ビデオゲームとイリンクスのほとり

ビデオゲームを中心としたレビュー・コラム記事です。 映画の感想は『映画と映像とテキストと』というブログに書いてます。https://turque-moviereview.hatenablog.com/ Twitter ID: @turqu_boardgame

映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

『スノーランナー』が示唆する「男らしさ」表現の未来

2020年9月に日本語版がPS4で発売された『スノーランナー(SnowRunner)』。どういうゲームか一言で表現するならば「荷物を運ぶトラックシミュレーター」だ。荷物を運ぶために走る道路は、日常で見るような舗装された道路とは限らない。獣道のようなわずかに車輌の轍が見える道だったり、泥で車輪を取られるような道だったり、はたまた水没している道もある。そうした悪路をいかに工夫して踏破するか?ということがメインの課題となる。

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本作はめちゃくちゃ面白い。メタクリティックスでは81点*1だが、この作品の魅力に囚われると、かなり心を鷲掴みにされてしまう極端な魅力を持っている。気持ち的には90点以上を付けたくなってしまう。序盤にチュートリアルがあるものの、その後のガイドがそれほど洗練されているわけではないので、手放しで褒められる品質というわけではないが、それでも傑作と言いたくなるゲームだ。

 

本作では人間はたった1人しか登場しない。プレイヤーが操るドライバーが唯一の人間である。このアバターは車の外に出てくることがない。車の外から僅かに覗き見る限り、おそらく白人男性のキャラクター造形をしている。そしてそのアバターは一切変更することも衣装を変えることさえできない。ゲームの主眼が人間にないので、この仕様でも納得だが、とても割り切った作りをしている。

 

ゲームの中とは言え、トラックを運転していると自分に特別な力が宿ったような気がしてくる。何者にも負けない強靭さ。荒ぶるエンジン音は気持ち奮い立たせ、その物理的な強さには有無を言わせない魅力がある。ハンドルを操作して車輪にそれが伝わるまでにタイムラグがあることも、いちいちハンドブレーキを外さないと発進できない煩わしさも、どこか「男らしさ」を感じさせる。泥道で車輪を高速回転させて、泥を巻き上げながら1m、2mと僅かずつ進んでいると、なんとも言えない快感がこみ上げてくる。自分を苦しめながら、でも負けない、負けないぞ、とアクセルを踏みしめる。マゾヒスティックな快感に、不思議な充足感を味わう。

 

トラックの進みは遅い。『GTA』なら10秒で到達する距離を30分掛けて進む。遅さこそが「男」である。コマネズミのようにちょこまかと動くのでない、堂々たるその姿。ほとんどアナクロニズムとしか言えないような、そんな「男らしさ」への物怖じしない傾倒の姿勢が実に面白い。いや、しかし、普段から自分はそんな「男らしさ」みたいなものが好きだったろうか。いや、オタクとしてむしろそういう価値観には反発心すら感じていたのではないか。しかし、そんなわたしさえ「男らしさ」の快感に目覚めてしまう。それを目覚めさせる力が『スノーランナー』にはある。

 

物を運ぶゲームとしては、最近リリースされた『デス・ストランディング』が思い浮かぶ。あれもまた白人男性が主人公の物語だった。しかし物語のウェイトが大きく、『スノーランナー』とは似ても似つかないところがある。なにより『デススト』は「男であることへの躊躇」のようなものがある。接触恐怖症だし、父親としても夫としても、その立場を失っている。アメリカを再び統一するというとても勇ましい目標が掲げながら、そのゴールには姉とも妻とも母ともつかない、曖昧模糊とした「母性的な何か」が据えられている。ノーマルな男女の物語は既に語ることはできないという時代的な確信が『デススト』にはある。そういう「ノーマルさ」にためらいを感じている『デススト』であっても、結局のところ最後は「赤ん坊の獲得」というような分かりやすいゴールに帰着する物語を描いていた。しかし『スノーランナー』は違う。そこには実態としての男も女も存在しない。ただ概念的な「男らしさ」に極端にこだわることで、逆説的にあらゆる性別的なモノを全て排除した、見方によっては『デススト』よりも遥かにラディカルな世界が描かれている。『スノーランナー』の世界には人っ子ひとり出てこない、どこかディストピアめいた世界だが、そこにフィクション的な意味合いは全くない。世界や環境は、ただ、プレイヤーが乗り越えるべき壁として存在している。力の権化たる巨大なトラックと荒廃した道路には、社会へのメッセージはおろか、なんらかの人間的な主張もない。『デススト』が「配達依存症」という言葉を使うことで白けてしまったような、そういう間抜けさが、『スノーランナー』にはない。ただ、登山のようなストイックさがある。

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スノーランナー』には物語と言えるものがほとんどない。ミッションに見られる僅かなテキストからも、物語は見えてこない。もし仮にこの「男らしさ」がテキストや物語として表現されることがあったとしたら、果たしてそれは実にベタで凡庸な現代的価値観への逆張りのように写ったかもしれない。しかし『スノーランナー』は言葉で語らない。ただ、トラックのスピードとトルクとパワーによって「何か」を表現する。物理的な力強さへの遠慮のない賛辞。もしそれを物語として表現してしまったら、どんなに「男らしさ」が好きな人間でさえ、この現代社会では今や鼻白んでしまうようなアナクロさだろう。それがただゲームのメカニクスとして描くことで、実に清廉で純粋で掛け替えの無い美しさのように見えてくる。「ただ、おれはこの重い荷物を運ぶために、そのためだけに大量のガソリンを消費して、地球環境を悪くするような排気ガスを撒き散らしている。ただ荷物を運ぶために、トラックを動かしている」。この絶妙に「政治的に正しくなさ」が、絶妙に「政治的に正しく」表現されるのは、これがゲームだからだろう。ゲームメカニクス*2で表現するという文体を持つ事で、物語やテキストが持つ「臭み」が良い具合に取り除かれている。

 

ゲームだから描けるロマンがこういう形で結実している点において、『スノーランナー』はゲーム特有の表現力を示す稀有な傑作であると思う。

 

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↑ロード画面に表示される「トラック関連マメ知識」。女性の存在を全く意識しないかというとそうでもなく、こういうテキストが現れるのは「時代だな」と感じられ、面白い。翻訳はちょっと変な気もするが……

 

 

*1:メタクリティックスは2020.09.24時点のもの。ちなみにPC版もコンソール版も全て同じ点数である。

*2:より正確に言えば、ゲームメカニクスだけで「男らしさ」が表現されているわけではない。トラックの大きさを感じさせるビジュアルやエンジン音などもそれを表現する重要な要素となっている。またゲームメカニクスと言っても、ゲームルールに近いような意味ではなく、もっとふんわりとゲームプレイに近いような意味でこの記事では使っている。

『トニーホーク プロスケーター 1+2 』で初心者が10万点を取るためのガイド

2020年9月に発売された『トニー・ホーク プロ・スケーター 1+2 (Tony hawk's Pro Skater 1+2 )』。私はPS2で発売された『3』以来のプレイで、ほとんど操作を忘れていたため、最初、よく分からずに苦労した。同じような悩みを抱えている購入者もいると思うので、そういう人がSchool(レベル2)で10万点を取るレベルにまで上達するための初心者ガイドを書きたいと思う。私自身は決してプレイが上手いわけではない。しかしそんな不器用な人にも、どういう準備をして、どういう努力をすれば10万点を取ることができるのか、その道筋を示せたら良いなと思う。なお操作は全てPS4準拠で示している。また、本記事の最後に本作の簡単なレビューを書いている。

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上手すぎる動画は参考にならない

何をしたら上手くなるのか、そのヒントを得たくてYouTubeでプレイ動画を探す人も多いだろう。しかしコンボを大量に繋げて高得点を叩き出すような動画は上手過ぎて参考にならない。初心者は何をしているのかさえ理解できなかったりする。だからと言って絶望する必要はない。ネット動画で参考にすべきは高得点を出す動画ではなく、チャレンジ目標や収集物を集めるための動画である。" S - K - A - T - E "や消火栓(Warehouseレベル)などをどのように集めたら良いのかは動画を参考にすると良い。もちろん自力で集めても良いが、探索がそこまで楽しいゲームではないし、2分間という制限の中で探すのもストレスが溜まる。YouTubeで "tony hawk goals  (レベル名: mallやschoolなど)" で検索すれば、チャレンジ目標達成のための動画はいくらでも見つかる。さっさと動画を見て、まずは集めてしまうのが良いだろう。収集物をはじめとしたチャレンジ目標は実はチュートリアルの側面もある。チャレンジ目標を達成することで、基本的な操作を覚えることができるので、まずは高得点を挙げる前に一通りプロスコアとシックスコア以外の目標達成をオススメしたい。

 

「マニュアル」を覚えろ

本作は日本語吹替えの比較的丁寧なチュートリアルが備わっている。しかしこのチュートリアルで説明が不親切なものの一つに「マニュアル」という技がある。私はガチャガチャやっているうちにチュートリアルをクリアしてしまったため、最初、「マニュアル」がどのように出す技なのか正確に理解できていなかった。「マニュアル」は、スティックを上から下に素早く弾くことで出すことができる。逆に下から上へと弾くことで「ノーズマニュアル」という技を出せる。普通に滑っている時にも出せるのだが、着地した瞬間に合わせて出すことで、コンボをつなげることができるため、高いスコアを出すためには必須の技だ。「マニュアル」中にも左右への移動ができ、次にグラインドしやすい場所にマニュアルで動いて、コンボを繋げるのは高得点のための基本的な動きとなる。

 

ステータスポイントを上げろ

YouTubeなどでプレイ動画を見ていると、自分がプレイするよりも高くジャンプできているように見えることがあると思う。その要因の一つがステータスだ。各ステージには何個かstats point が配備されている*1。これを取ることでステータスを上げることができる。まずはエアーとスピードのステータスを上げることをオススメする。自分は最初にその2つのステータスを最大まで上げた。

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スペシャルトリックを設定しろ

メニュー画面において、スペシャルトリックの設定ができる。デフォルトで3つのスペシャルトリックが設定されているが、初期状態で5つまで設定できる。残りの2つの空きスペースに追加でスペシャルトリックを設定しよう。オススメは、地上にいる時に出せるマニュアル派生の技だ。ぜひ1つは設定しておこう。地上でジャンプから簡単に出せるし、失敗しにくいため、得点を伸ばすためにはコスパが良い。ただ何を設定しても構わない。色々試してみてもいいだろう。技を多彩に出せるようになるとプレイのモチベーションも維持しやすい。

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ジャンプは遅めに入力しろ

先述の通り、ネットでプレイ動画を見ていると信じられないほど高く、遠くまでジャンプしているのを見ることがあるが、あれはステータス以外にジャンプボタンを離すタイミングがポイントである。ジャンプボタンを離すのはかなり遅めで、もうボードが地面に設置していないかも、と思うくらいのタイミングで離した方が高く、遠くへ飛ぶことができる。トニー・ホークの固有技である"The 900"を出したり、天井に近いレールに到達するには、高いジャンプをする必要がある。ちなみにスペシャルメーターが溜まった状態だとスピードも滞空時間も長くなる。ステータス、ジャンプボタンを離すタイミング、スペシャルメーターの3点がジャンプを高く飛ぶための重要なファクターとなる。

 

まずは回転(スピン)しないで飛べ

グラブ技もフリップ技も方向キーかスティックの入力を伴うため、どうしても技を出すと、同時にキャラが回転(スピン)しがちである。しかし回転すると、途端に着地が難しくなってしまう。しかし、スティック(方向キー)の入力は、フリップ(□)やグラブ(○)を押すタイミングだけで良いので、右や左などの入力をずっと入れ続ける必要はない。なので、最初はあまり回転を欲張らないで、技単体で出して確実に着地して点を取ることを心がけた方が良いだろう。その上で得点を伸ばすには、回転ではなく、次の節に示す「技の複数回入力」によって行った方が良い。

  

フリップは複数回入力できる

フリップ技は得点が伸びにくい。グラブ技に比べても低く、単発だと数百点程度であるため、得点をどのように伸ばしたら良いかと悩む人もいるだろう。そこで回転を混ぜて得点を伸ばそうとすると途端に難しくなってしまう。なので回転よりも「フリップの複数回入力」を狙う方が良い。最初は2回入力するダブルフリップを積極的に行い、余裕のある大ジャンプではトリプルフリップを狙おう。そしてトリプルフリップを狙うと自然とキャラが回転しがちになる。その時に初めて、回転を織り混ぜることを考え始めるのが良いのではないだろうか。最初に単発技と回転を組み合わせることを狙うと、得点が伸びない割に難しい、という状態に陥ることになる。

 

スペシャルトリックの後はリバート!

上記のような点を考慮した上で、練習を積み重ねることで、おそらく10万点獲得が視野に入ってくるのではないだろうか。そうなるとゲームはめちゃくちゃ楽しくなってくる。更に得点を簡単に伸ばすには、リバートを織り混ぜるのが良い。リバートはハーフパイプやボウル状で垂直にジャンプして技を出した後、着地と同時にR2ボタンを押すことで出すことができる。ボードを前後逆にする動き(スイッチ)で、単純に技の得点がそれだけで倍になる。スペシャルトリックは4000点とか5000点のスコアが一回で手に入る。これは必ずリバートを混ぜて得点を倍にして1万点近くを獲得しておきたいところ。こうすることで、シックスコアの達成にかなり近づくことになるだろう。もちろんリバートの使い道はそれだけではなく、一番重要なのはコンボを繋げられるという点だ。ジャンプ技→リバート→マニュアル→グラインドというようにコンボを繋ぐことも、余裕ができたら狙うようにすると良いだろう。

 

リバート(R2)ボタンの他の使い方

リバートを発動するためのR2ボタンには覚えておいた方がいい他の使い方が2つある。

一つ目は着地制御だ。ハーフパイプなどのランプから垂直に飛んだ後、上手くランプの曲面に着地できず、平らな地面に落ちそうになることがある。そのような時にR2ボタンを押すことで姿勢をまっすぐに戻すことができて、失敗にならずに済む。

二つ目はランプの抜け出しである。チュートリアルでもランプから抜け出すには、スティックを前方(↑)に入れてジャンプするやり方を教えられるが、実はR2を押しながらジャンプすることで、垂直に飛ぶのではなくて、乗り越えて飛ぶことが可能である。収集物の回収などで、自由に移動したい時には必要となる技だろう。

 

最後に簡単なレビューを

本作のチュートリアルは比較的良くできているが、やはり最初に壁を感じるゲームであると思う。過去にオリジナルを遊んだ人ならいざ知らず、初めて本シリーズに触れた人には厳しさがある。しかし努力には確実に応えてくれるゲームであり、なによりも努力の成果がかなり早いタイミングで確認できるゲームでもある。2分間という1プレイの短さとリスタートのローディングの速さなども長所と言える。開始5秒で上手くいかなかったら、リスタートする、そんなプレイができるようになればもはや本作にハマってきたと言えるのではないだろうか。

 

本作はメタクリティックスでも高評価されているが、最初に壁を感じてしまうと、本作がノスタルジーによって評価されているのではないかと疑念を抱く人もいるかもしれない。懐かしくない人には面白くないゲームではないか?というわけだ。しかしそんなことはない。本作は非常に丁寧に作られている。とにかく上達の快感をかなり早いテンポで感じさせる手堅い面白さを持ったゲームである。グラフィックの向上はしているものの、「ありえない動き」を許容するゲームらしいゲームであり、いい意味でリアリズムを適度に無視している。オープンワールドで比較的リアリズムを追求した『skate.』シリーズのような現代性はないかもしれないが、やや古臭そうに思える本作のゲームメカニクスは、全然今の時代にも耐えうる面白さを備えている。

 

楽しむためにはある程度の練習は必要であるものの、あらゆる動きを全て計算して、精密なムーブによって高得点を稼ぐような遊びだけが本作の楽しみ方ではない。本作の良さはある程度の「ユルさ」にあると思う。ゲームで設定されているチャレンジ目標を達成するには、そこまでギチギチにプレイを洗練させる必要はない。そのため、いい感じに自分らしい遊びを構築することができる。ここが本作の大きな美点ではないかと思う。「自由」と「縛り」の理想的なバランスが成立しているゲームだろう。

 

最後に下手くそながらSchoolのステージでシックスコアをギリギリ達成した時の動画を示して終わりたい。この動画は参考にすべきものというよりも、このぐらい下手クソでもシックスコアが達成できるんだ、という励ましとして捉えてもらえるとありがたい。このプレイを「上手くねぇな」と思えるようになれば、もう初心者ではないだろう。

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*1:stats pointとは別に各ステージにはVの文字のアイコンが置かれているが、これはVicarious Visions ロゴと呼ばれているもの。Vicarious Visionsは本作の開発スタジオの名前であり、このロゴを取ることで、開発者の名前や会社ロゴをゲーム内に登場させることができる。

『ゴースト・オブ・ツシマ』の「変な感じ」を受け入れないことは「不寛容」なのか?

2020年7月17日に発売された『ゴースト・オブ・ツシマ(Ghost of Tsushima)』。元寇をテーマにした侍が主人公のオープンワールドなアクションゲームだ。侍が広大なフィールドで冒険するという作品は、多くの日本人ゲーマーが長く待ち望んだ作品だった。そして発売間もないが、本作は非常に多くの日本人から受け入れられ、そして高い評価を受けている。本稿では世評とは乖離した自分の本作への感覚について書いてみたい。

 

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私は本作をプレイし始めて、オープニングのところで大変気持ちが萎えてしまった。ただ、この残念な気持ちは色々と複雑で、本作が「およそ日本の武士や日本の時代劇では言いそうにないことやありそうにない雰囲気をバシバシ放っていた」から単純に残念だったわけではない。第一に気になったのは、その脚本があまり優れたものではない点だ。主人公、境井仁の行動原理が「平和」や「民のため」という薄っぺらい言葉で飾られていることに、この先繰り広げられる物語の持つ射程がかなり狭いのではないかという強い懸念を感じさせた。実際、やはり脚本は最後まで優れたものではなかった*1。しかし、ゲームとしては、これまでのオープンワールドゲームの良い部分を適度に改良しており、快適度の高いゲームプレイはとても楽しく、決して凡作ではない良作であったことは嬉しかった。単純に面白いゲームだった。

 

私が気になったのは、この作品に対する多くのユーザーの評価だ。「外国人が作ったこの『奇妙な日本』を受け入れてこそ、寛容で心の広い正しい態度なんじゃないの?」とでも言いたげな数々の世間の声には首を傾げてしまう。中には「歴史事実厨にはツライかもしれないけど、わたしにはめっちゃ面白かったです」みたいな言い回しも多く、それは「歴史的事実という細かいことを気にして、せっかくの楽しいゲームを楽しめない狭量な人間は、つまんないやつだなあwww」ということを言いたいのだろうと感じた。しかしこうした感覚は私にもまだ理解できる。人が楽しんでいるものにイチャモンを付ける人間は野暮だというのも一理ある。しかし一番納得いかないのは、次のような感想だ。*2

『ゴースト・オブ・ツシマ』は時代劇としても、よく出来ている

正直、その評価は理解できない。『ゴースト・オブ・ツシマ』が面白いゲームであることは否定しない。しかしそれと時代劇としてレベルが高いかどうかは別の話である。時代劇とは全く別の価値基準から『ゴースト・オブ・ツシマ』を評価するのは理解できる。しかし日本人が作る時代劇の平均点をそんなに簡単に「超えた」みたいに言うことが決して良いこととは思わない。これまで時代劇として作られた作品数や時代劇への批評の積み重ねから、常識的に考えても、そんなに簡単に超えられるほど、層の薄いジャンルとは思えないからだ。

 

『ゴースト・オブ・ツシマ』は日本の何を参照しているか分からない

まず第一に言っておきたいのは、別に「史実に沿って忠実に作ることがとにかく大事だ」とは私は全く思っていない。だいたい日本の時代劇も相当に都合よく史実を無視している。私が『ゴースト・オブ・ツシマ』に強い失望を覚えたのは、この作品が日本の時代劇の何を参照しているのかが、よく分からない点だ。確かにサムライらしい格好はしているし、自らサムライだとも言っている。しかしそのステレオタイプな印象だけのサムライ像の先には何もない。武士同士の年長者への言葉遣いや、農民への武士の態度が、これまで既存の時代劇をどれだけ参考にしたのか甚だ疑わしくさせる。『ゴースト・オブ・ツシマ』が参照しているサムライの描き方の明確な参照先が全く分からない。既存の時代劇の武士像とは異なる黒澤明的な武士像を多少は参考にしているような気はするが、それでもよく分からない。

 

この「参照先が分からない」というのが、なぜ問題なのか。1つはそうした先行作品を参照しない作りが私の趣味に合っていないということがある。ただこれは私の好みの問題でしかない。もうひとつ別の理由として、これまで積み上げてきた創作物の歴史的な蓄積を無視して、製作者の狭い了見でのみ作品を作り上げた場合、普通に考えて良い作品をつくることは難しいということがある。例えば境井仁の悩み「武士としての誇りを汚すような闘いをして良いのか?」は、完全にゲーム制作者の頭の中で考えた「ハリボテの悩み」のように思える。それは既存の作品を参考にせず、「自分の頭だけで」考えて創作しているからだ。既存の時代劇で考えると、忠臣蔵という時代劇は、武士道的価値観を賛美する物語であるが、仇討ちと称してやっていることは夜襲である。だからと言ってその「寝込みを襲う」ことに悩む赤穂浪士などはいない。みな忠義に則って仇討ちしていると思っている。対して、他国からの侵略という悲惨な被害を受けているのにも関わらず、ステルスキルごときに悩むナイーブな境井仁というキャラクターは、いかにも急ごしらえの安易なキャラクター造形に思える。既存の時代劇を参照して、それに何かを足したり引いたり反転したり、そうした先行作品へのリスペクトが『ゴースト・オブ・ツシマ』の脚本にはほとんど感じられない。

 

『ゴースト・オブ・ツシマ』は伝奇モノなのか?

本作が完全に「伝奇モノ」の発想で制作されていることが明確であれば、そこに既存の時代劇への参照がなくてもある程度は理解できる。ネットでは「『ニンジャスレイヤー』を受け入れた日本人が『ゴースト・オブ・ツシマ』を受け入れるのは当然」というような意見もある。しかし『ニンジャスレイヤー』は全く異なる。『ニンジャスレイヤー』は明らかにトンデモ日本を描こうとして描いている。作者もファンもそこを大前提に理解して鑑賞している。しかし『ゴースト・オブ・ツシマ』は決してトンデモ日本を描こうとはしていない*3。であるならば、『ニンジャスレイヤー』を評価するように『ゴースト・オブ・ツシマ』を評価することは自明に適切な姿勢ではないだろう。また制作側に立って考えると、想像するに日本のローカライズチームは本作をできる限り「リアル系(既存の時代劇らしさ)*4」に寄せようと多くの努力を注いでいるように見える。これは原作が持つ志向が(トンデモ系ではなく)リアル系であったからであろう。しかし原作の脚本はリアル系を志向しつつも、既存の時代劇や歴史を丁寧に踏まえるというリアルにこだわることが十分にできず、意図せずして結果的にトンデモ系のようにもなってしまっている。結局のところ『ゴースト・オブ・ツシマ』は、トンデモ系にもリアル系にもなりきれないという中途半端な作品になっている。

 

本作の脚本は時代劇というよりはむしろ西部劇や海外ドラマや西洋ファンタジーを参照先としている。そこに、日本のサムライ劇の皮を被せているだけである。多くの日本人が違和感を持つであろう境井仁と石川先生との関係などは、日本の時代劇ではありえない描かれ方である。それ自体が悪いと言っているわけではない。なぜあのような関係描写を日本の時代劇というフォーマットで描かなければならないのか。これまでの時代劇文化の蓄積を無視する態度が、薄っぺらさに繋がってしまっていると考える。主人公の親代わりである志村などは、武士道を信奉する保守的な男というよりは、理不尽な教義を盲信するカルト教団の幹部のように見える。武士道をカルトとして描くならそれはそれで面白い試みと思うが、そこまでの政治的信念がこのゲームにあるわけでもないだろう。そこには「日本の時代劇ならでは」の描写は存在しない。単に「日本の時代劇のスキン」を被せただけの描写であり、ドラマとしての時代劇としては総じて残念なものであったと思える*5。また先ほど例に挙げた境井仁と石川先生の関係は、「日本の時代劇的社会」というものに全く無頓着であることを端的に示している。あんなに簡単に目上の者に対して反抗したり皮肉を言ったりすることはあり得ないし、逆に目上の者が目下の者にあれだけペラペラと心情を語ったりしない。それはあたかも海外ドラマ・洋画のような関係描写であり、時代劇であのような師弟関係を描いているものはあまり思い浮かばない。むしろスターウォーズで描かれる師弟関係の方が近いように思える。なによりゲーム後半で、毒を使った戦法により主人公は罪に問われるわけだが、国難とも言える蒙古襲来にあれだけの手柄を立てたことが、たったそれだけの事で責められるというのは、あまりに説得力がないのではないか。こんな罪の問われ方をする社会が一体どういう社会なのか、正直分からない。手柄を立てた英雄が社会から認められないと言うのはよくある話ではあるが、日本の時代劇という舞台を通した工夫というのが、そこにはあまりあるように思えない。

 

以上のような点からも、社会が押し付ける価値観(忠孝や誉れ)に苦しむ物語なのに、その社会構造を説得的に描かないで語るのは無理があると思われる。そのため「時代劇としてもレベルが高い」と評価を下すことはあまり妥当とは思えない。いずれにしろ物語としての説得性がない点はやはり残念である。ゲームとしては面白いかもしれないが、時代「劇」(ドラマ)として今ひとつな作品だと私は考える。

 

繰り返すが、私が『ゴースト・オブ・ツシマ』を「時代劇としてもスゴイ」と評価することに反発するのは、「この作品を良い」と評価してはいけないと言いたいからではない。ましてや「時代劇としてスゴイ」と評価するな!と言いたいわけでもない。安易に「時代劇としてもスゴイ」と語るのは、時代劇という伝統的(とも思えるような)なジャンルが持つ「重み」のようなものを搾取しようとしていると感じられ、そこに抵抗を覚えるからだ。

 

リスペクトとは何か

例えば、ゲームに出てくる鎧の一部が、すごく精巧にリアルに再現されているからと言って、単純にそれが日本文化へのリスペクトと言えるわけではないだろう。日本人がアボリジニを描くゲームを作ったとして、そこにアボリジニのリアルな調度品を細かく登場させるが、それが本来の使われ方と全く違う仕方で描いたとしたら、普通に「アボリジニの人たちに失礼かもしれない」と思わないだろうか。そういう基本的な態度をスキップして「外国人が日本のサムライを好きで使っているんだから、多少間違ってても許そうよ」というのは、少し先取りし過ぎな態度ではないだろうか。もちろんそういう「寛容さ」が間違ってるとは思わない。ジャンルを盛り上げるためにそういう「寛容さ」が重要な面もあるだろう。そして安易に「文化盗用だ」と非難するのも適切ではないと思う。更に進んで、そういう「トンデモ」が魅力的だと「あえて良く評価する」ことも全然理解できる。しかしそれはあくまで倒錯である。なぜそんな「一周回った見方」をみんなが好んでするのか。

 

何より『ゴースト・オブ・ツシマ』は倒錯した面白さを突き詰めた作品では全くない。わざと「トンデモ日本」をやろうとしているわけではない。単に無知と無関心があるだけである。このことは日本人だから思うだけではない。日本の文化を知る外国人であってもすぐに理解できることだ。現にDigitally Downloadedというサイトのレビューでは次のように言われている。

 

西洋的なストーリーテリングの伝統(オープンワールド)に重点を置いたジャンルを取り上げて、そこにうわべだけの「日本的な」要素を過度にコピーペーストしているだけで、物語と(ゲーム的)構造の間にある齟齬を歩み寄りさせることを全然していない。

Digitally Downloaded: Review: Ghost of Tsushima (Sony PlayStation 4)

 

引用元のレビュー記事では更に「なぜ元寇というテーマにしたのか、不思議に思う」とも書かれている。この記事でも決してこのゲームがつまらないとは言っていない。しかし「なぜ元寇なのか」「なぜ日本の鎌倉時代なのか」が全く分からない。製作者たちがリスペクトしているのは「時代劇的な絵面」だけで、その時代劇という文化や風習や思想や歴史にはほとんど興味がない*6。百歩譲って、突然景色を見て和歌を詠み始める武士が鎌倉時代にいたって別に良いとわたしは思う。そういうフィクションがあってもいいだろう。しかしそこで描かれる和歌に和歌としての面白さもゲームとしての面白さもなく、そして和歌の報酬になぜ鉢巻が手に入るのか、その理由も分からなければ、日本の時代劇文化にリスペクトを持っていると素朴に評価することはためらってしまう。

 

わたしが危惧するのは『ゴースト・オブ・ツシマ』を日本の文化や時代劇をリスペクトしたものだという雑な評価があることで、将来生まれるかもしれない、より日本の文化や時代劇にリスペクトを持つゲーム作品が出現した時に、それを正しく評価できなくなるのではないかと思うからだ。今、時代劇を見ている人は減っている。『ゴースト・オブ・ツシマ』程度で、「良い時代劇」と言ってしまうのはもったいないのではないかと思う。そして、少なくとも違和感を感じているなら、そしてそこにあるリスペクトが薄っぺらいと思うならば、そう主張することがある程度あっても良いのではないか。それができるのは、日本の文化に相対的に親しんでいる日本人だからこそだろう。わたしが一番違和感を感じているのは、そういう意見があまりにも少ないことだ。『ゴースト・オブ・ツシマ』が大好きな人がいても良いのだけど、ネットには絶賛ばかりで、「残念だ」という人があまりに少ないことにアンバランスさを感じてしまう。

 

最後に、先にDigitally Downloadedから引用したレビュー記事の最後の言葉を掲げて締めくくろう。わたしはこうしたレビューが存在していることに強い安心感を感じている。そして同じような事を感じた多くの仲間たちに、あなた1人だけではなく同じことを思う仲間が世界にはいるという事を伝えたいと思う。ちなみにこの記事を書いた人(Matt S.氏)は日本に何度も訪れており、対馬にも行ったことがあり、日本の有名なお城のかなりの数を訪れており(少なくとも25以上)、鎌倉時代の本も何冊も読んでいるそうである。

 

(ラストオブアス2とは)対照的に、『ゴースト・オブ・ツシマ』は、試みたあらゆる物語の要素は上手くいっていない。結局のところ、(開発元の)サッカーパンチは、クロサワからインスパイアされた壮大な歴史物語を作ろうとして、歴史としてもクロサワのパスティーシュ(作風の模倣)としても失敗しているものを作り出した。このゲームを愛する人はいっぱいいるだろうし、そういう人がこのゲームを楽しむことは何よりだと思う。しかし、こうした失敗を見過ごしたり、このゲームの品質に無関係だと免責したりするべきでもないだろう、芸術作品としても娯楽作品としても。

(おわり)

 

補記(2020.08.14):「『ゴーストオブツシマ』は外国人だからこそ、これだけ日本らしさをちゃんと描けたのだ」みたいな言説がネットでもいっぱいあるのを見ると、20数年前にラモス瑠偉が人気者だった時の事を思い出す。「ラモスこそ、本当のサムライだ」とか「彼こそ日本人が失ってしまったものを持っている」とかみんながこぞって喜び勇んで語っていた。みんながそれを嬉しそうに語るのが本当に面白いと思うし、人は変わってないなと思う。

 

 

 

*1:脚本は優れていないが、演出という点においては魅力的なところが多い。例えば、後半で冥人の型を敵の隊長の首を落として会得するシーンはとても素晴らしかった。

*2:具体的には、次のようなツイートにこのような感想が見られる。

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*3:次の製作者インタビューからも、決して『ゴースト・オブ・ツシマ』の製作陣がトンデモ日本を描きたいわけではないということが分かる。

『ゴースト・オブ・ツシマ』開発者インタビュー。侍を味わうための究極のアクション作りとは? 登場人物たちの名前の由来も判明 - ファミ通.com

*4:ここで「リアル系」という言葉を使っているが、この言葉は若干誤解を与えるかもしれない。わたしは別に事実に沿っていることを指してここで「リアル系」と言っているわけではない。日本の時代劇に寄せていることを指して、ここで仮に「リアル系」という言葉を使っているだけである。『ゴースト・オブ・ツシマ』が事実的だとか事実的でないとかを言いたいわけではない。

*5:逆に、ではこれまでのゲームにおいて優れた時代劇表現ができていた例があるのか?というのは本稿に対する極めて妥当な反応だと思うので、個人的に素晴らしかった思う例として『天誅 参』の藤岡鉄舟のテキストを挙げたい。あれは素晴らしく時代劇だった。

*6:風景の美しさがよく評価されているが、序盤にある稽古場の情景などは過剰に赤が強調されており、やや下品な絵面だなと個人的には感じた。ラッセンぽいというか。

『Outer Wilds』をクリアして思う、そこはかとない不満と自らの落ち着きのないゲームライフ

ようやくクリアした『Outer Wilds』。正直、長かった。この苦しい戦いに一応の勝利を収められた事は、すごい達成感であるとともに、これぞインディーゲームの醍醐味だと喝采を贈りたくなる。ただ、ネットでの多くの賛辞に同意しつつも、どこかこの作品にはわだかまりも感じる。正直言うとメタクリティックスの85点(2020.07.20時点、PC版)がとても納得というか、傑作!というには少し足りてなくて、でもその足りてなさこそがこの作品の魅力でもあるんだろうなと感じる。もちろん85点でも十分に高得点ではあるだろうが、なんだかネットでは無類の傑作であるというような雰囲気もあるので、「もちろん名作ではあるけど、どこか不満もあって、でもその不満ってなんなんだろうな」ということを少し書いてみたい。なお、以下、攻略上のネタバレがいくつかあるので注意して欲しい。(ただ、大したネタバレはない)

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難易度のペースが最後まで一定

このゲームは序盤に壁がある、というのは多くのブログや感想でも言われている通りで、確かに冒険初期の訳の分からないまま世界を探索させられるスタイルは人を選ぶ。ゲームの中で色々と発見したり読んだりしてもその価値がよく分からないし、そうした宙吊りのまま情報を洪水のように浴びせられるのは辛さがある。しかし、ある程度のゲーマーであれば、「それはそれ」として受け止められるように思う。特にビデオゲームというのはやり始めこそが最もモチベーションが高く、それが終盤に向かうにつれてどんどんと目減りしていくもの。序盤の苦難はそういう意味では意外に多くのプレイヤーが乗り越えるのではないだろうか。

 

問題はむしろその後にある。最初に自分が「このゲーム、キツイかもな」と思ったのは燃え盛る双子星の「アンコウ化石」のところだ。踏み石の洞窟から、どうやら行けることは分かる。アンコウ化石の高台から光(リトル・スカウト)を投げ込んで目印にするんだろうことも分かる。しかし砂が埋まってくるという焦りと、ハッキリとルートが明示されているわけではない中で、アンコウ化石に至るのはとても辛かった。上手いこと光が投げ込めるともっと簡単になったんだろうが、初回の私のアンコウ化石への到達はほぼ偶然という感じだった。この手探りで進む感じは本作の醍醐味であるとともに、このノリがずっと続くなら最後まで頑張れないかもなと思った。また、「これ正解かも」というルートが間違っているという微妙な罠もあったりして、それが辛さを倍増する。なにより正解に到達できても「すごい秘密」とか「すごいアイテム」が手に入るわけではない。苦労した割には世界の秘密の3%程度がテキストで開示されるだけだ。貰えるものが少ない冒険を続けていくのは辛い。案の定、このぐらいのキツさが最後まで続く。しかしこれが「美しさ」であるというのも理解できる。とかくビデオゲームにおいて強さや数値がインフレしていくのは、貰えるものを絶やさないことでプレイヤーのモチベーションを維持させていくためだ。これはある意味、家畜的でもあり下品でもある。エサに釣られる家畜としてのプレイヤーという現代ビデオゲームが孕む疎外性へのカウンターとして、本作には辛さとそれがゆえの美しさがある。そうは思うのだが、やはりこのキツい謎解きをひたすらにやらされ続けるのは、かなり疲れてしまい、後半は「早く終わってくれ」と念じるような気持ちであった。

 

ただ待つことの辛さ

本作は22分を繰り返すというシステムであるため、太陽なき街の謎解きをしていた途中で次のようなことが頭を過ぎった。「ある程度の時間を待って、ようやく解法が現れるタイプの謎解きがあったら、すごく面倒だな」と。実際に、脆い空洞の量子知識の塔と灰の双子星のワープの塔(太陽と双子星)には、その手のタイプの謎解きがあった。しかしこのタイプの謎解きは、途中で失敗すると、また同じ時間だけ待たないと解くことができない。これがとにかく面倒だった。多分、この辺りに答えがあるんだろうな、と試すのだが、上手くいかない時がある。少しやり方を訂正して、それを改めて確認するためには、また待たなければならない。また、何をすれば良いかわかっているのに、ちょっとした操作ミスでやり直しになり、また待つ羽目になる。そういうことを繰り返すと、さすがに嫌になってしまう。若干の救済措置はあって、焚き火で「ウトウトする」ことで時間経過させることができる。しかし、それもすぐに1分とか2分を経過させることはできなくて、しばらく待たなくてはならない。例えば10分という数字を指定して、すぐに10分経過したことにできれば良いのだが、そうはなっていない。この辺りの「面倒くささ」は作り手の美学であり、意図的なものを感じる。クリア後のように、作り手のことを信頼しきった状態で振り返ると、この「ただ待つ」仕様も特に大きな問題はないと思えるが、プレイ途中の半信半疑な状態では辛さがあった。

 

ローカライズの問題

脱字が度々ある。このゲームは入手したテキストだけが、唯一の自分の「獲得したもの」であるので、そこに間違いがあるととても悲しい。また、量子の月の祭壇にある3つのメッセージ。これなんかは単純に「量子ゆらぎ*1」と書くべきところが「量子イメージング」として誤って書かれているのではないだろうか。航行記録には正しく書かれているので、クリア上は問題ないが、最後の最後にこうだとやはり悲しい。

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生き急ぐように何本もゲームを遊びたい人には辛いかもしれない

クリアした今、『Outer Wilds』は素晴らしい作品だと気持ち良く振り返ることはできる。しかし、これをやっている間はなかなか辛かった。「このゲームにこれだけの時間を掛ける価値があるのかなぁ」「こんな『MYST』みたいなゲームを今更遊ぶ価値あるのかなぁ」と感じながらプレイしていた。しかし、それもこれも、もっと余裕を持ってプレイできていたら、こんな風には思わなかったのかもしれない。素晴らしい「難しさ」だったと思うけれど、どこかプレイヤー側が完全に作り手のことを信頼しきってあげないと、その気持ちを維持し続けることが難しい作品だった。このゲームを何十時間もかけてゆっくりじっくり味わって悩んでクリアする、そんな余裕あるプレイをした人こそ、本作を本当の意味で味わうことができた人だろう。もしそんな人がいたら、そういうゲーム生活を送れることに強い羨望を感じる。生き急ぐように新作ゲームを食い散らかす自分のようなプレイヤーには微妙に合わないゲームだったのかもしれない。そんなことをあの素晴らしいエンディングを見ながら、少し切ない思いで考えたりした。

 

*1:量子もつれ」の方がより適切なような気もするが、どうなんだろう。ちなみに英語では"quantum entanglement"と書かれている。

傑作『ラストオブアス2』のポリコレ表現とエリーの最後の決断について

2020年。前作から7年ぶりにリリースされた『ラストオブアス パート2(The Last of Us Part 2)』は、間違いなく傑作だった。まさかこれほどの傑作が生まれるとは、前作のあまりに素晴らしいラストシーンからは想像ができなかった。これ以上は蛇足にしかならないと、前作を評価する人であればあるほど、そう予想しただろう。しかしそのネガティブな予想は幸運にも覆されることになった。しかし一方で『ラスアス2』を評価しない人もいる。そのような状況において、どのような点が素晴らしかったかを書くことには多少の意義があるだろう。なお、本稿はネタバレをしまくるので、未クリアの方は注意願いたい。

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複雑なものを複雑なままに描く

『ラスアス2』には魅力的な人物が何人も登場するが、中でもディーナの存在が面白いと感じた。序盤のディーナは、思い入れのあるエリーとプレイヤーとの間に突如として割り込んできた「やや目障りなキャラクター」にも感じられる。バイセクシャルであり、アジア人男性のジェシーとかつて恋人関係でありながら、エリーとも物語の最初の方で性的な関係を結ぶため、ディーナに対しては、あまり良い感情を抱かなかったプレイヤーもいるかもしれない。

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エリーの恋人であるディーナ

 

そんなディーナだが、彼女はシアトルのダウンタウンで、自らの出自について語る場面がある。ダウンタウンにあるユダヤ教の会堂シナゴーグを訪れた時のことだ。ここで彼女はユダヤ人の「生き残ること」へのこだわりを語る。この信念はディストピア世界において、とても重要な意味を持つ。また、彼女が妊娠をして、次の世代へ繋がる子供を持つ役割を持たされたことは、この信念と呼応させているのだろう。

そして、『ラストオブアス』シリーズのディレクターであり、共同脚本を書くニール・ドラックマンはイスラエル系のアメリカ人である。彼は10歳まで、ウェストバンクと呼ばれるイスラエルとヨルダンの間にある地域で育っている。小さい頃には、紛争による暴力の現場を何度か目撃しているようだ。ディーナの描写には、いくぶん彼自身のリアルな経験が反映していると考えても、あながち間違いではないだろう。

Neil Druckmann - Wikipedia

 

本作は「ポリコレを意識しすぎた作品」などという批判を度々受けている。しかし、本作の「正義」へのこだわりは決して浅薄なものではないと考える。例えば、それを示すのが先ほど挙げたディーナのキャラクター設定である。ディーナはバイセクシャルであり、この点をLGBTQなど多様性のための表面的なキャラ設定だとみなす人もいるだろう。しかし単にバイセクシャルを「珍しい見せ物」としているわけではない。その一端は、ディーナがユダヤ教ユダヤ人の民族的価値観に対しても愛着を持っていることを示す場面に現れている。単に表面的にリベラルを象徴するだけの存在としてではなく、伝統的な価値観にも足場を持つ複雑なアイデンティティを持つ存在として描かれている。こうした1人の人間を右か左かに分けることをあえてしない複雑性の描写は、『ラスアス2』の特徴と言えるのではないだろうか。

 

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カルト教団の社会の中で育ったレブ

 

アビーのパートナーとなるレブもそうした存在である。レブは身体的には女性であるが、トランスジェンダー*1としての苦しみを抱えている。これもまた「LGBTQへのあざとい目配せ」だと感じる向きもあるだろうが、決してそんな単純なものとして描いてはいない。というのも、彼が所属するカルト教団は男らしさや女らしさについて極めて保守的な考え方の社会を築いており、その社会との葛藤を描いているからだ。彼はそうした教団社会の中にあって、女として生きることに強い疑問を抱き、最終的には教団を裏切るところまで行ってしまう。重要なのは、彼は物語の間、ずっと教団への信仰心を失わないという点だ。教祖のことをずっと信じ続けている。自分を苦しめる教義なら捨て去ればいいと、第三者は思うかもしれない。例えばアビーはそう思うからこそ、レブに「そんなひどい目に合いながら、まだ信じてるの?」と素朴に聞いてしまう。しかしそんな単純なものではないのだ。ここにもまた、単なる1か0かに分けることができない複雑性の描写を見て取ることができる。

 

ディーナがエリーとキスをするパーティの場面も興味深い。キスする2人を見咎めたセスという初老男性は「勘弁してくれよ、口達者なレズとはね(big-mouthed dyke)」とエリーたちを嘲笑する。そんなセスに対して、すかさずジョエルは間に割って入り「とっとと失せろ」とセスを非難する。この時、エリーはセスよりもジョエルに対して激怒する。このジョエルへの激怒を描いた点が本当に素晴らしい。「(初代のラストのように)勝手に当事者になって、勝手に私を助けるな」とエリーは怒っているのだ*2。この事は前作のジョエルの行為に怒っているエリーを示すと共に、マイノリティに憑依して正義を示そうとするマジョリティへの微妙な気持ちを示しているように私は感じられた。ニール・ドラックマンは決して安易な気持ちでマイノリティを描いているわけではないと私は考える。彼は物事が常に複雑であるということから逃げることなく、複雑さを複雑なままに描いている。

 

復讐劇が陥りがちな浅薄さ

もう一点、強調したいのは、復讐というテーマと最後のエリーの決断についてである。復讐は、強力なモチベーションとなりうるため、復讐というモチーフは度々ゲームで使われることがある。しかし現代において、この復讐を100%良いこととして描くことは逆に難しい。そのため「不幸の連鎖を止める」とか「復讐をしても虚しい」などのロジックを用いて、復讐が持つ問題点を浮かび上がらせ物語に屈託を設けるパターンが非常に多い*3

 

『ラスアス2』も概ねこの復讐の問題点を取り上げているとは言えるのだが、他のゲームと違いとても自覚的だと感じるのは「復讐は良くない」という安易なメッセージに安住しない姿勢である。「復讐が決して良くはない」なんてことは分かりすぎるくらいに分かっている。この点は以下の動画レビューにおいても指摘されている通りであるだろう。このレビューは比較的納得感も高いものなので、ぜひクリアした人は一度見てほしい*4

 

youtu.be

 

エリーの復讐の意思はいつまで維持されたのか

復讐というのは、長期的にその意思を保ち続ける事は難しい。基本的に、復讐は「割に合わない」からだ。例えば復讐に向かうトミーやエリーを押し留めるのはマリアである。ジョエルは夫の兄とはいえ、マリアにとっては距離の遠い存在だ。しかしそうした距離感があるからこそ、マリアは復讐の「割りの合わなさ」を理性的に理解している。マリアは冷静で合理的だ。またジェシーやディーナは、エリーの復讐に協力するわけだが、それも若さゆえの無鉄砲さで付いてきている。だから親となることで守るべきものができたディーナは「今度は行けない」と断るようになってしまう。しかしこれはディーナが冷静で合理的になったからだと言える。

 

割に合わないという点で、復讐したいという意思はとても儚いものだ。憎しみを長期間に渡って維持していくことは難しい。エリーは確かに当初はアビーを本気で憎んでいた。しかし、終盤のサンタバーバラでのエリーはアビーを本当に憎んでいたのだろうか。仮にジョエルの死のフラッシュバックに苦しめられなかったら、彼女は復讐の旅を再開しただろうか。エリーはアビーを憎んでいるから殺すのではなく「殺すしかない」という妄執によって復讐の旅を再開する。終盤のトミーの「復讐しに行って欲しい」という願いもまたその「殺すしかない」を強化する*5。ここではエリー自身の意思で本当に復讐を行っているのかは相当に疑わしくなっている。きわめつけは、ラストの闘いである。なぜ「戦え」とエリーはアビーに戦うことを強制させたのか。本当に憎いのなら、ただ殺せば良いはずである。しかしもはや理由も論理も憎しみも喪失しているエリーにとって、アビーは襲いかかってくる敵としてでないと殺せなくなってしまっている。つまり彼女の復讐の意思はここでは限りなく小さくなってしまっている。

以下のサイトにおける考察では、この『ラスアス2』の物語を「復讐」ではなく「許し」の物語として解釈している。この考え方は面白いと思う。

note.com

 

本稿ではこれとはまた違った観点から、なぜエリーは最後にアビーを許したのか、その理由を2つの観点から述べてみたい。まずは、なぜ最後のエリーの決断をプレイヤーに選ばせるというスタイルにしなかったのかを示し、その上でなぜエリーはアビーを許すという物語になったのかを書きたい。

 

「選択できない」ことの意味

一つ目の観点は、本作がゲームであることについてである。

ラスト、エリーはジョエルの言葉を思い出す。「俺はもう一度同じことをするだろう」と。この「もう一度」というのは2重に意味が重なっている。一つは物語内のジョエルの心情としての意味だが、もう一つはこれがプレイヤーに向かった言葉でもあるということだろう。ゲームで分岐点があり、やり直しをしたら、プレイヤーはさっきとは違う選択肢を選んだりする。その方が「お得」だし「面白い」からだ。しかしジョエルの人生における決断は異なる。初代『ラストオブアス』で次のように思ったプレイヤーも多いだろう。「最後に、ジョエルがエリーの命を差し出していたら、世界はどうなっていただろうか?」と。しかしジョエルは「もしも、もう一度神様がチャンスをくれたとしても、俺はきっと同じことをする」。それを変えることはできない。エリーは思ったに違いない。ここでアビーを殺すことは、何度やり直しても後悔しない行為なのか?と。ここでレブがアジア系であることが効いてくる。レブとアビーは明らかに血縁関係が無いように見える。しかし自分の命を賭けてでもアビーはレブを守ろうとする。その関係は、エリーとジョエルが擬似親子であることと、相似形をなす。アビーの物語の詳細は分からなくても、この地獄の中でどのような歴史を積み重ねて生きてきたのかをレブの存在はエリーに感じさせる。そして擬似親子であるとするなら、アビーはジョエルに相当する。今、首を絞めているアビーはもう1人のジョエルかもしれないのだ。アビーを殺すことは、本当に後悔しない選択肢なのか。エリーの復讐心には、最後、複雑な感情が渦巻いている。決して憎しみ一色で塗りつぶされているわけではない。

 

では、プレイヤーはどうなのか。プレイヤーはアビーの物語を細かく把握している。彼女がジョエルを殺したのも、レブを助けるために苦労したことも、オーウェンへの思いも、友人を全て失ってしまったことも、全部知っている。彼女は決して残虐な人殺しではなく、むしろ善良な人間である。じゃあ、アビーを許せるのか。これは人によるだろう。許せないとする人はやはりエリーとジョエルへの強い思い入れがあるからだ。しかし決して心の全てが「アビー殺すべし」に固まっているわけではない。なぜなら知ってしまったからだ、アビーのこれまでの生き様を。アビーは死すべき人間だと100%断罪することもまた(人によっては差異があるだろうが)できないはずだ。

 

じゃあ、このようなゲーム内の人物もプレイヤーも、複雑な感情が混合した状態なら、ゲームとしてどのようにするのが正解なのだろうか。一つはゲームだからこそできる「マルチエンディング」という手法がある。最後にエリーが首を締めるアクションの入力をプレイヤーに選択させる。こういう解決策があることは当然、製作側も分かっていたはずだ。しかしあえてそれをしなかった。エリーの複雑な復讐心は、殺すことと生かすことの可能性を等しく見せてしまったら、その複雑さがスポイルされてしまう。ゲーム的に選択できることによって、エリーの感情が、どちらか一つの状態にプレイヤーの中で単純化されてしまう。製作者はそれを恐れた。だからむしろ「選択できないこと」によって、エリーの感情の複雑さを複雑なままに描くことに成功しているのではないだろうか。しかしこれだけの理由では、どちらの結末でもよかったはずだ。次に、なぜ「アビーを殺さない」という結末になったのかを考えてみよう。

 

ジョエルとの決別としての『ラスアス2』

もう一つの観点は、エリーを対比的に捉える視点である。まず第一に、アビーは復讐の成功者であるという点がポイントだろう。アビーはジョエルを殺すことで見事に復讐を果たした。しかもそれだけではない。アビーは、エリーとトミーを殺すことなく見逃している。なぜ彼らをアビーが見逃したのかは、一つの謎である。実際、ディーナが「なぜ見逃してくれたのか?」と疑問を挟むシーンがある*6。詳しいことは分からないが、これはアビーの復讐が完璧であるためではないだろうか。つまり、復讐の過程で罪なき者を殺してしまっては、アビーはそれをきっかけに復讐を後悔してしまうかもしれない。アビーには、復讐の完璧な成功者としての役割が与えられている。アビーの物語によって、復讐を成功させた場合の世界線(分岐)は、ある程度描かれていると考えられる。だからこそ、その対比としてエリーは、最後まで復讐の失敗者として描かれる。

また、第二に、ジョエルとエリーとの対比がある。前作のラストのジョエルの行為は極めて勝手である。決してエリー自身の意思ではなかった。そのジョエルは罪なき人を「殺す」決断をした。一方で、エリーは罪あるアビーを「生かす」ことにした。この決断はジョエルの決断と対称を成している。仮に立場が逆転しジョエルがエリーの立場に立ったら、絶対にアビーを殺すだろう。だからこそ、エリーは「生かす」ことによってその父であるジョエルを超える。長い道程の果てに、復讐をするという意思が極限にまで小さくなってしまったエリーは、自らの意思をどのようにしたら回復できるのか。このまま殺すことはジョエル(やトミー)の意思ではないのか。だからこそエリーはアビーを「生かす」。「ラスアス2」は、「父との決別」の物語ではないかと考える。アビーを許すことでエリーはジョエルと決別しているのである。*7   ジョエルの「たとえ他の多くの人間が死んでも構わない。エリーお前だけは生きてくれ」という呪いとエリーの意思を封じ込める権力性を、アビーを許すことによってエリーはくつがえし、自らの意思を回復しようとしたのだ。

 

そして『パート3』へ

ここからは単なる妄想だが、『パート3』では、『パート2』の最後のエリーの決断をどう捉えるかが物語の鍵になるのではないだろうか。そして『ラスアス2』は父との決別がテーマだとすると、『パート3』には、母親というモチーフが何らかの捻りを加えて入ってくるかもしれない。仮に完結作となるならば、もしかしたらとうとうマルチエンディングを採用してくるかもしれない(なんとなくそうして欲しくないとは思っているが)。また初代『ラスアス』のラストのエリーは本当にジョエルの言ったことを信じたのか。この点は『パート3』で蒸し返してほしいところだ*8。以上は、勝手気ままな妄想に過ぎない。いずれにしろ、一見すると蛇足のようにも思える『パート2』のサンタバーバラ面は、壮大な『パート3』のプロローグとしての役割を担っているのではないだろうか。

 

最後だが、短くまとめると次のように言えるだろう。『ラスアス2』は、復讐の是非を問うものではない。むしろ、復讐をせざるを得ないところに追い込まれた人間がどう自らの意思を回復するのか、その複雑さを描いた物語である。ここにもまた、LGBTQの描写と同様に、複雑さを複雑さのままにアイデンティティの問題を描こうとした信念が貫かれているように思う。(おわり)

 

 

追記(2020.07.10): 以下のディレクターと脚本家へのインタビュー記事はぜひ読んでほしい。本稿で書いた「選ばせなかったこと」についても言及されていたりする。

The Last of Us Part II Interview with Neil Druckmann & Halley Gross | IndieWire

 

追記(2020.07.13): 当初は、エリーの最後の決断を「父殺し」として捉えていたが、それは流石に言い過ぎかもしれないと考え直し、「父との決別」と表現を変更した。

 

*1:レブについては、語られる情報が少ないため、広義のトランスジェンダーと言った方が良いかもしれない。

*2:もちろん、ほぼ親としての存在であるところのジョエルからそうした言葉を聞くことの強い戸惑いもあったかもしれない。

*3:例えば、復讐相手を結果的に殺すかどうか選択できる『GTA4』のようなゲームも正にこうしたロジックの中にある作品だろう

*4:この動画レビューはとても冷静で説得的なものであるが、いくつかの点で、私は違う立場を取っている。主な違いは3点ある。「1.そんなに胸糞な展開ではない」「2.最後のサンタバーバラ面は物語的に蛇足とは考えてない」「3.衝撃的で意外だと思った展開はそんなにない」以上が違いとして挙げられる。2については後述する

*5:ここで、トミーがなぜここまで復讐にこだわるのか、若干判然としない気持ちを抱く人も多いと思う。しかし「彼は怪我を負ってもう復讐できない体になった」ことと「マリアと別居することになった」という2点が、彼に復讐を余計に執着させる要因になったのではないかと考えることはできるだろう。

*6:シアトルの1日目

*7:この辺りはかなり「捻れ」が製作者によって意識的に設けられている。アビーを許す事はジョエルと決別することだと本稿は主張しているが、その首を絞めているアビーはジョエルにも相当する(レブにとって)わけで、ジョエルを救いつつ、離れるという不思議な状態を作り出している。

*8:多くの前作プレイヤーが不満を思ったことの1つに、前作最後のジョエルの言葉をエリーは信じた、と『ラスアス2』は前提にしているように見える点がある。私自身、エリーはジョエルの言葉を完全には信じていないけど、あえて「わかった」と言ったと前作の時点では考えた。それを今更嘘だとエリーがショックを受けるのは、(まあ、受けるかもしれないが)あまりにナイーブでエリーの内面が単純なものに思えてしまう。しかしやはりエリーはジョエルの言葉を信じないままに、あえて「わかった」と言っていたという可能性はまだ残っていると私は思っている。理由は2点ある。一つは、オープニングでトミーがジョエルの告白を聞いて「(エリーは)信じたのか?」とわざわざ問うている。これは「素朴にエリーは信じた」と捉える必要はないことを示していると思う。2点目はラスト、エリーがジョエルに対して「それ(生きた証)を奪ったんだよ!」と怒る場面。これに対して、ジョエルは一切謝っていない。「もう一度同じことをする」と返すのみだ。ここでもエリーは「わかった」と受け止める。エリーにとってその返答は決して意外なものではなかったということを示すのではないだろうか。まあ、願望的な解釈かもしれない。

『ゼノブレイドDE』は思い出補正を凌駕できたのか。

2010年にWiiで発売された『ゼノブレイド』。当時は、「唯一プラチナ評価を維持し続けたソフト*1」との文句で宣伝されたりもしていた。発売と同時に買ってプレイしたわたしは、確かに『ゼノブレイド』に夢中になった。とても面白かったし、傑作だとも思った。

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しかし『ゼノブレイド』については、とても面白かったという評価をしている人の中にも、どこかその思いに割り切れなさを持っている人はいるようで、「あれは"Wii"というハードで出たからこそ良かったのだ」と語る人も結構いる。これは決して「Wiiリモコン」を上手く活用したソフトだったという話ではない。そうではなく「同世代のPS3Xbox360というHDゲーム機に比べて貧弱なスペックのマシンでありながら、これだけ"ゲームらしいゲーム"が遊べた事が良かったのだ」というような意味だろう。"ゲームらしいゲーム"ってなによ?というツッコミは置いておくとして、それはそれでとてもよく理解できる。Xbox360が2005年。PS3が2006年に出ており、『ゼノブレイド』がリリースされた2010年は、もはやWiiという機械では、それらHD機に匹敵するグラフィックやボリューム感のあるゲームを提供する事が無理なのだと、多くのWiiファンも諦め始めた時期だった。だからこそ、『ゼノブレイド』のオープンワールド感やその長大なボリュームには、これまでWiiユーザーが期待しながらも得られないと思ったいた「何か」を与えてくれた感激があった。

 

だから今、こうしてリメイク作が2020年に出てきても、そこまで楽しめないのではないかと思っていた。しかし、スイッチ版『ゼノブレイドDE』をプレイしてみて、思った以上にちゃんと楽しいゲームであったことは、本当に驚きだった。本稿は、そうした『ゼノブレイド』をめぐる割り切れない思いをできる限り正直に綴ってみたいと思う。

 

シリーズへの期待値を下げた『ゼノブレイド2』

ゼノブレイド2』によって、ゼノブレイドシリーズへの期待は大きく引き下げられた。『ゼノブレイド』の美点は度々言われる事だが、王道であることにある。取り立てて個性が光るキャラがいるわけではないし、展開などもありきたりである。ただ、ラストにかけて突如としてファンタジーがSFになるという点は本作の作劇上の特徴と言えるかもしれない(これだってありきたりと評価する人はいるだろう)。しかしそれ以外の点については、実にベタであり凡庸だと言える。しかしその普通さにこそ、普遍性を感じ取っていたところがあり、この普通さは魅力的なゲームメカニクスによって説得力が与えられていた。そのことが総体としてのゲームの価値を高めていたように思う。

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その点『ゼノブレイド2』は、いかにもドメスティックで、内輪受け(日本のオタク向け)の意匠によって飾られており、本来『ゼノブレイド』が持っていた良い意味での「普通さ」を失ってしまったように思う。例えば、思いつくだけ列挙しても以下のような点がある。

  • ヒロインのホムラやヒカリは幼児的な顔に過剰に肉感的な身体を持っているという、見る人によってはおぞましいと感じられるキャラクターデザイン

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  • ロリキャラロボットに、JSやJKやJDなどといったコードを付与するという寒いセンス
  • 力強い女性の描かれ方として、結局、最後は命を賭けて犠牲となり好きな男を救うという、最近では都合が良すぎて多くの人が避けている展開を何の衒いもなく表現してしまう素朴さ
  • 当時シリアでの難民があれだけ報道された中で、ゲーム内での難民に対するあまりにも無神経な表現
  • 最後は人類という種としての命をつなげていくことの価値を謳いあげてしまうため、散々これまで言祝いでいた「主体としての個人の意思」は一体どこに行ってしまったのか?という都合の良さ

とにかく脚本のアナクロさには、モノリスソフトの知性と教養の低さをまざまざと感じさせた。ただ、製作者たちが、例えばポリコレ的な表現に対して全く無知や無関心なのではないだろう。いやむしろそうした考え方を知っていて「あえて」やっていると思われる面が多数見受けられる(例えば、終盤のレックスがクラウスから見せられる食事のシーン)。しかしそうしたポリコレ的思想に真正面から反論するだけの論理を持てていないため、幼稚に反抗しているように見える。しかし、こうした幼稚さを持ちつつも、ちゃんとゲームとしてはある程度楽しさを維持している点は素晴らしいと思う。とはいえ、これを2017年にリリースして恥じない点は残念だったと言わざるを得ない。高橋哲哉率いるモノリスソフトというのは「この程度なんだ」という観念を決定づけたと言える。だからこそ『ゼノブレイドDE』には何を期待して良いのか分からなくなっていた。しかしこの期待の低さは正に良い意味で裏切られたと言えるだろう。

 

移動の楽しさを高める

ゼノブレイド』は10年ぶりに遊んでも、ちゃんと面白いゲームだった。

ゼノブレイドDE』の楽しさは、どこにあるのかと言えば、それは主にメインストーリー体験とマップ踏破の二つにあると言える。メインストーリー体験の楽しさについては、今回10年ぶりにプレイしてみると、決して尖ったものではないが、クリフハンガーでプレイヤーの興味を常に引き続けるストーリー構成だと感じた。全17章の構成であるが、章が始まるたびに新キャラクターが登場したり、これまでの登場人物の秘密を明かしたり、新規マップで話が進んだりと、サービス精神が旺盛で贅沢な造りになっている。「ストーリーが好き」と評価する人が多いのは、この展開の引っ張りの強さと話が進む度に新規要素が現れるボリューム感を魅力に感じているからだろう*2

 

一方で、マップ踏破という点については、少し入り組んでいる。『ゼノブレイド』はオープンワールドというにはやや狭いが、それでも歩くとそれなりに時間の掛かる広大なフィールドでゲームが進む。総じて、このフィールドは広大ではあるが決して密度が高いわけではない。しかし密度の高い部分と薄い部分の色分けがとてもはっきりしている。そのため、薄い場所を歩くと巨人の国に紛れ込んだガリバーのような散漫な印象を受けるが、一方、濃い部分ではいかにもクエストやイベントが発生しそうな雰囲気を漂わせてテンションを上げてくる。このメリハリによって、ついついフィールドを歩いてしまう。もちろん密度の薄い部分を移動することは退屈なのだが、大量に存在するクエスト、マップ埋め、雄大な景色の3点によって、その退屈さがちゃんと紛れるようにデザインされている。

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ゼノブレイドDE』ではクエストの目的地へのガイドが強化されたことで、悩むことが少なくなり、ストレスが大きく軽減された。これはマップ踏破がストレスと非常に相性が悪かったことを示している。ほとんど頭を働かせることなく、ただ作業として気持ちよくさせることこそが、移動の楽しさを高める。加えて、解像度の上がった景色の雄大さとの相乗効果で、更に脳死マッピング作業の気持ち良さが高まっている。『ゼノブレイド2』と比較しても、『ゼノブレイドDE』のレベルデザインはとても素晴らしいと感じる。

加えて、名前の付いたロケーションや秘境ポイントを発見することで、経験値が手に入り、そのマップ上のすべてのロケーションを発見すると、細部に至るまですべてのマップが明らかになるという仕様も、とても気が利いている。要は、そこまで苦労して細部まで歩き回らなくても、マップ全体を埋めることができる。こうした痒いところに手が届いているのは『ゼノブレイド』の美点だと言えるだろう。

 

余談だが、『ゼノブレイド』は巨神と呼ばれる巨大なロボットの上に様々なフィールドマップが存在するという設定になっている。この設定はとてもロマンのあふれるものであるが、この設定がうまく生かされているとは私は思わない。この設定が上手く生きているマップは「落ちた腕」と「大剣の渓谷」ぐらいだろう。それよりも先述の地道で魅力的なレベルデザインメカニクスの混成によって、ゼノブレイド』のマップはただ歩くことが全然無駄にならないという楽しさを提供してくれているところが素晴らしいのではないだろうか。

 

さすがに古臭いと感じた女性キャラの衣装

そんなわけで『ゼノブレイドDE』は10年経っても色褪せない魅力を放つ名作ではあるのだが、さすがに古臭いと感じる要素もあった。ここではシステム的な面ではなく、1点ビジュアル的な点を指摘したい。それは女性キャラの衣装だ。本作は装備品によって見た目が変わるが、実際の装備品とは別に見た目だけを変更できるように『DE』では「ファッション装備」と呼ばれる新しい仕様が実装されている。このことで、強い装備に変更しても、それまで見た目が気に入っている以前の装備のビジュアルを維持することができる。

 

で、このファッション装備の仕様自体はとても良いのだが、このファッション装備のビジュアルが女性の場合、やたらと胸の谷間を強調する装備が多いように感じる。この点は昔と変えてないのかもしれないが、いかにもこれは古臭く下品である。特に解像度が上がったせいかWiiの時以上に扇情的な格好をしていると感じさせる。

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閃乱カグラ』のようなゲームならいざ知らず、『ゼノブレイド』はその健全さにも魅力をがあったということが、製作者に理解されていないことはとても悲しいことだ。例えば皇女であるメリアであれば「普通に考えて高貴なお姫様がそんな格好しないだろう?」という衣装ばかりが用意されており、キャラ設定的にも強い違和感を感じる。『DE』で追加された衣装もあるようなので、もう少し普通の格好や今風のファッションを追加してバランスを取るなどして欲しかった。もちろん中にはセクシーな衣装があっても良いと思うのだが、そういう衣装が大半を占めるというのは、いささかそのキャラクターの人格を歪めているとも言える。それが単に「行儀の良いリベラルに媚びていない」ことだけのためにこうであるのだとしたら*3、そんな狭量な理由でこの作品の印象を偏ったものにするのは上策ではないだろう。

 

「健全さ」という魅力

繰り返すが、もう少し普通のファッションも増やしておくなどの対応が欲しかった。もちろんそれにはコストが掛かるし、簡単にできることでは無いと思う。しかしDefinitiveを謳うのであれば、それは解像度を上げることに匹敵するくらい気を遣っても良かった部分なのではないだろうか。もう少し正直に言えば『ゼノブレイド2』のビジュアルの方向性は完全に間違っていたと認識して欲しいという切なる願いでもある。

 

元々『ゼノブレイド』の魅力には「王道」というのがある。この「王道」には多分に「健全さ」に近い価値観が含まれていると思うのだ。なにより、それがファンの間口を広くしていた面が確実にある。そうした「健全さ」は端的にクリエイティビティの抑制となるわけでは決してないし、むしろ「任天堂RPG」として、極めて伝統的で保守的なアイデンティティにもなり得るのではないだろうか。

Wiiの時の『ゼノブレイド』のキャラクターデザインは若干日本のアニメらしくない陰りのある雰囲気があったが、それが『DE』では完全に現代の日本のアニメ的表現へと切り替わってしまった。しかし日本のアニメ的表現で勝負しているRPGは既にたくさん存在している。そこに任天堂がわざわざ参戦することにそれほど意味があると思えないし、仮にその方向性を目指すのであれば、これまでにない実験性や新奇性を盛り込むなどの知的な挑戦が欲しいと感じる。『ゼノブレイドDE』は素晴らしい作品ながらも、こうした期待が今後も叶えられそうにないと思わせる。思い出補正を凌駕できた作品ではあるのだが、これはこれとして思い出として完結してしまい、残念ながら未来に期待できるものが少ないと感じさせる作品でもあった。(おわり)

 

*1:Wiiの『みんなのニンテンドーチャンネル』で、購入者による評価が閲覧できた。そこで唯一長期間プラチナ評価を維持し続けたのが『ゼノブレイド』だった。

*2:また『ゼノブレイド』は、カットシーンのカメラワークが非常に素晴らしい。『ゼノブレイド』のキャラクターモーションはいかにも古臭いが、そんなモーションであっても可能な限り見応えのある絵作りをしていることは本当に凄い。メインストーリーの魅力の大きな要素であることは間違いないと思う。その魅力は『ゼノブレイド2』にも引き継がれている。

*3:そんなアンチリベラルという考え方で何かを表現している訳ではないと考える人もいるだろうが、例えば『ゼノブレイド2』にはそうしたルサンチマンを感じさせる要素が非常に多い。ラストのホムラとヒカリが分裂して再会するところも「フィクションなんだから都合良く俺たちの欲望を叶えて何が悪いんだ?」というネトウヨ的なヤンチャさを表現しているように思えてならない。

『ラスト・オブ・アス』のラストの圧倒的な素晴らしさについて

2013年に発売された『ラスト・オブ・アス(The Last of Us)』(以下、ラスアス)は、ゲーム史に何十年も残る傑作ゲームだ。そろそろ『Part 2』が発売されるこの時期に、どうしても書き残しておきたいと思い、この記事を書くことにした。本稿はネタバレ全開でいく。

 

『ラスアス』は長い物語であり、そこで語られるエピソードは多様であり、その解釈についても多様にあると思われる。しかし私はこの物語に一つのテーマがあると考えている。それは「1人の人間の生を超えるもの」である。これを描くことが『ラスアス1』全体に通底しているテーマなのではないかと考える。

 

それでは『ラスアス』がどのようにその「1人の人間の生を超えるもの」を描いたのか。重要な要素を順番に見ていってみたい。最初は当然、オープニングでのジョエルの体験だろう。主人公ジョエルが初めてゾンビ*1パニックに遭遇する場面がオープニングでは描かれる。そこで、娘と2人、なんとかゾンビの群衆から逃げようとするものの、不幸にもパニックの鎮圧部隊である兵士に娘は撃ち殺されてしまう。最愛の娘を目の前で失うという衝撃が、本作のジョエルの行動の裏には常に存在している。ジョエルは娘のためなら自らの生を投げ出すことさえ厭わないであろう。最愛の娘をむざむざと殺されてしまい、ただ1人生きていくことが課せられる。「自らの生を超えるもの」を喪失した男がここで作られることになる。

 

オープニングから数年後、ゾンビパンデミックにより隔離された区画で、優しい父親としての雰囲気が全て削ぎ落とされたようなジョエルが再び登場する。物語のメインはここから始まる。ああした衝撃的な経験を持つジョエルは、人としての優しさを失い、希望や未来というものを信じていない人間に見える。ここで面白いのは、ゾンビが大量発生した異常な世界をどのように彼が生き延びたのか、どんな生活だったのかということはほとんど語られない点だ。ゾンビをテーマにした物語ではあるが、ゾンビパニックという状況での人間ドラマではなく、ポストゾンビパニックの人間を描いている。危機的状況ではなく、その後の一定の安定を得てしまった人間が描かれる。様々な描写から、おそらくその隔離地帯は、心から安心して暮らすことが難しい世界だと推測される。そこでは人を騙すことが頻繁に行われ、生きていくためには常に他人を疑い、警戒心を高めたまま生活する必要がある。しかし、そこでは辛うじて生が保証されている。そのギリギリの生のみが許されている状況においては、「1人の生を超えるもの」はほとんど見られない。自分1人が生きることのみが優先される社会だ。

 

その隔離地帯で、ジョエルはテスとともに、政府への抵抗組織「ファイアフライ」のリーダー、マーリーンから1人の少女エリーの護衛を依頼される。エリーをある場所まで連れて行って欲しいと頼まれるのだ。これが本ゲームのメインの目的となる。テスという女性は非常に興味深い存在だ。彼女はジョエルを仲間のように扱うが、かと言って恋人のようなパートナーという感じもしない。サバイバルのために互いに利用し合っているという雰囲気も垣間見れる。テスがこの物語で重要な役割を果たすのは、彼女の最期の場面だ。彼女はゾンビに噛まれ怪我を負ってしまう。これまでテスは、自分が生き残るために凄烈な生を送ってきたはずだ。しかし彼女は最期、自らの生を賭して、ジョエルとエリーの囮となり助けることを選ぶ。おそらくテスはジョエルとも利己的な関係に終始していたはずで、その自分の命を他人のために捧げる行為はジョエルにある一定の衝撃を与えたことだろう。テスは最期にこう言う「私に対してそれくらいの義理はあるでしょう?」と。これはどう言う意味か判然としないが、もしかしたら、テスとジョエルは何回か肉体関係を結んだこともある関係なのかもしれない。しかしそこに日常生活のようなロマンチックさはなかったようにも思われる。あくまでそうした行為さえ、利己的なものとして「大した話じゃない」こととして捉えられているだろう。自らの1人の生を維持することに互いに必死すぎて、彼らはその生に閉じ込められている。そんなテスが「自らの生を超えるもの」として命を賭けたのがエリーだ。エリーはゾンビ感染への抗体を持っている。彼女はこのゾンビパンデミックの解決の糸口になるかもしれない。エリーは数多の人類を救うかもしれない。テスは、そういう意味で、自らの「1人の生を最期に乗り越える」ために、囮になるのだ。

 

この後の物語で重要な登場人物になるのは、ビルとヘンリー・サム兄弟である。彼らはセットで考えることができる。ビルは偏屈で心を開かない男だが、車の修理ができる。ビルがジョエル達に協力するのは「貸し借り」があるからだ。ビルの行動原理はあくまでその生に閉じている。ビル自身の生を超えるような協力はしない。ヘンリーとサムの兄弟も同様だ。彼らはビルよりも協力的だし、善良だが、自らの生のためにはジョエル達を見殺しにする。そして結局のところ、その生を自らの手によって不幸にも終わらせてしまう。彼らは、テスという「1人の生を超える」希望をプレイヤーに見せた後の反動として、「1人の生を超えられない」どうしようもない現実を見せつける。しかし、そんな彼らにも、愛する人がいる。本当は、自己中心的になんて生きたくはない。しかしそう生きざるを得ない人たちである。

 

その後、ジョエルは兄弟であるトミーに再開する。トミーたちは水力発電施設を拠点にコミュニティを築いている。ここで重要なのは、トミーが結婚するというエピソードが展開される点だろう。結婚は日常生活の取り戻しの象徴であるとともに、生殖も含意しているのではないかと考える。つまり、彼らには、今後子供を産み、育てていく未来が想定される。「1人の生を超えるもの」として、最も保守的な在り方を示すのが、彼らトミーたちの存在だ。だから彼らはジョエル達に付いていくことはできない。彼らには守るべきものがあり、今の在り方を変える冒険に出ることはできない。ちなみに、彼らが本当に子供をもうけるかどうかは分からない。しかし、コミュニティがそこには存在しており、そのリーダーとサブリーダーが結婚するということは、そのコミュニティが今後はつがいを作り、繁殖して、「1人の生を超えていく」在り方を象徴しているのではないだろうか。人間が1人の人間としての生の限界を超えていくこと。これは家族やパートナーと共に仕事をこなし、何かを生産し、様々なものを次の世代に残していくこと。この最も私たちの現実世界に近くプリミティブな姿を見せるのが、トミーたちのコミュニティだ。*2

 

トミーの元を去るジョエルとエリーはある大学に到達する。そこでジョエルは大怪我をしてしまい、その後はしばらくプレイヤーはエリーを操作することになる。ここで、エリーはデビッドという男に出会う。個人的にはこのエピソードが「1人の人間の生を超えるもの」というテーマから最も遠かったと考えている。全体の中でも非常にエンタメ的なエピソードだろう。ここで明かされる衝撃的な事実は、デビッドたちの集団は人肉を食って生き延びているということである。牽強付会を覚悟でこれをテーマにかこつけるとするなら、「1人の人間の生を超えるもの」の最も歪な形を体現したのがデビッドたちだと言えるだろう。彼らは食人行為によって、人が人であることを醜悪に超えてしまい、同時に1人の生にこだわり続けたその極北なのだと言えるかもしれない。

 

デビッドの魔の手から生き延びたジョエルとエリーは、ようやく最終目的地に到着する。では、ここまで「1人の人間の生を超えるもの」をテーマに『ラスアス』を見てきたが、エリー自身は、そのテーマにおいてどういう存在なのかを考えたい。私が考えるに、エリーとは「1人の人間の生を超えることを宿命づけられた存在」である。ジョエルもこれまでのあらゆる登場人物たちも、すべて、なかなか「1人の人間の生を超えられない」ことを宿命づけられている。テスは死の間際になって、ようやく超えられたし、トミーたちは、生殖によって、なんとか時間をかけて越えようとしている。しかしエリーだけは違うのだ。エリーだけは最初から「1人の人間の生を超えることを宿命づけられて」しまっている。だから彼女は「わたしだけが生き残る」ことに、そして、あらゆる人間の生を超え続けることに苦しんでいる。

 

プレイヤーの中には「エリーはこの極限状況の中でなら、新興宗教の教祖になれそうだな」と想像した人もいるのではないだろうか。あらゆる人間を超える存在としてのエリー。そして「ファイアフライ」は彼女から抗体を取り出して、その生を終わらせることで、エリーを文字通り人間を超えた存在にしようとしているとも考えられる。

 

一方、ジョエルは、これまで様々な死戦を潜り抜け、娘のように愛情を注ぐに至ったエリーを救うことを決断する。エリー1人を救うことで、人類の大逆人としての枷を背負うことを覚悟して、ファイアフライの拠点から脱出する。彼にとってエリーは、救えなかった娘の代わりではあるが、それは「1人の人間の生を超えるもの」としての存在でもある。他の全人類の命の総重量を超える価値を持つものとして、エリーを扱っている。しかしエリーにとっては、それは真逆の意味を持つ。彼女はジョエルの嘘(他にも抗体を持っていた子がいたから、エリーは抗体抽出に不必要だった)にやや気付きながらも、ジョエルの覚悟を受け入れる。それはジョエルがエリーを「1人の人間の生を超えられない」普通の人間として扱ってくれているように捉えられるからだ。これまで「1人の人間の生を超えることを宿命づけられて」いたエリーは、ジョエルの大逆行為によって初めて、「自分1人のためだけに生きていい」と許容されたのである。だから、ラストシーンで彼女はジョエルに誓わせるのだ。「お前の嘘は本当か?」と。彼女はずっと待ち続けている。自分の生が他者を超え続ける苦しみから解放されることを。そしてその日は来ないことをエリーは知っている。しかしそうではないと語る人間が現れた。それがジョエルだ。単純にジョエルの嘘を受け入れることはエリーにはできない。これまでの人生を通した呪いは気軽な嘘で覆せるようなものではない。しかし、一方で覚悟を決めた嘘によってしかその呪いは取り払うことができないのだ。なぜなら人類救済の抗体を持っている事実は変わらないからだ。

 

「1人の人間の生を超えるもの」は往々にして、美しく描かれることが多い。自分の死を賭して、何かの大義のため、他者のために生きることは尊く感じられる。しかしそれは見ようによっては数の論理であるのだ。1人の犠牲で多数を助ける。この「正しさ」には数の論理としての圧倒的な合理性がある。しかし、人が「1人の人間として生きる」ことには、こんな単純な数の論理ではない屈託を持つことを『ラスアス』のラストシーンは示している。それは理屈ではない。例え他の人類全員が苦しむことになっても生きることのどうしようもなさ、それは理屈ではなく、覚悟によってしか担保されないのだ。数値上の生きる価値があるから、人は生きているのではない。ジョエルの誓いとそれをエリーが信じることにより、エリーが1人の人間として「ただ生きる」ことの価値が担保されている。「1人の人間の生を超えることを宿命づけられている少女」の覚悟によって、我々の「ただ生きること」もまた、どんな忠義の死の物語もよりも力強く担保してくれているのだ。

 

*1:本作では、怪物のことは明確に「ゾンビ」と言われているわけではないが、便宜上本稿ではゾンビと記すことにする

*2:少々余談だが、このトミーの生き方が描かれているのを見ると、エリーが同性愛者であるという設定は、かなり含みのある設定だと考えることができる。『ラスアス』は物語を通して性というものから距離を取っているように見える。しかし、車の修理が得意なビルが同性愛者であることが示唆されたり、先述のジョエルとテスの関係や、私自身の妄想に近いが「ファイアフライ」でのマーリーンとエリーの母親の関係の間にも若干性的なものを感じる。しかし、そこにありがちな親子の愛情や異性愛者同士の恋愛が共に描かれることはない。まだ上手く述べられないがここにも「1人の人間を超える」ことに反響するテーマがあるようにも思える。