ビデオゲームとイリンクスのほとり

ビデオゲームや映画を中心としたレビュー・コラム記事です。 Twitter ID: @turqu_boardgame

映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

「ソシャゲがダメな理由」なんて、そんな都合のいい普遍的な理屈など存在しない

わたしは、いわゆる「ソシャゲ」が嫌いだ。「ソシャゲ」という呼び名が良いかはよくわからない。「ガチャゲー」でもいい。とにかく「あの手」のゲームが好きではない。ちょっとばかし憎んでさえいると言ってもいい。しかしこんなわたしでも、ネットを見ていて常々思うのは「ソシャゲが嫌いなこの気持ちを正当化してくれる、都合のいい理由なんか、そんな簡単にはないぞ」ということだ。

 

やれ「ソシャゲはゲームとして低レベルだ」とか「絵柄で釣ってるだけ」とか「射幸心を煽ってる」とか「商売としての倫理がなってない」とか、まあなんでもいいのだけれど、そういう批判によって、「ソシャゲ」という一つのジャンルをみんなが納得するような普遍的な理由でもって貶めることができるという幻想を早く捨てるべきだ。そういう批判はすべてソシャゲ嫌いなハードコアゲーマーの愛する「正しいゲーム」にもいつかど真ん中でブーメランとして返ってくる。まあ、返ってこようとこまいとそんな事はどうでもいい話なのだが(本稿の主旨として)。

 

僕たちソシャゲ嫌いが辛うじてできることは次のことだ。

 

自分の嫌いを追い続けること。決してゴール(最終解決)に安易にたどり着かないこと。

 

それ以外にはやれることはない。ちなみに言えば、好きな理由についても同じように安易にゴールに至ってはいかんだろうと思う。が、それはまあ別の話だ。

 

ともかく、一番手堅い方法は(ジャンルではなく)個々の作品ごとに批判することだろう。それは多分最も正しい姿勢だと思う。しかしまあ、なかなかそれは難しい。だいたい嫌いなゲームをまじめに批判するまでやり込むのは、なんというか、それはそれで不健康な行為だ。そうなると普通は「分からないなら黙っておく」が正しいわけだが、これはこれでストレスも溜まる。適切に沈黙できる立派な人間ばかりではないし、わたし自身もそういうことが上手くできない。そこまで理解した上で、ではどうしても何かを表現したいならば、どうしたらいいのだろう。

 

それはもう素朴に「嫌いである」ことの無根拠さから逃げることなく、「嫌いである」と語るのが良いだろう。嫌いであることの理由や根拠。これが曲者だ。理由や根拠を述べるなということではない。その理由や根拠によって「わたしの『嫌い』が正しいものになる」と考えないようにすべきだということだ。だいたい、いかにソシャゲが駄目であるかを合理的に説明できると思うのは、ある意味「逃げ」である。自分のこの嫌いな感情を客観的に権威づけ、「他人任せ」にし、主観的であることから「逃げ」ようとするからである。「嫌い」は数学の公式のように無人称的に成立するものではない。わたしやあなたや誰かが「嫌う」からこそ、初めて生じるものだ。

 

しかし、理由なく何かを嫌うのは難しい。だから、たとえボロボロの論理でもソシャゲが駄目な理屈があると飛びつきたくなる気持ちは理解できる。しかしそういう中途半端な理由付けは、自分を縛ることになる。なぜならいつかあなたもわたしもソシャゲが好きになるかもしれないからだ。「おれは絶対にソシャゲなど好きにならない」そう思うのは自由だ。しかし、「今は嫌いだけど、もしかしたら好きなることもないわけではないかもしれない」そう想像するのが、ゲーム好きのサガではないか。色んなスマホゲームに裏切られてきた過去が実はどんなソシャゲ嫌いゲーマーにもあるのではないか。むしろスマホにも期待していたかつての自分の方が「ソシャゲ嫌い」に凝り固まる今の自分より、遥かに懐が広かったのかもしれない。人間は変わりうると想像することは絶対に損ではない。「変われ」と言うのではない。かもしれない、で十分だ。

 

仮にソシャゲのある特定の性質が嫌いな理由になるのだとしよう。しかしその性質を持ったあらゆるゲームを嫌う自信があなたにはあるのか。もし「ある!」と自信を持って言えるのならば、端的にあなたは勉強不足なのかもしれない。どんな趣味であっても、多数の作品に触れていると「なんで、おれはこの作品のことが嫌いになれないんだ?あんなに嫌いな要素があるのに!」と思うことがある。そういう自分の中の「他者」を発見したことが一度でもあるのならば、嫌っていい理由に簡単に安住してはいけない。少なくとも、普遍的にみんなが嫌うべき規範的な理由があるのだと思ってはいけない。

 

あなたの「嫌い」の根源的な理由づけは存在しない。しかしである。理由がなくても、あなたがソシャゲが嫌いだということは最大限に尊重されるべきだ。理由がなかったら嫌ってはいけないなどという法はない。嫌っていいのだ。わたしも嫌いだ。その理由を追求するのも良い。しかし簡単にネットに転がっている、Googleで検索したらすぐに出てくるような脆弱な理由付けに満足してはいけない。無根拠であることを、怯える必要はない。嫌いなものは嫌いでいい。堂々と「根拠はないが嫌いである」と言えばいい。

 

根拠なく嫌うことは傲慢にも見えるかもしれない。いやそれは傲慢である。しかし傲慢で良いのだ。だって趣味なのだから。中途半端な理由付けで自分の嫌いを正当化*1するより、よほど「正しい」と思わないだろうか。

 

 

 

*1:当たり前のことなので、強調するのも野暮かもしれないが、自分の「嫌い」を分析することにはとても意味があると思う。正当化というのが何を指すのかは明示していないが、「『嫌うべき』というニュアンスを帯びる」ぐらいの意味で本稿では使っている

『マーベル アルティメット アライアンス3』は素晴らしい作品だ

ニンテンドースイッチで2019年の7月19日に発売された『マーベル アルティメット アライアンス 3(Marvel Ultimate Alliance 3)』は素晴らしい作品だ。確かにマーベル作品をある程度知っていることが、この作品を楽しむ前提になるところはあるだろう。しかしわたし自身はそれほど原作のマーベル作品を知らないし、マーベル映画を好きでもない。そんな自分にとって、この『マーベル アルティメット アライアンス 3(以下MUA3)』がとてもステキな作品であったことが意外でもあり、嬉しいことでもあったので、それを伝えたいと思う。

 

本作MUA3は、かつて2006年に発売されたゲームの3作目に当たる。しかしそうした過去のゲームとの繋がりはあまり気にしなくても良いように思う。どちらかと言えばマーベル映画(特に最近のMCU作品)に馴染みがある方が、本作を楽しめるだろう。

 

ただ、わたしはMCU作品を7割程度は見ているが、マーベル映画を知っているというには中途半端な知識しかない。その上、特にルッソ兄弟の映画が好きではない。逆に好きなMCU作品は『ガーディアンズ オブ ザ ギャラクシー』と『キャプテン アメリカ : ファースト アベンジャー』。ルッソ監督作品に見られる「悩める人間としてのヒーロー」という描き方が、そのテーマを描くには底が浅いと普段から思っている。

 

MUA3は、そんなわたしだからこそ、素晴らしいと感じられる作品だったように思う。

 

無双ではない

本作は発売される前から「マーベル無双」とネット上では呼ばれていた。確かに開発はTeam Ninja であるためコーエーテクモの存在を想起させるし*1、PVでも多くのコピペ的な敵キャラをなぎ倒す作品に見えたため、そのような呼ばれ方をされたのだろう。しかし実際にプレイした感覚としてはかなり無双シリーズと異なる*2。まず第一に、敵の数は無双より全然少ない。一対多の戦いになる点では無双と同じだが、無双より敵は攻撃に積極的で、自キャラへのダメージは重い。総じて一対一の戦いの感覚に近く、敵の動きを見ながらこちらのコンボ攻撃をどこで止めるか、そしていつ回避行動を挟むかを考える必要がある。ただ『ニンジャガイデン』シリーズほどシビアさと工夫と複雑な操作が必要なわけではない。かなりそこはカジュアルである。

 

一見大味だが工夫しがいのある戦闘

では、MUA3の戦闘は面白いのだろうか。まだストーリーモードをノーマル難易度(MIGHTY)でクリアした程度だが、意外にもまだ工夫のしどころを新たに気がつくことがあり、思ったよりも単純ではないという印象である。戦闘は工夫の仕方が分かってくると非常に楽しい。本作にはレベル制が取り入れられているため、最終的にはレベルを上げてしまえば全て解決できてしまうという面がなくはないが、レベルが推奨値より低くてもスキル次第でなんとかクリアできる局面が多々ある。逆に、推奨レベルを満たしていても、ある程度のスキルと戦術を理解していないと全くクリアできないケースは多い。中でもINFINITYモードという特殊な条件下でお題を達成するモードでは、必殺技やシナジーと呼ばれる連携技の使い方を理解できていないとクリアは難しい。この戦闘システムを奥深いと言っていいかは若干悩むが、それでもただパンチを連打するだけのゲームではないことは確かである。海外レビューでも無双に言及するよりもMMORPGなどに似ているとの指摘が多い。これはオーバートップな画面視点もさることながら、スキル技をどのタイミングで出すか、どの順番で出すかがキモになってくるところも指しているように思う。実際、技の出すべきタイミングまで敵の攻撃をなんとか捌ききり、その後に大技を適切な順番で出して大ダメージを与えるというサイクルにはなかなかの快感がある。

 

ムービーパートが素晴らしい

MUA3のストーリーは単純で、悪い奴を良い奴が倒すという話でしかない。アメコミにありがちな悪い奴が仲間になる流れも特にヒネリも説明もなく、いきなり仲間になるパターンが多い。これを子供っぽいと表現することもできるが、むしろ、わたしは作品のこのやり方がなかなか「分かってるな」という印象を受けた。ムービーパートはほとんど『スマブラ』の参戦ムービーの連続のようでもあり、実に美味しい部分を凝縮した見応えのあるものになっている。このムービーパートの見応えは、結構歯応えのあるゲームパートとセットとなることで、良い感じにデザートのような役割を果たしている。また脚本について言うと、例えばロキの支離滅裂な行動を「なんなんだ?」とツッコミを入れるなど、妙に冷静な面もあったりするが、とにかくストーリーの理屈や構造をほとんど説明しない。この点については、最近のMCU映画作品群の「説明や理由づけや伏線回収しよう」という姿勢に対するアンチテーゼではないかという穿った見方をしたくなる。とにかく特殊な能力を持ってるから特殊なのだ、悪い奴だから悪いのだ、破壊したいから破壊するのだ、みんなを守るから守るのだ、というトートロジーしかMUA3は語らない。多種多様な奇妙な格好をしたスーパーヒーローたちが一堂に会して正義をなすという意味不明さを意味不明なまま表現するという潔さがこの作品にはある。くだくだと説明することのある種の「バカっぽさから逃げる卑怯さ」を告発しているようでもあり、コミック作品が本来持っていた粗野と粋があると感じた。

 

総じての評価

本作はメタスコアで73点(2019.7.27現在)という微妙な評価がされている。しかしわたしとしては85点くらいはあげていい作品だと感じている。40人近い登場キャラクターをある程度キャラ分けし、また戦闘での役割も違いを付けつつ、ここまでまとめきっているところなど、仕事としての完成度は非常に高い。ステージの構成やスタイルはいかにも古臭さはあるものの、ステージやボス戦ごとにギミックをちゃんと施して違いを出そうとしている点は意外に丁寧な作りである。成長要素などは凡庸でありつつも分かりやすくちゃんと機能している。唯一、(まだ十分にやってないが)ハクスラ的要素には浅さを感じる。なかなかアメコミの各キャラの濃さに合わせて作り込むことは難しかったのかもしれない。とは言え、ISO-8(鉱石)を集めるだけではさすがにハクスラとしてのモチベーションを保つのは難しいと思う。

 

本作はアメコミ原作準拠という「言い訳」によって、良い意味で「保守反動性」みたいなものをエンタメに綺麗に昇華できている。例えばサイロック(日本の女忍者の体を持つキャラ)の分かりやすいセクシーさは際立っていて、ここまで素朴なセクシーさを描くことは最近のディズニーではできないだろうと思われる*3。そのこと自体は別にわたしとしては良いと思うのだが、ゲームという媒体の社会的地位というか文化的地位が、原作が持っていたであろう粗野さを復活させる下地として機能しているようにも見えて、そこは面白い。一方で、サイロックのような素朴で保守的なセクシーさが大量に溢れてしまうような、半ば露悪的なノリがなく、本作には適切な「節度」の意識が感じられる。とにかくやりすぎない「ちょうど良い感じ」が、本作の達成であり、魅力である。古臭いアクションゲームだと、ただ捨て置くには惜しい、粗野な魅力と節度と意外に遊べるゲームシステムを兼ね備えた良作であると思う。

 

*1:エンドクレジットには少なくとも無双シリーズの開発をしているオメガフォースの名前は出てこない

*2:なお、わたしは最新作の『真・三國無双8』は未プレイであるため、『真・三國無双7』までの作品をイメージしていると思って欲しい

*3:原作準拠でもあるのだろうが、ガモーラの描かれ方もそう感じる

任天堂の持つ「遊び捨てる」感覚の美しさについて

任天堂は多くの人に愛されているゲーム会社だ。任天堂のやることは、とにかく素晴らしくて、面白くて、新奇性があって、と過剰に褒めたくなる人もいる。最近は話題にならなくなったが、今から10年くらい前、任天堂が2007年の10月にファミコンの修理サポートを終了させるというニュースが話題になった。

初代「ファミコン」など公式修理サポート終了 - ITmedia NEWS

 

このニュースを受けて「まだサポートしてたのか?」「こんなに長く修理を受け付けているなんてすごい」「利用者思いの優しい任天堂だ」という言説が大量に現れた。こうした任天堂を讃える感覚は多少理解できるものの、個人的にはどこか違和感を感じてもいた。任天堂ビデオゲームの中には、飛び抜けてクオリティの高い作品があることは確かだと思うが、時折現れる「任天堂は時代を超えるゲームを作っている」という主張にも違和感を感じている。先程のファミコンの長期サポートなどへの言説と同じように、それもまた任天堂に対する幻想に過ぎないのではないかと思う。

 

というのも、自分にとって任天堂は「遊び捨てる」ことを強く自覚した会社であるように見えるからだ。10年も20年も遊び続けるような、そんな「大人の遊び」ではない。気まぐれで、身勝手で、飽きっぽい*1。そういう子供らしい遊び方こそが、いかにも任天堂の提示する遊びだとわたしには思えてならない。任天堂こそ「長く継続しない遊び」を提供する会社だと感じている。

 

昨年(2018年)話題になった『ニンテンドーラボ』シリーズは、その意味において典型的な任天堂らしい商品だった。今なお『ニンテンドーラボ』を楽しく遊んでいるユーザーはどれだけいるだろう。いやもちろんゼロではないだろう。しかし『スプラトゥーン2』の方がよほど、長く継続的に遊ばれているのではないか*2。だからこそ、「遊び捨てる」という観点からは、わたしにとって『スプラトゥーン』は任天堂らしくない作品である。『ニンテンドーラボ』の方が任天堂らしいと思ってしまう。これはもちろん皮肉ではないし、もはや早々に粗大ゴミとなっているであろうニンテンドーラボのトイコンたちを馬鹿にしたいのではない。むしろ逆である。よくぞここまで思い切りよく「遊び捨てる」ことを覚悟できるているものだと思う。これはすごいことだ。

 

子供のためにおもちゃを買うようになって実におもちゃというものは「遊び捨てられる」ものだと思うようになった。子供は本当に飽きっぽい。えてして飽きそうなおもちゃの方が子供の興味を引く。レゴやカプラのような大人の選定眼にかなうようなおもちゃを子供は思ったほど欲しがらない*3。やはり「長く遊ばれる」おもちゃというのは偉大だ。レゴとかはつくづく良くできている。この「長く遊べる」という価値観はやはり魅力的ではある。

 

しかし考えてみると「長く遊べる」という価値は、とても即物的だ。それはいかにも定量的で、分かりやすく、大人らしく、ハズしにくく、保守的な価値観だ。単純化すれば損したくないということでもある。プレイ時間が長い、プラットフォームが変わっても遊び続けられる、暇な時間に入り込むようにして短時間で長い期間遊び続けられる。今、ビデオゲームの世界ではこうした「長く継続的に」という価値観がかなり幅を利かせている。もちろんそれは良いことではあるのだけど、瞬間的に盛り上がり、忘れ去られるという遊びには、独特の清々しさもある。「長く遊べる」が、どこか「長く遊ばさせられる」ことでもあると感じるからだろう。

 

「遊び捨てる」ということは、別の言い方をすると「卒業する」ということである。しかしこの「卒業する」という言葉は昨今とても評判が悪い。ネットでは「大人になったからといって、好きなことから卒業しなくていいんだよ」と優しく語りかけられる。それはもちろんそうだ。わたし自身、いい大人になってもテレビゲームという遊びから卒業できないオタクである。しかし、この「卒業する」というのは悪いことばかりではないと思うのだ。卒業するところから新たに生まれてくる価値観や世界もきっとあるだろう。それはより豊かになるきっかけでもあるはずだ。いやもっと正直に言えば、「卒業する」ことが悪いことばかりではないように、「ドップリと継続し続ける」ことが良いことばかりではないと思うのだ。

 

任天堂のゲームは子供向け、だと言われることがある。しかしそれは「卒業できる」作品だということでもある。かつての『Wii Sports』(そして『1 - 2 - Switch』)には、長時間プレイすると「休憩しませんか?」とプレイを中断させるお節介な機能がある。これはきっと任天堂の持つ「遊び捨てる」「卒業する」ことへのこだわりと繋がっているのではないか。そして、このことは遊んでいない状態があるからこそ、遊びがあり得るのだいう、遊びの原理的な特徴と合致しているのではないかと少し思っている。

 

 

 

*1:遊びの「飽きる」ということについて言及されている以下の記事には大きく感銘を受けた。松永伸司×吉田寛「遊び」をめぐる、ゲームスタディーズの新潮流『プレイ・マターズ 遊び心の哲学』刊行記念第1弾・「深まる」編 | かみのたね    個人的には「飽き」が新しいポジティブな価値を産む、という議論よりも、ネガティブな「飽き」がネガティブなままに価値を持つ、ということに興味がある。うまく言えないけれど。

*2:スプラトゥーン2の遊ばれ方が本当に「長い」かどうかは議論の分かれるところかもしれない。その他のオンラインゲームに比べて決して長いとは言えないし、しかし『マリオオデッセイ』よりは相対的に長く遊ばれているとも言えるだろう。ここではそのプレイ期間の長さ自体は重要ではない。

*3:おもちゃコーナーで、レゴの基本セットよりもCITYやNINJAGOシリーズのように特定のモデルを作って終わる自由度の低いタイプのレゴ商品の方が棚を多く占めていることは象徴的だと思う。

『デトロイト:ビカム ヒューマン』にしっくりこない理由

2018年にソニーインタラクティブ・エンタテインメントから発売された『デトロイト:ビカム ヒューマン(Detroit : Become Human)』という中々評判の良いゲームがある。この作品は、一般的にアドベンチャーゲームと呼ばれるタイプのゲームであり、いくつか提示される選択肢を選んでいくことで物語が分岐していく。アクションを巧みにこなしたり、パズルを解くようなゲームではなく、多様に分岐する物語を紡いでいき、その物語世界を体験してくことが主眼のゲームである。

 

デトロイト:ビカム ヒューマン(以下、デトロイト)』というタイトルにあるとおり、舞台は近未来のアメリカ、デトロイト。人間そっくりのアンドロイドが一般に流通している世界で、多くの家庭や職場でアンドロイドが導入されている。プレイヤーは様々な境遇にあるアンドロイドになって、選択肢を選んでいく。アンドロイドが「自我」を持ち、人間に奴隷のように扱われることに疑問を持つところから、物語は大きく展開していく。ラストは選択肢によって様々に別れるが、そこでは色んなタイプの未来、例えば人間とアンドロイドが共存する未来や人間とアンドロイドが戦争し合う未来などが描かれることになる。

 

これだけ聞くと、SFとしては非常にありふれた物語のように聞こえると思う。しかし、こんな世界設定であるにも関わらず「人間とアンドロイドの境目は何か?」という問題をほとんど『デトロイト』というゲームは突き詰めていない。そして、こここそが本作の特徴だと私は考える。*1

 

なぜ『デトロイト』が「人間とアンドロイドの境目は何か?」を掘り下げていないと私が考えるのか。それは、本作の「語り方」による。本作はアンドロイドの苦境を、人種差別問題のアナロジーとして表現しており、物語の後半は特にその色が濃くなる。ここが、本作を「人間とアンドロイドの境目は何か?」というテーマから遠ざける理由となっている。というのも、いわゆる反差別というのは「人間とは何か?」と問わないことを前提としていると考えるからだ。肌の色が何であろうと、どんな性別であろうと、どのような民族であろうと、どのような性的嗜好(志向)を持っていようと、同じ人間かを問うことなく、まず「同じ人間である」ことを前提として受け入れることから始まる。差別問題への対応の根本はそこにある。

 

そのためか、本作ではあまりにすんなりとアンドロイドが人間として扱われることが「正」とされる*2。つまり、差別への闘いとの類似性で語れば語るほどに、相対的に「でも本当にアンドロイドを人間として扱っていいのだろうか?」という問いは後退してしまう。仮にそのような疑問を持ってしまったら、人間とアンドロイドを区別(差別)することを正当化することに繋がる。つまり、「人間とアンドロイドの境目は何か?」というテーマを後退させるからこそ、アンドロイド差別を素朴に(人間同士の)差別問題としても捉えられるという構造になっているように思えるのだ。

 

この点をなぜ「しっくりこない」と思うのか。それは結局のところ主要なテーマでもある差別問題自身をも矮小化してしまうと考えるからだ。

 

アンドロイドの人間らしさを、『デトロイト』は、「言葉を喋る」「感情を表現する」「知性ある行動をする」「自分の意思を見せる」など、アンドロイドたちの「振る舞い」や「行動」によって示そうとする。『デトロイト』の提示する「人間らしさ」は、非常に行動主義的*3なのだ。そのため「では言葉を喋れない人間は人間か?感情を上手く表現できない人間は人間か?知性が低そうな人間は人間か?」という残酷すぎる問いがどうしても頭の片隅をよぎってしまう。差別との闘いはむしろこの問いから離れるところから始まる。どんな無愛想でも、冷酷でも、バカでも、「人間として生まれたからには人間」である。『デトロイト』の行動主義的な説明は、こと差別問題に関して言えば、「人間として生まれたからには人間」に匹敵するほどの説得力を持たないように思われる。それゆえ、アンドロイドに人間としての権利を認めることを、さも「正しい」ように表現しようとする『デトロイト』という作品に、どこか欺瞞めいたものを感じてしまう。

 

また『デトロイト』は、「アンドロイドも人間だ」を個人が受け入れる事と、社会や制度として整備していく事との違いに無頓着でもある。アンドロイドを人間として受け入れる個人がいることはもちろん理解できる(終盤の老刑事ハンクのように)。しかしそれはあくまで哀れみや同情などによる個人的な納得の問題でしかない。しかし、そんな個人的な納得だけが、差別への闘いの歴史を作ってきたのでは決してない。個人的な「かわいそうだから受け入れよう」だけでは、「社会が普遍的にアンドロイドを人間として受け入れるべき」という理由にはならない。あくまで「同じ人間だ」と認めるからこそ、社会は普遍的に差別を解消することに取り組んでいけるのだ。

 

このことは『デトロイト』という作品でアンドロイドたちが一体どの程度の権利を主張しようとしているのかが、あまりよく見えないというところにも現れている。人間と同等の権利を求めているのか、殴られなければそれで良いのか、不同意のセックスを拒否する権利を求めているのか、ただ「配慮」されればいいのか、バスで人間と乗る座席が区別されていることは問題ないのか、そこら辺が全く見えない。その「なんとなく自由」を求めるという曖昧さは、人間の差別問題のアナロジーで語るからこそ生じる語りの難しさである。黒人差別の比喩を多用しながら、アンドロイドが「人間と比べて限定的な権利」を主張するようにはできなかったという理由があるだろう。そのためにも、おそらく人間とアンドロイドは何が同じで何が違うのか?を突き詰めず、その主張する権利も曖昧に表現せざるを得なかったのではないだろうか。*4

 

結局のところ、『デトロイト』の物足りなさは、参照している現実社会のテーマ(差別問題)とその物語設定(人間と区別のつかないアンドロイド)がうまく噛み合っていないところにあるのではないだろうか。端的に言って「なぜ差別の問題を描きたいのにアンドロイドという設定が必要なのか?」ということに答えられていないように思うのである*5

 

【補足】

この記事を書いていて、2016年のディズニー映画『ズートピア』に、「人間」が登場していないということに改めて気がついた。『ズートピア』には、肉食動物も草食動物も様々な種類の動物が登場するのに、人間という種は出てこない。これは、人間という種が登場してしまうと、まさに「みな同じ人間なのだ」というメッセージが伝わりにくくなってしまうからではないだろうか。

 

ここからは妄想だが、例えば『デトロイト』の世界設定も、既に人間は滅びていて、そこには強者たる支配者アンドロイドと弱者たる奴隷アンドロイドがいて、その奴隷アンドロイドが権利獲得のために戦うというストーリーであれば僕も受け入れやすかったかもしれない。(仮に人間が出るとしても、人間たちは支配者アンドロイドに蹂躙され、弱い立場にいるという設定なら受け入れられるだろう) 

 

私には、『デトロイト』という作品が人間という立場の「強さ」そのものに対して思慮が足りないように思えたのかもしれない。

 

 

*1:プレイした人の中には「いや、そういうテーマを掘り下げている部分もあったんじゃない?」と疑義を呈す人もいると思う。しかし次から述べる構造的な問題がこのテーマを掘り下げさせないことになっていると私は考える。

*2:もちろん作品中のテキストとして「アンドロイドと人間を平等に扱うことが正しい」とは直接語られていない。そこはプレイヤーの選択に自由が与えられている。しかしいわゆる「グッドエンディング」に相当するより望ましいあり方が表現されていることから、その方向性を「正」と示していることは明らかだと考える。

*3:ここで、行動主義という言葉を使うのは適切でないかもしれない。人権が「生れながらにして享受すべき権利」とした場合と比較して「どう振る舞うから人間として扱われるべき」という思想が『デトロイト』にはあるのではないかを示す言葉として"行動主義”を使っている。

*4:人間以外の動物たちの権利をどこまで認めるか?というような「種差別」の問題に敷衍できる部分を『デトロイト』という作品が持っていることは否定しないが、しかしそういう議論に「なんかかわいそうだから認めるべき」程度の感情論をもたらす以上の意味を『デトロイト』は提示できていないんじゃないかと私自身は考える。

*5:別に差別問題を描きたかったわけではないのではないか?という反論もあると思うが、以下のインタビューで、製作者が「私たちはただの現実逃避ではなく、より深い体験をもたらす、私たちの暮らすこの世界と共鳴するゲームをつくりたかった」と語っていることからも、社会的かつ現実的なことを語りたいと考えていることは否定できないと思う。【ネタバレ注意!】『Detroit: Become Human』の生みの親デヴィッド・ケイジ氏によるQ&Aを公開! | PlayStation.Blog

『マインクラフト』を遊んでいると、自分の凡庸さがよく分かる

久しぶりに『マインクラフト』を遊んでいる。ニンテンドースイッチ版のマイクラを勢いで購入してしまったので、いちから遊んでいるのだが、やっぱり面白い。特にサバイバルモードの序盤の展開はとても良くできていると改めて感じた。

 

イクラは自分がいかにクリエイティビティがない人間なのかを教えてくれる。家を作ればいわゆる豆腐建築になり、内装はベッドとチェストとかまどが置いてあるだけの殺風景なものになり、塔を建てても1ブロックのひょろ長い土ブロックの塔を建ててしまう。レッドストーンで回路を作ろうと試みるもYoutubeで見つけた自動ドアを真似して作るのが関の山。あとはもう世の中の「すごい人たち」がマイクラで作った巨大建造物の動画でも見ている方が楽しいのではないかと考えたくなる。

 

それでもマイクラが何かを作る喜びを教えてくれることは確かで、その喜びを継続的に享受するには学ぶことが必要になる。マイクラはただ一人で黙々とプレイするだけではなく、他人から学ぶこと、もう少し言えば「真似すること」の大切さを教えてくれる。オリジナリティのある自由度の高い遊びが可能だからこそ、何か自分一人で考えて独創的な遊び方をしなければいけないのではないかと思ってしまいがちだ。しかし、自由度の高い遊びであるからこそ、どれだけ他人を真似ても知らず知らずのうちに自分のオリジナリティが出てきてしまう。良い意味で「いいかげんに」真似ているからそうなるのであり、しかし結局のところ、それが確かな自分らしさにもなったりする。

 

実は、そんな凡庸と独創の両立こそが『マインクラフト』の魔力であるように思う。

まだ「受付嬢」と呼ぶか。モンハンワールドの受付嬢を英語でなんと言うのか?

モンスターハンター』シリーズでは初代から「受付嬢」と呼ばれるキャラクターが登場する。2018年にリリースされた最新作の『モンスターハンターワールド(以下、MHW)』でも受付嬢と呼ばれるキャラクターがいる。下記の画像はMHWの公式ページにある登場人物紹介のページである。

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キャラクターの下に説明文があり、「編纂者」という文言もある。これが正式な職業名なのか、「受付嬢」が正式なのかはよく分からない。歴代シリーズのモンスターハンターで「受付嬢」と呼ばれるキャラクターは、ゲーム内でクエストの受注や破棄などを受け付ける係をしていた。MHWでも上記画像の女性キャラクターがその受付係の役割を担っていることから、このキャラクターはモンスターハンターの伝統に則り「受付嬢」と呼ばれているのだろうと考えられる。

この同じキャラクターが北米の公式ページでは次のように表現されている。

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名前は受付嬢ではなく、“The Handler”となっている。直訳的には「何かを扱う人」であるが、日本語の説明上はそれに直接的に対応する言葉はないように思える*1。ただ、このMHWの受付嬢は歴代シリーズの受付嬢と異なり、ハンティングの現場まで同行しアドバイスなどを実施する。”handler”はボクシングのセコンドを指すこともある単語なので、それをイメージして名付けられているのかもしれない。いずれにしろ、英語では「女性であること」に限定しない名前が付けられている。一方で日本語では、「嬢」という女性を表す言葉を用いている。

 

なお、MHWより前の歴代シリーズで個々の受付嬢たちは英語でなんと呼ばれているかというと”Moga Sweetheart”や”Behrna Gal”や”Guildmarm”などと呼ばれている。”Moga”や”Behrna”は村の名前である*2

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”sweetheart”を女性限定の表現とは言い難いが、”gal”や”marm*3”はそうである。また、歴代の受付嬢の職業を指す言葉は、ファン作成のWikiGuild Receptionist | Monster Hunter Wiki | FANDOM powered by Wikiaによると、”Guild Receptionists”や”Guild Girls”と記されている。日本語の場合、コンソール版では「受付嬢」、携帯機(PSP)では「ギルドガールズ」、PCの『モンスターハンターフロンティア』では「ガイド娘」と呼ばれており、一貫して女性であることを示す言葉が採用されている*4。ただ、”Sweetheart”や”Gal”という言い方から、MHWより前の作品では日本語でも英語でも受付係が女性であることは素朴に当たり前の前提とされていたように見える。

 

ところでクエストの受付係が全て女性かと言うと例外が2人だけ存在する。初代『モンスターハンター』のココット村の村長および『モンスターハンター4』の酒場のマスターの2人はクエスト受付係を行う数少ない男性キャラクターである*5

 

繰り返すが、最新作のMHWの受付嬢はこれまでの受付嬢のキャラクターとは大きく異なっている。MHWより前の作品の受付嬢は決して危険な狩りの現場であるフィールドに出向くことはなく、あくまで村の中という安全圏において事務的な受付係をしていた。一方でMHWの受付嬢は、アクティブで危険な現場にも臆することなく出かけるし、いわゆる古臭い「女性らしさ」とは違う印象を与えるキャラクターである*6。これまで日本でのヒットが際立っていたモンハンシリーズを世界市場でヒットさせるために、サポート役の女性キャラクターもグローバルな描き方へとアップデートする必要性があると制作側が認識した結果だろう。結果としてどれだけ「グローバル基準」に合致できたのかは議論の余地が大いにあるところだろうが、歴代シリーズの受付嬢と比べて大きく違うキャラクター描写になっていることは確かである。

 

さて、こうして見てみると、今なお日本語でわざわざ「受付嬢」と呼ぶ必要性がどれだけあるだろうかと思わないではない。その呼び方を「守る」ことでカプコンは日本のモンハンプレイヤーに何かしら伝えたい思いがあるのかもしれない。しかし最新作のMHWでは、現に英語で彼女を”Guild Receptionist”や"Guild Girl(gal)”と公式では表現していない*7。公式としてもモンスターハンターの次回作か次々回作ぐらいには男性の”The Handler”が登場する可能性も高いだろう*8。だとすると、その「受付嬢」という呼び名は、そろそろ、ささやかなノスタルジーとともにお役御免してもらってもいいのかもしれない。

 

 

*1:ネット上のオックスフォード辞書ではhandlerを”A person who handles or deals with certain articles or commodities.”とある。ここでの”articles”は記事とか論文を意味するわけでなく、物一般を指すのだろうか、どうなんだろう。また、論文雑誌の編集委員などを”handling editor”と呼ぶことなどから、もしかしたらこの”The Handler”が日本語ページにあった「編纂者」に対応するのかもしれないと思ったが、それは違うかもしれない。どなたか分かったら教えてほしい

*2:なお、受付嬢は固有名としての名前( ベッキーとか)も一応持っている。

*3:女性に対する丁寧な表現ma’amの別スペル。マダムmadamから来ている言葉。marm | Definition of marm in English by Lexico Dictionaries

*4:参考ページ受付嬢 (うけつけじょう)とは【ピクシブ百科事典】

*5:参考ページ世界観/龍識船 - モンスターハンター大辞典 Wiki*

*6:MHWより前の作品でいかにも女性的な「かわいさ」が強調されがちだった受付嬢たちも裏設定としてモンスターやその生態に関わる知識についてはエキスパートであるとの説明が一応「言い訳」のようになされてはいた。単なる可愛いだけの女の子じゃないんだぞ、ということだろうと思う。

*7:ただ、ファンメイドの英語モンハンWikiでは、"The Handler”は歴代の「受付嬢」が並ぶGuild Receptionistの項目に分類されている。Guild Receptionist | Monster Hunter Wiki | FANDOM powered by Wikia

*8:参考ページTIL Male Version Of Handler Existed (In Concept Art) : MonsterHunterしかしこのコンセプトアートにいかにも「男の娘」を想起させるような走り書きがされているのを見ると、いかに受付嬢は女性に固定したいという観念が強いか、逆に伝わってきて感慨深い。しかし、そんなゲーム業界も地道に変わってきている。

『プレイ・マターズ 遊び心の哲学』感想文

面白かった。特に最後の方のチャプター7「デザインから建築へ」とチャプター8「コンピュータ時代の遊び」の各章は、ほとばしるドライブ感が楽しい。挑発される気持ち良さがあった。

 

本書はゲームについての本ではなく、「遊び」を主題としている。そして、遊びに力点を置いた上で、ホイジンガやカイヨワとは違う視点で遊びを捉えている。その特色は次の7つの特性に現れている。

 

【遊びの七つの特性】
・遊びは文脈に依存する(contextual)P22
・遊びはカーニバル的なものであるP30
・遊びは流用的である(appropriative)P30
・遊びは撹乱的である(disruptive)P34
・遊びは自己目的的である(autotelic)P36
・遊びは創造的である(creative)P38
・遊びは個人的なものである(personal)P39

 

これらの特性はホイジンガやカイヨワの議論では扱いが低かったように思えた「遊びの遊びらしさ」をすくい取っているように感じる。遊びの持つ「不真面目さ」とはどういうことなのか、それをかなり真っ直ぐに表現してくれているように思った*1。上記の7つの特性の中で最も頻出するのは「流用的である」という表現だ。どう解釈していいのか難しい面もあるが、だいたいにおいて「本来の目的とは違うあり方で表現したり用いたりすること」と捉えて読んだ。この(本来の目的との)「ズレ」こそが遊びの本質的な1つの側面を示していると思った。Chapter2「遊び心」の章でも言及されるが、この「ズレ」は真面目な行為に対してだけでなく、遊びにおいてもまた発揮される。このことは、次に挙げるような遊びを「両義性のゆらぎ」として捉える記述とも関わるのではないだろうか。

 

「秩序と混乱の戦い、創造する意思と破壊する意思の戦いである(P28)」

「抵抗と服従のあいだの絶えざるダンス(P90)」

「いずれの活動も、複数の境界、複数の意味のあいだを行き来できるという両義的な性格を持っているからである(P132)」

「遊びの美は、しばしば統制と混沌の緊張関係のうちに生じる(P133)」

「本書では遊びを、流用とそれに対する抵抗のダンスとして、〜(P155)」

 

遊びが流用的であるとすると、そのあり方はかならず「本来的なもの」を前提とする。常に「本来」を念頭に置きつつ、そうでないものを志向する行為を遊びと言うならば、遊びが即自的に遊びであるということはあり得ないのかもしれない。それがつまり「両義性のダンス」というような表現になるのだろうか。そしてこのダンスというのは常に二つのフラットに並んだ項の往復だけではなく、よりメタ的に発展していくケースもある。遊びをさらに遊ぶことで、また別の遊びになるような場合がある。こう考えると、遊びの持つ「破壊力」は、なにかこう徹底したところがあると感じた。

 

Chapter7「デザインから建築へ」のゲームデザインに対する論考も読んでいて非常にワクワクした章だった。これは最近のAAA大作のビデオゲームを遊ぶゲーマーにとって非常にアクチュアルな議論ではないだろうか。あまりに整備されすぎてプレイヤーを「そのようにしか動かせない」ようにする遊びは、はたして本当に遊びなんだろうか?という問題とも思えたからだ*2。高度にデザイン(設計)されたゲームを遊んでいるときに、「俺はゲームを遊んでいるのか、ゲームに遊ばされているのか?よく分からない」という感覚に陥ることがある。当たり前のように「遊び」だと思っているビデオゲームが「遊びらしく無い部分」を孕んでしまう。それをゲームデザインという言葉から炙り出している点が面白い。遊びの主体は誰なのか?というのは、重要な問いだと思った。

 

また、この点はChapter8「コンピュータ時代の遊び」にもつながる。コンピュータによって実装されるルール、その「システム」は「遊び」と決定的に違う部分がある。

 

「遊びはパフォーマンスであり、事を起こすことである。それに対して、「システム思考」は還元であり、事を収めることである。(P153)」

 

デジタルゲームアナログゲームを比較した時に、ルールが幾分自由になるアナログゲームの方がより「遊び的」であるように感じるのは、ロマン的なものの見方もあるだろうが、こうした「システム思考」の侵入度合いが、デジタルゲームの方が高いからだとも考えられる。

 

そして何よりChapter8で面白いのは次のテーゼだろう。

 

「あらゆる電算処理は遊びである(P159)」

 

コンピュータがプログラムされて動く様が、遊びとして解釈される。「プログラムが機械を流用してプログラム自身を表現する」のは、遊びが何かを別のものとして流用して自己表現することと類似している。それは個人的であり、表現的である。本書では明確に指摘されていないが、遊びの自己目的的な特性もまた、コンピュータの多目的であるがゆえの「無目的性」に近いとも感じた。コンピュータをハックする「遊び」が、コンピュータというものの特性とも繋がるこの議論は、なぜこんなにもコンピュータと遊びは相性が良いのかという疑問に一つの考える道筋を与えられたような気がした。一方で先述の「システム思考」と「遊び」の決定的なちがいを合わせて考えると、まだまだこの辺りも色々と議論を深めていく余地がありそうで面白い。

 

ゲーム研究では置いていかれがちな「遊び」の側面を強調してくる本書は、ゲームというものを考える上でも大きな刺激になる本だと思った。

 

 

*1:特にカイヨワの議論について言えば、遊びの不真面目さという特性を全く無視しているわけではないし、扱いが低かったというのは言い過ぎかもしれない。しかしシカールの方がもっと直接的にそういう「遊びらしさ」に踏み込んでいると感じる。例えば、カイヨワの『遊びと人間(講談社学術文庫)』のP89にある「遊びと日常生活がまじりあうようなことがあれば、遊びの本質そのものが堕落し、破滅するおそれのあることは、たやすく予見できるのだ」という考え方とシカールの議論は大きく異なっていると思う。

*2:自分は読んでいて『レッド・デッド・リデンプション2(RDR2)』を想起した