ビデオゲームとイリンクスのほとり

ビデオゲームを中心としたレビュー・コラム記事です。 ■映画の感想は『映画と映像とテキストと』というブログに書いてます。https://turque-moviereview.hatenablog.com/ ■Twitter ID: @turqu_boardgame ■Discord : https://discord.gg/82T3DXpTZK 『ビデオゲームで語る』

映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

『ディスコエリジウム』に選ばれなかった私

2022年8月。『ディスコ エリジウム ザ ファイナル カット』日本語版がリリースされた。海外でリリースされた時の情熱的とも言える絶賛レビューを数多く目にしていたため、この作品が日本語化されると聞いた時にはとても嬉しかった。実際、日本語版をプレイしてみて、これは絶対に英語版ではプレイしきれなかったろうと感じ、これを日本語化してくれた方々には本当に足を向けて眠れない。翻訳の世界を知らない私にも、110万ワードと言われる膨大なテキストは、未知の巨大な怪物に立ち向かうような困難さであっただろうと想像する。改めて、日本語版の発売に尽力された方には「ありがとうございました」と言いたい。

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1周目をアーキタイプ「思想家」で始め、クリアまでプレイし、最後の2日間をもう一度違う選択肢などを選んで遊び直して再度エンディングを迎えた。そして2周目をアーキタイプ「神経質」で始めたところで、この感想文を書いている。本作に対する私の評価はおおむね次のようなものだ。

「ストーリー、特にラストはステキだったし、2日目以降、世界設定が理解できるようになり、社会情勢を論評する興味深い考えなどが語られると(特にジョイス・メシエとの会話以降)、世界にのめり込む楽しさを感じた。非常に魅力的な人物も多い。しかし総じて、ダルい操作と面白みの薄い膨大なテキストのため、全体としてはあまり楽しいゲームではなかった」

本作は「人を選ぶ」ゲームだと言われている。確かにそうだ。このように語る人たちは、その多くが「選ばれた人」なのだろう。だからこそ、私のような「選ばれなかった人」の感想が少しくらいあっても良いだろうと思う。

コンソール版の操作のやりづらさ

私はPS5版でプレイしたが、キャラクター移動をスティックで行うパッド操作では、少しストレスがあった。PC版のようにキャラクターの移動先をマウスでクリックする方式の方が、キャラクターが自動的に移動してくれるため扱いやすい。本作の背景画はとても素晴らしいが、どこが歩ける部分で、どこが歩けない場所なのか分かりにくい。そのため、しょっちゅう「あ、ここは進めないのか。うん?あそこに行くのはどっから行けば良いんだ?」と悩む。ただ、ゲーム体験全体を損なうほどの短所というわけではない。しかし、PC版でプレイできる環境がある人は、PCでプレイした方がいいかもしれない。

使いづらいファストトラベル

3日目以降、特定の条件を満たしていれば、ファストトラベルが可能になるが、なぜか特定のエリア(ファストトラベルの目的地となり得る場所)にいないとファストトラベルができない。なぜあらゆる場所からファストトラベルさせないのか、理由がよく分からなかった。また、ファストトラベルの目的地もなぜ、あの3箇所なのか、疑問を持たざるを得ない。漁村と教会は非常に近い割には、イブラートの部屋や北西のアパートへのファストトラベルはできない。どういうバランス感覚でああした目的地の設定になっているのだろうか。システム上の都合などがあるのかもしれないが、あの仕様のせいでジョイス・メシエやイヴラートと接触する機会を減らしてしまった人もいるのではないだろうか。

変化のない選択肢の多さ

以下の画像に示すテキストは、あるアパートの一室に住む人物について、アパートの清掃員に尋ねる場面のものである。

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自らのイデオロギーに合わせて、様々な回答ができるのだが、この選択肢、どれを選択してもあまり物語に変化はないし、相手の返答が大きく変わるわけでもない。『ディスコエリジウム』には、この手の「どれを選んでも変わり映えしない選択肢」が非常に多い。もちろんこれが「プレイヤー自身によって選べるロールプレイの豊富さ」として一定の面白さがあるようにも思うが、こうした意味の薄いテキストを大量に読ませることが、正直言うと、かなり辛かった。何か突拍子もないことを言ってみたり、話し相手に普通ではあり得ない返答をしてみたり、そういう破天荒な場面の創出によって「ささやかな」面白みがないわけではないが、「だからなんなんだ?」とも感じた。中には面白いテキストもあるが、正直、もう少しテキストを削って、面白いテキストを選抜して残すこともできたのではないか?と思ってしまう。むしろその方が端的に「良い」作品になったのではないか。もちろん、この溢れるようなテキスト量こそが、独特の魅力なのだというのもよく分かる。わたしもピンチョンの作品を読むと、そのめくるめく幻惑的なテキストとそのボリュームにやられるような気持ちになる。ただ、そうしたテキストの洪水に溺れたいなら、ピンチョン作品でも読んだ方がより「効率的」なのではないか。膨大な選択肢を選ばせ、その上でゲームとして成立させる、そうしたゲーム媒体ならではの面白みが膨大なテキストと共に十分に達成されていたかというと、個人的には疑問である。全体的にかなり「粗い」ようにも思ってしまう。その具体的な1つとして、例えば、辺縁系とか爬虫類脳による会話がある。確かに興味深い設定だと思ったが、毎夜毎夜ああした意味不明の苦悩のやりとりを聞かされて「面白い」とは私にはあまり思えなかった。

また、ラストで出会うドロレス・デイとの会話に、わたしはかなり期待していた。しかし、愛する女に逃げられた哀しい男の侘しさという点では面白くないわけではなかったが、それほどグッとくる会話ではないように感じた*1。それに比べると、メシエやクラーシェやキツラギとの会話は本当に面白かった。かなり光るテキストも多かったように思う。それらと比べると、ドロレス・デイとの会話は期待外れだった。特にこのドロレス・デイとの会話を取り上げたのは、本作の「豊富なロールプレイ」が、主人公自身の強い主張というものを抑制してしまったようにも思うからだ。それを次に述べたい。

実はあまり個性のない主人公

言い訳だが、テーブルトークRPGの文化を知らないので、かなり的外れなことを言っているかもしれない。

わたしは、本作の主人公の刑事は、かなり無個性であると感じた。もう少し平たく言えば、凡庸だと感じた。もちろんそれは「お前の選んだ選択肢が面白みのないものだったんじゃないの?」と言われるかもしれない。しかしわたしが言いたいのはそういうことではない。例えば、主人公に、捜査の途中でいきなり女の人を口説かせたり、人種差別的な語りをさせたり、革命への賛辞を述べさせてみたり、突拍子もない言動をさせることはできる。しかし「それって面白い?」「それって個性になりますか?」と思うのだ。どれもこれも「うんこ!」と突然叫んでゲラゲラと喜ぶ幼児のような純粋さと面白さは感じられるものの、それが果たして個性の深みを感じさせるキャラ造形に寄与しているかというと甚だ疑問に感じてしまう。24に分かれた各人格も期待していたほど面白いことを言ってくれる感じではなかった(わたしの選んだ「思想家」というのが良くなかったかもしれない)。本作の主人公は、プレイヤーの意思を反映して、どのようなタイプの人間にもなりうる。だからこそ、主人公自身がこの世界に対して、決定的にクリティカルな発言はしないようになっているように感じられる。もし仮にかなり面白い論評をこの世界や社会にしてしまう選択肢があったとすると、こうした多様な存在にはなれないのかもしれない。だからこそ(なのか)、主人公は世を儚み、妙に達観した冷笑家か、どこか調子っぱずれな極端な思想を持ちつつも、一貫していない活動家みたいになってしまう。それらは、かなり「薄っぺらいキャラ造形」であると感じられる。周りのキャラクターは、キツラギをはじめ、かなり魅力的で個性的であるのに、主人公自身には最初から最後まで、思い入れを感じることはできなかった。自分の意思で選択肢を選べているはずなのに。

その物足りなさを1番感じたのが、ドロレス・デイとの会話だったのだ。ここで一気に主人公への思い入れが生まれるかと思ったのだが、それほどではなかった。なんとも肩透かしを食らったような気持ちになった。

ロードでのやり直しとスキルの割振り

本作の最もゲーム的な要素であるレベルアップ時に獲得するスキルポイントの割り振りと、思考キャビネットでの思考の内面化は、とても最初わくわくした。特に、序盤のスキル値を少しアップしたり、思考キャビネットで思考をセットすることで、スキルチェックの成功率がグンと跳ね上がるところは純粋に楽しかった。ただ、これはわたし個人の体験で恐縮だが、わたしはある一つのスキルチェックが超えられなくて、ゲームが進行できなくなってしまったのだ。この体験が、このゲームへの印象をとても悪くしている。ちなみに何のスキルチェックかというと、「ワーリング・イン・ラグズ」でのハーディに対する権威のスキルチェックである。最初に失敗してから、少し経ってまた挑戦したのだが、それも失敗してしまい、更にもう一度挑戦して、そこでも(結構高い成功率になっていたのに)運悪く失敗してしまった。それまでわたしは、スキルチェックに失敗しても、ロードしてやり直すようなことは禁じ手として封印していた。しかし、そのスキルチェックを超えないまま、6日目まで到達してしまい(その時点でクラーシェの部屋に入れない状態だと言えば、クリアした人には困った状況であることが伝わるだろう)、他のタスクも全て消化してしまい、経験値を得ることもできず、再挑戦できなくなってしまった。もしかしたら何かの回避手段があったのかもしれないが(ちなみにダイス職人のタスクも完了済だった)、結局、その状況を打開できず、ゲーム内3日目で残っていたセーブデータからやり直しを決断した。

これはかなり不運なパターンなのだとは思いつつも、結局セーブとロードを繰り返してスキルチェックを超えることができるならば、なぜスキルの割り振りで真剣に悩む必要があるのか?という感覚を強めた。そういう「卑怯な」手を使わずにマジメにプレイしていたのに、こんな不幸な事態を味わうなら、スキルポイントは本気で困った時のために貯めておこうという考えになってしまった。実際、ゲームとして主人公をどうやって成長させるかがゲームシステムのキモになっているのに、ロードしてやり直せば、どんなに低い確率でもスキルチェックを成功させられる。そのような仕様は、スキルポイントの割り振りのやり甲斐を毀損するものではないかと思う。そこになんらゲーム的な工夫やセーフティネットがないというのは、荒削りの魅力があるとは言えるものの、やはりゲーム作品としては単純に品質が低いと感じる。

素晴らしいのだけど……

本作には他の作品には代え難い魅力があると思う。さきほどは、「ピンチョン読んだらいいんじゃない?」というかなり意地悪な言い方をしてしまったが、ピンチョン作品では得られない面白さがあることもよく理解できる。本作のラストの例のアレを見た時に、わたしはポール・トーマス・アンダーソン監督の『マグノリア』を想起した。この映画は様々な人間の生き様を描いた群像劇であるが、『ディスコエリジウム』もまた、過酷な世界でかけがいのない生を生きる群像劇として、とても素晴らしい作品だった。クラーシェが腐っていく死体を見つめ続けていたその瞳の奥にはどんな感情があったのか。犯人の世俗性とその高踏的な思想のジレンマはいかほどであったのか、そのやや差別的な発言から逆に感じる切なさのなんと美しいことか。ハーディは周りのろくでもない連中にどれほどの愛を持っていたか。考えれば考えるほど、彼らの人生を垣間見てしまったこの気持ちには、終わった後も長く尾を引く余韻がある。

ただ、これだけ遊びにくい作品をわざわざ遊ぶ価値がどれほどあるかというと、「選ばれなかった」わたしにはやや荷が重く感じた。しかしその責任は私の「貧乏性」な性格にあるのかもしれない。インタラクトできる対象があるとしらみつぶしに調べたり、選べる選択肢はすべて選択しないと気が済まない、この貧乏性な性格だ。2周目以降、多くの選択肢を無視できるようになると、だいぶ気が楽になった。いずれにしろ1周目は私のその性格が災いして辛かった。*2

つい最近、わたしは『Lacuna』(2021)というアドベンチャーゲームをクリアした。この『Lacuna』は、一人の捜査官が、惑星間をまたがる陰謀に絡んだ要人暗殺事件を追及していくSFハードボイルドの物語である。この作品は『ディスコエリジウム』に比べたら、ずっと淡白な作品かもしれないが、とてもよく練られている物語であるし、脚本も素晴らしく、ゲームとしても圧倒的に遊びやすい。既得権益を持つ勢力と搾取される人々との政治的な対立や、主人公の離婚協議中の妻や疎遠になりがちな娘との会話もとても読み応えがある。全くテイストの違う作品であるが、SFやハードボイルド的設定のみならず、物語のテーマにも少し似たところがある。この『Lacuna』と比べて、総じて『ディスコ エリジウム』をずっと高く評価する、という気持ちにはなれなかった。もちろん『Lacuna』よりも遥かに素晴らしい面が一部あるのは確かである。しかし『ディスコエリジウム』が孤高の傑作とまでは思えないのだ。

わたしが望むのは、本作を製作した開発会社が、次回作ではもっと遊びやすいゲームを制作してくれることである。それはテキストを減らせば良いとか、そういう話ではない。本作の魅力を維持しつつ、より遊びやすさと、セーブ&ロードでは台無しにならない遊び甲斐のある体験を提供してくれる作品になることを望みたい。

最後に絶賛レビューが吹き荒れた海外のレビューの中で、『ユーロゲーマー(Eurogamer)』というメディアの『ディスコエリジウム』に対するレビューの最後の文章を引用して終わりたい。わたしも流石にここまで意地悪くは書けない。

いったん目新しさが薄まると、いかに賢いかをわたしにしつこく証明したがるゲームをプレイしているように感じる。そしてそれは、何にしろ、とても疲れるだけなのだ

---Eurogamer "Disco Elysium review"

Disco Elysium review - large-scale whodunit with a distinct lack of focus | Eurogamer.net

*1:「お前の子どもなわけがないだろう」というツッコミはちょっと面白かった

*2:ただ、これを製作したのがエストニアの人たちだと思うと、ウクライナ戦争が起きている現実世界の中で本作をプレイすることには、独特の感慨がある。

『ゼノブレイド3』は能力主義(メリトクラシー)社会での分断にどんな答えを出したのか?

2022年7月にNintendo Switchで発売された『ゼノブレイド3』。シリーズ三作目であり、海外での評判も悪くない。メタクリティックスでは89点という意外な高得点をマークしている(2022年8月15日現在)。

Xenoblade Chronicles 3 for Switch Reviews - Metacritic

ちなみに初代『ゼノブレイド』(2010)のWii版は92点*1、『ゼノブレイド2』(2017, Switch)は83点である。点数だけ見れば、『3』は名作と言われた初代に近い高評価を受けている。なお『1』と『2』の間に発売された外伝作品の『ゼノブレイド クロス』(2015, Wii U)は84点であるので、メタクリティックスの点数が落ち続けていたシリーズ作品が『ゼノブレイド3』で復活を遂げたとも言えるだろう。

ゼノブレイド3(販売:任天堂 開発:モノリスソフト

実際、シリーズ4作をクリアした私の感触としても、メタクリティックスの点数は極めて妥当だと感じている。全体評価ということで言えば、今作『3』は悪くはなかったが、最終的には『1』を超えることはややできなかったor同じくらいと感じている。本稿では、そうした娯楽ゲーム作品としての評価についてはあまり語らない。本作の物語で扱われるテーマについて主に語りたい。ただ、本題に入る前に、簡潔にゲームとしての評価を註に記しておく。お時間あればそちらを読んでほしい。→*2ゲームとしての短評。

能力がない者の絶望

では、本題に入ろう。本作で1番興味深いと思ったのは、物語が扱っているテーマである。本作では主人公たちに敵対する勢力として、メビウスと呼ばる集団がいる。そのメビウスに、かつての仲間達や友人が「堕ちていく」様が、何度となく描かれる。なぜ彼らは悪役側に「堕ちて」しまうのか。それは記事タイトルにも書いた能力主義メリトクラシー)への絶望によって引き起こされている。つまり「能力が低いから、この世界では認められない。だから、この世界から脱したい」と思う者たちが、悪役に「堕ちて」いるのだ(ただ、すべてのメビウスがそうなわけではない)。この点についてはゲームメディアAUTOMATONの以下のレビューでも取り上げられている。少し長くなるが、一節を引用しよう。

automaton-media.com

作中ではたびたび「自己実現の可能性」において強者と弱者の関係性がフィーチャーされる。強者とは当時代において才能が強みとして認められている人間のこと。弱者とは才能が強みとして認められない時代に生きている人間のことである。主に強者側に主人公らが立ち、弱者側には敵対者が立つことになる。その上で、何が優れているのか、結果として上手くいくのかを決めるのは時の運であると、主人公の口からしっかり言わせたことや、弱者側に自己責任論を展開するでもなく、強者側に歪なノブレス・オブリージュを要求するでもなく、互いに手を取り合って自己実現に向け戦っていくことが重要だという姿勢を、この格差広がる現代で示したのは称賛の一言である

-----AUTOMATON『『ゼノブレイド3』レビュー。集大成にして最高傑作。忘れ得ぬ体験を与えてくれる、モノリスソフト12年の結晶(ネタバレあり)』

もちろん社会に認められない者が悪の手先になるのは珍しい設定ではない。本作で目を引くのは「能力がない」ということの苦しみを前面に押し出している点にある

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つまり、不遇の天才が悪なのではない。能力がないゆえに悪になるのだ。そして何より主人公サイドを「才能がある強者」として描き、そこに傲慢さがないか?という疑問を直接的に表現している。*3

面白いのは、本作において、この能力主義に絶望し、悪に堕ちた者たちを「どのように承認しているか?」という点である。JRPGでは、悪に堕ちた者が反省したら仲間になるという作品も多い。だから、本作『ゼノブレイド3』が、堕ちた者を暴力で成敗しつつ、一方で承認するという流れになっていることは、これまでのJRPG作品と比較しても、特に変わったことをしているわけではないように見える。しかし、その承認の仕方が、本作は少しだけ特徴的なのだ。

結論を先に述べるなら、悪や敵を許すことは「ちょっとおかしい」という自覚を示しつつ、そこで「許す」のではなく「理解する」ことで承認する、という手続きを踏んでいる。更に詳しく見てみよう。

主人公の「過剰ないい奴であること」への疑問

本作の主人公はノアという青年だが、彼は「おくりびと」と呼ばれる仕事をしている。「おくりびと」とは、戦場で死んでしまった兵士の近くで笛を奏でて、その音色で死者の魂を弔い、あの世へと送る仕事である。この行為は「おくり」と呼ばれる。理屈はよく分からないが、兵士の死体は笛の音色によって、綺麗な粒子となって天に登っていく。とりあえず、そういう世界設定である。

で、この主人公のノアだが、自軍の兵士だけでなく、敵軍の兵士の死体も「おくって」やるという人物であり、少し変わり者として描かれている。まあ、これだけ聞くと「ああ、そういう奴ね。いるよね、アニメとかで、そういう"いい奴的"な主人公って……」と思われるかもしれない。なんというか、敵味方の分け隔てがない、博愛的な振る舞いをするキャラである。

この主人公ノアだが、ひょんなことからその戦争で戦っている相手とは異なる敵の存在を知る。その敵集団はメビウスと呼ばれ、自分達が行なっている戦争行為もメビウスという支配層によって仕組まれたものなのだと知る。つまり、ノアは普段の敵とは異なる、より上位の敵を知ることになるわけだ。

面白いのは、普段の戦争相手である敵には「おくり」をする博愛精神を見せるノアが、あるメビウスを「おくる」ことを明確に拒否する場面があることである*4。ノアの幼馴染であるランツが「さっきの儀式さ "あいつら"もおくってた?」と問う。ここでの"あいつら"とはその憎いメビウスを指す。それにノアは答える「さすがに今日は無理だよ」「俺も人間だから」と。

憎い敵を"弔わない"主人公

ここで重要なのは、敵と一口に言っても「許せる敵」と「許せない敵」がいるという区別を設けている点である。これは非常に現代的というか、今風であり、あらゆる悪を相対化して「正義はそれぞれだ」という結論に安易に行かないことを示している。ノアにだって「おくり」をしたくないという気持ちがあり、その「許せない」という気持ちこそが戦いの原動力になっている。このシーンは初代『ゼノブレイド』において、主人公のシュルクが物語中盤で敵の命を奪わない選択をするというシーンと対照的である*5。初代『ゼノブレイド』で、敵への許しを見せる主人公に他の仲間は反発する。しかしシュルクは孤高な存在であることを強調するかのように、敵の命を奪うことを拒否する。これに対して『3』の主人公ノアは、許せないものは許せないという判断をしている。そもそもシュルクは敵の命を救ったが、ノアは敵を殺しており、その点においても異なっている*6。  

こうした『3』の描写はここだけではない。「悪いものは悪いと断じるのは当然だ」という価値観が明確に語られている。例えば、次のようなセリフも同様だろう。以下の画像は、強さをひたすら求める狂犬的な人物(ただし協力者)に対して、ユーニという主人公の仲間がツッコミを入れている。

おかしいものはおかしいと言い切るユーニ

これまでの日本のRPGではこうした狂犬キャラはある種のお約束的で、やや微笑ましい存在にさえ扱われ、その暴力性は矮小化されてきた。しかしこれにマトモなツッコミを入れる本作にはとても真っ当な判断力があることを感じさせる。

また本作だけではなく、JRPGの代表とも言えるテイルズシリーズの最新作『テイルズ・オブ・アライズ』(2021)でも、こうした「悪は悪であり、簡単には相対化されない」という価値観が示されている。詳しくは以下の記事に書いたので、それを参照願いたい。

turqu-videogame.hatenablog.com

こうした最近のJRPGでは、そのジャンルの物語においてこれまでやりがちであった「悪者にも悪者なりの事情があるのだ」という「悪の相対化」に対して距離を取っている(少なくともそのフリをする)。これは『ゼノブレイド3』に限らない、とても現代的な表現の傾向であると考えられる。その傾向の影響を本作も受けていると言えるだろう。

許せない悪と許せる悪の境界を描く

では、『ゼノブレイド3』が悪を断じる物語かと言うとそうではない。最終的にはある意味「悪を承認する物語」となっている。しかし一足飛びにその結論に至るのではなく、段階を踏んでいる。それを象徴するエピソードが第4話のエセルとカムナビの2人の戦いである。

簡単に人物を紹介すると、エセルとは主人公ノアの陣営に属する伝説的なエリート女性兵士である。そして、カムナビは、反対にヒロインであるミアが所属する陣営のエリート男性兵士である。互いの所属は敵対勢力にあたるわけだが、そのエセルとカムナビは、互いを好敵手と捉えており、エセルはかつてカムナビとの勝負に勝った際には、相手(カムナビ)にトドメを刺さず、見逃してやったという過去がある。しかし、むしろその敵の命を奪わなかった行為によってエセルは組織内で降格させられてしまっている。*7

この2人は上位の支配層であるメビウスの命令によって、主人公の命を狙うのだが、逆に主人公の生き様に感化され、自由になることを望む。そして自由を手にした2人が何をしたかと言うと、命をかけて互いに兵士として戦い合うことを選ぶのだ。やや唐突に思われる展開の粗野さは置いておくとして、ここで、2人の戦いに対する主人公たちの評価が興味深い。

殺し合いを望むエセルとカムナビへの主人公たちの戸惑い

エセルとカムナビの2人が互いに殺し合いを望むことに、戸惑いつつ、しかしその信念にはどこか否定できない気持ちを、主人公ノアは抱く。もちろん2人の決断を完全に正しいこととは判断できない。そもそもノアはメビウスたちに反抗し、彼らが自分達に戦争を強いている構造を壊そうとしている。それなのに、エセルとカムナビは、自らの意志で、互いに殺し合うわけで、それはメビウスたちの「戦わせるという思惑」と寄り添いかねない。それはノアたち主人公にとって簡単には受け入れられない価値観だろう。だからと言って、その戦士としての純粋な思いを否定し切ることもノアにはできない。

一見すると、非常に幼稚な展開にも思えるし、実際拙いところもあるエピソードなのだが、これは私たちの祖父や曽祖父たちが戦った聖戦を、基本的には間違っているようには思っているけれど、その純粋な個々人の気持ちには、100%否定しきれない気持ちを抱くことに似ている。だからこそ一周回って「ダメなものはダメ」と言わなくてはいけないのだ、という考えは確かにある。しかしむしろそのことを了承した上で、「それでも……」と躊躇う気持ちは残る。その境界例がこのエピソードで描かれていることが興味深い。このステップを踏むことで、終盤にかけて、更に一歩進み、「許せない悪」をどのように承認するかの話へと本作は展開していく。

「許せない悪」は他者なのか?

さて、境界例を示して、様々なイデオロギーが対立する中で、主人公は最終的には「許せない悪」を部分的に承認する。では、そうした承認行為は、いわゆる「悪の相対化」と何が異なるのだろうか。「悪人にも斟酌すべき可哀想な事情があるのだ」という物語であれば、これまでにも無数にあった。日本のRPGには、『ファイナルファンタジー』シリーズを始め、様々な「悪の相対化」を施してきた物語があった。

では、そうしたこれまでの作品群と異なり、『ゼノブレイド3』の特徴とは何なんだろうか。どのような意味においてこれまでの「悪の相対化」と差別化できているのか、それを見てみたい。

ゼノブレイド3』が、悪人にも斟酌すべき事情があるとしている点は、他のJRPG作品とあまり違いがない。違う点があるとすると、以下の2点である。

  1. 同じ1人の人間である自分が、全く逆の悪の側にもなりうる
  2. 悪人と自分との差は、能力や性質などではなくて、「運」である

まず1点目であるが、これはかなり明確に描かれている。本作において、かなり強いエヌというボスがいるのだが、この人物が実は主人公のノアと同一人物であると判明する。詳しい経緯は省くが、別の世界線でのもう1人の自分が、敵であるメビウスの幹部エヌであったという設定になっている。つまり、自分とは全く同じ人間であっても、場合によっては悪に染まりうる、という事実が示される。つまり悪が、自分とは違う他者的な存在ではないのだと示している。

そして、2点目が非常に重要なのだが、悪の自分と今の自分を隔てるものを「運」であると明言している。つまりここで悪かどうかは能力や先天的な性質の問題だけではないことを示している。

「運」という、ほんの少しの差

以上の2点を踏まえ、非常に面白い展開を終盤で見せる。その悪に染まった主人公の分身エヌは、ラスボスとの戦いが終わった後に、突如として再出現する。そして次のように言うのだ。

(ラスボスの抱く)願いに あなたたちの想いは届かない

だけど 同じ願いである私達ならば---

これは非常に興味深い点で、いわば、悪となった主人公の分身エヌを単に排除すべきものとするのではなく、むしろ「許せない悪(ラスボス)」を封じるために有用な存在として扱っている。そして、一度「堕ち」た存在でないと、完全に堕ちきった悪を説得することはできないし、加えて、一度堕ちてしまったことが単に悪なのではなく、ハッピーエンドに繋がるための必要な過程であったことを示している。

断罪すべき悪とのつながりを示しつつ、その差異は「運でしかない」と見極めることは、単に悪を相対化して「正義って難しいね」と賢ぶる姿勢とは異なる。断ずべき悪はそれはそれとして断罪した上で、その悪との差異を自己責任とは異なる「運」であると捉え、「運」という些細な違いでしかないからこそ、敵を理解できるかもしれない存在として示す。そして何より、メリトクラシー社会において、能力自体の有無もまた「運」の違いであることも示唆している。能力のあるかないかなど、所詮「運」でしかないのだ。

そして、こう考えると「では、運悪く能力のない者は、どうすればいいのか?」という疑問が出てくる。これに対して『ゼノブレイド3』は次のような回答を用意している。「人の能力は戦争に役立つための能力だけではない。いろんな能力を開花できるように、多様な人生を自由に選択できる社会であることが重要なのだ」と語る。つまり、「才能がない」とされた者への救いは、「多様な能力が見出されるべき」という話へと変換されている。これはこれである程度の説得性を持つ結論だろうと思う。*8

ただ、これは「何をしてもダメで、どんな才能も全くない」というような絶望を抱える人にとっては救いにはならないかもしれない。兵士としての能力以外(ゲーム内では、彫刻や絵の才能が例として語られる)を開花できるような社会が素晴らしいという結論自体は、それほど間違っていない結論だろうが、現代社会のメリトクラシーに絶望している者には、中々響きにくく、ややはぐらかされたような印象を抱く人もいるかもしれない。

とはいえ、本作は「悪を承認する」ということを部分的に認める。悪は全くの他者ではなく、巡り合わせによっては自分がそちら側に堕ちているかもしれないものとして「理解」を示すことで、一定の承認を行なっている。もちろん、悪に堕ちた者を「承認すること」は単に良いことなのではない。しかしその敵の「想い」を最低限「理解」することが、ひいては「(自分や他者の)凝り固まった考えや思い」を変えることに繋がるのではないか?

前述のセリフ「あなたたちの想いは届かないかもしれないが、わたしたちの願いは届く」には、そうした思想が根底に流れているように思われる。それは「甘い」考え方かもしれない。しかし、ネットやSNSでの飽くなき論争やイデオロギーの戦いを目にしている私たちにとって、かなりアクチュアルな解決策を示唆していると感じられるのではないだろうか。

最後に

ゼノブレイド3』は、能力主義による分断への抵抗を、個々人の責任と捉えるだけでなく、運によって説明する。そして運でしかないからこそ分断を解消できる可能性を示している。本作のテーマ性の弱さは、そこから社会(構造)を変革するという方向を明確に打ち出せていない点にあるだろう。本作がラストに向けて何回も語る「世界が変わることを望むのではなく、自分が変わらないといけない」というスローガンは一面、正しいだろう。しかしここで描いたテーマを素朴に推し進めるとすると「(自分が変わるよりも)社会や構造を変えることを優先する」というメッセージがより強調されていても、おかしくはない。ただ、そうしたメッセージを声高に語るほどには、制作陣に政治的な信念があるというわけではなかったのだろう。それはそれで中途半端なのかもしれないが、これまでのJRPG作品に比べると、遥かに現代的な問題に切り込もうという意気込みを私は感じた。

また『ゼノブレイド3』には、メリトクラシーだけではなく、ジェンダーや生殖についても語っている。それらは決して面白いレベルにまで洗練された議論がされているわけではないため、本稿では取り上げなかったが、かなり多様な価値観を尊重する姿勢が見られる。ラストシーンは、観客の予想を裏切ると言うだけでなく、そうしたことを示す象徴的なシーンになっている。

『テイルズ・オブ・アライズ』に引き続き、いかにもJRPGと言える、やや幼く、浮世離れしてると思われていたシリーズ作品が、現実社会のシリアスな問題に切り込むほどに、変化してきている。この変化を、私は大変好ましいものであると思っている。何より、「(政治的なテーマについて)後れている」とみなされがちな日本のRPG的物語も着実に変わってきていることを示している。『ゼノブレイド3』をはじめとした具体的な作品の数々は、ネット論争でしばしば見られる「ポリコレ対アンチポリコレ」のような単純なものではないことを示している。時には揶揄されるJRPGというジャンルにおいても、今後の更なる発展と変化に期待したくなる。『ゼノブレイド3』はそうした意味において、未来に繋がる良作であったと思う。

*1:ちなみにSwitchで発売されたリメイク版は89点

*2:ゼノブレイド3』は、子供っぽい脚本に、典型的なアニメっぼい設定や台詞回しに満ちており、加えて、『1』で多くの支持を集めた伏線回収やSF要素が薄めであったため、『3』のどこがとりわけ面白いかと言うとやや難しい。またRPGとしてのキモでもある戦闘パートの参加キャラ数が3人から6人に増えて元々わちゃわちゃしていた戦闘パートがより複雑化した。しかし、システム周りのUIや操作性は、前作より親切・丁寧になったことでちゃんとプレイヤーがその複雑な戦闘をコンロールする快感を感じつつ遊べるようになっており、その点は素晴らしい。ただ、この複雑で「奥深い」とも言われる戦闘システムも、複雑なだけで、各要素がそれぞれ上手く噛み合っているという印象はあまりない。例えば、なぜウロボロスオーダーだけはチェインアタックゲージがなくなっても発動できるのか、別に何の物語上、システム上の脈絡がないように思える。ただそういう仕様だから、そうなのだとしか言いようがない。こういうやや行き当たりばったりなシステムは嫌いではないのだが、見事なメカニクスかというと少し違う気もする。なんというか、個別的で汎用性は効かないが、必要に迫られて覚えざる得ないノウハウ、いわばバッドノウハウの集約みたいなメカニクスであり、どこかチグハグ感が漂う。端的に言って、こういうシステムを「奥が深い」と評価していいのかは、やや迷うところだ。ただ、繰り返すが、私はこのメカニクスが嫌いではないし、美しいメカニクスが、イコール、面白いメカニクスとは限らないだろう。これはこれで確立したシステムでもある。

いずれにしろ楽しくクリアまで80時間を今作も過ごせてしまったわけで、決して駄作ではない。楽しいRPGである。ただ色々システム上は親切になっているものの、ゲームテンポだけはやや古臭く感じ、もう少しキビキビして欲しいとは思った。

*3:ただ、ここにもJRPG的と言うか、このジャンル特有の枷のようなものがあり、やや歪な形ともなっている。というのも、能力の無さゆえに社会に絶望することまでは理解できるが、そういう者たちを悪(メビウス)の支配層が採用して、逆に彼らに社会支配をさせるという点があまり説得的ではないからだ。会社で言えば、無能で経験もないような人間がその恨みのパワーだけでいきなり役員などの要職に抜擢されているようなもので、果たしてそれで支配層(メビウス)の望むように社会を運営できるのか、はなはだ怪しい。これはどうしてもゲームという作品、特に古典的な日本的RPGというジャンルとして、善と悪の二項対立に持っていくために生じてしまった無理のようなものだろうと思われる。しかし、この点について、特に本稿ではツッコミたいとは思っていない。

*4:なお、このシーンより前に、別のメビウスをノアが「おくる」シーンがある(コロニー9の戦い)。この行為に対して、仲間達は軽い抵抗を見せる。そうしたシーンがあった上で、同じメビウスでも「おくる」気持ちになれない場合がある、ということを表現している点に着目したい。ノアは決して機械的に「おくり」をしているわけではないし、普通の怒りの感情を持っていることが改めて表現されている。

*5:大剣の渓谷において、敵のムムカの命をトドメを刺さずに救う場面

*6:ただ、ノアは職業的な兵士であり、エンジニアであるシュルクとはまた違う立場であることが、このような違いを生んでいる点もあるだろう

*7:正確に言うと、エセルの所属するコロニーが格下げとなった

*8:なお、この結論はメリトクラシー社会に警鐘を鳴らすマイケル・サンデル教授との対談で、作家の平野啓一郎が提示しているアイデアと似ていると思われる。参考までに、こちらの対談も見てみてほしい。→東大やハーバードの入試には「くじ」が必要だ。マイケル・サンデル教授が「運の存在」に気づかせようとする理由(対談全文・後編) | ハフポスト PROJECT

『Before We Leave』破産のない都市開発ゲームはどうやってモチベを維持させるか?

2020年にPCでリリースされた『Before we leave(ビフォア ウィーリーブ)』。昨年から、今年にかけてコンソール版も配信されるようになった。そして2022年8月には、海外でSwitch版が発売されるようだ。私はPS5の日本語版をプレイしている。(補記2022/08/02 : どうやら8/2から日本でもスイッチ版の配信が始まった模様)

本作の特徴は、一般的な都市開発ゲームにあるような破産や全滅のような、ゲームオーバー要素がほぼない、という点にあるだろう。いわば、拡大再生産の楽しさだけをずっとやり続けるようなゲームになっている。もちろんそれは良いことばかりというわけでもない。

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ゲームオーバーなしの都市開発ゲーム

家を建てて、畑を作って、施設を作って、技術開発して、また新たな施設を作って、を繰り返す。本作はそれに加え、早い段階から船を作って新大陸に植民したり、果ては別の惑星に移住したりする。いわゆる典型的なシティビルディングの要素がかっちり入りつつ、島→惑星→太陽系と世界がどんどん広がっていく仕組みを持つ。その設定にはかなり明確なSF要素が入っている。

この手の都市開発ゲームは『シムシティ』(1989)を始め、最近ではインディーゲームでも既にたくさんあるわけだが、ここ10年間のメガヒットは『シティーズ : スカイライン(Cities : Skyline)』(2015)だろう。『シティーズ』がなぜあそこまで大ヒットしたのか、1つの要因に絞ることは難しいだろうが、その一つは「ユルさ」にあると思っている。なんとなくプレイしていても都市は拡大していき、中盤の交通渋滞という『シティーズ』のメインの問題が発生するまで、結構長い時間、それほど詰まることなく楽しく遊べてしまう。しかし『シティーズ』ではお金を使い過ぎれば序盤でも行き詰まり、不満を放置すればそれなりのデメリット(人口減、スラム化)をすぐに受ける。しかし『Before we leave』では、都市開発の基盤となる道路建設にコストは一切掛からないし、資金不足による破産というのが一切ない。しかも、住民の不満を放置してもほとんどデメリットがない。特に、お金という概念がなく、全て資源(木材、石、鉄など)によって経済が回っている点が、プレイを楽にしている。『シティーズ』以上にユルくプレイしても、破産を恐れなくて良いため、序盤はかなりのんきにプレイできる。加えて、無駄に建物を建てても解体すれば、使った資源はそのまま戻ってくる(資源の戻る割合はオプション設定で変更できる。デフォルトでは全て戻ってくる)。

他の都市開発ゲームではよくあることだが、序盤は時間進行のスピードを止めるなどして、慎重というか、やや神経質なプレイが求められる。しかし『Before we leave』では、序盤を最速スピードで進めていても特に困らない。住民たちの不満を放置するのが気の毒で、時間進行を止めたりするが、それはもはやプレイヤーの心持ち次第なところがあり、放置したからと言ってゲーム上、明確に不利になるということはあまりない。ただ、不満を溜めると住民は仕事をしなくなるので生産力が低下するというデメリットは発生する。しかし、お金の概念がないため、それで破産につながるということはない。繰り返しになるが、実にのんびりとプレイができるゲームだ。ところで、この六角形のタイルといい、お金がなく全てが資源によってまかなわれるシステムといい、どこかボードゲームの名作『カタン』を思わせる感じがある。

ユルいと虚無感が強くならないか?

しかしここで思うのは、「こんなにユルいと、緊張感もなくて、逆にプレイに虚無感が漂わないか?」ということだろう。確かにその面はある。しかし、研究開発ツリーを伸ばしていき、終盤まで進めていくまでは、なかなか退屈にならないようになっているのが、この作品の見事なところだろう。各施設は作ってみると意外に面白い機能があることが分かり、作れば作るほどやりたいことは増えていく。単に見た目だけの施設などはほぼない。施設のうち9割ほどの種類を建設するまでには、初回プレイなら、約10時間はかかる。結構ボリューム感のあるゲームでもある。

この手の他のゲームだと、序盤を何回かやり直して、経済が軌道に乗るまでのコツを掴んで、初めてゲームのコアな楽しみを味わえる、なんてことはよくある。しかし、何回か序盤をやり直すのは、心理的なコストも高く、「都市開発ゲームやりたいなー」と思っても、また新たにそのゲームの「遊び方」を学ぶのが面倒で挑戦できないと思う人も多いだろう。その点、失敗がなく、ゲームオーバーがあり得ない本作は、中盤まで確実に1回目の初回プレイで到達することができるし、なんなら終盤まで行くことも可能だろう(ただ、初回は必ず「チュートリアル」でプレイした方が良い。何が進行のフラグになっているか、分かりにくい面もあるからだ)。チュートリアルはかなり長いので、嫌になったら止めるといい。しかも施設や建物は、建ててしまっても解体すれば資源は回収できるため、最悪、詰まることもない。何より、序盤の村づくりは1回目のプレイでも何回かすることになる。他の島や惑星に植民するという仕様になっているため、新天地ではイチから小さな村を作ることになるからだ。そして、この村作りは慣れてくるとかなりハイペースで進められる。何もない大地にポコポコと家や畑が立ち並んでいく様はいつ見ても楽しい。

一方で、2回目以降のプレイのモチベーションは、都市景観や効率性の追求というやや地味な目標で遊ぶことになるため、その点、リプレイ性には疑問がある作品ではある街の発展のさせ方には、それほどバリエーションがないからだ。ただ、ゲームの仕組みをある程度理解した上で、サクサク進める楽しさが好きな人であれば、数回は遊べるゲームであると思う。また、本作には「シナリオモード」があり、いわゆる特定の制約条件下で、特定の課題をクリアするタイプのモードが備わっている。こちらは高難度設定されているため、慣れてきたらそちらを楽しむのが、製作者の意図なのだろうと思う(まだ私はシナリオモードは未プレイ)。

では、基本的にヌルい本作が、どのようにプレイヤーにモチベーションを抱かせるかというと、既に書いたが「状況の進行を止める(生産を止める)」という方式にしている。つまり、新しい局面が出てこなくなるから、工夫して都市をどんどん発展する必要に迫られる。新しい局面を見たくてプレイヤーは頑張る、というわけだ。本作にはこの手のゲームに珍しく明確なエンディングがある。その点、都市開発シミュレーションの皮を被っているものの、一つのストーリーを提示する作品でもある。そういう意味では『Frostpunk(フロストパンク)』のようなゲームに近い。ただ、序盤はストーリー性が薄く、普通の都市開発シミュレーションのように見える。この辺りのチグハグ感をどのように評価するか、というのも本作に対する評価の分岐点になるかもしれない。エンディングについては、……これからプレイする人のモチベーションのためにも黙っておくこととしよう。

ローカライズやコンソール版の短所

私はコンソールのPS5版の日本語で遊んでいるが、日本語は概ね内容が理解できるレベルである。ただ、時折、分かりにくい表現もあるし、かなり今ひとつな翻訳になっているところも多い。例えば、"tools"を「道具」と表記したり、「ツール」と表記したり、用語統一されていない点は、やや戸惑うかもしれない。また、チュートリアルログが日本語フォントに合わせていないため、行同士が重なって表示されるなど、あまり丁寧なローカライズや検証がされていない。そうした欠点はあるものの、日本語があるおかげでプレイできるというほどにはテキスト量も多く、助かっている。なおゲーム内に言語設定をするオプションがないため、英語版ではどうなっているのか、確認できていない。本体設定を英語にしたら、英語版でプレイできるのかもしれない。

また、PCでのマウス&キーボードでプレイすることが基本の画面設計となっているため、パッド(ゲーム用コントローラー)でのプレイにはやや不便さを感じる。パッドでのプレイに合わせて、情報を固めて表記したりR1ボタンなどで手早く資源状況を参照できるようにされていたり、多少はコンソール版固有の処置が施されているが、それも限定的である。特に施設が増えてきた時に、スクロールの下の方にある施設を参照するのに時間が掛かるところなどは単純に良くない点だろう。また、ゲーム中盤以降、交易によって物資をいかに上手く輸送させるかが、ゲーム進行のキモになるが、ここの操作性はあまり良くない。交易航路が増えていくと、非常に操作がしづらくなってしまう。これはPC版からして決して優れたUIではなかったという面もあるかもしれない。

あと残念だった点が、島の名前や惑星の名前がリネームできないという点だ。「島1」とか「惑星2」という味気ない名前でプレイするしかない。個人的には島の名前はそのままで良いのだが、惑星の名前だけでも変えたかった。排出する資源や特徴などを名前に付けるのは、ゲームを進める上でも便利だったりするので、対応してほしいところだが、あまり売れてなさそうなので、期待薄かもしれない。なおPC版ではリネーム可能である。

そして、PC版では比較的大型のアップデート(The Wasteland Update)があり、これはコンソール版では配信されないことが公式からも告知されている*1。施設や災害などが増えるアップデートのようだが、コンソール版での対応はまず無さそうだと思われる(他にも"Planet editor Update"というアップデートもあるようだが、そちらもコンソール版には対応しないようだ)。

本作のフレーバーテキストが中盤以降、さまざまに出てくるのだが、バグなのか仕様なのか表示されないことが頻繁にあった。また、日本語訳のテキストが表示枠の中に収まりきらず、読めない部分もあった。前述の通り、こうした点のローカライズ品質の低さはかなり残念だ。ゲームプレイが面白いだけに余計に残念な気持ちになる。

まとめ

以上のような点から、胸を張っておススメできるというほどではないが、それでも都市開発ゲーム特有の「時間を忘れる楽しさ」はちゃんと享受できるゲームだ。特に明確なエンディングがあるところは、モチベーションの維持に悪くない。私は2回目のプレイでクリアしたが、もう少し遊べそうと思っている。総じて悪くないゲームだ。同じようなことの繰り返しになる面はあるものの、やりたいことが次々と生まれてきて、それに時間を奪われていく快感は確実にある。ある島の開発に没頭してしまい、別の島での開発がおざなりになるなんてこともしょっちゅうあるが、多少放置しておいたところで、ほとんどデメリットがない仕様が実にありがたい。そのストレスの無さは、本作の有する圧倒的な長所だろう。時間を止める必要がないので、あるエリアの開発に夢中になっている間に、別エリアで豊富な加工品が大量にできていて、さらにそれで新天地での都市開発をスピーディーに進められる、なんてサイクルも生まれる。もちろんいつの間にか電力不足になっていて、生産が止まっているなんてパターンもあるわけだが、神経質に時間を止めながらプレイする必要があまりないのはやはり本作の長所だろう。

また、ヌルいヌルいと散々言ってきたが、中盤から明らかにこちらにデメリットを与えてくる仕掛けがあり、それを踏まえるとただただヌルいわけではない。ヌルいけれども程よい緊張感を与えてくれる仕掛けになっている。

ゲームオーバーはないものの、野放図な開発をすると収集が付かなくなり、「これなら最初からやり直そう」と思うパターンもある。私の初回プレイは、それが理由で最初からやり直した。もちろんニューゲームで最初からやり直さなくても、施設を解体して、資源を取り戻してから再び再構築していく道もあった。しかしサクサクプレイできる序盤をもう一度遊びたいと思ったというのもある。街のでき始めが一番面白いというのは、都市開発ゲームあるあるだろうし、本作もその点、序盤の街ができ始めるところの楽しさは確実にある。ゲームのテンポが悪くなるのはゲーム後半の、特に中盤戦の終わりから終盤に入ろうとするあたりが、単調さを感じるピークかもしれない。ここを乗り換えると、クリアまではなんとかやりたいと思えるようになるだろう。

【補足】交易がストップしてしまうバグ?

資源の在庫があるのに、うまく資源が輸送されないという事態が、度々発生した。同じような訴えをしている人を海外の掲示板などでも見たので、もしかしたら、バグなのかもしれない。ただ、プレイヤー自身が悪い場合もあるかもしれない。私が確認した例で言うと、「港の保管庫がいっぱいで輸送船から積み下ろせなかった資材Aが一度あると、その後にその資材Aを積み込めるだけの空きができても、資材Aを積み込まなくなり、輸送がストップする」という事象が発生した。

そこで、港に接岸した船を選択し、「すべて降ろす」を選択して船の積荷を一度クリアしてやると、なぜか輸送が再開するようになったことがあった。

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また、明確な理由は分からないが、同様の問題が解消できるいくつかの操作があったので、もし他の同じような悩みを持つプレイヤーの参考になればと思い、以下に記しておきたいと思う。

  • 交易上の輸送船を一時的にその航路から削除して、再び、その輸送船をその航路に登録し直す
  • 上手く輸送されない資源を輸送対象から削除し、1回か2回船を往復させてから、再び、その資源を輸送対象として登録する
  • 輸送先での目標数をデフォルトの20から60くらいまで一時的に上げてみる
  • R1で資源ごとに輸送に割り当てる資源の数値を設定する(島内で使わずに輸送に回せる)
  • やや面倒だが、航路自体を削除してもう一度登録し直す(輸送資源の再設定が必要)

もちろん、上記のことをやれば確実に直るというわけではないと思うが、参考にしてもらえれば嬉しい。