ビデオゲームとイリンクスのほとり

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映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

冒険家エリオットはゼルダの代替品?英語圏ゲームメディアのツイートから考える”無人”翻訳のポジティブな一面

Polygonというゲームメディアがある。日本での知名度はそこまでではないかもしれないが、おそらく英語圏ではそこそこに有名なゲームメディアなのだと思っている。

そのメディアが自らの記事をXで告知するポストをしていた。その時ポストされたテキストが以下のような言葉だった。

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Square Enix's Zelda replacement officially releases in 1 month *1

ちなみに、これをXのGrokで訳すと以下のようになる

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スクウェア・エニックスのゼルダの代わりが正式に1ヶ月後に発売

(太字は引用者)

このツイート。知ってる人は「ああ、スクエニの新作『冒険家エリオットの千年物語』の話だな」とすぐに理解できるだろうが、仮に翻訳されたテキストだけを見たら、少し違和感、というか「そんな言い方するの?」と感じるかもしれない。「ゼルダの代わり?」と。

最初にたまたま私がこのツイート(ポスト)を目にした時は英語だった。そこで、"Zelda replacement"って、そんな言い方するもんなの?と少し疑問に感じた。日本語で「代わり」と言ってしまうと、二番煎じや、少し劣位なもの、という印象を与えかねない。英語が堪能ではないので、どのようなニュアンスなのか自信はないのだが、英語圏ではこのreplacementという単語は、この文脈においては、日本語の「代わり」や「代替品」という直訳と、やや違うニュアンスなのだろうと思った。

ところで、このツイートからリンクが貼られているPolygonの本文記事*2を読むと、実はreplacementという単語は一言も使われていない。つまり、replacementはXのポストのみに出現する単語なのだ。なお、記事本文自体は、かなり『冒険家エリオットの千年物語』に対して、好意的な印象が書かれている(体験版の感想記事である)。

ここから想定されるのは、おそらくある程度の「煽り」と言っては言い過ぎかもしれないが、人のアテンションを集めることを意識して、わざわざreplacementという単語を使ってはいる、しかし、日本語で「ゼルダの代わり」とか「ゼルダの代替品」のような言い方ほどドギツい印象を、おそらく英語の"Zelda replacement"は与えないのだろう、ということだ。もしかしたら、私の解釈は間違っているのかもしれないので、誤りがあればどなたか教えてほしい。

で、仮に「(やや煽り気味だけど)比較的ニュートラルな言い方だ」という私の解釈が適切だったとして、そう考えると機械翻訳には機械翻訳としての一つのポジティブな役割があるかもしれないということを思った。この私の記事が言いたいのは、この点にある。

もし先のPolygonのツイートを日本語に訳す仕事の人がいたら、Grokが訳したように「スクウェア・エニックスのゼルダの代わりが正式に1ヶ月後に発売」とは訳さないだろう。日本語として小慣れていないというだけではなく、やはり「ゼルダの代わり」という言葉を選択しないような気がするのだ(選択する翻訳者もいるかもしれないが)。例えばPolygon記事本文では、"Zelda-like(ゼルダ風)"というとても穏当な言葉が使われており、無難に「スクウェア・エニックスの新作ゼルダ風RPG、あと1ヶ月で発売!」といった感じで訳すような気がする。

どちらが翻訳として良いとか悪いとかという話ではない。読み手が「誰か実在の人間が訳している」と思うと、「ゼルダの代わり」という訳にはよりドキッとして戸惑ってしまうかもしれない。しかし機械が「ゼルダの代わり」と訳していると思うとそこまでドキッとすることもなく、意外に「そういう言い方を英語だとするのかもな」と受け取れるかもしれない。相手が機械だと思った方が、異文化を異文化のままに、そのまま、より素直に受け取れるかもしれない、と思ったのだ。

私たちは、相手が人間ではなく機械だと思うからこそ、そこに「意図を読み込むコスト」を掛けないで済む可能性がある。それは日本というローカル文化を加味しないからこそ、ローカライズした文章を読むよりも直訳の方が異文化というものをありのままに受け止める可能性があるかも、という話でもある。

私たちが機械翻訳から受け取るのは、時に不自然に感じられるからこそ、異文化のザラつく感じをより直感的に理解できるのかもしれない。そういうノイズは、機械翻訳だと思える方が(=誰かの意図ではないと思える方が)素直に受け取れる。こうした機械翻訳の一面は、これまであまり意識しなかったポジティブな側面としてあるのではないか。そんなことをつい考えてしまった。なお、大事なポイントなので補足するが、これは機械翻訳の方が直訳的だ(とかそうではないとか)、そういう話ではない。訳したのが人間なのか?機械なのか?というある種メタ的な認識が他言語理解に及ぼす影響の話である。

通常私たちは、機械翻訳が自然な日本語を提供してくれることを望む。それは情報伝達としての翻訳としては正しいだろう。しかし、むしろ、機械にしかできない「空気を読まない直訳」にも価値があるのかもしれない。それは情報伝達ではなく、異文化理解としての翻訳としての価値だ。多くの誠実な翻訳者はその狭間で悩むものなのだと思うが、それは人間が訳したものだと理解されるからこその悩ましさかもしれない。その悩みから解放された機械たちが無遠慮に文脈を読まない翻訳をすることには、独特の価値があるのかもしれないのだ。そこには、気を使うべき人間が「誰もいない」ことのメリットがある。自動運転のタクシーのメリットに、「運転手に気を遣わなくていい」という点があることは時に語られるが、実は異文化理解としての翻訳においても、こうした「気を遣わなくていい」というメリットが生きる時があるのかもしれない。これは将来的にAIが更に発展して、あまりに広く文脈を考慮する自然な翻訳が可能になってしまうと、せっかくの機械としてのメリットを失うことになるかもしれないということだ。それはむしろもったいないのではないか?と思う。

 

『紅の砂漠』は驚くほど他のゲームで見たような要素ばかりなのに、なぜ新鮮に面白く感じるのか?

2026年3月。『紅の砂漠』というゲームが発売された。リリース当初の評価はあまり良いものではなかったが、信じられないスピードでアップデートを重ねることでゲーム内容が改善され、急激にその評価が上がった。現時点では高評価が大半を占めるようになっている*1。また、ゲームそれ自体の持つ良ポテンシャルが長時間のプレイによって段々と明らかになっているようで、いわゆる「噛めば噛むほど味が出るスルメゲー」という評価もされている*2

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私自身、本稿の執筆時点で50時間ほどプレイしてみたが本当に楽しい。まだまだプレイを続けたいと思わせるゲームだ。少し前に遊んだ『ゴーストオブヨーテイ』というオープンワールドゲームが30時間ほどで飽きてきてしまいプレイが停滞していることを思うと非常に対照的でもある。度重なるアップデートによる改善が、最近の『紅の砂漠』の高評価をもたらしたことは疑いようがないのだが、多くのゲーマー、特にこの手のオープンワールドゲームをこれまで数多くプレイしてきた人には、独特の驚きが『紅の砂漠』にはあるのではないだろうか。

それが「なんでこんなに従来のオープンワールドゲームで見たことがあるような要素が詰め合わされているだけなのに、『紅の砂漠』はこんなに新鮮に楽しめてしまうのか?」という驚きであり、疑問だろう。そう、この『紅の砂漠』は不思議とどの要素もこれまでに他のオープンワールドで体験したものと似ており*3、しかもその「似ている」という印象を覆すような全く新鮮な要素というのは逆にあまり見当たらない。いわゆる中世ファンタジー風オープンワールドゲームとして、極めてオーソドックスな作りに見えるのだ。

本稿では、この疑問に対して、結論から言うと、ある種の「不出来さ」が関与していると主張したい。つまり当初批判された数多くの『紅の砂漠』の持つゲームとしての欠点こそが、このゲームを新鮮に感じさせる独特の要素として働いていると考えている。しかし、その欠点は単に「変わったモノ」「もの珍しいモノ」として働いているのではなく、プレイヤーが感じる新鮮さを生み出す要素としてやや不可欠な機能を持っていると考えている。また、当たり前の話だが、全ての「不出来さ」が良い効果をもたらしているわけでもない。やや乱暴で思い込みで書いている部分も多いが、以下、説明したいと思う。

なぜUBIのゲームは「どれも同じ」と言われるのか?

『紅の砂漠』の話に入る前に、多くの名作オープンワールドゲームを開発しているUbisoftというメーカーのゲームについて、少し説明したい。Ubisoftの有名なオープンワールドゲームというと、1番は『アサシンクリード』シリーズだろう。暗殺者を操作して広大マップを冒険するゲームだが、その売り上げは4年前の2022年の時点で、シリーズ累計2億本とも言われる*4

それ以外にもUbisoftが開発したオープンワールドゲームには『ファークライ』シリーズ*5や『ウォッチドッグス』シリーズ*6などいくつか存在する。どれも世界で1千万本以上は売れているシリーズだ。

しかしここ数年、Ubisoftのオープンワールドゲームは「どのUbisoftゲームも同じだ」というような批判をされることが多かった。実際、以下のようなゲームメディアでの記事がある。こうした記事が出るくらいには広くゲーマーにはUbisoftのゲームはどれも似ていると思われている。

組み合わせ方がうまく噛み合えば、『アサシン クリード オデッセイ』のようなヒット作が生まれる。その一方で、同じことを繰り返すとマンネリ化を招く場合もある。たとえばUbisoftタイトルでは、「タワーを登ってマップ表示域やファストトラベル地点をアンロックする」要素が含まれるケースが続いた。

Ubisoft “どのシリーズも似ている”現象解消のためチーム再編。差別化を図る新体制下には、一度退社した『スプリンターセル』主要メンバーの名も - AUTOMATON

この記事にある通り、同じようなメカニクスによってマンネリ感を感じさせ、それによって「どのUbisoftのゲームも同じだ」という印象を与えることは不思議ではない。

しかし、ことはそんなに単純ではない。先の記事にある「タワーを登ってマップ表示域やファストトラベル地点をアンロックする」要素というのは、2018年の『ファークライ5』という作品では、大きく変更されている。これは従来のファークライ シリーズとの明確な差別化であり、またアサシンクリードシリーズのビューポイント(高所)に登るという仕組みとの差異化とも言える。しかし、この『ファークライ5』の変更によって、Ubisoftのゲームは同じだという印象は果たして変わったのだろうか?一度刻みついた印象は簡単に変わらないとはいえ、先の記事は2020年である。『ファークライ5』の2018年の発売から1年以上経ってもまだ、「UBIのゲームはどれも同じ」という印象は継続している。だからこそ、この記事のタイトル のように「Ubisoft “どのシリーズも似ている”現象解消のため」と書かれてしまう。記事の1年以上前に発売された『ファークライ5』で既にその問題が解消されていると多くのプレイヤーが感じていれば、そうは書かないだろう。実際に『ファークライ5』をプレイした私自身の感想としても同じである。『ファークライ5』のあまりにも変わり映えしない印象によって、「もう次回作は買わなくていいな」と思ってしまった。『ファークライ3』(2012)以降継続して買っていたファークライ シリーズだったが、2021年の『ファークライ6』は購入しなかった。ここで言いたいのは『ファークライ5』が新鮮味のないゲームだったという批判ではない。重要なのは、「何かを変えてもそれによって本当に変わった」とは簡単に判断されないし、それはどういう心の仕組みなのか?ということだ。

【仮説】ギミックと内部構造の二段階による理解

私たちプレイヤーが「どのUbisoftのゲームも同じだ」と語る時、それは、ギミックと内部構造の二段階での理解を前提としているのではないか。これは私の仮説だが、もう少し詳しく説明しよう。

例えば、先の「タワーを登ることでファストトラベル地点として解放する」という仕組みを例に取る。この仕組みの中の「タワーを登る」の部分を「基地を制圧する」に表面的に(ギミックとしては)変更したとしても、内部のより本質的な構造は変わらないと判断されることがある。これが私の「構造理解の二段階仮説」だ。その内部の構造というのは、例えば「ある特定のエリアごとに配置されるファストラベルポイントを順次解放していって、徐々に世界の様子が明らかになっていく仕組み」とでも言えるかもしれない。しかし内部構造が何で、ギミックが何かというその詳細や定義の中身をここで議論したいわけでは無い。むしろここで考えたいのは、マンネリと言われるのは、仮に表面的に変更されたとしても、その内側の構造が似たようなモノだと判断されれば、「同じだ」と判断されてしまうということであり、そういう判断の仕組みそれ自体である。

このことは、『ファークライ5』が発売される前から、ある意味では当然の話でもある。というのも、アサシンクリードもファークライもウォッチドッグスも、シリーズごとに舞台設定は大きく異なっている。アサシンクリードは歴史的な舞台(十字軍時代の中東やルネサンス期のイタリアや産業革命時代のイギリスなど)をテーマとしたゲームであるし、ファークライは時代は現代だが未開の島や国を舞台としたゲームだし、ウォッチドッグスは現代のハッカーたちがネットワークやコンピュータの知識を総動員して大都市で活躍するゲームだ。登場する人も状況も大きく異なる。当然だが、それぞれには異なる固有でオリジナルなメカニクスも備えている。「Ubisoftのゲームはどれも同じ」などとそんなに簡単に言えるわけではない。何よりアサシンクリード という一つのシリーズに限ったとしても、作品ごとに全く異なる仕組みが取り入れられ、多くの挑戦がなされている。『アサシンクリード3』(2012)、『アサシンクリード4』(2013)ではこれまでなかった船を使った移動や海戦のような仕組みが生まれたり、『アサシンクリード  シンジケート』(2015)では機関車という常に移動する乗り物が主人公の拠点になるというこれまで見られなかった要素を備えている。つまり『ファークライ 5』に限らず、これまでもUbisoftはずっと新規要素を取り入れて挑戦してきたにも関わらず、10年以上、「UBIゲームは変わり映えがしない」と言われ続けているのだ。これはつまり実態としての作品の中身の変更とは別に、あくまでプレイヤーの中で「何かが変わらない」と思われていることを示唆している。

私の「構造理解の二段階仮説」というのは、このプレイヤーの理解を整理するための説だ。プレイヤーはある種の要素を表面的で本質的ではない要素として捉える。これを仮に「ギミック」と呼びたい。そしてその内部にある本質的だと思われる要素を「内部構造」と呼ぼう。重要なのは何がギミックで何が内部構造かを最終的に決めるのは作品の持つメカニクスや仕様ではないということだ(ここが私の主張の眼目でもある)。そうではなく、プレイヤーがある意味で勝手に何かをギミックだと思い、何かを内部構造だと思う。この二段階の区分けは作品の中にあるのではなく、プレイヤーの中にある。この仮説を取ることで解明したいのは「なぜUBIのゲームはどれも同じだと言われるのか?」と言う疑問ではない。正直いえば、それは分からないし、私自身の興味からは外れる。私が気になっている謎は、本稿のタイトルにある通り「なぜ従来のオープンワールドゲームと似ているのに、『紅の砂漠』はこんなに新鮮に楽しめてしまうのか?」ということだ。この「構造理解の二段階仮説」はそれを説明するのに都合の良い仮説ではないかと思っている。

『紅の砂漠』はどのように内部構造を隠蔽しているのか?

前節で説明した「構造理解の二段階仮説」を使うと、『紅の砂漠』の新鮮さは次のように言える。

「表面的なギミックは同じであっても、内部構造が違っているように思えれば、そのゲームは従来のゲームとは違って新鮮に感じる」ということだ。つまりUbisoftのゲームを捉える時とは逆に考える。この説明によって、『紅の砂漠』というゲームが従来のゲームと似ているはずなのに、なぜ新鮮に楽しまれているかを理解しやすくなるのではないかと考える。

だからと言って、私は『紅の砂漠』という作品について「内部構造が従来のオープンワールドゲームとは違う」から新鮮に楽しまれているとは思っていない。ここには少しだけトリックがある。それは「内部構造が実際に変わっているかどうかとは関係なく、内部構造が単に隠されているというだけでも、内部構造が同じだという認識は遅延され、新鮮味が生まれる」というトリックだ。私は『紅の砂漠』の魅力は、ギミックから想像される内部構造が焦点を結ばず、長い時間ハッキリとした像(内部構造)を見せないがゆえに、楽しませるものだと思っている。そしてUbisoftのゲームに新鮮味が薄いのは、その変更されたギミックによっても、従来と似た内部構造が短時間で見透かされているからだと考えている。

では、『紅の砂漠』はどのように内部構造を隠蔽しているのだろうか?それが『紅の砂漠』の持つある種の「不出来さ」だろうと考える。例えば『紅の砂漠』には様々なパズルが古代遺跡の宝物を守るものとして存在している。しかしその謎解きは妙に難しい。しかし難しいというよりも単に「説明不足」なのだ。どういうルールで何をすれば良いのかが分からない。取っ掛かりの最初の部分が全く説明されないために難しい。ひとたび理解できればやること自体は他のゲームにもあるようなパズルの難易度とそれほど変わらない。こうした「説明不足」によって、『紅の砂漠』には底の知れない神秘性が備わる。いかにも解かれることを前提としたパズルではなく、またそのガイドも親切に用意されているわけではなく、このゲームを理解するための入り口の時点から従来のゲームとは違うという気持ちにさせる。そういう感覚が内部構造を秘密の暗闇に居続けさせるのだ。

そしてこの「説明不足」というのはいわゆるパズルだけではない。他のオープンワールドゲームであれば、最初に絶対にチュートリアルとしてファストトラベルの説明がある。広いエリアを移動させるオープンワールドゲームでは重要な要素だからだ。しかし『紅の砂漠』では、そのファストトラベルをどのようにしたら発見できるのか、また見つけたとしてどのようにファストトラベルポイントとして解放できるのかほとんど説明されない。しばらくプレイしたサイドクエスト(アルフォンソ家のサイドクエスト)でようやくチュートリアルに近いことが説明されるが、なぜこんなに説明をしないのか、よく分からない。

こうした「説明不足」というのは単に上手くルールを隠蔽しているというわけではない。逆に意図的な隠蔽が明確に設計されているのであれば、おそらくその内部構造もまた理解しやすいものにはなるだろう。しかし「不出来さ」からは普通は意図を読み取ることは難しい。出来の悪いものを意図的に作る人はいないからだ。だからこそ、かえって内部構造は深遠な秘密のように感じられる。そこには辿るべき開発者の意図という道標がないように思えるからだ。(実際に開発者の意図がないかどうかは誤解を恐れずに言えば、関係ない。プレイヤーがそう感じられることが重要だ)

その他にも『紅の砂漠』には、中世ヨーロッパ風の世界設定でありながら、スチームパンクに出てくるようなロボットなどが登場したり、東洋の拳法にある掌底のような技がいきなり序盤に解放されたりする。こうしたある意味で「不統一」で「乱雑」でカオスな世界設定はこのゲームが一体どこに向かうのかを不安にさせつつ(こんなカオスで収束するのかと不安させつつ)、しかし逆にゲームを続けさせるモチベーションとなっているのではないか。それは従来のゲームを多くプレイしていて、ゲームの文法を分かっていると思う人ほど、ハマる罠なのかもしれない。これまでの文法では理解できない新世界のゲームとして、『紅の砂漠』は見えるところがある。そして、一方でUbisoftのゲームはよく出来ていて品質が安定しているからこそ、その内部構造を含めて見通しが良すぎるのかも知れない。

こうした一見すると「意味不明」とも「説明不足」とも取れるような「不出来さ」こそが、『紅の砂漠』という作品の内奥の秘密を隠蔽することに大きな貢献をしていると私は考える。基本的に「不出来さ」とは不条理である。そうあるべきものがそうではないがゆえによく分からないというかなりアクロバティックな手法によって『紅の砂漠』はその秘密を維持している。各種要素を冷静に抽象化していけば、『紅の砂漠』もおそらく既存のゲームでよくある要素に分類整理して、果てはその全体像(内部構造)もまた明らかにすることは(プレイヤーにとっても)可能になるだろう。しかし、プレイすればするほど、ほとんど場当たり的とも言える要素が頻繁に提出され、私たちゲーマーは、その内部構造を予測し難い秘密として捉え、かなりの長時間、内部構造に対する認識を遅延させられ続ける。それこそが本作の大きな魅力となっているのではないだろうか。

おそらく『紅の砂漠』の持つ課題は次回作以降に明確に露わとなるだろう。なぜなら本作をクリアしてある程度の内部構造が理解されてしまった後では、その魅力的な秘密はもはや新しいギミックを追加することによって再び秘密としての魅力を回復することは難しいと想像されるからだ。それは決して『紅の砂漠』の話だけではない。かつて多くのゲーマーを熱中させたアサシンクリードやファークライというシリーズがどれだけ手を変え品を変え、様々な新規要素を盛り込んでも「Ubisoftのゲームはどれも同じだ」という批判に晒されたことと同じ事態が繰り返されているだけだとも言える。

不条理という劇薬を今後どう扱うのか。全く根拠のない期待ではあるが、『紅の砂漠』を作ったパールアビスという会社には、その不条理を再び乗りこなしてくれるのではないかという期待を、私は不思議と抱いてしまう。親切で丁寧にプレイヤーをガイドするのではなく、プレイヤーが自らゲームの魅力を発見していく力があることをこの会社は信頼してくれているようにも思えるからだ。しかし同時にそれはクソゲーを生み出しかねない危険さとも背中合わせであるようにも思える。しかし単に行儀のいいAAAの大作ゲームには見られない魅惑の作品をまた作るのではないか、とそんな期待をしたいくらいには、『紅の砂漠』はその危険な不条理という毒を見事に扱い切っているように私には感じられた。

*1:『紅の砂漠』Steamレビューが"非常に好評"に到達―全言語にて。"賛否両論"のリリース直後から大幅に持ち直す | Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト

*2:『紅の砂漠』100時間プレイしてもまだまだ続く新発見。慣れるまではスルメゲー。やみつきになった瞬間、神ゲーに! 気になる点があっても即修正する開発力に期待【オープンワールドの新時代!】 | ゲーム・エンタメ最新情報のファミ通.com

*3:特に似ているとされているのは2018年の『レッドデッドリデンプション2』だろう。またそれ以外にも2017年の『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』からインスピレーションを受けている面も大きいだろう。

*4:https://www.reddit.com/r/assassinscreed/s/yo7BZeZDAC

*5:以下のデータは2013年のデータとやや古いが、この時点でファークライ シリーズは2千万本を売り上げているFacts & Figures | About Ubisoft | Ubisoft Group

*6:以下はvgchartなのでやや怪しいが、Video Game Charts, Game Sales, Top Sellers, Game Data - VGChartz

傑作登山ゲーム『Cairn(ケルン)』のエンディングと5%の狂気

2026年1月にThe Game Bakersというフランスのゲーム開発会社から『Cairn(以下、ケルン)』というゲームが正式リリースされた(体験版は2024年の12月に配信されていた)。本作は登山をテーマにしたゲームである。

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登山ゲームと言うと、私には思い出深いゲームが一つある。1998年に初代PlayStationでリリースされた『蒼天の白き神の座』というゲームだ(座は「くら」と読む)。私はこのゲームが大好きで、特にエンディングを初めて迎えた時にはとても感動したことを覚えている。『蒼天の白き神の座』は登山隊の隊長として隊員たちを統率しながら、未踏の山を登頂するシミュレーションゲームである。アクション的な要素はなく、ルート選択や道具を使うタイミングを考え、雪崩や凍傷など様々なアクシデントから隊員たちの被害を最小限にしつつ、なんとか山頂を目指すゲームだった。しかし『ケルン』は1人の登山家アーヴァを直接操作するアクション要素の強い作品である。ただ、そのアクションというのもいわゆるマリオのようなアクションとはかなり異なり、レバーを倒せばキャラがその方向に簡単に移動するわけではない。左右の手でどの岩を掴むのか、足をどの位置に置くと体勢が安定するのか、文字通り一挙手一投足を慎重に判断しながら、それこそカタツムリのようにジリジリと進めていく一風変わったアクションゲームだ。全く異なるタイプのゲームではありながら,私は『ケルン』のネットでの紹介記事を初めて読んだ時に『蒼天の白き神の座』を思い出した。というのも『ケルン』で踏破する未踏の山の名前がマウント「カミ」だったからだ。「また神の山に登れるのか……」と思わず『蒼天の白き神の座』というタイトルを思い起こしてしまった。

そんなわけで大変に楽しみにしていた『ケルン』だが、クリアまでゲームを終えた今、私にとって大切な登山ゲームがまた一つ増えたと思った。『ケルン』は傑作ゲームだった。私が本作を傑作だと思う理由は色々あるが、エンディングが素晴らしかったというのが理由としては大きい。しかし本作の登頂時のエンディングというのは、プレイヤーを戸惑わせる変わったエンディングでもある。本稿では、その戸惑いも踏まえつつ、なぜ本作のエンディングを素晴らしいと思ったのか、それを書いてみたい。

アーヴァの叫び声

『ケルン』の主人公アーヴァが目指すのは「カミ」と呼ばれる世界一の標高の山である。「カミ」には足だけで登っていけるような緩やかな勾配の場所は少ない。その行程のほとんどを垂直に切り立った崖をロッククライミングの要領で全身でへばりつくようにして登っていくしかない。掴みどころが悪ければ、すぐに滑落してしまうし、場所が悪ければあっけなく死んでしまう。プレイ当初に私がすごく印象的に感じたのは、滑落した時のアーヴァの叫び声である。彼女はものすごい不機嫌で激しく罵るように咆哮する。最初に聴いた時には少し驚いた。落下によって体を打ちつけた痛みによって叫ぶのではない。それであれば、他のゲームでもよくある叫び声だ。そうではなく、明らかにイラつき、何かに怒っているような叫びなのだ。その怒りの対象は滑落した自分自身に向けられたものかもしれないが、あまりにその怒りが激しいことに驚いた。しかし、この叫び声と私が本作のエンディングが素晴らしいと感じたことは強く関連している。

f:id:tuquoi:20260305214528j:imageアーヴァは怒りを糧に登頂を目指す

本作に対する感想をネットで検索していると、「アーヴァというキャラクターに感情移入できない」とか「アーヴァというキャラが好きになれない」という意見を時々目にする。この気持ちは私にも少し理解できる。

本作では登山をする時にクライムボットというロボットに支援をしてもらいながら登る。このやや近未来的で、かなり優秀な自律型ロボットはゴミからチョーク*1を作り出したり、ピトンと呼ばれる登山用の杭を修理したり、クライマーの体勢を支える役割*2を担っている。

f:id:tuquoi:20260305214739j:image登山用自律型ロボットのクライムボット

そうした登山用の機能に加えて、このクライムボットには、ふもとや故郷にいる家族や友人との通信機能が備わっている。時折、彼らからのボイスメールがクライムボットを通じて届く。友人らは過酷なアーヴァの挑戦に対して励ましの声を伝えてきたりもするのだが、そんな応援のメッセージばかりではない。例えばクリスというアーヴァのエージェントは、スポンサーの機嫌をいかに取るべきかというとても俗っぽい話をしてくる。また、アーヴァの(おそらく)恋人と思われるナオミという女性は明確にアーヴァの登山にかける情熱を「理解できない」と語る。当然そこには「そんな危険な登山はやめて欲しい」という願いが色濃く滲んでいる。ナオミの気持ちは多くのプレイヤーにも理解しやすいものだろう。しかし、アーヴァはそんなメッセージを翳りのある表情で聞きながらもほとんど黙殺する。しかしある中盤の難所において、溜まっていたものが爆発するように、ナオミのメッセージに対してアーヴァは激しい怒りを見せる。命懸けで崖を登っている時に、ナオミからメッセージが届く。ナオミは「なぜ馬鹿みたいな岩を登るの?」と問い、家族であるペットの猫が病院で死に、それをナオミはたった一人で見送ったという話をする。家族やナオミを全く省みない態度を責めるようなそのメッセージにアーヴァは怒り、そしてクライムボットの通信アンテナをへし折ってしまう。

f:id:tuquoi:20260307131039j:image通信アンテナをへし折るアーヴァ

このカットシーンを見たプレイヤーの中には、やや「引いて」しまった人もいるかもしれない。ナオミのささやかな幸せを望む気持ちに共感する人も多いだろう。アーヴァをとても傲慢な人間だと思う人もいるだろうし、実際アーヴァは傲慢でもあるのだろう。

ただ、こうした場面を見ていると、アーヴァが滑落した時に罵るように叫ぶのは、単に自分の不甲斐なさだけが理由ではないと思えてしまう。彼女は常に無理解の壁に囲まれている。なぜ危険を冒してまで山に登るのか。この理由が、アーヴァ自身にもハッキリとしていない。終盤には「なぜ山に登るのか私にも分からない……」とアーヴァが悩むシーンもある。つまり彼女は理解されないということに悩みつつ、自分自身もまた自分の欲望を理解できないことを知っている。自分でもよく分からない欲望を、他人が理解するのは難しい。アーヴァは他人からは理解してもらえないことを先取りして理解している。だからこそ彼女は叫ぶのではないか。それは届かないということが痛いほどに分かっていることから来る叫びだ。滑落による自由落下で重力から一瞬解放され、落下した自分の体を起こそうとする時に思わずそんな声が漏れ出てしまうのだとしたら、私はその叫び出したい気持ちが少しだけ理解できるような気がするのだ。

狂気は5%くらい理解できる

叫び声だけではない。私を含め多くのプレイヤーは、アーヴァの気持ちが不思議と少しだけ分かるのではないだろうか。それは他者から理解されないという苦しみが分かるというだけではない。他人からは理解されないような執着や欲望が、多かれ少なかれ、私を含め誰にでもあるからではないか。仕事でもアイドルでもゲームでも恋人でも、何を思い浮かべてもいいだろう。そういう欲望を、はたして能動的に私が求めているのか、はたまた、全く受動的に何かによって求めさせられているのか。自分の欲望なのに、それが分からない。その「欲望の根本の分からなさ」が、むしろ他者の狂気をわずかに分かる気持ちにさせる。完全に100%理解できるわけではない。しかし、ほんの5%ぐらい、他人の狂気を私たちはその「分からなさ」を通して理解できてしまう。しかし、この「5%ぐらい理解できてしまう」ということはかえって厄介でもある。なぜなら全く理解できなければ、それは理解できない別世界のものとして、シャットアウトすることができるからだ。しかし5%ぐらい理解できるからこそ、人はどうしても何かを伝えたいと思ってしまうし、伝えられるかもしれないと期待してしまう。しかし他人の狂気について、5%を超えて大きく理解が前進することはないし、その理解を0%にして無視することもできない。理解と無理解の狭間で宙ぶらりんになり、そのことが苦しみをもたらす。

私が本作『ケルン』のエンディングが素晴らしいと思ったのは、この理解と無理解の宙ぶらりんの状態を美しく描くことに強い覚悟を決めていると思えたからだ。

戸惑うほどに幻想的なエンディング

私は『ケルン』というゲームが、登頂後に、どう物語を終わらせるかに、クリア前の時点で非常に興味があった。登頂時のエンディングをどう描くかは想像するだに難しい。アーヴァは頂上で何を思うのか。下界に居るナオミと和解するのか。はたまた何か人生について悟るようなものがあるのか。マウント「カミ」の頂上を目指す旅があまりに過酷であるので、登頂にはそれに見合う価値をプレイヤーとしてはついつい求めてしまう。しかし一方で、そんな分かりやすい価値が手に入るわけでもないだろうと冷静に思ったりもする。なぜならそれは過酷な挑戦でありながら、単に「高い山に登った」ということでしかないからだ。頂上に到達することで分かりやすい価値が得られました、という物語はむしろ嘘くさいとさえ思える。

であるからこそ、エンディングをどう描くかは難しい。

先ほど、私はアーヴァの狂気の欲望を、理解と無理解の宙ぶらりんとなったものだと書いた。私たちは宙ぶらりんのものを見ると、それをどこかに落ち着け、理解という地面に着地させたくなってしまう。しかし『ケルン』のエンディングはそうではない。この宙ぶらりんを完全に引き受けると覚悟したエンディングを描いたのだ。

『ケルン』の登頂エンドは以下の動画で見れる。

- YouTube

このエンディングを最初に見た時には多くのプレイヤーが驚いたのではないだろうか。人によっては、そのあまりに幻想的な表現に戸惑いを覚えたりもしただろう。その非現実的な描き方を好きじゃないと思う人がいても不思議ではない。

エンディングの場面では、アーヴァは頂上で叫び、それから眼下に広がる景色を眺めた後に、おもむろになんと次は星を登り始める。文字にすると何を言っているのか分からないだろうが、まさに文字通り星を手で掴み、星に足をかけ、そして空を登っていく。いつしか登り続けるアーヴァは流星になって、凄いスピードで夜空を駆け上っていく。多くのプレイヤーを置いてけぼりにする破格に幻想的なエンディングである。プレイヤーはそれまで自由の効かない手足や岩のでっぱりや寒さや空腹や渇きという、極めて現実的な物理現象に苦しめられてきた。しかし、エンディングで、いきなり流星になるアーヴァという幻想的な表現をぶつけられるわけで、戸惑うことは当然だと言える。私も戸惑った。しかし、このエンディングのポイントは、何を描いたか?ということではなく、むしろ何を描かなかったのか?ということではないかと私は考える。

アーヴァの下山はなぜ描かれないのか?

登頂エンドが描かなかったこととは何か。ここではそれを2つ示したい。

まず1つ目はクライムボットに対するアーヴァの感情だ。頂上に到達する直前で、これまで苦労を共にしてきたクライムボットが故障してしまうというイベントが発生する。もはや役に立たなくなったクライムボットを捨てるか、故障したロボットを運びながら頂上を目指すか、という二択の選択肢が現れる。そこで私はクライムボットを連れていくことに決めた。ロボットとはいえ、情のようなものを感じたからだ。この選択は登頂後のムービーにも反映されて、頂上にはクライムボットと共にいることが描かれる。しかしそこにクライムボットはいるはいるのだが、エンディングにおいてそのクライムボットはほとんど何の役割も果たさない。一言アーヴァがクライムボットに声をかけたりするかな?と私は思ったが、それさえしない。そしてアーヴァは1人、星の瞬く夜空を駆け上っていってしまう。エンディングでは、クライムボットとの心の交流はほぼ描かれない。

2つ目は、アーヴァの下山である。もちろん登頂エンドとは別に下山エンドがあることは把握している。ここでは登頂エンドにおいて下山が描かれない点について考えたい。

ゲーム後半に差し掛かるところで、山で火を焚いて登山家の状況を、周囲の山脈に住む人たちに伝えるというイベントが描かれる。「カミの頂上を目指しているなら、これこれの合図の火の目印を出す」というテキストがあるのだが、それとは別に「カミの登頂後の下山では、これこれの火の合図を出す」というテキストも併せて書かれている。これを見た時、私は登頂後には下山パートがあるのかな?と想像した。その下山の時に、このもう一つの合図を出すのだろうと想像したのだ。しかし下山パートはなく、エンディングでは全く下山するような様子は描かれない。

クライムボットとの交流や下山が描かれないとはどういうことか。そこにこそまさにこのエンディングの描きたいことがあるように思える。エンディングが描きたかったこと。それは「アーヴァは登り続ける」ということだ。それだけがアーヴァにとって重要なことであり、欲望なのだ。その欲望はどこからやって来るかという問いとは無関係にただ事実として存在している。アーヴァ自身が望んでいるのか、妄想的な思い込みなのか、DNAに刻まれた本能なのか、それは分からない。流星になるアーヴァは、まさに流星が光り輝きながら落下していくことが物理法則に従った、ただありのままの存在であることと相似形でもある。光りたいから光るのではなく、落ちたいから落ちるのでもない。ただ光り、落ちる。しかし流星とは違いアーヴァは登山家である。だからこそ流星とは全く別のベクトルの天に向かって登るように、しかしその様子は落ち続けていくように自然でもあるのだ。

登頂時のエンディングは、アーヴァが実は死んでいて魂だけがカミの頂上に到達したのだ、とか、アーヴァは頂上で文字通り天に召され死んだのだ、という解釈もあるようだ。そうした解釈を聞きなるほどと思った。確かにそうした解釈も可能だ。実際、そのように製作者が考えている可能性も多分にある。

しかし私は、あのエンディングが現実的な登頂後のアーヴァの気持ちや状況を描いたものだと理解している。アーヴァは今も現実的に登り続けているのではないか?と思うのだ。

『下山の哲学 ---登るために下る』という本がある。 竹内 洋岳(たけうち ひろたか)という登山家が書いた本だ。竹内は日本人で初めて、8000メートル級の峰を14座、全て登りきった登山家である。彼はその本で次のようなことを書いている。

山の頂上とは一点しかなく、その先には空しかない行き止まりですが、そこから下っていく先は、どこに向かうのか、どこまで行くのかを、自由に選び、おもいえがくことができます。

---『下山の哲学  登るために下る』P253

私たち常人であれば、「下山」とは生きるための行為であり、「下山」という言葉からは、下界や故郷にいる家族や友人たちと過ごす時間を想起する。引用した言葉はとても穏やかな口調であるが、よくよく考えてみると、恐ろしいことを言っている。タイトルにもある通り、次の山に登るために降りるというのは尋常ではない。しかもその目指す頂上は単なる"一点"であり通過点でしかないなどと言ってしまうのだ。なんでそんな通過点のために命を賭けるのかと私などは思ってしまう。しかし、この「登るために降りる」という境地は、まさに「登り続ける」というアーヴァの狂気の世界ととても似ているのではないだろうか。

そして、先に書いた通り、この一見すると常人の理解を阻むような狂気の世界を、不思議なことに私たちは5%くらい理解できてしまう。ただ厄介なことに、この「理解したい、理解されたい」という気持ちは、ロボットと情を交わしたり、下界で家族や友人たちと幸せな時間を過ごすアーヴァという表現と相性がいい。カミを登頂した後に、ナオミと仲直りするエピソードがあったら、僕たちは単純に満足してしまうかもしれない。しかし世界はそんなに都合良くできてはいない。アーヴァは登り続けるし、ナオミとは仲違いしてるかもしれないし、故障したクライムボットのことなんて次の登山の時には完全に忘れているかもしれない。アーヴァにとって大切なのは登り続けることだからだ。そう、『ケルン』の山頂で迎えるエンディングは安易な理解に安住しない表現であるからこそ、アーヴァの狂気を私たちは「狂気のままに」むしろ理解できる。その逆説はかえって現実的である。アーヴァはおそらく慎重にカミを下山しただろう。次の山に登るために。そして気に食わないスポンサーとも会ったりしただろう。次の山に登るために。ナオミとも理解しあえず文句を言われ続けているだろう。次の山に登るために。アーヴァは下山後に早速新しいクライムボットを購入し、相変わらず酷使しているだろう。次の山に登るために。

こう考えると登頂エンドとはまた別の下山エンドも違った見え方がするのではないだろうか。あの下山エンドは単なる妥協の産物ではなく、また一つの現実的な覚悟の現れのように私には思えた。

本作の登頂エンディングは私たちにも宿る5%の狂気に触れる力がある。安易に理解をむさぼろうとしない覚悟の表現であるからこそ、理解に頭が追いつく前に心が震えてしまった。そんなプレイヤーはきっと私だけではないはずだ。

*1:チョークは手を滑りにくくするために付ける粉。ゲーム内では、使用するとグリップ力が上がるので滑りやすい崖を登る時に重宝する。

*2:現実世界だとビレイヤーと呼ばれる