ビデオゲームとイリンクスのほとり

ブログになる前の軽い話は以下で話してます。■Discord : https://discord.gg/82T3DXpTZK 『ビデオゲームで語る』 ■映画の感想は『映画と映像とテキストと』というブログに書いてます。https://turque-moviereview.hatenablog.com/ ■Twitter ID: @turqu_boardgame

映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

「ソシャゲがダメな理由」なんて、そんな都合のいい普遍的な理屈など存在しない

わたしは、いわゆる「ソシャゲ」が嫌いだ。「ソシャゲ」という呼び名が良いかはよくわからない。「ガチャゲー」でもいい。とにかく「あの手」のゲームが好きではない。ちょっとばかし憎んでさえいると言ってもいい。しかしこんなわたしでも、ネットを見ていて常々思うのは「ソシャゲが嫌いなこの気持ちを正当化してくれる、都合のいい理由なんか、そんな簡単にはないぞ」ということだ。

 

やれ「ソシャゲはゲームとして低レベルだ」とか「絵柄で釣ってるだけ」とか「射幸心を煽ってる」とか「商売としての倫理がなってない」とか、まあなんでもいいのだけれど、そういう批判によって、「ソシャゲ」という一つのジャンルをみんなが納得するような普遍的な理由でもって貶めることができるという幻想を早く捨てるべきだ。そういう批判はすべてソシャゲ嫌いなハードコアゲーマーの愛する「正しいゲーム」にもいつかど真ん中でブーメランとして返ってくる。まあ、返ってこようとこまいとそんな事はどうでもいい話なのだが(本稿の主旨として)。

 

僕たちソシャゲ嫌いが辛うじてできることは次のことだ。

 

自分の嫌いを追い続けること。決してゴール(最終解決)に安易にたどり着かないこと。

 

それ以外にはやれることはない。ちなみに言えば、好きな理由についても同じように安易にゴールに至ってはいかんだろうと思う。が、それはまあ別の話だ。

 

ともかく、一番手堅い方法は(ジャンルではなく)個々の作品ごとに批判することだろう。それは多分最も正しい姿勢だと思う。しかしまあ、なかなかそれは難しい。だいたい嫌いなゲームをまじめに批判するまでやり込むのは、なんというか、それはそれで不健康な行為だ。そうなると普通は「分からないなら黙っておく」が正しいわけだが、これはこれでストレスも溜まる。適切に沈黙できる立派な人間ばかりではないし、わたし自身もそういうことが上手くできない。そこまで理解した上で、ではどうしても何かを表現したいならば、どうしたらいいのだろう。

 

それはもう素朴に「嫌いである」ことの無根拠さから逃げることなく、「嫌いである」と語るのが良いだろう。嫌いであることの理由や根拠。これが曲者だ。理由や根拠を述べるなということではない。その理由や根拠によって「わたしの『嫌い』が正しいものになる」と考えないようにすべきだということだ。だいたい、いかにソシャゲが駄目であるかを合理的に説明できると思うのは、ある意味「逃げ」である。自分のこの嫌いな感情を客観的に権威づけ、「他人任せ」にし、主観的であることから「逃げ」ようとするからである。「嫌い」は数学の公式のように無人称的に成立するものではない。わたしやあなたや誰かが「嫌う」からこそ、初めて生じるものだ。

 

しかし、理由なく何かを嫌うのは難しい。だから、たとえボロボロの論理でもソシャゲが駄目な理屈があると飛びつきたくなる気持ちは理解できる。しかしそういう中途半端な理由付けは、自分を縛ることになる。なぜならいつかあなたもわたしもソシャゲが好きになるかもしれないからだ。「おれは絶対にソシャゲなど好きにならない」そう思うのは自由だ。しかし、「今は嫌いだけど、もしかしたら好きなることもないわけではないかもしれない」そう想像するのが、ゲーム好きのサガではないか。色んなスマホゲームに裏切られてきた過去が実はどんなソシャゲ嫌いゲーマーにもあるのではないか。むしろスマホにも期待していたかつての自分の方が「ソシャゲ嫌い」に凝り固まる今の自分より、遥かに懐が広かったのかもしれない。人間は変わりうると想像することは絶対に損ではない。「変われ」と言うのではない。かもしれない、で十分だ。

 

仮にソシャゲのある特定の性質が嫌いな理由になるのだとしよう。しかしその性質を持ったあらゆるゲームを嫌う自信があなたにはあるのか。もし「ある!」と自信を持って言えるのならば、端的にあなたは勉強不足なのかもしれない。どんな趣味であっても、多数の作品に触れていると「なんで、おれはこの作品のことが嫌いになれないんだ?あんなに嫌いな要素があるのに!」と思うことがある。そういう自分の中の「他者」を発見したことが一度でもあるのならば、嫌っていい理由に簡単に安住してはいけない。少なくとも、普遍的にみんなが嫌うべき規範的な理由があるのだと思ってはいけない。

 

あなたの「嫌い」の根源的な理由づけは存在しない。しかしである。理由がなくても、あなたがソシャゲが嫌いだということは最大限に尊重されるべきだ。理由がなかったら嫌ってはいけないなどという法はない。嫌っていいのだ。わたしも嫌いだ。その理由を追求するのも良い。しかし簡単にネットに転がっている、Googleで検索したらすぐに出てくるような脆弱な理由付けに満足してはいけない。無根拠であることを、怯える必要はない。嫌いなものは嫌いでいい。堂々と「根拠はないが嫌いである」と言えばいい。

 

根拠なく嫌うことは傲慢にも見えるかもしれない。いやそれは傲慢である。しかし傲慢で良いのだ。だって趣味なのだから。中途半端な理由付けで自分の嫌いを正当化*1するより、よほど「正しい」と思わないだろうか。

 

 

 

*1:当たり前のことなので、強調するのも野暮かもしれないが、自分の「嫌い」を分析することにはとても意味があると思う。正当化というのが何を指すのかは明示していないが、「『嫌うべき』というニュアンスを帯びる」ぐらいの意味で本稿では使っている

『マーベル アルティメット アライアンス3』は素晴らしい作品だ

ニンテンドースイッチで2019年の7月19日に発売された『マーベル アルティメット アライアンス 3(Marvel Ultimate Alliance 3)』は素晴らしい作品だ。確かにマーベル作品をある程度知っていることが、この作品を楽しむ前提になるところはあるだろう。しかしわたし自身はそれほど原作のマーベル作品を知らないし、マーベル映画を好きでもない。そんな自分にとって、この『マーベル アルティメット アライアンス 3(以下MUA3)』がとてもステキな作品であったことが意外でもあり、嬉しいことでもあったので、それを伝えたいと思う。

 

本作MUA3は、かつて2006年に発売されたゲームの3作目に当たる。しかしそうした過去のゲームとの繋がりはあまり気にしなくても良いように思う。どちらかと言えばマーベル映画(特に最近のMCU作品)に馴染みがある方が、本作を楽しめるだろう。

 

ただ、わたしはMCU作品を7割程度は見ているが、マーベル映画を知っているというには中途半端な知識しかない。その上、特にルッソ兄弟の映画が好きではない。逆に好きなMCU作品は『ガーディアンズ オブ ザ ギャラクシー』と『キャプテン アメリカ : ファースト アベンジャー』。ルッソ監督作品に見られる「悩める人間としてのヒーロー」という描き方が、そのテーマを描くには底が浅いと普段から思っている。

 

MUA3は、そんなわたしだからこそ、素晴らしいと感じられる作品だったように思う。

 

無双ではない

本作は発売される前から「マーベル無双」とネット上では呼ばれていた。確かに開発はTeam Ninja であるためコーエーテクモの存在を想起させるし*1、PVでも多くのコピペ的な敵キャラをなぎ倒す作品に見えたため、そのような呼ばれ方をされたのだろう。しかし実際にプレイした感覚としてはかなり無双シリーズと異なる*2。まず第一に、敵の数は無双より全然少ない。一対多の戦いになる点では無双と同じだが、無双より敵は攻撃に積極的で、自キャラへのダメージは重い。総じて一対一の戦いの感覚に近く、敵の動きを見ながらこちらのコンボ攻撃をどこで止めるか、そしていつ回避行動を挟むかを考える必要がある。ただ『ニンジャガイデン』シリーズほどシビアさと工夫と複雑な操作が必要なわけではない。かなりそこはカジュアルである。

 

一見大味だが工夫しがいのある戦闘

では、MUA3の戦闘は面白いのだろうか。まだストーリーモードをノーマル難易度(MIGHTY)でクリアした程度だが、意外にもまだ工夫のしどころを新たに気がつくことがあり、思ったよりも単純ではないという印象である。戦闘は工夫の仕方が分かってくると非常に楽しい。本作にはレベル制が取り入れられているため、最終的にはレベルを上げてしまえば全て解決できてしまうという面がなくはないが、レベルが推奨値より低くてもスキル次第でなんとかクリアできる局面が多々ある。逆に、推奨レベルを満たしていても、ある程度のスキルと戦術を理解していないと全くクリアできないケースは多い。中でもINFINITYモードという特殊な条件下でお題を達成するモードでは、必殺技やシナジーと呼ばれる連携技の使い方を理解できていないとクリアは難しい。この戦闘システムを奥深いと言っていいかは若干悩むが、それでもただパンチを連打するだけのゲームではないことは確かである。海外レビューでも無双に言及するよりもMMORPGなどに似ているとの指摘が多い。これはオーバートップな画面視点もさることながら、スキル技をどのタイミングで出すか、どの順番で出すかがキモになってくるところも指しているように思う。実際、技の出すべきタイミングまで敵の攻撃をなんとか捌ききり、その後に大技を適切な順番で出して大ダメージを与えるというサイクルにはなかなかの快感がある。

 

ムービーパートが素晴らしい

MUA3のストーリーは単純で、悪い奴を良い奴が倒すという話でしかない。アメコミにありがちな悪い奴が仲間になる流れも特にヒネリも説明もなく、いきなり仲間になるパターンが多い。これを子供っぽいと表現することもできるが、むしろ、わたしは作品のこのやり方がなかなか「分かってるな」という印象を受けた。ムービーパートはほとんど『スマブラ』の参戦ムービーの連続のようでもあり、実に美味しい部分を凝縮した見応えのあるものになっている。このムービーパートの見応えは、結構歯応えのあるゲームパートとセットとなることで、良い感じにデザートのような役割を果たしている。また脚本について言うと、例えばロキの支離滅裂な行動を「なんなんだ?」とツッコミを入れるなど、妙に冷静な面もあったりするが、とにかくストーリーの理屈や構造をほとんど説明しない。この点については、最近のMCU映画作品群の「説明や理由づけや伏線回収しよう」という姿勢に対するアンチテーゼではないかという穿った見方をしたくなる。とにかく特殊な能力を持ってるから特殊なのだ、悪い奴だから悪いのだ、破壊したいから破壊するのだ、みんなを守るから守るのだ、というトートロジーしかMUA3は語らない。多種多様な奇妙な格好をしたスーパーヒーローたちが一堂に会して正義をなすという意味不明さを意味不明なまま表現するという潔さがこの作品にはある。くだくだと説明することのある種の「バカっぽさから逃げる卑怯さ」を告発しているようでもあり、コミック作品が本来持っていた粗野と粋があると感じた。

 

総じての評価

本作はメタスコアで73点(2019.7.27現在)という微妙な評価がされている。しかしわたしとしては85点くらいはあげていい作品だと感じている。40人近い登場キャラクターをある程度キャラ分けし、また戦闘での役割も違いを付けつつ、ここまでまとめきっているところなど、仕事としての完成度は非常に高い。ステージの構成やスタイルはいかにも古臭さはあるものの、ステージやボス戦ごとにギミックをちゃんと施して違いを出そうとしている点は意外に丁寧な作りである。成長要素などは凡庸でありつつも分かりやすくちゃんと機能している。唯一、(まだ十分にやってないが)ハクスラ的要素には浅さを感じる。なかなかアメコミの各キャラの濃さに合わせて作り込むことは難しかったのかもしれない。とは言え、ISO-8(鉱石)を集めるだけではさすがにハクスラとしてのモチベーションを保つのは難しいと思う。

 

本作はアメコミ原作準拠という「言い訳」によって、良い意味で「保守反動性」みたいなものをエンタメに綺麗に昇華できている。例えばサイロック(日本の女忍者の体を持つキャラ)の分かりやすいセクシーさは際立っていて、ここまで素朴なセクシーさを描くことは最近のディズニーではできないだろうと思われる*3。そのこと自体は別にわたしとしては良いと思うのだが、ゲームという媒体の社会的地位というか文化的地位が、原作が持っていたであろう粗野さを復活させる下地として機能しているようにも見えて、そこは面白い。一方で、サイロックのような素朴で保守的なセクシーさが大量に溢れてしまうような、半ば露悪的なノリがなく、本作には適切な「節度」の意識が感じられる。とにかくやりすぎない「ちょうど良い感じ」が、本作の達成であり、魅力である。古臭いアクションゲームだと、ただ捨て置くには惜しい、粗野な魅力と節度と意外に遊べるゲームシステムを兼ね備えた良作であると思う。

 

*1:エンドクレジットには少なくとも無双シリーズの開発をしているオメガフォースの名前は出てこない

*2:なお、わたしは最新作の『真・三國無双8』は未プレイであるため、『真・三國無双7』までの作品をイメージしていると思って欲しい

*3:原作準拠でもあるのだろうが、ガモーラの描かれ方もそう感じる

任天堂の「遊び捨てる」感覚の美しさについて

任天堂は多くの人に愛されているゲーム会社だ。任天堂のやることは、とにかく素晴らしくて、面白くて、新奇性があって、と過剰に褒めたくなる人もいる。最近は話題にならなくなったが、今から10年くらい前、任天堂が2007年の10月にファミコンの修理サポートを終了させるというニュースが話題になった。

初代「ファミコン」など公式修理サポート終了 - ITmedia NEWS

 

このニュースを受けて「まだサポートしてたのか?」「こんなに長く修理を受け付けているなんてすごい」「利用者思いの優しい任天堂だ」という言説が大量に現れた。こうした任天堂を讃える感覚は多少理解できるものの、個人的にはどこか違和感を感じてもいた。任天堂ビデオゲームの中には、飛び抜けてクオリティの高い作品があることは確かだと思うが、時折現れる「任天堂は時代を超えるゲームを作っている」という主張にも違和感を感じている。先程のファミコンの長期サポートなどへの言説と同じように、それもまた任天堂に対する幻想に過ぎないのではないかと思う。

 

というのも、自分にとって任天堂は「遊び捨てる」ことを強く自覚した会社であるように見えるからだ。10年も20年も遊び続けるような、そんな「大人の遊び」ではない。気まぐれで、身勝手で、飽きっぽい*1。そういう子供らしい遊び方こそが、いかにも任天堂の提示する遊びだとわたしには思えてならない。任天堂こそ「長く継続しない遊び」を提供する会社だと感じている。

 

昨年(2018年)話題になった『ニンテンドーラボ』シリーズは、その意味において典型的な任天堂らしい商品だった。今なお『ニンテンドーラボ』を楽しく遊んでいるユーザーはどれだけいるだろう。いやもちろんゼロではないだろう。しかし『スプラトゥーン2』の方がよほど、長く継続的に遊ばれているのではないか*2。だからこそ、「遊び捨てる」という観点からは、わたしにとって『スプラトゥーン』は任天堂らしくない作品である。『ニンテンドーラボ』の方が任天堂らしいと思ってしまう。これはもちろん皮肉ではないし、もはや早々に粗大ゴミとなっているであろうニンテンドーラボのトイコンたちを馬鹿にしたいのではない。むしろ逆である。よくぞここまで思い切りよく「遊び捨てる」ことを覚悟できるているものだと思う。これはすごいことだ。

 

子供のためにおもちゃを買うようになって実におもちゃというものは「遊び捨てられる」ものだと思うようになった。子供は本当に飽きっぽい。えてして飽きそうなおもちゃの方が子供の興味を引く。レゴやカプラのような大人の選定眼にかなうようなおもちゃを子供は思ったほど欲しがらない*3。やはり「長く遊ばれる」おもちゃというのは偉大だ。レゴとかはつくづく良くできている。この「長く遊べる」という価値観はやはり魅力的ではある。

 

しかし考えてみると「長く遊べる」という価値は、とても即物的だ。それはいかにも定量的で、分かりやすく、大人らしく、ハズしにくく、保守的な価値観だ。シンプルに言えば「長く遊べる」は「損したくない」ということでもある。プレイ時間が長い、プラットフォームが変わっても遊び続けられる、暇な時間に入り込むようにして短時間で長い期間遊び続けられる。今、ビデオゲームの世界ではこうした「長く継続的に」という価値観がかなり幅を利かせている。もちろんそれは良いことではあるのだけど、瞬間的に盛り上がり、忘れ去られるという遊びには、独特の清々しさもある。「長く遊べる」が、どこか「長く遊ばさせられる」ことでもあると感じるからだろう。

「遊び捨てる」ということは、別の言い方をすると「卒業する」ということである。卒業するところから新たに生まれてくる価値観や世界もきっとある。時に、それはより豊かになるきっかけでもあるだろう。いやもっと正直に言えば、卒業しないで「ドップリと継続し続ける」ことが良いことばかりではないと思うのだ。

 

任天堂のゲームは子供向け、だと言われることがある。しかしそれは「卒業できる」作品だということでもある。かつての『Wii Sports*4には、長時間プレイすると「休憩しませんか?」とプレイを中断させるお節介な機能があった。これはきっと任天堂の持つ「遊び捨てる」「卒業する」ことへのこだわりと繋がっているのではないか。そして、このことは遊んでいない状態があるからこそ、遊びがあり得るのだいう、遊びの原理的な特徴と合致しているのではないかと少し思っている。

 

 

*1:遊びの「飽きる」ということについて言及されている以下の記事には大きく感銘を受けた。松永伸司×吉田寛「遊び」をめぐる、ゲームスタディーズの新潮流『プレイ・マターズ 遊び心の哲学』刊行記念第1弾・「深まる」編 | かみのたね    個人的には「飽き」が新しいポジティブな価値を産む、という議論よりも、ネガティブな「飽き」がネガティブなままに価値を持つ、ということに興味がある。うまく言えないけれど。

*2:スプラトゥーン2の遊ばれ方が本当に「長い」かどうかは議論の分かれるところかもしれない。その他のオンラインゲームに比べて決して長いとは言えないし、しかし『マリオオデッセイ』よりは相対的に長く遊ばれているとも言えるだろう。ここではそのプレイ期間の長さ自体は重要ではない。

*3:おもちゃコーナーで、レゴの基本セットよりもCITYやNINJAGOシリーズのように特定のモデルを作って終わる自由度の低いタイプのレゴ商品の方が棚を多く占めていることは象徴的だと思う。

*4:『1 - 2 - Switch』にも、その「休憩しませんか? 」と聞いてくるお節介な機能がある