ビデオゲームとイリンクスのほとり

ブログになる前の軽い話は以下で話してます。■Discord : https://discord.gg/82T3DXpTZK 『ビデオゲームで語る』 ■映画の感想は『映画と映像とテキストと』というブログに書いてます。https://turque-moviereview.hatenablog.com/ ■Twitter ID: @turqu_boardgame

映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

『FF16』が傑作であるのは自らの過去を肯定しつつ変革させた点にある

週末批評に本記事の改稿した記事を掲載いただいています。ぜひそちらをご覧ください。

加速する “JRPG” の到達点──『ファイナルファンタジー16』がそれでもムービーにこだわる理由|すみ | 週末批評

 

以下、元記事です。

 

2023年6月に『ファイナルファンタジー16(以下、FF16)』が発売された。多くの期待と不安が寄せられた本作であるが、その評価をめぐっては大きく意見が分かれている。大手ゲームメディアサイトの平均点を算出するメタスコアでは87点と比較的高い点数を獲得している(2023年7月9日現在)。しかし、凡作、駄作であるとの評価も多く、決して賞賛する評価ばかりではない*1

f:id:tuquoi:20230703123425j:image

本作の評価が難しいのは、明らかに昨今のゲームと比較して「普通以下」と思える部分があり、それにも関わらず、本作を高く評価する人がいるところにある。例えば、『FF16』のフィールドにおける探索しがいの無さは明らかで、フィールド上に配置される宝箱やイベントなどアクティビティの密度は非常に薄い。これは昨今の他のゲーム作品と比較しても明らかに「普通以下」である*2
こうした明らかな欠点を持ちながら、なぜ高評価することができるのか。ここには『FF16』独自の達成があると考える。本稿では、この点について示すことで、本作が傑作である理由を示そう。

謎のQTE

ゲーマーには馴染みがあるが、一般にあまり普及していない言葉として、QTEという言葉がある。これはクイック・タイム・イベントの略*3で、ムービー(カットシーン)で画面上にボタンが表示され、そのボタンを短い時間で入力することを求めるシステムである。大抵の場合、入力が成功すると続くシーンでは派手でポジティブな結果が引き起こされる(例えば大型の敵を華麗に倒すシーンなどが続く)。

写真は『ゴッドオブウォー3 リマスタード』(2015,SIE)のQTEの場面 *4

このQTEのシステムが『FF16』にも採用されている。このシステムは『FF16』という作品において特に重要なシステムではないが、『FF16』の取り組みが非常に特徴的に現れていると考えるため、まずこのQTEから取り上げてみたい。
このシステムには通常プレイでの攻撃アクションとは異なり、カットシーンの派手で大仰なアクションを、さも自分がプレイしたかのように感じさせるという効果がある。しかしこのQTEがうまく活用されないばかりか、余計なストレスを与えてしまう作品も多く、「QTEってクソだよね」とか「古臭い」とか、QTEというシステム自体にダメ出しする意見も少なくない*5
QTEが不評な要因は主に「失敗時のデメリットが大きいと感じられる」点にあるだろう。

QTEはここぞという決め手となる場面で使われるため、成功した時はド派手で良い結果をもたらすが、逆に失敗した時には即死やゲームオーバーなど深刻な事態を引き起こすことが多い。加えて、受付時間が非常に短く、突然のボタン操作が求められるケースが多いため、いわゆる「初見殺し」のようなQTEが少なくない。それは通常プレイで求められる操作スキルと異なり、その場限りの単純な反射神経だけを問うつまらないギミックにも感じられる。そのためQTEに失敗した時に受けるデメリットに対して、余計に納得のいかない感覚をプレイヤーは抱いてしまう。
しかし『FF16』のQTEは少し異なる。戦闘の節目節目で挿入されるカットシーンでQTEが用いられている点は同じなのだが*6『FF16』ではそこでのボタンの受付時間が非常に長く、しかも失敗しても深刻な事態が引き起こされない(ゲームオーバーにならない)。言い方を変えると、QTEとしてはとても緊張感を欠いたものとなっている。派手な演出が可能なムービーでQTEを採用するのであれば「油断していたら失敗したかもしれない」というヒヤヒヤ感をプレイヤーに多少なりとも感じさせるのが普通だろう。そうでなければ、一連の流れが「単にムービーを見ている」ことと、それほど差がなくなってしまうからだ。しかしここにこそ、『FF16』という作品の持つ特殊なこだわりがある。
先ほども見たとおり、最近ではQTEを採用しているというだけで、「古臭い」とか「クソだ」との臆見を持たれかねない。実際、QTEは様々なシステムのほんの些細な一部でしかないのに、わざわざ発売前のインタビューでQTE採用について、その意図を聞かれてしまうほどであるのだ。

『FF16』はQTEばかり?の疑問にバッサリ「NO」! 吉田Pが実機プレイをたっぷり交えて本作の魅力を紹介 | Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト

開発側は、QTEというものへの風当たりの強さも十分に理解しているだろう。だからこそ、その採用には、例えば「QTEでなくてはならない意義」を込めたりするのが普通にも思われる。しかし、『FF16』はそうではないのだ。QTEというシステムに過剰な役目を負わせるのではなく、その機能だけでプレイヤーの体験を支配しようとしていない。それだからこそQTEでストレスを与えるリスクを取る必要がない。QTEだけで大きなカタルシスを与えてやろうとか、戦闘の緊張感にヒリヒリしてもらおうとは考えていないのだ。QTEにできることは、多少のボタン操作により、その戦闘の臨場感を感じてほしいという程度のものだ*7

開発者による「クイックではなくSTE(スロー・タイム・イベント)と言える」という言葉もまた「俺たちはQTEらしいQTEでやりたいことがあるわけではないのだ」というメッセージだと解釈できるだろう*8

重要なのは、QTEは「もう古いから」とか「人気がないから」と思い込んで、単純に「採用しない」という判断に『FF16』は倒れていない点にある。そうではなくて「全体の構成の中での役割」を考えた上で、従来のQTEらしさを大胆に無くし、QTEを改良した上で採用している。ネガティブな評価を受けがちな要素を、大胆な割り切りによって「蘇生させる」ことが『FF16』のなしえた独特の達成なのだ。

以上で見たような『FF16』の取り組みを踏まえ、次に、ゲーマーの間でよく言われる「ムービー長すぎ問題」について考えてみたい。

ゲームにおけるムービーはどう受容されてきたか

『FF16』は「ムービーが長い」という評価を受けている。これは実際にそのとおりで、「プレイしているよりもムービーを見ている方が長いのでは?」と感じる人がいても不思議ではない。この「ムービー長すぎ問題」に対して『FF16』はどのように応答しているのだろうか。

『FF16』に限らず、これまでもゲーム作品の長いムービーというのは批判をされてきた。その歴史を振り返るのは難しいが、次の動画を参考にして議論を進めたい。それはゲームメディアIGN Japanの「しゃべりすぎGAMER」の352回「激論!ゲームにおけるカットシーンの存在意義とは!?」という対談動画である。話者はゲームライターのクラベ・エスラ氏、葛西祝氏、シナリオライターの各務都心氏の3名である。

youtu.be

この動画の9分あたりから、1990年代から2010年代までのムービー(カットシーン)に関するプレイヤーの受け止め方や業界動向について語られている。ここでの捉え方には色々と反論もあるかもしれないが、私自身の感覚とも概ね合致する内容であったため、この対談での内容をベースに議論を進めたい。内容としては以下のように要約できるだろう。

1990年代までは、アニメや映画のような豪華なカットシーンがすごいという時代があった。この流れの極地が『FF10』(2001)であった。(8:30〜 葛西氏)

2000年代ごろに雲行きが怪しくなり、『メタルギアソリッド2』(2001)などに対して「ムービーが長い」という意見が出始める。家庭用ゲーム機でも『オブリビオン』(2006)や『マスエフェクト』(2007。日本での発売は2009)がリリースされたこともあり、インタラクティブ性の高い欧米のゲームが日本でも遊ばれるようになった。そしてムービーによる一方的な語りを行う作品へのネガティブな評価が増えた。それは日本のゲーム低迷期とも重なる(10:30〜 葛西氏)

2010年代以降、しかし、欧米のゲームにおいてインタラクティブ性の薄いムービーとゲームプレイが分離したタイプの作品が増えてきたように感じる。『アンチャーテッド』シリーズや『ラストオブアス』(2013)『ゴッドオブウォー』(2018)などである。それは今も続く流れだ。(17:00〜 クラベ氏)

こうしたゲームにおける「ムービー(カットシーン)」の歴史を踏まえて、当該動画においては「ムービー」の持つ欠点をどう捉えているか。動画に出ている三者三様で意見の相違はあるので一律に語ることはできないが、概ね以下の点では合意されていると考える。

ムービーと通常のゲームプレイとが乖離してしまい、統一的になっていないことが問題である

このことをもう少し具体的にクラベ氏は次のように言っている。

だったら俺にアクションゲームを遊ばせて、別で、なんか、映画を見せてくれっていう気持ちには正直なってしまう(同動画20:10ごろ)

ムービーが長いと何が問題なのか。上に挙げた動画では、それについて「ムービーとゲームプレイの乖離」を問題にしている。これはネットで時折見られる「ムービーゲーはクソ」というような乱暴な意見とは異なる。そしてこの動画においては、更に「ゲームとムービーの、どのようなタイプの乖離が問題なのか」についても意見が述べられている。これは主にクラベ氏の意見ではあるが、それは「プレイヤーによる介入のあるなし」である。

プレイヤーがあたかも自分でそこに辿り着いたような錯覚を与えなければならない(同動画22:30ごろ クラベ氏)

これはビデオゲームというメディアで物語を表現するのであれば、プレイヤーの行為が何らかの形で物語やキャラクターの有り様などに影響を与える描き方に価値があるという考え方だ。「ビデオゲームでしかできない表現をしているものに価値がある」という意見でもあるだろう*9。対談相手である他の2名からこの意見について大きな反対意見は出ていないように、これは「なぜムービーゲーは良くないのか?」という評価についての理由の1つを表していると言える。

さてこのようなゲームにおけるムービーに対する評価があることを踏まえて、『FF16』はどのような応答をしているか改めて整理してみよう。結論を先に述べるなら、それは「プレイヤーによる介入がなければビデオゲーム作品としての価値が低いとは限らない。プレイヤーによる介入以外の(映画など他の視覚芸術にはできない)手法によって物語を伝えることにも価値がある」というものである。その目指すところをどのように『FF16』は達成しているのか、具体的に見ていこう。

ゲーム前半、少ない「棒立ちでの会話シーン」

長いムービーを退屈させないために、「見ごたえのある美麗で迫力のあるムービー」を作る努力がなされていることは、以下のレビュー記事などを見てもよく分かる

『FF16』世界最速プレイレビュー。硬派な王道本格アクション&超ド派手な“召喚獣合戦”が両立。初心者から上級者まで対応する画期的な難度調整に注目【『FF16』メディアツアー】 | ゲーム・エンタメ最新情報のファミ通.com *10

しかし、それ以外にも地味ながら、「退屈なムービー」を減らし、ムービーを鑑賞することの質を『FF16』は向上させていると私は考える。その一つとして、他のゲームに比べて『FF16』では「棒立ちでの会話シーン」が少ない点が挙げられる。なお、本稿では「棒立ちでの会話シーン*11(以下,棒立ちシーン)」を「大きなモーションを取ることなく、キャラクターたちが棒立ちしながら、多少の身振り手振りはするものの、ほとんど動くことなく会話するシーン」を意味するものとして使う。それに対比するムービーを「手の込んだムービー」と表現する*12。具体的な「棒立ちシーン」としては下記の画像のような場面をイメージしている。下記の画像は『ゼノブレイド3』(2022, 任天堂)というRPGの一場面である。

ゼノブレイド3』の「棒立ちでの会話シーン」の一例。

「棒立ちシーン」が『FF16』では、特にゲーム前半においてとても少ない。後半から増えてくるが、ゲーム前半で、こうした「他のRPGでよく見る場面」が少ないことによって、『FF16』という作品が他のRPGとは少し違う作品であることを最初に印象づけている。

「棒立ちシーン」は、ほとんどの場合、キャラクターたちの会話を聞く(読む)だけの場面であることが多いため*13、通常のゲームプレイと比べると、どうしても退屈なものになりがちである*14。しかも「手の込んだムービー」とも違って「見せること」に特化したシーンでもないため、それらと比べても「退屈な」シーンになりがちである。

ゲームを作る側からすれば、なぜこうした「棒立ちシーン」があるかと言えば、それはハッキリしている。RPGでは物語を伝えることが大きな特徴の1つであるが、その時の状況や展開をプレイヤーに伝えるのに、手の込んだムービーを1つ作るよりも比較的安いコストでそれを作ることができるからだろう。
以下の画像シーンは普通のゲームであれば「棒立ちシーン」で軽く済ませてしまいそうな非常に短い場面である。主人公が扉を開けて、その先に敵がいることを同行者に伝えるだけのシーンだが、こういう些細な場面もある程度ちゃんとムービーとして作り込まれている。

『FF16』の序盤、ノルヴァーン砦への潜入の場面

しかし、多くの人との会話によって進むRPGというジャンルにおいて、「棒立ちシーン」は欠くことができない。いくらFF16が些細な会話場面にも手の込んだムービーを作るとしても限界がある。あらゆる場面をそう作り込むことは、どんなゲームであっても無理だろう。そこで『FF16』は「単なる会話だけのシーン」をできる限り削り、そもそも「棒立ちシーン」が必要な場面を減らしている。ただ、ゲーム後半では前半に比べるとサブクエストが大量発生するため、クエスト依頼の会話など「棒立ちシーン」が多くなり、後半、物語の印象が変わったという感想を抱いた人もいるだろう。ただ、メインストーリーが主に展開する前半については「棒立ちシーン」が明らかに少なく、そのため「単に会話の内容を追うしかない」というようなプレイヤーにとってやや退屈な場面が少なくなっている。
では、この「棒立ちシーン」を取り除くことは『FF16』の「ムービー長すぎ問題」にどのような変化をもたらしたか。それを更に詳しく見てみよう。

ムービーの説明不足を補うアクティブタイムロア

「棒立ちシーン」を減らすことは「退屈な会話シーン」が減って良いのだが、一つ問題が生じることになる。それは、世界観や状況の説明が少なくなってしまい、プレイヤーが物語を理解しにくくなってしまうという問題だ。そこで『FF16』で取られている対策がアクティブタイムロアという機能である。

『FF16』では、アクティブタイムロアによって、ムービー中でもゲーム世界の固有名詞や専門用語を確認できるようになっている。ムービー中はメインメニューなどを開くことができないゲームが多く、ゲーム内に用語集はあっても、ムービー中に参照できるゲームはほとんどない。しかしアクティブタイムロアはムービー中にも参照できる用語解説の機能であり、そのムービーに関係する単語だけがピックアップされた用語集として、場面ごとにそれぞれ作られている。面白いのはアクティブタイムロアでは、せいぜい5つくらいの用語しか参照できないというところだろう。

『FF16』のアクティブタイムロアの画面。ムービーごとに関連する単語だけがあらかじめ選定されており、簡単に確認することができる

『FF16』には作品世界の専門用語を解説する機能が別に存在している。それはヴィヴィアンとハルポクラテスという二人のキャラクターによって解説される形になっている。この二人に話しかけることで、いわゆる作品世界にある膨大な専門用語を網羅した辞典のような用語集を参照することができる。しかしこの辞典とは別にムービー中にだけ参照できるアクティブタイムロアという仕組みがわざわざ作られている。つまりアクティブタイムロアは、既存の膨大な用語集をムービー中も見られるようにする、といった単純な対策ではないのだ。前述のとおり、アクティブタイムロアはそのムービーに関係する用語が選定されているため、プレイヤーはわざわざ知りたい単語を検索したりする必要がない。そして、用語集と言っても5つくらいの単語を参照できるだけであるため、他の用語の解説をついでに読みふけってしまうこともない。ゲームの中にある用語集やアーカイブログを耽読してしまうのは、昨今の「大作RPGあるある」だとは思うが、アクティブタイムロアの参照では、そうしたムービーから長く離れてテンションが途切れてしまうこともない*15。アクティブタイムロアは会話を減らすことで「説明不足」になりがちになるという点を補いつつ、今見ているムービーにプレイヤーが集中できるように配慮された作りになっているのだ。

ムービーで常にイベントを起こす

『FF16』で「棒立ちシーン」を減らす目的は「退屈なムービー」を減らすことだと考えられる。だから「棒立ちシーン」以外のムービーもまた退屈なものであってはならない。減った「棒立ちシーン」を別の「退屈なムービー」が埋めてしまっては意味がないからだ。そのため『FF16』ではムービーの数は多いのだが、その1つ1つのムービー内にほぼ必ずと言っていいほどに重要なトピックやイベントが組み込まれている。
例えば、主人公クライブが仲間のシドと森の中を進んでいる時のムービー。このムービーはそのエリアの移動途中の様子を示すもので、大きな展開が起きにくい場面のものである。しかしこういう場面を単に「つなぎ」のシーンとしておざなりなムービーにするのではなく、わざわざエリアのボスである「北のヌシ」を事前に登場させて、「絶対こいつボスとしてこの後に出てくるだろ…」とプレイヤーに思わせている。この場面でこの「北のヌシ」といきなり戦うわけではなく、「チラッと見せ」てプレイヤーに焦らしとイベント発生の感覚を与えている。

『FF16』の序盤、森のボス「北のヌシ」がチラ見せされるシーン

このようにムービーで見せるに足る重要なトピックやイベントをできる限り含めることで、1つ1つのムービーの濃度を高めている。プレイヤーにとってはムービーが挿入されるたびに重要なイベントが発生することになり、語り口のテンポの良さを感じられ、「退屈さ」を感じにくい。そして、ムービーが始まった時に「またムービーか」と思うのではなく、「また何か起こるぞ」という期待を持つことにつながる。『FF16』の矢継ぎ早に物語が展開していくスピーディさはこうしたところからも感じられる。

そして実際、『FF16』に対して長所・短所の両面から評価する以下のようなレビューにおいても、その展開の速さは次のように一定の長所として評価がなされている。

『ファイナルファンタジーXVI(FF16)』レビュー。これは「堅実」か、それとも「無難」か。ゲームをクリアさせることに特化させたゲーム - AUTOMATON

ジェットコースターのような仕様の中で、「FFはシナリオが魅力である」ということを再認識することができた。

「映画的でない」からこそ、長いムービーは「蘇生」する

『FF16』は「ムービー長すぎ問題」に対して、棒立ちシーンを減らしたり、イベントをムービーの度に起こすことで、プレイヤーが退屈に感じさせることがないように工夫している。そして不足しがちな説明に対してはアクティブタイムロアで補っている。QTEと同様に、これまでのゲームでも批判されてきた「長いムービー」の欠点を補い、ムービーを作品全体から得られる体験のために活用している。このムービーの活用の仕方がとてもよく現れているのが、ゲーム全体としてのメリハリの付け方である。

よく『FF16』は映画的であると言われるが、映画と大きく異なるのは、ムービーだけで緩急やメリハリをつけていない点だと言える。『FF16』では、戦闘→ムービー→移動という3つのパートを繰り返し、そのサイクルの中で緩急を付けることを目指している。「戦闘」のパートでプレイヤーに緊張感を与え、「ムービー」のパートで物語が展開する興奮やカタルシスを与え、「移動」のパートでプレイヤーの気持ちを落ち着かせる。この繰り返しによってプレイヤーをゲームにのめり込ませる。この点は全く「映画的ではない」だろう。ゲームだからこそできる構成であり表現である。思い切った省略と、物語が展開する興奮をひたすら与え続けるムービーは、そのムービーを単体として見たら、やや「下品」なものかもしれない。しかしこれがゲームの中の一要素だと考えると、見え方が変わってくる。ただプレイヤーをイベントの連続で興奮させるだけではなく、「移動」パートとセットになることで、プレイヤーのテンションを鎮め、次なるムービーへの興奮の下準備をしている。ただ派手なムービーを押し付けがましく見せているだけではないのだ。

加えて、ムービーの合間にプレイヤーによる「操作」のパートが度々挿入されるようになっている点も重要である。最初に挙げたQTEにもそういう役割もあるだろう。これは当然、「見ているだけで何もできない」という気持ちを低減させるための工夫だ。このFF16の「ムービーを見せるだけにしない」姿勢を示す象徴的な場面は、ゲーム開始直後のオープニングだろう。ベテランゲーマーの多くは本作のオープニングムービーが始まったところで「召喚獣による迫力あるバトルを最初に長々とムービーで見せつけてくるかな?」と思ったかもしれない。しかしその予想を裏切り、すぐ操作パートが始まる*16。実際、ゲーム開始後90秒足らずで、召喚獣フェニックスを操作するパートへと移行する。

一般的に言われる「ムービー長すぎなのは悪い」というのは、『FF16』においては「何も操作できなかったり、長い話を長々と聞くような、退屈さを醸成するようなムービーが悪い」と解釈され直されていると考えられる。逆に言えば、プレイヤーを退屈させない形であればこうした多くのムービーをプレイヤーは受け入れると『FF16』は考えているし、そのための工夫を凝らしている。『FF16』という作品にとって敵は「退屈さ」なのだ。

そして先に挙げたIGN Japanの対談動画にあるような「プレイヤーの介入」についても、『FF16』は独特の応答をしていると考えられる。というのも、『FF16』における「操作」のパートは、決してゲームの展開や主人公の決断などに大きな変化を与えるようなものではないからだ。「操作」はさせても、それは必ずあらかじめ定められた1つの結果に行き着く。それゆえ「ムービーとゲームプレイの乖離」は解決されていないとも言える。しかし、だからと言って直ちにそれが、そのゲーム作品を楽しめないものにするわけでもない。Digitally Downloadedというゲームメディアでは、次のように本作を評して満点を付けている。

Review: Final Fantasy XVI (Sony PlayStation 5) – Digitally Downloaded

1秒もゲームが無駄ではなく、つまらないキャラクターや瞬間やシーンがない。その先が気になりどんどん先へと進めたくなる(page-turner)魅惑的な叙事詩である

ゲームにおける「プレイヤーの介入」を考えた場合、その行為が物語の筋などの重大な結果に繋がっていると思えなければ、その結果に自分の力で到達したと「錯覚できない」と普通は思えるかもしれない。しかし『FF16』は大胆にも物語の結末を左右することが重要ではないと考えている。「長いムービー」の何が問題かと言われれば、『FF16』はそれを「退屈かどうか」が問題だと考えているからだ。「退屈である」ことで、ゲームにおける不自由さが悪目立ちしてしまい、ゲーム作品としての不満足さに繋がってしまう。結果としてそれは「ただ見ているだけのムービーゲーは良くない」と言われてしまうかもしれない。しかしジェットコースターのような展開を文字通り与え続け、それを阻害する要因を取り除くことで、実際は不自由であるのに、その問題がまるでないかのように「錯覚させる」ことが可能だと『FF16』は考えている。そしてその試みは一定以上成功している。Polygonというゲームサイトでは、シリーズの過去作品『Final Fantasy 13』(2009)と比較して次のように『FF16』を評している。

Final Fantasy 16 is a slick, modern epic with the soul of a PS2 game - Polygon

構造的には、本作(FF16)は、2009年の『FF13』をとても思い出させる。『FF13』はゲームの最初の方でゲームプレイの幅が非常に狭いものの、それがだんだんと広くなっていく。素晴らしい戦闘システムと美しいビジュアルを持ちながら、『FF13』は過小評価されていた。『FF13』の最も大きな問題は、その痛いほどのスロースターターなところだったが、ありがたいことに『FF16』はその問題を共有していない。

なお、批評家の平均点を算出するメタクリティックスにおいて、『FF16』は87点、『FF13』は83点と、総じて『FF16』の方が高評価されている。

まとめよう。ゲームにおいて批判されがちな「長大なムービー」を「蘇生」させるという挑戦。この挑戦はやはりムービーの質それ自体が高くなくては失敗してしまうだろう。しかしムービーの質自体は高くても「いつまで経っても操作できない」とか「手の込んだムービー以外に退屈な会話シーンを多く見させられる」という既存のゲームでありがちな問題点を抱えてしまっていては、やはり「長いムービーが良くない」とも解釈され失敗してしまう。そうした「退屈につながる要素」を丁寧に潰していくことによって、その「蘇生」を果たしている。それをもたらしているのは、ゲームでしかできない緩急の付け方や操作パートの挿入であり、アクティブタイムロアによるサポート機能があるからなのだ。

自由度への逆向きからの挑戦

「ムービー長すぎ問題」以外にも、冒頭でも紹介した「探索しがいのないフィールド」という問題が『FF16』には存在する。この点はどのように解釈することができるだろう。
『FF16』は自由にいろいろできるゲームでないのは、多くの人が認めるところだろう。特にそのマップやフィールドは一本道で迷うことが少ない形状をしている。比較的広めの平原のようなマップもあるにはあるのだが、マップの隅々まで探索しても、決して楽しいわけでもない。探索した先に宝箱がそれほどあるわけでもないし、あったとしても得られるアイテムは特に貴重でもない。『FF16』は現代のゲームにおいてびっくりするほど「自由な探索」を楽しませてくれない。他のオープンワールドのゲームに慣れ親しんだ人であれば、フィールド上にパズルやアイテムを配置することは、ほとんど「常識」のようなものであり、逆に『FF16』がこうした破格にシンプルな作りがされていることに驚くほどだろう。
『FF16』ではフィールド上の通り道(街道や獣道など)には、なぜか定期的にアイテムが落ちている。歩く先々に目印のようにアイテムが落ちているのは、脇道に逸れてアイテム探索をするプレイを封じているようにさえ感じられる。フィールドの移動パートは探索ではなく、幕間のようなものであり、同伴するキャラクターからの「話しかけ」によってストーリーを補ったり、その世界の風景などヴィジュアルを堪能させる役割しか持ってないように思える。これはもちろん先ほど述べた作品全体の緩急の「緩」の部分を担っていると考えることはできる。しかし、ここまで明確に「探索できない」仕様であることは、むしろ「フィールドで宝箱などを探索するのって、別にそこまで楽しくなくでしょ?」という挑発的なメッセージと解釈することもできる。これまでのゲームでよくあるような、わざとらしい行き止まりを設けて、その先に宝箱を配置する。プレイヤーは若干のめんどくささを感じながらも、そうした宝箱のために隈なくマップをうろちょろする。全く楽しくないわけではないだろうが、そんな中途半端な遊びを作るなら、いっそのことそれらは一切排除してしまった方がいいと『FF16』は考えている。こんなところにも『FF16』の大胆に割り切っていく姿勢が垣間見える。『FF16』の発売前ちょうど1ヶ月のタイミングの生放送で本作のプロデューサーがこれ見よがしに『ゼルダの伝説』最新作をプレイしていたことは、ゲームメディアでも取り上げられた。これは、探索を楽しませたいのであれば、探索の楽しさを極めた『ゼルダの伝説 』のようなゲームを作るべきであり、それができないなら、むしろなくしてしまった方がいいという、そんなメッセージだったのではないかとさえ思える。

『FF14』公式テスト放送にて、『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』に夢中な吉田Pに注目集まる。「吉田ゼルダ」なるワードが爆誕 - AUTOMATON

少なくとも、「自由度が高い*17」と言われるゲームが他にあることは十分に理解しつつも、あえてそうではないゲームを作る意図があったことは明らかだろう。多くのゲーマーにとって「アレもできない、コレもできない」と文句を言われることが分からないはずがない。だからこそ中途半端にやれることを削るのではなく、「やる必要がない」と思ったことを徹底的に削除する。なぜ徹底的に、やや過剰に思えるほど「自由度」を排除する必要があったのか。それはまさに『FF16』の目指すところを明確に示す必要があったからだ。ここまで徹底しているからこそプレイヤーは途中で気が付くのだ。「あ、このゲームはフィールドを色々探索するんじゃないし、選択肢を選んで物語の分岐を楽しむゲームではないんだな。ジェットコースターのように進んでいく物語を楽しんでほしいんだな」と。

一方で、なぜ『FF16』は、このような「不自由なゲーム」を作るというモチベーションを抱くに至ったのか。先ほどの「長いムービー」でも言及したが、『FF16』は「プレイヤーによる介入のなさ」を解決しているわけではないのだ。プレイヤーはあらかじめ決まっている一つの展開や結末に進んでいくしかない。『FF16』は不自由なゲームであることは間違いがない。しかし、わざわざ「不自由さ」を狙いにいくというのは、やはりやや分かりにくいモチベーションだとも思える。この不思議な動機を持った理由を更に考えていきたい。本稿はそれが、ある一つの大きな挑戦だからだと考える。それは「自由にやれることが極端に少ないリニアな(直線的な)ゲームでも、楽しいゲームは成立させられる」という挑戦である。この「不自由なゲームは楽しいのか?」という課題は最近突然出てきた課題ではない。長い時間、日本のRPGが内包し続けてきた課題であり、日本のRPGの中心地にいた『ファイナルファンタジー』だからこそのシリアスな問題なのだ。そして『FF16』はその問題に対して「リニアな展開」を解消するのではなく、むしろ推し進めることで、JRPGスタイルを内側から破壊するような解決を目指したのだと考えられる。この点を本作のプロデューサーである吉田直樹氏の発言などから見ていくこととしよう。

JRPGという言葉は差別的なのか

『FF16』の吉田直樹プロデューサーは、オーストラリアのゲーム系YouTuberであるSkillUp氏からの質問に対して、「JRPGという言葉はかつてネガティブな意味として使われていたことを覚えている」という主旨の発言をしている。そしてこのことは他の欧米のゲームメディアでも取り上げられ、「吉田はJRPGという言葉を嫌っている」などと報じられた。

Final Fantasy Producer Doesn't Like the Term 'JRPG'

youtu.be

上記の動画の約28分ごろからその話題が出てくる。JRPGとは日本のRPGを意味する単語だが、海外のゲーマーの間では特有のニュアンスを持っている(日本語圏でも一部ではそうだろう)。さまざまな使われ方やイメージがあるため、統一的なJRPGの言葉の意味やニュアンスを示すことは難しいが、アニメ調のキャラクターだったり、リニアな展開などがその特徴として挙げられることが多い。本稿ではこの「リニアな展開」の部分を特に取り上げたい。
JRPGという言葉の使われ方を示すため、海外の掲示Redditの以下のスレッドを紹介しよう。

Any "linear" RPGs? : patientgamers

このスレッドは「”リニアな”RPGってどんなのがある?」という質問から始まっている。これに対して、西洋RPGの作品を挙げる返答もあるが、『ファイナルファンタジー10』などをはじめ日本のRPGも挙げられている。同スレッドには、さらに次のような発言もある。

JRPGはほとんどリニアだ

(Jrpgs are mostly linear.)

一般的には、JRPGは西洋RPGよりもリニアなストーリーだ

(In general, JRPGs have much more linear stories than western RPGs)

これらはもちろんこの投稿者の主観に過ぎないが、このようなイメージはある程度普及しているのではないかと思われる。JRPGについて考察した以下の記事でも次のような西洋RPGとの対比によるJRPGの特徴付けがされている。

The ‘Jaded’ RPG: The Fall of Japanese RPG

欧米のRPGは通常、オープンエンドなゲームプレイを重視し、プレイヤーにゲーム世界を探索する自由を多く与え、ゲームメカニクスには多くの選択肢を備えている。一方、日本のRPGは物語を重視し、Kalata(2008)*18が指摘するように「ゲーマーに役割を演じさせるよりも、物語を語ることに熱心」である。

またゲームメディアThe Gamerでは普通の(欧米の)RPGJRPGの6つの大きな違いを示した記事で、2位に位置付けられる違いとして「会話での選択肢」を挙げている(ちなみに1位は「(見た目の)デザイン」だ)。その記事の一部を引用しよう。

6 Differences Between RPGs And JRPGs

大部分において、JRPGの会話での選択肢はその場限りのものでしかないが、西洋RPGでは会話での選択肢がストーリーがどう展開していくかを形成する重大な結果を持つ傾向がある。

上記のような記事や投稿を見ると、JRPGに対して、リニア(直線的)で選択肢の少ないストーリーラインを持っているというイメージはそれなりに浸透しているように思える。こうしたイメージと先述の吉田プロデューサーによる「JRPGという言葉はネガティブ」という発言を合わせて考えると、面白い捻れが見えてくる。
つまり『FF16』を作った吉田プロデューサーはJRPGという言葉を嫌いながら、しかし作られた『FF16』は極めてリニア(直線的)で自由度の少ない、ある意味ではとてもJRPG的な作品であるのだ。これが無自覚であるとは到底思えない。吉田プロデューサーは何を考えて作品を作ったのか。それは彼が先のインタビューで「ネガティブだ」という発言とともになされた「JRPGは差別的な言葉だ」という発言に注目したい。「差別的(discriminatory)」という言葉が思わず使われてしまっているところにこそ、『FF16』が特別な感情をプレイヤーに引き起こす要因が現れていると私は考える。それはJRPGであることに対する根深いコンプレックスの存在である。JRPGは、10代ぐらいの少年が世界を救うという突拍子もないストーリーであり、どこの国とも分からないファンタジー世界をアニメ調のアートワークで描き、一本道をひたすら歩かされる幼稚な作品と思われている。もちろんそれはやや被害妄想的な思い込みであるかもしれない。しかしJRPGという言葉にそういうイメージを持つ人は少なくないだろうし、現に先のインタビュー動画においてもそうした話がなされている。しかしだからこそ逆に、そのJRPGの特徴をゴリゴリに推し進めてもなお世界に通用するRPG を作りたい。『FF16』の野望はそこにあるのではないか。それを示すために『ファイナルファンタジー』の過去作品との比較によって、吉田プロデューサーの「差別」という言葉に孕む裏側の意識について考えよう。これが長い考察の最後のトピックになる。

多様性のキワにおける戦い

『FF16』は発売前に「多様性への配慮が欠如している」と騒がれたことがある。ゲームメディアEurogamerでは「FF16の多様性の欠如に対する吉田プロデューサーの反応に、黒人プレイヤーは不愉快さを示す」と題した記事で事態を報じた。その記事内では、あるゲーム配信者DeeNugLifeの言葉として次のような言葉が載っている。

Yoshida's response to Final Fantasy 16's lack of diversity is "souring", say Black players | Eurogamer.net

ファイナルファンタジー16には信じられないほど興奮していたけど、ゲーム内での表現や多様性についての最近のニュースは、不愉快なものだった

では、吉田プロデューサーはどのように多様性について語っているのか。ここではIGN Japanに掲載された翻訳記事であるインタビュー記事から引用しよう。(太字は筆者)

『ファイナルファンタジーXVI』の開発者に独占インタビュー『ゲーム・オブ・スローンズ』との比較やレーティング問題、人種の表現について訊く

だからこそ、僕たちが皆さんに注目していただきたいのは、キャラクターの外見よりも、むしろ「人」として彼らがどんな内面を持つのか。それは複雑で、なおかつその性質、背景、信念、性格、動機において多様性を持ち、皆さんの多くが共感できるようなストーリーを持っている、という部分です。ですから、ヴァリスゼアにも間違いなく多様性はあります。それは、あらゆる面での多様性とは言えないものの、僕たちが作り上げた舞台設定と相性が良く、相互に物語の品質を高め、開発チームのインスピレーションやコンセプトにも忠実であり続けられるような多様性になっています。

上記の発言は、多様性の問題に対する核心をやや外してしまった回答と言えるだろう。この発言の至らなさは、まさにここで吉田プロデューサーが「注目していただきたいのは、キャラクターの外見よりも」と言っているように、そのたかが「外見」によって現実の世界ではシリアスな問題が起き続けていることにある。この吉田プロデューサーの回答が、今まさに日常において人種差別の当事者となっている人にとって(そして多くの有色人種にとって)、きわめて軽薄に見えるということはあるだろう*19。もちろん吉田プロデューサーに悪意はないだろうし、これでもかなり言葉を慎重に選んでいるとは思うものの、批判がなされること自体は不思議ではない。
ただ、上記の発言において私が注目したいのは次の言葉である。

それは、あらゆる面での多様性とは言えないものの

この発言は、『FF16』という作品が人種差別や多様性の問題を十分にカバーできていないことを、製作者自身が分かっていることを示している。実は上記のような「十分でない」という主旨と似たような台詞がゲーム内にも登場する。
f:id:tuquoi:20230703162310j:image
上の画像の右側にいるシドという登場人物が語る台詞は「人として生きることを許されていないのは 何もドミナントやベアラーだけじゃない」というものだ。『FF16』では差別の問題が「ベアラー」という存在によって語られている。「ベアラー」とは魔法を使える人間のことだが、この作品世界においてベアラーは差別される存在である*20。そして物語のメインストーリーとしては一貫してベアラーの境遇の厳しさと彼らを救うための物語が描かれる。実は先のシドの「人として生きることを許されていないのは 何もドミナントやベアラーだけじゃない」というセリフは「言い訳」なのだ。ベアラーだけが差別されているような描き方をしてしまっているけど、それ以外にも苦しんでいる人はいるだろうし、そのことをちゃんと知っていますよという言い訳である。私はこの「何もドミナントやベアラーだけじゃない」というセリフを見て、そして吉田プロデューサーの「それは、あらゆる面での多様性とは言えないものの」という言葉を読んだときに、次のように思った。

確かに十分に描けていないという欠点をそのまま言い訳するのはスマートな表現ではないかもしれないが、この手の政治的な話題をひたすら避けようとしていた昔の日本のRPGと比較すると、ずいぶんと意識は変化したな、と。

同じ『ファイナルファンタジー』というシリーズの作品であっても、昔よりもずっと社会問題や正義ということに対する意識や感覚が変わっている。このことは主人公たちのレジスタンスとしての戦いやその目的に関する台詞からも感じられる。今なお人気の高い過去作『FF7』(1997)と具体的なセリフを引用しつつ比較してみよう。
『FF16』では主人公クライブはシドというベアラー救済組織のリーダーをしている男に導かれ、そして物語が進むとクライブ自身がその組織のリーダーになる。シドは次のように語る。(太字は筆者)

シド
「"人が人として生きられる場所をつくる"ことなんだと・・・」
「俺が本当に欲しかったのは・・・そう誰もが・・・自分の意志で・・・生きられる場所だ・・・」
「このくそったれな世界に居場所を・・・窮屈なクリスタルの牢獄を ぶち破るんだ」

f:id:tuquoi:20230703162724j:image

これが彼らの目的だ。これだけ見れば何の変哲もない台詞だが、『FF7』と比べると、その違いがよく分かる。

FF7』の終盤で、なぜ戦うかということについて主人公のクラウドと反政府組織アヴァランチのリーダーであるバレットたちが語り合う。次にその台詞を見てみよう。(太字は筆者)

クラウド
「みんなが何のために戦っているのか それをわかっていてほしいんだ」
「星を救う……星の未来のため…… 確かにそのとおりなんだと思う」
「でも、本当は、本当はどうなんだろう?」
「俺にとっては、これは個人的な戦いなんだ」
セフィロスを倒す。過去との完全な決別」
「それが星を救うことにつながっているんだ」
「俺、考えたんだ」
「やっぱり俺たちは自分のために戦っているんだ」
「自分と……自分が大切にしている誰か? 何か? そのために戦う」
「そのために星を救う戦いを続けているんだ」
バレット
「たしかに……」
「星を救うってのは、なんとなくカッコいいよな」
「でも、オレたちにできたのは あの、魔晄炉爆破だ……」
「今となっちゃあ、あんなやりかたはいけなかったってことは良くわかる」
「仲間たちや関係ない大勢の人間を不幸にしちまった……」

f:id:tuquoi:20230703162743p:image

比べてみると明らかだが、『FF16』では、他人のために戦っていることを明言している。一方で、『FF7』はあくまで「個人的な戦い」であることを強調している。それがたまたま「星を救う」ことにつながっているという理屈で世界を救う。しかし根元にあるのは個人的な理由であり、あえてこの部分を強調するのだ。バレットもこの後のセリフで自分の家族や故郷のために戦っていることを認める。これはこれで理解できるものの、『FF16』の「すべての人のために」という真正面の正義とは明らかに違う。「個人的な戦いが、たまたま多くの人にとって良い結果をもたらす」という言い訳めいた理屈、そこには「政治的無関心」を装うような態度が滲み出ている。「すべての人のために戦う」と正義を語ることを少し恥じる感覚が、『FF7』にはあったと言える。しかし『FF16』では、素朴にすべての人が人間らしく生きられるべきであり、不当な差別を受けることはあってはならない、それを正すために戦うのだということが明確に謳われている。「すべての人のための戦い」を恥ずかしいなどとためらいを持つこと自体が、その不当な差別や苦しみを受けている人への想像力を欠いているのではないか?という、とても現代的な感覚が『FF16』にはあるのだ。一方で『FF7』が発売された1990年代にはそういう「まっすぐな正義感は恥ずかしい」とか「素朴な正義を語らないほうが誠実な感じがする」という思い込みがあったのかもしれない。
また『FF7』のバレットのセリフには、自分たちのテロ活動(魔晄炉爆破)を反省して「今となっちゃあ、あんなやりかたはいけなかったってことは良くわかる」と反省する発言がある。この点も、『FF16』とは異なる。『FF16』ではマザークリスタルという施設の破壊(テロ行為)が主人公たちによって行われるが、それはあくまで「人が人として生きる場所をつくる」という明確な目的意識と覚悟によって遂行されている。また『FF16』のヒロインであるジルは、かつて自分や自分の仲間を凌辱していた組織を壊滅させ、そのリーダー(司祭)を自らの手で殺すというシーンが明確に描かれる。正義のために必要な戦いがあり、それを安易に相対化して「正義の戦いだからと言って人に迷惑かけちゃいけない」とか「相手を殺してしまうようなやりすぎは良くない」などと、『FF16』では安易に反省したりしない。そういう安っぽい反省は「おかしい」という感覚が『FF16』にはある。これらのセリフやエピソードから、『FF16』が『FF7』と比較して大きく「正義」というものに対するその意識を変えていることは明らかだろう。

しかし、私がより強調したいのは、1997年の『FF7』からここまで変わった2023年の『FF16』においてさえ、まだある種のためらいが残っている点である。それが先のシドや吉田プロデューサーの「それは、あらゆる面での多様性とは言えないものの」という言葉だ。これはより広い視点で差別問題を捉えなくてはいけないという意図が含意されつつも、どこかで正義というものを相対的に見て、あらゆる多様性を踏まえた視点というのは「どだい無理なのではないか」という発想が潜んでいるように思える。そしてこれに「JRPGは差別的だ」という言葉を合わせて考えると、私には次のような思考が『FF16』制作陣にはあるのではないかと推測してしまう。それはJRPGを作ってきた俺たち自身が、まさにその多様性からこぼれ落ちてしまうのではないか?」という違和感が彼らにはあるという推測だ。先の「JRPGは差別的だ」と語られる前には、別のスタッフ*21によって、次のような言葉が語られている。

 吉田が伝えたいことは、私たちはゲームを作るときにJRPGを作っているのだと思って取り組んでいるのではないということです。私たちは単にRPGを作っている。JRPGという言葉は、欧米のメディアで使われている言葉であって、日本のユーザーやメディアで使われているものではない。

『FF16』の吉田プロデューサーをはじめスタッフたちがどのように思っているかは推測の域を出ない。しかし、私はこのJRPGという言葉ごときに「差別的だ」というコメントをしてしまった気持ちには、「お前ら、欧米メディアは多様性だなんだと言っている割には、JRPGという言葉を無自覚に使いやがるんだな」という苦々しい気持ちがあるような気がしてならない。もちろん、これは私の想像に過ぎないのだが、『FF16』を制作するスタッフたちの中に、そういうJRPGという言葉やイメージに対するある種のコンプレックスがあるのだとしたら、彼らには「正義のために戦う」ということに対する、一筋縄ではいかない感情があるのではないか。「あらゆる多様性」から簡単に漏れてしまうかもしれない日本のRPG。正義に対する感覚が1997年の『FF7』から大きく変わったとしても、そういう正義に対するどこか100%乗り切れない気持ちがあるのだとしたら、『FF16』という作品はどのように作られるのか。それはあくまで『JRPG(日本のRPG)』であることを否定しないままに、進化するということではないのか。そして、『FF16』を高評価する人の多くは、過去の『ファイナルファンタジー』を肯定しつつ、矛盾したままに進化しようとする努力にこそ、共感しているのではないか。海外にもJRPG愛する人は多い。吉田プロデューサーが認める通り、昨今、JRPGという言葉にはネガティブな印象が段々と減ってきており、好意的な意味で使われることも増えてきている。しかし私を含めたゲーマーは忘れていないのだ。2000年以降、「JRPG(日本RPG) vs 西洋RPG」という枠組みで語られてきたことに対するコンプレックスを。そういうコンプレックスを、単に西洋RPGRPGを日本人が作ることで払拭できるのか。いやできないだろう。圧倒的なクオリティのJRPGRPGによってしか、これを克服することはできない。おそらく吉田プロデューサー自身、日本のゲーム業界で生きてきたというアイデンティティを賭けた取り組みこそが、この『FF16』なのではないだろうか。過去の自分や自分の会社(スクエアエニックス)がやってきたことを全て肯定するのみならず、それを極限までに、そして過剰なまでに加速させる。そのことによって「ムービーだらけじゃないか」との批判や「探索しがいのないフィールドだ」と叩かれることも受け入れて、選択肢のほとんどないリニアな物語を徹底的に語り切る。『FF16』のシドは語った。すべての人が人として生きられる場所をつくるために闘うと。まさに『FF16』を作ることは、すべての人(JRPG制作者)が人(RPG制作者)として生きられる場所を作る闘争ではなかったのかと思うのだ。それは多様性という概念の真ん中で行われる戦いではない。その周縁部、まさにキワの部分でなされた闘争なのだ。

『FF16』という終着点

『FF16』は日本のRPGが歩んできた道程の一つの終着点である。それは自らのアイデンティティを賭した長い長い闘争の果てにある作品である。発売1週間で世界で300万本を売り上げ*22、また称賛の声も少なくない現在の状況を見ると、これが日本人のみならず、多くのJRPGを愛してきた人たちの心の中のもっとも繊細な部分を刺激したのではないかと私は考える。JRPGスタイルを加速させるという反時代的な野望や理念だけが先行しているのではない。ゲーム内のあらゆる場面においてストレスを軽減し、快適さを向上させ、不自由かもしれないけど、退屈することのない体験をテンポ良く楽しめる、そこに愚直なまでにこだわる。そうした努力の果てに、JRPGの疵だと思われていた様々な要素が召喚獣フェニックスのごとき「蘇生」を果たす。JRPGのスタイルでもここまでプレイヤーを楽しませることができることを示した。これが『ファイナルファンタジー』というJRPGの歴史を背負ったシリーズ最新作だけがなしえる、傑作の傑作たる所以ではないだろうか。

 

*1:スクエニ渾身の新タイトル『FF16』は“観る”大作、一部ユーザーの賛否は割れる | From DIAMOND SIGNAL | ダイヤモンド・オンライン

人種問題だけじゃない…『ファイナルファンタジーXVI』が国内外で“賛否両論”を呼んだ“納得の理由” | 文春オンライン

*2:以下のレビュー記事には次のように探索要素について評価されている。

物語中心の構成であるためか、マップ探索という要素については、昨今のRPGを考えると、少し控え目に感じました。

 オープンワールドではないので仕方ないですが、物語を無視してガンガンマップ探索を進めていくことはできません。

 先述したように寄り道のタイミングはたくさんあるのですが、全体の自由度はそう高くないのです。

【FF16ネタバレなしクリア後レビュー】シリーズ最強のストーリー&アクション! 怒涛の展開に止め時が見つからず - 電撃オンライン

*3:一般的に現在の形式でのQTEの始まりは『シェンムー』(1999, セガ)と言われるが、その当時はクイック”タイマー”イベントと呼ばれていた。ただ現在はクイック”タイム”イベントと言われることが多いので、本稿ではそう記す。

*4:オリジナルの『ゴッドオブウォー3』は2010年にPS3で発売された。画面写真はリマスター版で2015年にPS4で発売されたものである

*5:ニコニコ大百科 QTE https://dic.nicovideo.jp/t/a/qte

ピクシブ百科事典 QTE https://dic.pixiv.net/a/QTE

*6:他のゲームでも敵の体力ゲージを半分まで減らすと、敵が第二形態へと変化して攻撃パターンが変わる、ということがあるが、『FF16』でもそうした戦闘の節目でカットシーンが挿入される。

*7:以下の記事において、次のように語られている。

『FF16』画面の暗さ、マップの狭さ、QTEについて吉田直樹氏が回答。テュポーンの姿やボス毎にテーマが異なる召喚獣ボスバトル映像公開【PAX East 2023】 | ゲーム・エンタメ最新情報のファミ通.com

このフェーズ切り替わりのタイミングで主人公・クライヴのアクションを演出するために、攻撃か回避を選ぶことで臨場感を出している。

*8:https://www.famitsu.com/news/amp/202303/26297408.php
https://www.gamespark.jp/article/2023/03/27/128368.html

*9:この価値観からすると、2010年代以降のムービーとゲームプレイが分離したタイプのゲームが欧米発の作品でも増えてきているというトレンドがあり、そのトレンドに乗っている作品は、ビデオゲーム作品としての価値が低いという判断になるだろう。このことは対談の中でも各務都心氏によってそう述べられている。本稿ではこの点については明に取り上げないが非常に重要な視点であると思う。

*10:上記リンク先の記事でも以下のように書かれている。「実際に遊んでみた感想は、とにかく映像の迫力がすごい。」

*11:本稿では、「(手の込んだ)ムービー」をいわゆるプリレンダムービーで、「棒立ちシーン」をそうではないシーンだと定義しているわけではない。昨今、リアルタイムレンダリングによって制作されたムービーであっても、多彩なモーションや派手な場面が描かれることも増えており、制作技術的な違いにより区別することは本稿での主旨ではない。そのため、あくまで見た目の動きの少なさによって言葉を使い分けたい。ややその境界線ははっきりしないが、本稿の議論において明確な境界線を設ける必要性はないと考えている

*12:やや分かりにくいが本来「棒立ちシーン」もムービーの一種である。ここでは上位概念としてのムービーと「棒立ちシーン」ではないムービーを、「手の込んだムービー」という言葉で表現しているため、多少分かりにくくなっている。その点はご容赦願いたい。

*13:時には選択肢を選ぶ場合もあるので、これは「意味のあるボタン入力」ではあるだろう。しかし概ね会話のテキストを進めたり、スキップしたりできる程度がほんとんどだろう

*14:ただし、こうした「棒立ちシーン」への問題意識は何も『FF16』という作品だけが抱いているものではない。例えば名作RPGとして名高い『ウィッチャー3 ワイルド・ハント』(2011)では、こうした「棒立ちシーン」においても多彩なカメラワークを取り入れ、人物のバストアップや遠景からのショットなど、様々な「見せ方」に工夫を凝らして「棒立ちシーン」の退屈さを軽減していた。

*15:アクティブタイムロアに出てくる単語を絞るために、ムービー内に出てくる専門用語が多すぎないようにムービー内のテキストも考慮されているのではないかと推測される。『FF13』(2009)でネットなどで揶揄された「パルスのファルシのルシがパージでコクーン」のような専門用語の量で圧倒することは『FF16』では避けていると考えられる。

*16:ゲーム実況者のおついち氏はいきなり操作が始まるところで少し意外そうに「え、いきなり召喚獣戦やるの?!」と驚いている

https://www.youtube.com/live/Ogs_3hsKgfw?feature=share

*17:ゲームにおける「自由度」という言葉はさまざまなものに当てはまる言葉であるため語ることが難しいが、本稿では「プレイヤーの自発的な行動によって、物語の展開や得られるアイテムやスキルなどが変化し、ひいてはキャラクターの様々なビルド(成長のさせ方)があること」を指すとする。ここで排除される「自由度」としては、プレイヤー自らが考案した独自の遊びを展開できる自由とか、キャラクターの直接的には描かれない面をプレイヤーが想像して楽しむ自由などがある。それらを『FF16』はやや抑え気味にしているところはあるかもしれないが、議論が発散しないように本稿の「自由度」という言葉の対象からは除くこととしたい。

*18:Kurt Kalataはゲーム系ブロガー。日本のRPGについての著作がある。ここでの参照先の2008年の記事は以下のURLの記事。
https://www.gamedeveloper.com/design/a-japanese-rpg-primer-the-essential-20

*19:なお、『FF16』には一応有色人種のキャラクターは登場する。ただし、物語の後半になって登場するため、上記の記事のように発売前ではそのことが分かっていなかったということは多少あるかもしれない。

*20:普通の人間は魔法を使うことができず、クリスタルという特殊な鉱石を使って魔法を使っている。しかしベアラーはクリスタルを使うことなく、そのまま魔法を使うことができる。そんな特殊な能力を持つなら、その社会の中でもっと重宝がられてもよさそうなものだが、その点は置いておくとしよう。いずれにしろ『FF16』の世界ではベアラーは魔法が使えるがゆえに、差別され、奴隷として過酷な労働を強いられ、発言も移動も自由にできない被差別者として描かれている。なお、ドミナントはベアラーの上位互換のような人間であるが、ここでは議論の主旨とは特に関連しないので、いったん置いておく。

*21:ローカライゼーションディレクターのMichael-Christopher Koji-Foxの発言

*22:https://automaton-media.com/articles/newsjp/20230628-253737/

『ゴーストトリック』が13年経ってもプレイすべき傑作なのはなぜか?【ネタバレ無し】

ゴーストトリック』のリマスター作品が2023年6月30日に、Nintendo Switch/PS4/XBOX/Steamでリリースされる。元々は2010年にニンテンドーDSソフトとして発売された作品だ。私が今までプレイしたアドベンチャーゲーム*1の中で、最高と思う一本だ。

ゴーストトリック 公式サイト】

ゴースト トリック | CAPCOM

f:id:tuquoi:20230613230931j:image

正直、スマホ版が2800円で入手できる中で、リマスター版とはいえ3990円*2で売るのは中々強気だなとは思う。しかし、これもカプコンという会社が『ゴーストトリック』という作品を評価し、大切に思い、「安売りしないぞ」と考えているからかもしれない(勝手な想像にすぎないが)。

ゴーストトリック』を作った巧舟氏の脚本は、『ゴーストトリック』に限らず、現代ゲームにおけるひとつの頂点であると考える。『大逆転裁判1&2』も素晴らしかったし、『ゴーストトリック』も本当に素晴らしい。ラストに向けて、様々な事象が回収されていく、いわゆる「伏線回収」の面白さはさることながら、やはりタクシュー脚本の醍醐味はキャラクターが感じさせるある種の「悲しみ」の表現にある。初代「逆転裁判」の第3話トノサマンの回で、ラストに犯人が見せるささやかな悲しみ。それが実にサラッと表現される。決して派手でもなく、大袈裟でもない。憎むべき犯人が見せる悲しい素顔。2001年のデビュー作『逆転裁判』においてすでに、タクシュー脚本に潜む「悲しみ」の表現は秀でていた。

一方で、タクシュー作品は、どうしようもないギャグが満ちている作品でもある。『逆転裁判』の主人公の名前が「なるほど(成歩堂)」というのもふざけている。キャラクターの名前はほぼ全てなんらかの言葉遊びになっている。キャラの名前だけではない。『大逆転裁判』に登場する夏目漱石(あの文豪の夏目漱石だ)が「四字熟語をしつこく繰り返し叫ぶ」という謎のノリのギャグもある。『ゴーストトリック』も『逆転裁判』シリーズも、死を扱うゲームでありながら、このふざけたギャグ要素は、あまりにコミカルすぎるようにも思える。しかし、このふざけ具合がむしろキャラクターへの愛着へと染み込むように作用してしまうというのは、作品をプレイしたことのある人であれば分かってもらえるのではないだろうか。

テンプレのようなキャラ造形が制作のスタートラインにはあるのかもしれないが、それに止まらないことがタクシュー脚本によるキャラクターの魅力だろう。普段はよくふざけたり、おどけたりする陽気な友人が、ふとした瞬間に「深刻な悩み」を漏らし、思わずこちらがハッとしてしまう、そんな体験に似た意外性がタクシュー作品にはある。タクシュー作品の持つそういう感性は、主な登場人物たちに常に二面性があることで表現される。現実世界の人間は誰でも「見たまんま」ではない一面を持っている。しかしゲームのキャラクターには、どこか「見たまんま」が求めらることが多い。悪役には悪役らしくしていてほしいという、ゲーム特有の事情もあるだろう。『逆転裁判』シリーズも、そして『ゴーストトリック』もそうした要求には応えつつ、しかしさりげなく「もう一つの表情」を忍ばせる。その二面性が見せるキャラクターの奥行きによって、私たちはつい想像してしまうのだ。そのキャラがそのキャラではない時間があることを。それを殊更に強調することなく、ささやかに表現できる節度もまた、タクシュー作品の巧みさだ。

しかしタクシュー脚本がすごいのは、「ふざけた」キャラクターや世界設定を描きつつも、最後には「まじめな」話へとシュルシュルと回収されていき、それを不思議に思わせないドラマの巧みさにある。その長所を支えるのは、作品に感じられる「生真面目さ」であると私は考える。

例えば、『大逆転裁判』は1900年前後のロンドン(一部は日本)を舞台にしているが、史実や事実などに基づく比較的まじめな調査がされていることを感じる。同作には、ロンドン留学中の夏目漱石が登場するが、漱石自身は『倫敦消息』という文章で次のようなことを書いている。

吾輩は日本におっても交際は嫌いだ。まして西洋へ来て無弁舌なる英語でもって窮窟な交際をやるのはもっとも厭(きら)いだ。加之倫敦(ロンドン)は広いから交際などを始めるとむやみに時間をつぶす、おまけにきたない「シャツ」などは着て行かれず、「ズボン」の膝が前へせり出していてはまずいし雨のふる時などはなさけない金を出して馬車などを驕(おご)らねばならないし、それはそれは気骨が折れる、金がいる、時間が費える、真平だが仕方がない、(夏目漱石倫敦消息」)

この言いようなどはいかにも『大逆転裁判』の漱石を想像させる。有名な話ではあるが夏目漱石の留学は決してバラ色の留学生活ではなかった。『大逆転裁判』の夏目漱石はいかにも陰キャで、ややコミカルに描かれているが、本物の漱石からギリギリ想像できそうなキャラでもある。他にも、漱石は随筆などでカタカナで女性のことを「レデー」と書いている。ゲーム内でも漱石のセリフはあえて「レディ」でなく「レデー」としているのは、こうした漱石の文章を参照しているからでもあるだろう。(ちなみに、他の人のセリフでは「レディ」となっている。)

これ以外にも、『大逆転裁判1&2』の舞台である19世紀末のロンドンの警察官の勤務形態が過酷なことがエピソードとして盛り込まれている。最初にプレイした時には、本当に当時のロンドン警察はこんな大変だったのだろうか?と思った。1日のパトロールが何十Kmにも及ぶことなどがゲーム内でも語られていたからだ。しかし少し出典を探すと確かに該当する事実がありそうだということが分かる。ネットであれば、「ロンドンは如何に治められてきたのか?」という文章から以下の記述が確認できる。

しかし、郊外でのパトロールは持ち場が広く大変であった。警官は、どんなに寒い日で も、一晩で合計 20 マイル(32 km)ほどは決まったコースをパトロールしなければならず、 しかも、1900 年までは、パトロールの途中で休憩することもできず、暖かいものを飲んで 一息つくことも出なかった。(P28)

竹下譲(2003)「ロンドンは如何に治められてきたのか?」 自治体国際化協会

http://www.clair.or.jp/j/forum/series/pdf/h20_04.pdf

歴史を舞台とした作品を作る上では当たり前のことかもしれないが、ふざけた設定の割には、意外に『大逆転裁判1&2』は生真面目に歴史的事実を参照している。こうした丁寧な作りが、本作の物語の説得力を底上げし、「まじめに」捉えることを支えている。

しかし『大逆転裁判1&2』と異なり、『逆転裁判』シリーズや『ゴーストトリック』は、現実にはない架空の世界の話だ。『逆転裁判』はギリギリ現代日本を舞台にしていると言えるが*3霊媒師が死んだ人間の霊を呼び出したり、日本の検事がなぜか西洋貴族的な衣装を着ていたりする。荒唐無稽としか言いようのない無国籍的な雰囲気のある世界観だ。『ゴーストトリック』はさらにファンタジー色が強く、日本が舞台とさえ言えない。明確に現実世界とは異なる世界のお話である。そういう世界設定では、なかなか事実や歴史への参照は難しい。では、その設定で、どのようにして「まじめ」な物語を語っているのだろうか。

それはやはり巧舟氏の「まじめ」と「おふざけ」が独特の両立をしているからだろうと私は考える。どういうことか。それは「まじめ」と「おふざけ」の境界を明確化しているということである。タクシュー作品では、ギャグを言っている時や荒唐無稽なことをしている時、それが明確に「荒唐無稽」であることを示すように書かれている。それをかなり「律儀に」行なっていると言っていい。

タクシュー作品の主人公は比較的特徴のない凡庸なキャラクターであることが多いが、その凡庸な「普通人」たる主人公が、「まじめ」と「おふざけ」を切り替えるスイッチのような役目を果たす。漫才で言えばツッコミ役だ。現実的な世界と荒唐無稽な世界を、主人公が切り替えている。ある人物の「おふざけ」に対して、主人公による冷静なツッコミを入れることで、「おふざけ」から現実的な「まじめ」の世界に帰ってくる。しかし単にツッコミによって「おふざけ」を「まじめ」への切り替えをしているだけでもない。もう一つ「おふざけ」に対して独特の役割を主人公は持っている。それが「おふざけ」の世界への引き込み役としての役割だ。

逆転裁判』シリーズは、先ほども言ったように、霊媒師が死んだ人の霊を呼べるという突拍子もない設定の物語である。かなりふざけた設定に思えるが、主人公(成歩堂)は、序盤ですんなりとそれを受け入れる。彼自身も最初は面食らうが、この世界は、こういうルールの世界なんだと、荒唐無稽さを1つのルールとして受け止めるのだ。これは巧舟氏が好きな本格ミステリーの世界ではよくあることで、現実世界ではありえないような謎のカラクリ構造を持つ館など、それはそれで現実的にはおかしいのだけど、とりあえず「前提」として受け入れた上で話を進めようとすることに似ている。この世界の「前提」はあくまでお話やゲームを進める上での、ひとつの「ルール」として受け入れる。そして受け入れることで、逆に「おふざけ」と「まじめ」を共存させる。この両立の見事さこそが、巧舟氏の脚本のすごさなのだ。それは歴史上の事実を丁寧に参照するような生真面目さと通底している。「おふざけ」をルールとして受け入れ、位置付けをハッキリとすることで、逆に、「まじめ」に捉えるべき一面もどこにあるのかがはっきりしてくる。だからこそ、その「おふざけ」が「まじめ」な人間ドラマを必要以上に脅かすことがない。その「まじめ」と「おふざけ」の、どこか生真面目な両立こそが、本作を単に「現実離れした世界」になってしまうことを防ぎ、と同時に「現実離れした世界」を許容している。

これは『ダンガンロンパ*4など他のミステリーADVゲームの描写と比較すると更に明確だろう。『ダンガンロンパ』は、超高校級の能力を持つエリート高校生だけを集めた学園を舞台にしている。その能力は勉強やスポーツに限らない。超高校級の「アイドル」や「野球選手」、ぐらいまではまだ理解可能だが、ふざけたことに超高校級の「御曹司」なども出てくる。

設定だけ見れば、『逆転裁判』や『ゴーストトリック』と同じような、かなりふざけた設定である。しかしそのふざけ具合や荒唐無稽さが、どこからどこまでを範囲とするのかが、あまりよく分からない。これはその世界の「ルール」が分かりにくいということでもある(モノクマなどはその最たるものだろう)。その作品世界のルールとしてどこからどこまでをまじめに現実世界と同じであると考えていいのか、どこからが「ルール」でしかないのか。その境目をプレイヤーが判断することが難しい。結果として、その境目の判断をすることを放棄して「そういう世界なんだな」とモヤモヤしたまま受け入れるしかなくなる。しかしその境目を真面目に考えなくていいとなると、その作品はどうしてもどこか子供じみた印象を抱かせかねない。ドラえもんがいたら、世界の軍事パワーバランスが崩れてしまうのではないか?と心配する必要がないのは、『ドラえもん』という作品が子供でも親しみやすい世界であるからだ。どこかからどこまでが「現実的」で、どこからが「設定」でしかないのかが特に明言されない作りは意図的なものであり、『ドラえもん』は「それでいい」物語なのだ。

もちろんその人気や世間の評価から分かる通り、『ダンガンロンパ』は、かなり面白いミステリーADVゲームである。それは『ドラえもん』のように、「まじめ(現実)」と「ふざけ(荒唐無稽さ)」が混合した世界として受け入れられ、それがそれとして愛されているからだろう。このタイプの作品にはその良さがある。「現実(まじめ)」と「荒唐無稽さ(おふざけ)」を明確に切り分けてしまっては、気安く馴染みやすいコミカルな作品世界としては楽しめなくなってしまうだろう。

しかし、だからこそ、余計に巧舟氏の類稀なる才能を私は感じる。タクシュー脚本がすごいのは、こうした「現実」と「荒唐無稽さ」を明確に切り分けつつも、それを最終的には両立して描くということができる点にある。他の作家が真似しようと思っても中々真似できない巧みさは、正にここにある。多くの悪ふざけにしか思えないことが、物語のラストには、すべて必然の上にあったもののような気持ちにさせる。こんな風にプレイヤーをねじ伏せることができるのは、先述の登場人物の「二面性」の描き方にあると私は考える。キャラクターが抱える「悲しみ」こそが、「まじめ」と「おふざけ」でバラバラになりそうな世界を絶妙なバランスで繋ぎ止めるところが、タクシューのドラマのキモなのではないか。それは『男はつらいよ』で、寅さんと他の人たちを繋ぎ止めるのが、ある種の物悲しさであることと似ている。

ゴーストトリック』はプレイ当初に抱くキャラクターへの印象が、ラストでは絶妙に変化する。コミカルで死など恐れないふざけたキャラクターたちが、みな真面目に人生を生きていることが分かってくる。そんな風にまじめに考えるつもりなど更々なかったのに、いつの間にかまじめに彼らの生き様に共感してしまう自分に驚く。それを可能にしているのが「悲しみ」なのだ。この「ふざけ」と「まじめ」を混ぜ切らないで、しかし最後には見事に昇華させる離れ技は、現代のゲームにおいて『ゴーストトリック』がその頂点にある。13年経って、なお、そうなのだ。『ゴーストトリック』は13年経っても色褪せない、今もまだその輝きを失わない傑作である。

*1:本稿では、「アドベンチャーゲーム」という言葉を、選択肢を選んで分岐したり、何らかのパズルや謎解きを行いつつ、物語を読み進めることがメインとなるゲーム、ぐらいの意味で使っている。ノベルゲームやサウンドノベル、テキストアドベンチャーと言われる作品をイメージしている。「ADVゲーム」という言葉も同様。

*2:2800円はiOS版をはじめ、スマホ版の価格が2022年10月に改定された時の値段。3990円はSwitchなどのコンソールのDL価格。パッケージ版は4389円。2023.6.13現在。

*3:ちなみに海外版の『逆転裁判』では主人公の名前は成歩堂ではなく、フェニックス・ライト(Phoenix Wright)と日本名ではなくなっている。

*4:2010, スパイク・チュンソフト

クリアしなくても良いと思った瞬間に傑作となり、そろそろクリアしようかと思った頃に普通のゲームになる

2023年5月に発売された『ゼルダの伝説 ティアーズ・オブ・ザ・キングダム』をまだプレイしている。70時間以上プレイしているが、まだ3つ目の神殿をクリアしたところで、世界をフラフラしている。

このゲームを始めて最初の5時間ほどで、虜になってしまった。ずっと冒険していたい。クリアしなくてもいいから、ずっと遊んでいたい。そんなことを思った。ゲームというのは、クリアしなくても良いと思った瞬間に特別なものになる。そんな経験は多かれ少なかれゲーマーには思い当たることがあるのではないだろうか。

ゲームの定義論なんかを読んでいると、ゲームの特徴的な性質として「自己目的性」が挙げられることが多い。ゲームの目的というのは「ゲームをすること自体である」という意味だ。もちろん「勝つこと」が目的だという人もいるだろう。どっちが真の目的だとかそういう話ではない。ゲームに限らず、あらゆる芸術鑑賞には、そういう自己目的的なところがある。金儲けのためでもなく、何かのコミュニケーションのためでもなく、生きるためでもない。ただゲームをしたいからする。当たり前のことだが、時々それを忘れそうになる。そんな当たり前のことを忘れそうになること自体が、また面白い。

クリアのないビデオゲームというのももちろんあるのだが、買い切りのオフラインのビデオゲームでは多くの場合、「クリア」というものが設定されている。プレイヤーの中には、「とりあえずスタッフロールが出るところまでやるか」と一つの目安としてクリア設定をしている人もいるだろう。もちろんエンドコンテンツのようなものをずっと遊び続ける場合もあるだろう。将棋をはじめ、ボードゲームにはあまり「クリア」に相当するものはないことが普通だ。もちろん「クリア」のあるボードゲームもあるにはあるが、協力ゲームやソロゲームである場合がほとんどである。

ゲームにおいて、ここまで「クリア」というものが明確に重要なポイントになったのはいつの頃からだろうか。将棋や麻雀を「クリア」することはないのは当たり前だが、1人遊びのビデオゲームであっても「クリア」のために、そこまで昔はプレイしていなかったような気もする。ファミコンの『スーパーマリオブラザーズ』を「クリア」しなくてもずっと遊んでいた。そういう人は意外に多いのではないか。もちろん今のゲームほど親切ではないから「クリア」しなかっただけという側面もあるだろう。しかし「クリア」していなければそのゲームをちゃんと遊んでいないような気がしてしまうのだとしたら、「何に縛られているのか笑」と、なんだか自分で自分が可笑しいような気もする。今のビデオゲームにおいて、「クリア」させるのは自分なのか?それとも作り手がありがたくも「クリア」させてくれるのか。私自身、「クリア」に縛られているプレイヤーの1人としては、現代のゲームを遊べば遊ぶほどに、ゲームの「自己目的的」な特徴を、ともすると、忘れそうになる。

だから『ゼルダの伝説 ティアーズ・オブ・ザ・キングダム』を遊び、「クリアしなくてもいいかも」と開始5時間で思えた時というのは特別だった。このゲームが特別になった瞬間だった。こういう瞬間が味わいたくて、いい年をしてもいまだにゲームを遊んでいるような気がする。そして夢中の70時間が過ぎた。

しかし、そろそろ私はこの作品を「クリアしようかな」と思い始めている。この瞬間に『ゼルダの伝説 TotK』は、そのオーラが薄まり、普通のゲームに近づいてしまった気がした。いつかこういう時が来ることは分かっていたが、少し寂しい気もする。しかし、これもまた「悪くない」感じなのだ。普通にゲームを遊ぶ。クリアを目指して遊ぶ。それもまた悪くないのだ。