English version : Butterfly Soup. The importance of not limiting. - ビデオゲームとイリンクスのほとり
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『バタフライスープ』という傑作ノベルゲームがある。PCで日本語でもプレイできるので、是非多くの人にプレイしてほしい(ちなみに、お金を払うこともできるが、無料でもプレイ可能だ)。クリアまでは3~5時間。大きな分岐はなく、ほぼ読み進めるだけの物語だが、本作の紡ぎだすテキストは非常に説得力と魅力を兼ね備えている。
『バタフライスープ』の舞台はカリフォルニア。アジア系が多く住む地区に一人のインド系のディーヤという少女がいる。彼女と周りにいる女子高生*1の4人が中心となり、彼女たちが参加する野球同好会での練習、試合、学校生活、悩み、そして恋が描かれる。
本作には波乱のドラマやあっと驚くような展開があるわけではない。描かれる姿は極めて日常的な姿であり、多くのプレイヤーにとってささやかな共感を呼ぶような物語だ。そんな静かなテキストの中で比較的ドラマティックに描かれるのは、その恋である。ディーヤは幼いころに、同じ地区に住む韓国系のミンという少女に恋をした。それは淡いあこがれのようでもあり、しかし確かに「好き」という感情を含むものである。
ディーヤがその気持ちを自覚するシーンでは、実に繊細ながら決して芝居がかることのない自然な感情の動きが表現される。同性である女の子に特別な感情を抱くことへの微かな抵抗感やとまどい。そんなシーンを味わうと、彼女たちをレズビアンだと、そうレッテルづけることに僕はわずかに躊躇いを感じてしまう。いや、確かに彼女はレズビアンであり性的マイノリティなのかもしれない。しかし、そういう存在だとレッテルづけて「済ませてしまう」ことに抵抗を感じる。それは本作『バタフライスープ』に対しても同様である。これはLGBTをテーマにしたゲームなんだと、ただそういう風に特徴づけることに少し抵抗を感じるのだ。
『バタフライスープ』の主要な登場人物は、バイセクシャルであったり、レズビアンだったりとセクシャルマイノリティを強く意識した作品であることは明白である。そのため、本作は「百合ゲー」であり「LGBTをテーマにしたゲーム」として当然語られる。それはもちろんその通りであるし、どこも間違ってはいない。しかし本作を「そうしたゲーム」として、決して単純に扱ってはいけないような、そんな気持ちにさせる何かがある。こう感じるのは、本作が「対象を限定づけないことの大切さ」を強く伝える物語であると思うからだ。
印象的なシーンがある。主人公のミンとその双子の兄弟ジュンソがまだ幼いころのエピソードだ。彼女たちは、アメリカに住む人口構成のうち、アジア系の割合が5割を超えていると思っている。なぜなら、彼女たちの周りにはアジア人ばかりがいるからだ(もちろんそれは、そういう「地区」だからだ)。そんな彼女に白人の友人ヘイデンはこう反論する。「テレビに出ている人がなんでみんな白人か考えたことあるか?」と。その事実はアジア系であるミンたちは当然認識している。そこでこう反論するのだ「いや、アジア系の両親は子供たちに俳優のような職業についてほしくないと思っているからテレビでアジア系の露出が少ないんだ」と。
僕らは、そんな幼い頃のミンやジュンソたちと似ている。属性を見て「これこれはXなんだ」と思い込んでしまう。問題が根深いのはそういう思い込み自体よりも、思い込みに「理由付け」がなされることだろう。なぜなら、理由付けによって「Xではない可能性」を積極的にそぎ落とし「Xではない可能性」への想像力を抑え込んでしまうからだ。
この「Xではない可能性」というのは『バタフライスープ』において、非常に重要な要素だと考える。例えばミンという少女の描かれ方は、正にそれを示している。彼女は「女」であり「アジア系」である。しかし、暴力を忌避するような性格ではないし、野球やテレビゲームが好きであるし、勉強は苦手だし、強権的な親には全力で抵抗をする。ミンはそういう「女である」「アジア人である」等の属性から逃れようとしている。彼女は属性やレッテルに付随する思い込みに対して「Xではない可能性」を常に(ほとんど理由なく)示し続ける。
加えて重要なのは、彼女は「XでないからY」というように簡単には別のものにも断定できない点だ。ミンはピッチャーとしてナックルボールという変化球を投げる。このどこに飛んでいくか分からないナックルボールがミンという存在と重ね合わされていることは明白だろう。彼女は「Xではない可能性」を体現するからと言って、「XじゃないからYである」というものでもないのだ。彼女は何をするか分からない「常にXではない存在」であり続ける。彼女が破天荒に暴力的であるのは、理由によって何かを否定して別の何かに安住するのではなく、否定しつづけることそのものを表現しているからだ。「Xじゃない」ことそれ自体がミンという人物を特徴づけている。
では、そんなミンという存在は、ただすべてを破壊・否定しつくすのか。そうではない。そして、ここに『バタフライスープ』という物語が感動的である理由がある。ミンはどこに飛んでいくか分からないナックルボールのような存在であるが、それをちゃんと受け止める他者がいる。その他者がディーヤである。
ディーヤだけはミンの投げるナックルボールを確実に受け止める*2。ディーヤというキャッチャーによってミンは「否定だけの存在」ではなくなる。ミンはただディーヤから愛されるだけではない。ディーヤを愛し、愛されることを望む。ディーヤとの愛によって、ミンはわずかに「ミンらしさ」を失う。彼女の普段からの暴力性は影を潜めてしまう。ルールを守り、正しく野球をプレイしてしまう。ミンがミンらしさをわずかに失うことを含めて、ミンはミンなのだ。そしてそれは他のキャラも同様である。
ノエルもアカーシャも常に「Xではない可能性」をはらんでいる。ノエルは親にとっていい子であり続けない可能性が示唆されるし、アカーシャは単に能天気なおフザケでは誤魔化せない悩みを抱えている。彼女たちは常に属性やカテゴリーから逃れる道に一歩足を踏み入れている。しかしだからと言って、今の在り方を全否定するわけではない。ノエルは親を軽やかに騙して、彼女なりの親との新しい付き合い方へと踏み込んでいくし、アカーシャはカミングアウトによってシリアスなキャラになるのではなく相も変わらずフザけたキャラであり続ける。何か表面的に見える属性やレッテルを否定しつつも、単に全否定するだけでは汲み尽くせない「余り」を抱える存在として生きているのである。
プレイヤーは『バタフライスープ』の様々なエピソードで描かれる差別や偏見への苦しみに共感する。しかしそれだけではなく、私たちは常にまだ形の定まらないそんな「余り」のようなものを抱えていることを気づかせてくれる点に共感する。それは1つの希望でもあるからだ。わたしたちは属性の組み合わせで語り尽くせる、そんな明確な形を持った単純な存在ではない。決して分類され切らない「余り」のある存在である。それは今ある世界を否定するだけのスパっと割り切れるキレイな世界でもない。今の自分から繋がるグチャグチャとした割り切れないものが残る世界だからこその希望がある。
『バタフライスープ』をプレイしていると、決して泣くようなシーンではないところで、不意に泣きそうになることがある。どんなに大人になっても『バタフライスープ』が身近であり、常に「余り」の部分を抱えることで、私たちは「うまくやること」「正しくやること」だけが進むべき道ではないことが示唆される。そんな割り切れない歪つな世界の、歪さゆえの優しさに、つい泣いてしまうのかもしれない。