ビデオゲームとイリンクスのほとり

ビデオゲームや映画を中心としたレビュー・コラム記事です。 Twitter ID: @turqu_boardgame

映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

ゲームは不健全であるということの心地良さについて

どこかの地方自治体で、ゲームのプレイ時間を規制する条例ができるとか。そんな話をテキトーに耳にしていると、ゲームが大好きな諸氏から「そんな条例はけしからん」という批判が出る。ビデオゲーム大好きな私からしても、そんな条例は困ったことだと思うのだが、条例それ自体の是非は別にして、ビデオゲームは大切な文化だからみんなでリスペクトしましょう的な動きについては、ついつい天邪鬼に警戒してしまう。というのも「ゲームって不健全だよね」という感覚がこの社会にあることの複雑でややカオスな位置付けを私は愛しているからだ。当然、ゲームは大切な文化だし、不当で根拠にも乏しい条例など無くせばいいとは思う。世の中ですべき議論がこの私のどうでもいいコダワリを焦点にしていないことは十分に理解している。ただ、私にとってゲームというのは「不健全としての良さみ」を持つものなのだ。もちろん「良い」と直言するのは少しためらわれる。それでも、そういうささやかな「良い」が確かにある。

 

不良が「悪い」ことをかっこいいと思う、そういう幼い気持ちに近いかと言ったら、そうなのかもしれない。でも、ゲームの持つ不健全さは、確かにゲームの魅力の一部なのだ。好きな女の子に「休みの日はずっとゲームやってます」と言いづらい。その言いづらさが良い。「休みの日はフットサルやってます」そんな物言いと対等なぐらい世の中で市民権を得た「ゲーム」をやっているつもりなど私にはない。なんだか嫌なのだ、それが。脱臭されて、みんなから「あら、素敵な趣味ですわね」なんて言われる「ゲーム」なんてのには、落ち着かない。偏見に晒されていてこそのゲームだろうと思う。電車の中で、堂々とプレイされているスマホゲームなどを観ていると、少し羨ましい気がする一方で、少し気の毒な気もする。いかがわしさをスポイルされ、すべてのトゲを抜かれてしまったハリネズミのような、この感覚。単なる気取りだとバカにするだろうか。いやそれはもちろん、確かにバカなのだ。自分の好きな趣味が、世の中の多くの人から祝福されて、認められて、「まっとう」だと思われる。そんなのは少し嫌だと言っているのだから。バカなのだ。しかし、本当にみんな自分の趣味が世の中の大通りであることを全く疑わない趣味人になりたいだろうか。自分の趣味に存在する「毒」こそを愛する気持ちはないだろうか。

 

ゲームの持つ「いかがわしさ」は決して失われない。どんなにゲームの社会的地位が上がったとしても、それはゲームから全く消えて無くなることはないだろう。しかしそのことは悪いことばかりじゃあない。もちろんそんないかがわしさによって不当な偏見を持たれることもあるだろう。しかし、それこそがゲームを趣味とする者にとってのささやかなプライドにもなる。こんな風に言えば、それはやや倒錯気味であることを自慢する者の姿を想像するかもしれない。そういう面はある。あるのだけど、それだけでもない。ゲームのいかがわしさを知るということは、背を向けたはずの「まっとうさ」をも同時に纏うことでもあるのだ。「ゲームのいかがわしさを知っているというまともさ」こういう傲慢な快をもたらすのもまた、ゲームのいかがわしさを受け入れるからではないか。「何がノーマルとかまっとうとか、そんなことは誰も決められない」そんなお題目はもはや猫も杓子も唱える常識になりつつある。だからこそいかがわしきを知り、まっとうであること知る、とうそぶくことがある独特の快感となる。仮にもしゲームがまっとうになってしまったら、世界からまた一つ、まっとうさもいかがわしさも消えてしまう。それはわたしにとって、とても寂しいことだ。

 

『十三機兵防衛圏』必然性の物足りなさとその革新性

2019年。ヴァニラウェア制作。主人公が13人もいるアドベンチャーゲームと聞いては、その手の群像劇的なゲームが大好きな自分としてはプレイしないわけにはいかなかった。クリアして、アーカイブを読み倒す楽しさを十分に堪能したので、元は取ったなと思う。しかし、個人的には期待したほどの面白さではなかったというのが正直なところだ。絶賛が多い中、あまり楽しめなかったという人もいると思うので、そういう人のためにもこの記事を書こうと思う。なお戦闘パート(崩壊編)については特に本稿では言及していない。主題はアドベンチャーパート(追想編)である。また、単に楽しめなかった点を挙げるだけではなく、本作の持つ革新性についても併せて書きたい。なお、本記事はネタバレ有りである。

 

多くの登場人物がいて、その全員が一つの大きな物語へと収斂していくタイプのアドベンチャーゲームの中で個人的に最高傑作だと思っているのは『428』と『ゴーストトリック』だ。この2本の傑作と比較してしまうと、『十三機兵防衛圏』はどうしても見劣りしてしまう。それでは、私自身がどういうところが好きで『428』等が好きなのか、まずはそれを考えてみると、以下の2点をとても高く評価しているのだと思う。

  1. それぞれの登場人物の役割や出来事が全体の絵図の中でピッタリとピースにハマる快感を得られるか
  2. 最後、クリアした時に浮かび上がるストーリーの全体像が美しいか

『十三機兵防衛圏』はこの2点において、不満である。

 

必然性の気持ち良さ

『428』や『ゴーストトリック』には、様々な人物が登場するが、彼らの意図や役割が物語が進むにつれて段々と分かってくる。そして大きくて壮大な事件の中で細かな登場人物に至るまで、それぞれの役割が、素晴らしいタイミングで印象的に提示される*1。これは「サプライズである」という意味においてプレイヤーを楽しませることはもちろんながら、単にそれだけではなく、ある一つの概念をプレイヤーに強く印象付ける。それは必然性という概念である。あらゆる人物や出来事は最初から仕組まれていたかのような、そこにあるべくしてあるという感覚。これは、パズルのピースがハマるような気持ち良さであるとともに、クリア後に物語の全体像をプレイヤーが思い返した時に、その全体像が精巧で精緻な工芸品を見るように感じられる喜びにも繋がる。このような喜びを『十三機兵防衛圏』はあまり感じさせてくれなかった。どちらかと言えば『オーディンスフィア*2』の方がよりその点においては優れていたように思うほどだ。

 

物語の細部が単なる細かな事実の積み重ねでしかない

『十三機兵防衛圏』は複雑なプロットを最後までなんとかまとめあげている点については驚くべき作品である。ここまで複雑な物語をよく表現し切ったなと感動する。しかし、おそらく多くの人はこの物語の細部をうまく理解できないのではないかと思う。例えば次のような点を明確に理解できているだろうか。

・遺伝情報を残す対象とした15人のうち、13人がプレイアブルキャラクターだが、残りの2人は誰か。またその2人は今回(今回のループ)、どうなったのか?

・リセット越えを行った直後の森村が初めて会ったのは誰か(今周、一周前でそれぞれ誰か)。

・BJの中にいるミウラは誰で、なぜ17番機兵を探していたか。

・井田鉄也の目的は何で、どのような点において森村(先生)の目的と異なっているのか。

さて、上記はすべて物語内で明確に語られている事柄であるが、これらを十分に理解できている人はクリア直後だと少なく、なんとなく判るのだけど明確に言えないという人も多いだろう。もちろんこれらをアーカイブを読みながら補完する事も本作の楽しみ方であろうが、そこで得られるのもまた結局、細かな事実の積み重ねでしかない。理解するのが意外に難しい割には、そうした細かな事実は単発の事実ばかりであり、理解する難しさに見合った面白さを持っていない。細かな事実が伏線回収的な快をそれほどもたらさない。ただ「あー、そうなんだ…」と感じるばかりである。上記に例示した点も、物語のプロットを知る上では重要な事実のはずなのに、結局知っていても知っていなくても物語を味わう上であまり違いがないという所に、本作の短所が現れているのではないかと思う。

 

なお細部を含め、重要な事実を抑えるのには以下のブログ記事が非常に参考になる。素晴らしい整理をした記事なのでクリア後のプレイヤーは是非一度、目を通してほしい。

十三機兵防衛圏ネタバレ考察 | INFORNOGRAPHY

 

意外な事実の提示があまりにもアッサリしている

本作の細部を細かく知っていく事にあまり気持ち良さがない、ということを前節では示したが、本作では大きなトリック部分の提示の仕方にも残念さがある。本作では、大きな「意外な事実」の提示を少なくとも5,6回は行なっており、想定していた世界の真実が何度も更新される。しかし、その提示のされ方があまりにもアッサリしており、ほとんどの場合、せっかく「意外な事実」を提示しても、プレイヤーをやや置いてけぼりにしたままに語っている場面が多い。

 

例えば、タイムリープではなく、空間移動だったんだと判る展開はこのゲームの中でも重要なポイントである。しかし、この事実によってこれまで不思議だった別の事実がパタパタと回収されていくような演出にはそれほどなっていない。ただ「そうなんだ」と理解するばかりである。「時間移動よりも空間移動の方が実現性が高いかも」というプレイヤーの科学的リテラシーを僅かに満足させることと、セクターという呼ばれ方をしている理由が理解できる程度の面白味しかない。せっかくのサプライズにも関わらず、世界観に対する理解の更新があまり広がらないのである*3。そして終盤、結局全ては仮想現実なんだと判る展開も同様である。ただ事実が提示されるばかりで、それによって何か多くの事実が改めて納得されるとか、意外であるとも特に感じられない。むしろ、仮想現実内であるなら「空間の瞬間移動」であることの面白味はほとんど失われてしまう。複数の「意外な事実」同士の関係が、あまりにも「疎」の関係にあり、意外性がただ積み重ねられているだけという印象が強い。わたしが個人的に求める必然性の面白さは、事実の「密」な関係にある。せっかくの面白い設定が、本作ではあまり煮詰められることなく単純に混在させられていると感じた。

 

アンチ「ループもの」としての面白さ

では、本作はつまらない作品なのかといえば決してそんなことはない。素晴らしい作品であり、こんなに作り手の労苦が手触りとして感じられる作品はしばらく出ないだろうと思われる。加えて、本作の面白さは、個人的に不満を持った必然性の無さと表裏一体であると考えている。それがアンチ「ループもの」としての面白さである。

 

本作には「ループもの」の物語の場合、自然と受け入れてしまっている展開を、あえて覆している部分が多い。例えば、何度もタイムリープを繰り返して前回の記憶を活用して状況を打破するというモチーフが本作では影を潜めている。特に二周前からリセット越えをしてきた和泉の描き方が顕著である。彼は唯一の二回ループをしている者であり、それゆえ世界の真実に早い段階で気付いているわけだが、彼のやっていることはかなり行き当たりばったりである。DD426を作って世界を守ろうとして、逆にそれでみんながピンチに陥ったり、主人公たちを全員殺そうとしたり、逆に守ったりしている。かなり試行錯誤の道半ばであるのが和泉である。『オールユーニードイズキル』や『シュタインズゲート』でも試行錯誤の段階はあるにはあるが、あくまでそれは途中経過である。結末を描くにあたり、何度もループを繰り返して超越的な存在になることでループを打破するというキャラクターに、和泉をあえてしていない*4。なんなら、最後の最後で失敗してしまうかもしれないキャラクターとして描かれている。因幡深雪や森村(園児)に対しては、そうした超越的な存在であることを多くのプレイヤーは期待したかもしれないが、彼らもまた偶然にそうしたポジションにいただけの存在であり、決して絶対的な存在者ではない。13人という多数の思惑が偶然に交錯した結果そうなったのだという、正に物語内の「箱船計画」を思わせる語り方になっている。「箱船計画」はアポロ計画のような絶対に失敗できない一回をこなすための計画ではなく、大量に繁殖することで、いつか成功させるという計画である。この「偶然に掛ける」というスタンスが、「箱船計画」という設定の全体像と、本作のメインストーリーとで、フラクタルのように同じ構造になっている。奇跡が1人の絶対者によるものでなく、多数の人間の偶然の産物として、しかしドラマチックに描かれている点がこれまでの「ループもの」とは一線を画していると言える。

 

加えて、象徴的なのが、登場人物たちのカップリングである。環境が変われば、別の人を好きになる。この描き方はこれまでループものが持っていた「運命の赤い糸」的価値観のアンチテーゼに感じられる。『シュタインズゲート』のリーディングシュタイナーなどは、そうした「運命の赤い糸」価値観を支える象徴的な仕組みだろう。たとえ世界線が変わっても愛する人は同じ人というのはもちろんロマンがある。しかし、本作ではそうしたロマンをアッサリと放棄している。そして「環境が変われば、別の人を好きになる」という、言われてみれば当たり前すぎるリアリズムに一周回って気付かせてくれる。これは「ループもの」に慣れたプレイヤーであればあるほどに感じる面白さでもある。

 

偶然の物語としての革新性

『十三機兵防衛圏』という作品には、必然性の気持ちよさがないという点において、わたしは不満を感じたが、一方で、必然性ではなく全ては偶然とともにあるという物語を描いた点が素晴らしいと考える。これまでの多くのカタルシスのある物語というのは、得てして必然性の気持ちよさによって支えられている。本作にはそうしたカタルシスはあまりない。それでも、複雑なプロットが一つの作品としてまとまっていることへの感嘆が、ネット等で本作への評価として度々語られてしまっている。確かにそうした評価をされることは当然だと思うが、実は(言い方が難しいが)逆ではないかと思うのだ。本作は、そうしたまとまりが本当にそうであるべき、という必然性に支えられているわけではない。ただ偶然そうであった大量の事実が疎結合のままに悪魔合体していることに本作に固有の魅力があると私は考える*5

 

たった1人の天才的な設計者によって精密に作られた世界とは違う、複数の思惑が、偶然のいたずらによってたまたま好ましい結果を導いた。そういう設計者たる神のいない世界の物語を描いたことが、『十三機兵防衛圏』の「人」の物語としての革新性である。最後の戦闘パートが英雄的な敵戦力の殲滅という勝利によって彩られるのではなく、ひたすら全員で地道に防衛し続けるという演出になっていることもまた、その思想を力強く裏打ちしているように感じられる。『428』も『ゴーストトリック』も多数の人物の物語でありながら、最終的には1つの中心点から照射される物語として描かれている。しかし本作は、バラバラなものをバラバラのままに描き、中心点を持たないことを貫き通しており、そこがかえってドラマチックであるという点が素晴らしいのではないだろうか*6

 

*1:例えば『ゴーストトリック』であれば、主人公シセルの正体提示はもちろんながら、レストランの店員という脇役でさえ、実は潜入捜査官であったというような細部での作り込みがある。また『428』でも単なる賑やかし要員でしかないと思われていた着ぐるみの登場人物が最重要キャラとして終盤に印象的に明かされる

*2:2007年にPS2で発売された。本作『十三機兵防衛圏』を開発したバニラウェア制作のアクションRPG。6人の主人公のドラマが絡み合うストーリー。私自身はPS4版である『オーディンスフィア レイヴスラシル』をプレイした。PS4版はPS2版よりも遊びやすく調整されているリマスター作品。

*3:例えば、鞍部家の柱のキズの謎とか、1945年に世界が崩壊しているのに、なぜ1985年が無事なのかと言った事実をもっと強調できていれば、より「時間移動ではなく空間移動」の設定の意外性が生きるはずなのに、「平行世界かも」というような概念まで丁寧に言及するため、プレイヤーの思い込みが発散してしまい、意外性を抑制してしまっているように思われる。

*4:和泉が必死に魔法銃で主人公たちを撃たせているのも、絶対的な力を身につけさせるのではなく、成長要素をアンロックするという可能性に掛けた行為であることも象徴的である。

*5:以下の記事で、「闇鍋」と表現されている点はまさに同感である。『十三機兵防衛圏』が狂気的に傑作すぎたので、思ったことをちょっと書く

*6:バラバラという意味では、本作は『街』に似ているとも思う。近い作品として言われがちな『街』と『428』の大きな違いもこの点にあると考える。

『ゼルダ無双』と『FE無双』の敵の湧き方が気に入らない

ゼルダ無双』も『FE無双(ファイアーエムブレム 無双)』も、どちらの作品も、それなりに良くできているとは思う。しかし両作品ともに、敵の湧き方がとても気に入らない。同じような感想を持つ人もいるだろうと思うので、書き記しておきたい。

 

昔の真・三国無双では、もう少し敵の出現に節度があった。拠点からしか敵は出てこない(ように感じられた)し、倒したはずの敵の集団がいつの間にか後ろにたくさん再び湧いている、なんてこともあまりなかった筈だ*1。さんざんぱら敵を倒した筈なのに、また敵が無限に湧くように現れるのでは、無双がかつて持っていたプチプチを潰す喜びを毀損しているのでないかと思う。プチプチを潰すのは、その行為自体が楽しいだけではなく、プチプチを潰したその面積、その成果を確認することも楽しいのだ*2。赤い敵の点の塊が、どんどんと無くなっていき、「キレイに」なっていくこと、この快感を『ゼルダ無双』も『FE無双』も忘れてしまっているように感じられた*3

 

もちろん、敵一体一体を丁寧に倒していく楽しさよりも、一撃で死ぬ敵をバッサバッサと大量に配置する方が快感度は高いという判断なのだろうと思う。しかし、無双ゲームにこんなことを言うのもおかしいのだけど、『ゼルダ無双』も『FE無双』も敵一体一体の存在価値を下げすぎている。倒した敵を、その倒した事の結果を確認できるようにして欲しい。もう少し、大量にいた敵を倒した後の、ガランとした広場を見る喜びを大切にして欲しい。そうでなければ、あまりにもプレイヤーの行為が虚無的すぎる。

 

私が言う、この感覚を愛する者もいると思う。特に最近のコラボ無双の中では『ゼルダ無双』と『FE無双』は比較的評価が高いので、余計に心配になる。両作品ともに楽しいゲームであることは間違いない。しかしかつての無双ゲームを愛する者として、ただK.O.カウントを上げる事に重きを置く方向性に、今後の無双シリーズが凝り固まらないように是非してほしいところだ。

 

■追記(2020.01.12)

真・三国無双7 with 猛将伝』をひさしぶりにプレイしてみたが、やはり全く敵を倒すときの手応えが違う。こちらの方が遥かに気持ちがいい。そして、倒せばちゃんと敵が減ることを実感できる点も好みに合っている。『ゼルダ無双』や『FE無双』のようなコラボ無双が分かりやすい快感をお手軽に味わえる方向に進むのも理解できるが、アクションゲームとしての矜持を完全に失った調整をしているように思えて悲しい気持ちになる。でも、『ゼルダ無双』も『FE無双』も好きな人が多い。実に悲しい。

 

*1:マシンスペックが足らなくて表示できないというのなら、そんなに敵を大量に出さないでいいように敵を固くしてほしい。

*2:その点、「ムゲンプチプチ」という商品は、わかってないなと思わざるを得ない

*3:「忘れてしまっている」と書いてはいるが、コラボ系無双は伝統的にこういういきなり敵がその場で湧いてくる仕様なのかもしれない。あいにくとコラボ無双でプレイしたことがあるのが、『ガンダム無双』くらいであり、記憶も曖昧なのだが、当時からそうだったのかもしれない。

『デス ストランディング』はプレイする人みんなを批評家にする

2019年リリース。小島秀夫監督作品。『デス ストランディング』(以下、デススト)は、今年、発売前に最も注目されたゲームだろう。何が面白いのか分からない訳ではないのに、なかなかその魅力を言葉にする事が難しい。そんな不思議な作品であるが、個人的には傑作だと感じた。文句をつけることはいくらでもできるだろうが、それでもこんな作品を作り上げることは、なかなか余人にはできないだろう。本稿では、この作品の持つオリジナリティを他のゲームとの比較から語り、また、小島秀夫作品の特色でもあるカットシーンや演出についてゲーム作品だからこその魅力を持っているということを述べてみたいと思う。

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「表の遊び」と「裏の遊び」の逆転

『デススト』が提示する遊びというのは個々の一つ一つを見ると決して革新的というわけではない。しかし、本作は、既にどこかにあった遊びの「位置付け」を変えている。

 

具体的に見てみよう。荷物を大量に運ぶ上で何を持っていき、何を諦めるかという点は『スカイリム』(2011年)や『フォールアウト4』(2015年)などの重量制限で味わったことがある感覚だと思う人は多いだろう。また、重い荷物を左右バランスを取りながら歩くところなどは、アクションゲームで細い足場を渡る時に左右のバランスを取るミニゲーム的なギミックとして体験した感じに似ている。そして、様々なサブクエストを受注した時に、どのように目的地を巡っていけば効率的にお使いタスクを消化できるか?というのも、昨今のオープワールドゲームを遊ぶ際に似たようなことを考える場面は多い。『デススト』が特徴的なのは、そうしたこれまで「裏側の遊び」だったものが表側に「位置付け」が変わっている点である。一方で、その他のゲームでは「表側の遊び」として位置付けられる「敵を銃で撃つ」「ステルスで敵をやっつける」「車やバイクを運転する」などの行為が、『デススト』では、ほとんど表に出てきている印象がなく、この点で逆に特徴的であると言える。『デススト』は、他のゲームで一般的になっている「表側の遊び」「裏側の遊び」の感覚を逆転させたところに、そのオリジナリティがあると言えるのではないだろうか。

 

個人的に特にこの「表裏の逆転」という感覚を強く感じたのはグレネードの存在と山登りの2つである。他のゲームであれば、補助的な役割になりがちなグレネードという投擲武器が初期から中盤にかけて、ほとんどメイン武器、標準武器として位置付けられている。また山登りについては、かつて『スカイリム』をプレイしていた時に、目的地に着こうとしてちょっと急な斜面をポリゴンの引っ掛かりを探しながら無理やり登った時のことを思い出した。「『スカイリム』ってこういう遊びのゲームではないんだろうけど、この山登りってちょっと面白いな」と思ったことが印象に残っている。『デススト』では、その密かな遊びをメインの遊びとして提示してきており、梯子をギリギリ引っ掛けて無理矢理に崖を登っている時に「あ、あの裏側の遊びがメインディッシュになっている!」という驚きを感じた*1

 

このように『デススト』というのは、ビデオゲームをよく遊ぶ人ほど、不思議な逆転の感覚を与えてくれる批評的な作品ではないかと思う。提示された遊びを単に享受させるだけではなく「こういう所が意外に面白いのではないか」という「面白さを発見する面白さ」をプレイヤーに仕掛けてきている。面白いことそれ自体に意外性(こんなことが面白いんだ!)があるところが面白いゲームなのである。

 

「ゲームの人」か?「映画の人」か?

小島秀夫というゲーム作家を表現するのに、「ゲームの人」か?「映画の人」か?という議論がある。メタルギアシリーズでもそうだが、特に『デススト』ではカットシーンが長いという印象があるため「小島秀夫は映画を作りたいのか?」とやや揶揄を込めて言われることがある。一方で、「やはり小島秀夫はゲームの人なんだ」という言われ方もする。本作もそうだが、目新しく見えるゲームデザインや遊びを作品に盛り込んでくることも確かであり、また先の「映画の人だ」という評価へのカウンターとして「ゲームの人だ」という語りはなされることがある*2

 

どちらの言い分にも理はあると思うが、個人的にはその中間とも言える「小島秀夫はゲーム演出の人だ」という印象が私にはある。それはどういうことか。小島秀夫のゲームでは、明らかにカットシーンが「ご褒美」として機能している面がある。苦労して何かを成し遂げると、そのリワードとしてカットシーンがプレイヤーに与えられる。この90年代から2000年代のゲーム業界の文化の香りを『デススト』には感じる。しかし、こうしたカットシーンがご褒美になるという文化は、『ウィッチャー3』(2015年)あたりで、完全に息の根を止められたような印象がある。昨今、美麗なカットシーンはプレイヤーにとって特に嬉しいものではなく、「カットシーンはご褒美」という考え方は古臭いと思える。

 

しかし、『デススト』には、その「カットシーンはご褒美」を今なお成立させるだけの変則的な搦め手が仕込まれていると考える。それはノーマン・リーダスマッツ・ミケルセンギレルモ・デル・トロと言った豪華な出演者たちにやや奇妙な振る舞いをさせるという部分であり、また、あの世と通信をするという突飛なSF的設定をベースとした不可思議なストーリーテリングである。こうした他の映画やTVドラマでは味わえないような「破綻した面白さ」を仕込むことで、一見すると古臭い「ご褒美」をギリギリに成立させている。『デススト』という物語に仮に設定矛盾や理屈に合わないところがあったとしても、それは単純に非難すべきところというよりも、ゲームだから許される「突飛さ」をむしろ積極的に取り入れていったところだと言えるだろう。『デススト』は気取るために狂ったフリをしているのではなく、狂った設定や狂った演出によって、むしろギリギリにゲームを成立させているのである。プライベートルームでのノーマン・リーダスの数々の珍妙で突飛な振る舞いに世界観や物語上の理屈などは存在しない。これらの要素は他の映画や小説やTVドラマであれば、意味不明な悪ふざけとしてしか認識されないかもしれない。しかしゲームであればそれがささやかな遊びとして受け取られ、突飛であることによって、ゲームのプレイヤーにとって小さなご褒美として成り立つのである。*3

 

ゲームプレイのストレスを浄化する幸福な既視感

『デススト』には数々の印象的な場面やビジュアルがある。多くの人が強い感慨を抱いたであろう場面の一つに、ポートノットシティ(K3)到着直前のシティを一望できる場面がある。ポートノットシティ到着クエストの前にはバイクを入手するという流れがあり、そのバイクによってゲームのスピード感は増す。しかし、ポートノットシティへの到着にあたっては、逆にそのバイクの存在が厄介になる*4。そのため、無理やりにバイクでポートノットシティに到着する場合でも、バイクを乗り捨てて徒歩でポートノットシティに到着する場合でも、どちらの場合であっても、ポートノットシティを一望できる丘にまで到着した時には、プレイヤーはある種の感慨を抱くようになっている。どんなルートでも困難とその克服を感じさせる仕組みになっているからだ。

 

小島秀夫の作るカットシーンには、ポートノットシティを一望する時のような「ありがちだけど幸福なデジャブ」というものがある。バイクがぶつかりそうになったフラジャイルが瞬時に消えてしまう序盤のシーンや、泥沼から起き上がったクリフォードが無言でガイコツ兵に攻撃指示を与えるシーンや、ヒッグスが両手を広げて空中に浮かぶシーンなど、どんな場面もどこかで既に見たことがあるような、そういう既視感がある。しかしそうした既視感は単に「凡庸だ」となるのではない。というのも、プレイヤーはあくまでゲームプレイを通して、そうしたカットシーンや演出を味わうからだ。プレイ時間が長くなればなるほどに、おそらく反復されるカットシーンはスキップされる事が多いだろう。しかし時々、ふとした気まぐれで「今回のカイラル通信の接続シーンはスキップせずに見ようかな」と思うことがある。この「気まぐれ」は、ゲームプレイによって醸成されている。『デススト』が単に見るだけのエンターテインメントであれば、そういう気まぐれが起こる事はない。ゲームプレイによってプレイヤーが特定のマインドセットを抱くからこそ、そうしたベタな演出やカットシーンも、ほどよく幸せなデジャブ体験として成立するのだ。

 

前節では、小島秀夫の作るカットシーンや演出の「突飛さ」を強調したが、一方で小島演出にはどこかで見たような「ベタさ」にも満ちている。しかしそれがプレイヤーにとって幸福なのである。ベタであるからこそ安心して受け取れる。ゲームプレイによって受けたストレスを癒してくれたり、よく知っているものを期待通りに提供してくれるものとして、『デススト』のカットシーンは極めて機能的に作用している。

 

小島秀夫の作るカットシーンや演出は、以上のような両極端の要素を抱えている。「突飛さ」と「ベタさ」である。これらの要素は単品のカットシーンや演出として見たときには、「悪ふざけ」や「凡庸さ」としてしか捉えられないかもしれない。しかしゲームプレイを通して悪ふざけはご褒美になり、凡庸さは癒しになるのではないだろうか。逆に言えば、小島秀夫が仮に映画を撮ったとしてその出来を勝手に想像して不安に思うのは、ゲームプレイを伴わない映像作品が「悪ふざけ」と「凡庸さ」に満ちてしまうのではないかという危惧があるからだろう。

 

傑作としての『デス ストランディング

小島秀夫のゲームは、演出によって際立っている。これはこれまでの小島秀夫作品からも言える事だろう。『デススト』がこれまでの小島秀夫作品の中でも傑作と言える出来だと思うのは、ゲームプレイと演出の噛み合わせが非常に上手くいった例だと思うからである。ゲームメカニクスが剥き出しになったようなゲームプレイが、本作を単なるカットシーン偏重のゲームとして捉えることを抑制している。一つ一つは既存のゲームメカニクスと似ているように見えても、総体としては特異に見えるゲームメカニクス(裏表の逆転)が強く本作の存在感を主張している。「カットシーンが長すぎる」という批判はあっても、『メタルギアソリッド4』(2008年)のような「カットシーンばかりのゲーム」などと批判されることはおそらくないだろう。

 

加えて、カットシーンや演出がそこに至るまでのゲームプレイへのご褒美もしくは癒しとして適度に作用している。 もちろん比較的退屈なカットシーンを長く見させられるという印象を終盤に感じる人もいるかもしれない。それでも、物語の最も印象的なシーンだけを、あくまでゲームプレイへのご褒美や癒しとして適切なバランスで提供するという事が本作は比較的高いレベルで達成されているように思う。過去作で言えば、『メタルギアソリッド4』や『メタルギアソリッド5』(2015年)ではカットシーンの量に比べて、ゲームプレイの不足を感じさせるものであったと私は捉えている。もし見ることに特化した物語を伝えることを第一義にするならば、サムの亡き妻ルーシーとの別れや思い出を語る場面がドキュメントだけでなく、カットシーンとしてあってもよかっただろう。しかし、それらがバッサリとカットされていることは、本作のカットシーンとゲームプレイのバランスとして良い方に働いていると考える。サムとルーシーとの関係が全くカットシーンとしては描かれず、唯一写真とドキュメントだけで表現されるのは、開発コストの制約からなのか、意図的な演出なのかは分からない。ただ、ルーシーとの別れはサムにとって最も鮮烈なトラウマであるだろうから、それをあまり語らないのは、逆に不自然のような気もする。このように「見る物語」として評価した時に『デススト』には様々な舌足らずさがある。しかし、(単に見る物語としてでなく)ゲームとして見たときには非常に良いバランスになっていると考える。

 

「物語としてどうか」「ゲームメカニクスとしてどうか」というように分析的(?)な批評スタイルでそれぞれを分けて評価してしまうと、今ひとつ『デススト』の魅力というの見えにくくなる。もちろん『デススト』という作品の魅力の不思議さゆえに、要素を小分けにして分析したくなることもよく分かる。しかし、我々がそういう批評家になってしまうというのは、『デススト』を評する上で、逆に罠なのかもしれないと思うのだ。

 

『デス ストランディング』は奇跡のような作品だ。おそらく小島秀夫の持つ強運がもたらした偶然の産物という側面はあるものと想像する。しかし奇跡だろうと偶然だろうと、独立後一発目の作品で、これだけのものを世に出したことへの賛辞はどれだけしても、し過ぎということはないと思う。そういう小島秀夫自身の境遇という文脈の面白さを置いておいたとしても、作品が我々みんなを批評家としてしまい、またそれによって何が面白いのかがかえって不思議に感じられる、そんな「面白さの迷宮」に我々を誘うという点においては、唯一無二のゲームではないだろうか。

 

 

 

*1:山登りを「表側の遊び」として提示したゲームは既に『ゼルダの伝説 BotW』がある。しかしゼルダの場合はかなりしっかりと山登りがゲーム化されており、物理エンジンとポリゴンのイタズラでギリギリ登れてしまう、みたいな遊びがより堂々と表現されている点は『デススト』の特徴なのではないかと思う。

*2:『デス・ストランディング』試論――かくて荒野は意味で満たされた。死の大地を歩くことを意義あるものにした、オープンワールドのゲームデザイン - ファミ通.com

*3:本作を社会情勢に対する真面目な問題提起として捉えることにはあまり価値がないと思っている。「繋がり」というテーマに薄っぺらさを感じる人は多いと思うが、下記のインタビュー記事などを読むと、小島秀夫は繋がりの鬱陶しさにも言及しており、そこまで「繋がり」一辺倒ではないとも思う。しかし、例えば、サムの接触恐怖症は最後には克服されるような表現がされており、こういうところが小島秀夫の思想の甘さとも感じられる。より現代的に接触恐怖症を描くならば、その症状を抱えたまま、引きこもりとして生きていっても良いじゃないか?という面を強調する描き方もあったはずである。そういう風には描けない保守性が、小島秀夫のポピュラリティーとも言えるし、限界でもあるかなと個人的には思う。

『デス・ストランディング』は他者と距離を置くことで人にやさしくなれるゲーム。小島秀夫監督インタビュー - ファミ通.com

*4:岩場でBT出現というエリアがあるため、バイクでの踏破が少し難しく、おそらく多くの人がここでBTに捕まるという洗礼を受けることになる。

手堅いが驚きの少ない『ルイージマンション3』

2019年リリース。『ルイージマンション3』は確実に面白いゲームではあるが、新奇性という点ではどこか物足りなさを感じさせる作品だった。

 

このゲームを遊んでいると『ASTRO BOT』のことを考えてしまう。PSVRという新鮮な環境で、古典的なプラットフォームアクションとして手堅く面白い作品でありながら、プレイヤーの意表を見事に突いた作品だった。『ASTRO BOT』がステージを進むごとに次々とプレイヤーに驚きを提供したことを考えると、『ルイージマンション3』はいかにも単調である。もちろんステージ(フロア)ごとに全く異なるモチーフと意匠が施されてはいるものの、どのギミックもだいたい想像の範囲内だという印象がある。初代『ルイージマンション』は裸眼立体視のゲームとしても作られたというエピソード*1も併せて考えると少し感慨深いものを感じる。

 

ただ『ASTRO BOT』と比較して、個々のゲームギミックの工夫やパズルとしての出来は『ルイージマンション3』の方がバリエーションも豊富で手も込んでいる。『ルイマン3』は自らのテリトリーで素晴らしい作品にまで磨きあげられていることは確かである。それでもちょっと期待してしまったのだ。3Dゲームでありながら、決して酔わないタイプの画面固定型アクションゲームの体裁を今なお頑なに維持している中で、それでも新しい何かを見せてくれるのではないか?と。『ASTRO BOT』が古臭さを持ちつつも、新しい可能性を見せてくれたことと似たような新奇性を『ルイマン3』も垣間見せてくれるのではないかとちょっと期待してしまったのだ。しかし、これは少々私の期待が過剰だったようだ。

 

ルイージマンション』はそのタイトルにもある通り、閉鎖空間であることを自らの枷としている。その制約の中でいかに面白いパズルやギミックを提供するか、そこには様々な努力とアイデアが詰まっているのだろう。例えばデザートフロアやビーチフロアなどは狭苦しいホテルの中でありながら、やや広い空間(砂漠や浜辺)を演出している。しかしその砂漠や浜辺の遠景には丁寧にホテルの壁の跡が見えるようにされている。この閉鎖空間という制約を常に意識する姿勢はとても誠実だと思う反面、この生真面目さこそがルイージマンションという作品を強く制約し続けているなとも感じる。初代『バイオハザード』の閉鎖空間での恐怖というテーマに反するように、『バイオハザード2』がほとんど確信犯的に屋外に飛び出したような、そういう奔放さがむしろ『ルイマン』には必要なのではないか。『ルイージマンション3』が原点回帰的な作品としての集大成だとするなら、ぜひ次の4では、これまでの制約から離れて全く新しい世界を提示してくれることを期待したい。

 

『オブラ・ディン号の帰港 Return of the Obra Dinn』の情報の飢餓感の良さについて

※本記事では物語などのネタバレはしてません。

ニンテンドースイッチ版『オブラディン号の帰港(Return of the Obra Dinn)』をクリアした。一応攻略情報などはシャットアウトして、なんとか自力で60人全員の安否を解明できた。クリアまで10時間。とても素晴らしいゲーム体験だった。

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このゲームは乱暴に言えば「5人の中で、1人だけ嘘つきがいます。彼らの話を聞いて、それは誰か当てましょう?」みたいな論理パズルの60人バージョンである。帰港した船舶オブラディン号には60人の乗客が1人も生きて残っていなかった。そんな状況で、主人公は不思議な時を巻き戻す懐中時計を使って、様々な情報を収集し、誰がどのように死んでしまったか、はたまた生きているのかを解明していくという筋書きになっている。

 

論理パズル的なゲームだが、自分が最後までクリアするにあたっては、全てがロジカルに答えを導き出せたわけではない。「4人まで絞ったけど、あとは分からん!」みたいな状況になり、総当たりで無理矢理答えを出してしまった部分も多い。ただ、そういう体験も含めて実に楽しかったことは間違いない。ちゃんと答えを論理的に導き出せなくても、答えだけでも当たっていれば「それでよし」としてくれるいい意味での"いい加減さ"がある。この"いい加減さ"はおそらく本作をより間口の広い作品にしているポイントなのではないかと思う。

 

また本作を論理パズルと表現してしまうと、若干違った印象を与えてしまうと思うのは、情報量の感覚についてである。いわゆる普通の論理パズルでは、情報というのは比較的過剰に与えられる。その過剰に感じられる情報をいかに整理して、相互に矛盾しないように並び変えるかが重要だ。しかし『オブラディン』では少し違う。本作では、前半部分で確かに大量に情報が与えられるものの、中盤から謎解きのための情報に飢えることになる。ここからがいわゆる「ゲームらしい感覚」と「物語世界を味わう感覚」の二面性が感じられる本作の醍醐味とも言える良さがある。

 

本作は中盤くらいで、基本的な情報は出そろう。しかしそれらの情報だけでは、到底多くの部分が特定できないのではないか?と、その全体像の見晴らしの悪さに茫漠とした気分をプレイヤーは味わう。情報が圧倒的に足りないように思えるのだ。ゲーム的にも辛さが大きくなっていくところで、ここで踏ん張れないとちょっとクリアまでいけないというケースはあるだろう。ここを先程の"いい加減さ"で突破するか、もう一つこの『オブラディン』特有の「情報を作り出す感覚」を楽しめるかが重要になってくる。

 

中盤以降の情報に飢えている状況で、実は地味に人物同士の関係性や場所の特性などが見えてくることがある。「この男はやたらコイツと一緒にいるな。ということは…」とか「コイツがこの場所にいることが多いということは、もしかして職業はこれか?」とか、実はこれまで情報だと思っていなかったことが、ヒントになってきたりする。こういう「観察によって情報を生み出す」感覚の面白さに気がつくと、『オブラディン』というゲームへの見方が変わってくる。情報の与え方の無骨さが、むしろ魅力にも感じられ、そこにある素っ気ない事実の塊が「わたしだけに見せる顔」のような官能さを生み出す。ここまでくると『オブラディン』はより愛おしいゲームになってくるだろう。

 

一部、死因が分かりにくかったりする部分もあるものの、そういう点も含めて、プレイヤーへの媚びなさが、この作品を彫刻のように削り取って自分だけの形にするような喜びにつながっている。ゴロッとした情報の原木が、次第に美しい彫像のような姿に変わっていくこの感覚。最初は全く馴染みも何もなかったはずの60人の一人一人の名前が、最後には全て知り合いの名前のように思えてくる。話の展開や内容などに大きな驚きがあるわけではないけれど、最後、60人の安否情報が綺麗に埋まったリストを見ていると、そこに単なるテキストを超えた余白の存在を感じ、なんとも言い難いゲーム独特の物語体験を味わうことになる。

 

ゲームでしか味わえない物語というものがあるとするならば、『オブラディン号の帰港 Return of the Obra Dinn』は、まさにそれを与えてくれる傑作の1本であるだろう。

 

 

スマホゲーム『フローレンス』の逆説的な表現方法の素晴らしさについて

2018年にスマホでリリースされた『フローレンス(Florence)』。本当に素晴らしいゲームで、多くの人が絶賛するように将来にわたって何年も参照される傑作だろう。

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日常生活の何気ない動作をささやかなインタラクション*1で表現したところに本作の特徴がある。これは言ってみれば「文体の発明」であったことが多くの人にインパクトを与えたのだろう。今までデートでの会話をああいうジクソーパズルを使って表現することで「初めてのデートでのぎこちなさ」や「段々と気のおけない関係になっていく様」をプレイヤーに感じさせたことはなかったのではないかと思う。

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本作のこうした特徴の素晴らしさには私自身も異論はないのだが、本稿では少し違う観点、主に「インタラクションの停止」ということについて書いてみたいと思う。

 

インタラクションの停止効果

先述のデートでの会話をジクソーパズルで表現する箇所もそうだが、通勤電車でSNSを見る場面も秀逸である。

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SNSのフォロワーの投稿画面をしっかり確認することなく機械的に「いいね!」や「お気に入り」を押すこの日常的な行為は、ゲームを進めるための機械的・作業的な行為との類似性を感じさせる。物語を味わうタイプのゲームでよくある「行為で結果が変わる面白さ」を提供するデザインとは異なり、『フローレンス』で重要なのは「行為そのもの」である。*2

 

しかし、この「行為の結果」でなく「行為そのもの」に重点を置く、というのは『フローレンス』というゲームだけの専売特許ではない。他のゲームでも例えば強い敵を配置するのは、単にその強敵に勝つという結果(物語展開〕にだけ意味があるのではなく、「勝つのに苦労した!」という行為そのものから味わう感覚や感情にも重点が置かれている。しかし、『フローレンス』が特徴的なのは、「何かをする」ということだけではなく、「何かをしない」「何かをさせない」ことが巧みに利用されている点ではないかと思う。これをわたしは『フローレンス』における「インタラクションの停止効果」と呼びたい。

 

以下に、そうした「インタラクションの停止効果」の具体的なシーンを3つ挙げよう。

 

①職場のシーン

チャプター11では、同棲を始めて恋に浮かれるフローレンスの姿が描かれる。その際、職場でのフローレンスの仕事の様子が描かれるのだが、この描写はゲームの前半(チャプター1)と同じ画面下部に金額のパネルがある画面構成である。チャプター1の時は、パネルの金額の部分をペアになるように選択するインタラクションが必要であった。

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しかし恋に浮かれるチャプター11で同じ描写が出てきた時は、金額部分がプレイヤーに押される前に自動的に選択され、あっという間に仕事の場面は終了してしまう。

 

これはあえてプレイヤーによるインタラクションを停止することで、「恋に夢中になっているフローレンスは仕事での体感スピードも速い」ことを示している。かつてチャプター1でプレイヤーにさせていた「つまらない仕事」が、チャプター11では勝手に終了してしまうことで、その幸せぶりをプレイヤーに想像させることに寄与している。これはプレイヤーが「行為できない」ことを巧みに利用した演出と言えるだろう。

 

②恋の終わりのシーン

2人の恋が終わるシーンでもインタラクションの停止効果を見ることができる。喧嘩をしてしまった2人が描かれる場面は2回あるが、2回目の喧嘩シーン(チャプター14)では、2人が背中を向けあったままベットで寝ている姿がジグソーパズルを組み立てるインタラクションとして描かれる。

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しかしこのパズル、ちゃんとした絵として組み立てることができない(凹凸が合わない)。パズルとして完成しないようになっているのだ。チャプター15の破れた写真を組み合わせるインタラクションも同様に、どうしても完成することができない。このように「ゲームとして解決できない」感覚をプレイヤーに味わわせることで、この恋がもはや修復不可能なことを示している。これもまたインタラクションの停止を活用した演出と言えるだろう。*3

 

③成功へと至る絵を描くシーン

フローレンスは絵を描くことを趣味としている。その絵を描くという行為は度々、プレイヤーのインタラクションによって表現される。例えば、チャプター7の恋人の鉛筆画を描く場面がそうだ。また、同棲を始めるチャプター11でも同様のインタラクションを行うことで恋人の絵を描く。すこし趣向は違うが、チャプター2の子供時代にヨットの絵を描く場面では、ヨットの絵に様々な模様を置くというインタラクションを行う。


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しかし、彼女が大きな成功を手にするチャプター19以降の「絵を描く」シーンでは、全くプレイヤーに「絵を描く」という直接的なインタラクションをさせない。なぜ恋人の絵を描く時はインタラクションをさせたのに、社会的な成功に繋がる絵を描く場面はインタラクションさせないのだろう。これが「ゲーム」であるなら、むしろ成功こそをプレイヤーのインタラクションと共に味わうようにしただろう。しかしあえて『フローレンス』はその逆を行なっている。

 

これは、「社会的な成功」であることが、インタラクションを伴うことで「嘘くさく」なることを避けたからではないだろうか。『フローレンス』は最初から最後まで、とにかく「日常的な」インタラクションをさせてきた。「こういうのってよくあるよね」を感じさせるためにインタラクションが用いられてきた。ここでプレイヤーのインタラクションによって彼女が成功を手にしてしまったら、これまでのインタラクションとのバランスが取れない。これまでの手慰みで描いていた絵とは違うことを示すために、あえてプレイヤーによるインタラクションは停止させられたと考えられる*4

 

これら3つのシーンに共通するのは、インタラクションの停止が「非日常」を描くことに極めて効果的に使われているということである。①では恋愛に舞い上がる幸福感を、②では恋が終わるいたたまれないほどの緊張感を、③では奇跡的とも言える社会的な成功を、それぞれ「インタラクションの停止」によって表現している。

 

『フローレンス』が表現するもの

『フローレンス』はゲームという媒体でありながら、ゲームが得意とするような「問題の解決」「恋の成就」「社会的成功」というものをゲームらしいインタラクションで描いていない。これはゲームという表現形式が、そういった華々しい成功や達成を描きがちであることへの巧みなアンチテーゼになっている*5。ゲームは「非日常」を描くことが得意なのだという固定観念を『フローレンス』は見事に転倒している。そして、むしろ「日常」を描くことにインタラクションが用いられる。この逆説こそが『フローレンス』の物語としてのリアリティを担保する。ゲームは夢物語や壮大な絵空事を描くためだけのものではないということ。むしろインタラクションは「現実そのものなんだ」ということ*6。そしてなによりプレイヤーの干渉できないところに「物語がある」ということを、『フローレンス』は表現している。

 

このゲーム的逆説を巧みに示したところに、『フローレンス』の特筆すべき達成があるのではないだろうか。

 

 

 

*1:本稿では物語を進めるために単にページを送るだけではないようなプレイヤーの行為全般を「インタラクション」と呼ぶ。厳密に「単にページを送ること」と「そうではないもの(インタラクション)」を分けるのは難しいところがあるが、ページ下部にある次ページを開くための矢印を押すとか、画面をスクロールして次コマに移るなどの行為は前者と考えている。フィクション世界にある事物(の表象)を操作するような行為は後者と考えている(時計の針を動かすとか棚に飾っているぬいぐるみをうごかすとか)。

*2:例えば、チャプター10において、同棲生活を始めるにあたり、誰の持ち物を優先的に棚に置くのか、どんな風に置くのか、その行為自体に意味(同棲を始める恋人気分の模倣)があるのであって、自分の物より恋人の物を優先しようがしまいが、物語にはなんら影響を与えない

*3:この演出に似たものは既存のゲームでも存在しており、例えばRPGなどの「負けイベント」と呼ばれるものはこの演出に近いものであるだろう。

*4:もう一つインタラクションさせなかった理由として「彼女自身の意思」を示すためだったという解釈はあるかもしれない。プレイヤーの行為すら干渉させないでフローレンス自身に描かせるために、あえてインタラクションを排したという考え方もできそうである

*5:ときめきメモリアル』の藤崎詩織をラスボスと呼び、恋人になることを「攻略する」とか「倒す」と呼ぶ感覚との違いを思い起こしたい

*6:この辺りは松永伸司『ビデオゲームの美学』(慶應義塾大学出版会,2018)の第七章の議論から発想を得ている