週末批評に本記事の改稿した記事を掲載いただいています。ぜひそちらをご覧ください。
加速する “JRPG” の到達点──『ファイナルファンタジー16』がそれでもムービーにこだわる理由|すみ | 週末批評
以下、元記事です。
2023年6月に『ファイナルファンタジー 16(以下、FF16)』が発売された。多くの期待と不安が寄せられた本作であるが、その評価をめぐっては大きく意見が分かれている。大手ゲームメディアサイ トの平均点を算出するメタスコアでは87点と比較的高い点数を獲得している(2023年7月9日現在)。しかし、凡作、駄作であるとの評価も多く、決して賞賛する評価ばかりではない*1 。
本作の評価が難しいのは、明らかに昨今のゲームと比較して「普通以下」と思える部分があり、それにも関わらず、本作を高く評価する人がいるところにある。例えば、『FF16』のフィールドにおける探索しがいの無さは明らかで、フィールド上に配置される宝箱やイベントなどアクティビティの密度は非常に薄い。これは昨今の他のゲーム作品と比較しても明らかに「普通以下」である*2 。 こうした明らかな欠点を持ちながら、なぜ高評価することができるのか。ここには『FF16』独自の達成があると考える。本稿では、この点について示すことで、本作が傑作である理由を示そう。
ゲーマーには馴染みがあるが、一般にあまり普及していない言葉として、QTE という言葉がある。これはクイック・タイム・イベントの略*3 で、ムービー(カットシー ン)で画面上にボタンが表示され、そのボタンを短い時間で入力することを求めるシステムである。大抵の場合、入力が成功すると続くシーンでは派手でポジティブな結果が引き起こされる(例えば大型の敵を華麗に倒すシーンなどが続く)。
写真は『ゴッドオブウォー 3 リマスタード 』(2015,SIE)のQTE の場面 *4
このQTE のシステムが『FF16』にも採用されている。このシステムは『FF16』という作品において特に重要なシステムではないが、『FF16』の取り組みが非常に特徴的に現れていると考えるため、まずこのQTE から取り上げてみたい。 このシステムには通常プレイでの攻撃アクションとは異なり、カットシー ンの派手で大仰なアクションを、さも自分がプレイしたかのように感じさせるという効果がある。しかしこのQTE がうまく活用されないばかりか、余計なストレスを与えてしまう作品も多く、「QTE ってクソだよね」とか「古臭い」とか、QTE というシステム自体にダメ出しする意見も少なくない*5 。QTE が不評な要因は主に「失敗時のデメリットが大きいと感じられる」点にあるだろう。
QTE はここぞという決め手となる場面で使われるため、成功した時はド派手で良い結果をもたらすが、逆に失敗した時には即死やゲームオーバーなど深刻な事態を引き起こすことが多い。加えて、受付時間が非常に短く、突然のボタン操作が求められるケースが多いため、いわゆる「初見殺し」のようなQTE が少なくない。それは通常プレイで求められる操作スキルと異なり、その場限りの単純な反射神経だけを問うつまらないギミックにも感じられる。そのためQTE に失敗した時に受けるデメリットに対して、余計に納得のいかない感覚をプレイヤーは抱いてしまう。 しかし『FF16』のQTE は少し異なる。戦闘の節目節目で挿入されるカットシー ンでQTE が用いられている点は同じなのだが*6 、『FF16』ではそこでのボタンの受付時間が非常に長く、しかも失敗しても深刻な事態が引き起こされない (ゲームオーバーにならない)。言い方を変えると、QTE としてはとても緊張感を欠いたものとなっている。派手な演出が可能なムービーでQTE を採用するのであれば「油断していたら失敗したかもしれない」というヒヤヒヤ感をプレイヤーに多少なりとも感じさせるのが普通だろう。そうでなければ、一連の流れが「単にムービーを見ている」ことと、それほど差がなくなってしまうからだ。しかしここにこそ、『FF16』という作品の持つ特殊なこだわりがある。 先ほども見たとおり、最近ではQTE を採用しているというだけで、「古臭い」とか「クソだ」との臆見を持たれかねない。実際、QTE は様々なシステムのほんの些細な一部でしかないのに、わざわざ発売前のインタビューでQTE 採用について、その意図を聞かれてしまうほどであるのだ。
『FF16』はQTEばかり?の疑問にバッサリ「NO」! 吉田Pが実機プレイをたっぷり交えて本作の魅力を紹介 | Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト
開発側は、QTE というものへの風当たりの強さも十分に理解しているだろう。だからこそ、その採用には、例えば「QTE でなくてはならない意義」を込めたりするのが普通にも思われる。しかし、『FF16』はそうではないのだ。QTE というシステムに過剰な役目を負わせるのではなく、その機能だけでプレイヤーの体験を支配しようとしていない。それだからこそQTE でストレスを与えるリスクを取る必要がない。QTE だけで大きなカタルシス を与えてやろうとか、戦闘の緊張感にヒリヒリしてもらおうとは考えていないのだ。QTE にできることは、多少のボタン操作により、その戦闘の臨場感を感じてほしいという程度のものだ*7
開発者による「クイックではなくSTE(スロー・タイム・イベント)と言える」という言葉もまた「俺たちはQTE らしいQTE でやりたいことがあるわけではないのだ」というメッセージだと解釈できるだろう*8 。
重要なのは、QTE は「もう古いから」とか「人気がないから」と思い込んで、単純に「採用しない」という判断に『FF16』は倒れていない点にある。そうではなくて「全体の構成の中での役割」を考えた上で、従来のQTE らしさを大胆に無くし、QTE を改良した上で採用している。ネガティブな評価を受けがちな要素を、大胆な割り切りによって「蘇生させる」ことが『FF16』のなしえた独特の達成なのだ。
以上で見たような『FF16』の取り組みを踏まえ、次に、ゲーマーの間でよく言われる「ムービー長すぎ問題」について考えてみたい。
ゲームにおけるムービーはどう受容されてきたか
『FF16』は「ムービーが長い」という評価を受けている。これは実際にそのとおりで、「プレイしているよりもムービーを見ている方が長いのでは?」と感じる人がいても不思議ではない。この「ムービー長すぎ問題」に対して『FF16』はどのように応答しているのだろうか。
『FF16』に限らず、これまでもゲーム作品の長いムービーというのは批判をされてきた。その歴史を振り返るのは難しいが、次の動画を参考にして議論を進めたい。それはゲームメディアIGN Japanの「しゃべりすぎGAMER」の352回「激論!ゲームにおけるカットシー ンの存在意義とは!?」という対談動画である。話者はゲームライターのクラベ・エス ラ氏、葛西祝氏、シナリオライター の各務都心氏の3名である。
VIDEO youtu.be
この動画の9分あたりから、1990年代から2010年代までのムービー(カットシー ン)に関するプレイヤーの受け止め方や業界動向について語られている。ここでの捉え方には色々と反論もあるかもしれないが、私自身の感覚とも概ね合致する内容であったため、この対談での内容をベースに議論を進めたい。内容としては以下のように要約できるだろう。
1990年代までは、アニメや映画のような豪華なカットシー ンがすごいという時代があった。この流れの極地が『FF10 』(2001)であった。(8:30〜 葛西氏)
2000年代ごろに雲行きが怪しくなり、『メタルギアソリッド2 』(2001)などに対して「ムービーが長い」という意見が出始める。家庭用ゲーム機でも『オブリビオン 』(2006)や『マスエフェクト 』(2007。日本での発売は2009)がリリースされたこともあり、インタラクティブ 性の高い欧米のゲームが日本でも遊ばれるようになった。そしてムービーによる一方的な語りを行う作品へのネガティブな評価が増えた。それは日本のゲーム低迷期とも重なる(10:30〜 葛西氏)
2010年代以降、しかし、欧米のゲームにおいてインタラクティブ 性の薄いムービーとゲームプレイが分離したタイプの作品が増えてきたように感じる。『アンチャーテッド 』シリーズや『ラストオブアス』(2013)『ゴッドオブウォー 』(2018)などである。それは今も続く流れだ。(17:00〜 クラベ氏)
こうしたゲームにおける「ムービー(カットシー ン)」の歴史を踏まえて、当該動画においては「ムービー」の持つ欠点をどう捉えているか。動画に出ている三者 三様で意見の相違はあるので一律に語ることはできないが、概ね以下の点では合意されていると考える。
ムービーと通常のゲームプレイとが乖離してしまい、統一的になっていないことが問題である
このことをもう少し具体的にクラベ氏は次のように言っている。
だったら俺にアクションゲームを遊ばせて、別で、なんか、映画を見せてくれっていう気持ちには正直なってしまう(同動画20:10ごろ)
ムービーが長いと何が問題なのか。上に挙げた動画では、それについて「ムービーとゲームプレイの乖離」を問題にしている。これはネットで時折見られる「ムービーゲーはクソ」というような乱暴な意見とは異なる。そしてこの動画においては、更に「ゲームとムービーの、どのようなタイプの乖離が問題なのか」についても意見が述べられている。これは主にクラベ氏の意見ではあるが、それは「プレイヤーによる介入のあるなし」である。
プレイヤーがあたかも自分でそこに辿り着いたような錯覚を与えなければならない(同動画22:30ごろ クラベ氏)
これはビデオゲーム というメディアで物語を表現するのであれば、プレイヤーの行為が何らかの形で物語やキャラク ターの有り様などに影響を与える描き方に価値があるという考え方だ。「ビデオゲーム でしかできない表現をしているものに価値がある」という意見でもあるだろう*9 。対談相手である他の2名からこの意見について大きな反対意見は出ていないように、これは「なぜムービーゲーは良くないのか?」という評価についての理由の1つを表していると言える。
さてこのようなゲームにおけるムービーに対する評価があることを踏まえて、『FF16』はどのような応答をしているか改めて整理してみよう。結論を先に述べるなら、それは「プレイヤーによる介入がなければビデオゲーム 作品としての価値が低いとは限らない。プレイヤーによる介入以外の(映画など他の視覚芸術にはできない)手法によって物語を伝えることにも価値がある」というものである。その目指すところをどのように『FF16』は達成しているのか、具体的に見ていこう。
ゲーム前半、少ない「棒立ちでの会話シーン」
長いムービーを退屈させないために、「見ごたえのある美麗で迫力のあるムービー」を作る努力がなされていることは、以下のレビュー記事などを見てもよく分かる
『FF16』世界最速プレイレビュー。硬派な王道本格アクション&超ド派手な“召喚獣合戦”が両立。初心者から上級者まで対応する画期的な難度調整に注目【『FF16』メディアツアー】 | ゲーム・エンタメ最新情報のファミ通.com *10 。
しかし、それ以外にも地味ながら、「退屈なムービー」を減らし、ムービーを鑑賞することの質を『FF16』は向上させていると私は考える。その一つとして、他のゲームに比べて『FF16』では「棒立ちでの会話シーン」が少ない 点が挙げられる。なお、本稿では「棒立ちでの会話シーン*11 (以下,棒立ちシーン)」を「大きなモーションを取ることなく、キャラク ターたちが棒立ちしながら、多少の身振り手振りはするものの、ほとんど動くことなく会話するシーン」を意味するものとして使う。それに対比するムービーを「手の込んだムービー」と表現する*12 。具体的な「棒立ちシーン」としては下記の画像のような場面をイメージしている。下記の画像は『ゼノブレイド 3』(2022, 任天堂 )というRPG の一場面である。
『ゼノブレイド 3』の「棒立ちでの会話シーン」の一例。
「棒立ちシーン」が『FF16』では、特にゲーム前半においてとても少ない。後半から増えてくるが、ゲーム前半で、こうした「他のRPG でよく見る場面」が少ないことによって、『FF16』という作品が他のRPG とは少し違う作品であることを最初に印象づけている。
「棒立ちシーン」は、ほとんどの場合、キャラク ターたちの会話を聞く(読む)だけの場面であることが多いため*13 、通常のゲームプレイと比べると、どうしても退屈なものになりがちである*14 。しかも「手の込んだムービー」とも違って「見せること」に特化したシーンでもないため、それらと比べても「退屈な」シーンになりがちである。
ゲームを作る側からすれば、なぜこうした「棒立ちシーン」があるかと言えば、それはハッキリしている。RPG では物語を伝えることが大きな特徴の1つであるが、その時の状況や展開をプレイヤーに伝えるのに、手の込んだムービーを1つ作るよりも比較的安いコストでそれを作ることができるからだろう。 以下の画像シーンは普通のゲームであれば「棒立ちシーン」で軽く済ませてしまいそうな非常に短い場面である。主人公が扉を開けて、その先に敵がいることを同行者に伝えるだけのシーンだが、こういう些細な場面もある程度ちゃんとムービーとして作り込まれている。
『FF16』の序盤、ノルヴァーン砦への潜入の場面
しかし、多くの人との会話によって進むRPG というジャンルにおいて、「棒立ちシーン」は欠くことができない。いくらFF16が些細な会話場面にも手の込んだムービーを作るとしても限界がある。あらゆる場面をそう作り込むことは、どんなゲームであっても無理だろう。そこで『FF16』は「単なる会話だけのシーン」をできる限り削り、そもそも「棒立ちシーン」が必要な場面を減らしている。 ただ、ゲーム後半では前半に比べるとサブクエス トが大量発生するため、クエス ト依頼の会話など「棒立ちシーン」が多くなり、後半、物語の印象が変わったという感想を抱いた人もいるだろう。ただ、メインストーリーが主に展開する前半については「棒立ちシーン」が明らかに少なく、そのため「単に会話の内容を追うしかない」というようなプレイヤーにとってやや退屈な場面が少なくなっている。 では、この「棒立ちシーン」を取り除くことは『FF16』の「ムービー長すぎ問題」にどのような変化をもたらしたか。それを更に詳しく見てみよう。
ムービーの説明不足を補うアクティブタイムロア
「棒立ちシーン」を減らすことは「退屈な会話シーン」が減って良いのだが、一つ問題が生じることになる。それは、世界観や状況の説明が少なくなってしまい、プレイヤーが物語を理解しにくくなってしまうという問題だ。そこで『FF16』で取られている対策がアクティブタイムロアという機能である。
『FF16』では、アクティブタイムロアによって、ムービー中でもゲーム世界の固有名詞や専門用語を確認できるようになっている。ムービー中はメインメニューなどを開くことができないゲームが多く、ゲーム内に用語集はあっても、ムービー中に参照できるゲームはほとんどない。しかしアクティブタイムロアはムービー中にも参照できる用語解説の機能であり、そのムービーに関係する単語だけがピックアップされた用語集として、場面ごとにそれぞれ作られている。面白いのは アクティブタイムロアでは、せいぜい5つくらいの用語しか参照できない というところだろう。
『FF16』のアクティブタイムロアの画面。ムービーごとに関連する単語だけがあらかじめ選定されており、簡単に確認することができる
『FF16』には作品世界の専門用語を解説する機能が別に存在している。それはヴィヴィアンとハルポクラテスという二人のキャラク ターによって解説される形になっている。この二人に話しかけることで、いわゆる作品世界にある膨大な専門用語を網羅した辞典のような用語集を参照することができる。しかしこの辞典とは別にムービー中にだけ参照できるアクティブタイムロアという仕組みがわざわざ作られている。つまりアクティブタイムロアは、既存の膨大な用語集をムービー中も見られるようにする、といった単純な対策ではないのだ。 前述のとおり、アクティブタイムロアはそのムービーに関係する用語が選定されているため、プレイヤーはわざわざ知りたい単語を検索したりする必要がない。そして、用語集と言っても5つくらいの単語を参照できるだけであるため、他の用語の解説をついでに読みふけってしまうこともない。ゲームの中にある用語集やアーカイブ ログを耽読してしまうのは、昨今の「大作RPG あるある」だとは思うが、アクティブタイムロアの参照では、そうしたムービーから長く離れてテンションが途切れてしまうこともない*15 。アクティブタイムロアは会話を減らすことで「説明不足」になりがちになるという点を補いつつ、今見ているムービーにプレイヤーが集中できるように配慮された作りになっているのだ。
ムービーで常にイベントを起こす
『FF16』で「棒立ちシーン」を減らす目的は「退屈なムービー」を減らすことだと考えられる。だから「棒立ちシーン」以外のムービーもまた退屈なものであってはならない。減った「棒立ちシーン」を別の「退屈なムービー」が埋めてしまっては意味がないからだ。そのため『FF16』ではムービーの数は多いのだが、その1つ1つのムービー内にほぼ必ずと言っていいほどに重要なトピックやイベントが組み込まれている。 例えば、主人公クライブが仲間のシドと森の中を進んでいる時のムービー。このムービーはそのエリアの移動途中の様子を示すもので、大きな展開が起きにくい場面のものである。しかしこういう場面を単に「つなぎ」のシーンとしておざなりなムービーにするのではなく、わざわざエリアのボスである「北のヌシ」を事前に登場させて、「絶対こいつボスとしてこの後に出てくるだろ…」とプレイヤーに思わせている。この場面でこの「北のヌシ」といきなり戦うわけではなく、「チラッと見せ」てプレイヤーに焦らしとイベント発生の感覚を与えている。
『FF16』の序盤、森のボス「北のヌシ」がチラ見せされるシーン
このようにムービーで見せるに足る重要なトピックやイベントをできる限り含めることで、1つ1つのムービーの濃度を高めている。プレイヤーにとってはムービーが挿入されるたびに重要なイベントが発生することになり、語り口のテンポの良さを感じられ、「退屈さ」を感じにくい。そして、ムービーが始まった時に「またムービーか」と思うのではなく、「また何か起こるぞ」という期待を持つことにつながる。 『FF16』の矢継ぎ早に物語が展開していくスピーディさはこうしたところからも感じられる。
そして実際、『FF16』に対して長所・短所の両面から評価する以下のようなレビューにおいても、その展開の速さは次のように一定の長所として評価がなされている。
『ファイナルファンタジーXVI(FF16)』レビュー。これは「堅実」か、それとも「無難」か。ゲームをクリアさせることに特化させたゲーム - AUTOMATON
ジェットコースターのような仕様の中で、「FFはシナリオが魅力である」ということを再認識することができた。
「映画的でない」からこそ、長いムービーは「蘇生」する
『FF16』は「ムービー長すぎ問題」に対して、棒立ちシーンを減らしたり、イベントをムービーの度に起こすことで、プレイヤーが退屈に感じさせることがないように工夫している。そして不足しがちな説明に対してはアクティブタイムロアで補っている。QTE と同様に、これまでのゲームでも批判されてきた「長いムービー」の欠点を補い、ムービーを作品全体から得られる体験のために活用している。このムービーの活用の仕方がとてもよく現れているのが、ゲーム全体としてのメリハリの付け方である。
よく『FF16』は映画的であると言われるが、映画と大きく異なるのは、ムービーだけで緩急やメリハリをつけていない点だと言える。 『FF16』では、戦闘→ムービー→移動という3つのパートを繰り返し、そのサイクルの中で緩急を付けることを目指している。「戦闘」のパートでプレイヤーに緊張感を与え、「ムービー」のパートで物語が展開する興奮やカタルシス を与え、「移動」のパートでプレイヤーの気持ちを落ち着かせる。この繰り返しによってプレイヤーをゲームにのめり込ませる。この点は全く「映画的ではない」だろう。ゲームだからこそできる構成であり表現である。思い切った省略と、物語が展開する興奮をひたすら与え続けるムービーは、そのムービーを単体として見たら、やや「下品」なものかもしれない。 しかしこれがゲームの中の一要素だと考えると、見え方が変わってくる。ただプレイヤーをイベントの連続で興奮させるだけではなく、「移動」パートとセットになることで、プレイヤーのテンションを鎮め、次なるムービーへの興奮の下準備をしている。ただ派手なムービーを押し付けがましく見せているだけではないのだ。
加えて、ムービーの合間にプレイヤーによる「操作」のパートが度々挿入されるようになっている点も重要である。最初に挙げたQTE にもそういう役割もあるだろう。これは当然、「見ているだけで何もできない」という気持ちを低減させるための工夫だ。このFF16の「ムービーを見せるだけにしない」姿勢を示す象徴的な場面は、ゲーム開始直後のオープニングだろう。ベテランゲーマーの多くは本作のオープニングムービーが始まったところで「召喚獣 による迫力あるバトルを最初に長々とムービーで見せつけてくるかな?」と思ったかもしれない。しかしその予想を裏切り、すぐ操作パートが始まる*16 。実際、ゲーム開始後90秒足らずで、召喚獣 フェニックスを操作するパートへと移行する。
一般的に言われる「ムービー長すぎなのは悪い」というのは、『FF16』においては「何も操作できなかったり、長い話を長々と聞くような、退屈さを醸成するようなムービーが悪い」と解釈され直されていると考えられる。逆に言えば、プレイヤーを退屈させない形であればこうした多くのムービーをプレイヤーは受け入れると『FF16』は考えているし、そのための工夫を凝らしている。『FF16』という作品にとって敵は「退屈さ」なのだ。
そして先に挙げたIGN Japanの対談動画にあるような「プレイヤーの介入」についても、『FF16』は独特の応答をしていると考えられる。というのも、『FF16』における「操作」のパートは、決してゲームの展開や主人公の決断などに大きな変化を与えるようなものではないからだ。「操作」はさせても、それは必ずあらかじめ定められた1つの結果に行き着く。それゆえ「ムービーとゲームプレイの乖離」は解決されていないとも言える。しかし、だからと言って直ちにそれが、そのゲーム作品を楽しめないものにするわけでもない。Digitally Downloadedというゲームメディアでは、次のように本作を評して満点を付けている。
Review: Final Fantasy XVI (Sony PlayStation 5) – Digitally Downloaded
1秒もゲームが無駄ではなく、つまらないキャラク ターや瞬間やシーンがない。その先が気になりどんどん先へと進めたくなる(page-turner)魅惑的な叙事詩 である
ゲームにおける「プレイヤーの介入」を考えた場合、その行為が物語の筋などの重大な結果に繋がっていると思えなければ、その結果に自分の力で到達したと「錯覚できない」と普通は思えるかもしれない。しかし『FF16』は大胆にも物語の結末を左右することが重要ではないと考えている。「長いムービー」の何が問題かと言われれば、『FF16』はそれを「退屈かどうか」が問題だと考えているからだ。「退屈である」ことで、ゲームにおける不自由さが悪目立ちしてしまい、ゲーム作品としての不満足さに繋がってしまう。結果としてそれは「ただ見ているだけのムービーゲーは良くない」と言われてしまうかもしれない。しかしジェットコースターのような展開を文字通り与え続け、それを阻害する要因を取り除くことで、実際は不自由であるのに、その問題がまるでないかのように「錯覚させる」ことが可能だと『FF16』は考えている。 そしてその試みは一定以上成功している。Polygonというゲームサイトでは、シリーズの過去作品『Final Fantasy 13』(2009)と比較して次のように『FF16』を評している。
Final Fantasy 16 is a slick, modern epic with the soul of a PS2 game - Polygon
構造的には、本作(FF16)は、2009年の『FF13 』をとても思い出させる。『FF13 』はゲームの最初の方でゲームプレイの幅が非常に狭いものの、それがだんだんと広くなっていく。素晴らしい戦闘システムと美しいビジュアルを持ちながら、『FF13 』は過小評価されていた。『FF13 』の最も大きな問題は、その痛いほどのスロースターターなところだったが、ありがたいことに『FF16』はその問題を共有していない。
なお、批評家の平均点を算出するメタクリティックスにおいて、『FF16』は87点、『FF13 』は83点と、総じて『FF16』の方が高評価されている。
まとめよう。ゲームにおいて批判されがちな「長大なムービー」を「蘇生」させるという挑戦。この挑戦はやはりムービーの質それ自体が高くなくては失敗してしまうだろう。しかしムービーの質自体は高くても「いつまで経っても操作できない」とか「手の込んだムービー以外に退屈な会話シーンを多く見させられる」という既存のゲームでありがちな問題点を抱えてしまっていては、やはり「長いムービーが良くない」とも解釈され失敗してしまう。そうした「退屈につながる要素」を丁寧に潰していくことによって、その「蘇生」を果たしている。それをもたらしているのは、ゲームでしかできない緩急の付け方や操作パートの挿入であり、アクティブタイムロアによるサポート機能があるからなのだ。
自由度への逆向きからの挑戦
「ムービー長すぎ問題」以外にも、冒頭でも紹介した「探索しがいのないフィールド」という問題が『FF16』には存在する。この点はどのように解釈することができるだろう。 『FF16』は自由にいろいろできるゲームでないのは、多くの人が認めるところだろう。特にそのマップやフィールドは一本道で迷うことが少ない形状をしている。比較的広めの平原のようなマップもあるにはあるのだが、マップの隅々まで探索しても、決して楽しいわけでもない。探索した先に宝箱がそれほどあるわけでもないし、あったとしても得られるアイテムは特に貴重でもない。『FF16』は現代のゲームにおいてびっくりするほど「自由な探索」を楽しませてくれない。他のオープンワールド のゲームに慣れ親しんだ人であれば、フィールド上にパズルやアイテムを配置することは、ほとんど「常識」のようなものであり、逆に『FF16』がこうした破格にシンプルな作りがされていることに驚くほどだろう。 『FF16』ではフィールド上の通り道(街道や獣道など)には、なぜか定期的にアイテムが落ちている。歩く先々に目印のようにアイテムが落ちているのは、脇道に逸れてアイテム探索をするプレイを封じているようにさえ感じられる。フィールドの移動パートは探索ではなく、幕間のようなものであり、同伴するキャラク ターからの「話しかけ」によってストーリーを補ったり、その世界の風景などヴィジュアルを堪能させる役割しか持ってないように思える。これはもちろん先ほど述べた作品全体の緩急の「緩」の部分を担っていると考えることはできる。しかし、ここまで明確に「探索できない」仕様であることは、むしろ「フィールドで宝箱などを探索するのって、別にそこまで楽しくなくでしょ?」という挑発的なメッセージと解釈することもできる。 これまでのゲームでよくあるような、わざとらしい行き止まりを設けて、その先に宝箱を配置する。プレイヤーは若干のめんどくささを感じながらも、そうした宝箱のために隈なくマップをうろちょろする。全く楽しくないわけではないだろうが、そんな中途半端な遊びを作るなら、いっそのことそれらは一切排除してしまった方がいいと『FF16』は考えている。こんなところにも『FF16』の大胆に割り切っていく姿勢が垣間見える。『FF16』の発売前ちょうど1ヶ月のタイミングの生放送で本作のプロデューサーがこれ見よがしに『ゼルダの伝説 』最新作をプレイしていたことは、ゲームメディアでも取り上げられた。これは、探索を楽しませたいのであれば、探索の楽しさを極めた『ゼルダの伝説 』のようなゲームを作るべきであり、それができないなら、むしろなくしてしまった方がいいという、そんなメッセージだったのではないかとさえ思える。
『FF14』公式テスト放送にて、『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』に夢中な吉田Pに注目集まる。「吉田ゼルダ」なるワードが爆誕 - AUTOMATON
少なくとも、「自由度が高い*17 」と言われるゲームが他にあることは十分に理解しつつも、あえてそうではないゲームを作る意図があったことは明らかだろう。多くのゲーマーにとって「アレもできない、コレもできない」と文句を言われることが分からないはずがない。だからこそ中途半端にやれることを削るのではなく、「やる必要がない」と思ったことを徹底的に削除する。なぜ徹底的に、やや過剰に思えるほど「自由度」を排除する必要があったのか。それはまさに『FF16』の目指すところを明確に示す必要があったからだ。ここまで徹底しているからこそプレイヤーは途中で気が付くのだ。「あ、このゲームはフィールドを色々探索するんじゃないし、選択肢を選んで物語の分岐を楽しむゲームではないんだな。ジェットコースターのように進んでいく物語を楽しんでほしいんだな」と。
一方で、なぜ『FF16』は、このような「不自由なゲーム」を作るというモチベーションを抱くに至ったのか。先ほどの「長いムービー」でも言及したが、『FF16』は「プレイヤーによる介入のなさ」を解決しているわけではないのだ。プレイヤーはあらかじめ決まっている一つの展開や結末に進んでいくしかない。『FF16』は不自由なゲームであることは間違いがない。しかし、わざわざ「不自由さ」を狙いにいくというのは、やはりやや分かりにくいモチベーションだとも思える。この不思議な動機を持った理由を更に考えていきたい。本稿はそれが、ある一つの大きな挑戦だからだと考える。それは「自由にやれることが極端に少ないリニアな(直線的な)ゲームでも、楽しいゲームは成立させられる」という挑戦である。この「不自由なゲームは楽しいのか?」という課題は最近突然出てきた課題ではない。長い時間、日本のRPG が内包し続けてきた課題であり、日本のRPG の中心地にいた『ファイナルファンタジー 』だからこそのシリアスな問題なのだ。そして『FF16』はその問題に対して「リニアな展開」を解消するのではなく、むしろ推し進めることで、JRPG スタイルを内側から破壊するような解決を目指したのだと考えられる。この点を本作のプロデューサーである吉田直樹 氏の発言などから見ていくこととしよう。
JRPG という言葉は差別的なのか
『FF16』の吉田直樹 プロデューサーは、オーストラリアのゲーム系YouTuberであるSkillUp氏からの質問に対して、「JRPG という言葉はかつてネガティブな意味として使われていたことを覚えている」という主旨の発言をしている。そしてこのことは他の欧米のゲームメディアでも取り上げられ、「吉田はJRPG という言葉を嫌っている」などと報じられた。
Final Fantasy Producer Doesn't Like the Term 'JRPG'
VIDEO youtu.be
上記の動画の約28分ごろからその話題が出てくる。JRPG とは日本のRPG を意味する単語だが、海外のゲーマーの間では特有のニュアンスを持っている (日本語圏でも一部ではそうだろう)。さまざまな使われ方やイメージがあるため、統一的なJRPG の言葉の意味やニュアンスを示すことは難しいが、アニメ調のキャラク ターだったり、リニアな展開などがその特徴として挙げられることが多い。本稿ではこの「リニアな展開」の部分を特に取り上げたい。JRPG という言葉の使われ方を示すため、海外の掲示 板Reddit の以下のスレッドを紹介しよう。
Any "linear" RPGs? : patientgamers
このスレッドは「”リニアな”RPG ってどんなのがある?」という質問から始まっている。これに対して、西洋RPG の作品を挙げる返答もあるが、『ファイナルファンタジー10 』などをはじめ日本のRPG も挙げられている。同スレッドには、さらに次のような発言もある。
JRPG はほとんどリニアだ
(Jrpgs are mostly linear.)
一般的には、JRPG は西洋RPG よりもリニアなストーリーだ
(In general, JRPGs have much more linear stories than western RPGs)
これらはもちろんこの投稿者の主観に過ぎないが、このようなイメージはある程度普及しているのではないかと思われる。JRPG について考察した以下の記事でも次のような西洋RPG との対比によるJRPG の特徴付けがされている。
The ‘Jaded’ RPG: The Fall of Japanese RPG
欧米のRPG は通常、オープンエンドなゲームプレイを重視し、プレイヤーにゲーム世界を探索する自由を多く与え、ゲームメカニクス には多くの選択肢を備えている。一方、日本のRPG は物語を重視し、Kalata(2008)*18 が指摘するように「ゲーマーに役割を演じさせるよりも、物語を語ることに熱心」である。
またゲームメディアThe Gamerでは普通の(欧米の)RPG とJRPG の6つの大きな違いを示した記事で、2位に位置付けられる違いとして「会話での選択肢」を挙げている(ちなみに1位は「(見た目の)デザイン」だ)。その記事の一部を引用しよう。
6 Differences Between RPGs And JRPGs
大部分において、JRPG の会話での選択肢はその場限りのものでしかないが、西洋RPG では会話での選択肢がストーリーがどう展開していくかを形成する重大な結果を持つ傾向がある。
上記のような記事や投稿を見ると、JRPG に対して、リニア(直線的)で選択肢の少ないストーリーラインを持っているというイメージはそれなりに浸透しているように思える。こうしたイメージと先述の吉田プロデューサーによる「JRPG という言葉はネガティブ」という発言を合わせて考えると、面白い捻れが見えてくる。つまり『FF16』を作った吉田プロデューサーはJRPG という言葉を嫌いながら、しかし作られた『FF16』は極めてリニア(直線的)で自由度の少ない、ある意味ではとてもJRPG 的な作品であるのだ。 これが無自覚であるとは到底思えない。吉田プロデューサーは何を考えて作品を作ったのか。それは彼が先のインタビューで「ネガティブだ」という発言とともになされた「JRPG は差別的な言葉だ」という発言に注目したい。「差別的(discriminatory)」という言葉が思わず使われてしまっているところにこそ、『FF16』が特別な感情をプレイヤーに引き起こす要因が現れていると私は考える。それはJRPG であることに対する根深いコンプレックスの存在である。 JRPG は、10代ぐらいの少年が世界を救うという突拍子もないストーリーであり、どこの国とも分からないファンタジー 世界をアニメ調のアートワークで描き、一本道をひたすら歩かされる幼稚な作品と思われている。もちろんそれはやや被害妄想的な思い込みであるかもしれない。しかしJRPG という言葉にそういうイメージを持つ人は少なくないだろうし、現に先のインタビュー動画においてもそうした話がなされている。しかしだからこそ逆に、そのJRPG の特徴をゴリゴリに推し進めてもなお世界に通用するRPG を作りたい。 『FF16』の野望はそこにあるのではないか。それを示すために『ファイナルファンタジー 』の過去作品との比較によって、吉田プロデューサーの「差別」という言葉に孕む裏側の意識について考えよう。これが長い考察の最後のトピックになる。
多様性のキワにおける戦い
『FF16』は発売前に「多様性への配慮が欠如している」と騒がれたことがある。ゲームメディアEurogamerでは「FF16の多様性の欠如に対する吉田プロデューサーの反応に、黒人プレイヤーは不愉快さを示す」と題した記事で事態を報じた。その記事内では、あるゲーム配信者DeeNugLifeの言葉として次のような言葉が載っている。
Yoshida's response to Final Fantasy 16's lack of diversity is "souring", say Black players | Eurogamer.net
ファイナルファンタジー 16には信じられないほど興奮していたけど、ゲーム内での表現や多様性についての最近のニュースは、不愉快なものだった
では、吉田プロデューサーはどのように多様性について語っているのか。ここではIGN Japanに掲載された翻訳記事であるインタビュー記事から引用しよう。(太字は筆者)
『ファイナルファンタジーXVI』の開発者に独占インタビュー『ゲーム・オブ・スローンズ』との比較やレーティング問題、人種の表現について訊く
だからこそ、僕たちが皆さんに注目していただきたいのは、キャラク ターの外見よりも、むしろ「人」として彼らがどんな内面を持つのか。 それは複雑で、なおかつその性質、背景、信念、性格、動機において多様性を持ち、皆さんの多くが共感できるようなストーリーを持っている、という部分です。ですから、ヴァリス ゼアにも間違いなく多様性はあります。それは、あらゆる面での多様性とは言えないものの、僕たちが作り上げた舞台設定と相性が良く、相互に物語の品質を高め、開発チームのインスピレーションやコンセプトにも忠実であり続けられるような多様性になっています。
上記の発言は、多様性の問題に対する核心をやや外してしまった回答と言えるだろう。この発言の至らなさは、まさにここで吉田プロデューサーが「注目していただきたいのは、キャラク ターの外見よりも」と言っているように、そのたかが「外見」によって現実の世界ではシリアスな問題が起き続けていることにある。この吉田プロデューサーの回答が、今まさに日常において人種差別の当事者となっている人にとって(そして多くの有色人種にとって)、きわめて軽薄に見えるということはあるだろう*19 。もちろん吉田プロデューサーに悪意はないだろうし、これでもかなり言葉を慎重に選んでいるとは思うものの、批判がなされること自体は不思議ではない。 ただ、上記の発言において私が注目したいのは次の言葉である。
それは、あらゆる面での多様性とは言えないものの
この発言は、『FF16』という作品が人種差別や多様性の問題を十分にカバーできていないことを、製作者自身が分かっていることを示している。実は上記のような「十分でない」という主旨と似たような台詞がゲーム内にも登場する。 上の画像の右側にいるシドという登場人物が語る台詞は「人として生きることを許されていないのは 何もドミナント やベアラーだけじゃない」というものだ。『FF16』では差別の問題が「ベアラー」という存在によって語られている。 「ベアラー」とは魔法を使える人間のことだが、この作品世界においてベアラーは差別される存在である*20 。そして物語のメインストーリーとしては一貫してベアラーの境遇の厳しさと彼らを救うための物語が描かれる。実は先のシドの「人として生きることを許されていないのは 何もドミナント やベアラーだけじゃない」というセリフは「言い訳」なのだ。ベアラーだけが差別されているような描き方をしてしまっているけど、それ以外にも苦しんでいる人はいるだろうし、そのことをちゃんと知っていますよという言い訳である。 私はこの「何もドミナント やベアラーだけじゃない」というセリフを見て、そして吉田プロデューサーの「それは、あらゆる面での多様性とは言えないものの」という言葉を読んだときに、次のように思った。
確かに十分に描けていないという欠点をそのまま言い訳するのはスマートな表現ではないかもしれないが、この手の政治的な話題をひたすら避けようとしていた昔の日本のRPG と比較すると、ずいぶんと意識は変化したな、と。
同じ『ファイナルファンタジー 』というシリーズの作品であっても、昔よりもずっと社会問題や正義ということに対する意識や感覚が変わっている。このことは主人公たちのレジスタ ンスとしての戦いやその目的に関する台詞からも感じられる。今なお人気の高い過去作『FF7 』(1997)と具体的なセリフを引用しつつ比較してみよう。 『FF16』では主人公クライブはシドというベアラー救済組織のリーダーをしている男に導かれ、そして物語が進むとクライブ自身がその組織のリーダーになる。シドは次のように語る。(太字は筆者)
シド 「"人が人として生きられる場所をつくる"ことなんだと・・・」 「俺が本当に欲しかったのは・・・そう誰もが・・・自分の意志で・・・生きられる場所だ・・・」 「このくそったれな世界に居場所を・・・窮屈なクリスタルの牢獄を ぶち破るんだ」
これが彼らの目的だ。これだけ見れば何の変哲もない台詞だが、『FF7 』と比べると、その違いがよく分かる。
『FF7 』の終盤で、なぜ戦うかということについて主人公のクラウド と反政府組織アヴァランチのリーダーであるバレットたちが語り合う。次にその台詞を見てみよう。(太字は筆者)
クラウド 「みんなが何のために戦っているのか それをわかっていてほしいんだ」 「星を救う……星の未来のため…… 確かにそのとおりなんだと思う」 「でも、本当は、本当はどうなんだろう?」「俺にとっては、これは個人的な戦いなんだ」 「セフィロス を倒す。過去との完全な決別」 「それが星を救うことにつながっているんだ」 「俺、考えたんだ」「やっぱり俺たちは自分のために戦っているんだ」 「自分と……自分が大切にしている誰か? 何か? そのために戦う」 「そのために星を救う戦いを続けているんだ」バレット 「たしかに……」 「星を救うってのは、なんとなくカッコいいよな」 「でも、オレたちにできたのは あの、魔晄炉爆破だ……」 「今となっちゃあ、あんなやりかたはいけなかったってことは良くわかる」 「仲間たちや関係ない大勢の人間を不幸にしちまった……」
比べてみると明らかだが、『FF16』では、他人のために戦っていることを明言している。一方で、『FF7 』はあくまで「個人的な戦い」であることを強調している。 それがたまたま「星を救う」ことにつながっているという理屈で世界を救う。しかし根元にあるのは個人的な理由であり、あえてこの部分を強調するのだ。バレットもこの後のセリフで自分の家族や故郷のために戦っていることを認める。これはこれで理解できるものの、『FF16』の「すべての人のために」という真正面の正義とは明らかに違う。「個人的な戦いが、たまたま多くの人にとって良い結果をもたらす」という言い訳めいた理屈、そこには「政治的無関心 」を装うような態度が滲み出ている。「すべての人のために戦う」と正義を語ることを少し恥じる感覚が、『FF7 』にはあったと言える。 しかし『FF16』では、素朴にすべての人が人間らしく生きられるべきであり、不当な差別を受けることはあってはならない、それを正すために戦うのだということが明確に謳われている。「すべての人のための戦い」を恥ずかしいなどとためらいを持つこと自体が、その不当な差別や苦しみを受けている人への想像力を欠いているのではないか?という、とても現代的な感覚が『FF16』にはある のだ。一方で『FF7 』が発売された1990年代にはそういう「まっすぐな正義感は恥ずかしい」とか「素朴な正義を語らないほうが誠実な感じがする」という思い込みがあったのかもしれない。 また『FF7 』のバレットのセリフには、自分たちのテロ活動(魔晄炉爆破)を反省して「今となっちゃあ、あんなやりかたはいけなかったってことは良くわかる」と反省する発言がある。この点も、『FF16』とは異なる。『FF16』ではマザークリスタルという施設の破壊(テロ行為)が主人公たちによって行われるが、それはあくまで「人が人として生きる場所をつくる」という明確な目的意識と覚悟によって遂行されている。また『FF16』のヒロインであるジルは、かつて自分や自分の仲間を凌辱していた組織を壊滅させ、そのリーダー(司祭)を自らの手で殺すというシーンが明確に描かれる。正義のために必要な戦いがあり、それを安易に相対化して「正義の戦いだからと言って人に迷惑かけちゃいけない」とか「相手を殺してしまうようなやりすぎは良くない」などと、『FF16』では安易に反省したりしない。そういう安っぽい反省は「おかしい」という感覚が『FF16』にはある。 これらのセリフやエピソードから、『FF16』が『FF7 』と比較して大きく「正義」というものに対するその意識を変えていることは明らかだろう。
しかし、私がより強調したいのは、1997年の『FF7 』からここまで変わった2023年の『FF16』においてさえ、まだある種のためらいが残っている 点である。それが先のシドや吉田プロデューサーの「それは、あらゆる面での多様性とは言えないものの」という言葉だ。これはより広い視点で差別問題を捉えなくてはいけないという意図が含意されつつも、どこかで正義というものを相対的に見て、あらゆる多様性を踏まえた視点というのは「どだい無理なのではないか」という発想が潜んでいるように思える。そしてこれに「JRPG は差別的だ」という言葉を合わせて考えると、私には次のような思考が『FF16』制作陣にはあるのではないかと推測してしまう。それは「JRPG を作ってきた俺たち自身が、まさにその多様性からこぼれ落ちてしまうのではないか?」という違和感が彼らにはある という推測だ。先の「JRPG は差別的だ」と語られる前には、別のスタッフ*21 によって、次のような言葉が語られている。
吉田が伝えたいことは、私たちはゲームを作るときにJRPG を作っているのだと思って取り組んでいるのではないということです。私たちは単にRPG を作っている。JRPG という言葉は、欧米のメディアで使われている言葉であって、日本のユーザーやメディアで使われているものではない。
『FF16』の吉田プロデューサーをはじめスタッフたちがどのように思っているかは推測の域を出ない。しかし、私はこのJRPG という言葉ごときに「差別的だ」というコメントをしてしまった気持ちには、「お前ら、欧米メディアは多様性だなんだと言っている割には、JRPG という言葉を無自覚に使いやがるんだな」という苦々しい気持ちがあるような気がしてならない。もちろん、これは私の想像に過ぎないのだが、『FF16』を制作するスタッフたちの中に、そういうJRPG という言葉やイメージに対するある種のコンプレックスがあるのだとしたら、彼らには「正義のために戦う」ということに対する、一筋縄ではいかない感情があるのではないか。「あらゆる多様性」から簡単に漏れてしまうかもしれない日本のRPG 。正義に対する感覚が1997年の『FF7 』から大きく変わったとしても、そういう正義に対するどこか100%乗り切れない気持ちがあるのだとしたら、『FF16』という作品はどのように作られるのか。それはあくまで『JRPG (日本のRPG )』であることを否定しないままに、進化するということではないのか。そして、『FF16』を高評価する人の多くは、過去の『ファイナルファンタジー 』を肯定しつつ、矛盾したままに進化しようとする努力にこそ、共感しているのではないか。海外にもJRPG を愛する人 は多い。吉田プロデューサーが認める通り、昨今、JRPG という言葉にはネガティブな印象が段々と減ってきており、好意的な意味で使われることも増えてきている。しかし私を含めたゲーマーは忘れていないのだ。2000年以降、「JRPG (日本RPG ) vs 西洋RPG 」という枠組みで語られてきたことに対するコンプレックスを。そういうコンプレックスを、単に西洋RPG 的RPG を日本人が作ることで払拭できるのか。いやできないだろう。圧倒的なクオリティのJRPG 的RPG によってしか、これを克服することはできない。おそらく吉田プロデューサー自身、日本のゲーム業界で生きてきたというアイデンティティ を賭けた取り組みこそが、この『FF16』なのではないだろうか。過去の自分や自分の会社(スクエアエニックス )がやってきたことを全て肯定するのみならず、それを極限までに、そして過剰なまでに加速させる。そのことによって「ムービーだらけじゃないか」との批判や「探索しがいのないフィールドだ」と叩かれることも受け入れて、選択肢のほとんどないリニアな物語を徹底的に語り切る。『FF16』のシドは語った。すべての人が人として生きられる場所をつくるために闘うと。まさに『FF16』を作ることは、すべての人(JRPG 制作者)が人(RPG 制作者)として生きられる場所を作る闘争ではなかったのかと思うのだ。それは多様性という概念の真ん中で行われる戦いではない。 その周縁部、まさにキワの部分でなされた闘争なのだ。
『FF16』という終着点
『FF16』は日本のRPG が歩んできた道程の一つの終着点である。それは自らのアイデンティティ を賭した長い長い闘争の果てにある作品である。発売1週間で世界で300万本を売り上げ*22 、また称賛の声も少なくない現在の状況を見ると、これが日本人のみならず、多くのJRPG を愛してきた人たちの心の中のもっとも繊細な部分を刺激したのではないかと私は考える。JRPG スタイルを加速させるという反時代的な野望や理念だけが先行しているのではない。ゲーム内のあらゆる場面においてストレスを軽減し、快適さを向上させ、不自由かもしれないけど、退屈することのない体験をテンポ良く楽しめる、そこに愚直なまでにこだわる。そうした努力の果てに、JRPG の疵だと思われていた様々な要素が召喚獣 フェニックスのごとき「蘇生」を果たす。JRPG のスタイルでもここまでプレイヤーを楽しませることができることを示した。これが『ファイナルファンタジー 』というJRPG の歴史を背負ったシリーズ最新作だけがなしえる、傑作の傑作たる所以ではないだろうか。