ビデオゲームとイリンクスのほとり

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映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

「ノベルゲームはゲームではないのか?」論争で本当に自分が言いたいことは何か

今更な話題だと思う人もいるかもしれないが、「ノベルゲームはゲームではないのか?」という論争が最近話題になった。この話、ゲームについて考えたいすべての人が、一度は考えてもいいテーマであると思う。賢明な人は一足飛びに正しい結論にまで到達できてしまうかもしれないが、私を含め色々と寄り道しながら、亀のようにノロノロと考えを進めていく人もいる。

そのノロノロとした行程をこの記事では書き残してみたい。せっかくなので、AIを使いつつ、AIの発する言葉を一切引用しないで書いてみよう。そういう非効率な覚え書きにも価値はあるかもしれない。

ノベルゲームはゲームっぽくないという直感はよく理解できる

まず、最初に「ノベルゲームはゲームっぽくない」という感覚(直感)は多くの人が抱く感覚であり、それを理解する人は多いだろう。おそらく「ノベルゲームもゲームだろ!」と主張する人であっても、この「ゲームっぽくない」という感覚は「理解できる」のではないだろうか。ただし、多くの人が「ゲームっぽくない」とは感じつつも、「ノベルゲームはゲームではない」と断定する人はそんなに多くない、ということは重要だ。人は意外に慎重なものであり、この多くの人が持つ慎重さというのは、とても大切なポイントだと私は思う。この点は記事の後半で再び考える。

では、最初に戻り、この「ノベルゲームはゲームではないのでは?」という議論はどう考えられるべきなのだろうか。この議論は昔からされており、そうした過去を知っている人だと「この議論は不毛なのではないか?」という身も蓋もない意見を言いたくなるかもしれない。確かに、この議論は不毛な議論になるパターンが少なくない。多くの人が指摘する通り、「〜は、ゲームではない(or ゲームである)」という述語によって何を主張したいかが曖昧なままではおそらく噛み合わない議論になりがちで、噛み合わない議論は不毛と言っても良いだろう。

では、そうした述語の曖昧さを少しずつ減らしていけば良いのだろうか?例えば「ゲームである、とはどういうことを指すのか?どういう価値判断を含意するのか?」と、「ゲームである」という述語の内容を明確にしていけば良いのだろうか。確かにそれは議論の生産性を上げるとても正しいやり方だ。しかし本当にそれが有効なのか、私はやや疑問に思っている。そうした「議論の整理」よりもむしろ他にやるべきことがあるのではないかと最近はよく思うのだ。

まず気になる議論に出会った時に私たちがすべきことは、その議論に対して自分が言いたいことが本当は何かを知ることなのではないだろうか。私たちはある意見や論争に接した時に、自分の中になにか「ムクムク」と湧き上がるものを感じる。しかし私もそうなのだが、それは最初、明確な言葉にはなっていない。変な言い方だが、私の中で起こっていることなのに、私自身がよく理解できないものである。そして、私が本稿で最も主張したいのは、その自分の中の謎の「ムクムク」を言葉で理解できるようになると、最初に気になった他人の意見や論争が全く違う様相を帯びてくる、ということだ。その行程を少し詳しく書いてみよう。

キーワード: メディウム固有性(medium specificity)を使ってAIと語る

自分の中に湧き起こる「ムクムク」を言葉にすることはとても難しい。多くの先人の書籍を読んだり、専門家や有識者と議論するなどの必要があるからだ。有能な他者がいないと自分の中の「思い」はなかなか言葉にならない。ややもすると、言葉にならないどころではなく、とても不適切な言葉になってしまい、闇落ちすることさえある。しかし2026年は少し状況が違う。今はかなり優秀なAIがいる。このAIと語ることである程度自分の中の「ムクムク」を言葉にすることができる。

例えば今回の「ノベルゲームはゲームではないのか?」という議論について何かを語りたいと思ったとしよう。であるならば、私たちはまず、AIのチャット欄に次のように書き込んでみると良いだろう*1

ノベルゲームはゲームではないのか?をメディウム固有性(medium specificity)*2という観点からどう考えられるかな?

おそらく、そこで得られる返答は、XなどのSNSで見られる未整理の議論の100倍くらいは有用な意見だ。重要なのは、太字で示したようなキーワードを用いるということで、これが文字通りタイパという意味でも非常に効率的である。もちろんこのキーワード以外にも重要なキーワードはあると思うので、「これが正解なのだ」ということが言いたいわけではない。

なお、メディウム固有性というのは、そのメディア形式に固有の特性を指す。例えば、ゲームという形式であれば「インタラクティブ性」が挙げられることが多いだろう。他のメディア形式、例えば絵画なら「平面性」とか、映画なら「動きの描写」や「編集」などがメディウム固有性として議論されてきた。もちろんひとつのメディア形式ごとに一つとは限らないし、何をメディウム固有性とするかについては議論が分かれることもある。そして今回の「ノベルゲームはゲームではないのか?」の議論はまさに「ゲームがゲームであるために必要な要素」そしてそうしたメディウム固有性がゲームという形式には備わっているべきなのかどうかが、主要なテーマとなっている。

なぜこうしたキーワードが有用かというと、何十年も、人類の先輩たちが、メディウム固有性というキーワードを巡って世界中で議論してきたからだ。これは数十年分の議論の蓄積の「美味しところ取り」ができる魔法の言葉でもある。またキーワードに英語をわざわざ含めるのは、その方が得られるものが大きいからだ。日本でしか議論されてないようなテーマなら日本語のキーワードだけでも良いだろう*3。

AIの回答にいかに難癖をつけるか?

AIから回答を得るだけではつまらない。次にすべきことは、その回答に難癖をつけることだ。なぜ難癖を付ける必要があるのか。もし100%満足が得られる回答ならそれで良い。しかし多くの人がAIの回答では微妙に満足がいかないのではないだろうか。一見正しそうなことを言ってるけど、痒いところに手が届かない。どこか私が気にしたいポイントと違う。これはとても貴重で大切な感覚だ。例えばAIの回答を踏まえ、私は次のように聞いた。

いやいや、言いたいことは分かるが、メディウム固有性(medium specificity)がないと、なんか良くないというか、つまらないと思うんだが、そこはどうなのよ?

この難癖は私の難癖であり、人によっては違う難癖になるだろう。しかしここで重要なのは、「なんか良くない」や「つまらない」などの言葉をなんとか紡ぎ出せるかどうかなのだ。納得できないと言う気持ちを素直に表現することが重要だ。しかし意外にこれが難しい。人間は自分の納得のいかなさを、普段なかなか素直に言葉にしていないからだ。だから「納得いかないぞ」を表明する言葉は、拙く、バカっぽくなる。そして、人間相手ならこんなバカっぽい言葉で語りかけることは恥ずかしいと思うかもしれない。が、所詮相手はAIである。全く気にする必要はない。この遠慮の不要さこそがAIの価値だろう。

こうした難癖を何回となく繰り返す。自分が100%納得するか、飽きるまで繰り返す。たいていは途中で飽きてくる。飽きてきた要因はAIの愚かさにあるのか、それとも聞き手である私の愚かさにあるのかという問題は一旦置いておくとしよう。しかし、こうしたことを何回か繰り返すと、不思議と自分の中に変化が起きる(ことがある)。それは最初にも言ったが、他人の意見の慎重さに気がつくという変化だ。

他人の意見は私よりも慎重である

ある程度、AIとの問答を繰り返した後に、最初に気になったポストや記事などに戻ってきてみよう。最初その意見を見た時に「文句をつけたい!」と思ったかもしれない。しかしその時よりも意外に反論が難しいことに気がついたりする。思ったよりもその意見は慎重に言葉が選ばれ、何かを断定していないことに気がつく。そう、他人は私よりも遥かに慎重に読み手に気遣った言葉選びをしていたりするものなのだ。もちろんそうではない人もいる。不用意に強い言葉を使っている人もいる。しかし私が「この人の言葉は慎重だけど、こっちの人の言葉はめちゃくちゃ不用意だ」と気がつくことにはとてつもない価値がある。私も頻繁にそうなのだが、あと一歩でその「めちゃくちゃ不用意」な言葉を私が発していてもおかしくなかったからだ。

ただし、ここで重要なのは、他人の慎重さに気がつくということは決して気持ちよかったり、楽しかったりするわけではないということだろう。それは「楽しい」とかとは次元の違う話だ。だからもし「楽しい」ことが重要であるならば、慎重になってはいけないのかもしれない。きのこたけのこ論争が楽しいのは「きのこ派は人類の敵だろ」ぐらいの不用意な言葉を発することにある。不毛さを不毛であると理解できる状況であれば、むしろ不用意さこそが楽しむ術となる。

「ノベルゲームはゲームではないのか?」論争において本当に自分が言いたいことはなんなのか。仮にそれが、誰かを馬鹿にしたいとか、自分が好きなものを強く推したいとか、それは言葉にしてしまうとあまりに素朴で卑近なものかもしれない。しかも、それを自覚することは決して楽しいわけでもない。しかしそれで良いのだ。それを不遜にも言葉にすることに意味がある(ただ世に発するべき言葉かどうかは別に考える必要がある)。そのことこそを深く言葉で掘っていく必要がある*4。それはAIでも絶対に到達できない深みである。なぜならあなただけが持つ膨大なコンテキストを、他人もAIもプロンプトに完璧に打ち込むことは、絶対にできないからだ。そこには無限の「なんか私の言いたいことと違う」があり、追求すべき謎がある。その無限の追求は果たして不毛なのか、それとも豊穣なのか。私は明らかに後者であると思う。

*1:ちなみに私はこの記事の執筆時点においては、Opus5.5とgpt5.6 lunaを使っている。claudeばかり使ってきたが、ここ最近不満が溜まってきており、gptに乗り換えようかと思っている。geminiはなんとなく避けている

*2:2026年10月に出るキャロルの『動画哲学講義』という翻訳本では「メディウム固有性」という言葉が使われていたので、本稿ではその語を用いる。他にもこちらのブログでは「メディアの固有性」という言葉が使われている。他にも色々な訳語がありそうなので、そういう意味でも英語でAIに伝えたほうがいいかもしれない

*3:どういうキーワードで聞けば良いか分からないという問題はかなり難しい。これはAIに聞いてみてもなかなか「適切に」知れるとは限らない。要は自分の関心はどこかという最初の問題と密接に関連するからであり、「直感的な論点先取」のようなものがないと難しい。何かについて「人間が」考えることは、こうしたキーワードの網の目の強度をどのくらい高められるのか?という問題があり、これはAIが発展しても、もうしばらく残り続けるような気もする。

*4:別に言葉で掘る必要はない。他のモノで掘る人もいる

冒険家エリオットはゼルダの代替品?英語圏ゲームメディアのツイートから考える”無人”翻訳のポジティブな一面

Polygonというゲームメディアがある。日本での知名度はそこまでではないかもしれないが、おそらく英語圏ではそこそこに有名なゲームメディアなのだと思っている。

そのメディアが自らの記事をXで告知するポストをしていた。その時ポストされたテキストが以下のような言葉だった。

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Square Enix's Zelda replacement officially releases in 1 month *1

ちなみに、これをXのGrokで訳すと以下のようになる

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スクウェア・エニックスのゼルダの代わりが正式に1ヶ月後に発売

(太字は引用者)

このツイート。知ってる人は「ああ、スクエニの新作『冒険家エリオットの千年物語』の話だな」とすぐに理解できるだろうが、仮に翻訳されたテキストだけを見たら、少し違和感、というか「そんな言い方するの?」と感じるかもしれない。「ゼルダの代わり?」と。

最初にたまたま私がこのツイート(ポスト)を目にした時は英語だった。そこで、"Zelda replacement"って、そんな言い方するもんなの?と少し疑問に感じた。日本語で「代わり」と言ってしまうと、二番煎じや、少し劣位なもの、という印象を与えかねない。英語が堪能ではないので、どのようなニュアンスなのか自信はないのだが、英語圏ではこのreplacementという単語は、この文脈においては、日本語の「代わり」や「代替品」という直訳と、やや違うニュアンスなのだろうと思った。

ところで、このツイートからリンクが貼られているPolygonの本文記事*2を読むと、実はreplacementという単語は一言も使われていない。つまり、replacementはXのポストのみに出現する単語なのだ。なお、記事本文自体は、かなり『冒険家エリオットの千年物語』に対して、好意的な印象が書かれている(体験版の感想記事である)。

ここから想定されるのは、おそらくある程度の「煽り」と言っては言い過ぎかもしれないが、人のアテンションを集めることを意識して、わざわざreplacementという単語を使ってはいる、しかし、日本語で「ゼルダの代わり」とか「ゼルダの代替品」のような言い方ほどドギツい印象を、おそらく英語の"Zelda replacement"は与えないのだろう、ということだ。もしかしたら、私の解釈は間違っているのかもしれないので、誤りがあればどなたか教えてほしい。

で、仮に「(やや煽り気味だけど)比較的ニュートラルな言い方だ」という私の解釈が適切だったとして、そう考えると機械翻訳には機械翻訳としての一つのポジティブな役割があるかもしれないということを思った。この私の記事が言いたいのは、この点にある。

もし先のPolygonのツイートを日本語に訳す仕事の人がいたら、Grokが訳したように「スクウェア・エニックスのゼルダの代わりが正式に1ヶ月後に発売」とは訳さないだろう。日本語として小慣れていないというだけではなく、やはり「ゼルダの代わり」という言葉を選択しないような気がするのだ(選択する翻訳者もいるかもしれないが)。例えばPolygon記事本文では、"Zelda-like(ゼルダ風)"というとても穏当な言葉が使われており、無難に「スクウェア・エニックスの新作ゼルダ風RPG、あと1ヶ月で発売!」といった感じで訳すような気がする。

どちらが翻訳として良いとか悪いとかという話ではない。読み手が「誰か実在の人間が訳している」と思うと、「ゼルダの代わり」という訳にはよりドキッとして戸惑ってしまうかもしれない。しかし機械が「ゼルダの代わり」と訳していると思うとそこまでドキッとすることもなく、意外に「そういう言い方を英語だとするのかもな」と受け取れるかもしれない。相手が機械だと思った方が、異文化を異文化のままに、そのまま、より素直に受け取れるかもしれない、と思ったのだ。

私たちは、相手が人間ではなく機械だと思うからこそ、そこに「意図を読み込むコスト」を掛けないで済む可能性がある。それは日本というローカル文化を加味しないからこそ、ローカライズした文章を読むよりも直訳の方が異文化というものをありのままに受け止める可能性があるかも、という話でもある。

私たちが機械翻訳から受け取るのは、時に不自然に感じられるからこそ、異文化のザラつく感じをより直感的に理解できるのかもしれない。そういうノイズは、機械翻訳だと思える方が(=誰かの意図ではないと思える方が)素直に受け取れる。こうした機械翻訳の一面は、これまであまり意識しなかったポジティブな側面としてあるのではないか。そんなことをつい考えてしまった。なお、大事なポイントなので補足するが、これは機械翻訳の方が直訳的だ(とかそうではないとか)、そういう話ではない。訳したのが人間なのか?機械なのか?というある種メタ的な認識が他言語理解に及ぼす影響の話である。

通常私たちは、機械翻訳が自然な日本語を提供してくれることを望む。それは情報伝達としての翻訳としては正しいだろう。しかし、むしろ、機械にしかできない「空気を読まない直訳」にも価値があるのかもしれない。それは情報伝達ではなく、異文化理解としての翻訳としての価値だ。多くの誠実な翻訳者はその狭間で悩むものなのだと思うが、それは人間が訳したものだと理解されるからこその悩ましさかもしれない。その悩みから解放された機械たちが無遠慮に文脈を読まない翻訳をすることには、独特の価値があるのかもしれないのだ。そこには、気を使うべき人間が「誰もいない」ことのメリットがある。自動運転のタクシーのメリットに、「運転手に気を遣わなくていい」という点があることは時に語られるが、実は異文化理解としての翻訳においても、こうした「気を遣わなくていい」というメリットが生きる時があるのかもしれない。これは将来的にAIが更に発展して、あまりに広く文脈を考慮する自然な翻訳が可能になってしまうと、せっかくの機械としてのメリットを失うことになるかもしれないということだ。それはむしろもったいないのではないか?と思う。

 

『紅の砂漠』は驚くほど他のゲームで見たような要素ばかりなのに、なぜ新鮮に面白く感じるのか?

2026年3月。『紅の砂漠』というゲームが発売された。リリース当初の評価はあまり良いものではなかったが、信じられないスピードでアップデートを重ねることでゲーム内容が改善され、急激にその評価が上がった。現時点では高評価が大半を占めるようになっている*1。また、ゲームそれ自体の持つ良ポテンシャルが長時間のプレイによって段々と明らかになっているようで、いわゆる「噛めば噛むほど味が出るスルメゲー」という評価もされている*2。

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私自身、本稿の執筆時点で50時間ほどプレイしてみたが本当に楽しい。まだまだプレイを続けたいと思わせるゲームだ。少し前に遊んだ『ゴーストオブヨーテイ』というオープンワールドゲームが30時間ほどで飽きてきてしまいプレイが停滞していることを思うと非常に対照的でもある。度重なるアップデートによる改善が、最近の『紅の砂漠』の高評価をもたらしたことは疑いようがないのだが、多くのゲーマー、特にこの手のオープンワールドゲームをこれまで数多くプレイしてきた人には、独特の驚きが『紅の砂漠』にはあるのではないだろうか。

それが「なんでこんなに従来のオープンワールドゲームで見たことがあるような要素が詰め合わされているだけなのに、『紅の砂漠』はこんなに新鮮に楽しめてしまうのか?」という驚きであり、疑問だろう。そう、この『紅の砂漠』は不思議とどの要素もこれまでに他のオープンワールドで体験したものと似ており*3、しかもその「似ている」という印象を覆すような全く新鮮な要素というのは逆にあまり見当たらない。いわゆる中世ファンタジー風オープンワールドゲームとして、極めてオーソドックスな作りに見えるのだ。

本稿では、この疑問に対して、結論から言うと、ある種の「不出来さ」が関与していると主張したい。つまり当初批判された数多くの『紅の砂漠』の持つゲームとしての欠点こそが、このゲームを新鮮に感じさせる独特の要素として働いていると考えている。しかし、その欠点は単に「変わったモノ」「もの珍しいモノ」として働いているのではなく、プレイヤーが感じる新鮮さを生み出す要素としてやや不可欠な機能を持っていると考えている。また、当たり前の話だが、全ての「不出来さ」が良い効果をもたらしているわけでもない。やや乱暴で思い込みで書いている部分も多いが、以下、説明したいと思う。

なぜUBIのゲームは「どれも同じ」と言われるのか?

『紅の砂漠』の話に入る前に、多くの名作オープンワールドゲームを開発しているUbisoftというメーカーのゲームについて、少し説明したい。Ubisoftの有名なオープンワールドゲームというと、1番は『アサシンクリード』シリーズだろう。暗殺者を操作して広大マップを冒険するゲームだが、その売り上げは4年前の2022年の時点で、シリーズ累計2億本とも言われる*4。

それ以外にもUbisoftが開発したオープンワールドゲームには『ファークライ』シリーズ*5や『ウォッチドッグス』シリーズ*6などいくつか存在する。どれも世界で1千万本以上は売れているシリーズだ。

しかしここ数年、Ubisoftのオープンワールドゲームは「どのUbisoftゲームも同じだ」というような批判をされることが多かった。実際、以下のようなゲームメディアでの記事がある。こうした記事が出るくらいには広くゲーマーにはUbisoftのゲームはどれも似ていると思われている。

組み合わせ方がうまく噛み合えば、『アサシン クリード オデッセイ』のようなヒット作が生まれる。その一方で、同じことを繰り返すとマンネリ化を招く場合もある。たとえばUbisoftタイトルでは、「タワーを登ってマップ表示域やファストトラベル地点をアンロックする」要素が含まれるケースが続いた。

Ubisoft “どのシリーズも似ている”現象解消のためチーム再編。差別化を図る新体制下には、一度退社した『スプリンターセル』主要メンバーの名も - AUTOMATON

この記事にある通り、同じようなメカニクスによってマンネリ感を感じさせ、それによって「どのUbisoftのゲームも同じだ」という印象を与えることは不思議ではない。

しかし、ことはそんなに単純ではない。先の記事にある「タワーを登ってマップ表示域やファストトラベル地点をアンロックする」要素というのは、2018年の『ファークライ5』という作品では、大きく変更されている。これは従来のファークライ シリーズとの明確な差別化であり、またアサシンクリードシリーズのビューポイント(高所)に登るという仕組みとの差異化とも言える。しかし、この『ファークライ5』の変更によって、Ubisoftのゲームは同じだという印象は果たして変わったのだろうか?一度刻みついた印象は簡単に変わらないとはいえ、先の記事は2020年である。『ファークライ5』の2018年の発売から1年以上経ってもまだ、「UBIのゲームはどれも同じ」という印象は継続している。だからこそ、この記事のタイトル のように「Ubisoft “どのシリーズも似ている”現象解消のため」と書かれてしまう。記事の1年以上前に発売された『ファークライ5』で既にその問題が解消されていると多くのプレイヤーが感じていれば、そうは書かないだろう。実際に『ファークライ5』をプレイした私自身の感想としても同じである。『ファークライ5』のあまりにも変わり映えしない印象によって、「もう次回作は買わなくていいな」と思ってしまった。『ファークライ3』(2012)以降継続して買っていたファークライ シリーズだったが、2021年の『ファークライ6』は購入しなかった。ここで言いたいのは『ファークライ5』が新鮮味のないゲームだったという批判ではない。重要なのは、「何かを変えてもそれによって本当に変わった」とは簡単に判断されないし、それはどういう心の仕組みなのか?ということだ。

【仮説】ギミックと内部構造の二段階による理解

私たちプレイヤーが「どのUbisoftのゲームも同じだ」と語る時、それは、ギミックと内部構造の二段階での理解を前提としているのではないか。これは私の仮説だが、もう少し詳しく説明しよう。

例えば、先の「タワーを登ることでファストトラベル地点として解放する」という仕組みを例に取る。この仕組みの中の「タワーを登る」の部分を「基地を制圧する」に表面的に(ギミックとしては)変更したとしても、内部のより本質的な構造は変わらないと判断されることがある。これが私の「構造理解の二段階仮説」だ。その内部の構造というのは、例えば「ある特定のエリアごとに配置されるファストラベルポイントを順次解放していって、徐々に世界の様子が明らかになっていく仕組み」とでも言えるかもしれない。しかし内部構造が何で、ギミックが何かというその詳細や定義の中身をここで議論したいわけでは無い。むしろここで考えたいのは、マンネリと言われるのは、仮に表面的に変更されたとしても、その内側の構造が似たようなモノだと判断されれば、「同じだ」と判断されてしまうということであり、そういう判断の仕組みそれ自体である。

このことは、『ファークライ5』が発売される前から、ある意味では当然の話でもある。というのも、アサシンクリードもファークライもウォッチドッグスも、シリーズごとに舞台設定は大きく異なっている。アサシンクリードは歴史的な舞台(十字軍時代の中東やルネサンス期のイタリアや産業革命時代のイギリスなど)をテーマとしたゲームであるし、ファークライは時代は現代だが未開の島や国を舞台としたゲームだし、ウォッチドッグスは現代のハッカーたちがネットワークやコンピュータの知識を総動員して大都市で活躍するゲームだ。登場する人も状況も大きく異なる。当然だが、それぞれには異なる固有でオリジナルなメカニクスも備えている。「Ubisoftのゲームはどれも同じ」などとそんなに簡単に言えるわけではない。何よりアサシンクリード という一つのシリーズに限ったとしても、作品ごとに全く異なる仕組みが取り入れられ、多くの挑戦がなされている。『アサシンクリード3』(2012)、『アサシンクリード4』(2013)ではこれまでなかった船を使った移動や海戦のような仕組みが生まれたり、『アサシンクリード  シンジケート』(2015)では機関車という常に移動する乗り物が主人公の拠点になるというこれまで見られなかった要素を備えている。つまり『ファークライ 5』に限らず、これまでもUbisoftはずっと新規要素を取り入れて挑戦してきたにも関わらず、10年以上、「UBIゲームは変わり映えがしない」と言われ続けているのだ。これはつまり実態としての作品の中身の変更とは別に、あくまでプレイヤーの中で「何かが変わらない」と思われていることを示唆している。

私の「構造理解の二段階仮説」というのは、このプレイヤーの理解を整理するための説だ。プレイヤーはある種の要素を表面的で本質的ではない要素として捉える。これを仮に「ギミック」と呼びたい。そしてその内部にある本質的だと思われる要素を「内部構造」と呼ぼう。重要なのは何がギミックで何が内部構造かを最終的に決めるのは作品の持つメカニクスや仕様ではないということだ(ここが私の主張の眼目でもある)。そうではなく、プレイヤーがある意味で勝手に何かをギミックだと思い、何かを内部構造だと思う。この二段階の区分けは作品の中にあるのではなく、プレイヤーの中にある。この仮説を取ることで解明したいのは「なぜUBIのゲームはどれも同じだと言われるのか?」と言う疑問ではない。正直いえば、それは分からないし、私自身の興味からは外れる。私が気になっている謎は、本稿のタイトルにある通り「なぜ従来のオープンワールドゲームと似ているのに、『紅の砂漠』はこんなに新鮮に楽しめてしまうのか?」ということだ。この「構造理解の二段階仮説」はそれを説明するのに都合の良い仮説ではないかと思っている。

『紅の砂漠』はどのように内部構造を隠蔽しているのか?

前節で説明した「構造理解の二段階仮説」を使うと、『紅の砂漠』の新鮮さは次のように言える。

「表面的なギミックは同じであっても、内部構造が違っているように思えれば、そのゲームは従来のゲームとは違って新鮮に感じる」ということだ。つまりUbisoftのゲームを捉える時とは逆に考える。この説明によって、『紅の砂漠』というゲームが従来のゲームと似ているはずなのに、なぜ新鮮に楽しまれているかを理解しやすくなるのではないかと考える。

だからと言って、私は『紅の砂漠』という作品について「内部構造が従来のオープンワールドゲームとは違う」から新鮮に楽しまれているとは思っていない。ここには少しだけトリックがある。それは「内部構造が実際に変わっているかどうかとは関係なく、内部構造が単に隠されているというだけでも、内部構造が同じだという認識は遅延され、新鮮味が生まれる」というトリックだ。私は『紅の砂漠』の魅力は、ギミックから想像される内部構造が焦点を結ばず、長い時間ハッキリとした像(内部構造)を見せないがゆえに、楽しませるものだと思っている。そしてUbisoftのゲームに新鮮味が薄いのは、その変更されたギミックによっても、従来と似た内部構造が短時間で見透かされているからだと考えている。

では、『紅の砂漠』はどのように内部構造を隠蔽しているのだろうか?それが『紅の砂漠』の持つある種の「不出来さ」だろうと考える。例えば『紅の砂漠』には様々なパズルが古代遺跡の宝物を守るものとして存在している。しかしその謎解きは妙に難しい。しかし難しいというよりも単に「説明不足」なのだ。どういうルールで何をすれば良いのかが分からない。取っ掛かりの最初の部分が全く説明されないために難しい。ひとたび理解できればやること自体は他のゲームにもあるようなパズルの難易度とそれほど変わらない。こうした「説明不足」によって、『紅の砂漠』には底の知れない神秘性が備わる。いかにも解かれることを前提としたパズルではなく、またそのガイドも親切に用意されているわけではなく、このゲームを理解するための入り口の時点から従来のゲームとは違うという気持ちにさせる。そういう感覚が内部構造を秘密の暗闇に居続けさせるのだ。

そしてこの「説明不足」というのはいわゆるパズルだけではない。他のオープンワールドゲームであれば、最初に絶対にチュートリアルとしてファストトラベルの説明がある。広いエリアを移動させるオープンワールドゲームでは重要な要素だからだ。しかし『紅の砂漠』では、そのファストトラベルをどのようにしたら発見できるのか、また見つけたとしてどのようにファストトラベルポイントとして解放できるのかほとんど説明されない。しばらくプレイしたサイドクエスト(アルフォンソ家のサイドクエスト)でようやくチュートリアルに近いことが説明されるが、なぜこんなに説明をしないのか、よく分からない。

こうした「説明不足」というのは単に上手くルールを隠蔽しているというわけではない。逆に意図的な隠蔽が明確に設計されているのであれば、おそらくその内部構造もまた理解しやすいものにはなるだろう。しかし「不出来さ」からは普通は意図を読み取ることは難しい。出来の悪いものを意図的に作る人はいないからだ。だからこそ、かえって内部構造は深遠な秘密のように感じられる。そこには辿るべき開発者の意図という道標がないように思えるからだ。(実際に開発者の意図がないかどうかは誤解を恐れずに言えば、関係ない。プレイヤーがそう感じられることが重要だ)

その他にも『紅の砂漠』には、中世ヨーロッパ風の世界設定でありながら、スチームパンクに出てくるようなロボットなどが登場したり、東洋の拳法にある掌底のような技がいきなり序盤に解放されたりする。こうしたある意味で「不統一」で「乱雑」でカオスな世界設定はこのゲームが一体どこに向かうのかを不安にさせつつ(こんなカオスで収束するのかと不安させつつ)、しかし逆にゲームを続けさせるモチベーションとなっているのではないか。それは従来のゲームを多くプレイしていて、ゲームの文法を分かっていると思う人ほど、ハマる罠なのかもしれない。これまでの文法では理解できない新世界のゲームとして、『紅の砂漠』は見えるところがある。そして、一方でUbisoftのゲームはよく出来ていて品質が安定しているからこそ、その内部構造を含めて見通しが良すぎるのかも知れない。

こうした一見すると「意味不明」とも「説明不足」とも取れるような「不出来さ」こそが、『紅の砂漠』という作品の内奥の秘密を隠蔽することに大きな貢献をしていると私は考える。基本的に「不出来さ」とは不条理である。そうあるべきものがそうではないがゆえによく分からないというかなりアクロバティックな手法によって『紅の砂漠』はその秘密を維持している。各種要素を冷静に抽象化していけば、『紅の砂漠』もおそらく既存のゲームでよくある要素に分類整理して、果てはその全体像(内部構造)もまた明らかにすることは(プレイヤーにとっても)可能になるだろう。しかし、プレイすればするほど、ほとんど場当たり的とも言える要素が頻繁に提出され、私たちゲーマーは、その内部構造を予測し難い秘密として捉え、かなりの長時間、内部構造に対する認識を遅延させられ続ける。それこそが本作の大きな魅力となっているのではないだろうか。

おそらく『紅の砂漠』の持つ課題は次回作以降に明確に露わとなるだろう。なぜなら本作をクリアしてある程度の内部構造が理解されてしまった後では、その魅力的な秘密はもはや新しいギミックを追加することによって再び秘密としての魅力を回復することは難しいと想像されるからだ。それは決して『紅の砂漠』の話だけではない。かつて多くのゲーマーを熱中させたアサシンクリードやファークライというシリーズがどれだけ手を変え品を変え、様々な新規要素を盛り込んでも「Ubisoftのゲームはどれも同じだ」という批判に晒されたことと同じ事態が繰り返されているだけだとも言える。

不条理という劇薬を今後どう扱うのか。全く根拠のない期待ではあるが、『紅の砂漠』を作ったパールアビスという会社には、その不条理を再び乗りこなしてくれるのではないかという期待を、私は不思議と抱いてしまう。親切で丁寧にプレイヤーをガイドするのではなく、プレイヤーが自らゲームの魅力を発見していく力があることをこの会社は信頼してくれているようにも思えるからだ。しかし同時にそれはクソゲーを生み出しかねない危険さとも背中合わせであるようにも思える。しかし単に行儀のいいAAAの大作ゲームには見られない魅惑の作品をまた作るのではないか、とそんな期待をしたいくらいには、『紅の砂漠』はその危険な不条理という毒を見事に扱い切っているように私には感じられた。

*1:『紅の砂漠』Steamレビューが"非常に好評"に到達―全言語にて。"賛否両論"のリリース直後から大幅に持ち直す | Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト

*2:『紅の砂漠』100時間プレイしてもまだまだ続く新発見。慣れるまではスルメゲー。やみつきになった瞬間、神ゲーに! 気になる点があっても即修正する開発力に期待【オープンワールドの新時代!】 | ゲーム・エンタメ最新情報のファミ通.com

*3:特に似ているとされているのは2018年の『レッドデッドリデンプション2』だろう。またそれ以外にも2017年の『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』からインスピレーションを受けている面も大きいだろう。

*4:https://www.reddit.com/r/assassinscreed/s/yo7BZeZDAC

*5:以下のデータは2013年のデータとやや古いが、この時点でファークライ シリーズは2千万本を売り上げているFacts & Figures | About Ubisoft | Ubisoft Group

*6:以下はvgchartなのでやや怪しいが、Video Game Charts, Game Sales, Top Sellers, Game Data - VGChartz