今更な話題だと思う人もいるかもしれないが、「ノベルゲームはゲームではないのか?」という論争が最近話題になった。この話、ゲームについて考えたいすべての人が、一度は考えてもいいテーマであると思う。賢明な人は一足飛びに正しい結論にまで到達できてしまうかもしれないが、私を含め色々と寄り道しながら、亀のようにノロノロと考えを進めていく人もいる。
そのノロノロとした行程をこの記事では書き残してみたい。せっかくなので、AIを使いつつ、AIの発する言葉を一切引用しないで書いてみよう。そういう非効率な覚え書きにも価値はあるかもしれない。
ノベルゲームはゲームっぽくないという直感はよく理解できる
まず、最初に「ノベルゲームはゲームっぽくない」という感覚(直感)は多くの人が抱く感覚であり、それを理解する人は多いだろう。おそらく「ノベルゲームもゲームだろ!」と主張する人であっても、この「ゲームっぽくない」という感覚は「理解できる」のではないだろうか。ただし、多くの人が「ゲームっぽくない」とは感じつつも、「ノベルゲームはゲームではない」と断定する人はそんなに多くない、ということは重要だ。人は意外に慎重なものであり、この多くの人が持つ慎重さというのは、とても大切なポイントだと私は思う。この点は記事の後半で再び考える。
では、最初に戻り、この「ノベルゲームはゲームではないのでは?」という議論はどう考えられるべきなのだろうか。この議論は昔からされており、そうした過去を知っている人だと「この議論は不毛なのではないか?」という身も蓋もない意見を言いたくなるかもしれない。確かに、この議論は不毛な議論になるパターンが少なくない。多くの人が指摘する通り、「〜は、ゲームではない(or ゲームである)」という述語によって何を主張したいかが曖昧なままではおそらく噛み合わない議論になりがちで、噛み合わない議論は不毛と言っても良いだろう。
では、そうした述語の曖昧さを少しずつ減らしていけば良いのだろうか?例えば「ゲームである、とはどういうことを指すのか?どういう価値判断を含意するのか?」と、「ゲームである」という述語の内容を明確にしていけば良いのだろうか。確かにそれは議論の生産性を上げるとても正しいやり方だ。しかし本当にそれが有効なのか、私はやや疑問に思っている。そうした「議論の整理」よりもむしろ他にやるべきことがあるのではないかと最近はよく思うのだ。
まず気になる議論に出会った時に私たちがすべきことは、その議論に対して自分が言いたいことが本当は何かを知ることなのではないだろうか。私たちはある意見や論争に接した時に、自分の中になにか「ムクムク」と湧き上がるものを感じる。しかし私もそうなのだが、それは最初、明確な言葉にはなっていない。変な言い方だが、私の中で起こっていることなのに、私自身がよく理解できないものである。そして、私が本稿で最も主張したいのは、その自分の中の謎の「ムクムク」を言葉で理解できるようになると、最初に気になった他人の意見や論争が全く違う様相を帯びてくる、ということだ。その行程を少し詳しく書いてみよう。
キーワード: メディウム固有性(medium specificity)を使ってAIと語る
自分の中に湧き起こる「ムクムク」を言葉にすることはとても難しい。多くの先人の書籍を読んだり、専門家や有識者と議論するなどの必要があるからだ。有能な他者がいないと自分の中の「思い」はなかなか言葉にならない。ややもすると、言葉にならないどころではなく、とても不適切な言葉になってしまい、闇落ちすることさえある。しかし2026年は少し状況が違う。今はかなり優秀なAIがいる。このAIと語ることである程度自分の中の「ムクムク」を言葉にすることができる。
例えば今回の「ノベルゲームはゲームではないのか?」という議論について何かを語りたいと思ったとしよう。であるならば、私たちはまず、AIのチャット欄に次のように書き込んでみると良いだろう*1
ノベルゲームはゲームではないのか?をメディウム固有性(medium specificity)*2という観点からどう考えられるかな?
おそらく、そこで得られる返答は、XなどのSNSで見られる未整理の議論の100倍くらいは有用な意見だ。重要なのは、太字で示したようなキーワードを用いるということで、これが文字通りタイパという意味でも非常に効率的である。もちろんこのキーワード以外にも重要なキーワードはあると思うので、「これが正解なのだ」ということが言いたいわけではない。
なお、メディウム固有性というのは、そのメディア形式に固有の特性を指す。例えば、ゲームという形式であれば「インタラクティブ性」が挙げられることが多いだろう。他のメディア形式、例えば絵画なら「平面性」とか、映画なら「動きの描写」や「編集」などがメディウム固有性として議論されてきた。もちろんひとつのメディア形式ごとに一つとは限らないし、何をメディウム固有性とするかについては議論が分かれることもある。そして今回の「ノベルゲームはゲームではないのか?」の議論はまさに「ゲームがゲームであるために必要な要素」そしてそうしたメディウム固有性がゲームという形式には備わっているべきなのかどうかが、主要なテーマとなっている。
なぜこうしたキーワードが有用かというと、何十年も、人類の先輩たちが、メディウム固有性というキーワードを巡って世界中で議論してきたからだ。これは数十年分の議論の蓄積の「美味しところ取り」ができる魔法の言葉でもある。またキーワードに英語をわざわざ含めるのは、その方が得られるものが大きいからだ。日本でしか議論されてないようなテーマなら日本語のキーワードだけでも良いだろう*3。
AIの回答にいかに難癖をつけるか?
AIから回答を得るだけではつまらない。次にすべきことは、その回答に難癖をつけることだ。なぜ難癖を付ける必要があるのか。もし100%満足が得られる回答ならそれで良い。しかし多くの人がAIの回答では微妙に満足がいかないのではないだろうか。一見正しそうなことを言ってるけど、痒いところに手が届かない。どこか私が気にしたいポイントと違う。これはとても貴重で大切な感覚だ。例えばAIの回答を踏まえ、私は次のように聞いた。
いやいや、言いたいことは分かるが、メディウム固有性(medium specificity)がないと、なんか良くないというか、つまらないと思うんだが、そこはどうなのよ?
この難癖は私の難癖であり、人によっては違う難癖になるだろう。しかしここで重要なのは、「なんか良くない」や「つまらない」などの言葉をなんとか紡ぎ出せるかどうかなのだ。納得できないと言う気持ちを素直に表現することが重要だ。しかし意外にこれが難しい。人間は自分の納得のいかなさを、普段なかなか素直に言葉にしていないからだ。だから「納得いかないぞ」を表明する言葉は、拙く、バカっぽくなる。そして、人間相手ならこんなバカっぽい言葉で語りかけることは恥ずかしいと思うかもしれない。が、所詮相手はAIである。全く気にする必要はない。この遠慮の不要さこそがAIの価値だろう。
こうした難癖を何回となく繰り返す。自分が100%納得するか、飽きるまで繰り返す。たいていは途中で飽きてくる。飽きてきた要因はAIの愚かさにあるのか、それとも聞き手である私の愚かさにあるのかという問題は一旦置いておくとしよう。しかし、こうしたことを何回か繰り返すと、不思議と自分の中に変化が起きる(ことがある)。それは最初にも言ったが、他人の意見の慎重さに気がつくという変化だ。
他人の意見は私よりも慎重である
ある程度、AIとの問答を繰り返した後に、最初に気になったポストや記事などに戻ってきてみよう。最初その意見を見た時に「文句をつけたい!」と思ったかもしれない。しかしその時よりも意外に反論が難しいことに気がついたりする。思ったよりもその意見は慎重に言葉が選ばれ、何かを断定していないことに気がつく。そう、他人は私よりも遥かに慎重に読み手に気遣った言葉選びをしていたりするものなのだ。もちろんそうではない人もいる。不用意に強い言葉を使っている人もいる。しかし私が「この人の言葉は慎重だけど、こっちの人の言葉はめちゃくちゃ不用意だ」と気がつくことにはとてつもない価値がある。私も頻繁にそうなのだが、あと一歩でその「めちゃくちゃ不用意」な言葉を私が発していてもおかしくなかったからだ。
ただし、ここで重要なのは、他人の慎重さに気がつくということは決して気持ちよかったり、楽しかったりするわけではないということだろう。それは「楽しい」とかとは次元の違う話だ。だからもし「楽しい」ことが重要であるならば、慎重になってはいけないのかもしれない。きのこたけのこ論争が楽しいのは「きのこ派は人類の敵だろ」ぐらいの不用意な言葉を発することにある。不毛さを不毛であると理解できる状況であれば、むしろ不用意さこそが楽しむ術となる。
「ノベルゲームはゲームではないのか?」論争において本当に自分が言いたいことはなんなのか。仮にそれが、誰かを馬鹿にしたいとか、自分が好きなものを強く推したいとか、それは言葉にしてしまうとあまりに素朴で卑近なものかもしれない。しかも、それを自覚することは決して楽しいわけでもない。しかしそれで良いのだ。それを不遜にも言葉にすることに意味がある(ただ世に発するべき言葉かどうかは別に考える必要がある)。そのことこそを深く言葉で掘っていく必要がある*4。それはAIでも絶対に到達できない深みである。なぜならあなただけが持つ膨大なコンテキストを、他人もAIもプロンプトに完璧に打ち込むことは、絶対にできないからだ。そこには無限の「なんか私の言いたいことと違う」があり、追求すべき謎がある。その無限の追求は果たして不毛なのか、それとも豊穣なのか。私は明らかに後者であると思う。
*1:ちなみに私はこの記事の執筆時点においては、Opus5.5とgpt5.6 lunaを使っている。claudeばかり使ってきたが、ここ最近不満が溜まってきており、gptに乗り換えようかと思っている。geminiはなんとなく避けている
*2:2026年10月に出るキャロルの『動画哲学講義』という翻訳本では「メディウム固有性」という言葉が使われていたので、本稿ではその語を用いる。他にもこちらのブログでは「メディアの固有性」という言葉が使われている。他にも色々な訳語がありそうなので、そういう意味でも英語でAIに伝えたほうがいいかもしれない
*3:どういうキーワードで聞けば良いか分からないという問題はかなり難しい。これはAIに聞いてみてもなかなか「適切に」知れるとは限らない。要は自分の関心はどこかという最初の問題と密接に関連するからであり、「直感的な論点先取」のようなものがないと難しい。何かについて「人間が」考えることは、こうしたキーワードの網の目の強度をどのくらい高められるのか?という問題があり、これはAIが発展しても、もうしばらく残り続けるような気もする。
*4:別に言葉で掘る必要はない。他のモノで掘る人もいる


