ビデオゲームとイリンクスのほとり

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『FF16』の後半の物語はつまらないのか?ミュトスとロゴスについて

週末批評に寄稿した以下の記事とは別にストーリーの内容についての記事になります。

加速する “JRPG” の到達点──『ファイナルファンタジー16』がそれでもムービーにこだわる理由|すみ | 週末批評

「『FF16』の前半は面白かったんだけど、後半になってつまらなくなった」という意見がある。私自身は別記事などに書いた通り『FF16』を絶賛するし、後半も面白いと思うけど、この意見はとても興味深い。そしてある意味、ここが1番、『FF16』の物語評価で差異が出るところだろうと思う。

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後半のイマイチなポイント

『FF16』後半の物足りなさを象徴するキャラクターは、まず第一にバルナバスだろう。主人公クライブのライバル的な存在かと思い期待した人も多かったはずだ。しかしラスボスのアルテマを狂信するマザコン男というかなり弱っちいキャラに収まってしまい、思ったより魅力的には思えなかった。

f:id:tuquoi:20240211090421j:imageバルナバ

そのほかに、ミスリルパーツ集めクエストの凡庸さも、後半の印象の悪さに繋がっているかもしれない。このクエスト、サブクエを単純に集めただけのような構成で盛り上がりに欠けた。この2点だけではないが、『FF16』の後半がつまらないというのは十分理解できる意見だ。

また、多くの人が指摘していることではあるが、ラスボスのアルテマが「普通すぎた」という印象を持った人も多いだろう。あまりに単純な悪に見えるし、やろうとしていることがエヴァの「人類補完計画」の真似事のようでもあり、「凡庸」と感じる要因となっても不思議ではない。私としても「『FF16』は敵の魅力が今ひとつなんだよな」という意見には賛成する。

f:id:tuquoi:20240211090457j:imageアルテマ

ただ、『FF16』後半のストーリーにも魅力はあると思っている。ラストの「泣き」の入るところを除いてもちゃんと魅力があるストーリーである。まあ、個人の妄想的な解釈なので、笑って読んでもらえればと思う。次から順番に語っていこう。

クライブがロゴス?

まず、『FF16』の後半というか最終盤で1番個人的に驚いたのは「クライブがロゴスと呼ばれたところ」だった。なんのこっちゃというところだが、クライブが序・中盤くらいで、ミュトスと呼ばれた時に「ああ、じゃあ、ロゴスが出てくるんやな」と予想した人は多かっただろう。

f:id:tuquoi:20240211090535j:imageクライブはロゴス

とはいえ、『FF16』のミュトスとロゴスが、ギリシャ哲学などで語られるような意味で使われているかどうかはハッキリしていない。そのあたりのことは、意識的かどうか分からないが、曖昧なままであるからだ。すごく素朴に言ってしまうが、Wikipediaにある通り「ロゴスは、ミュトスと対比して用いられていた」言葉だ*1。ロゴスはロジックやロゴの派生元の言葉であり「理性、論理、言葉」ひいては「知性、学問、科学」を意味することもある。
 一方、ミュトスは神話を意味する英単語”myth”から分かる通り、(これまた雑で恐縮なのだが)宗教的、神話的なものを意味する。「神話から科学へ」の意味で、「ミュトスからロゴスへ」なんて言い回しがされることもある。 この二つ(ロゴスとミュトス)は対立するイメージが強いため、最初にクライブがミュトスと呼ばれたところで、その対比を知ってる人の多くは「ああ、じゃあラスボスのアルテマがロゴスなんやな」と思っただろう。少なくとも私はそう思った。この2つの対比を知っている人なら、まあそう思うのではないか。
 で、このミュトスとロゴスの対立という話であれば、実に普通で凡庸な物語だ。最後は神的な存在を殺して終わり、というよくある神殺しの物語。その手の話は結構、この対比フォーマットに乗っている。ラスボスに、自らの「正しさ」を恃む傲慢な態度、というスパイスを加えれば、いっちょでき上がりだ。
 で、『FF16』は正にそういう物語にも見える。めちゃくちゃありがちな物語に見えるのも不思議ではない。しかし私がこの『FF16』がその手の物語と「ちょっと違う」と思うのは、ラストバトル前に「クライブ自身がロゴス」と呼ばれたところなのだ。ここでは神であるアルテマに等しいものとなった程度の意味でも解釈できるが、クライブ自身がロゴスと呼ばれることで、クライブは「ロゴス=知」を仮託された存在であることも示唆している。ベースプロットとしては「合理性=ロゴス」の塊であるアルテマを倒すという話ではあるのだが、そのために必要だったのも「ロゴス」だった、という点に捻りがあると感じて面白かった。

『FF16』のロゴス重視

なぜ「ロゴスの獲得」が重要なのか。普通のJRPGであれば、「主人公は優しさや絆のような謎の超パワーで、ラスボスである神をやっつける」という話が多い。それはつまり、ミュトス的な超パワーでロゴス的なラスボスをやっつける話だということだ。けれど『FF16』は違う。
そもそも「知=ロゴス」の重要さを、『FF16』はラストにだけいきなり登場させているわけではない。後半からずっとロゴスの積み重ねを描いてきている。それをよく示すのが、ミドやヴィヴィアンの存在だ。ミドは大学に通い科学(機械工学)を学び、ヴィヴィアンは大学の先生だった。大学とは正に「人類の知性」を象徴する施設だ。

f:id:tuquoi:20240211090639j:imageミド

ミドはその大学で得た知識によって高速船を作り上げ、クライブを支える。ヴィヴィアンもまた学問的な分析によってメインクエストの方針を示す。『FF16』はその「知」を使って、魔法やクリスタルという「知ではないもの」の呪縛から逃れる物語でもある。

f:id:tuquoi:20240211090654j:imageヴィヴィアン

そしてジョシュアは人類の来し方を探る「歴史研究者」とも言える。ロゴスと言っても理系的な知だけではなく、人文的な知がジョシュアに託されている。ラストでジョシュアの力を吸収して、クライブはアルテマと互角の力を得たが、これは召喚獣の能力だけでなく、ジョシュアの「知」を獲得することにより、クライブのロゴスとしての完成を意味するのではないか。現に、この後から「クライブがロゴス」と呼ばれるようになる。

f:id:tuquoi:20240211133945j:imageロゴスとなったクライブ

なぜ『FF16』では「知=ロゴス」の獲得が重要なのか。それは「知」により魔法を使わないで済むようになるからだ。逆に言えば魔法に頼っていたから、鍛冶で使う炉やふいごのような「知=科学」さえ確立できなかった(この辺りはブラックソーンのサブクエで描かれる)。魔法という便利すぎるものによって、人類はその進歩を止めてしまっていたのが、『FF16』という世界の現状だった。それを変えたのが、クライブたちの戦いなわけだ。
 ラストのエピローグで子供が火打石で火を起こしている場面が感動的なのは、そうした「科学」が浸透し、人類が歩みを進めていることが分かるからだ。

f:id:tuquoi:20240211090727j:image火打石で火を起こす子供

科学によって火を起こすのは魔法より面倒かもしれない。けれどベアラーを奴隷化し「物扱い」して火を起こさせるより、遥かに良い。遥かに人間的である。
 このように見てみると、既存のJRPGでよくある「合理的で理屈っぽい傲慢な神様を、なんだかよく分からない友情・絆という不条理パワーで倒す物語」と『FF16』は大きく異なっている。『FF16』は「知=ロゴス」がないとダメで、「不条理パワー=ミュトス」だけだと勝てないと言っているのだ。
このことを補強するのが、『FF16』における魔法の立ち位置だ。大抵のRPGで魔法は「知性=ロゴス」に属することが多い。しかし『FF16』では魔法は「神話=ミュトス」に属している。『スカイリム』で魔法は「ウィンターホールド大学」で教えられていたことを思い起こして欲しい。しかし『FF16』では、魔法は大学で学ぶものではなく、遺伝かクリスタル(謎物質=ミュトス的)を介して使うものだ。この「魔法」というものの位置付けの特殊さは注目に値する。
しかしこれも、現代の、そして現実の世界では当たり前の話だ。「魔法そのもの」は、「学問」や「知性」でありえない。ある意味、『FF16』はめちゃくちゃリアル世界の理屈を描いているとも言える。ファンタジー作品なのに。いや、だからこそ、最後にファンタジーを消し去る展開と整合する。「ファイナルファンタジー」のタイトル回収とは、そういうことなのだ。
そしてハルポクラテスという語り部もまた「ロゴス」という観点で興味深い。羽ペンという言葉(ロゴス)を書き記す道具がクライブに託されるのも、ロゴスの継承を意味するのだろう。そしてスタッフロール後のカットシーンで出てくる書物はロゴスの塊とも言える。

f:id:tuquoi:20240211090810j:imageラストの書物

歴史を探究したジョシュアが、言葉(ロゴス)によって、ファイナルファンタジーという神話(ミュトス)を書き残す。ロゴスの中だけで、ミュトスが生き残るのだ。この構図も非常に面白い。ロゴスに囚われたミュトスと考えれば、そこから更なる続編を考えたくなってしまう。

ミュトスとロゴスの合体は「答え」か?

ミュトスとロゴスの合一を果たした究極体であったクライブ。彼はなぜ死ななければならなかったか。ミュトスとロゴスが合一を果たして、「最強」になったのなら,その凄い力を使って良き世界を創れば良いのでは?と思うかもしれない。しかしそういう物語を描かないことこそが『FF16』の信念だった。そんな都合のいい「魔法」のような解決策はない。苦しみながら、少しずつしか世界は良くなっていかない。

このことを示すのが、アルテマとクライブの最後の会話だ。

f:id:tuquoi:20240211090848j:imageアルテマとの会話

すごい力で他者をひれ伏させることが人の生き方ではない。時にはすごい悲劇が起きたとしても(例えば暴力的な革命とか)、人は一歩一歩改善させつつ進んでいくしかない。魔法で物事を一挙に解決させることが「答え」じゃない。クライブの覚悟はそういう意味で重い。「苦しんでもいい」と言うわけだからだ。
しかしここで、『FF16』は、ある意味、人間の理性を信じて、それに託すだけではない面も見せる。理屈(ロゴス)だけで世界は進むのではない、という面も見せるのだ。そして、実はそのことを多くの人は薄々理解している。不合理なもの(ミュトス)を内包しながら人は生き、それをどこかで許容して生きている。それはクライブも同じなのだ。アルテマの超傲慢な完全生命魔法「レイズ」を、超個人的な弟の命を助けるという、極めて私的な目的のために利用するのだ*2。それは見ようによっては、人類に対する裏切りなのかも知れず、とてつもなく不合理なことなのかもしれない。しかし正にそういう不合理さを見せるところにこそ、ロゴスとミュトスの溶けきらない混交という描写が成立しているのであり、それがおそらく『FF16』の一つの倫理のあり方なのだろう。

なぜアルテマは「殴られた」のか?

ラストの「殴り」のシーン。これはびっくりした人も多いだろう。拳で行くか?と。しかしこれもまた『FF16』らしいバランス取りなのだ。ロゴスという理性とミュトスという魔法が合体した先にあるものは暴力であり、その象徴としての拳なのだ。

f:id:tuquoi:20240211090913j:image殴られるアルテマ

ロゴスという知を活用しつつも、融和や包摂によって物事が解決するわけではない。熟議を通した理性ある対話によって平和を築くことの限界。そして一方でゲームというメディアでは求められる「力」を、キレイにだけ見せないようにしたいという誠実さ。暴力を誤魔化すようなことはしないという覚悟を、最後に剥き出しの暴力「拳」として表現する。これぞ、ロゴス重視からの急転直下の逆張り!と言ったところだろう。とても『FF16』らしい。ロゴス重視だからこそ、ロゴスに偏りすぎないようにしたいというバランス感覚が、クライブに「拳で殴る」という野卑さを感じさせる行為をもたらしたのだろう。
だからこそ、一層、最後にクライブは死ぬしかなかった。ミュトスとロゴスの二つを合わせて「究極」になって人を導けばいい!のではない。人らしく生きるとは、そういう「究極的な暴力」に頼ることでは「ない」と『FF16』は言いたいから、彼は死ぬしかなかった。
『FF16』が現代的なのは「ロゴス」を引き受けたところだ。「ミュトス」だけではダメだと分かっている。コロナ禍や地球温暖化など、今や意外に多くの人が「知」というものの重要さを、そして『FF16』開発者も肌身で感じているからこその「ロゴス重視」なのではないか*3。それゆえの逆張り的な「殴り」。いずれにしろ、人間の作り上げた「知の体系」が本作では意識的に重要な立ち位置となっている点は確かだろう。それはFFシリーズで、科学と魔法の両立した世界を描き続けてきた、その従来のFFシリーズらしさを現代的に描き直した描写とも言えそうだ。

クライブは生きているのか?

なおネットではクライブの生存説がよく唱えられている。私自身は上記のように作品を解釈しているため、彼は死ぬしかないと考えている。石化して失われることに意味がある。

とはいえ、『FF16』は娯楽作品である。この後、「実は生存してました、てへ」とあっても不思議ではない。まあ、「それはそれ」だろうと思っている。

*1:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B4%E3%82%B9

*2:ただ、ゲーム内でレイズの力によってジョシュアを助けたかどうかは、ややハッキリしない

*3:なお、魔法は「知」ではない、かどうかは本編だけからだとよく分からない。もしかしたら魔法を研究するゲーム世界の中の大学の機関もあるのかもしれない。ただ、それを示す描写が極端に少ない(ほぼない?)。もしかしたら、魔法を「知」と捉えていたのはアルテマだけだったかもしれない

『バルダーズゲート3』と生魚を食べられないヨーロッパのおじさん

今年、アメリカのThe Game Awards(TGA)というビデオゲーム 界で最も有名な賞イベントにおいて、Game of the Year(最優秀作品賞)を獲得したのは『バルダーズゲート3』だった。既に『バルダーズゲート3』はその前哨戦とも言えるイギリスのGolden Joystick Awards賞で、GOTYを獲得しており、『バルダーズゲート3』がTGAにおいてもGOTYを取る可能性は高かった。しかし、TGAの今年の授賞式時点(12/7)において、日本で『バルダーズゲート3』がまだ発売されておらず、多くの日本人にはその賞レースの白熱具合が今ひとつ肌感覚で理解できないところがあった。

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その『バルダーズゲート3』がようやく2023/12/21に日本でも発売された。噂通りのすごい作品だったが、この作品に対する戸惑ったような日本での受容のあり方が実に興味深かった。Amazonレビューでは以下のような評価になっている(2023/12/25現在)

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5点満点中、3.1点。かなり低い評価だ。ちなみに、今年賞レースで1位を張り合ったのは、任天堂の発売する『ゼルダの伝説 ティアーズオブザキングダム』。その同じAmazon評価は以下の通り。

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4.8点。かなり高い。

もちろんAmazonレビューが客観的な評価だと言いたいのではない。ただ、ネットなどを見ていても、多くの人が『バルダーズゲート3』に戸惑っていることが、よく分かる。

神ゲーだと聞いていたのに……」

「おもしろくない」

「これが今年最高のゲーム?」

「そんなに面白い?」

『バルダーズゲート3』に対するそんな声が、やや遠慮がちに聞こえてくる。「思ってたんと違う」と、一言で言えばそうなのだろうが、しかし、この戸惑いこそが異文化が接するあらゆる場面でありそうな「何か」を示している。

わたしは、この日本における多くの『バルダーズゲート3』への戸惑いの様を見た時に、以前、テレビで見た日本料理を海外の人に食べてもらう番組を思い出した。その時に出演していたヨーロッパの実に人の良さそうなおじさんの顔を思い出す。

その番組(NHKだったような気もするが、違うかも)では、ヨーロッパの(ベルギーだったか、チェコだったか、どの国か全然覚えていない)ある街の夫婦に日本料理を食べてもらう企画だった。奥様は料理好きのいかにも人の良さそうな感じ。夫のおじさんも実に善良そうな人だった。その2人が日本料理を食べるのだが、奥様はなんでも食べる。「おいしいわ」なんて言って、朗らかに食レポをする。おじさんの方も基本的にはそういう明るい振る舞いだったのだが、そのおじさん、絶対に生魚だけは食べなかったのだ。番組側も生魚を食べようとしないおじさんに何かツッコミを入れるわけではない。ただ淡々とその2人を映していた。

わたしはその姿を見た時に

「わかるよ!わかる。絶対、生魚食べたくなかったんだよな。そういう文化が他所にあることは理解するし、別に不味いわけじゃないんだろうけど、どうしても食べたくなかったんだよね」と思った。

そのおじさんは生魚の料理(刺身だったと思う)を食べたことがないのかもしれない。しかし妻がそれを美味しそうに食べてることに文句を言うわけでもなく、自分が食べないことに言い訳するわけでもなく、ただただ彼は食べなかった。何も言わずに食べなかった。その姿に私は、言いようのない共感を感じてしまった。そして思った。彼は良い人だと。知らんけど。ちなみに断っておくが、私は刺身も寿司も大好きだ。

『バルダーズゲート3』は、テーブルトークRPGのシステムを継承した、非常に独特の作りをしている。ドラクエやFFのような日本のRPGとは全然違う。キャラクターに可愛らしさはほとんどなく、ゲームとしての難しさにおいても、日本のRPGと比較するとかなり厳しい。だから、口さがない人の中には「日本のヌルいRPGをやってる人には辛いかもね。この手のゲームは自分の頭で考えて、発想力や自主的に工夫する努力が必要だしね」などと嫌味を言ったりする。

もちろん、そういうシステムの違いや難易度やユーザーに対するホスピタリティのようなものの違いは大きい。そこが『バルダーズゲート3』を受け入れられない人にとって障壁になっている面もあるだろう。しかし、本当に問題なのは、それが突発的に目の前に現れた異文化だったという衝撃であり、そのことこそが重要なのだ。面白いとか、面白くないとか、そういう話よりも、一歩手前にある状況にこそ、目を向けるべきドラマがある。

Amazonレビューに思わず低評価を書き込んでしまう日本人が多くいたことは、あの番組で見たヨーロッパのおじさんと同じなのだ。「これは食えない」と彼らは思った。同じRPGだから、遊べるだろう、あんなに評価されてるし、面白いんだろう、そう思って買ったに違いない。しかし目の前に突如として出されたRPGはこれまでの生活習慣からあまりに外れた異物だった。

某匿名掲示板では「こんなのクソゲーやん。全然おもんない」と息巻いている人がいる。それに対して「アホには遊べないかもな」と煽る人がいる。あれが悪い、これが不親切だ、わかりにくい、いやバカなお前が悪い、分かってないから楽しめない。言い争われるそれは全て一面の真理ではある。しかし、『バルダーズゲート3』が楽しめない日本人の衝撃、その爆心地たる本当のグラウンドゼロについては語られない。

それは生魚を食べられなかったあのおじさんの沈黙と同じなのだ。なぜ食べられないのか、を説明することはできない。仮に食べたとしても「食べられない」と結論することもあるだろう。食べられないのは、その料理がまずいからとかそういうことではないのだ。自分の文化や慣習から外れたものに対する純粋な距離感と忌避感。良いとか悪いの話ではない。この距離感を縮めるのは、繰り返して、何度も何度もその文化を長い時間をかけて味わうしかない。どこかでそれが自分の一部になるまで慣れるしかない。

人によっては、そういう異質なものをどうしても受け入れられないということがある。別にそれでいいのだ。所詮は娯楽の話だから。しかし、ビデオゲームという、一見すると「国境を越えられそうなメディア形式」において、こういう異文化交流にありがちな「衝突」が見られたことが、どこか面白い*1

生魚を食べられないことの人間らしさ。それがゲームでも起きるのだという、実に当たり前の話。『ドラゴンエイジ』や『ディヴィニティ:オリジナル・シン』では目立つことのなかった衝突の現場が、今回は多く見られたことが、『バルダーズゲート3』GOTY受賞の、(日本における)一つの大きな意義だろうと思う。

*1:一方で、そういう異文化である日本のゲームを受け入れてくれる海外ファンが大勢いることも思い出したい

「このハードが好きだから、この独占ゲームは面白く感じる」と言うことはダメなのか?

特定の家庭用ゲーム機(ゲームハード)に強い思い入れを持つ人がいる。しかし、ゲームファンの多くは「特定のゲームハードだけに強い思い入れを持つことは、少し恥ずかしいことだ」とも思っている。これは、強い思い入れを持たない外野の人がそう思うだけではない。特定のハードに強い思い入れを持つ信者的な人であっても、結構そう思っているところが面白い。なぜそんな自己矛盾するような思いを持つのかと言えば、ゲームに対して真面目であろうとするがゆえにそうなるのだ。

特定のハード(ニンテンドースイッチ、PS、XBOX)に愛着を持ってしまうこと、これ自体はなんの不思議もない。趣味において、特定の道具に偏愛的な執着を持つことはどんな世界でもあることだろう。しかし、ビデオゲームにおいて主役は個々のゲームソフト作品であって、ゲームハードに執着を持つことは、どこかビデオゲームの本質を見失ってしまっているようにも感じるのだ。これはゲームというものに「真面目に向き合いたい」と思うがゆえに起こるジレンマである。

だからこそ、特定のハードに強い思い入れを持つ人に限って「私は全機種持っています」と言ってしまう。これは「全機種を見比べて、公平な視点から私はこのゲームハードが一番良いと思っているのだ」と言うための、ある種の言い訳である。私の愛は根拠のない盲信的なものではない、ということをなぜか言いたい。いや、なぜもなにもない。その気持ちはとても分かりやすい。愛を根拠付けたいと思うのは、まさに信仰の始まりのように思う。自らの信仰を「狂信」だと開き直る人はいない。

しかし根本的に愛とは公平なものではないだろう。で、あるのであればもっと堂々と「私はなぜかよく分からないけど、このゲームハードを愛してしまっているのだ」と言えたら良いのかもしれない。他人にとって、愛を説明して欲しいとは誰も思っていないはずなので、「公平な目」や「客観的な機能比較」を本当は誰も必要としていない。それを求めているのは、実はそれを説明しようとする本人自身なのだ。

愛は公平なものではないし、時に無根拠なものなのだけど、どうにかしてそれを説明したい。その対象がゲームハードだというのは、少し間抜けに見えるかもしれないが、おそらくあらゆる趣味の世界で、自らの愛の根拠と無根拠が人を悩ましている。しかし、私はそれがとても「良いな」と思っている。

例えばあるゲーム作品が特定のゲームハードの独占作品だったとしよう。その時、そのハードを愛する人は、その作品がどう素晴らしいかを説明したい。その時に、「このハードで出ているからこの作品は面白い」とは説明しないだろう。もちろんその作品自身が魅力的であれば、そんな説明をする必要がないのかもしれないが、普通に考えてその作品を褒める時には、ゲーム作品それ自体の魅力や面白さを熱弁するに違いない。決して「このハードで出ているからこの作品が素敵に思える」とは言わないし、むしろその発想からいかに距離を置くかに腐心する。しかし私は、この本人しか気にしていないこの無駄な努力ほど美しいものはないと思う。そんな「このゲームはこのハードで出ているから素敵に思える」なんて思いは決して表に出さないという「無駄な努力」の美しさ。もしかしたら自分自身、気づいてさえいないかもしれないが、たとえそれに気が付いていても言葉にはしないハード愛。しかし心の奥底で気がつきつつ、しかし言葉にしないように努力するその姿勢こそが、私は本気で美しいと思う。そこには切なさと健気さと純粋さと公平さと、そして少量の狂気が潜んでいる。

冷静な作品分析によってその作品の素晴らしさを語る人も素晴らしいと思うのだが、「そのゲームハードで出ているからステキに感じるんだ」と思ってしまいつつも、それを言葉に出せなくて苦しんでいる人の方が、私にはどこか誠実な人だと感じる。もちろん変わった人なのかもしれないが,すごく正直な人だなと思う。

言葉にしてしまっては消えてしまうことがある。言葉にしないからこそ、保たれる美しさがある。「特定のゲームハード」が好きだという謎の愛情は、秘められている時にこそ輝く。なんとも厄介な話だけれど。いや、むしろこの厄介な事情に気がついているからこそ、私たちは「このゲームハードが好きだ」ということを隠したり、仮に言うとして躊躇いがちになるのかもしれない。

「ゲハ*1」も「信者」も、みんな恥ずかしいものだと思っている。もちろんそれはそうかもしれない。しかし私は「ゲハ」や「信者」をどこか憎めない。その根拠のない愛を何かに根拠づけたいという矛盾した気持ちには、美しいものがあると思ってしまう。

「このハードが好きだから、この独占ゲームは面白く感じる」と言うことはダメなのか?いや、それは決してダメではないだろう。しかしそれは言葉に出してしまうと、心の底に秘められている時ほどの輝きは失われてしまうのだ。

 

*1:2ちゃんねる(現 : 5ちゃんねる)で、ゲーム関連のスレッドに「ハード・業界」という板がある。これは主にゲーム業界や家庭用ゲーム機ハードに関する話題を扱っている。ここでは日夜、各ゲームハードのファンが集い、罵り合っている。極めて問題のある差別発言なども横行しており、非常にマナーも良くない場所だと多くのゲーマーからも認識されている。そうした場所に集まる人を(やや侮蔑を込めて)総称して「ゲハ」と呼ばれる。