ビデオゲームとイリンクスのほとり

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『デススト2』の物語は失敗している

【追記 2025.12.17】小島監督へのインタビュー記事が12.16に出ました。その内容を踏まえて記事の最後に追記をしています。

2025年にリリースされた『デスストランディング 2 : on the beach(以下、デススト2)』。『デススト2』は、前作から引き続き、荷物を運ぶゲームである。そんな「おつかい*1」のようなゲームでありながら、しっかりとした遊びごたえで長く楽しめる一風変わった作品である。私は前作『デスストランディング (以下、デススト1)』を高く評価している。というのも、KONAMIという古巣を離れて、あんな奇妙なゲームを完成まで作りきり、それを多くの人に売った(届けた、などという穏当な言い方は逆に失礼だろう)というのはとてつもない偉業であると考えるからだ。小島秀夫という人はすごい。こんな「変わったゲーム」であるのに、意外なほど面白く、そして楽しめる作品であることは大きな驚きでもあった。こんなゲームを作れる人はそうそういないだろう*2

しかし前作『デススト1』の時点でも、その物語は決してそこまで面白いものではなかった。『デススト1』の物語は様々に解釈できるかもしれないが、素朴に解釈するならそれは「人と人との繋がりを取り戻す物語」だったと言える。その結論は人によっては説教くさいとか色々な批判はあるだろうが、個人的には特段説教くさいとは思わなかった。私はとても「普通の素直な物語だな」と思った。そのためでもあるだろうが、特に面白いとも思わなかった。すごく変わった設定のSFだなとは思ったが……。

繋がりの二面性

しかし『デススト1』では、その繋がりに対して、暴力*3というネガティブな側面を意識していた点は重要である。『デススト1』の主人公サムの目的はアメリという女性を探しに行くことである。アメリはサムの姉であり、その肉親との繋がりを求めるプロットがストーリーの主軸になっていた。しかし最後にアメリは人類に対して脅威をもたらす存在(絶滅体)であることが判明してしまう。この設定は、おそらく繋がりの二面性を分かりやすく示している。つまり繋がりが人類の繁栄にも絶滅にも繋がっている。前作『デススト1』の時には、繋がりの持つそうした正と負、もしくは生と死の二面性が明確に意識されている。もちろん、そうした二面性に悩むというのは決して新奇性のある話とは言えない。世の中にあるほとんどのお話は何かの二面性に悩むのだ。スパイダーマンでもバットマンでもそうだろう。

とはいえ、その二面性を踏まえた上で、あえて『デススト1』は繋がりの「正(生)」を讃えるストーリーとなっていた。主人公サムは「接触恐怖症」という病を克服し、ルーという未来に繋がる子供を最後に得る。そうして繋がりの連鎖に、繋がりを拒否していたサムが組み込まれていく。このように考えると『デススト1』の物語は極めてオーソドックスな、困難とその克服を描く物語である。そのため、物語としてはその主張がとても分かりやすくもあった。「他人との関わりは色々と面倒だけど、ちゃんと他人とつながろうよ」というわけだ。

しかし『デススト2』では、そうした葛藤が分かりにくくなっている。繋がりがもたらす有害性や暴力が、ほとんどヒッグスという敵役に一任されており、物語を通してあまり屈託もなく、終盤まで比較的平板な語られ方が続く。概ね『デススト2』では「繋がり」は良いことしかもたらさない*4。『デススト2』は「みんなで繋がるといいよね」というある意味では『デススト1』よりも遥かに割り切った物語になっている(ように私には見える)。

以上の点を概観として押さえた上で、さらに詳しく見ていこう。

繋がることに対する躊躇の描写不足

『デススト2』には、繋がることへためらいがほとんど描かれない。唯一、トゥモローという異世界から来た少女だけは、安易に心を開かない人物として最初は登場する。しかし、すぐに主人公たちと仲良くなっていく。サムにはどんどん仲間が増えていくし、みんなは優しくケアの心に溢れている*5。そして何より、作中で多くの「切断」つまり繋がりが絶たれるエピソードが語られるものの、それらはエンディングに向かって、あれよあれよと修復していってしまう。その典型的な例はルーの存在だろう。前作に引き続きサムと冒険を共にしている赤ん坊のルー。ルーは死んだと思ったけど死んでなかった。自分の子供だと思ってなかったけど自分の子供だった。なんなんだ、それは。つながりの「切断」に悩むドラマを描きながら、結局その「切断」をそもそも無かったことにする。それがご都合主義だから良くないと言いたいわけではない。結局「繋がってた方が良いよね」というのではあれば、「切断」に悩んでいたこと自体が安っぽくなってしまう。なぜ悩みを安っぽくする必要があるのかが分からない。

前作『デススト1』では、ルーとは血のつながりはないけど、冒険を通して血のつながりとは別種の固有のつながりへと結実していた。繋がりの二面性を抱えつつも、それを昇華している物語だったと解釈できるだろう*6。伝統的な繋がりである「血」を乗り越えることで、単に繋がりを賞賛するのでもなく、また否定するのでもないからだ。『デススト1』の物語だって、相当に凡庸ではあるけれど、少なくともなぜそう描きたいのかは理解できた。主張とドラマは一定の一致をみていた。しかし『デススト2』は繋がりへのためらいがないばかりか、繋がりをあまりに素朴に肯定しているように見える。そのくせ「オーストリラリアを(カイラル通信で)繋ぐことは、アメリカへの植民地化を意味しないのか?」などと物語の序盤で心配したりする。そういう悩みをストーリーの最後まで抱えながら何らかの解決を試みるならまだしも、ほとんどその問題にスポットライトは当たらない。特に真面目にその問題に取り組むわけでもない。結局、重要な問題意識がどこにあるのかが、よく分からないのだ。

不自然な安部公房の引用

先に書いたとおり、繋がりがほとんど無条件に良いものとして描かれがちな『デススト2』だが、実はかなり明確に繋がりへのためらいが表現されているところがある。それが『デススト2』のキャッチコピーである。

f:id:tuquoi:20250916124220j:image公式ページより

上記のとおり『デススト2』のプロモーションでは明確に「 我々は繋ぐべきだったのか?」と問うている。これは明らかに繋がりへのためらいを示唆する疑問だろう。しかしエンディングまで通して、サムがどれだけ繋がることへのためらいを示したというのか?もちろん「ためらいの描写」が少ないなら少ないで良い。しかし「我々は繋ぐべきだったのか?」と疑問をプロモーションで示しておきながら、それについての説明が十分に物語の中でされていないというのは端的におかしい。ためらいの自覚があるなら、それをちゃんと物語で描くべきだろう。

最もそれが象徴的に現れたのは、エンディングでの安部公房の言葉の引用である。『「今日」をさぐる執念』というエッセイから次の言葉が引用されている。

生きるということは、けっきょく、未来の中に自分を思い描くことかもしれない。
そして未来はかならずやって来る。だが、そのやって来た未来のなかに、予期していた君の姿があるとはかぎらないのだ。
— 安部公房「『今日』をさぐる執念」

X(Twitter)などを見ると、この言葉を「良い言葉」「感動的な言葉」として解釈している人もいるようだが、この文章は少なくとも明るい未来を言祝ぐ言葉ではない。特に前半の「生きるということは、けっきょく、未来の中に自分を思い描くことかもしれない」という言葉は「未来のことを考えながら今日を生きよう」というような肯定的な話では全くなく、むしろ呪いである。重要なのは最後の「そのやって来た未来のなかに、予期していた君の姿があるとはかぎらないのだ。」という言葉である。安部公房は、現在(今日)と未来は、どうしようもなく断絶していると言っているのだ。しかし人は未来を思い描かないわけにはいかない。なぜなら人は、かならず今日の積み重ねの先に未来がある、つまり未来に繋げることで、今を価値あるものと思いたいからだ。それは見ようによっては呪いのようなものだ。しかし「今日」や「予期していた君の姿」なんてものは、未来には跡形もなくなっているかもしれない。今日の積み重ねの先に未来があるなんて、そんな保証は何もない。そんな深い諦観とも言える残酷な真実について安部公房は語っている。決して明るい話ではない*7

今、必死になっている努力さえ、未来からしたら無かもしれない。こういうラディカルなことを言っているからこそ、安部公房の言葉は非常に面白いのだ。「みんなで繋がって、明るい未来に向かって頑張ろう!」みたいな通俗的な教訓めいた要素が一切ない。安部公房は残酷に「繋がらない」と言っているのであり、繋がらないことに覚悟せよと言う。

ひるがえって『デススト2』はどうなのか。トゥモローやフラジャイルやレイニーに助けられながら冒険をゴールまで進めていくサムにどれだけ「繋がらない」ことの覚悟が描かれたというのか。全く足りていないと感じる。何より、安部公房の言葉を引用するのであれば、ちゃんと物語内容と呼応した形で、引用するべきであるだろう。「物語では直接描いてないけど、繋がること自体の難しさも認識していますよ」というアリバイ作りのような引用は、決してかっこいいとは思えない。

小島秀夫の生き様にある「繋がらなさ」

しかし、私は小島秀夫安部公房の先の言葉を誤解しているとは全く思っていない。X(Twitter)で誤解した解釈をするプレイヤーはいても、おそらく小島秀夫自身は正しく安部公房の先の言葉を理解している。小島監督は正にその生き様において「つながらなさ」を切実な問題として感じていると想像されるからだ。

『デススト2』で、ニールというキャラクターが登場する。そしてそのビジュアルは『メタルギアソリッド(MGS)』の主人公スネークを彷彿とさせるバンダナをしている。明らかにスネークのイメージを想起させるビジュアルになっている。しかしそのニールはMGSで描かれるスネークのような超人的で英雄的な存在ではなく、主人公サムの妻を寝取った間男であるのだ。おそらく小島秀夫自身、スネークを間男として描く未来は到底想像もしていなかったに違いない。メタルギアという巨大になった遺産を自ら受け継ぐことも許されず、かと言ってそれを素朴に真似たスパイゲームを作るわけにもいかない。「やって来た未来のなかに、予期していた君の姿があるとはかぎらない」ことを誰よりも痛切に感じているのは小島監督自身だろう。しかしそうであるならば、その切実さや痛みを『デススト2』の物語の中で私は見たかった。そうでなければ、安部公房のあの言葉は単なる嘆きにしかならない。

『アポカリプスホテル』の見事さ

これまで述べたとおり、『デススト2』の物語は繋がりの二面性への切実な問題意識も不十分であり、かつ、そこを何らかの形で解決へと昇華させることもできていない。繋がりが大切だと言いたいだけなら、こんなややこしいSF設定は不要だろう。この物語が成功しているとは到底言えない*8

しかし一方で以下のように擁護することはできるかもしれない。

安部公房のような繋がらないことへの諦めを徹底したら、絶望するしかない。安部公房を引用しつつも、希望をあくまで描こうとしたところにこそ小島秀夫の本意があるのだ」と。もちろんそのように解釈することはできる。しかし先に書いたとおり、十分な説明がないことは否定しようがない。『デススト2』には、ゲーム内世界で独自のSNSが運営されている。そのTwitterInstagramを模したようなSNSでは呑気にみんなが「いいね」をし合っている。現代の繋がりの過剰さや異常さを象徴するSNSをこんなにも牧歌的にしか描けない物語が、「繋がり」の持つ悩ましさを描けているとはやはり思えない。

また、安部公房の言うように繋がりは絶望的に期待できないとしても、それでも希望を巧みに描くとはできる。2025年に放映されたアニメ『アポカリプス ホテル』のエンディングはその巧みさの具体的な事例だと言えるだろう。素晴らしい作品であるためネタバレしないで語るが、『アポカリプスホテル』のエンディングは、今日と未来とが絶望的に断絶していたとしても、それを乗り越えて私たちが幸せになることはできるとあっけらかんと肯定する。しかしそこには諦め切った断絶があるだけではなく、繋がりを求めて努力していたこと自体が、断絶した未来を別のカタチで明るくする要因となっている。つまり、切断と繋がりの矛盾を、巧みに同時に描いているのだ。「切断すれば良い」と諦めるのでもなく、「絶対に繋がっていなくてはダメ」と思い込むのでもない。現代を生きる私たちに、一つの光を見せる物語らしい解決策の提示である。

決して『デススト2』が『アポカリプスホテル』のような物語を描けばよかったと言いたいのではない。未来との断絶をたとえ受け入れたとしても、巧みにそれを乗り越えられるような展開を見せた『アポカリプスホテル』のような成功事例がある以上、『デススト2』が安部公房の絶望にただ闇雲にアンチテーゼを述べているだけでは、何の芸もない失敗としか言えないということである。

 

日経クロステックの1万字インタビューを読んでの追記(2025.12.17)

2025年12月16日に『デスストランディング2』の小島秀夫監督のインタビュー記事が日経クロステックに掲載された*9。とても読み応えがある記事であり、読むことであらためて気がつくこともあった。
まず結論的には、このインタビュー記事を読んで、私の元記事を変える必要はほぼないと感じた。しかし、私の記事と小島監督の主張が大きく対立しているように見える部分もあると思うので、そこを中心に書きたいと思う。

まずインタビュー記事で目を引いた発言は以下のところだ。

後半では、前作のテーマである「つながろう」を全否定しているんです。「つなぐべきだったのか」が、大きなテーマになってきます。

私の記事は『デススト2』を「ほとんど最後までつながりを肯定し続けている」と主張しているので、ここは大きな対立ポイントだろう。ここを解釈するのは次の発言を参考にするのがいいだろう。

つまり、「操られているのではないか」といったメッセージが込められています。つながること自体、さらにはつながり過ぎることへの疑問が軸にあります。そのメタ、もしくはアイコンとして、作品中に「ドールマン」や「操り人形」が登場しています。

また上記の2か所の発言を補うように、次のようにも語られている。

デジタル化が行き着く先、メタバース空間は未来なのか、リモートで本当にいいのか。一時期、社会全体でそちらに大きく動こうとする時期がありましたよね。人に会えず、ライブなどもなくなり、すごい恐怖を覚えました。

これらの発言を総合して考えると、小島監督メタバースのようなデジタル的な繋がりの強い社会では、私たちは操られているのではないか?という疑問を感じ、『デススト2』では、そういう社会になることへの警鐘を鳴らしたと解釈できるだろう。非常にわかりやすいデジタル社会への危機感だ。
また、ここに「移動」の重要性が絡んでくるところに監督の強い意志があると私は思う。先の発言に「リモートで本当にいいのか」という発言があることからわかる通り、ここで「全否定」したいつながりというのは「オンライン」でのつながりだ。もちろん小島監督は単純な技術否定論をしたいのではない。もはやスマホやネットをいくら危険だからと言って簡単に排除すればいいというものではないと記事の後半でも言っている*10
つまり小島監督の主張を短くまとめるなら、「オンラインじゃなく、リアルに移動して、もっと直接的なつながりを大切にしよう」ということだ。
しかし、私の記事で語っている「つながり」はオンラインに限らない。フラジャイルやレイニーやトゥモローと言った仲間たちとのつながりを「ほぼ全肯定」していることへの疑問を提示している。しかし、小島監督が危機感を抱いている「つながり」は、オンラインに限定されているということがこの記事でハッキリしてしまった。もちろん、裏テーマとして「つながることによる、面倒な部分」を描いていたとしても、だ。ある意味、この点については軽い失望を感じている。映画版『レディプレイヤー1』と同じような、私にとってはとてもつまらない結論が小島監督の『デススト2』の主張だと考えられるからだ。注釈の中で私は次のように書いた。

もちろんAPAS4000に繋がることで、そのシステムに支配されるという負の面が語られているとも言える。とはいえ、APAS4000がもたらすものが「停滞」であるという点が解釈を難しくさせている。確かにダイハードマンによる「停滞を避け、私たちは移動を求める」という演説は感動的だが、APAS4000が何を象徴して(比喩となって)いるのか分かりにくい。

この疑問(批判)はいまだに有効ではないかと考えている。ただ、同時にここの記述には少し補足を入れても良いと思った。
小島監督は私の予想よりずっと素朴にAPAS4000を「停滞の象徴」として描きたかったのだ。オンラインで繋がっていれば、身体を移動させて人に会いに行く必要なんてないという、その「停滞してもいい」という安易さにこそ警鐘を鳴らしたかった。記事内で小島監督は「ネタバレになるので言いませんが、最後にあるキャラクターが語った言葉が全て。僕がコロナ禍で感じたことの全て、です。人が移動しなくなったらどうなるか、という危機感です。」と語っているが、このキャラクターはダイハードマンで、その最後の語りを指すのではないかと思う。正に先の私の注釈で引用している「停滞を避け、私たちは移動を求める」という演説のことで指していると推測できる。

ちなみに私は「オンラインでのつながりを重視して、リアルでのつながりを大事にしない」ことの危機感には強く共感する。そこを否定するつもりはない。そして今後の社会においてもずっと大事になり続ける疑問だと思う。しかし、その疑問はとても凡庸だし、それに対する小島監督の語り口は全く面白味に欠けるものだと思っている。だからこそ『アポカリプスホテル』の例を比較対象として挙げたのだ。『アポカリプスホテル』の方が否定するつながりの射程が広くラディカルなのだ。人類のために守ってきたホテルを人類が使わなくてもいい、という形でつながりを否定する(ホテル経営自体は継続するし、それで良いとしている)。この巧みさとアイデンティティの根本を抉るような力強さに比べると、『デススト2』の「身体的なリアルなつながりが大切だ」と語ることのつまらなさはより一層際立つだろう。ましてや安部公房を引用する必要性もない。

ただ、件のインタビュー記事を読んで私はどちらかと言えば小島監督のことがより好きになった。というのも、彼はとても正直で、本当に自分が思ったことだけを愚直に描こうとしているとより鮮明に理解できたからだ。彼の価値観はやや保守的で凡庸に思うかもしれないが、私は本気で小島監督はそれがやっぱり大事なんだと心の底から思ったのだろうと思った。それはすごく大切なことだ。耳から仕入れた安易な正義を大上段から語るよりもずっと誠実に感じる。もしかしたら将来、『デススト2』の方がずっと切実で素晴らしく、『アポカリプスホテル』の方が単に小賢しいだけだったと否定的な評価になる未来は、全然想像可能である。それはやはり小島監督が正に自らの身体で感じた「本当」だけを作品に落とし込めているからだろう。しかも、それをビジネスにして、それなりの成功を収めていることには心から尊敬する。やはりそれは簡単に他人が真似できることではない。

 

*1:おつかいという言葉はビデオゲームの文脈においては、少し特別なニュアンスを持つ。単純作業的で、知的な努力を必要としない、ゲームとして安直なタスクを意味するものとして、「おつかい」という言葉は使われる

*2:なお、私は『デススト2』を60時間ほどプレイしてクリアしている。本稿では『デススト2』の物語は批判しているものの、ゲームとしては60時間遊ぶに足る面白い作品であったと思っている。ただ、ゲームとしてみた時にも『デススト1』とあまり変わってないなというやや残念な印象も抱いている。

*3:「なわ」と「棒」という安部公房の言葉を引用することでその二面性を『デススト1』の時には表現していた

*4:もちろんAPAS4000に繋がることで、そのシステムに支配されるという負の面が語られているとも言える。とはいえ、APAS4000がもたらすものが「停滞」であるという点が解釈を難しくさせている。確かにダイハードマンによる「停滞を避け、私たちは移動を求める」という演説は感動的だが、APAS4000が何を象徴して(比喩となって)いるのか分かりにくい。例えば昨今のSNSという巨大なシステムがもたらす分断と混乱は「SNSが停滞を求めるからなのか?」と言うと、そう考える人は少ないだろう。むしろSNSがもたらすのは過剰な接続や交流であり、それは停滞とは真逆のイメージではないだろうか。そう考えるとAPAS4000は現実のSNSを象徴しているとは素直に考えにくい。何かやばそうな人類補完計画みたいな存在がAPAS4000である、という曖昧な印象で終わってしまっている人は少なくないだろう。現に、クリアしたプレイヤーの記憶にはヒッグスばかりが残り、プレジデントが一体どういう存在だったのか覚えてない人も多いのではないだろうか。

*5:マザーフッドのドクターを取り巻く仲間たちには、最初、繋がりへのためらいがあったと言えなくはないだろう。彼女たちは理不尽な暴力を男たちから受け、自警団的に周りと隔絶しようとする。しかしドクター周りの一連の話を、繋がりの困難さと捉える人は少ないのではないか。なぜならサムは男でありながら、マザーフッドの人たちに比較的すんなりと受け入れられていくからだ。

*6:もしかしたら、『デススト2』では、こう繋がりをつまらなく描くことで血のつながりのどうでも良さを逆説的に描いているのもしれないが、そう解釈させる他のコンテキストが足りなさすぎるだろう

*7:この辺りの解釈が本当か?と思う人は、安部公房の『第四間氷期』というSFを参照してほしい。時間がないならWikipediaのあらすじを読むだけでも理解の助けになるだろう

*8:若干蛇足的なことを言うならば、前作の最後でサムが接触恐怖症の病を克服してしまったことが、『デススト2』を繋がり偏重にさせた大きな要因なのかもしれない

*9:https://xtrend.nikkei.com/atcl/contents/casestudy/00012/01782

*10:インタビュー後篇で以下のように言っている。
スマホが出てきたときも皆、ぼろくそに言っていましたよね。でも今、スマホはないと生きていけない人がたくさんいます。AIも一緒。常にこの方向は正しいのかを考えながら、より幸せになるためにテクノロジーを使っていくことが大切です。」