ビデオゲームとイリンクスのほとり

ビデオゲームや映画を中心としたレビュー・コラム記事です。 Twitter ID: @turqu_boardgame

映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

『マイクラダンジョンズ』をSwitch1台でローカルマルチする時の注意点

2020年5月26日に『マインクラフト  ダンジョンズ』というハクスラゲームが発売された。ニンテンドースイッチで家族でマルチプレイを遊ぼうと思っている人も多いと思うので、その仕様について私が気になった点についてまとめておこうと思う。なお、あくまでこれはニンテンドースイッチ上での情報であり、他のプラットフォームではどういう仕様なのかは分からない。ネットで調べてもなかなかこの辺りの仕様についての情報がない。

 

複数のニンテンドースイッチのアカウントで遊べない

 

1番の注意点はここだろう。もちろん、スイッチ1台、ソフト1本で、TV画面1台を共有して4人までローカルマルチで遊ぶことはできる。しかしその際、2人目以降のプレイヤーは「GUEST(ゲスト)」としてしか入ることができない。つまり、1人目のプレイヤーは、ソフトを起動した際に選ぶスイッチのアカウント*1でゲームに参加できるが、2人目はスイッチ本体に作っている既存のアカウントと紐づけることはできない*2。なお、ニンテンドースイッチとソフトを複数台使ってのローカルマルチではどうなのか確認していない。あくまでここは1台のスイッチでローカルマルチを遊ぶ時の話である。

 

では、2人目のキャラはゲームを終えてしまうと消えてしまうのか?

 

そんなことはない。しかしこの辺りの仕様についてはもう少し詳細に述べる必要があるだろう。具体的にニンテンドースイッチ上で、AとBという2つのアカウントがあるとしよう。Aのアカウントでゲームを起動して、そこでキャラクターを作成する画面になる。ここで、複数のキャラクターを作成できる。例えば、アルファとベータという2つのキャラクターを作ったとしよう。そして1人目のプレイヤーがアルファのキャラクターを選択する。スイッチ1台でローカルマルチをする場合、ここで、もう1台コントローラーを接続することで、GUEST(ゲスト)アカウントとして参加できる。そして、ベータのキャラクターを使って、ローカルマルチで遊ぶことができる。ベータというキャラクター自体を削除さえしなければ、そのキャラクターで得た経験値やアイテムは当然消えることはない。

 

しかし、ニンテンドースイッチ上のもう一つのアカウントであるBで、上記のベータのキャラクターを使って遊ぶことはできない。あくまでアルファとベータはAというアカウントの中に存在しているだけのキャラクターであり、Bというアカウントをアルファやベータと紐づけることもコピーして作成することもできない。Bというアカウントでキャラクターを作成しても、それはBというアカウントの中でだけの存在である。

 

では何が問題なのか?

人によっては問題はほぼないだろう。しかし次のような場合に若干の問題がある。もう少し具体的に説明しよう。兄と弟の2人兄弟がいるとする。兄がニンテンドースイッチ上でAというアカウントで遊んでおり、弟はBとする。兄が起動した『マイクラダンジョンズ』でアルファとベータという2つのキャラクターを作成し、兄はアルファ、弟はベータを使って遊んだとしよう。次の日、弟が早く起きてきて、昨日の続きを一人で遊ぼうとして、普段どおり、自分のアカウントであるBでゲームを起動すると、アルファもベータも存在していないことに気がつく。弟が昨日のベータのキャラクターを引き続き遊ぶためには、兄のAのアカウントでゲームを起動し、ベータのキャラでゲームを遊ぶ必要がある。その際、画面上には、兄のアカウント名が表示される。

 

この辺りの仕様を気持ち悪いと思うかどうかが、問題となるだろう。キャラクターに現状では固有の名前などを付けることはできず、区別は選択したスキンだけである。しかもスキンはいつでも変更可能なため、「これが俺のキャラクターだ」というアイデンティティを持ちにくいという欠点があると言えばある。ましてや他人のアカウントの中にいるキャラクターに思い入れは持ちにくいかもしれない。逆に言えば、その程度のデメリットしかないとも言える。

 

また別の観点で、親からすると「みまもりスイッチ」によって子供のプレイ時間を管理している際に弊害が出るかもしれない。兄と弟、どちらが実際にプレイした時間なのか分かりにくくなるからだ。また、マイクロソフトアカウントと紐づいているのならば、実績の管理を兄弟で分けることができないことも欠点になるかもしれない。

 

なお、今確認している仕様は、2020年5月30日時点のものであり、今後、変わるかもしれない。

 

*1:マイクロソフトアカウントと紐づければ、そのゲーマータグ名でゲームに参加することになる

*2:ちなみにPS4の『ディアブロ3』では、ローカルマルチで遊ぶ場合も、PSアカウントを複数紐づけて遊ぶことはできた。2台目のコントローラーを接続する際にPSアカウントを選択できる画面が出てきて選ぶ事ができた

『ザ・ワンダフル ワン・オー・ワン リマスタード(The Wonderful 101 : Remastered)』で再びこのゲームの素晴らしさを思い知った

2020年リリース。2013年にWiiUで発売されたこのゲーム。リマスターでSwitch/PS4/Steamに帰ってきた。7年ぶりにプレイしてみて、やはりこのゲームは大傑作だと改めて思った*1。少々長くなってしまったが、下手の横好きを自認するアクションゲーマーにこそ本作を遊んで欲しい。本作はセンスではなく、地道な繰り返しにより確実に楽しくなってくる、ある種のレトロさを持った傑作である。

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熱い演出と硬派なバトル

この作品の魅力は次の2つと言える。

  1. 馬鹿馬鹿しくも熱い物語とその演出
  2. 頭と指で覚えることが多い硬派なバトルシステム

これらの魅力について、既にネット上に似たような感想が多くある。そしてそれは概ね私も同意だ。しかし演出が熱ければそれでいいのか?とか、硬派だからと言って面白いわけではないだろうとも思う。そこでこれら2つについて、個人的になぜ良いのかという点をもう少し解きほぐしていこうと思う。そして、最後に本作の欠点とそれを克服するためのささやかなアドバイスを書いていきたい。

 

熱血ストーリーを効果的に描く

熱い物語演出で思い起こされる他のゲームというと、私の場合『スペースチャンネル5 Part2』や『大神』のラストなどが頭に浮かぶ。しかし『ワンダフル101』はこれらのゲームと少し趣が異なっている。上記の2作品は、どちらかという涙腺が緩むようなウェットな感覚があったが、本作はより「ただ熱いこと」を突き詰めている*2。これは主人公格のワンダ・レッドのキャラクターに依るところも大きいだろう。

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具体的に見てみよう。とりわけ本作の「熱い演出」が素晴らしい箇所として、最初のボス戦(1-C)の演出がある。場面が何度も転換して、ボス戦終盤は高層ビルからの落下をしながらの戦闘、そして最後は敵を綺麗に一刀両断する胸のすくような展開を経る。『ワンダフル101』の演出の魅力はこの1-Cのボス戦に集約されていると言っても過言ではないだろう。そしてネタバレを避けるため詳細は述べないが、それを超えるスケールでラスボス戦は描かれている。

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最初のボス戦(1-C)は、最高に熱い。

 

本作のボス戦はどれも凝っているが、テンポの良さ、危機的状況の畳み掛け、反撃に向かうヒーローの勇ましさが、過剰なほどにエスカレーションしていくのは、この1-Cとラスボス戦の2つが特に際立っている。逆に言うと、それ以外のボス戦はその2つのボス戦に比べると、熱い演出はある程度抑えられているように感じる。この辺りが、本作は「中だるみする」と評価される要因の1つだろう。しかし、ゲームの序盤と終盤に圧倒的な熱量をぶつけることで、最も効果的にこの物語全体の「熱さ」を伝えることに成功している。特にウェットさが比較的薄い本作では、毎回のボス戦をただ「熱さ」一辺倒で演出してしまっては、これだけの強い感動をラストに与えることはできなかっただろう。熱血ストーリーを最大限に効果的に見せることにおいて、本作はかなり練られた作品であり、決して単細胞な作品ではない。

 

馴染みやすさと我慢の戦闘システム

  • 一見、難しそうでありながら馴染みやすい戦闘システム

本作はいわゆる『デビルメイクライ』や『ゴッドオブウォー』などのスラッシュアクションの系譜に連なる。しかし、『ワンダフル101』はピクミンのような群体を操作する点にオリジナリティがある。その群体が集まり、剣や拳や銃などに変形するユナイト・モーフという「強攻撃」が戦闘での主要な攻撃手段だ。

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拳タイプのユナイト・モーフ。近接だが攻撃力が高い。

 

このユナイト・モーフは、『大神』のようにアナログスティックで記号(丸や直線など)を描くことで切り替えることができる。『デビルメイクライ』の武器変更を、『ワンダフル101』では記号を描くことで行うイメージを持ってもらうと分かりやすいだろう。

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丸の記号を描いているので、拳タイプのユナイト・モーフになる。

 

これだけ聞くと「武器変更にいちいちアナログスティックで記号を描くなんて面倒だな」と思うかもしれない。しかしこれがいい具合に、アクションゲームが苦手な人にもゲームを馴染みやすいものにしている。どういうことかというと、この記号を描くときには、ゲーム内の時間進行が極度にスローになるのだ。『ベヨネッタ』では敵の攻撃をタイミングよく避けると「ウィッチ・タイム」という時間がスローになるボーナスタイムが発生するが、『ワンダフル101』ではそのスロー時間を任意に発生させて記号を落ち着いて描けるようになっている。これが一見すると単に面倒くさそうなシステムの一つの受け入れやすさの土台となっている。非常にスピード感のあるゲームではあるが、極端にスローな時間進行を度々任意に発生させることで、ヒーローの超速スピード能力によって「状況をコントロールできている」気持ちにさせてくれる。

 

また、本作ではコンボに対する評価が非常にユルい。『デビルメイクライ』ではある程度の練習をしないと多彩なコンボを繋げてスタイリッシュな戦闘をすることはできないが、『ワンダフル101』はもっと単純である。武器(ユナイト・モーフ)を巧みに切り替えるか、空中コンボをする、この2つを駆使するだけでかなり見栄えの良い戦闘ができてしまう。また戦闘リザルトでのコンボ評価も『デビルメイクライ』ほどシビアではない。

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戦闘ごとのリザルト評価画面。コンボ評価は比較的、最高評価が取りやすい。

 

本作の戦闘は難しいとよく言われる。これは確かにそうで、とにかく何が悪くて攻撃を食らったのか、どうすれば相手の弱点を突けるのかが、初見では分からないという面が大きいからだろう。本作の欠点についてはまとめて後述するが、こうした難しいというイメージの薄皮の下には、実はかなり馴染みやすく単純に気持ちよくなれるシステムが隠れている。これがある程度分かるようになると途端にこのゲームは楽しくなってくる。

 

  • 地道に避けて耐えることを求める「我慢の戦闘」

さて、ではある程度戦闘システムが分かってきたら、そこからずっと楽しさが伸びていくかというともう一点、本作には壁がある。それが「我慢」の要素だ。本作は様々な種類の武器(ユナイト・モーフ)が存在しており、敵もまたかなり多彩に存在している。そのため、特定の敵には、劇的に効果があるような武器(ユナイト・モーフ)が何かあるに違いないと考えてしまいがちだ。たしかにそういう武器の相性というのはある。しかし、多くの場合、地道に敵の攻撃を避けていき、特定のタイミングを待った上で、ようやくこちらが攻撃を叩き込む瞬間が訪れる。だから、うまく武器を切り替えるだけで、戦闘が格段に有利になるとは限らない。これが一番顕著に現れるのが、プリンス・ヴォークンとの戦闘である。

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中盤以降、何回か戦うことになるライバル的存在の敵であるが、この戦闘が最初は非常に難しい。プリンス・ヴォークンは主人公たちと同じ多彩な武器(ユナイト・モーフ)を使ってくる。そして、相手の特定の武器に対して、こちらも何か特定の武器で向かい撃てば上手く反撃できるのではないかと考えたくなる。しかしヴォークンのほとんどの攻撃には有効な反撃手段が存在せず、地道に避けていくことが求められる。そしてわずかなタイミングにこちらが攻撃を叩き込むチャンスがある。つまり比較的「我慢の戦闘」なのだ*3

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プリンス・ヴォークン戦は慣れるまでが難しい。

 

こうした「我慢の戦闘」は、ゲーム後半に度々出てくることになる。とにかく上手く避け続けて、攻撃を叩き込むチャンスを伺うというスタイルは、ド派手で熱いストーリーの本作のイメージからは少し遠い。そのため、ついつい華麗な攻略法があるものと考えたくなるが、その答えは見つからない。そうした「無い答えを探してしまいがち」という側面が本作の難しさとして認識されている面はあるだろう。しかし答えを探すのを止めてこの地道な「我慢」のプレイに慣れてくると、これがかなり楽しくなってくる。この楽しさが分かると、『ワンダフル101』は無類に遊びやすくて、気持ちのいいスラッシュアクションの傑作になる。

 

分かりやすい欠点の数々

では、最後に本作の欠点をいくつか挙げていきたい。私は『ワンダフル101』を大傑作のアクションゲームだと思っているが、それでもやはり多くの欠点があることは認めないわけにはいかない。特に『ワンダフル101』の欠点が特徴的なのは、「指摘が容易」で「目につきやすい」という点だと考えている。 

 

  • カメラワークが悪い

これは多くの人が指摘する。本作は斜め上視点からのカメラ固定のゲームのため、カメラは自由に動かせない。そのため余計にカメラワークの悪さが目立ってしまうようなところがある。特に主人公たちにカメラが寄って拡大された時には、ストレスを感じることが多い。とりわけ狭い空間に入った時にはこのストレスを強く感じる。WiiUの2画面を活用しようとした面はあるのだろうが、やはり操作のやりづらさは否めないだろう*4。しかし実際は慣れてくると、ほとんどのカメラワークはプレイに影響が出ないものだと理解できる。

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狭い空間でのカメラワーク。キャラクターオブジェクトが多く、カメラもキャラに近いため、周りの状況が視認しにくい。

 

  • 画面内で何が起こっているのか分かりづらい

これは群体を操作するというコンセプトによる欠点である。100人近い小さなキャラクターがウジャウジャといる中で、敵の攻撃を見極めないといけない。どうしても「画面がうるさい」感じにはなる。敵の攻撃の予備動作をちゃんと認識していないと、訳もわからずダメージを喰らうことになるが、最初はそれがなかなか認識できない。なにより、大型の敵が2体以上出現したときには、極端に難易度が跳ね上がる。『デビルメイクライ5』では、画面外にいる敵は攻撃してこない親切な仕様だが、『ワンダフル101』では画面外の敵も容赦なく攻撃してくる。このあたりの難易度曲線の傾きの大きさは、初回プレイではかなり厳しいものがあるだろう。

 

  • リトライのチェックポイントが分かりづらい
  • ボス戦はチェックポイントがなく、長い
  • ボス戦での変身シーンがスキップできない

ベヨネッタ』などで、細かなミッションごとに戦闘リザルトが表示されるシステムが『ワンダフル101』でも採用されている。この戦闘リザルトの評価を良くするため、敵から攻撃を一回でも喰らったらやり直しのためリトライするプレイスタイルを取る人もいるだろう。そうした時に、どこまで戻されるのか?が分かりづらい。大抵は、前回のリザルト評価後まで戻されるのだが、中には2回前のリザルト評価まで戻される場合がある。いつがチェックポイントになっているのかが非常に分かりづらいのだ。

 

また『デビルメイクライ5』などはストレスなくプレイすることが配慮され、リトライしてもあまり前まで戻されない仕組みとなっている。しかし『ワンダフル101』の、特にボス戦について言えば、一切チェックポイントがなく、リトライすると完全にボス戦の最初まで戻されてしまう。加えて、全てのボス戦では「アンリミテッド・フォーム」という特別なモードへの変身シーンが必ずあるのだが、このカットシーンはスキップができない*5

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スキップできない変身シーン。

 

他のカットシーンはスキップできるのに、この変身シーンだけはスキップできないのは製作者の傲慢(笑)とも思える。なにより、せっかく何度もリトライしようという『ワンダフル101』にとっては優良な顧客の心を、わざわざ折る必要はないのではないか。あえてそれをスキップさせない演出というのも分かるが(分かるが)、まあ、端的に言って欠点だと言われても仕方がないだろう。

 

  • 何をすれば良いの分かりにくいギミックがある

時折、何をすればゲームが進むのか全く分からない場面がある。大抵は銃で何かを撃つか、剣で何かを切るか、ネジを回すか、爪で壁を登るか、銃で何かを撃てば*6解決するのだが、それがとても分かりにくい。しかも、これ、実際に遭遇すると異常にイライラする。初見の人にアドバイスするとすれば「分からなかったらネットを検索せよ」と言いたい。それに悩むことは、この作品の楽しさとほぼ無関係である。

 

  • 無限コンティニューで「その場復活」できてしまう

本作はコンティニューに制限やコストがなく、またコンティニューした場合に死亡地点でその場で体力全回復で復活する。そのため、クリアだけするなら、非常に簡単なゲームとなっている。これは最後までプレイさせるという意味では良いのだろうが、多くのプレイヤーがゲーム後半ではコンティニューの連続で進めてしまい*7、本作の面白さを十分に味わうことなくエンディングを迎えたプレイヤーが多かったのではないかと思う。

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コンティニューする度に右下のドクロマークが増えていく。その不快さ以外にコンティニューにコストはない。

 

しかし本作の楽しさは演出やストーリーだけにあるのではない。プレイスキルの習得こそが何よりこのゲームの面白さであるのならば、コンティニューは「その場復活」でなくチェックポイントまで戻される仕様が採用されるべきであったと思う。この「その場復活」の仕様のために、本作が単なる「熱血バカのストーリー」としか理解されていないとしたら、それはそれで不幸であるような気がする。いや、これはこのゲームを愛するがゆえの欲目かもしれないが、やはり、もったいないと思ってしまう。

 

欠点を補ってあまりある面白さ

しかし、そうした分かりやすい欠点は、すべてプレイスキルを得ることによって、許すことができるようになる。それくらい、本作はアクションゲームとしての楽しさ、そしてあえて言うが「敷居の低さ」を持っているゲームである。『デビルメイクライ5』で、下手の横好きアクションゲーマーであることを自覚するような人にこそ、本作を遊んでほしい。ひとつだけ、このゲームの真の面白さを理解するためにアドバイスできることがあるとすると「ノーコンティニューを目指してプレイした方が良い」ということだ。人によってその縛りは多少幅があっても良いだろう。例えば、2回までコンティニューしていいとか、一撃死のあるパートだけはコンティニューありでOK、とか。ともあれ「基本ノーコンティニュー」を目指すことで本作は何倍も面白くなる。

『ワンダフル101』は、スタイリッシュにダンテやネロを扱えないプレイヤーにこそ、優しく微笑みかけてくれる大傑作のアクションゲームである。

 

*1:米ゲームメディアのGameSpotは4点という低評価を付けているが、私としては大傑作の9点は与えられる作品だと思っている。GameSpot評は決して間違ったことを書いているわけではないが、このゲームの「気持ちよさ」について認識しているようには思えない。メカニクスの複雑さから「戦術的」な戦闘システムだと評しているが、むしろ「快感」に寄りそった調整だと私は考える。ただ、見た目から機能が判別しにくい点などへの指摘はその通りであると思う。The Wonderful 101 Remastered Review - Mob Mentality - GameSpot

*2:ルカにまつわるエピソードがややウェットではあるのだが、あまりそれで泣かそうという気は『大神』などと比較すると小さいと考える

*3:こちらもスキルなどを多く習得してくると、ヴォークンとの戦闘も単に「我慢」の戦闘ではなくなるのだが、ここでは初回プレイを想定して「我慢の戦闘」と表現している

*4:通常は斜め上からの俯瞰視点だが、狭い空間に入るとWiiUゲームパッドのサブ画面にTPS視点で主人公たちが映る。普段とは異なる視点への変更をWiiUゲームパッドのサブ画面を使うことで行っていた。

*5:少なくともv1.0.1ではアンリミテッド・フォームへの変身シーンは一切スキップできない

*6:大切なことなので2回言う。ゲームが進まなくなったら、とにかく「銃で何かを撃て。一回撃って諦めるのではなく何度か撃て。」

*7:なにより、本作はボリュームが多い。体感的には『デビルメイクライ5』の1.6倍くらいのボリュームがある印象。そのため、コンティニューだけで最後まで進めてしまった人は、後半がやや作業的に感じてしまったのではないかと思う。しかし後半もそれぞれにオリジナリティがある戦闘で、それぞれに用意されているコツを掴む面白さがある。

Butterfly Soup. The importance of not limiting.

The original article (japanese) 傑作『バタフライスープ』が示すもの。私たちは「属性」の組み合わせではない - ビデオゲームとイリンクスのほとり

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There's a masterpiece novel game called Butterfly Soup which can be played in Japanese on PC, so I hope many Japanese people will play it. It takes 3-5 hours to finish.This game is linear, but the text is both very compelling and engaging.

 

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The story of Butterfly Soup unfolds in California. There is a girl of Indian descent named Diya in a predominantly Asian neighborhood. The story describes the life of Diya and her three friends in high school; the practices and games of the baseball club they join, their school life, their worries, and love.

The story is not one with unexpected twists. The figures portrayed are quite ordinary, but players will feel a modicum of sympathy to them. What is relatively dramatic in such a quiet text is diya's romance. In early childhood, Diya fell in love with a Korean girl named Min, who lived in the same area. It may be a faint longing, but it certainly includes the feeling of love.


In the scene where Diya becomes aware of her feelings, she expresses a very subtle yet natural emotional movement that is never melodramatic. She has some hesitation to having special feelings for a girl of the same gender. When I read such a scene, I feel a slight hesitation in just labeling these women as lesbians. Indeed, she is a lesbian and a sexual minority. However, I feel a resistance to "just" labeling them as such. The same is true of the game Butterfly Soup itself. I'm a little reluctant to characterize it as an LGBT-themed game. By putting a certain label on the work, it constrains the breadth of the work.

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Diya denies her feelings for Min

It's clear that the main characters in Butterfly Soup are bisexual and lesbian, and that the game has a strong awareness of sexual minorities. For this reason, it is referred to as a "yuri game" and an "LGBT-themed game". That is, of course, correct, and there is nothing wrong with that anywhere. However, there's something about this game that makes me feel like it should never be treated like simply as an "LGBT-themed game". I feel this way because I think this is a story that strongly conveys the importance of not limiting.


There is a striking scene that shows the importance of not limiting. The episode takes place when the main character Min and her twin brother Jun are still young. They believe that Asians make up more than 50 percent of the population living in the United States. Because there are only Asians around them (of course, it's such a "district"). Her white friend Hayden throw. "Don't you wonder why everyone is white on TV?" and, Jun takes that fact for granted. So Jun countered, "That's easy. Because their parents won't let become an actors.".

 

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Jun-seo claims that less appearance of Asians on TV is due to 'responsible' Asian parents

We are not so different from young Min and Jun. We look at one aspect, we believe "this is X". The deep-seated problem is not so much the assumption itself, but the reasoning that is given to the assumption. This is because we actively discourage "non-X possibilities" by giving reasons, and suppress our imagination of "non-X possibilities".

I think this possibility of not being X is a very important element in Butterfly Soup. For example, the portrayal of a girl named Min shows exactly that. She is a "woman" and an "Asian". However, she doesn't seem to abstain from violence, she likes baseball and video games, she's not good at studying, and she resists her overbearing parents with all her might. Min is trying to escape "being a woman", "being an Asian", etc. She constantly (for almost no reason at all) shows "the possibility that it's not X" against the assumptions that come with labels.

 

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To escape from being a "girl," Min suddenly cuts off her long hair.

More importantly, it doesn't mean simply "it's not X, so it's Y" . Min, as a pitcher, throws a knuckleball. It is obvious that this knuckleball is a metaphor of Min. Just because she embodies the possibility of not being X does not mean she is "not X, so it's Y" either. Anyone doesn't know what she's going to do. She is always just "not X". She is so vilolent with no reason. It is important. She keeps denying with no reason. That "not X" in itself characterizes the character of Min.


So, does Min simply deny everything? No, she doesn't. And here's why the story of Butterfly Soup is so stirring. Min is like a knuckleball that doesn't know where it's going to fly, but there is another person who embraces her. The person is Diya.

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A knuckleball that is difficult to throw and catch, too.

Only Diya can catch Min's throwing knuckleballs. Thanks to Diya, Min is no longer just in denial. Min doesn't just get loved by Diya. She loves Diya and wants to be loved. Min slightly loses her "Min-ness" due to her love with Diya. Her usual violence is overshadowed. Min follows the rules and plays baseball correctly. The slight loss of Min-ness is also part of Min. And so it is with the other characters.

Both Noelle and Akarsha have a possibility of not being X, too. Noelle may not continue to be a good daughter to his parents, and Akarsha has a nagging problem that cannot be coverd by simply goofing off. They are also escaping labels. However, this does not mean that the current state is completely denied. Noelle deceives her parents and moves on to a new way of dealing with them in her own way, while Akarsha continues to be a goofy character instead of becoming a serious one by coming out. While denying some superficial labels, we live as an existence that holds an "excess" of the labels .


Players empathize with the suffering of discrimination and prejudice portrayed in the various episodes of Butterfly Soup. But more than that, I sympathize with the point that it makes us realize that we always have that kind of a "excess" that has yet to take shape. Because it's also hope. We are not a simple entity with a definite form that can be described by a combination of labels. We are "excess" existences that can never be categorized. So, there is a hope because the labels doesn't limit ourselves.

 

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being incorrect is not necessarily a failure.

When playing Butterfly Soup, there was times when I was unexpectedly crying in scenes that were not at all tearful. No matter how much we grow up, Butterfly Soup will always be familiar to us, and a "excess" suggests that "doing it well" and "doing it right" are not the only paths we should take. It may be that the kindness of such an incorrect way, because of its incorrectness, makes me cry.

 

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The original article (japanese) is here.

『十三機兵防衛圏』必然性の物足りなさとその革新性

2019年。ヴァニラウェア制作。主人公が13人もいるアドベンチャーゲームと聞いては、その手の群像劇的なゲームが大好きな自分としてはプレイしないわけにはいかなかった。クリアして、アーカイブを読み倒す楽しさを十分に堪能したので、元は取ったなと思う。しかし、個人的には期待したほどの面白さではなかったというのが正直なところだ。絶賛が多い中、あまり楽しめなかったという人もいると思うので、そういう人のためにもこの記事を書こうと思う。なお戦闘パート(崩壊編)については特に本稿では言及していない。主題はアドベンチャーパート(追想編)である。また、単に楽しめなかった点を挙げるだけではなく、本作の持つ革新性についても併せて書きたい。なお、本記事はネタバレ有りである。

 

多くの登場人物がいて、その全員が一つの大きな物語へと収斂していくタイプのアドベンチャーゲームの中で個人的に最高傑作だと思っているのは『428』と『ゴーストトリック』だ。この2本の傑作と比較してしまうと、『十三機兵防衛圏』はどうしても見劣りしてしまう。それでは、私自身がどういうところが好きで『428』等が好きなのか、まずはそれを考えてみると、以下の2点をとても高く評価しているのだと思う。

  1. それぞれの登場人物の役割や出来事が全体の絵図の中でピッタリとピースにハマる快感を得られるか
  2. 最後、クリアした時に浮かび上がるストーリーの全体像が美しいか

『十三機兵防衛圏』はこの2点において、不満である。

 

必然性の気持ち良さ

『428』や『ゴーストトリック』には、様々な人物が登場するが、彼らの意図や役割が物語が進むにつれて段々と分かってくる。そして大きくて壮大な事件の中で細かな登場人物に至るまで、それぞれの役割が、素晴らしいタイミングで印象的に提示される*1。これは「サプライズである」という意味においてプレイヤーを楽しませることはもちろんながら、単にそれだけではなく、ある一つの概念をプレイヤーに強く印象付ける。それは必然性という概念である。あらゆる人物や出来事は最初から仕組まれていたかのような、そこにあるべくしてあるという感覚。これは、パズルのピースがハマるような気持ち良さであるとともに、クリア後に物語の全体像をプレイヤーが思い返した時に、その全体像が精巧で精緻な工芸品を見るように感じられる喜びにも繋がる。このような喜びを『十三機兵防衛圏』はあまり感じさせてくれなかった。どちらかと言えば『オーディンスフィア*2』の方がよりその点においては優れていたように思うほどだ。

 

物語の細部が単なる細かな事実の積み重ねでしかない

『十三機兵防衛圏』は複雑なプロットを最後までなんとかまとめあげている点については驚くべき作品である。ここまで複雑な物語をよく表現し切ったなと感動する。しかし、おそらく多くの人はこの物語の細部をうまく理解できないのではないかと思う。例えば次のような点を明確に理解できているだろうか。

・遺伝情報を残す対象とした15人のうち、13人がプレイアブルキャラクターだが、残りの2人は誰か。またその2人は今回(今回のループ)、どうなったのか?

・リセット越えを行った直後の森村が初めて会ったのは誰か(今周、一周前でそれぞれ誰か)。

・BJの中にいるミウラは誰で、なぜ17番機兵を探していたか。

・井田鉄也の目的は何で、どのような点において森村(先生)の目的と異なっているのか。

さて、上記はすべて物語内で明確に語られている事柄であるが、これらを十分に理解できている人はクリア直後だと少なく、なんとなく判るのだけど明確に言えないという人も多いだろう。もちろんこれらをアーカイブを読みながら補完する事も本作の楽しみ方であろうが、そこで得られるのもまた結局、細かな事実の積み重ねでしかない。理解するのが意外に難しい割には、そうした細かな事実は単発の事実ばかりであり、理解する難しさに見合った面白さを持っていない。細かな事実が伏線回収的な快をそれほどもたらさない。ただ「あー、そうなんだ…」と感じるばかりである。上記に例示した点も、物語のプロットを知る上では重要な事実のはずなのに、結局知っていても知っていなくても物語を味わう上であまり違いがないという所に、本作の短所が現れているのではないかと思う。

 

なお細部を含め、重要な事実を抑えるのには以下のブログ記事が非常に参考になる。素晴らしい整理をした記事なのでクリア後のプレイヤーは是非一度、目を通してほしい。

十三機兵防衛圏ネタバレ考察 | INFORNOGRAPHY

 

意外な事実の提示があまりにもアッサリしている

本作の細部を細かく知っていく事にあまり気持ち良さがない、ということを前節では示したが、本作では大きなトリック部分の提示の仕方にも残念さがある。本作では、大きな「意外な事実」の提示を少なくとも5,6回は行なっており、想定していた世界の真実が何度も更新される。しかし、その提示のされ方があまりにもアッサリしており、ほとんどの場合、せっかく「意外な事実」を提示しても、プレイヤーをやや置いてけぼりにしたままに語っている場面が多い。

 

例えば、タイムリープではなく、空間移動だったんだと判る展開はこのゲームの中でも重要なポイントである。しかし、この事実によってこれまで不思議だった別の事実がパタパタと回収されていくような演出にはそれほどなっていない。ただ「そうなんだ」と理解するばかりである。「時間移動よりも空間移動の方が実現性が高いかも」というプレイヤーの科学的リテラシーを僅かに満足させることと、セクターという呼ばれ方をしている理由が理解できる程度の面白味しかない。せっかくのサプライズにも関わらず、世界観に対する理解の更新があまり広がらないのである*3。そして終盤、結局全ては仮想現実なんだと判る展開も同様である。ただ事実が提示されるばかりで、それによって何か多くの事実が改めて納得されるとか、意外であるとも特に感じられない。むしろ、仮想現実内であるなら「空間の瞬間移動」であることの面白味はほとんど失われてしまう。複数の「意外な事実」同士の関係が、あまりにも「疎」の関係にあり、意外性がただ積み重ねられているだけという印象が強い。わたしが個人的に求める必然性の面白さは、事実の「密」な関係にある。せっかくの面白い設定が、本作ではあまり煮詰められることなく単純に混在させられていると感じた。

 

アンチ「ループもの」としての面白さ

では、本作はつまらない作品なのかといえば決してそんなことはない。素晴らしい作品であり、こんなに作り手の労苦が手触りとして感じられる作品はしばらく出ないだろうと思われる。加えて、本作の面白さは、個人的に不満を持った必然性の無さと表裏一体であると考えている。それがアンチ「ループもの」としての面白さである。

 

本作には「ループもの」の物語の場合、自然と受け入れてしまっている展開を、あえて覆している部分が多い。例えば、何度もタイムリープを繰り返して前回の記憶を活用して状況を打破するというモチーフが本作では影を潜めている。特に二周前からリセット越えをしてきた和泉の描き方が顕著である。彼は唯一の二回ループをしている者であり、それゆえ世界の真実に早い段階で気付いているわけだが、彼のやっていることはかなり行き当たりばったりである。DD426を作って世界を守ろうとして、逆にそれでみんながピンチに陥ったり、主人公たちを全員殺そうとしたり、逆に守ったりしている。かなり試行錯誤の道半ばであるのが和泉である。『オールユーニードイズキル』や『シュタインズゲート』でも試行錯誤の段階はあるにはあるが、あくまでそれは途中経過である。結末を描くにあたり、何度もループを繰り返して超越的な存在になることでループを打破するというキャラクターに、和泉をあえてしていない*4。なんなら、最後の最後で失敗してしまうかもしれないキャラクターとして描かれている。因幡深雪や森村(園児)に対しては、そうした超越的な存在であることを多くのプレイヤーは期待したかもしれないが、彼らもまた偶然にそうしたポジションにいただけの存在であり、決して絶対的な存在者ではない。13人という多数の思惑が偶然に交錯した結果そうなったのだという、正に物語内の「箱船計画」を思わせる語り方になっている。「箱船計画」はアポロ計画のような絶対に失敗できない一回をこなすための計画ではなく、大量に繁殖することで、いつか成功させるという計画である。この「偶然に掛ける」というスタンスが、「箱船計画」という設定の全体像と、本作のメインストーリーとで、フラクタルのように同じ構造になっている。奇跡が1人の絶対者によるものでなく、多数の人間の偶然の産物として、しかしドラマチックに描かれている点がこれまでの「ループもの」とは一線を画していると言える。

 

加えて、象徴的なのが、登場人物たちのカップリングである。環境が変われば、別の人を好きになる。この描き方はこれまでループものが持っていた「運命の赤い糸」的価値観のアンチテーゼに感じられる。『シュタインズゲート』のリーディングシュタイナーなどは、そうした「運命の赤い糸」価値観を支える象徴的な仕組みだろう。たとえ世界線が変わっても愛する人は同じ人というのはもちろんロマンがある。しかし、本作ではそうしたロマンをアッサリと放棄している。そして「環境が変われば、別の人を好きになる」という、言われてみれば当たり前すぎるリアリズムに一周回って気付かせてくれる。これは「ループもの」に慣れたプレイヤーであればあるほどに感じる面白さでもある。

 

偶然の物語としての革新性

『十三機兵防衛圏』という作品には、必然性の気持ちよさがないという点において、わたしは不満を感じたが、一方で、必然性ではなく全ては偶然とともにあるという物語を描いた点が素晴らしいと考える。これまでの多くのカタルシスのある物語というのは、得てして必然性の気持ちよさによって支えられている。本作にはそうしたカタルシスはあまりない。それでも、複雑なプロットが一つの作品としてまとまっていることへの感嘆が、ネット等で本作への評価として度々語られてしまっている。確かにそうした評価をされることは当然だと思うが、実は(言い方が難しいが)逆ではないかと思うのだ。本作は、そうしたまとまりが本当にそうであるべき、という必然性に支えられているわけではない。ただ偶然そうであった大量の事実が疎結合のままに悪魔合体していることに本作に固有の魅力があると私は考える*5

 

たった1人の天才的な設計者によって精密に作られた世界とは違う、複数の思惑が、偶然のいたずらによってたまたま好ましい結果を導いた。そういう設計者たる神のいない世界の物語を描いたことが、『十三機兵防衛圏』の「人」の物語としての革新性である。最後の戦闘パートが英雄的な敵戦力の殲滅という勝利によって彩られるのではなく、ひたすら全員で地道に防衛し続けるという演出になっていることもまた、その思想を力強く裏打ちしているように感じられる。『428』も『ゴーストトリック』も多数の人物の物語でありながら、最終的には1つの中心点から照射される物語として描かれている。しかし本作は、バラバラなものをバラバラのままに描き、中心点を持たないことを貫き通しており、そこがかえってドラマチックであるという点が素晴らしいのではないだろうか*6

 

*1:例えば『ゴーストトリック』であれば、主人公シセルの正体提示はもちろんながら、レストランの店員という脇役でさえ、実は潜入捜査官であったというような細部での作り込みがある。また『428』でも単なる賑やかし要員でしかないと思われていた着ぐるみの登場人物が最重要キャラとして終盤に印象的に明かされる

*2:2007年にPS2で発売された。本作『十三機兵防衛圏』を開発したバニラウェア制作のアクションRPG。6人の主人公のドラマが絡み合うストーリー。私自身はPS4版である『オーディンスフィア レイヴスラシル』をプレイした。PS4版はPS2版よりも遊びやすく調整されているリマスター作品。

*3:例えば、鞍部家の柱のキズの謎とか、1945年に世界が崩壊しているのに、なぜ1985年が無事なのかと言った事実をもっと強調できていれば、より「時間移動ではなく空間移動」の設定の意外性が生きるはずなのに、「平行世界かも」というような概念まで丁寧に言及するため、プレイヤーの思い込みが発散してしまい、意外性を抑制してしまっているように思われる。

*4:和泉が必死に魔法銃で主人公たちを撃たせているのも、絶対的な力を身につけさせるのではなく、成長要素をアンロックするという可能性に掛けた行為であることも象徴的である。

*5:以下の記事で、「闇鍋」と表現されている点はまさに同感である。『十三機兵防衛圏』が狂気的に傑作すぎたので、思ったことをちょっと書く

*6:バラバラという意味では、本作は『街』に似ているとも思う。近い作品として言われがちな『街』と『428』の大きな違いもこの点にあると考える。

『ゼルダ無双』と『FE無双』の敵の湧き方が気に入らない

ゼルダ無双』も『FE無双(ファイアーエムブレム 無双)』も、どちらの作品も、それなりに良くできているとは思う。しかし両作品ともに、敵の湧き方がとても気に入らない。同じような感想を持つ人もいるだろうと思うので、書き記しておきたい。

 

昔の真・三国無双では、もう少し敵の出現に節度があった。拠点からしか敵は出てこない(ように感じられた)し、倒したはずの敵の集団がいつの間にか後ろにたくさん再び湧いている、なんてこともあまりなかった筈だ*1。さんざんぱら敵を倒した筈なのに、また敵が無限に湧くように現れるのでは、無双がかつて持っていたプチプチを潰す喜びを毀損しているのでないかと思う。プチプチを潰すのは、その行為自体が楽しいだけではなく、プチプチを潰したその面積、その成果を確認することも楽しいのだ*2。赤い敵の点の塊が、どんどんと無くなっていき、「キレイに」なっていくこと、この快感を『ゼルダ無双』も『FE無双』も忘れてしまっているように感じられた*3

 

もちろん、敵一体一体を丁寧に倒していく楽しさよりも、一撃で死ぬ敵をバッサバッサと大量に配置する方が快感度は高いという判断なのだろうと思う。しかし、無双ゲームにこんなことを言うのもおかしいのだけど、『ゼルダ無双』も『FE無双』も敵一体一体の存在価値を下げすぎている。倒した敵を、その倒した事の結果を確認できるようにして欲しい。もう少し、大量にいた敵を倒した後の、ガランとした広場を見る喜びを大切にして欲しい。そうでなければ、あまりにもプレイヤーの行為が虚無的すぎる。

 

私が言う、この感覚を愛する者もいると思う。特に最近のコラボ無双の中では『ゼルダ無双』と『FE無双』は比較的評価が高いので、余計に心配になる。両作品ともに楽しいゲームであることは間違いない。しかしかつての無双ゲームを愛する者として、ただK.O.カウントを上げる事に重きを置く方向性に、今後の無双シリーズが凝り固まらないように是非してほしいところだ。

 

■追記(2020.01.12)

真・三国無双7 with 猛将伝』をひさしぶりにプレイしてみたが、やはり全く敵を倒すときの手応えが違う。こちらの方が遥かに気持ちがいい。そして、倒せばちゃんと敵が減ることを実感できる点も好みに合っている。『ゼルダ無双』や『FE無双』のようなコラボ無双が分かりやすい快感をお手軽に味わえる方向に進むのも理解できるが、アクションゲームとしての矜持を完全に失った調整をしているように思えて悲しい気持ちになる。でも、『ゼルダ無双』も『FE無双』も好きな人が多い。実に悲しい。

 

*1:マシンスペックが足らなくて表示できないというのなら、そんなに敵を大量に出さないでいいように敵を固くしてほしい。

*2:その点、「ムゲンプチプチ」という商品は、わかってないなと思わざるを得ない

*3:「忘れてしまっている」と書いてはいるが、コラボ系無双は伝統的にこういういきなり敵がその場で湧いてくる仕様なのかもしれない。あいにくとコラボ無双でプレイしたことがあるのが、『ガンダム無双』くらいであり、記憶も曖昧なのだが、当時からそうだったのかもしれない。

『デス ストランディング』はプレイする人みんなを批評家にする

2019年リリース。小島秀夫監督作品。『デス ストランディング』(以下、デススト)は、今年、発売前に最も注目されたゲームだろう。何が面白いのか分からない訳ではないのに、なかなかその魅力を言葉にする事が難しい。そんな不思議な作品であるが、個人的には傑作だと感じた。文句をつけることはいくらでもできるだろうが、それでもこんな作品を作り上げることは、なかなか余人にはできないだろう。本稿では、この作品の持つオリジナリティを他のゲームとの比較から語り、また、小島秀夫作品の特色でもあるカットシーンや演出についてゲーム作品だからこその魅力を持っているということを述べてみたいと思う。

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「表の遊び」と「裏の遊び」の逆転

『デススト』が提示する遊びというのは個々の一つ一つを見ると決して革新的というわけではない。しかし、本作は、既にどこかにあった遊びの「位置付け」を変えている。

 

具体的に見てみよう。荷物を大量に運ぶ上で何を持っていき、何を諦めるかという点は『スカイリム』(2011年)や『フォールアウト4』(2015年)などの重量制限で味わったことがある感覚だと思う人は多いだろう。また、重い荷物を左右バランスを取りながら歩くところなどは、アクションゲームで細い足場を渡る時に左右のバランスを取るミニゲーム的なギミックとして体験した感じに似ている。そして、様々なサブクエストを受注した時に、どのように目的地を巡っていけば効率的にお使いタスクを消化できるか?というのも、昨今のオープワールドゲームを遊ぶ際に似たようなことを考える場面は多い。『デススト』が特徴的なのは、そうしたこれまで「裏側の遊び」だったものが表側に「位置付け」が変わっている点である。一方で、その他のゲームでは「表側の遊び」として位置付けられる「敵を銃で撃つ」「ステルスで敵をやっつける」「車やバイクを運転する」などの行為が、『デススト』では、ほとんど表に出てきている印象がなく、この点で逆に特徴的であると言える。『デススト』は、他のゲームで一般的になっている「表側の遊び」「裏側の遊び」の感覚を逆転させたところに、そのオリジナリティがあると言えるのではないだろうか。

 

個人的に特にこの「表裏の逆転」という感覚を強く感じたのはグレネードの存在と山登りの2つである。他のゲームであれば、補助的な役割になりがちなグレネードという投擲武器が初期から中盤にかけて、ほとんどメイン武器、標準武器として位置付けられている。また山登りについては、かつて『スカイリム』をプレイしていた時に、目的地に着こうとしてちょっと急な斜面をポリゴンの引っ掛かりを探しながら無理やり登った時のことを思い出した。「『スカイリム』ってこういう遊びのゲームではないんだろうけど、この山登りってちょっと面白いな」と思ったことが印象に残っている。『デススト』では、その密かな遊びをメインの遊びとして提示してきており、梯子をギリギリ引っ掛けて無理矢理に崖を登っている時に「あ、あの裏側の遊びがメインディッシュになっている!」という驚きを感じた*1

 

このように『デススト』というのは、ビデオゲームをよく遊ぶ人ほど、不思議な逆転の感覚を与えてくれる批評的な作品ではないかと思う。提示された遊びを単に享受させるだけではなく「こういう所が意外に面白いのではないか」という「面白さを発見する面白さ」をプレイヤーに仕掛けてきている。面白いことそれ自体に意外性(こんなことが面白いんだ!)があるところが面白いゲームなのである。

 

「ゲームの人」か?「映画の人」か?

小島秀夫というゲーム作家を表現するのに、「ゲームの人」か?「映画の人」か?という議論がある。メタルギアシリーズでもそうだが、特に『デススト』ではカットシーンが長いという印象があるため「小島秀夫は映画を作りたいのか?」とやや揶揄を込めて言われることがある。一方で、「やはり小島秀夫はゲームの人なんだ」という言われ方もする。本作もそうだが、目新しく見えるゲームデザインや遊びを作品に盛り込んでくることも確かであり、また先の「映画の人だ」という評価へのカウンターとして「ゲームの人だ」という語りはなされることがある*2

 

どちらの言い分にも理はあると思うが、個人的にはその中間とも言える「小島秀夫はゲーム演出の人だ」という印象が私にはある。それはどういうことか。小島秀夫のゲームでは、明らかにカットシーンが「ご褒美」として機能している面がある。苦労して何かを成し遂げると、そのリワードとしてカットシーンがプレイヤーに与えられる。この90年代から2000年代のゲーム業界の文化の香りを『デススト』には感じる。しかし、こうしたカットシーンがご褒美になるという文化は、『ウィッチャー3』(2015年)あたりで、完全に息の根を止められたような印象がある。昨今、美麗なカットシーンはプレイヤーにとって特に嬉しいものではなく、「カットシーンはご褒美」という考え方は古臭いと思える。

 

しかし、『デススト』には、その「カットシーンはご褒美」を今なお成立させるだけの変則的な搦め手が仕込まれていると考える。それはノーマン・リーダスマッツ・ミケルセンギレルモ・デル・トロと言った豪華な出演者たちにやや奇妙な振る舞いをさせるという部分であり、また、あの世と通信をするという突飛なSF的設定をベースとした不可思議なストーリーテリングである。こうした他の映画やTVドラマでは味わえないような「破綻した面白さ」を仕込むことで、一見すると古臭い「ご褒美」をギリギリに成立させている。『デススト』という物語に仮に設定矛盾や理屈に合わないところがあったとしても、それは単純に非難すべきところというよりも、ゲームだから許される「突飛さ」をむしろ積極的に取り入れていったところだと言えるだろう。『デススト』は気取るために狂ったフリをしているのではなく、狂った設定や狂った演出によって、むしろギリギリにゲームを成立させているのである。プライベートルームでのノーマン・リーダスの数々の珍妙で突飛な振る舞いに世界観や物語上の理屈などは存在しない。これらの要素は他の映画や小説やTVドラマであれば、意味不明な悪ふざけとしてしか認識されないかもしれない。しかしゲームであればそれがささやかな遊びとして受け取られ、突飛であることによって、ゲームのプレイヤーにとって小さなご褒美として成り立つのである。*3

 

ゲームプレイのストレスを浄化する幸福な既視感

『デススト』には数々の印象的な場面やビジュアルがある。多くの人が強い感慨を抱いたであろう場面の一つに、ポートノットシティ(K3)到着直前のシティを一望できる場面がある。ポートノットシティ到着クエストの前にはバイクを入手するという流れがあり、そのバイクによってゲームのスピード感は増す。しかし、ポートノットシティへの到着にあたっては、逆にそのバイクの存在が厄介になる*4。そのため、無理やりにバイクでポートノットシティに到着する場合でも、バイクを乗り捨てて徒歩でポートノットシティに到着する場合でも、どちらの場合であっても、ポートノットシティを一望できる丘にまで到着した時には、プレイヤーはある種の感慨を抱くようになっている。どんなルートでも困難とその克服を感じさせる仕組みになっているからだ。

 

小島秀夫の作るカットシーンには、ポートノットシティを一望する時のような「ありがちだけど幸福なデジャブ」というものがある。バイクがぶつかりそうになったフラジャイルが瞬時に消えてしまう序盤のシーンや、泥沼から起き上がったクリフォードが無言でガイコツ兵に攻撃指示を与えるシーンや、ヒッグスが両手を広げて空中に浮かぶシーンなど、どんな場面もどこかで既に見たことがあるような、そういう既視感がある。しかしそうした既視感は単に「凡庸だ」となるのではない。というのも、プレイヤーはあくまでゲームプレイを通して、そうしたカットシーンや演出を味わうからだ。プレイ時間が長くなればなるほどに、おそらく反復されるカットシーンはスキップされる事が多いだろう。しかし時々、ふとした気まぐれで「今回のカイラル通信の接続シーンはスキップせずに見ようかな」と思うことがある。この「気まぐれ」は、ゲームプレイによって醸成されている。『デススト』が単に見るだけのエンターテインメントであれば、そういう気まぐれが起こる事はない。ゲームプレイによってプレイヤーが特定のマインドセットを抱くからこそ、そうしたベタな演出やカットシーンも、ほどよく幸せなデジャブ体験として成立するのだ。

 

前節では、小島秀夫の作るカットシーンや演出の「突飛さ」を強調したが、一方で小島演出にはどこかで見たような「ベタさ」にも満ちている。しかしそれがプレイヤーにとって幸福なのである。ベタであるからこそ安心して受け取れる。ゲームプレイによって受けたストレスを癒してくれたり、よく知っているものを期待通りに提供してくれるものとして、『デススト』のカットシーンは極めて機能的に作用している。

 

小島秀夫の作るカットシーンや演出は、以上のような両極端の要素を抱えている。「突飛さ」と「ベタさ」である。これらの要素は単品のカットシーンや演出として見たときには、「悪ふざけ」や「凡庸さ」としてしか捉えられないかもしれない。しかしゲームプレイを通して悪ふざけはご褒美になり、凡庸さは癒しになるのではないだろうか。逆に言えば、小島秀夫が仮に映画を撮ったとしてその出来を勝手に想像して不安に思うのは、ゲームプレイを伴わない映像作品が「悪ふざけ」と「凡庸さ」に満ちてしまうのではないかという危惧があるからだろう。

 

傑作としての『デス ストランディング

小島秀夫のゲームは、演出によって際立っている。これはこれまでの小島秀夫作品からも言える事だろう。『デススト』がこれまでの小島秀夫作品の中でも傑作と言える出来だと思うのは、ゲームプレイと演出の噛み合わせが非常に上手くいった例だと思うからである。ゲームメカニクスが剥き出しになったようなゲームプレイが、本作を単なるカットシーン偏重のゲームとして捉えることを抑制している。一つ一つは既存のゲームメカニクスと似ているように見えても、総体としては特異に見えるゲームメカニクス(裏表の逆転)が強く本作の存在感を主張している。「カットシーンが長すぎる」という批判はあっても、『メタルギアソリッド4』(2008年)のような「カットシーンばかりのゲーム」などと批判されることはおそらくないだろう。

 

加えて、カットシーンや演出がそこに至るまでのゲームプレイへのご褒美もしくは癒しとして適度に作用している。 もちろん比較的退屈なカットシーンを長く見させられるという印象を終盤に感じる人もいるかもしれない。それでも、物語の最も印象的なシーンだけを、あくまでゲームプレイへのご褒美や癒しとして適切なバランスで提供するという事が本作は比較的高いレベルで達成されているように思う。過去作で言えば、『メタルギアソリッド4』や『メタルギアソリッド5』(2015年)ではカットシーンの量に比べて、ゲームプレイの不足を感じさせるものであったと私は捉えている。もし見ることに特化した物語を伝えることを第一義にするならば、サムの亡き妻ルーシーとの別れや思い出を語る場面がドキュメントだけでなく、カットシーンとしてあってもよかっただろう。しかし、それらがバッサリとカットされていることは、本作のカットシーンとゲームプレイのバランスとして良い方に働いていると考える。サムとルーシーとの関係が全くカットシーンとしては描かれず、唯一写真とドキュメントだけで表現されるのは、開発コストの制約からなのか、意図的な演出なのかは分からない。ただ、ルーシーとの別れはサムにとって最も鮮烈なトラウマであるだろうから、それをあまり語らないのは、逆に不自然のような気もする。このように「見る物語」として評価した時に『デススト』には様々な舌足らずさがある。しかし、(単に見る物語としてでなく)ゲームとして見たときには非常に良いバランスになっていると考える。

 

「物語としてどうか」「ゲームメカニクスとしてどうか」というように分析的(?)な批評スタイルでそれぞれを分けて評価してしまうと、今ひとつ『デススト』の魅力というの見えにくくなる。もちろん『デススト』という作品の魅力の不思議さゆえに、要素を小分けにして分析したくなることもよく分かる。しかし、我々がそういう批評家になってしまうというのは、『デススト』を評する上で、逆に罠なのかもしれないと思うのだ。

 

『デス ストランディング』は奇跡のような作品だ。おそらく小島秀夫の持つ強運がもたらした偶然の産物という側面はあるものと想像する。しかし奇跡だろうと偶然だろうと、独立後一発目の作品で、これだけのものを世に出したことへの賛辞はどれだけしても、し過ぎということはないと思う。そういう小島秀夫自身の境遇という文脈の面白さを置いておいたとしても、作品が我々みんなを批評家としてしまい、またそれによって何が面白いのかがかえって不思議に感じられる、そんな「面白さの迷宮」に我々を誘うという点においては、唯一無二のゲームではないだろうか。

 

 

 

*1:山登りを「表側の遊び」として提示したゲームは既に『ゼルダの伝説 BotW』がある。しかしゼルダの場合はかなりしっかりと山登りがゲーム化されており、物理エンジンとポリゴンのイタズラでギリギリ登れてしまう、みたいな遊びがより堂々と表現されている点は『デススト』の特徴なのではないかと思う。

*2:『デス・ストランディング』試論――かくて荒野は意味で満たされた。死の大地を歩くことを意義あるものにした、オープンワールドのゲームデザイン - ファミ通.com

*3:本作を社会情勢に対する真面目な問題提起として捉えることにはあまり価値がないと思っている。「繋がり」というテーマに薄っぺらさを感じる人は多いと思うが、下記のインタビュー記事などを読むと、小島秀夫は繋がりの鬱陶しさにも言及しており、そこまで「繋がり」一辺倒ではないとも思う。しかし、例えば、サムの接触恐怖症は最後には克服されるような表現がされており、こういうところが小島秀夫の思想の甘さとも感じられる。より現代的に接触恐怖症を描くならば、その症状を抱えたまま、引きこもりとして生きていっても良いじゃないか?という面を強調する描き方もあったはずである。そういう風には描けない保守性が、小島秀夫のポピュラリティーとも言えるし、限界でもあるかなと個人的には思う。

『デス・ストランディング』は他者と距離を置くことで人にやさしくなれるゲーム。小島秀夫監督インタビュー - ファミ通.com

*4:岩場でBT出現というエリアがあるため、バイクでの踏破が少し難しく、おそらく多くの人がここでBTに捕まるという洗礼を受けることになる。

手堅いが驚きの少ない『ルイージマンション3』

2019年リリース。『ルイージマンション3』は確実に面白いゲームではあるが、新奇性という点ではどこか物足りなさを感じさせる作品だった。

 

このゲームを遊んでいると『ASTRO BOT』のことを考えてしまう。PSVRという新鮮な環境で、古典的なプラットフォームアクションとして手堅く面白い作品でありながら、プレイヤーの意表を見事に突いた作品だった。『ASTRO BOT』がステージを進むごとに次々とプレイヤーに驚きを提供したことを考えると、『ルイージマンション3』はいかにも単調である。もちろんステージ(フロア)ごとに全く異なるモチーフと意匠が施されてはいるものの、どのギミックもだいたい想像の範囲内だという印象がある。初代『ルイージマンション』は裸眼立体視のゲームとしても作られたというエピソード*1も併せて考えると少し感慨深いものを感じる。

 

ただ『ASTRO BOT』と比較して、個々のゲームギミックの工夫やパズルとしての出来は『ルイージマンション3』の方がバリエーションも豊富で手も込んでいる。『ルイマン3』は自らのテリトリーで素晴らしい作品にまで磨きあげられていることは確かである。それでもちょっと期待してしまったのだ。3Dゲームでありながら、決して酔わないタイプの画面固定型アクションゲームの体裁を今なお頑なに維持している中で、それでも新しい何かを見せてくれるのではないか?と。『ASTRO BOT』が古臭さを持ちつつも、新しい可能性を見せてくれたことと似たような新奇性を『ルイマン3』も垣間見せてくれるのではないかとちょっと期待してしまったのだ。しかし、これは少々私の期待が過剰だったようだ。

 

ルイージマンション』はそのタイトルにもある通り、閉鎖空間であることを自らの枷としている。その制約の中でいかに面白いパズルやギミックを提供するか、そこには様々な努力とアイデアが詰まっているのだろう。例えばデザートフロアやビーチフロアなどは狭苦しいホテルの中でありながら、やや広い空間(砂漠や浜辺)を演出している。しかしその砂漠や浜辺の遠景には丁寧にホテルの壁の跡が見えるようにされている。この閉鎖空間という制約を常に意識する姿勢はとても誠実だと思う反面、この生真面目さこそがルイージマンションという作品を強く制約し続けているなとも感じる。初代『バイオハザード』の閉鎖空間での恐怖というテーマに反するように、『バイオハザード2』がほとんど確信犯的に屋外に飛び出したような、そういう奔放さがむしろ『ルイマン』には必要なのではないか。『ルイージマンション3』が原点回帰的な作品としての集大成だとするなら、ぜひ次の4では、これまでの制約から離れて全く新しい世界を提示してくれることを期待したい。