ビデオゲームとイリンクスのほとり

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『キャサリン フルボディ』をクリアした

良かった。ゲーム部分はブロックを適切に移動させながら上へ上へと壁を登っていくパズルゲーム。パズルゲームらしく抽象度が高く、壁やブロックがその物語世界の中で何を表現しているのかが特に明示されないので、物語パートとゲームパートの分離度が非常に高い。8年前(2011年)にPS3XBOX360でリリースされた時も、そのどこかトンがったゲームの有り様が異彩を放っていた。ずっと気になっていたのだが、今回改訂版である『キャサリン フルボディ』が2019年に最新機種でリリースされて遊ぶことができたのは嬉しかった。

 

まず物語については、脚本が比較的しっかりしていて、結婚と妊娠と浮気をめぐる恋愛劇としてちゃんと楽しめるものになっている点が良かった*1。男性主人公の視点で物語は紡がれていくわけだが、どの女性キャラクターも主人公に都合がいいだけの単純な存在ではない。また親友の男たちも、微妙な屈折をそれぞれ抱えている。主人公をとりまく様々な人物との会話はとても楽しいものだった。

 

ただ、その主人公の苦しみの原因や有様というのは比較的ベタで、ドラマや漫画として表現したらとても凡庸なものには見えるだろう。また、その苦悩を表現するゲーム部分(パズル)が、この物語においてどのような位置付けなのかが若干分かりづらい。単純に考えれば「悩ましいことや人生の重大な決断から逃げ続ける男が、単に逃げるのではなく、むしろ問題に真正面から向かっていくことで初めて『生きる』ことができた物語」なのだというくらいには解釈できるだろう。しかし最後まで「逃げるパズル」であることは変わらず、ゲームと物語が両立しているという納得感は得られづらいかもしれない。

 

しかし一方で、この突拍子も無い「羊の格好をして壁を登りまくる」という設定をこの物語の中に組み込めたことは、ゲームだからこそできた表現だとも思う。この奇妙すぎる設定を映画や小説や漫画やアニメで物語の中に組み込もうとすると、かなり前衛的な表現になってしまうが*2、ゲームであれば「プレイヤーが遊ぶ部分」であることをある種の言い訳にして、このような奇妙な設定や世界観を言わば「堂々と」組み込むことができる。『キャサリン』はゲームというものの多様な表現方法の可能性を示す好例になっているのではないかと思う。

 

最後に、改訂版である『キャサリン フルボディ』で追加されたリンというキャラクターについて。このリンというキャラクターは最初からいたのではないかと思うほど、物語の中に深く組み込まれている。おそらくこのリンというキャラクターは主人公の加害性を強調するという役割を担っているように思った。元々いた2人のキャサリンに対しては、もちろん、それぞれ「浮気」という形で相手を傷つけるわけだが、それでも基本的には主人公に都合よく物語は回収されていく。その点、普通にプレイした場合、リンに対しては最後に傷つけて離れてしまうルートになるプレイヤーが多いと思われる(ただ、仲良くなるルートもある)。特にリンは最初、主人公によって助けられるというエピソードから始まる。つまりリンに対しては精神的に優位な立場に立っていることが前提で、だからこそ終盤のリンを傷つける場面が際立つ。無意識に相手(リン)を傷つける、というのは、ほとんど無理やり「浮気をさせられる」という本編の主人公の無意識と対になっているとも捉えられる。意識してなくても、意図してなくても、相手を傷つけることはあるのだという、(元々の)本編だけだとちょっとスルーされがちな部分が強調されるようで面白いと思った*3

 

色々な意味でどこか危うさを感じさせるゲームであり、逆にそこが魅力でもあるゲームであった。

 

 

*1:色々なモチーフに日本らしさが出ていたり、妊娠を告げられて男がタジタジする、というのもあまり海外のドラマや映画で見ない気がするのだけど、どうなんだろう。この作品が海外でどのような受容のされ方をしているのかは少し興味がある。

*2:アニメなら幾原邦彦的なものか。

*3:キャサリンの重要なモチーフとして「無意識」というのはあるかもしれないなと思う。そもそもゲームの主な舞台は夢であるし。牽強付会かもしれないが、同じアトラスの『ペルソナ4ゴールデン』ではラカンに言及したりもしている。

「ソシャゲがダメな理由」なんて、そんな都合のいい普遍的な理屈など存在しない

わたしは、いわゆる「ソシャゲ」が嫌いだ。「ソシャゲ」という呼び名が良いかはよくわからない。「ガチャゲー」でもいい。とにかく「あの手」のゲームが好きではない。ちょっとばかし憎んでさえいると言ってもいい。しかしこんなわたしでも、ネットを見ていて常々思うのは「ソシャゲが嫌いなこの気持ちを正当化してくれる、都合のいい理由なんか、そんな簡単にはないぞ」ということだ。

 

やれ「ソシャゲはゲームとして低レベルだ」とか「絵柄で釣ってるだけ」とか「射幸心を煽ってる」とか「商売としての倫理がなってない」とか、まあなんでもいいのだけれど、そういう批判によって、「ソシャゲ」という一つのジャンルをみんなが納得するような普遍的な理由でもって貶めることができるという幻想を早く捨てるべきだ。そういう批判はすべてソシャゲ嫌いなハードコアゲーマーの愛する「正しいゲーム」にもいつかど真ん中でブーメランとして返ってくる。まあ、返ってこようとこまいとそんな事はどうでもいい話なのだが(本稿の主旨として)。

 

僕たちソシャゲ嫌いが辛うじてできることは次のことだ。

 

自分の嫌いを追い続けること。決してゴール(最終解決)に安易にたどり着かないこと。

 

それ以外にはやれることはない。ちなみに言えば、好きな理由についても同じように安易にゴールに至ってはいかんだろうと思う。が、それはまあ別の話だ。

 

ともかく、一番手堅い方法は(ジャンルではなく)個々の作品ごとに批判することだろう。それは多分最も正しい姿勢だと思う。しかしまあ、なかなかそれは難しい。だいたい嫌いなゲームをまじめに批判するまでやり込むのは、なんというか、それはそれで不健康な行為だ。そうなると普通は「分からないなら黙っておく」が正しいわけだが、これはこれでストレスも溜まる。適切に沈黙できる立派な人間ばかりではないし、わたし自身もそういうことが上手くできない。そこまで理解した上で、ではどうしても何かを表現したいならば、どうしたらいいのだろう。

 

それはもう素朴に「嫌いである」ことの無根拠さから逃げることなく、「嫌いである」と語るのが良いだろう。嫌いであることの理由や根拠。これが曲者だ。理由や根拠を述べるなということではない。その理由や根拠によって「わたしの『嫌い』が正しいものになる」と考えないようにすべきだということだ。だいたい、いかにソシャゲが駄目であるかを合理的に説明できると思うのは、ある意味「逃げ」である。自分のこの嫌いな感情を客観的に権威づけ、「他人任せ」にし、主観的であることから「逃げ」ようとするからである。「嫌い」は数学の公式のように無人称的に成立するものではない。わたしやあなたや誰かが「嫌う」からこそ、初めて生じるものだ。

 

しかし、理由なく何かを嫌うのは難しい。だから、たとえボロボロの論理でもソシャゲが駄目な理屈があると飛びつきたくなる気持ちは理解できる。しかしそういう中途半端な理由付けは、自分を縛ることになる。なぜならいつかあなたもわたしもソシャゲが好きになるかもしれないからだ。「おれは絶対にソシャゲなど好きにならない」そう思うのは自由だ。しかし、「今は嫌いだけど、もしかしたら好きなることもないわけではないかもしれない」そう想像するのが、ゲーム好きのサガではないか。色んなスマホゲームに裏切られてきた過去が実はどんなソシャゲ嫌いゲーマーにもあるのではないか。むしろスマホにも期待していたかつての自分の方が「ソシャゲ嫌い」に凝り固まる今の自分より、遥かに懐が広かったのかもしれない。人間は変わりうると想像することは絶対に損ではない。「変われ」と言うのではない。かもしれない、で十分だ。

 

仮にソシャゲのある特定の性質が嫌いな理由になるのだとしよう。しかしその性質を持ったあらゆるゲームを嫌う自信があなたにはあるのか。もし「ある!」と自信を持って言えるのならば、端的にあなたは勉強不足なのかもしれない。どんな趣味であっても、多数の作品に触れていると「なんで、おれはこの作品のことが嫌いになれないんだ?あんなに嫌いな要素があるのに!」と思うことがある。そういう自分の中の「他者」を発見したことが一度でもあるのならば、嫌っていい理由に簡単に安住してはいけない。少なくとも、普遍的にみんなが嫌うべき規範的な理由があるのだと思ってはいけない。

 

あなたの「嫌い」の根源的な理由づけは存在しない。しかしである。理由がなくても、あなたがソシャゲが嫌いだということは最大限に尊重されるべきだ。理由がなかったら嫌ってはいけないなどという法はない。嫌っていいのだ。わたしも嫌いだ。その理由を追求するのも良い。しかし簡単にネットに転がっている、Googleで検索したらすぐに出てくるような脆弱な理由付けに満足してはいけない。無根拠であることを、怯える必要はない。嫌いなものは嫌いでいい。堂々と「根拠はないが嫌いである」と言えばいい。

 

根拠なく嫌うことは傲慢にも見えるかもしれない。いやそれは傲慢である。しかし傲慢で良いのだ。だって趣味なのだから。中途半端な理由付けで自分の嫌いを正当化*1するより、よほど「正しい」と思わないだろうか。

 

 

 

*1:当たり前のことなので、強調するのも野暮かもしれないが、自分の「嫌い」を分析することにはとても意味があると思う。正当化というのが何を指すのかは明示していないが、「『嫌うべき』というニュアンスを帯びる」ぐらいの意味で本稿では使っている

『マーベル アルティメット アライアンス3』は素晴らしい作品だ

ニンテンドースイッチで2019年の7月19日に発売された『マーベル アルティメット アライアンス 3(Marvel Ultimate Alliance 3)』は素晴らしい作品だ。確かにマーベル作品をある程度知っていることが、この作品を楽しむ前提になるところはあるだろう。しかしわたし自身はそれほど原作のマーベル作品を知らないし、マーベル映画を好きでもない。そんな自分にとって、この『マーベル アルティメット アライアンス 3(以下MUA3)』がとてもステキな作品であったことが意外でもあり、嬉しいことでもあったので、それを伝えたいと思う。

 

本作MUA3は、かつて2006年に発売されたゲームの3作目に当たる。しかしそうした過去のゲームとの繋がりはあまり気にしなくても良いように思う。どちらかと言えばマーベル映画(特に最近のMCU作品)に馴染みがある方が、本作を楽しめるだろう。

 

ただ、わたしはMCU作品を7割程度は見ているが、マーベル映画を知っているというには中途半端な知識しかない。その上、特にルッソ兄弟の映画が好きではない。逆に好きなMCU作品は『ガーディアンズ オブ ザ ギャラクシー』と『キャプテン アメリカ : ファースト アベンジャー』。ルッソ監督作品に見られる「悩める人間としてのヒーロー」という描き方が、そのテーマを描くには底が浅いと普段から思っている。

 

MUA3は、そんなわたしだからこそ、素晴らしいと感じられる作品だったように思う。

 

無双ではない

本作は発売される前から「マーベル無双」とネット上では呼ばれていた。確かに開発はTeam Ninja であるためコーエーテクモの存在を想起させるし*1、PVでも多くのコピペ的な敵キャラをなぎ倒す作品に見えたため、そのような呼ばれ方をされたのだろう。しかし実際にプレイした感覚としてはかなり無双シリーズと異なる*2。まず第一に、敵の数は無双より全然少ない。一対多の戦いになる点では無双と同じだが、無双より敵は攻撃に積極的で、自キャラへのダメージは重い。総じて一対一の戦いの感覚に近く、敵の動きを見ながらこちらのコンボ攻撃をどこで止めるか、そしていつ回避行動を挟むかを考える必要がある。ただ『ニンジャガイデン』シリーズほどシビアさと工夫と複雑な操作が必要なわけではない。かなりそこはカジュアルである。

 

一見大味だが工夫しがいのある戦闘

では、MUA3の戦闘は面白いのだろうか。まだストーリーモードをノーマル難易度(MIGHTY)でクリアした程度だが、意外にもまだ工夫のしどころを新たに気がつくことがあり、思ったよりも単純ではないという印象である。戦闘は工夫の仕方が分かってくると非常に楽しい。本作にはレベル制が取り入れられているため、最終的にはレベルを上げてしまえば全て解決できてしまうという面がなくはないが、レベルが推奨値より低くてもスキル次第でなんとかクリアできる局面が多々ある。逆に、推奨レベルを満たしていても、ある程度のスキルと戦術を理解していないと全くクリアできないケースは多い。中でもINFINITYモードという特殊な条件下でお題を達成するモードでは、必殺技やシナジーと呼ばれる連携技の使い方を理解できていないとクリアは難しい。この戦闘システムを奥深いと言っていいかは若干悩むが、それでもただパンチを連打するだけのゲームではないことは確かである。海外レビューでも無双に言及するよりもMMORPGなどに似ているとの指摘が多い。これはオーバートップな画面視点もさることながら、スキル技をどのタイミングで出すか、どの順番で出すかがキモになってくるところも指しているように思う。実際、技の出すべきタイミングまで敵の攻撃をなんとか捌ききり、その後に大技を適切な順番で出して大ダメージを与えるというサイクルにはなかなかの快感がある。

 

ムービーパートが素晴らしい

MUA3のストーリーは単純で、悪い奴を良い奴が倒すという話でしかない。アメコミにありがちな悪い奴が仲間になる流れも特にヒネリも説明もなく、いきなり仲間になるパターンが多い。これを子供っぽいと表現することもできるが、むしろ、わたしは作品のこのやり方がなかなか「分かってるな」という印象を受けた。ムービーパートはほとんど『スマブラ』の参戦ムービーの連続のようでもあり、実に美味しい部分を凝縮した見応えのあるものになっている。このムービーパートの見応えは、結構歯応えのあるゲームパートとセットとなることで、良い感じにデザートのような役割を果たしている。また脚本について言うと、例えばロキの支離滅裂な行動を「なんなんだ?」とツッコミを入れるなど、妙に冷静な面もあったりするが、とにかくストーリーの理屈や構造をほとんど説明しない。この点については、最近のMCU映画作品群の「説明や理由づけや伏線回収しよう」という姿勢に対するアンチテーゼではないかという穿った見方をしたくなる。とにかく特殊な能力を持ってるから特殊なのだ、悪い奴だから悪いのだ、破壊したいから破壊するのだ、みんなを守るから守るのだ、というトートロジーしかMUA3は語らない。多種多様な奇妙な格好をしたスーパーヒーローたちが一堂に会して正義をなすという意味不明さを意味不明なまま表現するという潔さがこの作品にはある。くだくだと説明することのある種の「バカっぽさから逃げる卑怯さ」を告発しているようでもあり、コミック作品が本来持っていた粗野と粋があると感じた。

 

総じての評価

本作はメタスコアで73点(2019.7.27現在)という微妙な評価がされている。しかしわたしとしては85点くらいはあげていい作品だと感じている。40人近い登場キャラクターをある程度キャラ分けし、また戦闘での役割も違いを付けつつ、ここまでまとめきっているところなど、仕事としての完成度は非常に高い。ステージの構成やスタイルはいかにも古臭さはあるものの、ステージやボス戦ごとにギミックをちゃんと施して違いを出そうとしている点は意外に丁寧な作りである。成長要素などは凡庸でありつつも分かりやすくちゃんと機能している。唯一、(まだ十分にやってないが)ハクスラ的要素には浅さを感じる。なかなかアメコミの各キャラの濃さに合わせて作り込むことは難しかったのかもしれない。とは言え、ISO-8(鉱石)を集めるだけではさすがにハクスラとしてのモチベーションを保つのは難しいと思う。

 

本作はアメコミ原作準拠という「言い訳」によって、良い意味で「保守反動性」みたいなものをエンタメに綺麗に昇華できている。例えばサイロック(日本の女忍者の体を持つキャラ)の分かりやすいセクシーさは際立っていて、ここまで素朴なセクシーさを描くことは最近のディズニーではできないだろうと思われる*3。そのこと自体は別にわたしとしては良いと思うのだが、ゲームという媒体の社会的地位というか文化的地位が、原作が持っていたであろう粗野さを復活させる下地として機能しているようにも見えて、そこは面白い。一方で、サイロックのような素朴で保守的なセクシーさが大量に溢れてしまうような、半ば露悪的なノリがなく、本作には適切な「節度」の意識が感じられる。とにかくやりすぎない「ちょうど良い感じ」が、本作の達成であり、魅力である。古臭いアクションゲームだと、ただ捨て置くには惜しい、粗野な魅力と節度と意外に遊べるゲームシステムを兼ね備えた良作であると思う。

 

*1:エンドクレジットには少なくとも無双シリーズの開発をしているオメガフォースの名前は出てこない

*2:なお、わたしは最新作の『真・三國無双8』は未プレイであるため、『真・三國無双7』までの作品をイメージしていると思って欲しい

*3:原作準拠でもあるのだろうが、ガモーラの描かれ方もそう感じる