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『ゼルダの伝説 BotW』の探索はなぜワクワクするのか。新作ゼルダに宿る『ハズレの美学』

元記事と同じ内容ですが、素晴らしい編集をいただいた記事が週末批評に掲載されています。元記事よりもずっと読みやすく面白いものになっているので、ぜひ以下のリンクからそちらをお読みください。

探索せずにはいられない!──『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』に宿る「ハズレの美学」 | 週末批評

------------元記事は以下より----------

ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド』(2017)は稀代の傑作である。それゆえ『ゼルダの伝説BotW』を褒める記事は既にたくさん存在する。だから、もうこれ以上何を言うのかという思いがないではない。しかし咲き乱れる賞賛の中に、もう1つぐらいささやかな記事が加わっても罰は当たらないだろう。そんな思いで書いてみた。本記事では、『ゼルダの伝説BotW』の持つ数ある美しさの中から、ある1つの美点を取り出して述べてみたい。それを筆者は「ハズレの美学」と呼びたいと思っている。


ハズレとの出会い

筆者は『ゼルダの伝説BotW』をWiiU版で70時間、Switch版で60時間ほどプレイしている。2周目となったSwitch版ではまだクリアはしていないが、四神獣を解放し、試練の祠は100余りクリアしている。1周目の時は、楽しくて楽しくて前のめりでプレイしていたためか、細かい部分で感じた様々な面白さをちゃんと覚えていない。2周目になって何度も「すごいな、これ」と改めて冷静に感心している。そして2周目のある時、「あっ」と思ったことがあった。

それは多くの人が最初に到達するカカリコ村でのこと。村に最も近い祠から見えるある「でっぱり」に登った時のことだった。

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↑右側に見えるでっぱり。崖に突如としてあるこのでっぱりは何か特別なものに見えた。

 

この「でっぱり」。自然の造形物としては不自然ながら、人工物というにはあまりに素っ気ない。あえて言うならゲーム的なでっぱりであった。確実にあそこには何かあるなと思った(「コログの実」という収集アイテムが隠れていると思った)。本作をプレイしたことがある人なら、このゲームは正にそういう「思いつき」の連続であることを知っているだろう。少なくとも私はその時そう思った。そしてそのでっぱりに登ってみたのだ。

しかし、そこには何もなかった。予想していた収集アイテムも何もなかった。発見できるようなものは何もなかったのだ。こういう場合、爆弾などで刺激を与えてみると、何かが起きるのが『ゼルダの伝説 BotW』の定番である。しかし、何度もジャンプしてみたり、爆弾を爆発させたりと色々試してみたが、特に何も起きない。そして思ったのだ。「ああ、ここはハズレなのか」と。その瞬間に、私がなぜこのゲームの、特に「探索」がこんなにも楽しいのか、その一端を垣間見た気がしたのだ。

同じようなことは別の場所でもあった。それは高地の雪嵐吹きすさぶある山頂に到達したときのことだ。「ここにはきっと何かあるだろう」と思い、視界の悪い中、苦労して登頂したその先、そこには特に何もなかった。この山頂はハズレであった。

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↑ウォルナー山。単に寒いだけの山だった。

 

また別の山でも同じようなことがあった。山頂がきれいに割れているいかにも怪しげな山があった。そこにも何かあるだろうと思って登ってみた。しかしここでも特に何か発見があるということはなかった。

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↑山頂がきれいに割れている怪しげなクーホ山。とはいえ山頂に特に何かあるわけではない。

 

実は意外に多くのプレイヤーはこうした体験を『ゼルダの伝説BotW』でしているのではないだろうか。「何かあるとおもったけど特に何もなかった」という体験は本作で何度か味わうことになる。そしてこのハズレの体験こそが本作のデザインの1つの美しさであり、ハズレこそがプレイヤーの探索の期待をコントロールしているのではないかと思ったのだ。

他のオープンワールドにおける探索要素

いくつかここに比較的広いマップを歩き回りアイテムを収集するような要素があるゲームのマップ画面を見てみよう。注目してほしいのは、マップ上に配置されるアイコンの数である。

1つ目は『アサシンクリード ジンジケート』(2015)。19世紀のロンドンに暗殺者となって暗躍するステルスアクションだ。シリーズの持ち味である高い所にも自由に登ることができるフリーランは『ゼルダの伝説BotW』の壁のぼりを髣髴とさせるが、スタミナ切れなどは特にないため遊びの質としてはかなり趣が異なっている。
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↑左側「収集アイテム」の分母がこのエリアでの収集アイテムの総数。実際集めようとすると結構数がある。

 

2つ目は『Far Cry 4』(2014)。先の「アサクリ」もそうだが、この作品も『ゼルダの伝説BotW』との共通点が多いゲームとして、よく名前の挙がるシリーズの作品だ。先進的な文明から隔離され、部族的習慣が息づく土地を舞台に生き延びる一人称視点のサバイバルアクションである。

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↑これを拡大すると更に多くの宝箱のアイコンなどが表示される。

 

3つ目は『Rise of Tomb Raider』(2015)。PS時代に人気を博し、映画化もされた人気シリーズの最新作だ。女性冒険家を主人公に据えたアクションアドベンチャーであり、前作で過去作から刷新されオープンワールド化した*1

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↑1つ1つのエリアは狭いながら、画面左のリストにある通り、収集物は種類・数ともに豊富である。


4つ目は『ホライゾン ゼロ ドーン』(2017)。たまたま『ゼルダの伝説BotW』と同時期に出た、これまた中々の名作である。文明が壊滅した遠い未来の世界を舞台にした本作は、美しい環境のビジュアル、多彩な機械獣との戦闘、SF的設定の物語が魅力の作品である。

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↑マップ上には数多くのアイコンがひしめき合っている。


いかがだろうか。『ゼルダの伝説 BotW』の発売した2017年より少し前に出た、それなりに評価の高い各オープンワールドゲームのマップには、実に多くのアイコンが配置されていることが分かる。『ゼルダの伝説BotW』以外の多くのゲームでも、マップに満遍なく収集アイテムやミッションポイントや拠点が配置されているのだ。*2

しかしあえて断言するが、上記四作品に『ゼルダの伝説BotW』ほどの探索の魅力はない。だからダメなゲームだと言いたいわけではない。ただ、『ゼルダの伝説BotW』に備わっている「この先に何が待っているのか、行って探索してみたい」という探索のワクワクがこれらの作品にない事は確かなのだ。

「当たりの保証」によって失われたもの

なぜこれらの作品には豊富に目標物が配備されているのに、『ゼルダの伝説BotW』ほど探索のワクワクがないのだろう。上記四作品と『ゼルダの伝説BotW』との違いは何か。私はその理由の1つが「全てが『当たり』である」ということではないかと考えている。上記作品群のマップのアイコンにはハズレがないのだ。「そこに収集アイテムがありますよ」というヒントアイコンはほぼ100%正しく、行けば必ず何かがあった*3

振り返るに、これまでのオープンワールドでは、マップ上に記されるヒントはほとんど全て「当たり」を意味していたように思う。先ほど例を挙げていない「スカイリム」や「GTA5」などもマップ上に何かのアイコンが出たら、それはほぼ必ず「当たり(=目的地)」を示している。そこに行けば何かが始まり、そこに行けば何かが見つかる。すると、プレイヤーがすることはその「当たり」に向かっていくことだけ。いや、もちろんこの要素に全く「探索」らしさがないとは言わない。いくつかのゲームはそこで「ルート探索」的な遊びを提示する。ゴールは分かっても、どうしたらそのゴールに到達できるのかを探す、そんな遊びを提示するわけだ。しかし、そうした遊びも全て「100%当たり」という保証があっての遊びに過ぎない。下手をすれば、それはすぐさま「作業」へと変貌してしまう。つまり「当たりの保証」が「探索のワクワク」を押し下げているのだ。

とはいえ、こうした収集要素が退屈な作業となることへの懸念に、これまでの作品が全く無頓着であったわけではない。上記に挙げた各作品でもその問題はちゃんと意識はされ対策が試みられている。よく見られる対策は次の2つのパターンだろう。1つはヒントアイコンが「広範囲のだいたいこの辺」を示すことで、目的物の場所を少し曖昧にするという方法だ。

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↑「範囲」で示された収集物のアイコン。画像は『ホライゾンゼロドーン』のもの。

 

プレイヤーに探索する余地を残すことで、プレイヤーは「狭い範囲でのゴールポイント」を探索することになる。もう1つは、そもそも「当たり」のアイコンを表示しない方法だ。この方法の場合、NPCの話や事前に入手したドキュメントなどから、自発的にどの場所に行けばいいかを探ったりする。

1つ目の解決策のように範囲としてどれだけぼやかしても、アイコンが「当たりを保証」していることに変わりはない。そういう意味で『ゼルダの伝説BotW』は、その正解を置かないという2つ目の方法を大きく採用していると言える*4。しかし、単に「当たり」アイコンを置かないというのではない。地図には地名と等高線を描いた。そして探索という行為を「地図を読む」「地形を読む」ことへと昇華させた。その上で『ゼルダの伝説BotW』はもうワンクッションを置いたのだ。それが「ハズレ」の存在である。『ゼルダの伝説BotW』の地名や等高線はすぐさま「当たり」を示すとは限らない。本作は常に褒めてくれる都合がいいだけの存在ではないのだ。そこに実際に行ってみたとしても、必ず何かがあるわけではない。どんなに高い頂や怪しげな丘に登っても、それは「単なるハズレ」かもしれないのだ。

 

ゼルダの伝説BotW』を賞賛する時、人々はこう語った。「どこに行っても、ちゃんと何かがある。だからついつい探索してしまうんだ」と。これは全くその通りだ。だが、その裏の顔があるのではないか。つまり「どこかに行ってみても、そこに必ず何かがあるとは限らない」。「何かがある」だけがプレイヤーの期待をコントロールするのではない。「何かがない」こともまた影で期待をコントロールしている。だからこそ、「俺が」「私が」「僕が」見つけたという感覚を得ることができる。

しかし、こうしたハズレがただ用意されているだけではない。筆者は以下の2つのハズレのデザインがこのハズレの美学を支えていると考える。

物量による期待の底上げ

ハズレを引くのは確かに残念だ。しかし、その残念さはちゃんと緩和されるようになっている。それは『ゼルダの伝説BotW』のご褒美の膨大な物量によってである。試練の祠が120個にコログの実は900個。宝箱に至っては一体どれだけあるのか分からないほどに存在する。たとえハズレを引いてしまっても「でも次は何かあるかもしれない」と思えるだけの物量がある。「ハズレだった」→「でも次は何かあるかも」→「そして事実ある」というこのハズレと当たりの連鎖は、ハズレの残念さを緩和するだけではない。この緩急によって、期待は常に高い水準を保つ。

先に挙げた四作品は、いずれもそれなりの物量のご褒美を用意していた。しかしそれが『ゼルダの伝説BotW』ほど探索のワクワクに寄与しないのは、ヒントアイコンが「100%の当たり」を示すことで、逆に「100%のハズレ」の場所さえも明確にしてしまったからだ。一方『ゼルダの伝説BotW』は、当たりとハズレの区別を不明瞭にした。そのことにより、プレイヤーの想像力の中で勝手に「当たりらしきもの」が大きく膨らんでいく。想像力によって膨らんだその物量イメージを最大限に活かしつつ、「ハズレと当たりの反復」によってプレイヤーの期待をマップ全体に瀰漫させている。*5

ハズレの二重底

「ハズレの美学」を支えるもう一つの仕組み、それはハズレの中には、二重底になっているものがあるという点だ。最初見た時には「ハズレかな」と思うものの中には、後々になって実は「当たり」だったと分かるものがある。特に「コログの実」という収集要素において顕著だ。やるべきアクションが分からず最初はハズレと思いスルーしてしまう、そんなパターンがある。

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上の写真に見える何か意味ありげに並ぶ3本の木。これなどは、地図上や見た目にはいかにも怪しいにも関わらず、最初は意味が分からずスルーしてしまった人も多いと思う。しかし、どこかでふと「当たり」に気が付く。〇〇すれば「ハズレ」が「当たり」に生まれ変わるんだと気が付く。

プレイヤーにとって「ハズレ100%」を少しだけ曖昧にする。それがハズレの二重底だ。「もしかしたらあの時のハズレはハズレではなかったかも」と疑い始めると、これまで過去に体験してきたあらゆるハズレへの見方が変化してくる。それだけではない。まだ出会っていない未来のハズレもまた、本当にハズレだと断定できるのか次からは確信が持てなくなる*6。これは長期間に渡って、当たりへの期待を高止まりさせる秘かな心理的要因となるのではないだろうか。

ハズレと当たりの彼岸

ゼルダの伝説BotW』のハズレの美学とは何か。それは「当たりとハズレの境界を曖昧にすること」だ。今向かっている高い丘の上には何があるのか。それは物量という期待によりおそらく「当たり」と想定されるのだが、しかし100%の確信はない。しかもそれが「ハズレ」だと分かった後も、どこまで「ハズレ」として確信を持てばいいのかはよく分からない。事実「ハズレ」だったとしても、次には「当たり」に出会えるという予感がなんとなくある。こういう「当たりとハズレの境界を曖昧にすること」は、オープンワールドというスタイルのゲームの原初的な感動に通底してしていると私は考える。

初めて「GTA3」やそのシリーズをやった時に何に感動したか。その1つは「路地裏の存在」であった。ビルの谷間にあるゴミ収集ボックスの存在。積み挙げられたベニヤ板やタイヤ、ビニールシートを被った資材。そういうゲームとして意味が有るのか無いのかよく分からない存在に、街全体としての息遣いを感じた。意味もなくブラブラと歩くことに何か街を探検しているような気分があった。そこでは当たりもハズレもなかった。

時代は進み、オープンワールドは進化した。そして大量の明示的なご褒美が用意されるようになった。確かにその方が嬉しい。何もない路地裏を探検しても、それが自己満足に過ぎないなら、いつかは飽きてしまうかもしれない。路地裏の探検に意義を見出せない人もいるだろう。だからもっとより楽しみ易くするために、様々な場所に宝箱やアクティビティが仕込まれた。しかしご褒美を用意すると、今度はそれを取りっぱぐれるストレスや、それらを1つ1つ探索することへの面倒さが問題になった。だから地図を用意した。宝の地図だ。あらゆる宝の場所を記した地図は、収集癖を十分に満たすものだった。

しかしプレイヤーは底なしに貪欲だった。どこに何があるか分かっている些細な宝物を、どうして取りに行かなくてはならないのか?と問い始めたのだ。これは難しい問題だ。自由を売りにするオープンワールドと、どこに行けばよいか分かっている不自由な収集要素という「矛盾」にどのように折り合いを付ければいいのか。これはオープンワールドという構造が長い時間を掛けてより面白くするために自ら積み上げてしまったことに対する逆説的な課題であったように思う*7

 

だからこそ『ゼルダの伝説BotW』がもたらした解答は進化を続けるオープンワールドという枠組みの中で、王道でありつつも極めて華麗に見える。サブでしかなかった探索要素にもう一度輝かしい光をあてた。他のゲームが探索要素を遠慮がちにメインディッシュの隣に盛り付ける中、『ゼルダの伝説BotW』は堂々とお皿の中央に盛り付けてきた。探索要素をメインディッシュとして恥ずかしくない豪勢さに仕立て上げて勝負してきたのだ。

 

ゼルダの伝説BotW』の解答。それは「ハズレと当たりの境界を曖昧にする」ことであり、「ハズレと当たりの彼岸」へと再び到達する道を示したことだ。僕達の冒険は正解だけで舗装された道を歩むものじゃない。向かった先に何もないこともあるからこそのロマンなのだと。(終)

 

 

 

*1:新生トゥームレイダーオープンワールドと呼んでいいかは議論のあるところだろう。本稿では議論の主体がそこではないので、ここでは仮にそうみなす

*2:これら収集アイテムのアイコンは、そのアイテムが取得されるとマップ上から消える。しかし『ゼルダの伝説BotW』では全く逆で、収集アイテムを発見するとマップ上にそのアイコンが現れる。この表現のベクトルの違いは象徴的な違いと言えるかもしれない。

*3:『ライズオブトゥームレイダー』は他の3作品に比べて収集アイテムの場所を示したマップを獲得するために、多少歯応えのある探索が必要だ。ただしそのマップを入手した後、収集アイテムの収集自体は他の3作品と同様作業感が強い

*4:特にコログの実についてはそう言える。一方、試練の祠は上記2つの複合策とも言える。センサーが範囲内での正解の存在を指し示すからだ。またシーカータワーからの祠のマッピングは「100%当たりのアイコン」を「自分で作る」という点が特徴的と言えるかもしれない

*5:また一方で膨大な物量は「諦め」も程よく与えてくれる。例えば、コログ図鑑を用意しなかったり、コログの実が900個の半分以下でポーチ拡張が最大化できるのは、この膨大な収集要素を適度なところで切り上げて諦めを促すために必要な配慮だっただろう。おそらく数百個以上のコログの実を集めた頃には、「ハズレ」のストレスはかなり高まり、「当たり」への期待を十分に維持できないレベルにまでなっていることも想定される。膨大な物量はそうしたところに行きつく前に他に興味が向くための緩衝として機能しているのではないだろうか。一方で図鑑写真というこれまた中々ボリュームがあるのに、コンプリート目標が明確な収集要素も用意されている。目的物がどこにいるかは近くに行くまで分からないというのも、正解地点を明確にしないという点で筋が通っている。しかも撮り逃しや面倒さへの救済策まで備えている。抜け目がない

*6:そんな当たりかハズレか分からないものに、プレイヤーはまさにスタンプを置きたくなる

*7:例えば、探索対象のアイテムの価値を高めるというのも一つの解決策に見えるが、そういうアイテムのゲーム内価値が高ければ高いほど、自由にさせることはゲーム側がプレイヤーの体験をコントロールしにくくなるというリスクを生じさせる

【レビュー】No Man's Sky(ノーマンズスカイ)~あらゆるスピードを超えた先にあるもの~

「ゲームらしさ」とは一体何なのだろうか。ゲームをするというのは、何かを競い合ったり、課題に頭をひねったり、世界を救ったりすることだけではないはずだ。ただ単にプレイをする。ただコントローラーを操作させるだけでもいいじゃないか。

ノーマンズスカイは、「ゲームらしさ」という足枷に囚われることなく、堂々と自身をゲームとして成立させた意欲的な傑作である。

 

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なぜオープンワールドには乗り物が登場するのか

ノーマンズスカイにも(いわゆる)ゲームらしさはある。宇宙海賊と戦ったり、謎のドローンと銃撃戦をしたり、物資の売買で手持ちの資金を増やしたり、探索したアイテムを合成して装備を充実させたり。これらは既存のゲームの枠組みで理解できる楽しさだ。しかし、こういうゲームらしさはむしろ前菜に過ぎない。メインディッシュは、1800京という途方もない数の惑星が存在する、この広大な空間自体にある。

 

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↑2m近い大きな歩行ロボットとの戦闘も用意されている。しかしこれもデザートにすぎない

 

ノーマンズスカイの世界は広大なオープンワールドである。それはこれまでのゲームの歴史上、最も広い3次元空間を持ち、探索しつくすことが不可能な広がりを誇る。そんな極端に肥大したオープンワールドは、オープンワールドにまつわるある一つの疑問に回答を与える。「なぜオープンワールドゲームでは乗り物に乗るのだろう?」

オープンワールドでは、単に移動するのに面倒だから自動車や馬に乗ったりするのでない。そうではなくて、オープンワールドという仕組み自体が乗り物を要請するのである。それはオープンワールドが「異なる速度の系」を要請しているということではないかと、筆者は考える。

別のゲームで考えよう。スーパーマリオブラザーズのような横スクロールアクションでは、時折、強制スクロール面が存在する。そうした面では通常とは異なる速度でゲームが進む(たいていは通常面より速くなる)。こうした速度感の違いがゲームプレイのバリエーションを豊かにし、プレイヤーに普段とは違った楽しみ方を与える。たとえ同じようなステージ構成でも、強制スクロールの場合とそうでない場合とでは、プレイの印象は大きく変わるだろう。

しかし、オープンワールドゲームでは、そうした異なる速度のステージを簡単に導入することはできない。なぜなら世界はたった1つのステージとして存在しており、全くスピード感の異なる別のステージを単純に導入することができないからだ。

そこで、オープンワールドには乗り物が登場するのである。その乗り物は移動を簡便にしてくれるだけの道具ではない。それは同じ1つのステージ(世界)でありながら、異なる速度系へとスムーズに移行させる1つのシステムとして採用されるのである。

そして、ノーマンズスカイは「速度の異なる複数の系の導入」を何重にも推し進めたゲームなのだ。

ノーマンズスカイにおいて、基本的にどの宇宙船であっても、性能は変わらない。遅い宇宙船や速い宇宙船があるわけではない。しかし、その宇宙船の速度は操作によって大きく変わる。その変化は、単純に量的な変化だけではない。むしろ、質的な違いをプレイヤーに感じさせる。

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↑質的な体験の違いとしての超スピード

 

まず最初、惑星上で立っている時、主人公は徒歩で移動する。多少のダッシュはできるが、決して速くはない。しかし、ひとたび宇宙船に乗ると、先ほど徒歩で何分も掛かった距離がものの数秒で移動できる。宇宙船のエンジンは秒速130m程度のスピードで飛行する*1。そして、惑星の大気圏を突破すると途端に速度は数倍にまではね上がり、4~500m/sのスピードで飛ぶようになる。更に完全に宇宙空間に飛び出し、重力圏から外れると、またその数倍の1,500m/sぐらいにまでスピードが上がる。通常のエンジンでのスピードアップはそこまでだが、その後は、パルスエンジンという特殊なエンジンを始動させる。すると、10,000m/s超のスピードに一気に加速することができる。これは惑星間を数分で移動できるスピードだ。しかしそこで速度変化の流れは終わらない。更にワープ航法のシステムを開発することで、50光年というこれまでとは比べものにならない単位の距離を1分足らずで跳躍できるようになる。しかもその更に上のスピードまで用意されており、その方法だと、80,000光年に近い距離を一気に飛んでいくことが可能になる。

 

この5段階、6段階に用意された「速度の異なる複数の系」には、単にそれを行き来するだけで得られる快感がある。それはオープンワールドで初めて車に乗って長距離を移動した時の快感と同様のものであるが、ノーマンズスカイはその跳躍する快感を何段階にも重ね多層的に用意しているのだ。

 

もう一つの象徴的な速度『ゼロ』

しかし、ノーマンズスカイにもうひとつ、重要な速度がある。本作の魅力の根底には、このもうひとつの速度の世界があると筆者は考える。

ノーマンズスカイを開発したHello Gamesのショーン・マーレイ氏は次のようなことを言っている。「わたしがノーマンズスカイで最も気に入っているもの。それは宇宙ステーションの窓だ」と。この発言を受けて海外ゲームサイト「Kill Screen」のギャレス・ダミアン・マーチン(Gareth Damian Martin)はその理由について次のように書いている。

「これほど広大で無人の空虚さの中で、(宇宙ステーションの窓という)フレームには、制限や抑制や特定の方向性がある。このフレームによるシンプルな気持ちよさをプレイヤーは再確認できるからだ。」

なるほど、これはひとつの解釈である。気が遠くなるほどの自由を与えるノーマンズスカイ。しかし人は自由すぎると、逆に疲れてしまう。そんな時に、宇宙ステーションの窓ほど、人を安心させるものはない。それはしっかりと固定され、たった一つの方向の景色しか見ること事ができない。その制限にこそ人は安らぎを感じるのだと。

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↑宇宙ステーションの窓。その静けさには妙な安心感がある。

 

しかし、この宇宙ステーションの窓がもたらす安心感というのは、先ほどの「速度の異なる複数の系」という観点から考えることで、更にもうひとつの解釈をすることができる。それはつまり「速度ゼロ」というもうひとつの系がある、ということである。

 

僕らが仕事でもゲームでも、なんらかの活動をする時には、必ずある一定の速度を持っている。ノーマンズスカイでも同じである。採掘をする時、採掘した資源を売り払うため宇宙ステーションに向かう時、欲しい資源を採掘するために洞窟の中を探検に行く時。全てに速度がある。そして、普段、その速度は常に速くなる方向に進むことを「良し」としている。しかし、ノーマンズスカイは、時にその速度を減速させる*2。あまつさえ、0(ゼロ)にしようとする。自動生成で生み出される奇妙な動物たち。見るものを圧倒する壮大な地形。気色の悪いグロテスクな植物群。こうした風景により、プレイヤーは仕事をしていたはずの手を止めて、その風景に見入ってしまう。

ノーマンズスカイの風景は決して、新奇性によって人を惹きつけているわけではない。ある種の「懐かしいSF的風景」をノーマンズスカイは表現する。

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↑1970年代、SF小説の挿絵を描くJohn Harrisの世界観は本作に近い

 

それは、単に初めて見る風景ではない。どこかで見たことがあるような景色でありながら、どこにもなかったはずの風景である。そんなものを何の前置きもなく、フッと目の前に提示してくる。その時、人は減速し、思わず立ち止まってしまうのだ。ノーマンズスカイは旅である。しかし決して綿密に計画された観光旅行ではない。事前に、これを観に行こう、あれを観に行こうと思って見るのではなく、何の前触れもなく、見つめてしまう風景が突然そこにあることに気がつく。

 

自動生成による個々の風景に何か特別の意味があるわけではない。たまたまそう作られたに過ぎない。その偶然性にノスタルジーの風味をまぶす。すると、不思議なことに、人はそれを見て、懐かしさや味わいや深みを勝手に見出してしまう。そして、人は作業の手を止めるのだ。その瞬間、人はあらゆるスピードを越えた想像力の旅に出る。誰かが事細かに意匠を施して作っているわけではない風景。しかし、その無意味さこそに、人は崇高さを見てとる。ノーマンズスカイの絵には、それだけの力がある。速度ゼロの世界から想像力の旅が始まる。

ゲームとして、自由で単調なノーマンズスカイにはルーチーンワーク的な息苦しさがある。しかし、ノーマンズスカイ自らが、そんなルーチーンワークの手を止める風景を与え、そんな息苦しさから、いっとき、プレイヤーを解放するのだ。

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↑崩れかけた遺跡と巨大な惑星。思わず手を止めて見入ってしまう。

 

加速と減速の連環

「速度の異なる複数の系」というノーマンズスカイの仕掛けの中で、プレイヤーはついつい異なる速度の系を行ったり来たりしてしまう。これはプレイヤーにプレイを続けさせてしまう魅力を持っているということでもある。本作は普段遊ぶゲームと同じ尺度から考えれば、極めて単調であるかもしれない。しかし、この加速と減速の絶妙な連環により人を魅了する。それは単に速さを増していくことだけに意識が向いているのではない。速度を失うことにも価値付けがされているのだ。ゲームとして、ノーマンズスカイは見事なシステムを持っていると筆者が思うところである。

 

幸か不幸か、ノーマンズスカイに選ばれてしまったプレイヤーは思わずこう呟くのだ。「なんで俺はこんな単調なゲームを何時間も遊んでしまうのだ」と。そんな選ばれしプレイヤーにこそ、是非一度、宇宙ステーションの窓の前で立ち止まって欲しい。そこには何の変化もない、あまりにも静謐な景色が広がっている。ひとつかふたつの惑星が浮かび、無数の星たちが瞬く。その無意味さと、無音の宇宙ステーション。隣にはタブレットをいじる生意気な機械生命体の異星人が、全くこちらに興味を示すことなく椅子に座っている。そこに特別の意味はない。ただ、プレイヤーはスピードゼロからスピード無限大の狭間を行きつ戻りつする快感に何度も身を委ねるのだ。

 

救うべき世界はそこにはない。宇宙ステーションの窓から見える景色の、切なくなるほどの孤独感は、ノーマンズスカイが与える多層的なスピード体験の極北として、佇むようにしてそこにある。あらゆるスピードを超えるゼロに到達し、再び無限に加速していくために。

 

*1:実際に、ゲーム内ではメートルの単位は出てこない。速度はks、距離はuという単位で表現される。ここでは数字をイメージしやすいようにメートルに変えているが、決して正確に変換させたものではないので、ご了承いただきたい

*2:本文ではあまり言及できなかったが、大気圏突入から地表に近づくときに掛かる制動の減速もまた大変に快感である

自分的ゲームオブザイヤー2015 ~膨大なクエストは何のためにあるのか?~

ノミネート作品

・ブラッドボーン(Bloodborne)
・ウィッチャー3 ワイルドハント(Witcher 3 : Wild Hunt)
・カオスチャイルド(Chaos child)
・フォールアウト4(Fallout 4)

上記に挙げた4本はいずれ劣らぬ名作。今年はこのように優れた作品を4本も挙げることができたのは奇跡である。そしてここには挙げていないが、他にも素晴らしい作品が多数あった。2015年という年はコンソールゲーマーにとって豊作の年だった。これは間違いないだろう。

それでは自分にとって今年最高の一本を早速選びたい。それは……

 

自分的Game of the Year 2015

『ブラッドボーン(Bloodborne)』

 

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 今年最高の1本にはブラッドボーンを挙げたい。この作品自体のすばらしさ・おもしろさについては様々な人が書いていると思うので、ここでは他の作品に比べて、なぜこの作品なのかという点に絞って述べたい。結論だけを述べれば、本作はプレイが開始するスタート地点から、最後クリアされる地点までの間、そのトータルにおいて、極めて美しく物語の展開がデザインされていると感じられるからだ。そこには一つ、ゲームならではの妙手があると筆者は考える。

■FO4やウィッチャー3の持つ課題

ウィッチャー3もフォールアウト4も素晴らしい作品であることは間違いない。特にウィッチャー3は、オープンワールドRPGの現時点における究極点であると思う。そのくらい素晴らしい。この両作品のプレイを支えているのは、膨大なコンテンツ(クエスト)である。いつまで経っても終わらないとも思えるそんな膨大なコンテンツを背景に、人の興味や関心を長く引き続ける。そのような作品を作るためには気の遠くなるような労力やコストが掛けられているにちがいない。その点は素直に感心するしかない。しかしこの消化できないほどのコンテンツをこれでもかと供給しつづけるスタイルには、若干の空しさも感じるのだ。個々の作品の中身と共にその点を見てみよう。

ウィッチャー3。この作品が名作になり得た大きな理由としていくつかの素晴らしいエピソードがあることは確かだろう。例えば、血まみれ男爵に関するクエストだ。非常に粗暴で横暴な領主の男爵フィリップ。しかし彼は妻や子どもが自分の元を去ってしまったことに人間的な良心の呵責を感じている。そんな彼が人であることを取り戻すこのエピソードは、常に迫害に遭い続けている主人公ゲラルトの心とも共鳴する。

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↑血まみれ男爵のフィリップ。粗野で勝手で乱暴な男だが、その人生は切ない。

 

フォールアウト4。本作ではニック・バレンタインという人造人間の私立探偵のエピソードが秀逸だ。彼はロボットのくせにハードボイルドを気取り、人間以上に人間らしく振る舞う。義理や人情を重んじるし、友情を尊ぶ。この世界には人間と見分けが付かないほどの人造人間が多く存在する。このニックというキャラクターが素晴らしいのは、初期型ロボットであるため、明らかにロボットだと分かる風貌をしていることだ。人間らしさとは何かという問いをこのキャラクターはとても分かりやすく私たちに提示する。

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↑ニック・バレンタイン。ハードボイルドに生きる人造人間。とても人間くさい。

 

上記の通り、これらの名作には明らかに良くできたエピソードやキャラクターが必ずちりばめられている。そしておそらく作り手はそのことをちゃんと分かっている。そうした素晴らしいエピソードが、できる限り多くの人に味わえるように設計されている。そしてなにより、こうした名エピソードが一つもない作品であったら、これらは決して名作たりえなかっただろう。だからこそ逆に筆者としてはその他の膨大すぎるクエストの存在が皮肉に思えてしまうのだ。大量に配置された数々のクエスト。こうしたクエストは何のために存在しているのだろうかと。おそらくRPGとして(ロールプレイングゲームとして)、世界観の構築やキャラクターの魅力を伝えるため必要な要素として、いくつかのクエストは用意されている。しかし、それでも他の多くのクエストやストーリーは私たちにとって目眩ましでしかないのではないか。プレイされることをデザインするのではなく、ただそこに膨大に存在していること自体に意味がある。そんな目的でクエストが存在しているのではないか。ただそこにあるだけがそのクエストの最大限の役割となっている、そんなクエストをわざわざプレイしてしまうプレイヤーとは一体何をプレイしているのか。ウィッチャーやフォールアウトという作品が持つ空しさは、今後も継続していくゲームの物語における大きな課題ではないかと思っている。その課題は端的に言えば、膨大なコンテンツ群と物語の全体設計の間に、いか調和をもたらすか、ということだ。*1

■物語の「おあずけ」という妙手

翻って、ブラッドボーンが素晴らしいのは、最初から最後まで設計し尽くされ、ほとんどムダと言えるような部分が存在しない点にある。松明を持ち魔女狩り(獣狩り)に狂うような民衆への恐怖から、暴力の体現である巨大な獣との戦闘。不可思議で気色の悪い魔物との激闘から、一転して美しく狂気を孕んだ風景や建物との邂逅。そしてコズミックホラーへの突然の転調。精神的前作であるデモンズソウルやダークソウルという名作が、ゲーム業界にはびこる難易度低下へのアンチテーゼとして作られたように、再びブラッドボーンはひとつの偉大なアンチテーゼを示した。膨大なコンテンツで目眩ましをするのではなく、絞られ限られたゲーム内世界を最大にまで作り込んでプレイヤーを満足させる。確かに幹となる物語は存在しているはずなのに、それを決して掴ませない。多くのプレイヤーはブラッドボーンをクリアした瞬間、満腹感と飢餓感を同時に感じたはずだ。そんなプレイヤーに何も注意メッセージすら出さずにブラッドボーンは『二周目』を提示する。ファミコン時代のようなそっけなさ。プレイヤーには何も解答を与えない。それでもプレイを続行させる。そう、ブラッドボーンは、物語の「おあずけ」をデザインしている。

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↑本作一番の隠し要素カインハースト城。クリアしても物語的にそれほど理解は進まない

 

例えば、ほとんどの初見プレイヤーは見逃してしまうような隠し要素がある。しかしそんな隠し要素を二周目であらためてクリアしてみても、物語的にはほとんど目新しい情報を得られるわけではない。プレイヤーには、ただただ、ざらついた感情だけを跡に残す。そんな乱暴なことができるのは、これがゲームであるからだろう。私自身が狩人としてその世界に身を置いて、短くない時間を過ごしてしまったからだ。プレイヤーによる意味(物語)の生成。だからこそ物語を与えられることからも自由になれる。物語という麻薬。それを単に与えるのではなく、プレイヤー自身に生成させるための要素だけはふんだんにふり撒いておく。プレイだけに特化したアブストラクトなゲームではない。ブラッドボーンはそこにご褒美があるように装いつつ、永遠に「おあずけ」をしつづける。それはブラッドボーンの一つの巧みさだろう。*2物量により永遠にクエストを与え続けるゲームとどちらが素晴らしいのか。それは難しいところだが、筆者としては作品としてムダの少ないブラッドボーンに軍配を上げたい。そこには(ニクらしいことだが)プレイヤーと作られたゲーム自体への信頼がある。『プレイヤーは、ストーリーやクエストという目に見えるニンジンを眼前にぶら下げられた馬ではないのだ』という信頼が。ブラッドボーンはボリュームのあるゲームではない。しかし高い満足感を与えてくれる理由があるとしたら、そんな信頼感がプレイヤーに伝わっている点も1つの要因かもしれない。*3

さて、4作挙げた中でほとんど言及していないカオスチャイルド。本作は美少女ゲームであり、萌え的な要素を多分に含んだゲームだ。そしてこれまで書いてきた個々のエピソードと全体の調和という点においては決してブラッドボーンに劣るものではないだろう。しかしここでブラッドボーンにGoTYの座を譲るのは、何もこのジャンルの趣味性ゆえではない。やはりノベルゲームはこうした全体の調和を非常に取りやすい構造であるからだ。本や映画に近く、作者の想定どおりにプレイをデザインできる。この点においてゲーム的な行為の選択を与えてくれるブラッドボーンに大賞の座を与えたいと考える。なお、カオスチャイルドについてはこちらの記事で大いに語ったので、プレイされた方は是非読んでいただければと思う。今年最も応援したゲームである。*4

 

わたしにとって新しいゲームをプレイする意味は、何か新しいもの、これまでと違うものを見るためであるという部分が大きい。もちろんそうでない人も多いだろう。また何をもって「新しい」というのかも人によって異なるだろう。いずれにしろ、来年も筆者にとって何か「新しさ」に出会える年であることを願いたい。

 

 

*1:FO4のクラフト要素はストーリーテリングの手法として非常に面白いと思っている。この拠点クラフトによって、プレイヤーは単に拠点を作る快感を得るのではなく、物語の一部に参加する楽しさを得る。ただ荒削りだ。

*2:ダークソウルやデモンズソウルにもこうしたおあずけ的な仕掛けはあった。しかしブラッドボーンでは以下の2点によりその方向性・デザインの意図が明確ではないかと思っている。1つは、クトゥルフ神話という既存のモチーフへの明確な参照。これは何かある、と思わせることに一役買っている。完全オリジナルな世界だけではなく、広がりを感じさせる。2つ目はオープンワールドへの拘りのなさ。ダークソウルでこだわった1つの世界というモチーフは、デモンズソウル的な拠点システムへと回帰している。広くて大きな世界(物量的価値)からの決別を意味するのではないか。

*3:トロフィーの解除率を見ると、ラスボスと戦わないで、この悪夢から抜け出るというルートが最も解除率が低い。このことは非常に象徴的だ

*4:実際は昨年、XBOX ONEでリリースされたのだが、筆者は今年になってようやくプレイした。