ビデオゲームとイリンクスのほとり

ビデオゲームを中心としたレビュー・コラム記事です。 映画の感想は『映画と映像とテキストと』というブログに書いてます。https://turque-moviereview.hatenablog.com/ Twitter ID: @turqu_boardgame

映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

『ラスト・オブ・アス』のラストの圧倒的な素晴らしさについて

2013年に発売された『ラスト・オブ・アス(The Last of Us)』(以下、ラスアス)は、ゲーム史に何十年も残る傑作ゲームだ。そろそろ『Part 2』が発売されるこの時期に、どうしても書き残しておきたいと思い、この記事を書くことにした。本稿はネタバレ全開でいく。

 

『ラスアス』は長い物語であり、そこで語られるエピソードは多様であり、その解釈についても多様にあると思われる。しかし私はこの物語に一つのテーマがあると考えている。それは「1人の人間の生を超えるもの」である。これを描くことが『ラスアス1』全体に通底しているテーマなのではないかと考える。

 

それでは『ラスアス』がどのようにその「1人の人間の生を超えるもの」を描いたのか。重要な要素を順番に見ていってみたい。最初は当然、オープニングでのジョエルの体験だろう。主人公ジョエルが初めてゾンビ*1パニックに遭遇する場面がオープニングでは描かれる。そこで、娘と2人、なんとかゾンビの群衆から逃げようとするものの、不幸にもパニックの鎮圧部隊である兵士に娘は撃ち殺されてしまう。最愛の娘を目の前で失うという衝撃が、本作のジョエルの行動の裏には常に存在している。ジョエルは娘のためなら自らの生を投げ出すことさえ厭わないであろう。最愛の娘をむざむざと殺されてしまい、ただ1人生きていくことが課せられる。「自らの生を超えるもの」を喪失した男がここで作られることになる。

 

オープニングから数年後、ゾンビパンデミックにより隔離された区画で、優しい父親としての雰囲気が全て削ぎ落とされたようなジョエルが再び登場する。物語のメインはここから始まる。ああした衝撃的な経験を持つジョエルは、人としての優しさを失い、希望や未来というものを信じていない人間に見える。ここで面白いのは、ゾンビが大量発生した異常な世界をどのように彼が生き延びたのか、どんな生活だったのかということはほとんど語られない点だ。ゾンビをテーマにした物語ではあるが、ゾンビパニックという状況での人間ドラマではなく、ポストゾンビパニックの人間を描いている。危機的状況ではなく、その後の一定の安定を得てしまった人間が描かれる。様々な描写から、おそらくその隔離地帯は、心から安心して暮らすことが難しい世界だと推測される。そこでは人を騙すことが頻繁に行われ、生きていくためには常に他人を疑い、警戒心を高めたまま生活する必要がある。しかし、そこでは辛うじて生が保証されている。そのギリギリの生のみが許されている状況においては、「1人の生を超えるもの」はほとんど見られない。自分1人が生きることのみが優先される社会だ。

 

その隔離地帯で、ジョエルはテスとともに、政府への抵抗組織「ファイアフライ」のリーダー、マーリーンから1人の少女エリーの護衛を依頼される。エリーをある場所まで連れて行って欲しいと頼まれるのだ。これが本ゲームのメインの目的となる。テスという女性は非常に興味深い存在だ。彼女はジョエルを仲間のように扱うが、かと言って恋人のようなパートナーという感じもしない。サバイバルのために互いに利用し合っているという雰囲気も垣間見れる。テスがこの物語で重要な役割を果たすのは、彼女の最期の場面だ。彼女はゾンビに噛まれ怪我を負ってしまう。これまでテスは、自分が生き残るために凄烈な生を送ってきたはずだ。しかし彼女は最期、自らの生を賭して、ジョエルとエリーの囮となり助けることを選ぶ。おそらくテスはジョエルとも利己的な関係に終始していたはずで、その自分の命を他人のために捧げる行為はジョエルにある一定の衝撃を与えたことだろう。テスは最期にこう言う「私に対してそれくらいの義理はあるでしょう?」と。これはどう言う意味か判然としないが、もしかしたら、テスとジョエルは何回か肉体関係を結んだこともある関係なのかもしれない。しかしそこに日常生活のようなロマンチックさはなかったようにも思われる。あくまでそうした行為さえ、利己的なものとして「大した話じゃない」こととして捉えられているだろう。自らの1人の生を維持することに互いに必死すぎて、彼らはその生に閉じ込められている。そんなテスが「自らの生を超えるもの」として命を賭けたのがエリーだ。エリーはゾンビ感染への抗体を持っている。彼女はこのゾンビパンデミックの解決の糸口になるかもしれない。エリーは数多の人類を救うかもしれない。テスは、そういう意味で、自らの「1人の生を最期に乗り越える」ために、囮になるのだ。

 

この後の物語で重要な登場人物になるのは、ビルとヘンリー・サム兄弟である。彼らはセットで考えることができる。ビルは偏屈で心を開かない男だが、車の修理ができる。ビルがジョエル達に協力するのは「貸し借り」があるからだ。ビルの行動原理はあくまでその生に閉じている。ビル自身の生を超えるような協力はしない。ヘンリーとサムの兄弟も同様だ。彼らはビルよりも協力的だし、善良だが、自らの生のためにはジョエル達を見殺しにする。そして結局のところ、その生を自らの手によって不幸にも終わらせてしまう。彼らは、テスという「1人の生を超える」希望をプレイヤーに見せた後の反動として、「1人の生を超えられない」どうしようもない現実を見せつける。しかし、そんな彼らにも、愛する人がいる。本当は、自己中心的になんて生きたくはない。しかしそう生きざるを得ない人たちである。

 

その後、ジョエルは兄弟であるトミーに再開する。トミーたちは水力発電施設を拠点にコミュニティを築いている。ここで重要なのは、トミーが結婚するというエピソードが展開される点だろう。結婚は日常生活の取り戻しの象徴であるとともに、生殖も含意しているのではないかと考える。つまり、彼らには、今後子供を産み、育てていく未来が想定される。「1人の生を超えるもの」として、最も保守的な在り方を示すのが、彼らトミーたちの存在だ。だから彼らはジョエル達に付いていくことはできない。彼らには守るべきものがあり、今の在り方を変える冒険に出ることはできない。ちなみに、彼らが本当に子供をもうけるかどうかは分からない。しかし、コミュニティがそこには存在しており、そのリーダーとサブリーダーが結婚するということは、そのコミュニティが今後はつがいを作り、繁殖して、「1人の生を超えていく」在り方を象徴しているのではないだろうか。人間が1人の人間としての生の限界を超えていくこと。これは家族やパートナーと共に仕事をこなし、何かを生産し、様々なものを次の世代に残していくこと。この最も私たちの現実世界に近くプリミティブな姿を見せるのが、トミーたちのコミュニティだ。*2

 

トミーの元を去るジョエルとエリーはある大学に到達する。そこでジョエルは大怪我をしてしまい、その後はしばらくプレイヤーはエリーを操作することになる。ここで、エリーはデビッドという男に出会う。個人的にはこのエピソードが「1人の人間の生を超えるもの」というテーマから最も遠かったと考えている。全体の中でも非常にエンタメ的なエピソードだろう。ここで明かされる衝撃的な事実は、デビッドたちの集団は人肉を食って生き延びているということである。牽強付会を覚悟でこれをテーマにかこつけるとするなら、「1人の人間の生を超えるもの」の最も歪な形を体現したのがデビッドたちだと言えるだろう。彼らは食人行為によって、人が人であることを醜悪に超えてしまい、同時に1人の生にこだわり続けたその極北なのだと言えるかもしれない。

 

デビッドの魔の手から生き延びたジョエルとエリーは、ようやく最終目的地に到着する。では、ここまで「1人の人間の生を超えるもの」をテーマに『ラスアス』を見てきたが、エリー自身は、そのテーマにおいてどういう存在なのかを考えたい。私が考えるに、エリーとは「1人の人間の生を超えることを宿命づけられた存在」である。ジョエルもこれまでのあらゆる登場人物たちも、すべて、なかなか「1人の人間の生を超えられない」ことを宿命づけられている。テスは死の間際になって、ようやく超えられたし、トミーたちは、生殖によって、なんとか時間をかけて越えようとしている。しかしエリーだけは違うのだ。エリーだけは最初から「1人の人間の生を超えることを宿命づけられて」しまっている。だから彼女は「わたしだけが生き残る」ことに、そして、あらゆる人間の生を超え続けることに苦しんでいる。

 

プレイヤーの中には「エリーはこの極限状況の中でなら、新興宗教の教祖になれそうだな」と想像した人もいるのではないだろうか。あらゆる人間を超える存在としてのエリー。そして「ファイアフライ」は彼女から抗体を取り出して、その生を終わらせることで、エリーを文字通り人間を超えた存在にしようとしているとも考えられる。

 

一方、ジョエルは、これまで様々な死戦を潜り抜け、娘のように愛情を注ぐに至ったエリーを救うことを決断する。エリー1人を救うことで、人類の大逆人としての枷を背負うことを覚悟して、ファイアフライの拠点から脱出する。彼にとってエリーは、救えなかった娘の代わりではあるが、それは「1人の人間の生を超えるもの」としての存在でもある。他の全人類の命の総重量を超える価値を持つものとして、エリーを扱っている。しかしエリーにとっては、それは真逆の意味を持つ。彼女はジョエルの嘘(他にも抗体を持っていた子がいたから、エリーは抗体抽出に不必要だった)にやや気付きながらも、ジョエルの覚悟を受け入れる。それはジョエルがエリーを「1人の人間の生を超えられない」普通の人間として扱ってくれているように捉えられるからだ。これまで「1人の人間の生を超えることを宿命づけられて」いたエリーは、ジョエルの大逆行為によって初めて、「自分1人のためだけに生きていい」と許容されたのである。だから、ラストシーンで彼女はジョエルに誓わせるのだ。「お前の嘘は本当か?」と。彼女はずっと待ち続けている。自分の生が他者を超え続ける苦しみから解放されることを。そしてその日は来ないことをエリーは知っている。しかしそうではないと語る人間が現れた。それがジョエルだ。単純にジョエルの嘘を受け入れることはエリーにはできない。これまでの人生を通した呪いは気軽な嘘で覆せるようなものではない。しかし、一方で覚悟を決めた嘘によってしかその呪いは取り払うことができないのだ。なぜなら人類救済の抗体を持っている事実は変わらないからだ。

 

「1人の人間の生を超えるもの」は往々にして、美しく描かれることが多い。自分の死を賭して、何かの大義のため、他者のために生きることは尊く感じられる。しかしそれは見ようによっては数の論理であるのだ。1人の犠牲で多数を助ける。この「正しさ」には数の論理としての圧倒的な合理性がある。しかし、人が「1人の人間として生きる」ことには、こんな単純な数の論理ではない屈託を持つことを『ラスアス』のラストシーンは示している。それは理屈ではない。例え他の人類全員が苦しむことになっても生きることのどうしようもなさ、それは理屈ではなく、覚悟によってしか担保されないのだ。数値上の生きる価値があるから、人は生きているのではない。ジョエルの誓いとそれをエリーが信じることにより、エリーが1人の人間として「ただ生きる」ことの価値が担保されている。「1人の人間の生を超えることを宿命づけられている少女」の覚悟によって、我々の「ただ生きること」もまた、どんな忠義の死の物語もよりも力強く担保してくれているのだ。

 

*1:本作では、怪物のことは明確に「ゾンビ」と言われているわけではないが、便宜上本稿ではゾンビと記すことにする

*2:少々余談だが、このトミーの生き方が描かれているのを見ると、エリーが同性愛者であるという設定は、かなり含みのある設定だと考えることができる。『ラスアス』は物語を通して性というものから距離を取っているように見える。しかし、車の修理が得意なビルが同性愛者であることが示唆されたり、先述のジョエルとテスの関係や、私自身の妄想に近いが「ファイアフライ」でのマーリーンとエリーの母親の関係の間にも若干性的なものを感じる。しかし、そこにありがちな親子の愛情や異性愛者同士の恋愛が共に描かれることはない。まだ上手く述べられないがここにも「1人の人間を超える」ことに反響するテーマがあるようにも思える。