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『ゼルダの伝説 BotW』の探索はなぜワクワクするのか。新作ゼルダに宿る『ハズレの美学』

元記事と同じ内容ですが、素晴らしい編集をいただいた記事が週末批評に掲載されています。元記事よりもずっと読みやすく面白いものになっているので、ぜひ以下のリンクからそちらをお読みください。

探索せずにはいられない!──『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』に宿る「ハズレの美学」 | 週末批評

------------元記事は以下より----------

ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド』(2017)は稀代の傑作である。それゆえ『ゼルダの伝説BotW』を褒める記事は既にたくさん存在する。だから、もうこれ以上何を言うのかという思いがないではない。しかし咲き乱れる賞賛の中に、もう1つぐらいささやかな記事が加わっても罰は当たらないだろう。そんな思いで書いてみた。本記事では、『ゼルダの伝説BotW』の持つ数ある美しさの中から、ある1つの美点を取り出して述べてみたい。それを筆者は「ハズレの美学」と呼びたいと思っている。


ハズレとの出会い

筆者は『ゼルダの伝説BotW』をWiiU版で70時間、Switch版で60時間ほどプレイしている。2周目となったSwitch版ではまだクリアはしていないが、四神獣を解放し、試練の祠は100余りクリアしている。1周目の時は、楽しくて楽しくて前のめりでプレイしていたためか、細かい部分で感じた様々な面白さをちゃんと覚えていない。2周目になって何度も「すごいな、これ」と改めて冷静に感心している。そして2周目のある時、「あっ」と思ったことがあった。

それは多くの人が最初に到達するカカリコ村でのこと。村に最も近い祠から見えるある「でっぱり」に登った時のことだった。

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↑右側に見えるでっぱり。崖に突如としてあるこのでっぱりは何か特別なものに見えた。

 

この「でっぱり」。自然の造形物としては不自然ながら、人工物というにはあまりに素っ気ない。あえて言うならゲーム的なでっぱりであった。確実にあそこには何かあるなと思った(「コログの実」という収集アイテムが隠れていると思った)。本作をプレイしたことがある人なら、このゲームは正にそういう「思いつき」の連続であることを知っているだろう。少なくとも私はその時そう思った。そしてそのでっぱりに登ってみたのだ。

しかし、そこには何もなかった。予想していた収集アイテムも何もなかった。発見できるようなものは何もなかったのだ。こういう場合、爆弾などで刺激を与えてみると、何かが起きるのが『ゼルダの伝説 BotW』の定番である。しかし、何度もジャンプしてみたり、爆弾を爆発させたりと色々試してみたが、特に何も起きない。そして思ったのだ。「ああ、ここはハズレなのか」と。その瞬間に、私がなぜこのゲームの、特に「探索」がこんなにも楽しいのか、その一端を垣間見た気がしたのだ。

同じようなことは別の場所でもあった。それは高地の雪嵐吹きすさぶある山頂に到達したときのことだ。「ここにはきっと何かあるだろう」と思い、視界の悪い中、苦労して登頂したその先、そこには特に何もなかった。この山頂はハズレであった。

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↑ウォルナー山。単に寒いだけの山だった。

 

また別の山でも同じようなことがあった。山頂がきれいに割れているいかにも怪しげな山があった。そこにも何かあるだろうと思って登ってみた。しかしここでも特に何か発見があるということはなかった。

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↑山頂がきれいに割れている怪しげなクーホ山。とはいえ山頂に特に何かあるわけではない。

 

実は意外に多くのプレイヤーはこうした体験を『ゼルダの伝説BotW』でしているのではないだろうか。「何かあるとおもったけど特に何もなかった」という体験は本作で何度か味わうことになる。そしてこのハズレの体験こそが本作のデザインの1つの美しさであり、ハズレこそがプレイヤーの探索の期待をコントロールしているのではないかと思ったのだ。

他のオープンワールドにおける探索要素

いくつかここに比較的広いマップを歩き回りアイテムを収集するような要素があるゲームのマップ画面を見てみよう。注目してほしいのは、マップ上に配置されるアイコンの数である。

1つ目は『アサシンクリード ジンジケート』(2015)。19世紀のロンドンに暗殺者となって暗躍するステルスアクションだ。シリーズの持ち味である高い所にも自由に登ることができるフリーランは『ゼルダの伝説BotW』の壁のぼりを髣髴とさせるが、スタミナ切れなどは特にないため遊びの質としてはかなり趣が異なっている。
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↑左側「収集アイテム」の分母がこのエリアでの収集アイテムの総数。実際集めようとすると結構数がある。

 

2つ目は『Far Cry 4』(2014)。先の「アサクリ」もそうだが、この作品も『ゼルダの伝説BotW』との共通点が多いゲームとして、よく名前の挙がるシリーズの作品だ。先進的な文明から隔離され、部族的習慣が息づく土地を舞台に生き延びる一人称視点のサバイバルアクションである。

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↑これを拡大すると更に多くの宝箱のアイコンなどが表示される。

 

3つ目は『Rise of Tomb Raider』(2015)。PS時代に人気を博し、映画化もされた人気シリーズの最新作だ。女性冒険家を主人公に据えたアクションアドベンチャーであり、前作で過去作から刷新されオープンワールド化した*1

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↑1つ1つのエリアは狭いながら、画面左のリストにある通り、収集物は種類・数ともに豊富である。


4つ目は『ホライゾン ゼロ ドーン』(2017)。たまたま『ゼルダの伝説BotW』と同時期に出た、これまた中々の名作である。文明が壊滅した遠い未来の世界を舞台にした本作は、美しい環境のビジュアル、多彩な機械獣との戦闘、SF的設定の物語が魅力の作品である。

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↑マップ上には数多くのアイコンがひしめき合っている。


いかがだろうか。『ゼルダの伝説 BotW』の発売した2017年より少し前に出た、それなりに評価の高い各オープンワールドゲームのマップには、実に多くのアイコンが配置されていることが分かる。『ゼルダの伝説BotW』以外の多くのゲームでも、マップに満遍なく収集アイテムやミッションポイントや拠点が配置されているのだ。*2

しかしあえて断言するが、上記四作品に『ゼルダの伝説BotW』ほどの探索の魅力はない。だからダメなゲームだと言いたいわけではない。ただ、『ゼルダの伝説BotW』に備わっている「この先に何が待っているのか、行って探索してみたい」という探索のワクワクがこれらの作品にない事は確かなのだ。

「当たりの保証」によって失われたもの

なぜこれらの作品には豊富に目標物が配備されているのに、『ゼルダの伝説BotW』ほど探索のワクワクがないのだろう。上記四作品と『ゼルダの伝説BotW』との違いは何か。私はその理由の1つが「全てが『当たり』である」ということではないかと考えている。上記作品群のマップのアイコンにはハズレがないのだ。「そこに収集アイテムがありますよ」というヒントアイコンはほぼ100%正しく、行けば必ず何かがあった*3

振り返るに、これまでのオープンワールドでは、マップ上に記されるヒントはほとんど全て「当たり」を意味していたように思う。先ほど例を挙げていない「スカイリム」や「GTA5」などもマップ上に何かのアイコンが出たら、それはほぼ必ず「当たり(=目的地)」を示している。そこに行けば何かが始まり、そこに行けば何かが見つかる。すると、プレイヤーがすることはその「当たり」に向かっていくことだけ。いや、もちろんこの要素に全く「探索」らしさがないとは言わない。いくつかのゲームはそこで「ルート探索」的な遊びを提示する。ゴールは分かっても、どうしたらそのゴールに到達できるのかを探す、そんな遊びを提示するわけだ。しかし、そうした遊びも全て「100%当たり」という保証があっての遊びに過ぎない。下手をすれば、それはすぐさま「作業」へと変貌してしまう。つまり「当たりの保証」が「探索のワクワク」を押し下げているのだ。

とはいえ、こうした収集要素が退屈な作業となることへの懸念に、これまでの作品が全く無頓着であったわけではない。上記に挙げた各作品でもその問題はちゃんと意識はされ対策が試みられている。よく見られる対策は次の2つのパターンだろう。1つはヒントアイコンが「広範囲のだいたいこの辺」を示すことで、目的物の場所を少し曖昧にするという方法だ。

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↑「範囲」で示された収集物のアイコン。画像は『ホライゾンゼロドーン』のもの。

 

プレイヤーに探索する余地を残すことで、プレイヤーは「狭い範囲でのゴールポイント」を探索することになる。もう1つは、そもそも「当たり」のアイコンを表示しない方法だ。この方法の場合、NPCの話や事前に入手したドキュメントなどから、自発的にどの場所に行けばいいかを探ったりする。

1つ目の解決策のように範囲としてどれだけぼやかしても、アイコンが「当たりを保証」していることに変わりはない。そういう意味で『ゼルダの伝説BotW』は、その正解を置かないという2つ目の方法を大きく採用していると言える*4。しかし、単に「当たり」アイコンを置かないというのではない。地図には地名と等高線を描いた。そして探索という行為を「地図を読む」「地形を読む」ことへと昇華させた。その上で『ゼルダの伝説BotW』はもうワンクッションを置いたのだ。それが「ハズレ」の存在である。『ゼルダの伝説BotW』の地名や等高線はすぐさま「当たり」を示すとは限らない。本作は常に褒めてくれる都合がいいだけの存在ではないのだ。そこに実際に行ってみたとしても、必ず何かがあるわけではない。どんなに高い頂や怪しげな丘に登っても、それは「単なるハズレ」かもしれないのだ。

 

ゼルダの伝説BotW』を賞賛する時、人々はこう語った。「どこに行っても、ちゃんと何かがある。だからついつい探索してしまうんだ」と。これは全くその通りだ。だが、その裏の顔があるのではないか。つまり「どこかに行ってみても、そこに必ず何かがあるとは限らない」。「何かがある」だけがプレイヤーの期待をコントロールするのではない。「何かがない」こともまた影で期待をコントロールしている。だからこそ、「俺が」「私が」「僕が」見つけたという感覚を得ることができる。

しかし、こうしたハズレがただ用意されているだけではない。筆者は以下の2つのハズレのデザインがこのハズレの美学を支えていると考える。

物量による期待の底上げ

ハズレを引くのは確かに残念だ。しかし、その残念さはちゃんと緩和されるようになっている。それは『ゼルダの伝説BotW』のご褒美の膨大な物量によってである。試練の祠が120個にコログの実は900個。宝箱に至っては一体どれだけあるのか分からないほどに存在する。たとえハズレを引いてしまっても「でも次は何かあるかもしれない」と思えるだけの物量がある。「ハズレだった」→「でも次は何かあるかも」→「そして事実ある」というこのハズレと当たりの連鎖は、ハズレの残念さを緩和するだけではない。この緩急によって、期待は常に高い水準を保つ。

先に挙げた四作品は、いずれもそれなりの物量のご褒美を用意していた。しかしそれが『ゼルダの伝説BotW』ほど探索のワクワクに寄与しないのは、ヒントアイコンが「100%の当たり」を示すことで、逆に「100%のハズレ」の場所さえも明確にしてしまったからだ。一方『ゼルダの伝説BotW』は、当たりとハズレの区別を不明瞭にした。そのことにより、プレイヤーの想像力の中で勝手に「当たりらしきもの」が大きく膨らんでいく。想像力によって膨らんだその物量イメージを最大限に活かしつつ、「ハズレと当たりの反復」によってプレイヤーの期待をマップ全体に瀰漫させている。*5

ハズレの二重底

「ハズレの美学」を支えるもう一つの仕組み、それはハズレの中には、二重底になっているものがあるという点だ。最初見た時には「ハズレかな」と思うものの中には、後々になって実は「当たり」だったと分かるものがある。特に「コログの実」という収集要素において顕著だ。やるべきアクションが分からず最初はハズレと思いスルーしてしまう、そんなパターンがある。

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上の写真に見える何か意味ありげに並ぶ3本の木。これなどは、地図上や見た目にはいかにも怪しいにも関わらず、最初は意味が分からずスルーしてしまった人も多いと思う。しかし、どこかでふと「当たり」に気が付く。〇〇すれば「ハズレ」が「当たり」に生まれ変わるんだと気が付く。

プレイヤーにとって「ハズレ100%」を少しだけ曖昧にする。それがハズレの二重底だ。「もしかしたらあの時のハズレはハズレではなかったかも」と疑い始めると、これまで過去に体験してきたあらゆるハズレへの見方が変化してくる。それだけではない。まだ出会っていない未来のハズレもまた、本当にハズレだと断定できるのか次からは確信が持てなくなる*6。これは長期間に渡って、当たりへの期待を高止まりさせる秘かな心理的要因となるのではないだろうか。

ハズレと当たりの彼岸

ゼルダの伝説BotW』のハズレの美学とは何か。それは「当たりとハズレの境界を曖昧にすること」だ。今向かっている高い丘の上には何があるのか。それは物量という期待によりおそらく「当たり」と想定されるのだが、しかし100%の確信はない。しかもそれが「ハズレ」だと分かった後も、どこまで「ハズレ」として確信を持てばいいのかはよく分からない。事実「ハズレ」だったとしても、次には「当たり」に出会えるという予感がなんとなくある。こういう「当たりとハズレの境界を曖昧にすること」は、オープンワールドというスタイルのゲームの原初的な感動に通底してしていると私は考える。

初めて「GTA3」やそのシリーズをやった時に何に感動したか。その1つは「路地裏の存在」であった。ビルの谷間にあるゴミ収集ボックスの存在。積み挙げられたベニヤ板やタイヤ、ビニールシートを被った資材。そういうゲームとして意味が有るのか無いのかよく分からない存在に、街全体としての息遣いを感じた。意味もなくブラブラと歩くことに何か街を探検しているような気分があった。そこでは当たりもハズレもなかった。

時代は進み、オープンワールドは進化した。そして大量の明示的なご褒美が用意されるようになった。確かにその方が嬉しい。何もない路地裏を探検しても、それが自己満足に過ぎないなら、いつかは飽きてしまうかもしれない。路地裏の探検に意義を見出せない人もいるだろう。だからもっとより楽しみ易くするために、様々な場所に宝箱やアクティビティが仕込まれた。しかしご褒美を用意すると、今度はそれを取りっぱぐれるストレスや、それらを1つ1つ探索することへの面倒さが問題になった。だから地図を用意した。宝の地図だ。あらゆる宝の場所を記した地図は、収集癖を十分に満たすものだった。

しかしプレイヤーは底なしに貪欲だった。どこに何があるか分かっている些細な宝物を、どうして取りに行かなくてはならないのか?と問い始めたのだ。これは難しい問題だ。自由を売りにするオープンワールドと、どこに行けばよいか分かっている不自由な収集要素という「矛盾」にどのように折り合いを付ければいいのか。これはオープンワールドという構造が長い時間を掛けてより面白くするために自ら積み上げてしまったことに対する逆説的な課題であったように思う*7

 

だからこそ『ゼルダの伝説BotW』がもたらした解答は進化を続けるオープンワールドという枠組みの中で、王道でありつつも極めて華麗に見える。サブでしかなかった探索要素にもう一度輝かしい光をあてた。他のゲームが探索要素を遠慮がちにメインディッシュの隣に盛り付ける中、『ゼルダの伝説BotW』は堂々とお皿の中央に盛り付けてきた。探索要素をメインディッシュとして恥ずかしくない豪勢さに仕立て上げて勝負してきたのだ。

 

ゼルダの伝説BotW』の解答。それは「ハズレと当たりの境界を曖昧にする」ことであり、「ハズレと当たりの彼岸」へと再び到達する道を示したことだ。僕達の冒険は正解だけで舗装された道を歩むものじゃない。向かった先に何もないこともあるからこそのロマンなのだと。(終)

 

 

 

*1:新生トゥームレイダーオープンワールドと呼んでいいかは議論のあるところだろう。本稿では議論の主体がそこではないので、ここでは仮にそうみなす

*2:これら収集アイテムのアイコンは、そのアイテムが取得されるとマップ上から消える。しかし『ゼルダの伝説BotW』では全く逆で、収集アイテムを発見するとマップ上にそのアイコンが現れる。この表現のベクトルの違いは象徴的な違いと言えるかもしれない。

*3:『ライズオブトゥームレイダー』は他の3作品に比べて収集アイテムの場所を示したマップを獲得するために、多少歯応えのある探索が必要だ。ただしそのマップを入手した後、収集アイテムの収集自体は他の3作品と同様作業感が強い

*4:特にコログの実についてはそう言える。一方、試練の祠は上記2つの複合策とも言える。センサーが範囲内での正解の存在を指し示すからだ。またシーカータワーからの祠のマッピングは「100%当たりのアイコン」を「自分で作る」という点が特徴的と言えるかもしれない

*5:また一方で膨大な物量は「諦め」も程よく与えてくれる。例えば、コログ図鑑を用意しなかったり、コログの実が900個の半分以下でポーチ拡張が最大化できるのは、この膨大な収集要素を適度なところで切り上げて諦めを促すために必要な配慮だっただろう。おそらく数百個以上のコログの実を集めた頃には、「ハズレ」のストレスはかなり高まり、「当たり」への期待を十分に維持できないレベルにまでなっていることも想定される。膨大な物量はそうしたところに行きつく前に他に興味が向くための緩衝として機能しているのではないだろうか。一方で図鑑写真というこれまた中々ボリュームがあるのに、コンプリート目標が明確な収集要素も用意されている。目的物がどこにいるかは近くに行くまで分からないというのも、正解地点を明確にしないという点で筋が通っている。しかも撮り逃しや面倒さへの救済策まで備えている。抜け目がない

*6:そんな当たりかハズレか分からないものに、プレイヤーはまさにスタンプを置きたくなる

*7:例えば、探索対象のアイテムの価値を高めるというのも一つの解決策に見えるが、そういうアイテムのゲーム内価値が高ければ高いほど、自由にさせることはゲーム側がプレイヤーの体験をコントロールしにくくなるというリスクを生じさせる