ビデオゲームとイリンクスのほとり

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映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

【海外翻訳記事】ストーリーテリングの観点から~チャイルドオブライトVSバリアントハート

本記事は、アメリカのゲームサイトGamasutraに投稿されたレビュー記事になります。レビュー対象は「バリアントハート:ザ・グレイトウォー」と「チャイルドオブライト」。この2作品をストーリーテリングの観点から比較考察しています。なかなか辛辣なレビューでもあります。筆者の方はAlice Rendellさんというゲームデザイナー。彼女は、今年(2015年)発売予定の『Zodiac(ゾディアック)』というJRPGスタイルのゲームの開発にも携わっているようです。また『Zodiac』は音楽を崎元仁さん、シナリオを野島一成さんが担当しているなかなか期待したくなる作品です。(Zodiacの紹介記事- ファミ通

 

オリジナル記事:Mad hatter and Alice "Perspectives on Storytelling. Valiant Hearts vs Child of Light" and Gamasutra

 

翻訳について、色々間違いもあるかもしれませんが、お気づきになられた方はぜひ教えて頂けると嬉しいです。では、以下、記事本文になります。

 


 

ストーリーテリングの観点から~『チャイルドオブライト』VS『バリアントハート』

Alice Rendell

2014年、プレイ前に最も期待したゲームは、UBISOFTのインディスタイルの作品である『バリアントハート:ザ・グレイトウォー』と『チャイルドオブライト』の2本だ。とりわけチャイルドオブライトは、2D横スクロール、ターン制バトルのJRPGであり、かなり早い段階から興味をひかれた。私が現在開発に取り組んでいるゲームである『ゾディアック(Zodiac)』とも近い。しかし主な理由としては、物語世界とキャラクターが私の心に直接的に響いたからだ。チャイルドオブライトは、アーサー・ラッカム風のおとぎ話の世界として描かれている。私もこの2つのテーマは個人的に大好きである。そして、メインキャラクターであるオーロラ。彼女の設定は、普段私たちがJRPGで連想するようなキャラクターとはかなり異なっており、その点がこのゲームを注目すべき作品としている。一方、バリアントハートは、確かに面白そうだったが、私の期待としては2番手に甘んじていた。チャイルドオブライトの物語世界の方が、わたしにとってはゲームデザイナーとプレイヤーの両方の面から明らかに適していたし、その素晴らしさを期待していた。しかし、この2つのゲームを実際にプレイしてみて、私の期待とは完全に反対のことが起こったのだ。バリアントハートに夢中になる一方、チャイルドオブライトには、落胆し続けることになった。もちろん、期待が大きすぎたこともあるが、結局はそれ以上に問題があった。チャイルドオブライトは、基本的なストーリーテリングの過ちを犯していた。バリアントハートと並べてみると、単に上手くいってなかったというよりも、実にダメなものに思われた。

 

チャイルドオブライト:ずっと押韻しつづける演出は適切だったのか

最初に、チャイルドオブライトが遊べる詩(playable poem)だと聞いたときは、その可能性にとてもワクワクした。それはとてもロマンティックに聞こえたし、美しいイメージの贅沢で雄弁な会話を想定していた。素晴らしい手書き風のアートワークを見て私はなるほどと思った。そのアートワークは実に詩の世界ともマッチしていて、この幻想的で夢のような世界を作り上げるのにとても適していると思った。しかし、その代わりにもたらされたものは韻(ライム rhyme)だった。会話、ナレーション、声、全てに韻が踏まれていたのだ。実際、二行連句だったり、韻文だったりと様々だが、押韻することだけはずっと一貫している。「遊べる詩」というこの面白いアイデアが薄っぺらなわらべ歌(nursery rhymes)になってしまっていることに私は失望した。詩作について知っている人ならば、詩であるためには必ずしも韻を踏む必要はないということは理解しているだろうし、作家としては、これはあまりに初歩的なミスだろう。時には、文章が韻を踏むことを望んでいないのにも関わらず、当初の方針にあわせるため、こじつけでそうしているものもあった。紙の上では素晴らしいものに思えたこの方針は、最終的にうまく実現されていなかった。最初のテキストを我慢してようやく、私はこれ以上ハマることは無理だと悟った。私にとっては完璧な物語世界が約束されていたはずなだけに、失望はとても大きかった。結局のところ、この押韻によって、私はこのゲームを楽しめなくなってしまったし、不幸にもそれがこのゲームの良い面、バトルシステムやキャラクターやアートを汚してしまっていた。以下に上手くいっていないと思う主な理由を挙げよう。

  • 余分なテキストを生んでしまっている。純粋に韻を踏むためだけに会話に挿入される文章や単語がある。私はJRPGにあるようなボリュームのあるテキストを期待していたが、不必要なものは残念なだけである。
  • 流れを邪魔している。詩を作ることの本質は、内省のために立ち止まるような一片を作り上げることである。再読して、意味が広がり、解釈して、議論する。ゲームの場合、個々のテキストについて、こうしたことをする時間はほとんどない。言われている内容を理解するために、会話をもう一度読んで遊びの流れを中断するようなことはしたくない。
  • 不必要である。遊べる詩というアイデアは素晴らしかった。ナレーションによるカットシーンではそれはうまくいっていた。最初の部分では、ゲームの雰囲気をなんとか保ちつつ、プレイヤーにおとぎ話の世界に浸れるようにしてくれていた。しかし、会話の部分では、それは無理やりで邪魔なものになってしまった。ストーリーを理解させるのにも、楽しむのにも失敗しているのだ。

 

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『チャイルドオブライト』では、会話が韻を踏んでいるせいで、ストーリーを理解することが難しくなってしまった。

 

バリアントハート:言葉を使わないストーリーの語り方

『バリアントハート:ザ・グレイトウォー』でストーリーテリングが成功している主な要因は、テキストや会話を使わないで、ストーリー、キャラクター、イベントを明確に伝えているその力にある。UIを除けば、テキストは章ごとのカットシーンにしか出てこない。その他はすべて示唆的で、キャラクターの身ぶりやフキダシのアニメーションが使われている。とりわけこのフキダシのアニメーションは効果的だ。そのフキダシが人物の個性を示すだけでなく、プレイヤーに次に取るべき行動を、イメージだけを使って教えてくれる。ゲームで、プレイヤーへの指示をほとんどイメージだけでやろうとするのはとてもリスキーな決断だ。たいていの場合、わたしたちは、プレイヤーが分からなかった時のため「保険としてのテキスト」という安全策に頼ってしまう。しかし、バリアントハートは、イメージだけで即座に理解できるし、この方針を実現しているだけでなく、その適切なやり方の模範例ともなっているのだ。ストーリーが進むにつれて、私はどんどんとキャラクターにのめりこむようになった。次々と展開するイベントによって信じられないほど自分が感情的になっていることに気付いた。ある場所では、手をとめ、自分が泣いてしまっている(そう、泣いたのは一度だけではないんだけど)ことに気付いた。単なる動きのあるイメージだけで、ほとんどのメディアが「保険としての言葉」に頼ってしまっている世界で、これが達成されることはめったにない。バリアントハートという作品は、力強いストーリーテリングの作品として評価されるべきだし、ピクサーの『ウォーリー』や古典的短編アニメ『スノーマン』のような言葉のないストーリーテリングの傑作と肩を並べるにふさわしい作品である。

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『バリアントハート』は、ストーリーとゲーム内指示をイメージだけ使って明確に伝えることに成功している。

 

作品の比較:ゲームメカニクスでストーリーを表現する

言葉を使わないストーリーテリングというのは、バリアントハートが物語を描くのに使った素晴らしい方法の1つでしかない。本作は、他にも、ストーリーを語るのにメカニクス自身を用いるということをしている。パズルなら壊れたパイプの修理させるとか、アクションなら落ちてくる爆弾を避けるといったように、ゲーム中の各課題は、それぞれの状況にちゃんと合わせて作られている。全てが、ゲームの物語(narrative)を支援するものであり、その逆ではなかった。はっきり言えば、バリアントハートの基本的なゲームプレイは特に目新しいものでも、革新的なものでもなかった。しかしその世界の文脈にしっかりと組み込まれており、決してありきたりなものに感じられなかった。むしろ、それぞれの場面がおのおの異なった体験に感じられた。たとえ、同じメカニクスを開発者が何度も再利用していると分かったとしても、そうなのだ。これは、戦闘を除けば、同じような地形を利用したパズルの要素を持つチャイルドオブライトとまさに対照的である。例えば、すぐ閉まってしまうゲートがあり、それを開放するボタンを押すというパズルがある。これは昔からよくある地形パズルだ。作品世界の中で場違いというわけではないが、その作品世界を特により良くするようなものでもない。さて、自分のペースであちこち飛び回るような時間的余裕があるときに、オーロラにとって、はたしてこうしたパズルを急いで解く必要があるだろうか。また、なぜ特定の場所にはレバーやドアがあるんだろうか、他の同じような場所にはそんなものないのに。一方、バリアントハートでは、常にパズルを急いで解かずにはいられなかった。なぜなら、ストーリーがそれを求めていたからだ。もし、わたしがある状況下で(例えば、地雷を避ける時のように)ゆっくり進んだとしたら、その状況が文脈の中で上手く作用しているからである。チャイルドオブライトのパズルは全然楽しくないわけではないし、面白いものもある。しかし、バリアントハートと直接比べてみると、その世界観の中のズレとして強調されてしまう。

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『バリアントハート』は、ストーリーに適合させるようにパズルの仕組みを使っているが、『チャイルドオブライト』はパズルをその物語の状況に差し挟んでいるだけである。

 

作品の比較:サポートするお助けキャラ

アドベンチャーゲームにおけるサポート役の存在は、古くからあるゲームの慣習だが、上手く使うのは簡単でない。よくあるのが、そうしたサポートキャラがウザかったり、無用なものになってしまったり、時にはその両方だったりすることがある(ゼルダのナビもそうでしょ?)。チャイルドオブライトのイグニキュラスは、不幸にもその両方に当てはまってしまっている。イグニキュラスは、失礼で、あまり好きになれないだけでなく、戦闘時の敵側を遅くする能力が(面白いけれど)ほとんど不要だった。同じようなことが呪文やポーションを使ってもできるのである。こうしたナビのようなホタルは、なかなかうまくストーリーにフィットしないように思える。というのも、こういうヒドいお助けキャラは、プレイヤーを補助するためだけのものでしかないと感じられるからだ。一方で、バリアントハートでは、犬が登場する。この犬は、単にパズルでプレイヤーを助けるだけでなく、プレイヤーが操作するキャラクターの人物像を明らかにしたり、補ったりする。メインの操作キャラのうち1人は、命の危険を冒してこの犬を助けるが、その時にプレイヤーは俄かにそのキャラクターの高潔さや勇気や思いやりを更に知ることになるのである。それはささいな振る舞いにすぎないが、キャラクターの人柄についてとても多くのことを伝えてくれる。付け加えるなら、パズルでこの犬を使うというのは、単にふさわしく感じるというより、むしろ正しい。というのも、その犬のために課題があえて設計されたのだと感じるよりも、その場の状況やシナリオの文脈から、犬によってのみその課題が解決できるのだと思わせてくれるからである。これはチャイルドオブライトのイグニキュラスのような、無理やりな組合せとは全く違う。この二つのゲームを直接比較すると、バリアントハートが優れているところにチャイルドオブライトがまたもや及んでいないということがよく分かる。

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『バリアントハート』の犬というお助けキャラは、ストーリーやゲームプレイの中核ともなる。一方でイグニキュラスは弱々しい付け足しでしかない。

 

結論

私は、本記事の大部分でチャイルドオブライトにおけるストーリーテリングの問題を強調してきた。しかし、このゲームをとても楽しんだということも言っておきたい。特に、戦闘システムは非常に面白かったし、アートワークについては息を呑むような素晴らしさだった。しかし、結局のところ、脚本に伴う問題により、私が望むようにはこのゲームにハマることはできなかったし、「恋に落ちるようなゲーム」という期待が「単に好きなゲーム」に置き換わってしまった。私が直後にバリアントハートをプレイしたからチャイルドオブライトの欠点が強調されたわけでなく、この欠点がこの二つのゲームの間の無視できない違い生んでいるのである。しかしながら、バリアントハートで成功しているあらゆるポイントについて、チャイルドオブライトのミスから教訓を得ることができる。そして、この二つの作品を直接比較することで、良いストーリーだけでなく、ストーリーの語り方もまたとても重要なのだとはっきりするのである。

 

さあ、これで言いたいことは、ぜんぶ言った。

では、さようなら。良い一日を!

ダウンロードコンテンツや課金要素はどのように嫌われているのか? - 課金嫌いを分類する

本稿は「ダウンロードコンテンツDLC)及び課金要素」が「どのように嫌われているのか」をまとめた記事である。

もちろん「課金要素を嫌う」「DLCを嫌う」と言っても、様々な形がある。それらを一度整理したいと思っている。また、近いうちに「DLCや課金要素が嫌われる時代」は終わってしまうのではないかと思っている。そうなる前に、どのようにDLCが嫌われているのかを書いておきたかった*1

本記事は、主に家庭用ゲーム機を対象にしている。PCゲームやモバイルをはじめとしたソーシャルゲームは対象外としている。筆者自身がほとんどその世界を知らないからというのもあるが、傍目にはPCゲームファンやソシャゲファンの多くが「DLC及び課金要素」というものと既に和解しているように見えるからだ。そのため、まだまだ素朴に「憎悪の対象」になりがちな家庭用ゲーム機における「DLC及び課金要素」を主な対象にしたいと思う。

また、一口に課金と言っても様々な形態がある。「アイテム課金」「追加シナリオ」「月額課金」「シーズンパス」など。これらを本記事ではまとめて「DLC及び課金要素」という言い方で表現する。ちなみに「DLC及び課金要素」の対になるものを「本編」という言い方で表現する。これはいわゆるパッケージとして売られているようなゲーム本編の部分(ダウンロード販売であっても本編は本編と考える)を指す。

先ほども言ったとおり、一口に「DLC及び課金要素」と言っても、様々である。当然、それぞれで異なる嫌われ方をしている。ひとくくりにするのは乱暴だが、本記事では課金形態による分類ではなく、「嫌う理由」で分類したいと思う。例えば、ある一つの課金形態に対して、異なる理由で嫌悪感を示している場合がある。また、異なる課金形態でも同じ理由で嫌われている場合もある。嫌う「理由」を分類することで、私たちが「どのように嫌っているのか」を示してみたい。

前置きはこのぐらいにして、本題に入ろう。本記事では「DLC及び課金要素」への批判を以下の6つの立場に分類している。

  • (1)反儲け主義
  • (2)コスパ主義
  • (3)モノ主義
  • (4)完成品主義
  • (5)プライスレス主義
  • (6)事前説明主義

本記事で参考にしたサイトはあくまで筆者の観測範囲に入ったものでしかない。網羅的な調査では決してないので、主観的な分類に過ぎない点は留意願いたい。

それでは、それぞれのカテゴリーについて見ていこう。

 

 

(1)反儲け主義

【具体例】

『課金ガチャ、有料DLCやら最近のゲームの売り方って汚いよな』:思考ちゃんねる

Webアーカイブ(上記URLが既に消えていたため、以下のリンクを参照下さい。以下、引用しているページのURLでも適宜アーカイブのURLにしています)

課金ガチャ、有料DLCやら最近のゲームの売り方って汚いよな - 思考ちゃんねる

 

【特徴】

これはネット上でよく散見される意見である。しかし、はっきりとした理由や根拠があるわけではない。まとまった記事としてこうした主張を大まじめにしているものは少ない(具体例を挙げようにも、どこかのスレッドの特定のレスとか、そういう形で現れることが多い)。こうした発言に対しては、むしろ反論している内容の方がまとまった記事としては書かれている。例えば次のような記事だ。

バンダイナムコゲームススクウェア・エニックスが「拝金主義」と必要以上に叩かれているのは間違っていると、私は思っています。

「課金システム=拝金主義」という発想が、レトロすぎる。 : レトロゲームレイダース 最後のゲー戦

このように反論される反儲け主義は、実態としては別の理由(後述する(2)~(6))が背景にある場合も多い。そういう場合は、その背景にある理由こそが、「DLC及び課金要素」への反発の本質であると考えられる。

ただ、ここでは、特に明確な根拠なく呪詛のように語られる「金儲けのことばかりをアイツら考えやがって!」という批判をこのカテゴリーに入れることとしたい。これは一種の隔離的なカテゴリーである。「DLC及び課金要素」への批判が、こうした反儲け主義で終わってしまっては議論を重ねることは難しいだろうと考える。

 

 

(2)コスパ主義

【具体例】

『【コラム】賛否を巻き起こすデジタル販売の価格設定』 :Choke Point  [原文:Editorial: Downloadable Content Gone Wild - IGN]

『月額課金を「嫌い」と言う理由』 :やまなしなひび-Diary SIDE-

ビデオゲームにおける最も侮辱的な10の課金要素(英語)』[原文:The 10 Most Insulting Things Video Games Charged Money For | Cracked.com]

 

【特徴】

DLC及び課金要素」で得られるコンテンツが、その価格に対してパフォーマンスが見合わないという主張がこれである。典型的な例としては、かつてXBOX360版「アイドルマスター」に対して外野から発せられた発言が挙げられるだろう。「あんな着せ替え衣装に何千円・何万円も出すなんて信じられない」というアレである。また次のような発言もこのタイプのものである。

だが、ダウンロード・コンテンツはまるで開拓時代のよう。ダウンロード・ゲームとアドオン・コンテンツの価格設定は、物によって不釣合い過ぎるのだ。

『【コラム】賛否を巻き起こすデジタル販売の価格設定』 :Choke Point

世界的にも有名な例であればこれだろう。大作RPGオブリビオン』で提供されたHorse Armorだ。文字通り馬の鎧だが、その微妙すぎるデザインが、多くの人にDLCへの不信感を根付かせたことは想像に難くない。

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↑もはや「ムダすぎるDLC」の代名詞としてギャグにもなっている『TES4:オブリビオン』のHorse Armor。

 

また少しニュアンスは異なるが、コスパ主義の例として、こちらの記事『月額課金を「嫌い」と言う理由』 :やまなしなひび-Diary SIDE-が挙げられる。当該記事は決して月額課金自体にダメ出しをしているわけではない。月額課金だとあまりプレイできない期間でも決まって料金が掛かってしまうことへの懸念が書かれている。これは月額課金という形態の(書き手にとっての)コストパフォーマンスを問題にしている。逆に、それを受け入れられる人にとって「月額課金がいい仕組みである」と言及されている点は重要だろう。

これに似たものとして、『DLCを嫌う5つの理由(英語)』[原文: 5 reasons to hate DLC]という記事がある。この記事では、DLCを嫌う4番目の理由としてシーズンパスの問題に触れている。これはシーズンパスを事前に買ってしまったものの、あまりそのゲーム自体を好きになれなかった場合、その後リリースされるDLCでは十分に元を取れないという話だ。こちらも、シーズンパスという販売形態のコストパフォーマンスに関する内容と言える*2

このカテゴリーの批判は、個々のコンテンツ内容とコストのバランスついてのものである。単純に「DLC及び課金要素」一般の話へと広げているわけではないところが重要だ。個々の具体的な販売形態や中身について言及しており、ある意味冷静な意見が多い。そのため、コストパフォーマンスが見合うものであれば、「DLC及び課金要素」であっても受け入れる可能性のある立場であると言える。

 

 

(3)モノ主義

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【具体例】

『正直、ゲームソフトをダウンロードして購入するのって気分が乗らないよね』 :ゲーハー黙示録
(特に>>1氏の発言)

『ゲームのダウンロード版がクソな理由wwwwww』 :2chをまとめた結果wwwww

(特に>>1氏の発言)

『物理的な商品がない。触ることもできない!』 : 僕らがDLCを嫌う11の理由(英語)[原文: Photo Gallery for 11 Reasons We HATE DLC | ScrewAttack.com]

 

【特徴】

これは、購入に際して物理的な商品を求める人の批判である。次のような感慨も持つ人はまだまだ家庭用ゲーム機ファンには多いのではないかと思われる。

1:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/04/25(木) 23:09:34.89 id:efe4aRHX0

外箱に取説の冊子(最近はないけど)、ディスク・カードのカセットが揃わないとどうも落ち着かない

『正直、ゲームソフトをダウンロードして購入するのって気分が乗らないよね』 :ゲーハー黙示録

 

DLCは形を持たないデータであり、マニュアルも箱ケースもメディアも存在しない。それは物理的な実体を伴わない。そこに寂しさを覚える。こちらの記事「僕らがDLCを嫌う11の理由(英語)」の11番目の理由「触ることができない」がまさにこの気持ちを端的に表現している。特に、レトロゲーマーに多い感覚かもしれない。

この批判は単に物質的なモノに限らないと考えられる。例えば、「アンロックキータイプのDLCは嫌だ」という発言を目にすることがある*3。これは、実質を伴わないDLCへの批判である。わずか数キロバイトの解除キーに金を出すことへの抵抗感はなるほど理解できる。せっかく金を出したのだから、それ相応のデータ量をダウンロードしたいという欲求もあるだろう。これも一種のモノ主義に相当するのかもしれない。

 

 

(4)完成品主義

【具体例】

『ジョジョASB ファンの気持ちを裏切った結果』 :ゲーム業界ニュース] All About

『守銭奴すぎるバンダイナムコゲームスの初期費用+課金ゲーム一覧』 :カゲヒナタのレビュー

『ゲームの未完成商法とその未来(例題にDOA5)。』 :Out of base ぶろぐ

『DLCをやって完結するストーリー(FINAL FANTASY XIII-2 感想)』 :ほのぼの げ〜む びより/ウェブリブログ

マスエフェクト3 Extended Cut: 長所・短所・不快さ(英語)』[原文: Mass Effect 3 Extended Cut: The Good, Bad, And Ugly - Features - www.GameInformer.com]

 『僕らがDLCを嫌う11の理由(英語)』[原文:11 Reasons We HATE DLC | ScrewAttack.com] (特に#3、#4、#5、#10が該当)

DLCを嫌う5つの理由(英語)』[原文:5 reasons to hate DLC](特に#1、#2、#5が該当)

【特徴】

このタイプの批判は非常に多い。本記事における2大DLC批判の一つが、この「完成品主義」であろう。典型的な例が、ジョジョASBなどで話題にもなった「このキャラを使うのに、追加で課金しないといけないのか!」という感覚だ。ゲームでやりたいことがあっても、本編だけではできず、追加のDLCを買わないといけない。この「人質に取られた感じ」や「足元みやがって」という反発は、とても興味深い。ユーザーとしては本編に含まれるべき内容に対して、ある程度の「想定(期待)」を持っているということである。

ファイナルファンタジー13-2」のDLC「女神の鎮魂歌」でもう一つのエンディングが追加されるとして話題になった。これなども明らかにそうしたエンディングは本編に入っているべきだというユーザーの期待と齟齬をきたした例だと言える*4

また、衣装やアバターへの批判はその多くが前述の(2)コスパ主義に基づく場合が多い。しかし、中には、この完成品主義に基づくパターンの意見がある。衣装やスキンなど細かな要素を切り売りするのではなく、本編に元々入っていてしかるべきではないかという批判だ。これは高い安いというコスパの問題よりも、むしろフルパッケージの完全版を求める完成品主義に立つ批判と言えるだろう。

そしてまさに「後で完全版が出るから、買いたくない」という意見がこのカテゴリーに属する*5。これは完成品としての完全版を求めるということであり、DLCのない本編を未完成な商品だと感じていると考えられる。*6

少し変わった意見だが、GameSpotというサイトのフォーラム「DLC:好き?キライ?(英語)[DLC: Love it or hate it? - Games Discussion - GameSpot]」では次のような面白い意見がある。

「ゲーム本編の発売日と同日に、DLCに分けて発売するのはひどいと思う。まさに犯罪的だよ。」- Amster_G氏の意見

この意見が面白いのは、DLCの発売のタイミングを取り上げている点だ。DLCをリリースすること自体を責めているのではない。DLCが本編と同時に開発されているにも関わらず、本編とは別商品として同時に販売していることに反発している。同時に開発しているなら、ちゃんと本編の中に始めから含んでおいて欲しいということだ。

これは単に消費者のわがままとして切り捨てられる話ではないだろう。例えば任天堂の岩田社長がまさしくこうした反発に応答する次のような話をしている。

「『New マリオ 2』の追加パックは、本編を完成させたあとで、お客さんがどのように遊んでいるのかを分析して開発をはじめましたし、本編のボリュームについても、「追加コンテンツがあるから少ない」ということはないようにしていたつもりですが、それでも、「何で最初から入っていないのか?」と感じられた方もいらっしゃいましたからね。」

Wii U|社長が訊く『New スーパールイージ U』|Nintendo

「本編を完成させたあとで、(略)開発をはじめました」とわざわざ言っている箇所に注目である。ここでは、未完成品、ましてや完成品を削り取ったような「未完成にされた本編」に不満を感じる人への理解が示されている。完成品主義による反発は、まさに「本編に対する完成品としての期待」の問題だと分かる。

次の画像は、DLC批判で度々取り上げられる画像である。昨今のDLCモナリザの絵を切り貼りするような販売だと揶揄している。こうした批判がどれほど実情を捉えているかは、議論があるだろうが、「DLC及び課金要素」に対してこうした印象を持っている人は多いのだろう。まさに「完成品主義」を象徴する画像である。

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しかし、いったい完成品としてのゲーム本編とは何だろうか。これはかなり難しい問題だ。ゲームほど「どこまでが完成品で、どこまでが未完成なのか」の境目が見えづらいものはない。物語が完結していなければ、未完成なのか。ボリュームが少なければ未完成なのか。その判別は容易ではないだろう。そして、その難しさは次のようなケースにも現れる。

売店固有のDLCAmazon限定DLCなど)やハード独占DLCXBOX専用DLC、PS専用DLCなど)に対する反発がある*7。これらも一種の完成品主義に含まれると考える。同じ値段を出しているのにも関わらず、なぜ一方のソフトは特定のDLCが入手できて、もう一方のソフトは同じDLCを入手できないのか。同じ商品を買っているなら、同じコンテンツ体験ができるべきだ、という考えだ。これは完成品としてのフルパッケージには、「公平性」を求める気持ちが働いていることを示している。完成された商品には「全ての人へのゲームプレイの平等性」が求められているのかもしれない。

似たような話として次のようなマルチプレイ用追加マップへの批判もある。

先ほど取り上げたフォーラム「DLC:好き?キライ?(英語)」 のguynamedbilly氏の発言がこれに該当する。

ぼくが嫌いなタイプのDLCマルチプレイヤー用のマップパックだね。これは最悪だね。だって、コミュニティが分断されて、ゲームの一部を殺してしまうから。

DLC: Love it or hate it? - Games Discussion - GameSpot

「コミュニティが分断される」という言い方はとても印象的である。例えば、Call of Duty:Modern Warfare2(MW2)を仲良く遊んだ二人がいたとしよう。MW2のある追加マップを一方が持っていて、もう一方が持っていない場合、二人でそのマップを遊べないことに不満を覚えるかもしれない。DLCは嫌なものだという話になるかもしれない。しかし考えてみるとMW3という続編であればこうした反発は起きない。単に持っていないという話でも、続編のMW3を一緒に遊べないのは許せるのに、MW2の追加マップだと途端に許せなくなる。これはまさに「本編に対する完成品としての期待の問題」であることを示している。

完成品主義に基づく不満は、「DLC及び課金要素」という商品が、ゲームの世界においては本編と地続きであるのに、現実社会においては別の商品である、という不整合に伴う問題だ。そこに「期待された本編」と「実態としての本編」との乖離が生じる*8

しかし、人によって「完成品」として何を期待するかは大きく異なっている。ここに「完成品主義」への対応の難しさがある。個々人の感覚の違いは、これまでの個人的な経験や経緯や商慣習にも依存する*9。何を持って「完成」とするか。この感覚は単に変化していくだけでなく、多様化していくと考えるべきなのかもしれない。

 

 

(5)プライスレス主義

【具体例】

『レベルをお金で買うと何かが壊れる気がする』 : [ゲーム業界ニュース] All About

『ゲームの“御褒美”を有料DLCにするのはやめて欲しい』 :やまなしなひび-Diary SIDE-

『私がソーシャルゲームをつまらないと思う理由・あるいはゲームから「プロセス」が剥ぎ取られていく、という話』 :不倒城
(ただし、コレはタイトルからも分かるように家庭用ゲーム機を対象とした記事ではありません)

 『なぜコアゲーマーは基本プレイ無料ゲームを嫌うのか?(英語)』 [原文:Why Core Gamers Hate Free-to-Play - IGN]

【特徴】

これまでに挙げた4つのカテゴリーの批判に対して、このプライスレス主義にもとづく批判は、とても心理的なものである。そしてこれは、「完成品主義」に並ぶ2大「DLC及び課金要素」批判のもう一角であると言える。

プライスレス主義は、言わば、レベルアップを金で買うような行為に対する嫌悪感である。筆者が家庭用ゲーム機の世界で、これに最初に遭遇したのはXBOX360版『テイルズ・オブ・ヴェスペリア』である。当時としては珍しく、直接レベルアップできるようなアイテムをダウンロード販売した。すぐさまこの話は2chやネット上で小さな炎上のような状況を呈した。

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TOVの販売アイテム。赤枠がLVアップのためのアイテム。当時、かなりの反発があったと記憶している。

 

ゲームに費やす時間を金で買う行為は、ゲーム行為への冒涜になるという感覚だ。先ほど月額課金の話題で取り上げた「やまなしなひび」の記事にある以下の文章はこのプライスレス主義の典型的な意見であると考える。

有料DLCは「買いたくない人は買わなければイイ」という意見もあるでしょう。
 でも、私にとってはそうではないんです。「御褒美」の部分を有料DLCで代替されるだけで、「挑戦」する気が起きなくなりますし、達成感が得られなくなってしまうんです。

『ゲームの“御褒美”を有料DLCにするのはやめて欲しい』 :やまなしなひび-Diary SIDE-

そして、私、筆者自身も、こちらで同じような趣旨のコラムを書いたことがある。これは「金」という交換性の高い物質にゲーム行為を交換してしまうことで、ゲームプレイという行為の崇高さが失われるのではないか、という内容である。

100時間かけてレベルを50にする人がいる一方で、たった5分、お金を払っただけで同じレベル50のキャラを育成できたとしたら、100時間かけた人の行為は一体なんなのか。怒りは湧かなくても「なんかちょっとむかつく」という気持ちは十分理解できるものだろう。もちろん「時間をかけてレベル上げ」だけではなく、「戦略を立てる」とか「謎を解く」とか「操作スキルを磨く」とか、対象は何でもいい。「かけがいのないゲームプレイ」へのロマン的な感性こそが、このプライスレス主義の住処である。

海外でも同じような意見はある。IGNのコラム「なぜコアゲーマーはF2P(基本プレイ無料ゲーム)を嫌うのか(英語)」に次のような情緒的な一節がある。

 金を払ったゲームをプレイすることには純粋さ(purity)というものがある。これはほとんどの基本プレイ無料ゲームで失われていることだ。ビデオゲームとは、ともかく現実逃避(escapism)なのである。その体験に侵入してくるリアルワールドのお金という考えには、ある種の下品さ(indecency)がある。だからこそ、多くのゲーマーはフリーのボーダーランド2よりも、60ドルを払って遊ぶ体験の方を選ぶ。我々の多くは、プレイ経験の誠実さ(integrity)を守るために、高くても事前に払おうとするのだ。

Why Core Gamers Hate Free-to-Play - IGN

先ほど挙げた(4)完成品主義が「商品としてあるべき姿」を求めるのに対して、プライスレス主義は「ゲームとしてあるべき姿」を求める立場だと言える。人によって異なるのも勿論だが、その2つの立場を同時に抱え込む人もいるだろう。基本無料のゲームに対する複雑なわだかまりはこの2つを同時に感じる感覚に近いのかもしれない。

また、とりわけ嫌う人が多い「Pay to Win」のモデルへの嫌悪もこのプライスレス主義に入るのではないかと思う。金を払った人間が強くなる、ということへの嫌悪は、すなわちお金に換算されない価値(スキル、才能、努力)を求めてる姿勢に繋がっていると考えるからである。

なお、この主義における重要な特徴は、「食わず嫌いになりがち」という点にある。「金で買う」という行為が、プライスレスな行為を台無しにしてしまう。そのため、その「DLC及び課金要素」を購入してみるという状況や気持ちに中々なりづらい。(正直に言えば、筆者自身もそういう面がある)。(2)コスパ主義者は、コスパが見合えばDLCでも買うことに躊躇わない。(4)完成品主義者も、本編とは別物だと思えればDLCを購入するだろうし、DLC同梱の完全版について抵抗を感じたりはしない場合も多いだろう。その点、プライスレス主義は「ゲームとしてのあるべき論」でもあり、根源的な批判であるため、課金者と無課金者の対立が最も先鋭化するのではないかと思われる。

 

 

(6)事前説明主義

【具体例】

『なぜ家庭用ゲームの「アイテム課金」は嫌われるのか?』 :ゲームかなー

『(2ページ目) ジョジョASB ファンの気持ちを裏切った結果』 : [ゲーム業界ニュース] All About

『アイテム課金に関して』 :島国大和のド畜生

 

【特徴】

これは、事前説明したかどうかを「DLC及び課金要素」に対する評価の基準とするという立場である。

つまりどんなあくどい(?)「DLC及び課金要素」をやってもいい。しかし、事前にできるだけそのことを公表し、説明していることを重要視する(後述の記事を読んでいただければご理解いただけると思うが、本気で「あくどいDLC」でもOKと思っているわけではない)。DLCでどのキャラクターを追加できるのか。アイテム課金で強力な武器を配信する予定はあるのか。何を買わないと対戦ができないのか。など、できる限りの説明を求める。逆に説明されていないことに強い不満を覚える立場だ。なお、筆者自身はこの立場である。具体的には次のような意見がこれに近い。

結局はソフトメーカーがゲームファンに対して課金要素の説明を嫌がっているのが逆に反発を喰らう要因なのでは?と私は考えています。

『なぜ家庭用ゲームの「アイテム課金」は嫌われるのか?』 :ゲームかなー

さらに悪いことには、この課金しなければプレイが制限されるというキャンペーンモードの情報をバンダイナムコゲームスが発売直前まで公開しなかったことです。

『(2ページ目)ジョジョASB ファンの気持ちを裏切った結果』 :[ゲーム業界ニュース] All About

事前説明を求める事は、前述の(1)~(5)のどのような立場の人であっても、それぞれの立場での不満を軽減する効果があるのではないかと思われる。

しかし、事前説明主義の難しいところは、ゲームの購入に際しては事前に情報を「積極的に集めない」人も多いところだろう。どれだけ事前に説明を尽くしていても、新鮮なゲーム体験を求める人の中には、自覚的に情報を遮断する人がいる。そういう人は、事前説明主義との折り合いを付けることが難しいかもしれない*10

 

 

■最後に

上記の分類は、あくまで筆者自身の観測範囲に入った意見や発言をもとにしている。またその分類にも色々と問題があるように思う。【具体例】で挙げたリンク先記事も、筆者の分類に属する内容だけを述べているわけではない。しかしこうした課金を巡る様々な意見を読んで、最後に思ったことを2点書いてみたい。1つは、筆者がなぜ事前説明主義の立場に立っているか、ということ。もう一つは、こうした分類にどのような意味があるのかということについてである。

~筆者が事前説明主義の立場を取る理由~

筆者がこの立場を取る理由は、「良いDLC」や「悪い課金要素」というもの を、そのDLCの形態やジャンルによって判断することは難しいと考えるからだ。例えば、衣装やアバターなど見た目だけに影響のあるDLC(=強さに影響し ないDLC)はOKだと思う人は多いかもしれない。しかし、任天堂の「わがままファッション ガールズモード」にアイテム課金が導入され、新たな衣装をリアルマネーで買うことができるようになったら、多くの「ガルモ」ファンは非常に嫌な気持ちにな るだろう。このようにDLCの形態やジャンルだけで善し悪しを判断することはきわめて難しい*11

 そこで、判断基準にすべきじゃないかと思うのが「事前説明の有無」だ。つまり「事前に十分説明できるDLCは良いDLCと言えないかと思っている。逆に「事前に十分説明できないDLCは悪いDLC」であ る。どんなDLCや課金要素を用意してもかまわないが、それがどういうものかを事前に説明することが当たり前になる文化を求めたい。そして、その文化こそ が、「悪いDLC」を淘汰し、「より良いDLC」が生き残って行く未来へと繋がるのではないかと(能天気に)筆者は思っている。まずは、島国大和氏の語る 「初期投資で得られるものについて宣伝等に誤認狙いが含まれない」というのが理想である。

~課金嫌いを分類する意味~

おそらく、「DLC及び課金要素」批判において、2つの意見が別カテゴリーに属する場合、その両者は議論の成立が難しいのではないかと思っている。たとえば、(4)完成品主義と(5)プライスレス主義では、同じ課金要素の話をしていても、議論が噛み合わないことがある。以下のような例で考えてみよう。

ある続編のゲームで、ゲームクリアに有利な要素が課金要素として組み込まれている場合、それはどう見えるだろうか。もし前作に「イージーモード」があったとしたら、人によっては、それは前作では仕様として組み込まれていた「イージーモード」を課金要素として、削り出したように見えるかもしれない。「前作では普通に存在していた要素を削って、それを課金要素とするとは何事だ!」と怒る人は完成品主義者として怒っている。しかし一方で、前作の仕様とは無関係に「クリア時間を短縮する課金要素なんて、ゲームの面白みを殺いでいるじゃないか!」という怒りを感じる人は、プライスレス主義者として怒っている。

 この二人は同じ課金要素について怒っているが、実は全く別の理由で怒っている。そのため、お互いに感情的な合意はできるかもしれないが、議論は成立しづらいのではないだろうか。もしかしたら修正パッチによって、この仕様が「改善」されたとしても、一方は怒りを納めることになるが、一方は怒ったままという事態もありえる。もちろんだが、一人の人間が同時に色々な立場に立つこともある。

 本記事のカテゴリー分類が十分であるとは思わないのだが、同じ「理由」を抱えているかどうかと立ち止まることができれば、お互い議論を積み重ねることもできるかもしれない。筆者を含めた多くのオールドタイプのゲーマーにとって、本記事が「私はDLCや課金要素の何がイヤで怒っているのか」ということを考えるきっかけになれば、幸いである。

*1:参考記事:『UBISOFT副社長が語る。「もはやDLCは嫌われていない」』[原文: People no longer hate DLC, according to Ubisoft | VG247]

*2:こちらの記事も参考になる。『DLCシーズンパスを買う長所と短所(英語)』[原文: The pros and cons of buying a DLC Season Pass]

*3:『アンロック方式のDLCについてどう思いますか?』結果発表 :Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト

*4:『DLCをやって完結するストーリー(FINAL FANTASY XIII-2 感想)』 :ほのぼの げ〜む びより/ウェブリブログ

*5:DLC全部入りのGOTYエディションが出るんでしょ』 :僕らがDLCを嫌う11の理由:3番目の理由(英語)

*6:DLCを嫌う5つの理由(英語):1番目の理由

*7:僕らがDLCを嫌う11の理由(英語):5番目の理由DLCを嫌う5つの理由(英語):2番目の理由

*8:ちなみに、アサシンクリードGTAシリーズなど世界的なトリプルAタイトルでは、DLCの追加シナリオの主人公が、本編とは別の主人公になっている ケースが目立つ(GTA4、アサクリ4、Watch_dogs)。これは、DLCが商品として別物(現実世界)であることと、ゲーム内容も本編とは別物 (ゲーム世界)であることで、現実世界とゲーム世界との整合性が取られているのではないかと推測する。DLCを本編とは全く別の物語とすることで、本編の 完成品としてのポジションを劣化させない効果がある。だからこそ、やりたい人だけがDLCを購入して、やらない人もそのことに特に引け目を感じる必要がな く、自らの完成品主義に傷をつけられることがないというメリットがあるのではないだろうか

*9:例えばアーケードゲームでは一回プレイするのに100円掛かったが、ファミコンの登場により、ソフトを1度買えば何十回遊んでも追加で料金が掛からなくなった。こうした体験を鮮烈なものとしている人にとって、再び「DLC及び課金要素」という従量課金制が家庭用ゲーム機の世界に導入されることは、あるべき姿(期待)に対する重大な欠陥に見えるだろう。実際に何十回も遊ぶかどうかは別にしても、「可能性を殺されることの不快感」というのはなかなか根強いのではないかと思われる。この「遊ぶかもしれない可能性を担保できる」というのも、長い間、家庭用ゲームソフトの商品として期待されてきた一つの要素だと言える

*10:個人的には、Amazonの商品説明ページにも本編とは別に予定されている「DLC及び課金要素」についての説明が書かれるくらいが良いのではないかと思っている

*11:「ゲーム性に関わるところで課金してほしくない」という意 見があるが、まさにその「ゲーム性」という言葉の難しさと同根であると言える

名作『ウォッチドッグス』に見る不気味な「メタスコアの谷」

メタスコアという数字がある。おそらくコアなゲーマーには説明の必要もない当たり前の存在であろう。その存在を知っているばかりか、その功罪についても、また一家言ある方も多いと思う。

メタスコアとは、アメリカのMetacriticというサイトが集計している映画・音楽・ゲームなどの作品に対する100点満点形式の評点を指す。

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このスコアは各種大手レビューサイトに計上された点数を集計し、百分率化した上で平均化した数字である。様々なレビューサイトを横断的かつ網羅的に見ていくことは、マニアにとっても骨が折れる作業だ。それゆえマニアにとってメタスコアはとても有用なツールでもある。集合知的な評価ではあるが、特徴的なのは素人のレビューを集めているわけではないというところだ。商業的な、ある程度の規模を持ったレビューサイトの評価を集めているところがポイントである。

映画や音楽やテレビドラマのメタスコアもあるが、中でもビデオゲームのメタスコアはファンに対して大きな力を持っていると思われる。経験的には、前世代機(XBOX360PS3Wii)の頃に急速にその存在感を増したような印象がある。

2001年にサイトとして立ち上がったMetacriticが、IT情報の大手サイトCNETに買収されたのは2005年である。その2005年にXBOX360アメリカでロンチしている。2008年のガーディアン誌に、Metacritic創設者Marc Doyle氏へのインタビュー記事が載っている。そこで「ここ数年で、メタスコアはネット上のゲーム報道においてとても重要な要素になっている」と書かれている。この記事を参考にするなら、メタスコアは約10年前から次第にその影響が強くなってきたと言える。やはりそれは、ちょうど前世代機(XBOX360PS3Wii)のハードが普及してきた歴史と重なる。そして、ゲームは専ら家庭用ゲーム機で遊んでいた筆者のようなゲーマーにとって、グラフィックのHD化、洋ゲーの普及、日本のゲームの凋落、オンラインの一般化、モバイルゲームの台頭というゲーム業界を複雑化(?)させる様々な象徴的出来事とともにある歴史である。

■「メタスコアの谷」とは

そんな複雑なビデオゲームの世界において、メタスコアはかなり有用な情報源である。しかし、同時にメタスコアには様々な否定的な議論もある。こうした単一の数字で、作品を大雑把に語ってしまっていいのか、という理屈は最もだ。もちろん、ほとんどの人は適切な距離感を保ちつつ、このメタスコアというものに接しているように思う。しかし、普段そんな冷静な態度でメタスコアに接している人でも、メタスコアにときおり不気味な感覚を抱くことがあるのではないだろうか。

筆者がメタスコアに感じる不気味さをここでは、「メタスコアの谷」と名づけてみたい。これは何かというと「主にメタスコア80点前後の作品に感じられる、妥当で適切な点数であるのに、どこか実態を捉えきれていないと感じる違和感」を意味する。メタスコアが90点を越えるような高得点の場合や極端に低得点な場合には感じない、そんな中間的な作品に感じる違和感。それを「メタスコアの谷」と仮に呼んでみよう。

この「メタスコアの谷」という言葉は、リアルな人間に近いCGやロボットに見られるという「不気味の谷現象*1」のアナロジーから発想して名づけている。この「不気味の谷」現象自体については、個人的にとても懐疑的なのだが、これが人口に膾炙したことにはとても興味を持っている。実態はどうあれ、多くの人がこの「不気味の谷」という現象に妙な説得力を感じている。たとえそれが枯れ尾花であったとしても、「幽霊を見た」という体験自体に偽りがないのと同様、「不気味の谷」にも不思議なほどリアルな感覚があるのだろう。

「メタスコアの谷」も実体としては、「気のせい」なのかもしれない。そこで、もう少しこの「メタスコアの谷」を具体的に記述してみよう。そのために、ここ最近の話題作『ウォッチドッグス(Watch_Dogs)』を題材として書いてみようと思う。筆者は、この『ウォッチドッグス』がまさしく「メタスコアの谷」に入り込んだ作品であると考えている。まさに『ウォッチドッグス』は、2014年7月20日現在、PS4版でメタスコア80点を獲得している。

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80点と言えば、確かに高得点である。しかし、多くのゲーマーは、80点前後の作品を「よくできてはいるけれど、どこか欠けている作品」だと捉えるのではないだろうか。実際に『ウォッチドッグス』を遊んでみて、この80点という点数がそれほど間違っているとか、実態からかけ離れているとは思わない。しかし、筆者はそれでも強い違和感を感じている。これは80点程度の作品なのか?と頭の片隅にいるもう一人の私(ゲーマー)がささやきかけてくるのだ。

Amazonレビューに見られる「海外での評価の低さ」の虚像

『ウォッチドッグス』がメタスコアの谷に落ち込んでいると強く感じたのは、Amazonでのこのレビューを見たときだ。

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タイトルにあるとおりこのレビュアーは最終的に本作を「面白いです」と評価している。しかし、冒頭に次のように書いているのだ。

「海外版の評価が低かったので迷いましたが、(略)」

ちなみに海外での『ウォッチドッグス』の評価は、発売時点から、84点ほどのメタスコアを獲得しており、その後、多少は低下したものの、概ね『ウォッチドッグス』は高評価を獲得し続けている。しかし、重要なのは、このレビューが本作*2に対するレビューの中でも「最も参考になった」とされているという事実である。おそらくこれは「評判よりも確かに面白かった」と感じる人が多かったということだ。穿った見方をするなら、「ウォッチドッグスは高評価である」という事実とは異なる「ウォッチドッグスは海外での評価が低い」という実感を多くのユーザーが抱いていたことを示しているように思える*3

問題にしたいのは、このような私たちの期待の問題も含め、『ウォッチドッグス』という名作が、こうした迂遠な形でしか評価されないという環境や状況である。おそらく、素朴に「これは素晴らしい作品です」という評価のされ方よりも、「これはメタスコアより良いものです」という評価のされ方の方が、私たちにとってリアリティや説得力があるのだ。それは単に作品の問題ではなく、その作品を受け止める私たち自身の問題である。

ではこのような私たちの問題とは一体どのようなものであるのか。具体的な事例として以下の3つの『ウォッチドッグス』の特徴をきっかけに考えてみよう。その特徴とは「ドライブバイのないカーチェイス」「いつの間にかマッチングされるオンライン」「カッコワルイ主人公」の3つである。

■ドライブバイのないカーチェイス

1つ目はドライブバイである。ドライブバイとは、運転する車の中から銃撃できるシステムを指す言葉だ。GTA3以来、オープンワールドゲームにはほとんど当たり前のようにこのシステムが実装されてきた。しかし、『ウォッチドッグス』にはこの伝統的な(?)システムが存在しない。車を運転している時は、たとえ片手で扱えるピストルであっても撃つことはできないのだ。

f:id:tuquoi:20140719225837j:plain ↑ぶつけて相手の車を止めるのが基本。敵車の耐久力は低く、なぜか自車の耐久力は高いため、敵車をやっつけることはそれほど難しくない。

これが特に気になるのは、カーチェイスの追跡側になった時である。猛スピードで逃げる敵の車を止めなければならない。しかし相手の車の真後ろにつけていても、そのタイヤを撃ってパンクさせることはできない。基本的には、自分の車を相手にぶつけて停止させる。『ウォッチドッグス』でのカーチェイスについて、最初ここで大きな違和感を感じた人も多いと思われる。

しかしこの「ドライブバイの不採用」というのは、実に面白い提案でもあるのだ。

これは従来からある「ドライブバイの困難さ」に対する回答になっている。実はドライブバイというのは、かなり難易度の高い操作でもある。そもそも猛スピードで車を運転をするだけでもそれなりに難しいのに、それに加えて、銃撃の狙いを定めなければならない。ドライブバイは高い操作スキルを要求する。実際、この困難さはこれまでも多くのオープンワールドゲームでも問題になってきたと思われる。なぜならこれまで多くのゲームでこれに対する対策案が提示されてきたからだ*4

おそらく、『ウォッチドッグス』は従来の対策案とは異なる、新たなドライビング中の戦闘を実装しようとしている。それがハッキングしながらのドライビングだ。

『ウォッチドッグス』は運転中、様々な電気装置をボタン一つでハッキングして起動させることができる。例えば信号や可動橋や地中のガス管など。そうした道路にあるモノをタイミングよくハッキングすることで追跡している車や、追ってくる車を事故らせて停止させることができる。これはまさに難度の高い操作を求めるドライブバイ問題に対する1つの対策として実装されたように思われる。それほど難しい操作をしなくても、運転中に派手な攻撃を繰り出すことができる。

ドライブバイがないことを欠如としてではなく、新しい体験の提案として評価したい。おそらく『ウォッチドッグス』のグリップ力の低い車の挙動もかなり意図的である。単にスピードを出して逃げ切るのではなく、併走しやすい状況で、如何に敵の車を罠に落としこめるかを問うているのである。走り方自体が一つの攻撃や防御になるドライビングアクションを目指したのだと考えられる。

■いつの間にかマッチングさせられるオンライン

2つ目のテーマはオンライン要素だ。『ウォッチドッグス』には新鮮な仕掛けが施されたマルチプレイが搭載されている。しかしこの要素、実はオフラインプレイとオンラインプレイの境目をかなり曖昧にしたまま実装されている。だから、集中的にオフラインキャンペーンを進めたくとも、突然オンライン対戦が始まったりする(これはゲーム内で侵入と呼ばれる)。もちろん、これを拒否する設定も可能だが、人によってはこれをキャンペーンの楽しみを妨害する邪魔なシステムだと受け取るかもしれない。

なぜこのようなオフラインプレイを邪魔するようなオンラインプレイを提案しているのだろうか。それは「オンライン尾行」や「オンラインハッキング」というモードを体験するとよく分かるのではないかと思っている。

「オンライン尾行」「オンラインハッキング」とは、侵入者が突如として自分を監視し始める一風変わった対戦ゲームである。侵入されたプレイヤーは侵入してきたプレイヤーを街中から探さなくてはならない。大まかな場所は示されるが、多数いるMOBキャラのなかのどれが侵入者であるのかは分からない。もちろん姿かたちは、ランダムに決められる。白人女性の姿をしていることもあれば、黒人男性というキャラクタであることもある*5

f:id:tuquoi:20140719230751j:plain ↑赤丸で囲まれているのが侵入されたプレイヤー。画面の右下の花壇の陰に隠れる筆者(侵入者)を探して殺すため、アサルトライフルを持ってキョロキョロしている。

侵入された側は侵入者を見つけなければならない。もちろん、簡単に見つからないように侵入者は必死になって隠れる。ビルの谷間などいかにも隠れやすそうな場所に潜むのも一つの方法だ。しかし『ウォッチドッグス』ではもう一つ全く異なる隠れ方がある。それは群衆に隠れるというやり方だ。AIで制御された群衆のMOBキャラたちが街には無数にいる。その群衆の中に侵入プレイヤーは隠れるのだ。もし、群衆の中にいかにも「人間くさい」動きをしているキャラがいたら、それこそが侵入者である。このシステムが面白いのは、侵入する側は、いかにもAIっぽい動きをすることでバレにくくなるという点にある。

例えば、オープンワールドゲームにおいて赤信号で正しく停まるということはほとんど誰もしないだろうと思う。するにしても、それは単なる気まぐれだろう。しかし、筆者はオープンワールドで初めて「戦略的に赤信号で止まる」という経験をした。侵入されたプレイヤーが、侵入者である筆者の運転する車を目の前で見過ごしていった時は、言いようのない快感を感じた。交通法規を守って赤信号で正しく停まる筆者のことを相手は人間だと思わなかったのだ。人間らしく動かないことの楽しさ。これが『ウォッチドッグス』の提案する新しいオンライン体験だ。『ウォッチドッグス』のおかげで、ゲームの世界では如何に赤信号で停まることが非人間的な行為であるのかを知った。電柱や人をなぎ倒すような無茶で乱暴な運転をする方が、むしろ人間的な行為であることを逆説的に知ったわけだ。

しかし、こうした仕組みをオンライン/オフラインというモードとして明確に分けてしまったらどうだろうか。もちろん、オンラインプレイに専念したいという欲求には素直に答えることができるだろう。しかし、先ほどまで単なるコンピュータだとしてしか思っていなかった群衆、障害物としてしか見ていなかったMOBキャラが、突如として違う意味を帯びる体験は、オンとオフのモードが明確に区別されていたら味わうことができなかったかもしれない。私たちがこれまで培ってきた「当たり前」を前景化し、これまでにない新鮮な体験を味わうためには、是非ともオフライン世界と隣り合わせでなくてはならなかったのではないだろうか。

『ウォッチドッグス』のオンラインは、普段オンライン/オフラインで見知っている「ゲームの当たり前」を揺るがすような体験を提案しているのである。

■カッコワルイ主人公

最後は主人公の描かれ方についてである。『ウォッチドッグス』の主人公はなぜか微妙にかっこよくない。妙なナードっぽさがある。これまでのゲームの主人公はなんだかんだ言ってもリア充であった。いや、少なくとも元リア充であった。大抵は妻がいて、愛する息子や娘がいることが多かった。あのクレイトスでさえ元リア充である。家族の死というような強烈なトラウマを抱えることができるのが、リア充である。しかし『ウォッチドッグス』の主人公に愛する娘や息子はいない。しかし彼は姪のために戦うのである。姪である。いや、確かに姪はかわいいだろう。大切な存在だ。しかし、いきなりそれをトラウマとして抱え込み、「闘ってしまう」主人公。これは共感を得ることに成功している設定なのだろうか。

また、彼は帽子を脱がない。いや、もちろん、回想的なカットシーンでは帽子を脱ぐこともある。しかしゲームプレイをしている時は頑なに帽子を脱がない。寝るときぐらい帽子を脱いでも良さそうなものだが、彼は脱がない。頑固なのだ。

彼が変わっているのは、帽子だけでない。彼はずっとスマホをいじっている。なんと売店でジュースを買って店員の目の前で飲む時ですら、スマホをいじっている。目の前の店員がこちらを凝視しているその視線を避けるかのようにスマホをいじる。スマホを触りながらジュースを飲む主人公の姿は少しだけいじけているようにさえ見える。

f:id:tuquoi:20140719104236j:plain↑店員の目の前でもスマホを見続ける主人公。会計の時、こういう態度をリアルにしてしまっている人も、最近では多いのではないだろうか。

あと、彼は基本的に人の話を聞かない。死んでしまった姪の母親である妹から「危ないことはやめてくれ」と言われても「いや、俺が守る」と謎の応答をして憚らない(結局、その後、守りきれず、妹は誘拐される)。彼は中二病的世界観で動いている。おそらくトラウマが過ぎてしまい、自分が何をやっているのか良く分からなくなっているのだろう。

そして主人公が着替えられる衣装のバリエーションが凄い。なぜならほとんどテクスチャーと色以外に違いがない。

f:id:tuquoi:20140719232403j:plain ↑色とテクスチャ以外の変化に乏しい衣装の数々。ゲームにおける衣装替え一般に対する皮肉のようにしか思えない。

どの衣装もあまりに同じで、これは現代アート的な何かなのかと最初疑ったほどだ。日本の美少女ゲームで見られた判子絵キメこなに近いシュールさを感じる。

以上の様な奇妙な設定や描写をどのように感じるだろうか。筆者は、これはとても革新的だと感じた。実は上記のような不自然さは、『ウォッチドッグス』を製作したUBIモントリオールの別の作品『アサシンクリード』シリーズでも既に見られていた特徴でもある。同じような衣装ばかりを着て、フードを被り、妙に気取った態度や思わせぶりな発言をするアサシン。しかし『アサシンクリード』がファンタジーでいられたのは、あの時代設定や背景があったからだ。中二病的でも許される文脈があった。しかし『ウォッチドッグス』は現代である。おそらく開発側としても、これまでの「かっこつけ」をそのまま「身近な現代社会」に配置してしまっては明らかに「おかしい」ことに気付いているのではないか。しかし、この違和感こそが『ウォッチドッグス』の革新性になっているように思う。

よく他のゲームとの違いを強調するため、主人公について「これまでのゲームに良くあるようなヒーロー的な主人公とは違い、彼にはとても弱い側面もあり……」などど語られることがある。しかし『ウォッチドッグス』の主人公の「こじらせ具合」に比べればかわいいものである。これまでのどんなゲームの主人公よりも「残念な」主人公だ。しかし、単にかっこ悪いのではない。かっこいいのか悪いのか、その境界線を曖昧にするという挑戦的なデザインになっている。

もちろんこれは等身大の主人公を描こうというのでもないだろう。『ウォッチドッグス』の意匠には、倒錯しているがゆえの現代的なリアリティを感じる。もはや「正しいヒーロー」を現代社会においてリアルに描こうとすること自体が、とてつもなく非リアルであるということを『ウォッチドッグス』は訴えているように思える。なぜ現代的なヒーローは全身タイツの変態ばかりなのか。現代では変態でしかヒーローでいられないという矛盾を『ウォッチドッグス』は素朴に描いているのではないだろうか。

■メタスコアと実感を隔てる道路は一方通行ではない

上記に挙げた3つの特徴は、どれも人によっては欠点になるかもしれない。いや、事実欠点として責めることが妥当であるのかもしれない。しかし私たちゲーマーは、そろそろ、そうした答え合わせから自由になってもいいだろう。

もしかしたら、私たちゲーマーはメタスコアというものを心の底で怖れているのではないだろうか。なぜなら、得点が異常に高いゲームだけを買っていれば、確かに質の高いゲームを効率的に味わうことができるからだ。しかしそれでは猿である。ボタンを押せばエサが出てくる。そんなボタンを押す猿になってしまう。私たちは心の底で、こうした事態を怖れ、その象徴としてのメタスコアを畏怖しているのではないか。

だからこそ、「メタスコアの谷」には、私たちが人間として積極的にゲームを味わうことを可能にする多様性が潜んでいる。『ウォッチドッグス』が80点のゲームとして妥当であることと、その点数に感じる物足りなさや違和感は容易に両立するのだ。重要なのはそれぞれの判断のブレを楽しむように、軽快に行ったり来たりできることだ。

人によっては、『ウォッチドッグス』を散々楽しくプレイした後で、なぜこれが80点なのかと答え合わせをするかのように、様々な欠点を後から発見した人もいるだろう。しかし筆者はそれが誤りだとは思わない。むしろ、メタスコアのおかげでそのような批判的な視点を獲得できたのだと考える。だから、答え合わせが悪いなどとは全く思わない。重要なのはそういう方向性にだけ閉じてしまわないことだ。道は一方通行ではない。メタスコアよりも「私が感じた実感」の方が得点が高い部分だってあるだろう。であるならば、それが何なのかと逆に問う道もあるはずなのだ。谷に落ち込むだけが正しいのではない。そこから這い上がる道もまたあるはずだ。

私たちがゲームを自らの意志で楽しむための秘境は、「メタスコアの谷」にこそ、待ち構えているように思う。あなたにとってメタスコアの谷に落ち込んだゲームは何だろうか。それはかけがえのない「あなたのための魅力を備えたゲーム」ではないだろうか。

*1:CGやロボットが、リアルな人間に近づくにつれて通常は親近感を抱くが、ある一定レベルまでリアルになると途端に嫌悪感を感じる現象。不気味の谷現象 - Wikipedia

*2:ここではPS4版の特典なしの通常版ウォッチドッグスを対象にしている。なお限定版については、また別のレビューが「最も参考になった」となっていることを念のため付記する。

*3:もちろんこれは「期待したよりもメタスコアが低かったのだ」と解釈できる話でもある。何より『ウォッチドッグス』は1年以上前から期待されたトリプルA級 の大作だった。当然似たような作品である『GTA V』に比肩しうるような作品であることが期待されていた。そうした期待に比べれば、80点というメタスコアは低いのかもしれない(一方『GTA V』は97点という驚異的なメタスコアを獲得している)

*4:例えば、運転手が別にいて、主人公はシューティングに専念できるようにする、という対策案がある。セインツロウシリーズでは、主人公に無限に弾が出るロケットランチャーが与えられ、敵を撃つことに専念するパターンが多い。同乗者は別にいて、そのNPCが運転を担当する。また別の対策としては、ドライブバ イの時は強い視点補正がなされるパターンがある。相手の車に狙いをつけると、自然とレティクルが当たるように強く補正されることで、難易度の軽減を図っている

*5:この姿は相手から見たときだけ普段と違うキャラクタになっている。自分のディスプレイには普段通りの主人公の姿が映っている。この表象の非対称性もとても面白い