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『ゴーストトリック』が13年経ってもプレイすべき傑作なのはなぜか?【ネタバレ無し】

ゴーストトリック』のリマスター作品が2023年6月30日に、Nintendo Switch/PS4/XBOX/Steamでリリースされる。元々は2010年にニンテンドーDSソフトとして発売された作品だ。私が今までプレイしたアドベンチャーゲーム*1の中で、最高と思う一本だ。

ゴーストトリック 公式サイト】

ゴースト トリック | CAPCOM

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正直、スマホ版が2800円で入手できる中で、リマスター版とはいえ3990円*2で売るのは中々強気だなとは思う。しかし、これもカプコンという会社が『ゴーストトリック』という作品を評価し、大切に思い、「安売りしないぞ」と考えているからかもしれない(勝手な想像にすぎないが)。

ゴーストトリック』を作った巧舟氏の脚本は、『ゴーストトリック』に限らず、現代ゲームにおけるひとつの頂点であると考える。『大逆転裁判1&2』も素晴らしかったし、『ゴーストトリック』も本当に素晴らしい。ラストに向けて、様々な事象が回収されていく、いわゆる「伏線回収」の面白さはさることながら、やはりタクシュー脚本の醍醐味はキャラクターが感じさせるある種の「悲しみ」の表現にある。初代「逆転裁判」の第3話トノサマンの回で、ラストに犯人が見せるささやかな悲しみ。それが実にサラッと表現される。決して派手でもなく、大袈裟でもない。憎むべき犯人が見せる悲しい素顔。2001年のデビュー作『逆転裁判』においてすでに、タクシュー脚本に潜む「悲しみ」の表現は秀でていた。

一方で、タクシュー作品は、どうしようもないギャグが満ちている作品でもある。『逆転裁判』の主人公の名前が「なるほど(成歩堂)」というのもふざけている。キャラクターの名前はほぼ全てなんらかの言葉遊びになっている。キャラの名前だけではない。『大逆転裁判』に登場する夏目漱石(あの文豪の夏目漱石だ)が「四字熟語をしつこく繰り返し叫ぶ」という謎のノリのギャグもある。『ゴーストトリック』も『逆転裁判』シリーズも、死を扱うゲームでありながら、このふざけたギャグ要素は、あまりにコミカルすぎるようにも思える。しかし、このふざけ具合がむしろキャラクターへの愛着へと染み込むように作用してしまうというのは、作品をプレイしたことのある人であれば分かってもらえるのではないだろうか。

テンプレのようなキャラ造形が制作のスタートラインにはあるのかもしれないが、それに止まらないことがタクシュー脚本によるキャラクターの魅力だろう。普段はよくふざけたり、おどけたりする陽気な友人が、ふとした瞬間に「深刻な悩み」を漏らし、思わずこちらがハッとしてしまう、そんな体験に似た意外性がタクシュー作品にはある。タクシュー作品の持つそういう感性は、主な登場人物たちに常に二面性があることで表現される。現実世界の人間は誰でも「見たまんま」ではない一面を持っている。しかしゲームのキャラクターには、どこか「見たまんま」が求めらることが多い。悪役には悪役らしくしていてほしいという、ゲーム特有の事情もあるだろう。『逆転裁判』シリーズも、そして『ゴーストトリック』もそうした要求には応えつつ、しかしさりげなく「もう一つの表情」を忍ばせる。その二面性が見せるキャラクターの奥行きによって、私たちはつい想像してしまうのだ。そのキャラがそのキャラではない時間があることを。それを殊更に強調することなく、ささやかに表現できる節度もまた、タクシュー作品の巧みさだ。

しかしタクシュー脚本がすごいのは、「ふざけた」キャラクターや世界設定を描きつつも、最後には「まじめな」話へとシュルシュルと回収されていき、それを不思議に思わせないドラマの巧みさにある。その長所を支えるのは、作品に感じられる「生真面目さ」であると私は考える。

例えば、『大逆転裁判』は1900年前後のロンドン(一部は日本)を舞台にしているが、史実や事実などに基づく比較的まじめな調査がされていることを感じる。同作には、ロンドン留学中の夏目漱石が登場するが、漱石自身は『倫敦消息』という文章で次のようなことを書いている。

吾輩は日本におっても交際は嫌いだ。まして西洋へ来て無弁舌なる英語でもって窮窟な交際をやるのはもっとも厭(きら)いだ。加之倫敦(ロンドン)は広いから交際などを始めるとむやみに時間をつぶす、おまけにきたない「シャツ」などは着て行かれず、「ズボン」の膝が前へせり出していてはまずいし雨のふる時などはなさけない金を出して馬車などを驕(おご)らねばならないし、それはそれは気骨が折れる、金がいる、時間が費える、真平だが仕方がない、(夏目漱石倫敦消息」)

この言いようなどはいかにも『大逆転裁判』の漱石を想像させる。有名な話ではあるが夏目漱石の留学は決してバラ色の留学生活ではなかった。『大逆転裁判』の夏目漱石はいかにも陰キャで、ややコミカルに描かれているが、本物の漱石からギリギリ想像できそうなキャラでもある。他にも、漱石は随筆などでカタカナで女性のことを「レデー」と書いている。ゲーム内でも漱石のセリフはあえて「レディ」でなく「レデー」としているのは、こうした漱石の文章を参照しているからでもあるだろう。(ちなみに、他の人のセリフでは「レディ」となっている。)

これ以外にも、『大逆転裁判1&2』の舞台である19世紀末のロンドンの警察官の勤務形態が過酷なことがエピソードとして盛り込まれている。最初にプレイした時には、本当に当時のロンドン警察はこんな大変だったのだろうか?と思った。1日のパトロールが何十Kmにも及ぶことなどがゲーム内でも語られていたからだ。しかし少し出典を探すと確かに該当する事実がありそうだということが分かる。ネットであれば、「ロンドンは如何に治められてきたのか?」という文章から以下の記述が確認できる。

しかし、郊外でのパトロールは持ち場が広く大変であった。警官は、どんなに寒い日で も、一晩で合計 20 マイル(32 km)ほどは決まったコースをパトロールしなければならず、 しかも、1900 年までは、パトロールの途中で休憩することもできず、暖かいものを飲んで 一息つくことも出なかった。(P28)

竹下譲(2003)「ロンドンは如何に治められてきたのか?」 自治体国際化協会

http://www.clair.or.jp/j/forum/series/pdf/h20_04.pdf

歴史を舞台とした作品を作る上では当たり前のことかもしれないが、ふざけた設定の割には、意外に『大逆転裁判1&2』は生真面目に歴史的事実を参照している。こうした丁寧な作りが、本作の物語の説得力を底上げし、「まじめに」捉えることを支えている。

しかし『大逆転裁判1&2』と異なり、『逆転裁判』シリーズや『ゴーストトリック』は、現実にはない架空の世界の話だ。『逆転裁判』はギリギリ現代日本を舞台にしていると言えるが*3霊媒師が死んだ人間の霊を呼び出したり、日本の検事がなぜか西洋貴族的な衣装を着ていたりする。荒唐無稽としか言いようのない無国籍的な雰囲気のある世界観だ。『ゴーストトリック』はさらにファンタジー色が強く、日本が舞台とさえ言えない。明確に現実世界とは異なる世界のお話である。そういう世界設定では、なかなか事実や歴史への参照は難しい。では、その設定で、どのようにして「まじめ」な物語を語っているのだろうか。

それはやはり巧舟氏の「まじめ」と「おふざけ」が独特の両立をしているからだろうと私は考える。どういうことか。それは「まじめ」と「おふざけ」の境界を明確化しているということである。タクシュー作品では、ギャグを言っている時や荒唐無稽なことをしている時、それが明確に「荒唐無稽」であることを示すように書かれている。それをかなり「律儀に」行なっていると言っていい。

タクシュー作品の主人公は比較的特徴のない凡庸なキャラクターであることが多いが、その凡庸な「普通人」たる主人公が、「まじめ」と「おふざけ」を切り替えるスイッチのような役目を果たす。漫才で言えばツッコミ役だ。現実的な世界と荒唐無稽な世界を、主人公が切り替えている。ある人物の「おふざけ」に対して、主人公による冷静なツッコミを入れることで、「おふざけ」から現実的な「まじめ」の世界に帰ってくる。しかし単にツッコミによって「おふざけ」を「まじめ」への切り替えをしているだけでもない。もう一つ「おふざけ」に対して独特の役割を主人公は持っている。それが「おふざけ」の世界への引き込み役としての役割だ。

逆転裁判』シリーズは、先ほども言ったように、霊媒師が死んだ人の霊を呼べるという突拍子もない設定の物語である。かなりふざけた設定に思えるが、主人公(成歩堂)は、序盤ですんなりとそれを受け入れる。彼自身も最初は面食らうが、この世界は、こういうルールの世界なんだと、荒唐無稽さを1つのルールとして受け止めるのだ。これは巧舟氏が好きな本格ミステリーの世界ではよくあることで、現実世界ではありえないような謎のカラクリ構造を持つ館など、それはそれで現実的にはおかしいのだけど、とりあえず「前提」として受け入れた上で話を進めようとすることに似ている。この世界の「前提」はあくまでお話やゲームを進める上での、ひとつの「ルール」として受け入れる。そして受け入れることで、逆に「おふざけ」と「まじめ」を共存させる。この両立の見事さこそが、巧舟氏の脚本のすごさなのだ。それは歴史上の事実を丁寧に参照するような生真面目さと通底している。「おふざけ」をルールとして受け入れ、位置付けをハッキリとすることで、逆に、「まじめ」に捉えるべき一面もどこにあるのかがはっきりしてくる。だからこそ、その「おふざけ」が「まじめ」な人間ドラマを必要以上に脅かすことがない。その「まじめ」と「おふざけ」の、どこか生真面目な両立こそが、本作を単に「現実離れした世界」になってしまうことを防ぎ、と同時に「現実離れした世界」を許容している。

これは『ダンガンロンパ*4など他のミステリーADVゲームの描写と比較すると更に明確だろう。『ダンガンロンパ』は、超高校級の能力を持つエリート高校生だけを集めた学園を舞台にしている。その能力は勉強やスポーツに限らない。超高校級の「アイドル」や「野球選手」、ぐらいまではまだ理解可能だが、ふざけたことに超高校級の「御曹司」なども出てくる。

設定だけ見れば、『逆転裁判』や『ゴーストトリック』と同じような、かなりふざけた設定である。しかしそのふざけ具合や荒唐無稽さが、どこからどこまでを範囲とするのかが、あまりよく分からない。これはその世界の「ルール」が分かりにくいということでもある(モノクマなどはその最たるものだろう)。その作品世界のルールとしてどこからどこまでをまじめに現実世界と同じであると考えていいのか、どこからが「ルール」でしかないのか。その境目をプレイヤーが判断することが難しい。結果として、その境目の判断をすることを放棄して「そういう世界なんだな」とモヤモヤしたまま受け入れるしかなくなる。しかしその境目を真面目に考えなくていいとなると、その作品はどうしてもどこか子供じみた印象を抱かせかねない。ドラえもんがいたら、世界の軍事パワーバランスが崩れてしまうのではないか?と心配する必要がないのは、『ドラえもん』という作品が子供でも親しみやすい世界であるからだ。どこかからどこまでが「現実的」で、どこからが「設定」でしかないのかが特に明言されない作りは意図的なものであり、『ドラえもん』は「それでいい」物語なのだ。

もちろんその人気や世間の評価から分かる通り、『ダンガンロンパ』は、かなり面白いミステリーADVゲームである。それは『ドラえもん』のように、「まじめ(現実)」と「ふざけ(荒唐無稽さ)」が混合した世界として受け入れられ、それがそれとして愛されているからだろう。このタイプの作品にはその良さがある。「現実(まじめ)」と「荒唐無稽さ(おふざけ)」を明確に切り分けてしまっては、気安く馴染みやすいコミカルな作品世界としては楽しめなくなってしまうだろう。

しかし、だからこそ、余計に巧舟氏の類稀なる才能を私は感じる。タクシュー脚本がすごいのは、こうした「現実」と「荒唐無稽さ」を明確に切り分けつつも、それを最終的には両立して描くということができる点にある。他の作家が真似しようと思っても中々真似できない巧みさは、正にここにある。多くの悪ふざけにしか思えないことが、物語のラストには、すべて必然の上にあったもののような気持ちにさせる。こんな風にプレイヤーをねじ伏せることができるのは、先述の登場人物の「二面性」の描き方にあると私は考える。キャラクターが抱える「悲しみ」こそが、「まじめ」と「おふざけ」でバラバラになりそうな世界を絶妙なバランスで繋ぎ止めるところが、タクシューのドラマのキモなのではないか。それは『男はつらいよ』で、寅さんと他の人たちを繋ぎ止めるのが、ある種の物悲しさであることと似ている。

ゴーストトリック』はプレイ当初に抱くキャラクターへの印象が、ラストでは絶妙に変化する。コミカルで死など恐れないふざけたキャラクターたちが、みな真面目に人生を生きていることが分かってくる。そんな風にまじめに考えるつもりなど更々なかったのに、いつの間にかまじめに彼らの生き様に共感してしまう自分に驚く。それを可能にしているのが「悲しみ」なのだ。この「ふざけ」と「まじめ」を混ぜ切らないで、しかし最後には見事に昇華させる離れ技は、現代のゲームにおいて『ゴーストトリック』がその頂点にある。13年経って、なお、そうなのだ。『ゴーストトリック』は13年経っても色褪せない、今もまだその輝きを失わない傑作である。

*1:本稿では、「アドベンチャーゲーム」という言葉を、選択肢を選んで分岐したり、何らかのパズルや謎解きを行いつつ、物語を読み進めることがメインとなるゲーム、ぐらいの意味で使っている。ノベルゲームやサウンドノベル、テキストアドベンチャーと言われる作品をイメージしている。「ADVゲーム」という言葉も同様。

*2:2800円はiOS版をはじめ、スマホ版の価格が2022年10月に改定された時の値段。3990円はSwitchなどのコンソールのDL価格。パッケージ版は4389円。2023.6.13現在。

*3:ちなみに海外版の『逆転裁判』では主人公の名前は成歩堂ではなく、フェニックス・ライト(Phoenix Wright)と日本名ではなくなっている。

*4:2010, スパイク・チュンソフト