ビデオゲームとイリンクスのほとり

ブログになる前の軽い話は以下で話してます。■Discord : https://discord.gg/82T3DXpTZK 『ビデオゲームで語る』 ■映画の感想は『映画と映像とテキストと』というブログに書いてます。https://turque-moviereview.hatenablog.com/ ■Twitter ID: @turqu_boardgame

映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

【レビュー】No Man's Sky(ノーマンズスカイ)~あらゆるスピードを超えた先にあるもの~

「ゲームらしさ」とは一体何なのだろうか。ゲームをするというのは、何かを競い合ったり、課題に頭をひねったり、世界を救ったりすることだけではないはずだ。ただ単にプレイをする。ただコントローラーを操作させるだけでもいいじゃないか。

ノーマンズスカイは、「ゲームらしさ」という足枷に囚われることなく、堂々と自身をゲームとして成立させた意欲的な傑作である。

 

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なぜオープンワールドには乗り物が登場するのか

ノーマンズスカイにも(いわゆる)ゲームらしさはある。宇宙海賊と戦ったり、謎のドローンと銃撃戦をしたり、物資の売買で手持ちの資金を増やしたり、探索したアイテムを合成して装備を充実させたり。これらは既存のゲームの枠組みで理解できる楽しさだ。しかし、こういうゲームらしさはむしろ前菜に過ぎない。メインディッシュは、1800京という途方もない数の惑星が存在する、この広大な空間自体にある。

 

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↑2m近い大きな歩行ロボットとの戦闘も用意されている。しかしこれもデザートにすぎない

 

ノーマンズスカイの世界は広大なオープンワールドである。それはこれまでのゲームの歴史上、最も広い3次元空間を持ち、探索しつくすことが不可能な広がりを誇る。そんな極端に肥大したオープンワールドは、オープンワールドにまつわるある一つの疑問に回答を与える。「なぜオープンワールドゲームでは乗り物に乗るのだろう?」

オープンワールドでは、単に移動するのに面倒だから自動車や馬に乗ったりするのでない。そうではなくて、オープンワールドという仕組み自体が乗り物を要請するのである。それはオープンワールドが「異なる速度の系」を要請しているということではないかと、筆者は考える。

別のゲームで考えよう。スーパーマリオブラザーズのような横スクロールアクションでは、時折、強制スクロール面が存在する。そうした面では通常とは異なる速度でゲームが進む(たいていは通常面より速くなる)。こうした速度感の違いがゲームプレイのバリエーションを豊かにし、プレイヤーに普段とは違った楽しみ方を与える。たとえ同じようなステージ構成でも、強制スクロールの場合とそうでない場合とでは、プレイの印象は大きく変わるだろう。

しかし、オープンワールドゲームでは、そうした異なる速度のステージを簡単に導入することはできない。なぜなら世界はたった1つのステージとして存在しており、全くスピード感の異なる別のステージを単純に導入することができないからだ。

そこで、オープンワールドには乗り物が登場するのである。その乗り物は移動を簡便にしてくれるだけの道具ではない。それは同じ1つのステージ(世界)でありながら、異なる速度系へとスムーズに移行させる1つのシステムとして採用されるのである。

そして、ノーマンズスカイは「速度の異なる複数の系の導入」を何重にも推し進めたゲームなのだ。

ノーマンズスカイにおいて、基本的にどの宇宙船であっても、性能は変わらない。遅い宇宙船や速い宇宙船があるわけではない。しかし、その宇宙船の速度は操作によって大きく変わる。その変化は、単純に量的な変化だけではない。むしろ、質的な違いをプレイヤーに感じさせる。

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↑質的な体験の違いとしての超スピード

 

まず最初、惑星上で立っている時、主人公は徒歩で移動する。多少のダッシュはできるが、決して速くはない。しかし、ひとたび宇宙船に乗ると、先ほど徒歩で何分も掛かった距離がものの数秒で移動できる。宇宙船のエンジンは秒速130m程度のスピードで飛行する*1。そして、惑星の大気圏を突破すると途端に速度は数倍にまではね上がり、4~500m/sのスピードで飛ぶようになる。更に完全に宇宙空間に飛び出し、重力圏から外れると、またその数倍の1,500m/sぐらいにまでスピードが上がる。通常のエンジンでのスピードアップはそこまでだが、その後は、パルスエンジンという特殊なエンジンを始動させる。すると、10,000m/s超のスピードに一気に加速することができる。これは惑星間を数分で移動できるスピードだ。しかしそこで速度変化の流れは終わらない。更にワープ航法のシステムを開発することで、50光年というこれまでとは比べものにならない単位の距離を1分足らずで跳躍できるようになる。しかもその更に上のスピードまで用意されており、その方法だと、80,000光年に近い距離を一気に飛んでいくことが可能になる。

 

この5段階、6段階に用意された「速度の異なる複数の系」には、単にそれを行き来するだけで得られる快感がある。それはオープンワールドで初めて車に乗って長距離を移動した時の快感と同様のものであるが、ノーマンズスカイはその跳躍する快感を何段階にも重ね多層的に用意しているのだ。

 

もう一つの象徴的な速度『ゼロ』

しかし、ノーマンズスカイにもうひとつ、重要な速度がある。本作の魅力の根底には、このもうひとつの速度の世界があると筆者は考える。

ノーマンズスカイを開発したHello Gamesのショーン・マーレイ氏は次のようなことを言っている。「わたしがノーマンズスカイで最も気に入っているもの。それは宇宙ステーションの窓だ」と。この発言を受けて海外ゲームサイト「Kill Screen」のギャレス・ダミアン・マーチン(Gareth Damian Martin)はその理由について次のように書いている。

「これほど広大で無人の空虚さの中で、(宇宙ステーションの窓という)フレームには、制限や抑制や特定の方向性がある。このフレームによるシンプルな気持ちよさをプレイヤーは再確認できるからだ。」

なるほど、これはひとつの解釈である。気が遠くなるほどの自由を与えるノーマンズスカイ。しかし人は自由すぎると、逆に疲れてしまう。そんな時に、宇宙ステーションの窓ほど、人を安心させるものはない。それはしっかりと固定され、たった一つの方向の景色しか見ること事ができない。その制限にこそ人は安らぎを感じるのだと。

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↑宇宙ステーションの窓。その静けさには妙な安心感がある。

 

しかし、この宇宙ステーションの窓がもたらす安心感というのは、先ほどの「速度の異なる複数の系」という観点から考えることで、更にもうひとつの解釈をすることができる。それはつまり「速度ゼロ」というもうひとつの系がある、ということである。

 

僕らが仕事でもゲームでも、なんらかの活動をする時には、必ずある一定の速度を持っている。ノーマンズスカイでも同じである。採掘をする時、採掘した資源を売り払うため宇宙ステーションに向かう時、欲しい資源を採掘するために洞窟の中を探検に行く時。全てに速度がある。そして、普段、その速度は常に速くなる方向に進むことを「良し」としている。しかし、ノーマンズスカイは、時にその速度を減速させる*2。あまつさえ、0(ゼロ)にしようとする。自動生成で生み出される奇妙な動物たち。見るものを圧倒する壮大な地形。気色の悪いグロテスクな植物群。こうした風景により、プレイヤーは仕事をしていたはずの手を止めて、その風景に見入ってしまう。

ノーマンズスカイの風景は決して、新奇性によって人を惹きつけているわけではない。ある種の「懐かしいSF的風景」をノーマンズスカイは表現する。

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↑1970年代、SF小説の挿絵を描くJohn Harrisの世界観は本作に近い

 

それは、単に初めて見る風景ではない。どこかで見たことがあるような景色でありながら、どこにもなかったはずの風景である。そんなものを何の前置きもなく、フッと目の前に提示してくる。その時、人は減速し、思わず立ち止まってしまうのだ。ノーマンズスカイは旅である。しかし決して綿密に計画された観光旅行ではない。事前に、これを観に行こう、あれを観に行こうと思って見るのではなく、何の前触れもなく、見つめてしまう風景が突然そこにあることに気がつく。

 

自動生成による個々の風景に何か特別の意味があるわけではない。たまたまそう作られたに過ぎない。その偶然性にノスタルジーの風味をまぶす。すると、不思議なことに、人はそれを見て、懐かしさや味わいや深みを勝手に見出してしまう。そして、人は作業の手を止めるのだ。その瞬間、人はあらゆるスピードを越えた想像力の旅に出る。誰かが事細かに意匠を施して作っているわけではない風景。しかし、その無意味さこそに、人は崇高さを見てとる。ノーマンズスカイの絵には、それだけの力がある。速度ゼロの世界から想像力の旅が始まる。

ゲームとして、自由で単調なノーマンズスカイにはルーチーンワーク的な息苦しさがある。しかし、ノーマンズスカイ自らが、そんなルーチーンワークの手を止める風景を与え、そんな息苦しさから、いっとき、プレイヤーを解放するのだ。

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↑崩れかけた遺跡と巨大な惑星。思わず手を止めて見入ってしまう。

 

加速と減速の連環

「速度の異なる複数の系」というノーマンズスカイの仕掛けの中で、プレイヤーはついつい異なる速度の系を行ったり来たりしてしまう。これはプレイヤーにプレイを続けさせてしまう魅力を持っているということでもある。本作は普段遊ぶゲームと同じ尺度から考えれば、極めて単調であるかもしれない。しかし、この加速と減速の絶妙な連環により人を魅了する。それは単に速さを増していくことだけに意識が向いているのではない。速度を失うことにも価値付けがされているのだ。ゲームとして、ノーマンズスカイは見事なシステムを持っていると筆者が思うところである。

 

幸か不幸か、ノーマンズスカイに選ばれてしまったプレイヤーは思わずこう呟くのだ。「なんで俺はこんな単調なゲームを何時間も遊んでしまうのだ」と。そんな選ばれしプレイヤーにこそ、是非一度、宇宙ステーションの窓の前で立ち止まって欲しい。そこには何の変化もない、あまりにも静謐な景色が広がっている。ひとつかふたつの惑星が浮かび、無数の星たちが瞬く。その無意味さと、無音の宇宙ステーション。隣にはタブレットをいじる生意気な機械生命体の異星人が、全くこちらに興味を示すことなく椅子に座っている。そこに特別の意味はない。ただ、プレイヤーはスピードゼロからスピード無限大の狭間を行きつ戻りつする快感に何度も身を委ねるのだ。

 

救うべき世界はそこにはない。宇宙ステーションの窓から見える景色の、切なくなるほどの孤独感は、ノーマンズスカイが与える多層的なスピード体験の極北として、佇むようにしてそこにある。あらゆるスピードを超えるゼロに到達し、再び無限に加速していくために。

 

*1:実際に、ゲーム内ではメートルの単位は出てこない。速度はks、距離はuという単位で表現される。ここでは数字をイメージしやすいようにメートルに変えているが、決して正確に変換させたものではないので、ご了承いただきたい

*2:本文ではあまり言及できなかったが、大気圏突入から地表に近づくときに掛かる制動の減速もまた大変に快感である

自分的ゲームオブザイヤー2015 ~膨大なクエストは何のためにあるのか?~

ノミネート作品

・ブラッドボーン(Bloodborne)
・ウィッチャー3 ワイルドハント(Witcher 3 : Wild Hunt)
・カオスチャイルド(Chaos child)
・フォールアウト4(Fallout 4)

上記に挙げた4本はいずれ劣らぬ名作。今年はこのように優れた作品を4本も挙げることができたのは奇跡である。そしてここには挙げていないが、他にも素晴らしい作品が多数あった。2015年という年はコンソールゲーマーにとって豊作の年だった。これは間違いないだろう。

それでは自分にとって今年最高の一本を早速選びたい。それは……

 

自分的Game of the Year 2015

『ブラッドボーン(Bloodborne)』

 

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 今年最高の1本にはブラッドボーンを挙げたい。この作品自体のすばらしさ・おもしろさについては様々な人が書いていると思うので、ここでは他の作品に比べて、なぜこの作品なのかという点に絞って述べたい。結論だけを述べれば、本作はプレイが開始するスタート地点から、最後クリアされる地点までの間、そのトータルにおいて、極めて美しく物語の展開がデザインされていると感じられるからだ。そこには一つ、ゲームならではの妙手があると筆者は考える。

■FO4やウィッチャー3の持つ課題

ウィッチャー3もフォールアウト4も素晴らしい作品であることは間違いない。特にウィッチャー3は、オープンワールドRPGの現時点における究極点であると思う。そのくらい素晴らしい。この両作品のプレイを支えているのは、膨大なコンテンツ(クエスト)である。いつまで経っても終わらないとも思えるそんな膨大なコンテンツを背景に、人の興味や関心を長く引き続ける。そのような作品を作るためには気の遠くなるような労力やコストが掛けられているにちがいない。その点は素直に感心するしかない。しかしこの消化できないほどのコンテンツをこれでもかと供給しつづけるスタイルには、若干の空しさも感じるのだ。個々の作品の中身と共にその点を見てみよう。

ウィッチャー3。この作品が名作になり得た大きな理由としていくつかの素晴らしいエピソードがあることは確かだろう。例えば、血まみれ男爵に関するクエストだ。非常に粗暴で横暴な領主の男爵フィリップ。しかし彼は妻や子どもが自分の元を去ってしまったことに人間的な良心の呵責を感じている。そんな彼が人であることを取り戻すこのエピソードは、常に迫害に遭い続けている主人公ゲラルトの心とも共鳴する。

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↑血まみれ男爵のフィリップ。粗野で勝手で乱暴な男だが、その人生は切ない。

 

フォールアウト4。本作ではニック・バレンタインという人造人間の私立探偵のエピソードが秀逸だ。彼はロボットのくせにハードボイルドを気取り、人間以上に人間らしく振る舞う。義理や人情を重んじるし、友情を尊ぶ。この世界には人間と見分けが付かないほどの人造人間が多く存在する。このニックというキャラクターが素晴らしいのは、初期型ロボットであるため、明らかにロボットだと分かる風貌をしていることだ。人間らしさとは何かという問いをこのキャラクターはとても分かりやすく私たちに提示する。

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↑ニック・バレンタイン。ハードボイルドに生きる人造人間。とても人間くさい。

 

上記の通り、これらの名作には明らかに良くできたエピソードやキャラクターが必ずちりばめられている。そしておそらく作り手はそのことをちゃんと分かっている。そうした素晴らしいエピソードが、できる限り多くの人に味わえるように設計されている。そしてなにより、こうした名エピソードが一つもない作品であったら、これらは決して名作たりえなかっただろう。だからこそ逆に筆者としてはその他の膨大すぎるクエストの存在が皮肉に思えてしまうのだ。大量に配置された数々のクエスト。こうしたクエストは何のために存在しているのだろうかと。おそらくRPGとして(ロールプレイングゲームとして)、世界観の構築やキャラクターの魅力を伝えるため必要な要素として、いくつかのクエストは用意されている。しかし、それでも他の多くのクエストやストーリーは私たちにとって目眩ましでしかないのではないか。プレイされることをデザインするのではなく、ただそこに膨大に存在していること自体に意味がある。そんな目的でクエストが存在しているのではないか。ただそこにあるだけがそのクエストの最大限の役割となっている、そんなクエストをわざわざプレイしてしまうプレイヤーとは一体何をプレイしているのか。ウィッチャーやフォールアウトという作品が持つ空しさは、今後も継続していくゲームの物語における大きな課題ではないかと思っている。その課題は端的に言えば、膨大なコンテンツ群と物語の全体設計の間に、いか調和をもたらすか、ということだ。*1

■物語の「おあずけ」という妙手

翻って、ブラッドボーンが素晴らしいのは、最初から最後まで設計し尽くされ、ほとんどムダと言えるような部分が存在しない点にある。松明を持ち魔女狩り(獣狩り)に狂うような民衆への恐怖から、暴力の体現である巨大な獣との戦闘。不可思議で気色の悪い魔物との激闘から、一転して美しく狂気を孕んだ風景や建物との邂逅。そしてコズミックホラーへの突然の転調。精神的前作であるデモンズソウルやダークソウルという名作が、ゲーム業界にはびこる難易度低下へのアンチテーゼとして作られたように、再びブラッドボーンはひとつの偉大なアンチテーゼを示した。膨大なコンテンツで目眩ましをするのではなく、絞られ限られたゲーム内世界を最大にまで作り込んでプレイヤーを満足させる。確かに幹となる物語は存在しているはずなのに、それを決して掴ませない。多くのプレイヤーはブラッドボーンをクリアした瞬間、満腹感と飢餓感を同時に感じたはずだ。そんなプレイヤーに何も注意メッセージすら出さずにブラッドボーンは『二周目』を提示する。ファミコン時代のようなそっけなさ。プレイヤーには何も解答を与えない。それでもプレイを続行させる。そう、ブラッドボーンは、物語の「おあずけ」をデザインしている。

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↑本作一番の隠し要素カインハースト城。クリアしても物語的にそれほど理解は進まない

 

例えば、ほとんどの初見プレイヤーは見逃してしまうような隠し要素がある。しかしそんな隠し要素を二周目であらためてクリアしてみても、物語的にはほとんど目新しい情報を得られるわけではない。プレイヤーには、ただただ、ざらついた感情だけを跡に残す。そんな乱暴なことができるのは、これがゲームであるからだろう。私自身が狩人としてその世界に身を置いて、短くない時間を過ごしてしまったからだ。プレイヤーによる意味(物語)の生成。だからこそ物語を与えられることからも自由になれる。物語という麻薬。それを単に与えるのではなく、プレイヤー自身に生成させるための要素だけはふんだんにふり撒いておく。プレイだけに特化したアブストラクトなゲームではない。ブラッドボーンはそこにご褒美があるように装いつつ、永遠に「おあずけ」をしつづける。それはブラッドボーンの一つの巧みさだろう。*2物量により永遠にクエストを与え続けるゲームとどちらが素晴らしいのか。それは難しいところだが、筆者としては作品としてムダの少ないブラッドボーンに軍配を上げたい。そこには(ニクらしいことだが)プレイヤーと作られたゲーム自体への信頼がある。『プレイヤーは、ストーリーやクエストという目に見えるニンジンを眼前にぶら下げられた馬ではないのだ』という信頼が。ブラッドボーンはボリュームのあるゲームではない。しかし高い満足感を与えてくれる理由があるとしたら、そんな信頼感がプレイヤーに伝わっている点も1つの要因かもしれない。*3

さて、4作挙げた中でほとんど言及していないカオスチャイルド。本作は美少女ゲームであり、萌え的な要素を多分に含んだゲームだ。そしてこれまで書いてきた個々のエピソードと全体の調和という点においては決してブラッドボーンに劣るものではないだろう。しかしここでブラッドボーンにGoTYの座を譲るのは、何もこのジャンルの趣味性ゆえではない。やはりノベルゲームはこうした全体の調和を非常に取りやすい構造であるからだ。本や映画に近く、作者の想定どおりにプレイをデザインできる。この点においてゲーム的な行為の選択を与えてくれるブラッドボーンに大賞の座を与えたいと考える。なお、カオスチャイルドについてはこちらの記事で大いに語ったので、プレイされた方は是非読んでいただければと思う。今年最も応援したゲームである。*4

 

わたしにとって新しいゲームをプレイする意味は、何か新しいもの、これまでと違うものを見るためであるという部分が大きい。もちろんそうでない人も多いだろう。また何をもって「新しい」というのかも人によって異なるだろう。いずれにしろ、来年も筆者にとって何か「新しさ」に出会える年であることを願いたい。

 

 

*1:FO4のクラフト要素はストーリーテリングの手法として非常に面白いと思っている。この拠点クラフトによって、プレイヤーは単に拠点を作る快感を得るのではなく、物語の一部に参加する楽しさを得る。ただ荒削りだ。

*2:ダークソウルやデモンズソウルにもこうしたおあずけ的な仕掛けはあった。しかしブラッドボーンでは以下の2点によりその方向性・デザインの意図が明確ではないかと思っている。1つは、クトゥルフ神話という既存のモチーフへの明確な参照。これは何かある、と思わせることに一役買っている。完全オリジナルな世界だけではなく、広がりを感じさせる。2つ目はオープンワールドへの拘りのなさ。ダークソウルでこだわった1つの世界というモチーフは、デモンズソウル的な拠点システムへと回帰している。広くて大きな世界(物量的価値)からの決別を意味するのではないか。

*3:トロフィーの解除率を見ると、ラスボスと戦わないで、この悪夢から抜け出るというルートが最も解除率が低い。このことは非常に象徴的だ

*4:実際は昨年、XBOX ONEでリリースされたのだが、筆者は今年になってようやくプレイした。

【考察】カオスチャイルドのTRUEエンドの「大ネタ」は必要だったのか?【妄想】

※【ネタバレ注意!!】なるべくあからさまなネタバレはしないように書きますが、どうしてもゲーム内のネタに言及している部分があります。未プレイの方は実際にゲームを(Trueエンドまで)クリアした後に読んでいただいた方がいいと思います。

妄想科学アドベンチャーカオスチャイルド』。2015年6月にPSプラットフォームで発売されるに至り、本作はネット上でもかなり議論されるようになった。その中で度々論争になるのは、Trueエンドで明かされる「大きな事実」についてだ。この「事実」により、これまでの思い込みが大きく覆えされる。ただ、この設定はネット上では賛否が分かれている。「後付け感がある、無理がある」と非難する意見も多い。筆者もこの意見にはある程度同感する。たしかにこの「大ネタ」は物語の大筋と直接的な因果関係をあまり持たない。このネタがなければ話がおかしくなるということがほとんどなく、逆に様々な無理を生じさせかねない。しかし、このネタが非常に強いインパクトをプレイヤーに与えたことも確かだろう。カオスチャイルドを忘れられない名作にした「設定」でもある。


本記事はこの作品の持つメッセージ性にこの「大ネタ」は大きく関係すると主張するものである。本作はこのネタによって大傑作となったと考える。まあ、ある種の妄想でもあるので、その点はご容赦願いたい。


議論を進めるに当たって、まずは本作の大きな主題だと考えられる3つのテーマを示したい。そして、その3つのテーマは、ある1つの共通的なメッセージを孕んでいると筆者は考える。Trueルートの「大ネタ」はその共通的なメッセージを伝えるために必要な仕掛けであった、というのが本稿のおおまかな論旨である。では、はじめよう。


(1)3つのテーマ①嘘と真実

"嘘と真実"は、本作の多くのエピソードに関わる題材である。とりわけ来栖乃々および有村雛絵に関わるエピソードが多い。個別ルートで明かされる来栖の秘密や拓留が青葉寮を飛び出すきっかけとなった来栖の隠し事そして有村の能力は、話の展開上、大きな役割を担っている。

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↑来栖乃々。生徒会長でしっかり者。お姉さんキャラ。

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↑有村雛絵。ツインテールの後輩。時折妙に鋭いツッコミを入れてくる。

しかし一方で、本作には"嘘と真実"の「境界例」と言えるような事態がいくつか提示されている。

例えば来栖が隠していた拓留の両親についての嘘。多くのプレイヤーが感じた通り、この嘘自体にあまり罪はない。実際、最終的に拓留はこれを「来栖の本当の愛情の現われ」として理解する。来栖の正体に関わる秘密についても同様だ。決して取り乱すことなく受け入れている。嘘だから悪、真実だから善、という安直な価値感には組していない。

また、共通ルート終盤で正体が明らかになる『あの男』の存在。彼は通常の感覚からすれば大嘘つきである。しかし彼の欲望は実に素直でもある。それを示すように世莉架は「あいつは言葉以上のことを考えていなかった。頭の中にはただ、『面白い』という声だけが反響していた*1」と表現している。『そいつ』にとって猟奇的な殺人計画も、日常的な談笑も「本当に面白い」と思っている。そこに全く嘘はない。彼が嘘つきなのか正直者なのか、これは断定する事は難しい。ここでも嘘であれば悪いのか?素直であれば善なのか?という疑問が呈される。

 

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↑本当の言葉の恐ろしさ

また、有村の能力。彼女は自らの能力について、「人の言葉って、いつも白黒ハッキリしているわけじゃないです*2」と言っている。「本当の気持ち」などグレーでしかない。『あの男』や『かわいそうな彼』のケースに示されるとおり、むしろ「真実すぎる」方がよほど「怪しい」のである。

以上に見るとおり、本作では、"嘘と真実"の価値の解体が随所で行われている。日常的にわたしたちは「本当が良くて、嘘は悪い」と素朴に思っている。しかし、一方でそうした価値感が壊れる時がある。カオスチャイルドが表現しているのは、"嘘と真実"の価値の不安定さである。この物語は拓留がその不安定さを受け入れていく過程だと解釈することもできるだろう。

 

(2)3つのテーマ②情報弱者と情報強者

情報強者(情強)を自認する拓留は、物語のスタート時点で周りのクラスメートを情報弱者(情弱)としてバカにしている*3

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↑クラスメイトほぼ全員を「情弱」とバカにする拓留

しかし、物語を通してそのことに疑いをもち、彼は考えを改めていく。想像するにプレイヤーの多くは拓留よりも年上で、いい大人だ。拓留の傲慢さには最初から強く「痛々しさ」や「愚かしさ」を感じると思う。しかし、なぜ「痛々しく」感じるのだろうか。

例えば拓留の持っている情報の精度や情報収集のやり方は決して間違っているわけではない。彼は同年代の誰よりも正しいことを知っているし、ネットにある情報は玉石混交で、その中から精度の高いものを選び取らなければならないことも理解している。

我々プレイヤーが拓留を「痛々しく」思うのは、その情報を入手して何がしたいのか、という目的意識がアンバランスに欠如しているからだ。例えば拓留は、自らが掴んだネタにより「渋谷にうず」という人気ネットニュース管理人と「お近づき」になる妄想をする*4。そんなことで有頂天になってしまう彼の情強としてのゴールは、殺人事件の犯人を追うというシリアスさに比べて非常に卑小だ。その卑小さが彼を「痛々しく」「幼く」見せる。"真の情強"である久野里が「渋谷にうず」を単なる道具として扱っていたことと対照的である。彼女にとって情報は別の目的のための単なるツールでしかない。

震災のクラスメートとの邂逅もそれを示している*5。情弱が「正しいこと」をしていることの衝撃。情報量の多寡や正確さとは無関係な「正しさ」を目の前に突きつけられ、拓留は動揺する。先に挙げた"嘘と真実"と同様、情報が「正確かどうか」「多くを知っているかどうか」という価値感が物語の進行と共に解体されているのではないだろうか。

 

(3)3つのテーマ③部外者と当事者

拓留は、「頑張れという部外者」を嫌う。

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これは部外者のある種の無責任さへの腹立ちであろうと想像できる。これと同じような話が、実は久野里と百瀬の間でも交わされている。

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↑久野里「頑張れという言葉ほど、人を突き放すものはない」

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↑百瀬「同情って優しさだと思ってるわよ?」

百瀬の「同情はやさしさでもある」という言葉は、大人の言葉である。百瀬は同情が無力であることを知っているが、それでも優しさには意味が有ると認める。これは部外者と当事者の問題にも置き換えることができる。部外者の同情は無力で無責任かもしれないがそれでも意味がある、と百瀬は言っているのだ。

拓留も(そしてある面では久野里も)同情や励ましを寄せる部外者に厳しい立場を取る。こうした同情や励ましを部外者に許さないその厳格さは、裏返せば当事者を特権的に見ることに通じている。当事者だけが同情し、優しさを示すことを許す。拓留はある意味その特権的なポジショニングを望んでいるのだ。彼はひたすら当事者になりたがっている。部外者であることの疎外感に彼は耐えられない。

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しかし実際、部外者と当事者というのはそれほど明確に分けられるものではない。例えば、東日本大震災で多くの日本人が感じたのもそれだろう。震災から数年経ち、特に問題のない日常を過ごすことの微かな罪悪感。しかし、たいていの人は極端に偏ることなく、適度に慎みを持ち、適度に憂さを晴らし、適度に心配や同情をして、適度に寄付などを行いつつ過ごしている。誰かが圧倒的に被災者に責任を持っているのでもなく、誰かがまったく無関係であるということもない。そういう中間状態にあることに耐えている。

拓留は自分に鮮烈な被災体験を課すことで、特別な当事者でいようとする。彼は「適度にやりすごす」ことができない。それは自己承認欲求のせいなのか、元来の性格なのか、両親の育て方に原因があったのか、それは分からない。重要なのは、そうした中途半端なことを許せないという厳格さである。「頑張れという部外者」への感情はある種の自己嫌悪でもあろう。部外者になってしまう自分を許せない。物事の中心になりたいという心意気は悪いものではないが、そうした願望こそが彼の生き方を歪めている。

 

(4)潔癖症

上記3つのテーマを通して、ひとつ、拓留のある特徴が浮かび上がってくる。それは拓留の潔癖症という特性である。真実でなければならない。深く正しく知る情報強者でなければならない。当事者でなければならない。本当か嘘か曖昧で、知識が不正確で、どっちつかずであることができない。ノーマルエンドまでの拓留はある種の潔癖症に冒されている。そしてシナリオは「曖昧であること」、「不正確であること」、「どっちつかずであること」への肯定がそれとなく仄めかされている。これが上記に挙げた3つのテーマが孕む本作の共通的なメッセージではないかと筆者は考える。


(5)カオスチャイルド症候群の意味

では、Trueルートで明らかになるカオスチャイルド症候群(以下、CC症候群)の意味とは何だろうか。前項の「潔癖症」の話題を一旦置いておいて、この設定の意味を考えてみたい。おそらく物語のプロットを細かく検証していけばいくほど、この設定は後付けで、無理やりで、インパクト重視で設けられているのように見えるだろう。しかし、実はこの設定にこそ意味があると筆者は考える。

ここでの考察の出発点は、次のような観点である。「プレイヤーが最初に遊んだ共通ルート」と「True後の共通ルート」は、一体何が違うのか。結論を先に書いてしまうと、「実は何も違わない」。しかしこの点こそがミソだ*6。しかし、なぜ「何も違わない」ことが鍵となるのか。

それは、あの「大ネタ」によって認識を歪ませられていたのは、本当は、カオスチャイルド症候群者以外の全員であるという考え方も可能な点にある。つまり、Trueルートに至る前に見ていたビジュアルは全て「真実」で、Trueルートで見させられた「あの姿」は、CC症候群者以外の全員が患っている病気によるものという解釈も可能なのだ。つまり「本当に」おかしいのは、CC症候群者以外の世界中の全員という解釈だ。

CC症候群者とそれ以外の人とでは、CC症候群についての会話や認識が正しく成立しない。ということは、そのCC症候群自体が本当はどちらに帰属すべきものなのかを断定することは原理的にはできない。

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↑「"こっちの世界"が正しくてなくちゃいけない」と思いつつも、もはや何が正しいのか分からなくなる

しかし、ここで次のような反論があるだろう。「Trueルートの最後で、CC症候群者がある画像を見ることで、CC症候群が完治したではないか?」という反論だ。これは全くそのとおりで、あの「完治」があることで、実はCC症候群はCC症候群者のものであると「確定」するのである。逆に言うと、あれがなければどちらが本当の患者なのかを定めることは原理的にはできない。これは正に「胡蝶の夢」の荘周と同じなのだ。夢から覚めなければ、夢であることを決定できない。覚めない夢は夢ではないのである。夏目漱石夢十夜」に唐突に挿入される「胡蝶の夢」の逸話*7は、うきの見せる妄想の世界だけでない。むしろこの世界こそがそうかもしれないという比喩だ。

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『本当はCC症候群者以外の世界中の人間の方が間違っているかもしれない』。この物語がそうだったと言いたいわけではなく、完治する前であればそういう解釈もまた可能であるということだ。同じ世界の中に異なる世界線を並立並存させる仕組み。これがCC症候群の構造である*8

さて、以上のように考えるとCC症候群の意味が明らかになってくる。CC症候群者とは「この世界について正しい情報を得ている/と思わされている者」という重ねあわせの象徴であるのだ。本当に正しい情報を得ているのか、単にそう思わされているだけかは「蓋を開けて」みないと分からない。それは、拓留が序盤で情強を気取った「シュレディンガーの猫」の話に似ている。そういう相反する状態が混合した存在。CC症候群者は、単に妄想している者「ではない」ことが重要だ。相矛盾する状態が重ねあわされていることに意味があるのだ*9

 

(6)拓留の選択とTrueルートの構造

今回のTrueルートは特定の選択肢によって分岐されるルートではない。そうではなく、いわゆる「(各美少女の)個別ルート」を全て開拓したら必然的に到達できる固定的なルートである。実はこの必然性(選択できない)と先ほどのCC症候群者の意味を重ね合わせることで、この物語における拓留の「選択」の意義が見えてくる。

Trueルートの拓留は、多くのプレイヤーが指摘するように「悟ってしまった」ように見える。賢者モードなどとも言われる。しかし、実はこの拓留の選択こそが、CC症候群を乗り越えたものであると考えられる。

完治前の状態では、「CC症候群者」と「CC症候群者以外の者」を明確に分ける「法」は、原理的に存在しない。真実をただ潔癖に求めるだけの拓留であれば、この困難に対してどのような決断もできない。なぜなら、何が正しいのか分からないことこそが論理的には正しいからだ。そんな困難の中にあっては、結局「自分のやりたいこと(冤罪の英雄になる、かわいくて従順な幼馴染がいる、世界の悪を挫く)」が優先される。自分の欲望を優先すること以上に従う理屈が見つけられていないからだ。

しかし、Trueルートで拓留は潔癖であることを辞める。冤罪で刑務所に入ることも(真実でなくていい)、従順な幼馴染を失うことも(情強を誇れなくてもいい)、委員会の手先という悪をそのまま放置すること(当事者として英雄的存在になれなくてもいい)も、全て本当は"やりたくないこと"である。そんな風に汚れた、いい加減なことは"したくないこと"である。しかしあえてキレイでいることよりも汚れることを選択するのだ。なぜならその選択こそが、彼が老人であっても、若者であっても、どのような姿かたちであっても、どんな世界(世界線)であっても、「正しい*10」と信じられることだからだ。嘘とか真実とか情強とか情弱とか当事者とか部外者とか、そんなことは二の次。彼は自らの信じる「正義」に賭けようとしている。彼が悟ったように見えるのはそのためだ。Trueルートの拓留の言葉は、拓留が老人のような姿であったとしても、不自然さのない言葉が使われている。「情弱ガー!」とか「僕はリア充だ!」という言葉は使われない。なぜなら、そんな言葉が許されるのは若者の特権でしかないからだ。Trueルートの拓留はどんな世界、どんな時代でも通用する言葉や選択を模索している。

しかし根本的には「正義」を保証するものなどはない。CC症候群の存在があらゆる世界の前提を覆す可能性があるからだ(あの「設定」は「美少女」ゲームであることさえ覆す)。だからこそ選び取るしかない、「賭け」るしかない。「正義」を選ぶ時には、変わらないと信じる価値にチップを置くしかない。Trueルートが通常のルートとは別の固定的な1つのルートとして設定されていることは、「どちらも正しい」などという微温的なものではなく、拓留が「こうしかない」と決断した意志の強固さを示している。と同時に、その根拠として絶対的に頼りになる理屈があるわけではない。拓留の決断は、必然的(こうしかない)かつ偶然的(賭け)なのだ。そして、必然的であり偶然的という中途半端な立場に立つことが、彼の患う潔癖症を克服することになり、CC症候群という不条理な世界の前提さえ乗り越えるのである。

現実世界でこの意味を振り返ってみよう。

私たちは、情報を得れば得るほど、潔癖になっていく。正しいことを知ることに強迫される。そうした「ネットで先に答えを知ってしまった」者が最終的に陥るのは、「どちらとも言えない」という無難な結論である(共通ルートの久野里との最後の会話)。

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これはこれで間違いではないが、一方で、私たちは日常的にこうした潔癖症を回避したいという願望も抱く。何かに頼ることなく「正しく」決断したいということが以前よりも不思議とリアルになっている。というのも、かつては正しい情報を得るためのコストが高すぎて、何かの決断をするにはある程度の「情報収集への諦め」が自然とできていた。しかし、今ではやろうと思えば無限に正しい情報を収集し続けることができる。そのため、どこかのラインで情報強者になることを自発的に辞めなければ何も決断できない。そもそも世界はその根本から正しいのかどうか原理的には分からない(←CC症候群)。だからこそ、「正しさ(真実)」の窒息状態から脱出して「正しく(正義)」決断したいという願望が逆説的に生じてくる。

前作カオスヘッドの拓巳がひきこもりの英雄であったこととは対照的に、今作カオスチャイルドの拓留は、潔癖になるあまり正しい情報にひきこもってしまった私たちのモヤモヤをブレイクスルーする。彼は情報過剰時代における新しい形の「正義」のヒーローなのだ。(了)

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↑「馬鹿な決断に言い訳しない」。正義は(怖いことに)ある程度の不正確さを背負わないと実行できない。

*1:第11章

*2:第11章

*3:第1章

*4:第2章

*5:第10章

*6:当然それが「大ネタ」を無意味・後付けにも感じさせる理由にもなる

*7:うき編

*8:拓留の力はシュタインズゲートのリーディング・シュタイナーの能力を想起させる

*9:なぜTrueルートの「大ネタ」が後付けのように感じられるのかという理由もここにある。それはこの「大ネタ」がメタ的であるからだ。そのため、フィクションの"中"の話をしているような気がせず、後付のように感じてしまう。久野里が語る「二次元の人間が三次元の問題を認識できない」話にも近い。ただ、この設定は"メタフィクション"とは違う。あえて言えば、"メタリアルなフィクション"であろう

*10:本記事では、正しいという言葉には2つの異なる意味で使われている。事実に近いという正しさ。もう一つは正義という意味での正しさ。ここでは後者