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【考察】カオスチャイルドのTRUEエンドの「大ネタ」は必要だったのか?【妄想】

※【ネタバレ注意!!】なるべくあからさまなネタバレはしないように書きますが、どうしてもゲーム内のネタに言及している部分があります。未プレイの方は実際にゲームを(Trueエンドまで)クリアした後に読んでいただいた方がいいと思います。

妄想科学アドベンチャーカオスチャイルド』。2015年6月にPSプラットフォームで発売されるに至り、本作はネット上でもかなり議論されるようになった。その中で度々論争になるのは、Trueエンドで明かされる「大きな事実」についてだ。この「事実」により、これまでの思い込みが大きく覆えされる。ただ、この設定はネット上では賛否が分かれている。「後付け感がある、無理がある」と非難する意見も多い。筆者もこの意見にはある程度同感する。たしかにこの「大ネタ」は物語の大筋と直接的な因果関係をあまり持たない。このネタがなければ話がおかしくなるということがほとんどなく、逆に様々な無理を生じさせかねない。しかし、このネタが非常に強いインパクトをプレイヤーに与えたことも確かだろう。カオスチャイルドを忘れられない名作にした「設定」でもある。


本記事はこの作品の持つメッセージ性にこの「大ネタ」は大きく関係すると主張するものである。本作はこのネタによって大傑作となったと考える。まあ、ある種の妄想でもあるので、その点はご容赦願いたい。


議論を進めるに当たって、まずは本作の大きな主題だと考えられる3つのテーマを示したい。そして、その3つのテーマは、ある1つの共通的なメッセージを孕んでいると筆者は考える。Trueルートの「大ネタ」はその共通的なメッセージを伝えるために必要な仕掛けであった、というのが本稿のおおまかな論旨である。では、はじめよう。


(1)3つのテーマ①嘘と真実

"嘘と真実"は、本作の多くのエピソードに関わる題材である。とりわけ来栖乃々および有村雛絵に関わるエピソードが多い。個別ルートで明かされる来栖の秘密や拓留が青葉寮を飛び出すきっかけとなった来栖の隠し事そして有村の能力は、話の展開上、大きな役割を担っている。

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↑来栖乃々。生徒会長でしっかり者。お姉さんキャラ。

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↑有村雛絵。ツインテールの後輩。時折妙に鋭いツッコミを入れてくる。

しかし一方で、本作には"嘘と真実"の「境界例」と言えるような事態がいくつか提示されている。

例えば来栖が隠していた拓留の両親についての嘘。多くのプレイヤーが感じた通り、この嘘自体にあまり罪はない。実際、最終的に拓留はこれを「来栖の本当の愛情の現われ」として理解する。来栖の正体に関わる秘密についても同様だ。決して取り乱すことなく受け入れている。嘘だから悪、真実だから善、という安直な価値感には組していない。

また、共通ルート終盤で正体が明らかになる『あの男』の存在。彼は通常の感覚からすれば大嘘つきである。しかし彼の欲望は実に素直でもある。それを示すように世莉架は「あいつは言葉以上のことを考えていなかった。頭の中にはただ、『面白い』という声だけが反響していた*1」と表現している。『そいつ』にとって猟奇的な殺人計画も、日常的な談笑も「本当に面白い」と思っている。そこに全く嘘はない。彼が嘘つきなのか正直者なのか、これは断定する事は難しい。ここでも嘘であれば悪いのか?素直であれば善なのか?という疑問が呈される。

 

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↑本当の言葉の恐ろしさ

また、有村の能力。彼女は自らの能力について、「人の言葉って、いつも白黒ハッキリしているわけじゃないです*2」と言っている。「本当の気持ち」などグレーでしかない。『あの男』や『かわいそうな彼』のケースに示されるとおり、むしろ「真実すぎる」方がよほど「怪しい」のである。

以上に見るとおり、本作では、"嘘と真実"の価値の解体が随所で行われている。日常的にわたしたちは「本当が良くて、嘘は悪い」と素朴に思っている。しかし、一方でそうした価値感が壊れる時がある。カオスチャイルドが表現しているのは、"嘘と真実"の価値の不安定さである。この物語は拓留がその不安定さを受け入れていく過程だと解釈することもできるだろう。

 

(2)3つのテーマ②情報弱者と情報強者

情報強者(情強)を自認する拓留は、物語のスタート時点で周りのクラスメートを情報弱者(情弱)としてバカにしている*3

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↑クラスメイトほぼ全員を「情弱」とバカにする拓留

しかし、物語を通してそのことに疑いをもち、彼は考えを改めていく。想像するにプレイヤーの多くは拓留よりも年上で、いい大人だ。拓留の傲慢さには最初から強く「痛々しさ」や「愚かしさ」を感じると思う。しかし、なぜ「痛々しく」感じるのだろうか。

例えば拓留の持っている情報の精度や情報収集のやり方は決して間違っているわけではない。彼は同年代の誰よりも正しいことを知っているし、ネットにある情報は玉石混交で、その中から精度の高いものを選び取らなければならないことも理解している。

我々プレイヤーが拓留を「痛々しく」思うのは、その情報を入手して何がしたいのか、という目的意識がアンバランスに欠如しているからだ。例えば拓留は、自らが掴んだネタにより「渋谷にうず」という人気ネットニュース管理人と「お近づき」になる妄想をする*4。そんなことで有頂天になってしまう彼の情強としてのゴールは、殺人事件の犯人を追うというシリアスさに比べて非常に卑小だ。その卑小さが彼を「痛々しく」「幼く」見せる。"真の情強"である久野里が「渋谷にうず」を単なる道具として扱っていたことと対照的である。彼女にとって情報は別の目的のための単なるツールでしかない。

震災のクラスメートとの邂逅もそれを示している*5。情弱が「正しいこと」をしていることの衝撃。情報量の多寡や正確さとは無関係な「正しさ」を目の前に突きつけられ、拓留は動揺する。先に挙げた"嘘と真実"と同様、情報が「正確かどうか」「多くを知っているかどうか」という価値感が物語の進行と共に解体されているのではないだろうか。

 

(3)3つのテーマ③部外者と当事者

拓留は、「頑張れという部外者」を嫌う。

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これは部外者のある種の無責任さへの腹立ちであろうと想像できる。これと同じような話が、実は久野里と百瀬の間でも交わされている。

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↑久野里「頑張れという言葉ほど、人を突き放すものはない」

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↑百瀬「同情って優しさだと思ってるわよ?」

百瀬の「同情はやさしさでもある」という言葉は、大人の言葉である。百瀬は同情が無力であることを知っているが、それでも優しさには意味が有ると認める。これは部外者と当事者の問題にも置き換えることができる。部外者の同情は無力で無責任かもしれないがそれでも意味がある、と百瀬は言っているのだ。

拓留も(そしてある面では久野里も)同情や励ましを寄せる部外者に厳しい立場を取る。こうした同情や励ましを部外者に許さないその厳格さは、裏返せば当事者を特権的に見ることに通じている。当事者だけが同情し、優しさを示すことを許す。拓留はある意味その特権的なポジショニングを望んでいるのだ。彼はひたすら当事者になりたがっている。部外者であることの疎外感に彼は耐えられない。

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しかし実際、部外者と当事者というのはそれほど明確に分けられるものではない。例えば、東日本大震災で多くの日本人が感じたのもそれだろう。震災から数年経ち、特に問題のない日常を過ごすことの微かな罪悪感。しかし、たいていの人は極端に偏ることなく、適度に慎みを持ち、適度に憂さを晴らし、適度に心配や同情をして、適度に寄付などを行いつつ過ごしている。誰かが圧倒的に被災者に責任を持っているのでもなく、誰かがまったく無関係であるということもない。そういう中間状態にあることに耐えている。

拓留は自分に鮮烈な被災体験を課すことで、特別な当事者でいようとする。彼は「適度にやりすごす」ことができない。それは自己承認欲求のせいなのか、元来の性格なのか、両親の育て方に原因があったのか、それは分からない。重要なのは、そうした中途半端なことを許せないという厳格さである。「頑張れという部外者」への感情はある種の自己嫌悪でもあろう。部外者になってしまう自分を許せない。物事の中心になりたいという心意気は悪いものではないが、そうした願望こそが彼の生き方を歪めている。

 

(4)潔癖症

上記3つのテーマを通して、ひとつ、拓留のある特徴が浮かび上がってくる。それは拓留の潔癖症という特性である。真実でなければならない。深く正しく知る情報強者でなければならない。当事者でなければならない。本当か嘘か曖昧で、知識が不正確で、どっちつかずであることができない。ノーマルエンドまでの拓留はある種の潔癖症に冒されている。そしてシナリオは「曖昧であること」、「不正確であること」、「どっちつかずであること」への肯定がそれとなく仄めかされている。これが上記に挙げた3つのテーマが孕む本作の共通的なメッセージではないかと筆者は考える。


(5)カオスチャイルド症候群の意味

では、Trueルートで明らかになるカオスチャイルド症候群(以下、CC症候群)の意味とは何だろうか。前項の「潔癖症」の話題を一旦置いておいて、この設定の意味を考えてみたい。おそらく物語のプロットを細かく検証していけばいくほど、この設定は後付けで、無理やりで、インパクト重視で設けられているのように見えるだろう。しかし、実はこの設定にこそ意味があると筆者は考える。

ここでの考察の出発点は、次のような観点である。「プレイヤーが最初に遊んだ共通ルート」と「True後の共通ルート」は、一体何が違うのか。結論を先に書いてしまうと、「実は何も違わない」。しかしこの点こそがミソだ*6。しかし、なぜ「何も違わない」ことが鍵となるのか。

それは、あの「大ネタ」によって認識を歪ませられていたのは、本当は、カオスチャイルド症候群者以外の全員であるという考え方も可能な点にある。つまり、Trueルートに至る前に見ていたビジュアルは全て「真実」で、Trueルートで見させられた「あの姿」は、CC症候群者以外の全員が患っている病気によるものという解釈も可能なのだ。つまり「本当に」おかしいのは、CC症候群者以外の世界中の全員という解釈だ。

CC症候群者とそれ以外の人とでは、CC症候群についての会話や認識が正しく成立しない。ということは、そのCC症候群自体が本当はどちらに帰属すべきものなのかを断定することは原理的にはできない。

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↑「"こっちの世界"が正しくてなくちゃいけない」と思いつつも、もはや何が正しいのか分からなくなる

しかし、ここで次のような反論があるだろう。「Trueルートの最後で、CC症候群者がある画像を見ることで、CC症候群が完治したではないか?」という反論だ。これは全くそのとおりで、あの「完治」があることで、実はCC症候群はCC症候群者のものであると「確定」するのである。逆に言うと、あれがなければどちらが本当の患者なのかを定めることは原理的にはできない。これは正に「胡蝶の夢」の荘周と同じなのだ。夢から覚めなければ、夢であることを決定できない。覚めない夢は夢ではないのである。夏目漱石夢十夜」に唐突に挿入される「胡蝶の夢」の逸話*7は、うきの見せる妄想の世界だけでない。むしろこの世界こそがそうかもしれないという比喩だ。

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『本当はCC症候群者以外の世界中の人間の方が間違っているかもしれない』。この物語がそうだったと言いたいわけではなく、完治する前であればそういう解釈もまた可能であるということだ。同じ世界の中に異なる世界線を並立並存させる仕組み。これがCC症候群の構造である*8

さて、以上のように考えるとCC症候群の意味が明らかになってくる。CC症候群者とは「この世界について正しい情報を得ている/と思わされている者」という重ねあわせの象徴であるのだ。本当に正しい情報を得ているのか、単にそう思わされているだけかは「蓋を開けて」みないと分からない。それは、拓留が序盤で情強を気取った「シュレディンガーの猫」の話に似ている。そういう相反する状態が混合した存在。CC症候群者は、単に妄想している者「ではない」ことが重要だ。相矛盾する状態が重ねあわされていることに意味があるのだ*9

 

(6)拓留の選択とTrueルートの構造

今回のTrueルートは特定の選択肢によって分岐されるルートではない。そうではなく、いわゆる「(各美少女の)個別ルート」を全て開拓したら必然的に到達できる固定的なルートである。実はこの必然性(選択できない)と先ほどのCC症候群者の意味を重ね合わせることで、この物語における拓留の「選択」の意義が見えてくる。

Trueルートの拓留は、多くのプレイヤーが指摘するように「悟ってしまった」ように見える。賢者モードなどとも言われる。しかし、実はこの拓留の選択こそが、CC症候群を乗り越えたものであると考えられる。

完治前の状態では、「CC症候群者」と「CC症候群者以外の者」を明確に分ける「法」は、原理的に存在しない。真実をただ潔癖に求めるだけの拓留であれば、この困難に対してどのような決断もできない。なぜなら、何が正しいのか分からないことこそが論理的には正しいからだ。そんな困難の中にあっては、結局「自分のやりたいこと(冤罪の英雄になる、かわいくて従順な幼馴染がいる、世界の悪を挫く)」が優先される。自分の欲望を優先すること以上に従う理屈が見つけられていないからだ。

しかし、Trueルートで拓留は潔癖であることを辞める。冤罪で刑務所に入ることも(真実でなくていい)、従順な幼馴染を失うことも(情強を誇れなくてもいい)、委員会の手先という悪をそのまま放置すること(当事者として英雄的存在になれなくてもいい)も、全て本当は"やりたくないこと"である。そんな風に汚れた、いい加減なことは"したくないこと"である。しかしあえてキレイでいることよりも汚れることを選択するのだ。なぜならその選択こそが、彼が老人であっても、若者であっても、どのような姿かたちであっても、どんな世界(世界線)であっても、「正しい*10」と信じられることだからだ。嘘とか真実とか情強とか情弱とか当事者とか部外者とか、そんなことは二の次。彼は自らの信じる「正義」に賭けようとしている。彼が悟ったように見えるのはそのためだ。Trueルートの拓留の言葉は、拓留が老人のような姿であったとしても、不自然さのない言葉が使われている。「情弱ガー!」とか「僕はリア充だ!」という言葉は使われない。なぜなら、そんな言葉が許されるのは若者の特権でしかないからだ。Trueルートの拓留はどんな世界、どんな時代でも通用する言葉や選択を模索している。

しかし根本的には「正義」を保証するものなどはない。CC症候群の存在があらゆる世界の前提を覆す可能性があるからだ(あの「設定」は「美少女」ゲームであることさえ覆す)。だからこそ選び取るしかない、「賭け」るしかない。「正義」を選ぶ時には、変わらないと信じる価値にチップを置くしかない。Trueルートが通常のルートとは別の固定的な1つのルートとして設定されていることは、「どちらも正しい」などという微温的なものではなく、拓留が「こうしかない」と決断した意志の強固さを示している。と同時に、その根拠として絶対的に頼りになる理屈があるわけではない。拓留の決断は、必然的(こうしかない)かつ偶然的(賭け)なのだ。そして、必然的であり偶然的という中途半端な立場に立つことが、彼の患う潔癖症を克服することになり、CC症候群という不条理な世界の前提さえ乗り越えるのである。

現実世界でこの意味を振り返ってみよう。

私たちは、情報を得れば得るほど、潔癖になっていく。正しいことを知ることに強迫される。そうした「ネットで先に答えを知ってしまった」者が最終的に陥るのは、「どちらとも言えない」という無難な結論である(共通ルートの久野里との最後の会話)。

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これはこれで間違いではないが、一方で、私たちは日常的にこうした潔癖症を回避したいという願望も抱く。何かに頼ることなく「正しく」決断したいということが以前よりも不思議とリアルになっている。というのも、かつては正しい情報を得るためのコストが高すぎて、何かの決断をするにはある程度の「情報収集への諦め」が自然とできていた。しかし、今ではやろうと思えば無限に正しい情報を収集し続けることができる。そのため、どこかのラインで情報強者になることを自発的に辞めなければ何も決断できない。そもそも世界はその根本から正しいのかどうか原理的には分からない(←CC症候群)。だからこそ、「正しさ(真実)」の窒息状態から脱出して「正しく(正義)」決断したいという願望が逆説的に生じてくる。

前作カオスヘッドの拓巳がひきこもりの英雄であったこととは対照的に、今作カオスチャイルドの拓留は、潔癖になるあまり正しい情報にひきこもってしまった私たちのモヤモヤをブレイクスルーする。彼は情報過剰時代における新しい形の「正義」のヒーローなのだ。(了)

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↑「馬鹿な決断に言い訳しない」。正義は(怖いことに)ある程度の不正確さを背負わないと実行できない。

*1:第11章

*2:第11章

*3:第1章

*4:第2章

*5:第10章

*6:当然それが「大ネタ」を無意味・後付けにも感じさせる理由にもなる

*7:うき編

*8:拓留の力はシュタインズゲートのリーディング・シュタイナーの能力を想起させる

*9:なぜTrueルートの「大ネタ」が後付けのように感じられるのかという理由もここにある。それはこの「大ネタ」がメタ的であるからだ。そのため、フィクションの"中"の話をしているような気がせず、後付のように感じてしまう。久野里が語る「二次元の人間が三次元の問題を認識できない」話にも近い。ただ、この設定は"メタフィクション"とは違う。あえて言えば、"メタリアルなフィクション"であろう

*10:本記事では、正しいという言葉には2つの異なる意味で使われている。事実に近いという正しさ。もう一つは正義という意味での正しさ。ここでは後者