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傑作インディーゲーム『セレステ(CELESTE)』ゲームにしかできない物語表現の極点

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セレステ(CELESTE)』は歯ごたえのあるアクションゲームである。クリアまでに2000回以上も死ぬことになったが、その旅は単に「歯ごたえがある」旅ではなかった。それは「自らを救済する旅」であった。それは一体どういうことなのか。単なるアクションゲームがどうしてプレイヤー自らを救うことができるのか。それを少し書いてみたいと思う。


セレステ』は横スクロールの2Dアクションである。"ジャンプ"と"ダッシュ"と"壁登り"という主に3つの操作で、針山や奈落を飛び越えながら進んでいく。非常にシンプルなゲームシステムである。何度も死を味わう難易度であるが、やり直しのためのリードタイムは短く、大きく進行を戻されることもない。本作のシステムは決して独創性があるものではなく、似たような作品としては『N++』や『スーパーミートボーイ』という作品が挙げられるだろう。しかしそれらの名作に勝るとも劣らない素晴らしいレベルデザインであり、単純なアクションゲームとして見たときにも『セレステ』は非常に高い完成度の作品である。

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しかし、本稿ではそうしたアクションゲームとしての素晴らしさを主に訴えたいのではない。本作を唯一無二の傑作足らしめているのは、その物語の存在にあると考えるからだ。物語がゲームとどのように融合しているのか。そのことを主に書いてみたい。

 

セレステ』の物語とは

まずは『セレステ』の物語はどのようなものか、それを簡単に見てみよう。(※以下、ネタバレ)

主人公Madelineは、なぜか山を登っている。その理由は分からない。山の名前はセレステ山。セレステ山を登る彼女は、途中、廃墟のようなホテルで自らの分身「わたしの一部」と出会う。その分身はなぜか山を登ろうとするMadelineを執拗に邪魔する。そんな妨害にも関わらず、必死に山を登り続けるMadeline。しかし旅の後半で、遥か下の谷底にまでMadelineは落ちてしまう。絶望するMadeline。そんな彼女に分身は語りかける。「だから何度も登るのを止めてきたのに」と。分身は彼女のネガティブな思考の化身なのだ。しかし、その後、分身とのやりとりの中で、山を登るのに分身が本当は必要な存在だと確信する。そのことに気付いた彼女は分身「わたしの一部」との融合を果たす。その力を身につけレベルアップした彼女は最後にセレステ山の山頂に辿り着くことに成功する。

細かい脇道の話を除くと、概ね上記のような流れが本作の物語である。ありていに言ってしまえば、自分の弱さを認めることが大切だと語る物語である。一見すると『セレステ』はそんなありがちで凡庸な物語に見える。抑制がききつつも効果的なセリフの数々は実に素晴らしいが、この物語自体に特別な仕掛けがあるというわけではない。

 

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セレステ』がMadelineの物語を語る上で達成したことは何か。それはゲームプレイが物語の解釈を構成するという点にある。『セレステ』の物語は、そのゲームプレイ抜きにしては十分に味わうことができない。もちろん、それは他のさまざまなゲームであっても大なり小なりそうである。ゲームプレイにおいて苦労して難題を乗り越えたからこそ、エンディングで感動を味わうことができる。その点はどんなゲームでも同じである。しかしながら、『セレステ』が物語とゲームプレイの融合という点で特別なのは、ゲームを遊ぶ際の「苦労」と「意義」の2つが物語解釈の重要なファクターになっている点にある。

 

ゲームを遊ぶことは「辛い」?

まずは「苦労」の方から見てみよう。
ゲームは何によって「苦労」を味わうのか。それは多くのゲームでは、強力な敵や謎解きや障害物などの存在である。この点は『セレステ』も同様なのだが、本作の主人公Madelineは、実は物語上、そうしたゲームに現れる分かりやすい敵や障害物とは違うものによっても苦しめられている。

Madelineは日々の生活の中で苦しんでいる。彼女はパニック発作や"うつ"を経験しており、人生に対してよそよそしく生きている。生きていること自体の、そこはかとない苦しみ。それは泣き叫ぶような苦しみではない。彼女はうつの体験を「海の底にいるようだ」や「閉所恐怖症なのに、一方で自分が曝されているにも感じる」と表現する。これらは決して分かりやすい苦しみではない。しかし、確かに存在する苦しみだ。

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セレステ』が凄いのは、こうした言葉では表現しづらい苦しみをゲームプレイを通してプレイヤーに伝えることに成功している点である。なぜなら、プレイヤーが味わう苦しみとMadelineのそれが「似て」いるからだ。ゲームの中で何回死のうとも、現実世界のプレイヤーには強い痛みがあるわけではない。しかしどこか心をザワザワとさせる不快さやイライラを感じる。何度も何度もカジュアルな死を繰り返し停滞感を味わう。なんとか進んだ先にもまだ道は続いていく。そんな閉塞感。『セレステ』は昨今のゲームでは珍しいほどに「達成感」を演出しない。チャプターをクリアしても、そこにプレイヤーを誉めそやす優しい人は出てこない。この「達成感を感じさせない演出」というのはかなり意図的だと考えられる。彼女は「何かを見つけたくて」山を登っている。彼女は「達成」を渇望している。なのに「これでもう十分だよ」という達成はなかなか得られない。プレイヤーの感じる閉塞感は、Madelineが感じる閉塞感の模倣でもある。

 

こうしたMadelineの悩みに対して、プレイヤーはテキスト以上に共感してしまう。プレイヤー自身もまた日常で「自分が感じているかもしれない閉塞感」をつい想像してしまう。プレイヤーはゲームで味わう「苦労」と日常で感じる「苦労」をオーバーラップさせてしまうのだ。


ゲームは「何のため」に遊ぶのか?

次にゲームを遊ぶ「意義」について考えてみよう。

Madelineは物語の後半で、谷底に突き落とされる。一度は絶望に陥るものの、敵対していた分身「わたしの一部」が本当は「怖がっている」ということに気がつき、物事の見方を変える。Madelineは敵であった分身と和解をする時に次のように語りかける。「怖がってても、別にいいのよ」と。

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この瞬間にこれまでのゲームプレイで味わってきたあらゆる「苦労」が昇華される。重要なのはそれが「達成感」のためではないということである。セレステ山に住む老婆は次のように語る。「癒しの最初のステップはな、問題と向き合うことなんじゃ」。

 

セレステ』は何かを達成したからこそ癒しを与えるのではない。「問題と向き合う」ことそのことをもって、癒しとする。そして実はそのことをプレイヤーは頭よりもずっと体で理解している。なぜなら、まさにそれがゲームをプレイする理由であるからだ。『セレステ』という難度の高いアクションゲームになぜ私たちは好き好んで立ち向かうのか。わたしたちは「さあ、達成感を得るために難しいゲームをがんばるぞー」などと普通考えない。ゲームの目的はゲームをプレイすることそれ自体なのだ。ゲームはクリアするためだけに遊ぶのではない。クリアすれば全ての苦労が報われるから遊ぶのではない。苦労もまたゲームプレイの一部であり、そこにもまたかけがいのない価値がある。そしてそれは人生とも図らずも似ていることに気づかされるのだ。わたしたちは何かを達成するためだけに生きているのではない。何かを得るためにゲームを遊ぶのではないのと同様に、何かを得るための人生でなくてもいいのだと。

だからこそ、Madelineが分身との融合を果たす瞬間は、言葉以上に、わたしたちは救われてしまう。

 

「ただ生きていくことを肯定する」。言葉はキレイでも、「ただ生きていく」ことの意義はとらえどころがない。しかしこれがゲームをプレイすることに喩えられることで説得的になる。なぜなら「良いゲームは、ただプレイするだけでプレイヤーを充足させる」からである。『セレステ』というゲームのクオリティが人を楽しませるのみならず、ただゲームをするということを肯定させ、それが日々の人生を受け入れて生きていくことに重なる。ゲームとしての品質が、人生を肯定させるのだ。


人生とゲームが重なるとき

セレステ』は「人が生きる」ということを描く作品である。もちろん人生とゲームは違う。しかしそれを錯覚*1させてしまうのは、本作が「良きゲーム」であるからこそ感じられる体験を物語のテーマに見事に当てはめてみせるからだ。物語の主人公Madelineの感情が、ゲームプレイで感じるプレイヤーの感情そのままが当てはまるように感じられるからである。
セレステ』は、ゲームにしかできない物語表現を達成した傑作である。

*1:これが錯覚であるのは、セレステの後半は堰をきったように達成感を感じさせる演出やレベルデザインを施しているからだ

『ドラクエ11』になぜ我々はガツンとやられてしまったのか?

※本記事はドラクエ11の結末を含め様々なネタバレを含みます。

ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて』は名作である。これはプレイ開始当初には考えもしなかった評価である。しかしクリア後そのように評価せざるを得ないという気持ちになった。おそらくドラクエ11には両極端の評価が混在している。そのことについて少し考えてみたい。

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■欠点の多いドラクエ11

ドラクエ11には多くの欠点がある。その欠点はあまりにあからさまで堂々としている。『Witcher 3』や『Fallout 4』と言った世界の大作RPGをプレイしたことがある者にとっては驚くほど稚拙に感じられる部分が多い。

特に気になるのはマップやエリアデザインの部分だろう。端から端までそれほど時間が掛からず行き来ができるほど1つのエリアは狭く、その癖、隣のエリアや街に移動するには十数秒のローディングが挟まる。仮にそれぞれのエリアごとに凝ったギミックや様々な進行ルートが仕込まれているのであれば、こうした仕様を理解もできるが、ドラクエ11の各エリアはとてもシンプルで探索の自由度も低い。30年前の初代ドラクエ1をプレイするとそのワールドマップの移動の自由さに逆に驚くほどである。ドラクエ11は30年前というFC時代に回帰するでもなく、PS2ぐらいの10数年前という中途半端な時代に先祖返りしているように見える。それゆえ余計に陳腐に見えてしまう。

この他にも文句をつけようと思えばいくらでもつけることができる。見えない壁が数多く存在し、小さな段差が登り降りできない場面の多さに呆れた人は多いだろう。また、伝統芸だと分かっていてもカットシーンに吹替えがないことはとても不自然だった。シナリオの展開は序盤は特に眠くなるほど退屈であり、旅の途中で仲間になるキャラクターたちの魅力もあまり伝わってこない。戦闘においても、なぜ主人公がフィールド上で攻撃を先に加えているのに敵方の先制攻撃としてターンが始まる場合があるのだろう。と文句をつけ始めたらキリがない。

しかし世間でのドラクエ11の評価は高い。こうした世間での高評価と自分の感じ方の乖離に戸惑う人がいたことは十分想像できる。ドラクエ11は最近のコンソールやPCゲームを多くやっている人ほど困惑する出来のゲームだった。

しかし、最後までプレイした今となっては、筆者にとって「ドラクエ11はまごうことなき傑作」である。真に驚くべきは、こうした無数の欠点を全て「許せる」と思わせてしまう腕力なのである。ネットでは「物理で殴る」というスラングがあるが、ドラクエ11ほど物理で殴ってきたゲームはない。小賢しいコアゲーマーを正に腕力で殴り倒すゲームであり、素直に私はノックアウトされてしまった。

ドラクエ11とノスタルジー

ではドラクエ11がプレイヤーをKOさせた武器とは一体なんなのだろうか。それは一言で「ノスタルジー」ということになるのだと思う。ドラゴンクエスト30周年*1というタイミングで、徹底的にノスタルジーにこだわり、それを利用しつくした作品がドラクエ11である。そしてこれが可能なゲームシリーズというのは意外にあまりないようにも思うのだ。マリオやソニックなど長く続く人気タイトルはあるものの、ノスタルジーをこれだけ堂々と活用した作品はそうはない。

では、ドラクエ11が凄いのは単に懐かしさを感じさせる要素が多いからなのだろうか。そうではないだろう。ドラクエ11が凄いのは、そのノスタルジーを感じさせるための構造をそのままドラクエ11の物語の骨格としたところにある。そのことをドラクエ11の物語の流れから見ていこう。ドラクエ11のストーリーを「勇者」というテーマを中心に捉え、その骨格だけを取り出すと以下の通りとなる。

  • -----ゲーム開始(フェーズ1)---------
  • ①かつて伝説の勇者ローシュが存在した。それは語られるだけの古き存在である。
  • ②その生まれ変わりである主人公がいる。彼はいきなり序盤で勇者であること否定される。
  • ③本編は主にその勇者の肩書きを取り戻すための旅である。
  • ④旅の果てに勇者のつるぎを手にしたところで、主人公はそれを魔王に奪われ、再び勇者であることを失う。
  • ------世界崩壊(フェーズ2)---------
  • ⑤そこから再度、勇者であることを取り戻す旅が始まる。
  • ⑥最終的に魔王を倒し、名実共に勇者となる。
  • ------クリア後の時渡り(フェーズ3)---------
  • ⑦主人公はあらゆる者を救ため、過去へと戻る。そして邪神を倒し、三度、勇者であることを取り戻す。
  • ⑧最後、その真なる勇者のチカラを伝説の賢者セニカへと渡す。そして間接的にローシュに真に勇者であることを取り戻させる。真エンドクリアとなる。


本作は大きく3つのフェーズに分けられる。それは上記の通り「世界崩壊」と「クリア後の時渡り」で分けられる。

フェーズ2が始まる際、④で世界が闇に包まれ主人公は海底王国からある浜辺へと舞い戻ってくる。その時プレイヤーはおそらくこう思うのだ。「ああ、ここ!この浜辺に戻って来たのか。懐かしいな!」と。

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↑懐かしのデルカコスタ地方。

 

そうしたささやかな「懐かしい」をクリア後は更に何度も味合うことになる。フェーズ3の⑦以降、各地で再び多くのNPCや景色や音楽と出会う。同じ世界を何度も旅をさせる。ドラクエ11はたった一つの作品の中で何度も「戻ってきた」や「取り戻す」を繰り返す。そして、それはドラクエシリーズの歴史とも通じる。何度も何度も世界を救ってきたことの模倣となる。では、こうした「戻ってきた」や「取り戻す」がどのようにノスタルジーと関わるのか、その点を以前放送されたあるテレビ番組での議論を元に考えてみよう。

■なぜ人は懐かしがるのか

Eテレでかつて『哲子の部屋』という番組があった。2015年5月28日の回で「人はなぜやたらと懐かしがるの?」というテーマが扱われ、そこでとても面白い場面があった。ゲストの批評家・石岡良治氏が「夕日が沈むいくつかの映像」を見せる。それらの映像を見ると、人は問答無用に懐かしいと思ってしまう。同番組に出演しているマキタスポーツ氏及び清水富美加氏もそう感じた。しかし実はその夕日の映像、日本ではなく異国の情景であり、しかも完全にCGで作られた夕日の映像まで含まれていた。つまり、リアルでは1回も見たことがないばかりか、この世には存在しない情景に懐かしさを覚えていたのである。しかし、それでも懐かしく思ってしまう。その番組では次のような言葉が語られていた。

『人は何かを懐かしむのではなく ただ懐かしがりたい』

懐かしむのにその「対象(何か)」は必要ないというのだ。しかしではなぜ人はそんなにも懐かしむのか。それを哲学者ジャンケレヴィッチの言葉を引用して「時間とは"逆行できないもの"としてしか考えられない」からとする。二度と取り戻すことができない過去だからこそ、人は懐かしむのだと。沈む夕日に象徴されるように時間の変化を直接目にした時に人は「取り戻せない過去」を見て取る。「夕日」それ自体が懐かしいのではない。夕日によって「時間の取り戻せなさ」が喚起されることで人は懐かしむのだ。

ここでドラクエ11の物語を振り返ると、副題の「過ぎ去りし時を求めて」とあるように、本作は「取り戻せない過去」を求める物語である。いや、「過去」だけではない、「勇者であること」や「破壊された故郷」なども取り戻そうとする。

 

しかし、本稿で主張したいのは、ドラクエ11は本当に取り戻せている物語なのか?ということである。むしろ逆なのではないか。④以降の世界や⑦以降の世界は、それまでの世界と同じようでいながら、一変している。それは「過ぎ去りし時」をまざまざと見せつけてくる。④以降の世界の変化はわかりやすいだろう。しかし⑦以降の世界も大きく変わっているのだ。見た目としては時渡り後の⑦以降の世界は④以前の世界と似ている。しかし、ウルノーガを再度倒した後の世界は大きく1回目のクリア時点とは変わってしまう。重要なのは決してかつての世界は取り戻せないというということである。その最たるものがベロニカである。(取り戻したいかどうかは別にして)ベロニカのいない世界はもう取り戻せない。ベロニカを失った悲しみの時は、真エンドを迎えた後には「過ぎ去りし時」になってしまうのだ。本作はタイムトラベルの物語であるのだが、意外にも『シュタインズゲート』や『オールユーニードイズキル』や『ビューティフルドリーマー』にあったような「ウンザリするような同じことの繰り返しとそこからの脱出」というモチーフが登場しない。「タイムトラベル物」ではあるが「ループ物」とは違うのだ。「ループ物」がはらむ過去改変の悩みや悲しみは影を潜め、ずっとドライに過去を置き去りにして次に進んでいるように見える。それは「似ているが異なる物語」を連続して味わうという体験であり、まさにドラクエシリーズを何作かクリアするような体験に似ているのである。

■取り戻せないものの象徴 ローシュ伝説

そして考えたいのは本作におけるローシュという存在である。ドラクエ3をやったことがあるプレイヤーはローシュたちを「懐かしさを感じさせる存在」と捉えるだろう。

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しかし重要なのはそうした30、40代の世代が懐かしいと思うことではない。筆者は、ドラクエの初期3部作をプレイしていない人が本作をプレイしてもドラクエ11はノスタルジーを感じさせると考える。それは、ローシュ伝説が「取り戻せない」という体験を巧みに感じさせるからだ。

物語の最後、裏エンドで、主人公は「ローシュ伝説」に僅かに介入をして、勇者ローシュにトゥルーエンドとも言える結末を取り戻させる。しかしここでプレイヤーは逆説的に二重に「取り戻しができない」ことを感じ取るのである。その1つは、その伝説のトゥルーエンドが実際はどのような結末になったのか主人公自身が(そしてプレイヤーも)具体的には味わうことができないということ。そして、もう1つ。それはプレイヤー自身の過去、即ち現実世界での「勇者だったあの頃」を思い起こさせはするものの、その過去を取り戻せないと感じさせるということだ。あの裏エンドのスタッフロールがその気持ちを否応なく強める。

ローシュそのものが懐かしいのではない。人はただ懐かしがりたいのである。ローシュはその象徴的な存在として「懐かしさ」を喚起する装置なのである。*2 大人になりファンタジーの世界を旅する者は、過去にどこかでファンタジー世界に虜になった過去を持っている。なぜなら、ファンタジーが「所詮ファンタジーでしかない」と理解するからこそ、「『あの頃』はもっと純粋にファンタジーを楽しめていたような気がする」と「あの頃」を創造してしまうからだ。そんな「あの頃」をローシュ伝説は喚起する。しかし、ドラクエ11は、プレイヤーをローシュとして体験させたりはしない。それはもう「取り戻せない過去」なのだ。

■なぜドラクエ11は中途半端に古臭いのか

なぜドラクエ11はこれほどまでに「中途半端な古臭さを持つ作品」であるのかを改めて考えよう。本作はFC、SFC、PS、PS2、DS、Wiiまでのあらゆるドラクエのキメラとして存在している。むしろ最新の『Witcher 3』や『Fallout 4』や『マスエフェクト』のように全く新奇な存在として存在してはならない。30年間の多様なシリーズ体験者、そのあらゆる人々にとってぼんやりと懐かしいはずの存在であるためには、見た目的にもシステム的にもPS2世代までの要素をつぎはぎした存在、そして決して過去のドラクエそのものでもない存在になる必要がある。そして、「ドラクエシリーズを過去何作もクリアしてきた」かのような近似体験を、3回のフェーズに分けたキメラ的ドラクエ11が模倣的に追体験させる。繰り返すが、それは本物の過去のドラクエシリーズの体験ではない。過去そのものを取り戻させないからこそドラクエ11は「ただ懐かしい」へとつながるのである。そこにローシュという存在が最後のダメ押しで挿入される。ローシュはかつて勇者だったころの象徴的な自分である。ドラクエ11の主人公がドラクエ3の主人公と似ても似つかないサラサラヘアーの線の細い主人公であることによって、プレイヤー自身は最初に疑似的に勇者であることを奪われる。しかし、その勇者らしからぬ主人公によってかつての自分(ローシュ)はようやく勇者たりえるのである。その上で畳みかけるように裏エンドのスタッフロールでプレイヤーは気が付いてしまうのだ「もうあの頃の勇者である自分ではない」のだと、どれだけゲーム内で勇者であることを取り戻しても、リアルとしての自分が勇者になることはないということを。ゲームの中の本物の勇者はサラサラヘアーのイケメン青年なのだ。明に言わなくてもプレイヤーは気が付いてしまう。「取り戻せない」のだと。「取り戻せない」からこそドラクエ11は徹底的に「ただ懐かしく」させる作品なのである。

ドラクエ11は過ぎ去りし時を求める物語であると同時に、過ぎ去りし時を取り戻そうとしても取り戻せないことに否応なく気付かせる体験である。そこでは、常に何かを置き去りにして、しかし少し後ろ髪を引かれながら前に進むしかないという、時間がもたらす切なさを見つめる物語でもあるのだ。ドラクエ11の主人公は正に「時間」を象徴した存在である。彼はどんな時も振り返らない。前に黙々と進み続けるのだ。勇者という存在が「過去への振り返り」と「前に進む」という矛盾をまとめ上げたところに、取り戻せないものの圧倒的な美しさが映える。ここにドラクエ11の秀逸さがあるのではないだろうか。(了)

 

 

 

*1:実際は31年目。2016年が30周年だった

*2:想像を逞しくすれば、ドラクエ9が懐かしくないのは、特に30代以上にとって、それが思い出補正を受けるほど過去でも、取り戻せない過去でもない「つい最近のこと」だからと筆者は考える。とは言え、8年前のゲームである。仮に当時ドラクエ9を10歳でクリアした子がドラクエ11を18歳でクリアするケースを考えれば、裏エンドのスタッフロールでドラクエ9を懐かしいと感じることもあるだろう。

『ゼルダの伝説 BotW』の探索はなぜワクワクするのか。新作ゼルダに宿る『ハズレの美学』

ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド』は稀代の傑作である。それゆえ『ゼルダの伝説BotW』を褒める記事は既にたくさん存在する。だから、もうこれ以上何を言うのかという思いがないではない。しかし咲き乱れる賞賛の中に、もう1つぐらいささやかな記事が加わっても罰は当たらないだろう。そんな思いで書いてみた。本記事では、『ゼルダの伝説BotW』の持つ数ある美しさの中から、ある1つの美点を取り出して述べてみたい。それを筆者は「ハズレの美学」と呼びたいと思っている。


ハズレとの出会い

筆者は『ゼルダの伝説BotW』をWiiU版で70時間、Switch版で60時間ほどプレイしている。2周目となったSwitch版ではまだクリアはしていないが、四神獣を解放し、試練の祠は100余りクリアしている。1周目の時は、楽しくて楽しくて前のめりでプレイしていたためか、細かい部分で感じた様々な面白さをちゃんと覚えていない。2周目になって何度も「すごいな、これ」と改めて冷静に感心している。そして2周目のある時、「あっ」と思ったことがあった。

それは多くの人が最初に到達するカカリコ村でのこと。村に最も近い祠から見えるある「でっぱり」に登った時のことだった。

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↑右側に見えるでっぱり。崖に突如としてあるこのでっぱりは何か特別なものに見えた。

 

この「でっぱり」。自然の造形物としては不自然ながら、人工物というにはあまりに素っ気ない。あえて言うならゲーム的なでっぱりであった。確実にあそこには何かあるな(コログあたりかな)と思った。本作をプレイしたことがある人なら、このゲームは正にそういう「思いつき」の連続であることを知っているだろう。少なくとも筆者はその時そう思った。そして登ったのである、そのでっぱりに。

しかし、そこには何もなかった。宝箱さえなかった。何も起きなかったのだ。ジャンプしてみたり、爆弾を置いてみたりしたが、特に何も起きない。そして思ったのだ。「ああ、ここはハズレなのか」と。その瞬間に、筆者がなぜこのゲームの、特に「探索」がこんなにも楽しいのか、その一端を垣間見た気がしたのだ。

同じようなことは別の場所でもあった。それは高地の雪嵐吹きすさぶある山頂に到達したときのことだ。「ここには何かあるんだろう?」と思い、視界の悪い中、苦労して登頂したその先、そこには特に何もなかった。この山頂はハズレであった。

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↑ウォルナー山。単に寒いだけの山だった。

 

また別の山でも同じようなことがあった。山頂がきれいに割れているいかにも怪しげな山があった。そこにも何かあるだろうと思って登ってみた。しかしここでも特に何か発見があるということはなかった。

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↑山頂がきれいに割れている怪しげなクーホ山。とはいえ山頂に特に何かあるわけではない。

 

実は意外に多くのプレイヤーはこうした体験を『ゼルダの伝説BotW』でしているのではないだろうか。「何かあるとおもったけど特になかった」という体験は本作で何度か味わうことになる。そしてこのハズレの体験こそが本作のデザインの1つの美しさであり、ハズレこそがプレイヤーの探索の期待をコントロールしているのではないかと思ったのだ。

他のオープンワールドにおける探索要素

いくつかここに比較的広いマップを歩き回りアイテムを収集するような要素があるゲームのマップ画面を見てみよう。

1つ目は『アサシンクリード ジンジケート』。19世紀のロンドンに暗殺者となって暗躍するステルスアクションだ。シリーズの持ち味である高い所にも自由に登ることができるフリーランは『ゼルダの伝説BotW』の壁のぼりを髣髴とさせるが、スタミナ切れなどは特にないため遊びの質としてはかなり趣が異なっている。
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↑左側「収集アイテム」の分母がこのエリアでの収集アイテムの総数。実際集めようとすると結構数がある。

 

2つ目は『Far Cry 4』。先の「アサクリ」もそうだが、この作品も『ゼルダの伝説BotW』との共通点が多いゲームとして、よく名前の挙がるシリーズの作品だ。先進的な文明から隔離され、部族的習慣が息づく土地を舞台に生き延びる一人称視点のサバイバルアクションである。

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↑これを拡大すると更に多くの宝箱のアイコンなどが表示される。

 

3つ目は『Rise of Tomb Raider』。PS時代に人気を博し、映画化もされた人気シリーズの最新作だ。女性冒険家を主人公に据えたアクションアドベンチャーであり、前作で過去作から刷新されオープンワールド化した*1

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↑1つ1つのエリアは狭いながら、画面左のリストにある通り、収集物は種類・数ともに豊富である。


4つ目は『ホライゾン ゼロ ドーン』。たまたま『ゼルダの伝説BotW』と同時期に出た、これまた中々の名作である。文明が壊滅した遠い未来の世界を舞台にした本作は、美しい環境のビジュアル、多彩な機械獣との戦闘、SF的設定の物語が魅力の作品である。

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↑マップ上には数多くのアイコンがひしめき合っている。


いかがだろうか。それなりに評価の高いここ最近のオープンワールドゲームのマップには、実に多くのアイコンが配置されていることが分かる。『ゼルダの伝説BotW』以外の多くのゲームでも、マップに満遍なく収集アイテムやミッションポイントや拠点が配置されているのだ。*2

しかしあえて断言するが、上記四作品に『ゼルダの伝説BotW』ほどの探索の魅力はない。だからダメなゲームだと言いたいわけではない。ただ、『ゼルダの伝説BotW』に備わっている「この先に何が待っているのか、行って探索してみたい」という探索のワクワクがこれらの作品にない事は確かなのだ。

「当たりの保証」によって失われたもの

なぜこれらの作品には豊富に目標物が配備されているのに、『ゼルダの伝説BotW』ほど探索のワクワクがないのだろう。上記四作品と『ゼルダの伝説BotW』との違いは何か。筆者はその理由の1つが「全てが『当たり』である」ということではないかと考えている。上記作品群のマップのアイコンにはハズレがないのだ。「そこに収集アイテムがありますよ」というヒントアイコンはほぼ100%正しく、行けば必ず何かがあった*3

振り返るに、これまでのオープンワールドでは、マップ上に記されるヒントはほとんど全て「当たり」を意味していたように思う。先ほど例を挙げていない「スカイリム」や「GTA5」などもマップ上に何かのアイコンが出たら、それはほぼ必ず「当たり(=目的地)」を示している。そこに行けば何かが始まり、そこに行けば何かが見つかる。すると、プレイヤーがすることはその「当たり」に向かっていくことだけ。いや、もちろんこの要素に全く「探索」らしさがないとは言わない。いくつかのゲームはそこで「ルート探索」的な遊びを提示する。ゴールは分かっても、どうしたらそのゴールに到達できるのかを探す、そんな遊びを提示するわけだ。しかし、そうした遊びも全て「100%当たり」という保証があっての遊びに過ぎない。下手をすれば、それはすぐさま「作業」へと変貌してしまう。つまり「当たりの保証」が「探索のワクワク」を押し下げているのだ。

とはいえ、こうした収集要素が退屈な作業となることへの懸念に、これまでの作品が全く無頓着であったわけではない。上記に挙げた各作品でもその問題はちゃんと意識はされ対策が試みられている。よく見られる対策は次の2つのパターンだろう。1つはヒントアイコンが「広範囲のだいたいこの辺」を示すことで、目的物の場所を少し曖昧にするという方法だ。

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↑「範囲」で示された収集物のアイコン。画像は『ホライゾンゼロドーン』のもの。

 

プレイヤーに探索する余地を残すことで、プレイヤーは「狭い範囲でのゴールポイント」を探索することになる。もう1つは、そもそも「当たり」のアイコンを表示しない方法だ。この方法の場合、NPCの話や事前に入手したドキュメントなどから、自発的にどの場所に行けばいいかを探ったりする。

1つ目の解決策のように範囲としてどれだけぼやかしても、アイコンが「当たりを保証」していることに変わりはない。そういう意味で『ゼルダの伝説BotW』は、その正解を置かないという2つ目の方法を大きく採用していると言える*4。しかし、単に「当たり」アイコンを置かないというのではない。地図には地名と等高線を描いた。そして探索という行為を「地図を読む」「地形を読む」ことへと昇華させた。その上で『ゼルダの伝説BotW』はもうワンクッションを置いたのだ。それが「ハズレ」の存在である。『ゼルダの伝説BotW』の地名や等高線はすぐさま「当たり」を示すとは限らない。本作は常に褒めてくれる都合がいいだけの存在ではないのだ。そこに実際に行ってみたとしても、必ず何かがあるわけではない。どんなに高い頂や怪しげな丘に登っても、それは「単なるハズレ」かもしれないのだ。

 

ゼルダの伝説BotW』を賞賛する時、人々はこう語った。「どこに行っても、ちゃんと何かがある。だからついつい探索してしまうんだ」と。これは全くその通りだ。だが、その裏の顔があるのではないか。つまり「どこかに行ってみても、そこに必ず何かがあるとは限らない」。「何かがある」だけがプレイヤーの期待をコントロールするのではない。「何かがない」こともまた影で期待をコントロールしている。だからこそ、「俺が」「私が」「僕が」見つけたということが陳腐化しない。

しかし、こうしたハズレがただ用意されているだけではない。筆者は以下の2つのハズレのデザインがこのハズレの美学を支えていると考える。

物量による期待の底上げ

ハズレを引くのは確かに残念だ。しかし、その残念さはちゃんと緩和されるようになっている。それは『ゼルダの伝説BotW』のご褒美の膨大な物量によってである。試練の祠が120個にコログの実は900個。宝箱に至っては一体どれだけあるのか分からないほどに存在する。たとえハズレを引いてしまっても「でも次は何かあるかもしれない」と思えるだけの物量がある。「ハズレだった」→「でも次は何かあるかも」→「そして事実ある」というこのハズレと当たりの連鎖は、ハズレの残念さを緩和するだけではない。この緩急によって、期待は常に高い水準を保つ。

先に挙げた四作品は、いずれもそれなりの物量のご褒美を用意していた。しかしそれが『ゼルダの伝説BotW』ほど探索のワクワクに寄与しないのは、ヒントアイコンが「100%の当たり」を示すことで、逆に「100%のハズレ」の場所さえも明確にしてしまったからだ。一方『ゼルダの伝説BotW』は、当たりとハズレの区別を不明瞭にした。そのことにより、プレイヤーの想像力の中で勝手に「当たりらしきもの」が大きく膨らんでいく。想像力によって膨らんだその物量イメージを最大限に活かしつつ、「ハズレと当たりの反復」によってプレイヤーの期待をマップ全体に瀰漫させているのだ。*5

ハズレの二重底

「ハズレの美学」を支えるもう一つの仕組み、それはハズレの中には、二重底になっているものがあるという点だ。最初見た時には「ハズレかな」と思うものの中には、後々になって実は「当たり」だったと分かるものがある。特に「コログの実」という収集要素において顕著だ。やるべきアクションが分からず最初はハズレと思いスルーしてしまう、そんなパターンがある。

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上の写真に見える何か意味ありげに並ぶ3本の木。これなどは、地図上や見た目にはいかにも怪しいにも関わらず、最初は意味が分からずスルーしてしまった人も多いと思う。しかし、どこかでふと「当たり」に気が付く。〇〇すれば「ハズレ」が「当たり」に生まれ変わるんだと気が付く。

プレイヤーにとって「ハズレ100%」を少しだけ曖昧にする。それがハズレの二重底だ。「もしかしたらあの時のハズレはハズレではなかったかも」と疑い始めると、これまで過去に体験してきたあらゆるハズレへの見方が変化してくる。それだけではない。まだ出会っていない未来のハズレもまた、本当にハズレだと断定できるのか次からは確信が持てなくなる*6。これは長期間に渡って、当たりへの期待を高止まりさせる秘かな心理的要因となるのではないだろうか。

ハズレと当たりの彼岸

ゼルダの伝説BotW』のハズレの美学とは何か。それは「当たりとハズレの境界を曖昧にすること」だ。今向かっている高い丘の上には何があるのか。それは物量という期待によりおそらく「当たり」と想定されるのだが、しかし100%の確信はない。しかもそれが「ハズレ」だと分かった後も、どこまで「ハズレ」として確信を持てばいいのかはよく分からない。事実「ハズレ」だったとしても、次には「当たり」に出会えるという予感がなんとなくある。こういう「当たりとハズレの境界を曖昧にすること」は、オープンワールドというスタイルのゲームの原初的な感動に通底してしていると筆者は考える。

初めて「GTA3」やそのシリーズをやった時に筆者は何に感動したか。その1つは「路地裏の存在」であった。ビルの谷間にあるゴミ収集ボックスの存在。積み挙げられたベニヤ板やタイヤ、ビニールシートを被った資材。そういうゲームとして意味が有るのか無いのかよく分からない存在に、街全体としての息遣いを感じた。意味もなくブラブラと歩くことに何か街を探検しているような気分があった。そこでは当たりもハズレもなかった。

時代は進み、オープンワールドは進化した。そして大量の明示的なご褒美が用意されるようになった。確かにその方が嬉しい。何もない路地裏を探検しても、それが自己満足に過ぎないなら、いつかは飽きてしまうかもしれない。路地裏の探検に意義を見出せない人もいるだろう。だからもっとより楽しみやすくするために、様々な場所に宝箱やアクティビティが仕込まれた。しかしご褒美を用意すると、今度はそれを取りっぱぐれるストレスや、それらを1つ1つ探索することへの面倒さが問題になった。だから地図を用意した。宝の地図だ。あらゆる宝の場所を記した地図は、収集癖を十分に満たすものだった。

しかしプレイヤーは底なしに貪欲だった。どこに何があるか分かっている些細な宝物を、どうして取りに行かなくてはならないのか?と問い始めたのだ。これは難しい問題だ。自由を売りにするオープンワールドと、どこに行けばよいか分かっている不自由な収集要素という「矛盾」にどのように折り合いを付ければいいのか。これはオープンワールドという構造が長い時間を掛けてより面白くするために自ら積み上げてしまった逆説的な課題であったように思う*7

 

だからこそ『ゼルダの伝説BotW』がもたらした解答は進化を続けるオープンワールドという枠組みの中で、王道でありつつも極めて華麗に見えるのだ。サブでしかなかった探索要素にもう一度輝かしい光をあてた。他のゲームが探索要素を遠慮がちにメインディッシュの隣に盛り付ける中、『ゼルダの伝説BotW』は堂々とお皿の中央に盛り付けてきた。探索要素をメインディッシュとして恥ずかしくない豪勢さに仕立て上げて勝負してきたのだ。

 

ゼルダの伝説BotW』の解答。それは「ハズレと当たりの境界を曖昧にする」ことであり、「ハズレと当たりの彼岸」へと再び到達する道を示したことだ。僕達の冒険は正解だけで舗装された道を歩むものじゃない。向かった先に何もないこともあるからこそのロマンなのだと。(了)

 

 

 

*1:新生トゥームレイダーオープンワールドと呼んでいいかは議論のあるところだろう。本稿では議論の主体がそこではないので、ここでは仮にそうみなす

*2:これら収集アイテムのアイコンは、そのアイテムが取得されるとマップ上から消える。しかし『ゼルダの伝説BotW』では全く逆で、収集アイテムを発見するとマップ上にそのアイコンが現れる。この表現のベクトルの違いは象徴的な違いと言えるかもしれない。

*3:『ライズオブトゥームレイダー』は他の3作品に比べて収集アイテムの場所を示したマップを獲得するために、多少歯応えのある探索が必要だ。ただしそのマップを入手した後、収集アイテムの収集自体は他の3作品と同様作業感が強い

*4:特にコログの実についてはそう言える。一方、試練の祠は上記2つの複合策とも言える。センサーが範囲内での正解の存在を指し示すからだ。またシーカータワーからの祠のマッピングは「100%当たりのアイコン」を「自分で作る」という点が特徴的と言えるかもしれない

*5:また一方で膨大な物量は「諦め」も程よく与えてくれる。例えば、コログ図鑑を用意しなかったり、コログの実が900個の半分以下でポーチ拡張が最大化できるのは、この膨大な収集要素を適度なところで切り上げて諦めを促すために必要な配慮だっただろう。おそらく数百個以上のコログの実を集めた頃には、「ハズレ」のストレスはかなり高まり、「当たり」への期待を十分に維持できないレベルにまでなっていることも想定される。膨大な物量はそうしたところに行きつく前に他に興味が向くための緩衝として機能しているのではないだろうか。一方で図鑑写真というこれまた中々ボリュームがあるのに、コンプリート目標が明確な収集要素も用意されている。目的物がどこにいるかは近くに行くまで分からないというのも、正解地点を明確にしないという点で筋が通っている。しかも撮り逃しや面倒さへの救済策まで備えている。抜け目がない

*6:そんな当たりかハズレか分からないものに、プレイヤーはまさにスタンプを置きたくなる

*7:例えば、探索対象のアイテムの価値を高めるというのも一つの解決策に見えるが、そういうアイテムのゲーム内価値が高ければ高いほど、自由にさせることはゲーム側がプレイヤーの体験をコントロールしにくくなるというリスクを生じさせる

【レビュー】No Man's Sky(ノーマンズスカイ)~あらゆるスピードを超えた先にあるもの~

「ゲームらしさ」とは一体何なのだろうか。ゲームをするというのは、何かを競い合ったり、課題に頭をひねったり、世界を救ったりすることだけではないはずだ。ただ単にプレイをする。ただコントローラーを操作させるだけでもいいじゃないか。

ノーマンズスカイは、「ゲームらしさ」という足枷に囚われることなく、堂々と自身をゲームとして成立させた意欲的な傑作である。

 

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なぜオープンワールドには乗り物が登場するのか

ノーマンズスカイにも(いわゆる)ゲームらしさはある。宇宙海賊と戦ったり、謎のドローンと銃撃戦をしたり、物資の売買で手持ちの資金を増やしたり、探索したアイテムを合成して装備を充実させたり。これらは既存のゲームの枠組みで理解できる楽しさだ。しかし、こういうゲームらしさはむしろ前菜に過ぎない。メインディッシュは、1800京という途方もない数の惑星が存在する、この広大な空間自体にある。

 

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↑2m近い大きな歩行ロボットとの戦闘も用意されている。しかしこれもデザートにすぎない

 

ノーマンズスカイの世界は広大なオープンワールドである。それはこれまでのゲームの歴史上、最も広い3次元空間を持ち、探索しつくすことが不可能な広がりを誇る。そんな極端に肥大したオープンワールドは、オープンワールドにまつわるある一つの疑問に回答を与える。「なぜオープンワールドゲームでは乗り物に乗るのだろう?」

オープンワールドでは、単に移動するのに面倒だから自動車や馬に乗ったりするのでない。そうではなくて、オープンワールドという仕組み自体が乗り物を要請するのである。それはオープンワールドが「異なる速度の系」を要請しているということではないかと、筆者は考える。

別のゲームで考えよう。スーパーマリオブラザーズのような横スクロールアクションでは、時折、強制スクロール面が存在する。そうした面では通常とは異なる速度でゲームが進む(たいていは通常面より速くなる)。こうした速度感の違いがゲームプレイのバリエーションを豊かにし、プレイヤーに普段とは違った楽しみ方を与える。たとえ同じようなステージ構成でも、強制スクロールの場合とそうでない場合とでは、プレイの印象は大きく変わるだろう。

しかし、オープンワールドゲームでは、そうした異なる速度のステージを簡単に導入することはできない。なぜなら世界はたった1つのステージとして存在しており、全くスピード感の異なる別のステージを単純に導入することができないからだ。

そこで、オープンワールドには乗り物が登場するのである。その乗り物は移動を簡便にしてくれるだけの道具ではない。それは同じ1つのステージ(世界)でありながら、異なる速度系へとスムーズに移行させる1つのシステムとして採用されるのである。

そして、ノーマンズスカイは「速度の異なる複数の系の導入」を何重にも推し進めたゲームなのだ。

ノーマンズスカイにおいて、基本的にどの宇宙船であっても、性能は変わらない。遅い宇宙船や速い宇宙船があるわけではない。しかし、その宇宙船の速度は操作によって大きく変わる。その変化は、単純に量的な変化だけではない。むしろ、質的な違いをプレイヤーに感じさせる。

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↑質的な体験の違いとしての超スピード

 

まず最初、惑星上で立っている時、主人公は徒歩で移動する。多少のダッシュはできるが、決して速くはない。しかし、ひとたび宇宙船に乗ると、先ほど徒歩で何分も掛かった距離がものの数秒で移動できる。宇宙船のエンジンは秒速130m程度のスピードで飛行する*1。そして、惑星の大気圏を突破すると途端に速度は数倍にまではね上がり、4~500m/sのスピードで飛ぶようになる。更に完全に宇宙空間に飛び出し、重力圏から外れると、またその数倍の1,500m/sぐらいにまでスピードが上がる。通常のエンジンでのスピードアップはそこまでだが、その後は、パルスエンジンという特殊なエンジンを始動させる。すると、10,000m/s超のスピードに一気に加速することができる。これは惑星間を数分で移動できるスピードだ。しかしそこで速度変化の流れは終わらない。更にワープ航法のシステムを開発することで、50光年というこれまでとは比べものにならない単位の距離を1分足らずで跳躍できるようになる。しかもその更に上のスピードまで用意されており、その方法だと、80,000光年に近い距離を一気に飛んでいくことが可能になる。

 

この5段階、6段階に用意された「速度の異なる複数の系」には、単にそれを行き来するだけで得られる快感がある。それはオープンワールドで初めて車に乗って長距離を移動した時の快感と同様のものであるが、ノーマンズスカイはその跳躍する快感を何段階にも重ね多層的に用意しているのだ。

 

もう一つの象徴的な速度『ゼロ』

しかし、ノーマンズスカイにもうひとつ、重要な速度がある。本作の魅力の根底には、このもうひとつの速度の世界があると筆者は考える。

ノーマンズスカイを開発したHello Gamesのショーン・マーレイ氏は次のようなことを言っている。「わたしがノーマンズスカイで最も気に入っているもの。それは宇宙ステーションの窓だ」と。この発言を受けて海外ゲームサイト「Kill Screen」のギャレス・ダミアン・マーチン(Gareth Damian Martin)はその理由について次のように書いている。

「これほど広大で無人の空虚さの中で、(宇宙ステーションの窓という)フレームには、制限や抑制や特定の方向性がある。このフレームによるシンプルな気持ちよさをプレイヤーは再確認できるからだ。」

なるほど、これはひとつの解釈である。気が遠くなるほどの自由を与えるノーマンズスカイ。しかし人は自由すぎると、逆に疲れてしまう。そんな時に、宇宙ステーションの窓ほど、人を安心させるものはない。それはしっかりと固定され、たった一つの方向の景色しか見ること事ができない。その制限にこそ人は安らぎを感じるのだと。

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↑宇宙ステーションの窓。その静けさには妙な安心感がある。

 

しかし、この宇宙ステーションの窓がもたらす安心感というのは、先ほどの「速度の異なる複数の系」という観点から考えることで、更にもうひとつの解釈をすることができる。それはつまり「速度ゼロ」というもうひとつの系がある、ということである。

 

僕らが仕事でもゲームでも、なんらかの活動をする時には、必ずある一定の速度を持っている。ノーマンズスカイでも同じである。採掘をする時、採掘した資源を売り払うため宇宙ステーションに向かう時、欲しい資源を採掘するために洞窟の中を探検に行く時。全てに速度がある。そして、普段、その速度は常に速くなる方向に進むことを「良し」としている。しかし、ノーマンズスカイは、時にその速度を減速させる*2。あまつさえ、0(ゼロ)にしようとする。自動生成で生み出される奇妙な動物たち。見るものを圧倒する壮大な地形。気色の悪いグロテスクな植物群。こうした風景により、プレイヤーは仕事をしていたはずの手を止めて、その風景に見入ってしまう。

ノーマンズスカイの風景は決して、新奇性によって人を惹きつけているわけではない。ある種の「懐かしいSF的風景」をノーマンズスカイは表現する。

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↑1970年代、SF小説の挿絵を描くJohn Harrisの世界観は本作に近い

 

それは、単に初めて見る風景ではない。どこかで見たことがあるような景色でありながら、どこにもなかったはずの風景である。そんなものを何の前置きもなく、フッと目の前に提示してくる。その時、人は減速し、思わず立ち止まってしまうのだ。ノーマンズスカイは旅である。しかし決して綿密に計画された観光旅行ではない。事前に、これを観に行こう、あれを観に行こうと思って見るのではなく、何の前触れもなく、見つめてしまう風景が突然そこにあることに気がつく。

 

自動生成による個々の風景に何か特別の意味があるわけではない。たまたまそう作られたに過ぎない。その偶然性にノスタルジーの風味をまぶす。すると、不思議なことに、人はそれを見て、懐かしさや味わいや深みを勝手に見出してしまう。そして、人は作業の手を止めるのだ。その瞬間、人はあらゆるスピードを越えた想像力の旅に出る。誰かが事細かに意匠を施して作っているわけではない風景。しかし、その無意味さこそに、人は崇高さを見てとる。ノーマンズスカイの絵には、それだけの力がある。速度ゼロの世界から想像力の旅が始まる。

ゲームとして、自由で単調なノーマンズスカイにはルーチーンワーク的な息苦しさがある。しかし、ノーマンズスカイ自らが、そんなルーチーンワークの手を止める風景を与え、そんな息苦しさから、いっとき、プレイヤーを解放するのだ。

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↑崩れかけた遺跡と巨大な惑星。思わず手を止めて見入ってしまう。

 

加速と減速の連環

「速度の異なる複数の系」というノーマンズスカイの仕掛けの中で、プレイヤーはついつい異なる速度の系を行ったり来たりしてしまう。これはプレイヤーにプレイを続けさせてしまう魅力を持っているということでもある。本作は普段遊ぶゲームと同じ尺度から考えれば、極めて単調であるかもしれない。しかし、この加速と減速の絶妙な連環により人を魅了する。それは単に速さを増していくことだけに意識が向いているのではない。速度を失うことにも価値付けがされているのだ。ゲームとして、ノーマンズスカイは見事なシステムを持っていると筆者が思うところである。

 

幸か不幸か、ノーマンズスカイに選ばれてしまったプレイヤーは思わずこう呟くのだ。「なんで俺はこんな単調なゲームを何時間も遊んでしまうのだ」と。そんな選ばれしプレイヤーにこそ、是非一度、宇宙ステーションの窓の前で立ち止まって欲しい。そこには何の変化もない、あまりにも静謐な景色が広がっている。ひとつかふたつの惑星が浮かび、無数の星たちが瞬く。その無意味さと、無音の宇宙ステーション。隣にはタブレットをいじる生意気な機械生命体の異星人が、全くこちらに興味を示すことなく椅子に座っている。そこに特別の意味はない。ただ、プレイヤーはスピードゼロからスピード無限大の狭間を行きつ戻りつする快感に何度も身を委ねるのだ。

 

救うべき世界はそこにはない。宇宙ステーションの窓から見える景色の、切なくなるほどの孤独感は、ノーマンズスカイが与える多層的なスピード体験の極北として、佇むようにしてそこにある。あらゆるスピードを超えるゼロに到達し、再び無限に加速していくために。

 

*1:実際に、ゲーム内ではメートルの単位は出てこない。速度はks、距離はuという単位で表現される。ここでは数字をイメージしやすいようにメートルに変えているが、決して正確に変換させたものではないので、ご了承いただきたい

*2:本文ではあまり言及できなかったが、大気圏突入から地表に近づくときに掛かる制動の減速もまた大変に快感である

自分的ゲームオブザイヤー2015 ~膨大なクエストは何のためにあるのか?~

ノミネート作品

・ブラッドボーン(Bloodborne)
・ウィッチャー3 ワイルドハント(Witcher 3 : Wild Hunt)
・カオスチャイルド(Chaos child)
・フォールアウト4(Fallout 4)

上記に挙げた4本はいずれ劣らぬ名作。今年はこのように優れた作品を4本も挙げることができたのは奇跡である。そしてここには挙げていないが、他にも素晴らしい作品が多数あった。2015年という年はコンソールゲーマーにとって豊作の年だった。これは間違いないだろう。

それでは自分にとって今年最高の一本を早速選びたい。それは……

 

自分的Game of the Year 2015

『ブラッドボーン(Bloodborne)』

 

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 今年最高の1本にはブラッドボーンを挙げたい。この作品自体のすばらしさ・おもしろさについては様々な人が書いていると思うので、ここでは他の作品に比べて、なぜこの作品なのかという点に絞って述べたい。結論だけを述べれば、本作はプレイが開始するスタート地点から、最後クリアされる地点までの間、そのトータルにおいて、極めて美しく物語の展開がデザインされていると感じられるからだ。そこには一つ、ゲームならではの妙手があると筆者は考える。

■FO4やウィッチャー3の持つ課題

ウィッチャー3もフォールアウト4も素晴らしい作品であることは間違いない。特にウィッチャー3は、オープンワールドRPGの現時点における究極点であると思う。そのくらい素晴らしい。この両作品のプレイを支えているのは、膨大なコンテンツ(クエスト)である。いつまで経っても終わらないとも思えるそんな膨大なコンテンツを背景に、人の興味や関心を長く引き続ける。そのような作品を作るためには気の遠くなるような労力やコストが掛けられているにちがいない。その点は素直に感心するしかない。しかしこの消化できないほどのコンテンツをこれでもかと供給しつづけるスタイルには、若干の空しさも感じるのだ。個々の作品の中身と共にその点を見てみよう。

ウィッチャー3。この作品が名作になり得た大きな理由としていくつかの素晴らしいエピソードがあることは確かだろう。例えば、血まみれ男爵に関するクエストだ。非常に粗暴で横暴な領主の男爵フィリップ。しかし彼は妻や子どもが自分の元を去ってしまったことに人間的な良心の呵責を感じている。そんな彼が人であることを取り戻すこのエピソードは、常に迫害に遭い続けている主人公ゲラルトの心とも共鳴する。

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↑血まみれ男爵のフィリップ。粗野で勝手で乱暴な男だが、その人生は切ない。

 

フォールアウト4。本作ではニック・バレンタインという人造人間の私立探偵のエピソードが秀逸だ。彼はロボットのくせにハードボイルドを気取り、人間以上に人間らしく振る舞う。義理や人情を重んじるし、友情を尊ぶ。この世界には人間と見分けが付かないほどの人造人間が多く存在する。このニックというキャラクターが素晴らしいのは、初期型ロボットであるため、明らかにロボットだと分かる風貌をしていることだ。人間らしさとは何かという問いをこのキャラクターはとても分かりやすく私たちに提示する。

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↑ニック・バレンタイン。ハードボイルドに生きる人造人間。とても人間くさい。

 

上記の通り、これらの名作には明らかに良くできたエピソードやキャラクターが必ずちりばめられている。そしておそらく作り手はそのことをちゃんと分かっている。そうした素晴らしいエピソードが、できる限り多くの人に味わえるように設計されている。そしてなにより、こうした名エピソードが一つもない作品であったら、これらは決して名作たりえなかっただろう。だからこそ逆に筆者としてはその他の膨大すぎるクエストの存在が皮肉に思えてしまうのだ。大量に配置された数々のクエスト。こうしたクエストは何のために存在しているのだろうかと。おそらくRPGとして(ロールプレイングゲームとして)、世界観の構築やキャラクターの魅力を伝えるため必要な要素として、いくつかのクエストは用意されている。しかし、それでも他の多くのクエストやストーリーは私たちにとって目眩ましでしかないのではないか。プレイされることをデザインするのではなく、ただそこに膨大に存在していること自体に意味がある。そんな目的でクエストが存在しているのではないか。ただそこにあるだけがそのクエストの最大限の役割となっている、そんなクエストをわざわざプレイしてしまうプレイヤーとは一体何をプレイしているのか。ウィッチャーやフォールアウトという作品が持つ空しさは、今後も継続していくゲームの物語における大きな課題ではないかと思っている。その課題は端的に言えば、膨大なコンテンツ群と物語の全体設計の間に、いか調和をもたらすか、ということだ。*1

■物語の「おあずけ」という妙手

翻って、ブラッドボーンが素晴らしいのは、最初から最後まで設計し尽くされ、ほとんどムダと言えるような部分が存在しない点にある。松明を持ち魔女狩り(獣狩り)に狂うような民衆への恐怖から、暴力の体現である巨大な獣との戦闘。不可思議で気色の悪い魔物との激闘から、一転して美しく狂気を孕んだ風景や建物との邂逅。そしてコズミックホラーへの突然の転調。精神的前作であるデモンズソウルやダークソウルという名作が、ゲーム業界にはびこる難易度低下へのアンチテーゼとして作られたように、再びブラッドボーンはひとつの偉大なアンチテーゼを示した。膨大なコンテンツで目眩ましをするのではなく、絞られ限られたゲーム内世界を最大にまで作り込んでプレイヤーを満足させる。確かに幹となる物語は存在しているはずなのに、それを決して掴ませない。多くのプレイヤーはブラッドボーンをクリアした瞬間、満腹感と飢餓感を同時に感じたはずだ。そんなプレイヤーに何も注意メッセージすら出さずにブラッドボーンは『二周目』を提示する。ファミコン時代のようなそっけなさ。プレイヤーには何も解答を与えない。それでもプレイを続行させる。そう、ブラッドボーンは、物語の「おあずけ」をデザインしている。

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↑本作一番の隠し要素カインハースト城。クリアしても物語的にそれほど理解は進まない

 

例えば、ほとんどの初見プレイヤーは見逃してしまうような隠し要素がある。しかしそんな隠し要素を二周目であらためてクリアしてみても、物語的にはほとんど目新しい情報を得られるわけではない。プレイヤーには、ただただ、ざらついた感情だけを跡に残す。そんな乱暴なことができるのは、これがゲームであるからだろう。私自身が狩人としてその世界に身を置いて、短くない時間を過ごしてしまったからだ。プレイヤーによる意味(物語)の生成。だからこそ物語を与えられることからも自由になれる。物語という麻薬。それを単に与えるのではなく、プレイヤー自身に生成させるための要素だけはふんだんにふり撒いておく。プレイだけに特化したアブストラクトなゲームではない。ブラッドボーンはそこにご褒美があるように装いつつ、永遠に「おあずけ」をしつづける。それはブラッドボーンの一つの巧みさだろう。*2物量により永遠にクエストを与え続けるゲームとどちらが素晴らしいのか。それは難しいところだが、筆者としては作品としてムダの少ないブラッドボーンに軍配を上げたい。そこには(ニクらしいことだが)プレイヤーと作られたゲーム自体への信頼がある。『プレイヤーは、ストーリーやクエストという目に見えるニンジンを眼前にぶら下げられた馬ではないのだ』という信頼が。ブラッドボーンはボリュームのあるゲームではない。しかし高い満足感を与えてくれる理由があるとしたら、そんな信頼感がプレイヤーに伝わっている点も1つの要因かもしれない。*3

さて、4作挙げた中でほとんど言及していないカオスチャイルド。本作は美少女ゲームであり、萌え的な要素を多分に含んだゲームだ。そしてこれまで書いてきた個々のエピソードと全体の調和という点においては決してブラッドボーンに劣るものではないだろう。しかしここでブラッドボーンにGoTYの座を譲るのは、何もこのジャンルの趣味性ゆえではない。やはりノベルゲームはこうした全体の調和を非常に取りやすい構造であるからだ。本や映画に近く、作者の想定どおりにプレイをデザインできる。この点においてゲーム的な行為の選択を与えてくれるブラッドボーンに大賞の座を与えたいと考える。なお、カオスチャイルドについてはこちらの記事で大いに語ったので、プレイされた方は是非読んでいただければと思う。今年最も応援したゲームである。*4

 

わたしにとって新しいゲームをプレイする意味は、何か新しいもの、これまでと違うものを見るためであるという部分が大きい。もちろんそうでない人も多いだろう。また何をもって「新しい」というのかも人によって異なるだろう。いずれにしろ、来年も筆者にとって何か「新しさ」に出会える年であることを願いたい。

 

 

*1:FO4のクラフト要素はストーリーテリングの手法として非常に面白いと思っている。この拠点クラフトによって、プレイヤーは単に拠点を作る快感を得るのではなく、物語の一部に参加する楽しさを得る。ただ荒削りだ。

*2:ダークソウルやデモンズソウルにもこうしたおあずけ的な仕掛けはあった。しかしブラッドボーンでは以下の2点によりその方向性・デザインの意図が明確ではないかと思っている。1つは、クトゥルフ神話という既存のモチーフへの明確な参照。これは何かある、と思わせることに一役買っている。完全オリジナルな世界だけではなく、広がりを感じさせる。2つ目はオープンワールドへの拘りのなさ。ダークソウルでこだわった1つの世界というモチーフは、デモンズソウル的な拠点システムへと回帰している。広くて大きな世界(物量的価値)からの決別を意味するのではないか。

*3:トロフィーの解除率を見ると、ラスボスと戦わないで、この悪夢から抜け出るというルートが最も解除率が低い。このことは非常に象徴的だ

*4:実際は昨年、XBOX ONEでリリースされたのだが、筆者は今年になってようやくプレイした。

【考察】カオスチャイルドのTRUEエンドの「大ネタ」は必要だったのか?【妄想】

※【ネタバレ注意!!】なるべくあからさまなネタバレはしないように書きますが、どうしてもゲーム内のネタに言及している部分があります。未プレイの方は実際にゲームを(Trueエンドまで)クリアした後に読んでいただいた方がいいと思います。

妄想科学アドベンチャーカオスチャイルド』。2015年6月にPSプラットフォームで発売されるに至り、本作はネット上でもかなり議論されるようになった。その中で度々論争になるのは、Trueエンドで明かされる「大きな事実」についてだ。この「事実」により、これまでの思い込みが大きく覆えされる。ただ、この設定はネット上では賛否が分かれている。「後付け感がある、無理がある」と非難する意見も多い。筆者もこの意見にはある程度同感する。たしかにこの「大ネタ」は物語の大筋と直接的な因果関係をあまり持たない。このネタがなければ話がおかしくなるということがほとんどなく、逆に様々な無理を生じさせかねない。しかし、このネタが非常に強いインパクトをプレイヤーに与えたことも確かだろう。カオスチャイルドを忘れられない名作にした「設定」でもある。


本記事はこの作品の持つメッセージ性にこの「大ネタ」は大きく関係すると主張するものである。本作はこのネタによって大傑作となったと考える。まあ、ある種の妄想でもあるので、その点はご容赦願いたい。


議論を進めるに当たって、まずは本作の大きな主題だと考えられる3つのテーマを示したい。そして、その3つのテーマは、ある1つの共通的なメッセージを孕んでいると筆者は考える。Trueルートの「大ネタ」はその共通的なメッセージを伝えるために必要な仕掛けであった、というのが本稿のおおまかな論旨である。では、はじめよう。


(1)3つのテーマ①嘘と真実

"嘘と真実"は、本作の多くのエピソードに関わる題材である。とりわけ来栖乃々および有村雛絵に関わるエピソードが多い。個別ルートで明かされる来栖の秘密や拓留が青葉寮を飛び出すきっかけとなった来栖の隠し事そして有村の能力は、話の展開上、大きな役割を担っている。

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↑来栖乃々。生徒会長でしっかり者。お姉さんキャラ。

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↑有村雛絵。ツインテールの後輩。時折妙に鋭いツッコミを入れてくる。

しかし一方で、本作には"嘘と真実"の「境界例」と言えるような事態がいくつか提示されている。

例えば来栖が隠していた拓留の両親についての嘘。多くのプレイヤーが感じた通り、この嘘自体にあまり罪はない。実際、最終的に拓留はこれを「来栖の本当の愛情の現われ」として理解する。来栖の正体に関わる秘密についても同様だ。決して取り乱すことなく受け入れている。嘘だから悪、真実だから善、という安直な価値感には組していない。

また、共通ルート終盤で正体が明らかになる『あの男』の存在。彼は通常の感覚からすれば大嘘つきである。しかし彼の欲望は実に素直でもある。それを示すように世莉架は「あいつは言葉以上のことを考えていなかった。頭の中にはただ、『面白い』という声だけが反響していた*1」と表現している。『そいつ』にとって猟奇的な殺人計画も、日常的な談笑も「本当に面白い」と思っている。そこに全く嘘はない。彼が嘘つきなのか正直者なのか、これは断定する事は難しい。ここでも嘘であれば悪いのか?素直であれば善なのか?という疑問が呈される。

 

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↑本当の言葉の恐ろしさ

また、有村の能力。彼女は自らの能力について、「人の言葉って、いつも白黒ハッキリしているわけじゃないです*2」と言っている。「本当の気持ち」などグレーでしかない。『あの男』や『かわいそうな彼』のケースに示されるとおり、むしろ「真実すぎる」方がよほど「怪しい」のである。

以上に見るとおり、本作では、"嘘と真実"の価値の解体が随所で行われている。日常的にわたしたちは「本当が良くて、嘘は悪い」と素朴に思っている。しかし、一方でそうした価値感が壊れる時がある。カオスチャイルドが表現しているのは、"嘘と真実"の価値の不安定さである。この物語は拓留がその不安定さを受け入れていく過程だと解釈することもできるだろう。

 

(2)3つのテーマ②情報弱者と情報強者

情報強者(情強)を自認する拓留は、物語のスタート時点で周りのクラスメートを情報弱者(情弱)としてバカにしている*3

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↑クラスメイトほぼ全員を「情弱」とバカにする拓留

しかし、物語を通してそのことに疑いをもち、彼は考えを改めていく。想像するにプレイヤーの多くは拓留よりも年上で、いい大人だ。拓留の傲慢さには最初から強く「痛々しさ」や「愚かしさ」を感じると思う。しかし、なぜ「痛々しく」感じるのだろうか。

例えば拓留の持っている情報の精度や情報収集のやり方は決して間違っているわけではない。彼は同年代の誰よりも正しいことを知っているし、ネットにある情報は玉石混交で、その中から精度の高いものを選び取らなければならないことも理解している。

我々プレイヤーが拓留を「痛々しく」思うのは、その情報を入手して何がしたいのか、という目的意識がアンバランスに欠如しているからだ。例えば拓留は、自らが掴んだネタにより「渋谷にうず」という人気ネットニュース管理人と「お近づき」になる妄想をする*4。そんなことで有頂天になってしまう彼の情強としてのゴールは、殺人事件の犯人を追うというシリアスさに比べて非常に卑小だ。その卑小さが彼を「痛々しく」「幼く」見せる。"真の情強"である久野里が「渋谷にうず」を単なる道具として扱っていたことと対照的である。彼女にとって情報は別の目的のための単なるツールでしかない。

震災のクラスメートとの邂逅もそれを示している*5。情弱が「正しいこと」をしていることの衝撃。情報量の多寡や正確さとは無関係な「正しさ」を目の前に突きつけられ、拓留は動揺する。先に挙げた"嘘と真実"と同様、情報が「正確かどうか」「多くを知っているかどうか」という価値感が物語の進行と共に解体されているのではないだろうか。

 

(3)3つのテーマ③部外者と当事者

拓留は、「頑張れという部外者」を嫌う。

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これは部外者のある種の無責任さへの腹立ちであろうと想像できる。これと同じような話が、実は久野里と百瀬の間でも交わされている。

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↑久野里「頑張れという言葉ほど、人を突き放すものはない」

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↑百瀬「同情って優しさだと思ってるわよ?」

百瀬の「同情はやさしさでもある」という言葉は、大人の言葉である。百瀬は同情が無力であることを知っているが、それでも優しさには意味が有ると認める。これは部外者と当事者の問題にも置き換えることができる。部外者の同情は無力で無責任かもしれないがそれでも意味がある、と百瀬は言っているのだ。

拓留も(そしてある面では久野里も)同情や励ましを寄せる部外者に厳しい立場を取る。こうした同情や励ましを部外者に許さないその厳格さは、裏返せば当事者を特権的に見ることに通じている。当事者だけが同情し、優しさを示すことを許す。拓留はある意味その特権的なポジショニングを望んでいるのだ。彼はひたすら当事者になりたがっている。部外者であることの疎外感に彼は耐えられない。

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しかし実際、部外者と当事者というのはそれほど明確に分けられるものではない。例えば、東日本大震災で多くの日本人が感じたのもそれだろう。震災から数年経ち、特に問題のない日常を過ごすことの微かな罪悪感。しかし、たいていの人は極端に偏ることなく、適度に慎みを持ち、適度に憂さを晴らし、適度に心配や同情をして、適度に寄付などを行いつつ過ごしている。誰かが圧倒的に被災者に責任を持っているのでもなく、誰かがまったく無関係であるということもない。そういう中間状態にあることに耐えている。

拓留は自分に鮮烈な被災体験を課すことで、特別な当事者でいようとする。彼は「適度にやりすごす」ことができない。それは自己承認欲求のせいなのか、元来の性格なのか、両親の育て方に原因があったのか、それは分からない。重要なのは、そうした中途半端なことを許せないという厳格さである。「頑張れという部外者」への感情はある種の自己嫌悪でもあろう。部外者になってしまう自分を許せない。物事の中心になりたいという心意気は悪いものではないが、そうした願望こそが彼の生き方を歪めている。

 

(4)潔癖症

上記3つのテーマを通して、ひとつ、拓留のある特徴が浮かび上がってくる。それは拓留の潔癖症という特性である。真実でなければならない。深く正しく知る情報強者でなければならない。当事者でなければならない。本当か嘘か曖昧で、知識が不正確で、どっちつかずであることができない。ノーマルエンドまでの拓留はある種の潔癖症に冒されている。そしてシナリオは「曖昧であること」、「不正確であること」、「どっちつかずであること」への肯定がそれとなく仄めかされている。これが上記に挙げた3つのテーマが孕む本作の共通的なメッセージではないかと筆者は考える。


(5)カオスチャイルド症候群の意味

では、Trueルートで明らかになるカオスチャイルド症候群(以下、CC症候群)の意味とは何だろうか。前項の「潔癖症」の話題を一旦置いておいて、この設定の意味を考えてみたい。おそらく物語のプロットを細かく検証していけばいくほど、この設定は後付けで、無理やりで、インパクト重視で設けられているのように見えるだろう。しかし、実はこの設定にこそ意味があると筆者は考える。

ここでの考察の出発点は、次のような観点である。「プレイヤーが最初に遊んだ共通ルート」と「True後の共通ルート」は、一体何が違うのか。結論を先に書いてしまうと、「実は何も違わない」。しかしこの点こそがミソだ*6。しかし、なぜ「何も違わない」ことが鍵となるのか。

それは、あの「大ネタ」によって認識を歪ませられていたのは、本当は、カオスチャイルド症候群者以外の全員であるという考え方も可能な点にある。つまり、Trueルートに至る前に見ていたビジュアルは全て「真実」で、Trueルートで見させられた「あの姿」は、CC症候群者以外の全員が患っている病気によるものという解釈も可能なのだ。つまり「本当に」おかしいのは、CC症候群者以外の世界中の全員という解釈だ。

CC症候群者とそれ以外の人とでは、CC症候群についての会話や認識が正しく成立しない。ということは、そのCC症候群自体が本当はどちらに帰属すべきものなのかを断定することは原理的にはできない。

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↑「"こっちの世界"が正しくてなくちゃいけない」と思いつつも、もはや何が正しいのか分からなくなる

しかし、ここで次のような反論があるだろう。「Trueルートの最後で、CC症候群者がある画像を見ることで、CC症候群が完治したではないか?」という反論だ。これは全くそのとおりで、あの「完治」があることで、実はCC症候群はCC症候群者のものであると「確定」するのである。逆に言うと、あれがなければどちらが本当の患者なのかを定めることは原理的にはできない。これは正に「胡蝶の夢」の荘周と同じなのだ。夢から覚めなければ、夢であることを決定できない。覚めない夢は夢ではないのである。夏目漱石夢十夜」に唐突に挿入される「胡蝶の夢」の逸話*7は、うきの見せる妄想の世界だけでない。むしろこの世界こそがそうかもしれないという比喩だ。

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『本当はCC症候群者以外の世界中の人間の方が間違っているかもしれない』。この物語がそうだったと言いたいわけではなく、完治する前であればそういう解釈もまた可能であるということだ。同じ世界の中に異なる世界線を並立並存させる仕組み。これがCC症候群の構造である*8

さて、以上のように考えるとCC症候群の意味が明らかになってくる。CC症候群者とは「この世界について正しい情報を得ている/と思わされている者」という重ねあわせの象徴であるのだ。本当に正しい情報を得ているのか、単にそう思わされているだけかは「蓋を開けて」みないと分からない。それは、拓留が序盤で情強を気取った「シュレディンガーの猫」の話に似ている。そういう相反する状態が混合した存在。CC症候群者は、単に妄想している者「ではない」ことが重要だ。相矛盾する状態が重ねあわされていることに意味があるのだ*9

 

(6)拓留の選択とTrueルートの構造

今回のTrueルートは特定の選択肢によって分岐されるルートではない。そうではなく、いわゆる「(各美少女の)個別ルート」を全て開拓したら必然的に到達できる固定的なルートである。実はこの必然性(選択できない)と先ほどのCC症候群者の意味を重ね合わせることで、この物語における拓留の「選択」の意義が見えてくる。

Trueルートの拓留は、多くのプレイヤーが指摘するように「悟ってしまった」ように見える。賢者モードなどとも言われる。しかし、実はこの拓留の選択こそが、CC症候群を乗り越えたものであると考えられる。

完治前の状態では、「CC症候群者」と「CC症候群者以外の者」を明確に分ける「法」は、原理的に存在しない。真実をただ潔癖に求めるだけの拓留であれば、この困難に対してどのような決断もできない。なぜなら、何が正しいのか分からないことこそが論理的には正しいからだ。そんな困難の中にあっては、結局「自分のやりたいこと(冤罪の英雄になる、かわいくて従順な幼馴染がいる、世界の悪を挫く)」が優先される。自分の欲望を優先すること以上に従う理屈が見つけられていないからだ。

しかし、Trueルートで拓留は潔癖であることを辞める。冤罪で刑務所に入ることも(真実でなくていい)、従順な幼馴染を失うことも(情強を誇れなくてもいい)、委員会の手先という悪をそのまま放置すること(当事者として英雄的存在になれなくてもいい)も、全て本当は"やりたくないこと"である。そんな風に汚れた、いい加減なことは"したくないこと"である。しかしあえてキレイでいることよりも汚れることを選択するのだ。なぜならその選択こそが、彼が老人であっても、若者であっても、どのような姿かたちであっても、どんな世界(世界線)であっても、「正しい*10」と信じられることだからだ。嘘とか真実とか情強とか情弱とか当事者とか部外者とか、そんなことは二の次。彼は自らの信じる「正義」に賭けようとしている。彼が悟ったように見えるのはそのためだ。Trueルートの拓留の言葉は、拓留が老人のような姿であったとしても、不自然さのない言葉が使われている。「情弱ガー!」とか「僕はリア充だ!」という言葉は使われない。なぜなら、そんな言葉が許されるのは若者の特権でしかないからだ。Trueルートの拓留はどんな世界、どんな時代でも通用する言葉や選択を模索している。

しかし根本的には「正義」を保証するものなどはない。CC症候群の存在があらゆる世界の前提を覆す可能性があるからだ(あの「設定」は「美少女」ゲームであることさえ覆す)。だからこそ選び取るしかない、「賭け」るしかない。「正義」を選ぶ時には、変わらないと信じる価値にチップを置くしかない。Trueルートが通常のルートとは別の固定的な1つのルートとして設定されていることは、「どちらも正しい」などという微温的なものではなく、拓留が「こうしかない」と決断した意志の強固さを示している。と同時に、その根拠として絶対的に頼りになる理屈があるわけではない。拓留の決断は、必然的(こうしかない)かつ偶然的(賭け)なのだ。そして、必然的であり偶然的という中途半端な立場に立つことが、彼の患う潔癖症を克服することになり、CC症候群という不条理な世界の前提さえ乗り越えるのである。

現実世界でこの意味を振り返ってみよう。

私たちは、情報を得れば得るほど、潔癖になっていく。正しいことを知ることに強迫される。そうした「ネットで先に答えを知ってしまった」者が最終的に陥るのは、「どちらとも言えない」という無難な結論である(共通ルートの久野里との最後の会話)。

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これはこれで間違いではないが、一方で、私たちは日常的にこうした潔癖症を回避したいという願望も抱く。何かに頼ることなく「正しく」決断したいということが以前よりも不思議とリアルになっている。というのも、かつては正しい情報を得るためのコストが高すぎて、何かの決断をするにはある程度の「情報収集への諦め」が自然とできていた。しかし、今ではやろうと思えば無限に正しい情報を収集し続けることができる。そのため、どこかのラインで情報強者になることを自発的に辞めなければ何も決断できない。そもそも世界はその根本から正しいのかどうか原理的には分からない(←CC症候群)。だからこそ、「正しさ(真実)」の窒息状態から脱出して「正しく(正義)」決断したいという願望が逆説的に生じてくる。

前作カオスヘッドの拓巳がひきこもりの英雄であったこととは対照的に、今作カオスチャイルドの拓留は、潔癖になるあまり正しい情報にひきこもってしまった私たちのモヤモヤをブレイクスルーする。彼は情報過剰時代における新しい形の「正義」のヒーローなのだ。(了)

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↑「馬鹿な決断に言い訳しない」。正義は(怖いことに)ある程度の不正確さを背負わないと実行できない。

*1:第11章

*2:第11章

*3:第1章

*4:第2章

*5:第10章

*6:当然それが「大ネタ」を無意味・後付けにも感じさせる理由にもなる

*7:うき編

*8:拓留の力はシュタインズゲートのリーディング・シュタイナーの能力を想起させる

*9:なぜTrueルートの「大ネタ」が後付けのように感じられるのかという理由もここにある。それはこの「大ネタ」がメタ的であるからだ。そのため、フィクションの"中"の話をしているような気がせず、後付のように感じてしまう。久野里が語る「二次元の人間が三次元の問題を認識できない」話にも近い。ただ、この設定は"メタフィクション"とは違う。あえて言えば、"メタリアルなフィクション"であろう

*10:本記事では、正しいという言葉には2つの異なる意味で使われている。事実に近いという正しさ。もう一つは正義という意味での正しさ。ここでは後者

【海外翻訳記事】ストーリーテリングの観点から~チャイルドオブライトVSバリアントハート

本記事は、アメリカのゲームサイトGamasutraに投稿されたレビュー記事になります。レビュー対象は「バリアントハート:ザ・グレイトウォー」と「チャイルドオブライト」。この2作品をストーリーテリングの観点から比較考察しています。なかなか辛辣なレビューでもあります。筆者の方はAlice Rendellさんというゲームデザイナー。彼女は、今年(2015年)発売予定の『Zodiac(ゾディアック)』というJRPGスタイルのゲームの開発にも携わっているようです。また『Zodiac』は音楽を崎元仁さん、シナリオを野島一成さんが担当しているなかなか期待したくなる作品です。(Zodiacの紹介記事- ファミ通

 

オリジナル記事:Mad hatter and Alice "Perspectives on Storytelling. Valiant Hearts vs Child of Light" and Gamasutra

 

翻訳について、色々間違いもあるかもしれませんが、お気づきになられた方はぜひ教えて頂けると嬉しいです。では、以下、記事本文になります。

 


 

ストーリーテリングの観点から~『チャイルドオブライト』VS『バリアントハート』

Alice Rendell

2014年、プレイ前に最も期待したゲームは、UBISOFTのインディスタイルの作品である『バリアントハート:ザ・グレイトウォー』と『チャイルドオブライト』の2本だ。とりわけチャイルドオブライトは、2D横スクロール、ターン制バトルのJRPGであり、かなり早い段階から興味をひかれた。私が現在開発に取り組んでいるゲームである『ゾディアック(Zodiac)』とも近い。しかし主な理由としては、物語世界とキャラクターが私の心に直接的に響いたからだ。チャイルドオブライトは、アーサー・ラッカム風のおとぎ話の世界として描かれている。私もこの2つのテーマは個人的に大好きである。そして、メインキャラクターであるオーロラ。彼女の設定は、普段私たちがJRPGで連想するようなキャラクターとはかなり異なっており、その点がこのゲームを注目すべき作品としている。一方、バリアントハートは、確かに面白そうだったが、私の期待としては2番手に甘んじていた。チャイルドオブライトの物語世界の方が、わたしにとってはゲームデザイナーとプレイヤーの両方の面から明らかに適していたし、その素晴らしさを期待していた。しかし、この2つのゲームを実際にプレイしてみて、私の期待とは完全に反対のことが起こったのだ。バリアントハートに夢中になる一方、チャイルドオブライトには、落胆し続けることになった。もちろん、期待が大きすぎたこともあるが、結局はそれ以上に問題があった。チャイルドオブライトは、基本的なストーリーテリングの過ちを犯していた。バリアントハートと並べてみると、単に上手くいってなかったというよりも、実にダメなものに思われた。

 

チャイルドオブライト:ずっと押韻しつづける演出は適切だったのか

最初に、チャイルドオブライトが遊べる詩(playable poem)だと聞いたときは、その可能性にとてもワクワクした。それはとてもロマンティックに聞こえたし、美しいイメージの贅沢で雄弁な会話を想定していた。素晴らしい手書き風のアートワークを見て私はなるほどと思った。そのアートワークは実に詩の世界ともマッチしていて、この幻想的で夢のような世界を作り上げるのにとても適していると思った。しかし、その代わりにもたらされたものは韻(ライム rhyme)だった。会話、ナレーション、声、全てに韻が踏まれていたのだ。実際、二行連句だったり、韻文だったりと様々だが、押韻することだけはずっと一貫している。「遊べる詩」というこの面白いアイデアが薄っぺらなわらべ歌(nursery rhymes)になってしまっていることに私は失望した。詩作について知っている人ならば、詩であるためには必ずしも韻を踏む必要はないということは理解しているだろうし、作家としては、これはあまりに初歩的なミスだろう。時には、文章が韻を踏むことを望んでいないのにも関わらず、当初の方針にあわせるため、こじつけでそうしているものもあった。紙の上では素晴らしいものに思えたこの方針は、最終的にうまく実現されていなかった。最初のテキストを我慢してようやく、私はこれ以上ハマることは無理だと悟った。私にとっては完璧な物語世界が約束されていたはずなだけに、失望はとても大きかった。結局のところ、この押韻によって、私はこのゲームを楽しめなくなってしまったし、不幸にもそれがこのゲームの良い面、バトルシステムやキャラクターやアートを汚してしまっていた。以下に上手くいっていないと思う主な理由を挙げよう。

  • 余分なテキストを生んでしまっている。純粋に韻を踏むためだけに会話に挿入される文章や単語がある。私はJRPGにあるようなボリュームのあるテキストを期待していたが、不必要なものは残念なだけである。
  • 流れを邪魔している。詩を作ることの本質は、内省のために立ち止まるような一片を作り上げることである。再読して、意味が広がり、解釈して、議論する。ゲームの場合、個々のテキストについて、こうしたことをする時間はほとんどない。言われている内容を理解するために、会話をもう一度読んで遊びの流れを中断するようなことはしたくない。
  • 不必要である。遊べる詩というアイデアは素晴らしかった。ナレーションによるカットシーンではそれはうまくいっていた。最初の部分では、ゲームの雰囲気をなんとか保ちつつ、プレイヤーにおとぎ話の世界に浸れるようにしてくれていた。しかし、会話の部分では、それは無理やりで邪魔なものになってしまった。ストーリーを理解させるのにも、楽しむのにも失敗しているのだ。

 

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『チャイルドオブライト』では、会話が韻を踏んでいるせいで、ストーリーを理解することが難しくなってしまった。

 

バリアントハート:言葉を使わないストーリーの語り方

『バリアントハート:ザ・グレイトウォー』でストーリーテリングが成功している主な要因は、テキストや会話を使わないで、ストーリー、キャラクター、イベントを明確に伝えているその力にある。UIを除けば、テキストは章ごとのカットシーンにしか出てこない。その他はすべて示唆的で、キャラクターの身ぶりやフキダシのアニメーションが使われている。とりわけこのフキダシのアニメーションは効果的だ。そのフキダシが人物の個性を示すだけでなく、プレイヤーに次に取るべき行動を、イメージだけを使って教えてくれる。ゲームで、プレイヤーへの指示をほとんどイメージだけでやろうとするのはとてもリスキーな決断だ。たいていの場合、わたしたちは、プレイヤーが分からなかった時のため「保険としてのテキスト」という安全策に頼ってしまう。しかし、バリアントハートは、イメージだけで即座に理解できるし、この方針を実現しているだけでなく、その適切なやり方の模範例ともなっているのだ。ストーリーが進むにつれて、私はどんどんとキャラクターにのめりこむようになった。次々と展開するイベントによって信じられないほど自分が感情的になっていることに気付いた。ある場所では、手をとめ、自分が泣いてしまっている(そう、泣いたのは一度だけではないんだけど)ことに気付いた。単なる動きのあるイメージだけで、ほとんどのメディアが「保険としての言葉」に頼ってしまっている世界で、これが達成されることはめったにない。バリアントハートという作品は、力強いストーリーテリングの作品として評価されるべきだし、ピクサーの『ウォーリー』や古典的短編アニメ『スノーマン』のような言葉のないストーリーテリングの傑作と肩を並べるにふさわしい作品である。

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『バリアントハート』は、ストーリーとゲーム内指示をイメージだけ使って明確に伝えることに成功している。

 

作品の比較:ゲームメカニクスでストーリーを表現する

言葉を使わないストーリーテリングというのは、バリアントハートが物語を描くのに使った素晴らしい方法の1つでしかない。本作は、他にも、ストーリーを語るのにメカニクス自身を用いるということをしている。パズルなら壊れたパイプの修理させるとか、アクションなら落ちてくる爆弾を避けるといったように、ゲーム中の各課題は、それぞれの状況にちゃんと合わせて作られている。全てが、ゲームの物語(narrative)を支援するものであり、その逆ではなかった。はっきり言えば、バリアントハートの基本的なゲームプレイは特に目新しいものでも、革新的なものでもなかった。しかしその世界の文脈にしっかりと組み込まれており、決してありきたりなものに感じられなかった。むしろ、それぞれの場面がおのおの異なった体験に感じられた。たとえ、同じメカニクスを開発者が何度も再利用していると分かったとしても、そうなのだ。これは、戦闘を除けば、同じような地形を利用したパズルの要素を持つチャイルドオブライトとまさに対照的である。例えば、すぐ閉まってしまうゲートがあり、それを開放するボタンを押すというパズルがある。これは昔からよくある地形パズルだ。作品世界の中で場違いというわけではないが、その作品世界を特により良くするようなものでもない。さて、自分のペースであちこち飛び回るような時間的余裕があるときに、オーロラにとって、はたしてこうしたパズルを急いで解く必要があるだろうか。また、なぜ特定の場所にはレバーやドアがあるんだろうか、他の同じような場所にはそんなものないのに。一方、バリアントハートでは、常にパズルを急いで解かずにはいられなかった。なぜなら、ストーリーがそれを求めていたからだ。もし、わたしがある状況下で(例えば、地雷を避ける時のように)ゆっくり進んだとしたら、その状況が文脈の中で上手く作用しているからである。チャイルドオブライトのパズルは全然楽しくないわけではないし、面白いものもある。しかし、バリアントハートと直接比べてみると、その世界観の中のズレとして強調されてしまう。

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『バリアントハート』は、ストーリーに適合させるようにパズルの仕組みを使っているが、『チャイルドオブライト』はパズルをその物語の状況に差し挟んでいるだけである。

 

作品の比較:サポートするお助けキャラ

アドベンチャーゲームにおけるサポート役の存在は、古くからあるゲームの慣習だが、上手く使うのは簡単でない。よくあるのが、そうしたサポートキャラがウザかったり、無用なものになってしまったり、時にはその両方だったりすることがある(ゼルダのナビもそうでしょ?)。チャイルドオブライトのイグニキュラスは、不幸にもその両方に当てはまってしまっている。イグニキュラスは、失礼で、あまり好きになれないだけでなく、戦闘時の敵側を遅くする能力が(面白いけれど)ほとんど不要だった。同じようなことが呪文やポーションを使ってもできるのである。こうしたナビのようなホタルは、なかなかうまくストーリーにフィットしないように思える。というのも、こういうヒドいお助けキャラは、プレイヤーを補助するためだけのものでしかないと感じられるからだ。一方で、バリアントハートでは、犬が登場する。この犬は、単にパズルでプレイヤーを助けるだけでなく、プレイヤーが操作するキャラクターの人物像を明らかにしたり、補ったりする。メインの操作キャラのうち1人は、命の危険を冒してこの犬を助けるが、その時にプレイヤーは俄かにそのキャラクターの高潔さや勇気や思いやりを更に知ることになるのである。それはささいな振る舞いにすぎないが、キャラクターの人柄についてとても多くのことを伝えてくれる。付け加えるなら、パズルでこの犬を使うというのは、単にふさわしく感じるというより、むしろ正しい。というのも、その犬のために課題があえて設計されたのだと感じるよりも、その場の状況やシナリオの文脈から、犬によってのみその課題が解決できるのだと思わせてくれるからである。これはチャイルドオブライトのイグニキュラスのような、無理やりな組合せとは全く違う。この二つのゲームを直接比較すると、バリアントハートが優れているところにチャイルドオブライトがまたもや及んでいないということがよく分かる。

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『バリアントハート』の犬というお助けキャラは、ストーリーやゲームプレイの中核ともなる。一方でイグニキュラスは弱々しい付け足しでしかない。

 

結論

私は、本記事の大部分でチャイルドオブライトにおけるストーリーテリングの問題を強調してきた。しかし、このゲームをとても楽しんだということも言っておきたい。特に、戦闘システムは非常に面白かったし、アートワークについては息を呑むような素晴らしさだった。しかし、結局のところ、脚本に伴う問題により、私が望むようにはこのゲームにハマることはできなかったし、「恋に落ちるようなゲーム」という期待が「単に好きなゲーム」に置き換わってしまった。私が直後にバリアントハートをプレイしたからチャイルドオブライトの欠点が強調されたわけでなく、この欠点がこの二つのゲームの間の無視できない違い生んでいるのである。しかしながら、バリアントハートで成功しているあらゆるポイントについて、チャイルドオブライトのミスから教訓を得ることができる。そして、この二つの作品を直接比較することで、良いストーリーだけでなく、ストーリーの語り方もまたとても重要なのだとはっきりするのである。

 

さあ、これで言いたいことは、ぜんぶ言った。

では、さようなら。良い一日を!