ビデオゲームとイリンクスのほとり

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「このハードが好きだから、この独占ゲームは面白く感じる」と言うことはダメなのか?

特定の家庭用ゲーム機(ゲームハード)に強い思い入れを持つ人がいる。しかし、ゲームファンの多くは「特定のゲームハードだけに強い思い入れを持つことは、少し恥ずかしいことだ」とも思っている。これは、強い思い入れを持たない外野の人がそう思うだけではない。特定のハードに強い思い入れを持つ信者的な人であっても、結構そう思っているところが面白い。なぜそんな自己矛盾するような思いを持つのかと言えば、ゲームに対して真面目であろうとするがゆえにそうなるのだ。

特定のハード(ニンテンドースイッチ、PS、XBOX)に愛着を持ってしまうこと、これ自体はなんの不思議もない。趣味において、特定の道具に偏愛的な執着を持つことはどんな世界でもあることだろう。しかし、ビデオゲームにおいて主役は個々のゲームソフト作品であって、ゲームハードに執着を持つことは、どこかビデオゲームの本質を見失ってしまっているようにも感じるのだ。これはゲームというものに「真面目に向き合いたい」と思うがゆえに起こるジレンマである。

だからこそ、特定のハードに強い思い入れを持つ人に限って「私は全機種持っています」と言ってしまう。これは「全機種を見比べて、公平な視点から私はこのゲームハードが一番良いと思っているのだ」と言うための、ある種の言い訳である。私の愛は根拠のない盲信的なものではない、ということをなぜか言いたい。いや、なぜもなにもない。その気持ちはとても分かりやすい。愛を根拠付けたいと思うのは、まさに信仰の始まりのように思う。自らの信仰を「狂信」だと開き直る人はいない。

しかし根本的に愛とは公平なものではないだろう。で、あるのであればもっと堂々と「私はなぜかよく分からないけど、このゲームハードを愛してしまっているのだ」と言えたら良いのかもしれない。他人にとって、愛を説明して欲しいとは誰も思っていないはずなので、「公平な目」や「客観的な機能比較」を本当は誰も必要としていない。それを求めているのは、実はそれを説明しようとする本人自身なのだ。

愛は公平なものではないし、時に無根拠なものなのだけど、どうにかしてそれを説明したい。その対象がゲームハードだというのは、少し間抜けに見えるかもしれないが、おそらくあらゆる趣味の世界で、自らの愛の根拠と無根拠が人を悩ましている。しかし、私はそれがとても「良いな」と思っている。

例えばあるゲーム作品が特定のゲームハードの独占作品だったとしよう。その時、そのハードを愛する人は、その作品がどう素晴らしいかを説明したい。その時に、「このハードで出ているからこの作品は面白い」とは説明しないだろう。もちろんその作品自身が魅力的であれば、そんな説明をする必要がないのかもしれないが、普通に考えてその作品を褒める時には、ゲーム作品それ自体の魅力や面白さを熱弁するに違いない。決して「このハードで出ているからこの作品が素敵に思える」とは言わないし、むしろその発想からいかに距離を置くかに腐心する。しかし私は、この本人しか気にしていないこの無駄な努力ほど美しいものはないと思う。そんな「このゲームはこのハードで出ているから素敵に思える」なんて思いは決して表に出さないという「無駄な努力」の美しさ。もしかしたら自分自身、気づいてさえいないかもしれないが、たとえそれに気が付いていても言葉にはしないハード愛。しかし心の奥底で気がつきつつ、しかし言葉にしないように努力するその姿勢こそが、私は本気で美しいと思う。そこには切なさと健気さと純粋さと公平さと、そして少量の狂気が潜んでいる。

冷静な作品分析によってその作品の素晴らしさを語る人も素晴らしいと思うのだが、「そのゲームハードで出ているからステキに感じるんだ」と思ってしまいつつも、それを言葉に出せなくて苦しんでいる人の方が、私にはどこか誠実な人だと感じる。もちろん変わった人なのかもしれないが,すごく正直な人だなと思う。

言葉にしてしまっては消えてしまうことがある。言葉にしないからこそ、保たれる美しさがある。「特定のゲームハード」が好きだという謎の愛情は、秘められている時にこそ輝く。なんとも厄介な話だけれど。いや、むしろこの厄介な事情に気がついているからこそ、私たちは「このゲームハードが好きだ」ということを隠したり、仮に言うとして躊躇いがちになるのかもしれない。

「ゲハ*1」も「信者」も、みんな恥ずかしいものだと思っている。もちろんそれはそうかもしれない。しかし私は「ゲハ」や「信者」をどこか憎めない。その根拠のない愛を何かに根拠づけたいという矛盾した気持ちには、美しいものがあると思ってしまう。

「このハードが好きだから、この独占ゲームは面白く感じる」と言うことはダメなのか?いや、それは決してダメではないだろう。しかしそれは言葉に出してしまうと、心の底に秘められている時ほどの輝きは失われてしまうのだ。

 

*1:2ちゃんねる(現 : 5ちゃんねる)で、ゲーム関連のスレッドに「ハード・業界」という板がある。これは主にゲーム業界や家庭用ゲーム機ハードに関する話題を扱っている。ここでは日夜、各ゲームハードのファンが集い、罵り合っている。極めて問題のある差別発言なども横行しており、非常にマナーも良くない場所だと多くのゲーマーからも認識されている。そうした場所に集まる人を(やや侮蔑を込めて)総称して「ゲハ」と呼ばれる。