔法」が逆説的に作品テーマとして要請されているのだ。これは非常に興味深い描き方である。
ひるがえって『メタファー』という作品を振り返って見ると、魔法を大きなパワーを持つものとして描きつつ、その「幻想」を夢として描くにすぎない*3。そこには幻想やファンタジーがなぜ物語として要請されたのかあまりよく分からない描き方になっている。もちろんそういう「幻想」を思い描く人間の「想像力」を讃えたいのかもしれないが、もし仮にそうだとしたら、そこにファンタジーのような世界設定はあまり必要がない。人間には「今ここにない理想」を思い描く力がある!と言えばいいだけだ。魔法や耳の長いエルフのような亜人種を登場させる必要がどこにあったのかが分からない。むしろここ何十年かの人類の歴史の勉強でもした方が、よほど「世界は変えられる!」と信じられるのではないか?例えば、20年前と大きく変わった私たちの倫理観や道徳の方が、よほどファンタジーと言えるのかもしれない。*4。
しかし私としてはこの作品を政治的なメッセージを持つ作品として全くダメだったとは思わない。本作にも重要な希望となるメッセージがあるように思われるのだ。そこを最後に示したい。
ダメなものを信じていい
本作はゲーム中盤で、ある遺跡を訪れることになる。そこはビルガ島の竜宮遺跡と呼ばれる建造物である。ゲーム内世界で異教とされているムツタリ族の宗教の教義にとって、竜宮遺跡は重要な場所とされている。本作では支配的な宗教として「 惺教(せいきょう)」というものが登場する。国教のような存在であり、それ以外の部族的な宗教は迫害されている。もちろん、ムツタリ族の信仰も迫害されている。
そのムツタリ族には若い巫女を竜に捧げるというかなり野蛮な習慣があり、主人公たちの仲間になるユーファという女性は、そのいけにえとして捧げられることになっていた。その窮地を主人公一向が助けることで、ユーファは仲間になるのだが、ユーファ自身はその野蛮ないけにえという宿命を受け入れている。むしろ自分たちの種族の助けになるならと自ら望んでいけにえになろうとする。
当然多くのプレイヤーが想像する通り、主人公たちはいけにえになろうとするユーファを説得して、彼女の命を助けるのだが、ここで私としては意外なことを主人公一行の1人が言うのだ。その1人とは、都会の騎士団というエリート集団にかつて所属していたヒュルケンベルグという人物である。彼女は次のように言うのだ。
「長い間、ビルガ島の生贄は、ただの野蛮な生贄だと思っていた。」
「(自ら生贄になろうとするのは)素晴らしい覚悟だ」
このセリフが面白いのは、いけにえというのは、「野蛮だからやめるべきだ」と、頑張って言わないようにしている点にある。ここでいけにえを止める理由がどうであるかは重要ではない。そうではなく、いけにえという、いかにも野蛮な習慣を単純に否定しないし、自らいけにえとなって部族を守ろうとするユーファの覚悟を讃えてさえもしている。何より「ただの野蛮な生贄だと思っていた」というこれまでの偏見に対して反省の弁を述べている。都会的で洗練された考え方を持っていたヒュルケンベルグが、自らの考え方を相対化して反省するのだ。
『メタファー』には、こういう「ダメなものを信じてもいい」と解釈できてしまうような、見ようによっては謎の寛容さがある。これはあらゆるものを相対化してしまう危険性を当然孕んでいるのかもしれないが、私にはこれが本作の持つ掛け替えのない希望のように思えた。結局、いけにえという慣習を否定するにしても、もっと本人達自身が納得する形でやめさせなければならない、という実はかなりアクチュアルで実践的な有り様を示しているのではないか。これは決してあるゆるものを相対化して「悪もまた別の正義なのだ」などと語って満足するようなものではない。なぜならいけにえはちゃんと辞めさせているからだ。「そういう慣習もありかもですねー」などと言って賢しらぶっているだけではないのだ。
『メタファー』が「幻想」というものを大切に思うのは、正にこういう「ダメなもの信じても良い」というどこか切実な願いなのではないか。埒もないファンタジー世界を愛してしまうことの、そのどうしようもなさこそが切なくも愛してしまう理由なのではないか。仮にそうだとしたら、まさにそのダメさこそを私は本編で讃えて欲しかった。幻想は現実を変える力があるから素晴らしいのではない。現実を変える力がなくても、そういうダメで役に立たないものであっても良いのだと。私は『メタファー』にそう言って欲しかったのかもしれない。
*1:メタスコアは94という高得点を獲得している。
https://www.metacritic.com/game/metaphor-refantazio/
*2:モア戦の前後の会話
*3:ただ、ここで『メタファー』における魔法の描き方について少しだけ擁護しておきたい。『メタファー』では魔法の力の源を人々の「不安」だとしている。そしてある重要なアイテムがその「不安」を吸収している。しかしその「不安」を吸収しきれず、人々の間に不安が溢れ出ていることで世情は不安定になっている。その不安を溜め込み、人々に不安をもたらすアイテムはおそらくSNSのメタファーとして考えられているのではないかと私は考える。この点は現代社会のファンタジー世界への置き換えとして非常に興味深いものではあると思う。しかしその不安を無造作に投げ込み、そこから溢れる不安に「真正面から立ち向かうことが重要だ」というこれまた中々にスパルタなメッセージとなっている点、『メタファー』という作品の凡庸さが浮き出ることとなっていて残念でもある。せっかく少し(おそらく作品内で唯一)面白い設定であるのに、そこを活かしきれていない印象がある
*4:一応、なぜ「幻想」が単なる夢よりも良いのか?その説明として「幻想こそが人々を不安から解き放ち、行き詰まった現実を変える力となったか…」というセリフがある。しかしそんな「麻酔」のような不安の解消が、「幻想」というものの価値を支えているのだとしたら、それこそ儚いものに思えてしまう。