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『FF16』の後半の物語はつまらないのか?ミュトスとロゴスについて

週末批評に寄稿した以下の記事とは別にストーリーの内容についての記事になります。

加速する “JRPG” の到達点──『ファイナルファンタジー16』がそれでもムービーにこだわる理由|すみ | 週末批評

「『FF16』の前半は面白かったんだけど、後半になってつまらなくなった」という意見がある。私自身は別記事などに書いた通り『FF16』を絶賛するし、後半も面白いと思うけど、この意見はとても興味深い。そしてある意味、ここが1番、『FF16』の物語評価で差異が出るところだろうと思う。

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後半のイマイチなポイント

『FF16』後半の物足りなさを象徴するキャラクターは、まず第一にバルナバスだろう。主人公クライブのライバル的な存在かと思い期待した人も多かったはずだ。しかしラスボスのアルテマを狂信するマザコン男というかなり弱っちいキャラに収まってしまい、思ったより魅力的には思えなかった。

f:id:tuquoi:20240211090421j:imageバルナバ

そのほかに、ミスリルパーツ集めクエストの凡庸さも、後半の印象の悪さに繋がっているかもしれない。このクエスト、サブクエを単純に集めただけのような構成で盛り上がりに欠けた。この2点だけではないが、『FF16』の後半がつまらないというのは十分理解できる意見だ。

また、多くの人が指摘していることではあるが、ラスボスのアルテマが「普通すぎた」という印象を持った人も多いだろう。あまりに単純な悪に見えるし、やろうとしていることがエヴァの「人類補完計画」の真似事のようでもあり、「凡庸」と感じる要因となっても不思議ではない。私としても「『FF16』は敵の魅力が今ひとつなんだよな」という意見には賛成する。

f:id:tuquoi:20240211090457j:imageアルテマ

ただ、『FF16』後半のストーリーにも魅力はあると思っている。ラストの「泣き」の入るところを除いてもちゃんと魅力があるストーリーである。まあ、個人の妄想的な解釈なので、笑って読んでもらえればと思う。次から順番に語っていこう。

クライブがロゴス?

まず、『FF16』の後半というか最終盤で1番個人的に驚いたのは「クライブがロゴスと呼ばれたところ」だった。なんのこっちゃというところだが、クライブが序・中盤くらいで、ミュトスと呼ばれた時に「ああ、じゃあ、ロゴスが出てくるんやな」と予想した人は多かっただろう。

f:id:tuquoi:20240211090535j:imageクライブはロゴス

とはいえ、『FF16』のミュトスとロゴスが、ギリシャ哲学などで語られるような意味で使われているかどうかはハッキリしていない。そのあたりのことは、意識的かどうか分からないが、曖昧なままであるからだ。すごく素朴に言ってしまうが、Wikipediaにある通り「ロゴスは、ミュトスと対比して用いられていた」言葉だ*1。ロゴスはロジックやロゴの派生元の言葉であり「理性、論理、言葉」ひいては「知性、学問、科学」を意味することもある。
 一方、ミュトスは神話を意味する英単語”myth”から分かる通り、(これまた雑で恐縮なのだが)宗教的、神話的なものを意味する。「神話から科学へ」の意味で、「ミュトスからロゴスへ」なんて言い回しがされることもある。 この二つ(ロゴスとミュトス)は対立するイメージが強いため、最初にクライブがミュトスと呼ばれたところで、その対比を知ってる人の多くは「ああ、じゃあラスボスのアルテマがロゴスなんやな」と思っただろう。少なくとも私はそう思った。この2つの対比を知っている人なら、まあそう思うのではないか。
 で、このミュトスとロゴスの対立という話であれば、実に普通で凡庸な物語だ。最後は神的な存在を殺して終わり、というよくある神殺しの物語。その手の話は結構、この対比フォーマットに乗っている。ラスボスに、自らの「正しさ」を恃む傲慢な態度、というスパイスを加えれば、いっちょでき上がりだ。
 で、『FF16』は正にそういう物語にも見える。めちゃくちゃありがちな物語に見えるのも不思議ではない。しかし私がこの『FF16』がその手の物語と「ちょっと違う」と思うのは、ラストバトル前に「クライブ自身がロゴス」と呼ばれたところなのだ。ここでは神であるアルテマに等しいものとなった程度の意味でも解釈できるが、クライブ自身がロゴスと呼ばれることで、クライブは「ロゴス=知」を仮託された存在であることも示唆している。ベースプロットとしては「合理性=ロゴス」の塊であるアルテマを倒すという話ではあるのだが、そのために必要だったのも「ロゴス」だった、という点に捻りがあると感じて面白かった。

『FF16』のロゴス重視

なぜ「ロゴスの獲得」が重要なのか。普通のJRPGであれば、「主人公は優しさや絆のような謎の超パワーで、ラスボスである神をやっつける」という話が多い。それはつまり、ミュトス的な超パワーでロゴス的なラスボスをやっつける話だということだ。けれど『FF16』は違う。
そもそも「知=ロゴス」の重要さを、『FF16』はラストにだけいきなり登場させているわけではない。後半からずっとロゴスの積み重ねを描いてきている。それをよく示すのが、ミドやヴィヴィアンの存在だ。ミドは大学に通い科学(機械工学)を学び、ヴィヴィアンは大学の先生だった。大学とは正に「人類の知性」を象徴する施設だ。

f:id:tuquoi:20240211090639j:imageミド

ミドはその大学で得た知識によって高速船を作り上げ、クライブを支える。ヴィヴィアンもまた学問的な分析によってメインクエストの方針を示す。『FF16』はその「知」を使って、魔法やクリスタルという「知ではないもの」の呪縛から逃れる物語でもある。

f:id:tuquoi:20240211090654j:imageヴィヴィアン

そしてジョシュアは人類の来し方を探る「歴史研究者」とも言える。ロゴスと言っても理系的な知だけではなく、人文的な知がジョシュアに託されている。ラストでジョシュアの力を吸収して、クライブはアルテマと互角の力を得たが、これは召喚獣の能力だけでなく、ジョシュアの「知」を獲得することにより、クライブのロゴスとしての完成を意味するのではないか。現に、この後から「クライブがロゴス」と呼ばれるようになる。

f:id:tuquoi:20240211133945j:imageロゴスとなったクライブ

なぜ『FF16』では「知=ロゴス」の獲得が重要なのか。それは「知」により魔法を使わないで済むようになるからだ。逆に言えば魔法に頼っていたから、鍛冶で使う炉やふいごのような「知=科学」さえ確立できなかった(この辺りはブラックソーンのサブクエで描かれる)。魔法という便利すぎるものによって、人類はその進歩を止めてしまっていたのが、『FF16』という世界の現状だった。それを変えたのが、クライブたちの戦いなわけだ。
 ラストのエピローグで子供が火打石で火を起こしている場面が感動的なのは、そうした「科学」が浸透し、人類が歩みを進めていることが分かるからだ。

f:id:tuquoi:20240211090727j:image火打石で火を起こす子供

科学によって火を起こすのは魔法より面倒かもしれない。けれどベアラーを奴隷化し「物扱い」して火を起こさせるより、遥かに良い。遥かに人間的である。
 このように見てみると、既存のJRPGでよくある「合理的で理屈っぽい傲慢な神様を、なんだかよく分からない友情・絆という不条理パワーで倒す物語」と『FF16』は大きく異なっている。『FF16』は「知=ロゴス」がないとダメで、「不条理パワー=ミュトス」だけだと勝てないと言っているのだ。
このことを補強するのが、『FF16』における魔法の立ち位置だ。大抵のRPGで魔法は「知性=ロゴス」に属することが多い。しかし『FF16』では魔法は「神話=ミュトス」に属している。『スカイリム』で魔法は「ウィンターホールド大学」で教えられていたことを思い起こして欲しい。しかし『FF16』では、魔法は大学で学ぶものではなく、遺伝かクリスタル(謎物質=ミュトス的)を介して使うものだ。この「魔法」というものの位置付けの特殊さは注目に値する。
しかしこれも、現代の、そして現実の世界では当たり前の話だ。「魔法そのもの」は、「学問」や「知性」でありえない。ある意味、『FF16』はめちゃくちゃリアル世界の理屈を描いているとも言える。ファンタジー作品なのに。いや、だからこそ、最後にファンタジーを消し去る展開と整合する。「ファイナルファンタジー」のタイトル回収とは、そういうことなのだ。
そしてハルポクラテスという語り部もまた「ロゴス」という観点で興味深い。羽ペンという言葉(ロゴス)を書き記す道具がクライブに託されるのも、ロゴスの継承を意味するのだろう。そしてスタッフロール後のカットシーンで出てくる書物はロゴスの塊とも言える。

f:id:tuquoi:20240211090810j:imageラストの書物

歴史を探究したジョシュアが、言葉(ロゴス)によって、ファイナルファンタジーという神話(ミュトス)を書き残す。ロゴスの中だけで、ミュトスが生き残るのだ。この構図も非常に面白い。ロゴスに囚われたミュトスと考えれば、そこから更なる続編を考えたくなってしまう。

ミュトスとロゴスの合体は「答え」か?

ミュトスとロゴスの合一を果たした究極体であったクライブ。彼はなぜ死ななければならなかったか。ミュトスとロゴスが合一を果たして、「最強」になったのなら,その凄い力を使って良き世界を創れば良いのでは?と思うかもしれない。しかしそういう物語を描かないことこそが『FF16』の信念だった。そんな都合のいい「魔法」のような解決策はない。苦しみながら、少しずつしか世界は良くなっていかない。

このことを示すのが、アルテマとクライブの最後の会話だ。

f:id:tuquoi:20240211090848j:imageアルテマとの会話

すごい力で他者をひれ伏させることが人の生き方ではない。時にはすごい悲劇が起きたとしても(例えば暴力的な革命とか)、人は一歩一歩改善させつつ進んでいくしかない。魔法で物事を一挙に解決させることが「答え」じゃない。クライブの覚悟はそういう意味で重い。「苦しんでもいい」と言うわけだからだ。
しかしここで、『FF16』は、ある意味、人間の理性を信じて、それに託すだけではない面も見せる。理屈(ロゴス)だけで世界は進むのではない、という面も見せるのだ。そして、実はそのことを多くの人は薄々理解している。不合理なもの(ミュトス)を内包しながら人は生き、それをどこかで許容して生きている。それはクライブも同じなのだ。アルテマの超傲慢な完全生命魔法「レイズ」を、超個人的な弟の命を助けるという、極めて私的な目的のために利用するのだ*2。それは見ようによっては、人類に対する裏切りなのかも知れず、とてつもなく不合理なことなのかもしれない。しかし正にそういう不合理さを見せるところにこそ、ロゴスとミュトスの溶けきらない混交という描写が成立しているのであり、それがおそらく『FF16』の一つの倫理のあり方なのだろう。

なぜアルテマは「殴られた」のか?

ラストの「殴り」のシーン。これはびっくりした人も多いだろう。拳で行くか?と。しかしこれもまた『FF16』らしいバランス取りなのだ。ロゴスという理性とミュトスという魔法が合体した先にあるものは暴力であり、その象徴としての拳なのだ。

f:id:tuquoi:20240211090913j:image殴られるアルテマ

ロゴスという知を活用しつつも、融和や包摂によって物事が解決するわけではない。熟議を通した理性ある対話によって平和を築くことの限界。そして一方でゲームというメディアでは求められる「力」を、キレイにだけ見せないようにしたいという誠実さ。暴力を誤魔化すようなことはしないという覚悟を、最後に剥き出しの暴力「拳」として表現する。これぞ、ロゴス重視からの急転直下の逆張り!と言ったところだろう。とても『FF16』らしい。ロゴス重視だからこそ、ロゴスに偏りすぎないようにしたいというバランス感覚が、クライブに「拳で殴る」という野卑さを感じさせる行為をもたらしたのだろう。
だからこそ、一層、最後にクライブは死ぬしかなかった。ミュトスとロゴスの二つを合わせて「究極」になって人を導けばいい!のではない。人らしく生きるとは、そういう「究極的な暴力」に頼ることでは「ない」と『FF16』は言いたいから、彼は死ぬしかなかった。
『FF16』が現代的なのは「ロゴス」を引き受けたところだ。「ミュトス」だけではダメだと分かっている。コロナ禍や地球温暖化など、今や意外に多くの人が「知」というものの重要さを、そして『FF16』開発者も肌身で感じているからこその「ロゴス重視」なのではないか*3。それゆえの逆張り的な「殴り」。いずれにしろ、人間の作り上げた「知の体系」が本作では意識的に重要な立ち位置となっている点は確かだろう。それはFFシリーズで、科学と魔法の両立した世界を描き続けてきた、その従来のFFシリーズらしさを現代的に描き直した描写とも言えそうだ。

クライブは生きているのか?

なおネットではクライブの生存説がよく唱えられている。私自身は上記のように作品を解釈しているため、彼は死ぬしかないと考えている。石化して失われることに意味がある。

とはいえ、『FF16』は娯楽作品である。この後、「実は生存してました、てへ」とあっても不思議ではない。まあ、「それはそれ」だろうと思っている。

*1:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B4%E3%82%B9

*2:ただ、ゲーム内でレイズの力によってジョシュアを助けたかどうかは、ややハッキリしない

*3:なお、魔法は「知」ではない、かどうかは本編だけからだとよく分からない。もしかしたら魔法を研究するゲーム世界の中の大学の機関もあるのかもしれない。ただ、それを示す描写が極端に少ない(ほぼない?)。もしかしたら、魔法を「知」と捉えていたのはアルテマだけだったかもしれない