ビデオゲームとイリンクスのほとり

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話題のジグソーパズル『The Sunny City』が良かった(感想)ネタバレなし

YouTubeなどで話題になったジグソーパズル『The Sunny City』。今回、最後まで遊んでみたので、その簡単な感想を書いてみたい。しかしネタバレはできる限りしたくない。普段、映画でもビデオゲームでも、ネタバレに対して私自身は結構ユルい。ゲームのレビューなど書いていても、いつもはネタバレありという前提で書いている。しかしこの作品についてはネタバレはしたくないので、ネタバレなしで感想を書こうと思う。

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購入について

日本のAmazonでは現在(2021年11月時点)のところ8000円強の値段で売っている。元の定価は20ドルなので、そのまま購入するのはやや割高だろう。私はアメリカのAmazonで購入した。送料が2000円ほど掛かったので、結局は約4000円になった。米国Amazonのアカウント作成やクレジットカード登録に抵抗がなければ、その方が良いだろう。なお注文してから1週間ほどで日本の自宅に届いた。

ジグソーパズルとしての楽しさ

本作に興味をもった人の多くは「何か仕掛けがあるらしい」という話を聞いて、この作品に興味を持ったのではないかと思う。確かにその仕掛けを私はとても素晴らしいと思った。しかし、そもそも作成するジグソーパズル自体も結構楽しい作品であった点が、本作の素晴らしさに大きく貢献していると考える。

例えば、本作には変わった形のピースが大量にある。それ自体は他のジグソーパズルでもあることだが、その特殊なピースによって難易度が向上している点が面白い。というのも、ジグソーパズルのセオリーとして「まずは外枠を作る」というのがある。つまり一辺が直線となっているピースはそれだけでかなり大きなヒントになるということだ。しかし本作には変わった形のピースが大量にあることで、そうしたセオリーが単純には進まない。そのことで、遊び始めの最初の段階での難易度が高くなっている。しかし、これは本作の「展開の良さ」にかなり貢献していると考えられる。というのも、この作品の絵柄はかなり細かい描き込みがされていることもあり、決して難しい作品ではないからだ。細かい描き込みがあることで、外枠作成後の内側のピースを嵌めていく作業はかなり多くのヒントが与えられ、そして進捗が強く感じられる。つまり序盤の難易度が一般的なジグソーパズルより高められていることによって、中盤以降の進行のサクサク感がより高められている。そのため、ジグソーパズルにしては相対的に「遊びの展開の起伏」が強く感じられる作品ではないかと考える。

しかし、決して中盤も楽なだけではない。なぜなら、同じような柄の屋根や窓など、繰り返し別の場所に描かれる似たモチーフが多くあるからだ。そのため、決して難しすぎるわけではないけれど、完成図を見ながら試行錯誤しなければならないという、程良い難易度と達成感が感じられるようになっている。

そして円形の花タイプの特殊ピースが良い仕事をしている。

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このピースは誰が見ても特別なので、おそらく多くの人はそのピースの周りが完成した後に、その花ピースだけを「厳かに」嵌めるのではないだろうか。そのピースを嵌めることで、このエリアは制覇したぞ、という一つのメルクマールになるようになっている。どうしても単調になりがちなジグソーパズルというゲームに、ささやかではあるが起伏を与えてくれる効果をもたらしている。

そんなわけで、本作はとてもジグソーパズルの作成自体が楽しい作品であった。1000ピースというと結構歯応えのある難易度のジグソーパズルだと思うが、ぜひこの苦労と達成感を複数人で味わってほしいと思う。2人でも遊べるように完成図のポスターが丁寧にも2枚同梱されている点もニクい。

最後の仕掛けに至る演出の良さ

本レビューは当然ながらネタバレはしない方針であるので、その仕掛けを体験した私自身が感じた「感触のようなもの」を伝えたいと思う。

ジグソーパズルが完成して、それまで開けてはいけないと言われていた封筒を開ける時間というのはなんとも楽しかった。これは是非、複数人で味わってほしい。この作品が家族向け(友人同士でもOk)であると個人的に思うのは、この仕掛けを知る過程がとてもニクい演出に満ちているからだ。まずなにより封筒に書いてあるテキストが良い。いかにももったいぶっていて、凄いものが待ってるんだぞ、ということを匂わせてくる。かなり「溜めて」くるのだ。これは実際に味わってほしいのだが、少しだけ「焦らし」てくる感じだ。かなり大変なパズルを完成させた人間にとって、この「焦らし」がいい具合に快感として感じられる。というのも、ジグソーパズルの作成自体は結構辛さがあり、疲労感もあるのだが、そこから解放された後というのは、疲労の反面、なんとも言えない寂しさがあるものだからだ。「もう終わってしまったんだ」という寂しさ。しかし、この仕掛けを開示するプロセスは、その「焦らし」の効果によって、遊び手が感じている寂しさをわずかに先延ばしにしてくれる。つまり終わったんだけど、まだ終わっていない。その余韻に浸らせてくれるという贅沢さを提供してくれている点が素晴らしい。そして2人以上でそれを味わうことがとても楽しい。

勘のいい人はもしかしたらこの仕掛けに途中で気づいてしまうかもしれない。しかし鈍い私などは最後まで気づくことができず、結構マジで「おおー!」と感激してしまった。しかしその仕掛けというのは決して飛び道具ではない。これまたいい感じに、しとやかにあるべき場所に着地する仕掛けだ。この仕掛けの上品さが嬉しい。それは決して派手な魔法ではない。手元の中にずっとあったのに、それと気がつかなかった大切なものを再び見せられたような、そんな仕掛けだった。その仕掛けを味わう間の時間は正にボーナスタイム。ジグソーパズルでしかできない報酬であり、喜びであったのではないかと思う。「そんなご大層な仕掛けではないでしょ?」と鋭い知性の持ち主は言うかもしれない。確かにそれは正しく、適切な評価でもあるだろう。しかし、あの大きなジグソーパズルを完成した人にはきっと分かるはずだ。その仕掛けに包まれている瞬間がとても豊かな時間であったことを。その豊かさを味わうのに、4000円は決して高くはなかった。ジグソーパズルという古くさい遊びが、そのアナログさが、その緩やかな時間の進みが、スマホを置いて普段の早すぎる時間の流れを一時的にストップさせてくれる。それはとても今っぽい贅沢さではないだろうか。

名作『テイルズ・オブ・アライズ』は、「もう一度、厨二で良いんだ」と思わせてくれる作品

2021年9月。テイルズシリーズ25周年記念作品として、『テイルズ・オブ・アライズ』がリリースされた。海外レビューの点数の高さ(メタスコア87)に驚いた人も多いと思うが、クリアまでプレイしてみて非常にその評判の良さについても納得した。

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本作はバトルシステムが楽しくできているという点やフェイシャルCGや背景美術の質の高さなど、様々な素晴らしい美点があるが、個人的には脚本の丁寧さがとても印象に残った。本作のシナリオを担当したのは奥田孝明氏*1と平岡鉄太郎氏の両名だが、今後の作品についても期待したいと感じた。脚本と言っても決してストーリーのプロットが凝っているとか、伏線回収が見事だとか、世界設定がオリジナリティに富んでいるという事ではない。本作が最も素晴らしいと思ったのは、物語の主題(テーマ)に対してとても真面目にその問題を書こうとしている姿勢である。本作は奴隷からの解放というやや重めの物語を描いている。ゲームやアニメではよくありがちなテーマだが、多くの作品で単なる舞台設定でしかないという、浅はかになりがちな難しいテーマでもある。そうした不安は、プレイをする前ではかなりあった。しかしクリアまで遊んだ今、本作はそのテーマに決して恥じることのない、(あえて言うが)大人の鑑賞に耐える物語となっていた。

海外レビューで言われるJRPGの浅薄さ

本作が海外でも高い評価がされたのはJRPGの持つ幼稚なイメージを丁寧に覆した点にあるだろう。本作に満点(星5つ)を付けたニュージーランドのSHIDINGというゲームサイトでは本作のレビューで次のように言う。(以下、引用部分の太字は筆者)

抑圧的な帝国体制への反乱蜂起というのは、JRPGの定番である。奴隷による抵抗や地下抵抗組織の活動というのは、神々と戦ったり記憶喪失のツンツン頭のヒーローと同様、このジャンルに馴染みのものだが、これらの要素について、主題として掘り下げているゲームというのは少ない。

Review: Tales of Arise (PS5) - a JRPG thesis on oppression and liberation

ここでイメージされているゲームは『FF7』のようなゲームだろう。JRPGは帝国や体制への反抗というテーマを描きながらも、多く作品で深くそのテーマを描けていなかったとされている。

また、同じく満点(星5つ)を付けたDigitally Downloadedというサイトでは革命というテーマの難しさについて次のように書いている。

革命というのは常に正当な理由 --抑圧からの奮起--によって引き起こされるものだが、革命の後にやってくるものが良き結果であるとは限らない(良き結果であるかどうかも、その人のあらゆるものに対する価値観による)。大衆的なエンターテイメントは革命を主題として扱うが、多くの場合、単純に自由のための戦いにだけ焦点を当てている。そこに至るまでの個人的、文化的、政治的な緊張に触れているものは少ない。

Digitally Downloaded: Review: Tales of Arise (Sony PlayStation 5)

娯楽作品で革命を扱うことは多くても、どうしても単純にしか扱えていない。こうした問題は、特にゲーム作品ではよく見られることだろう。戦うということ自体がゲームという形式に合っているという事情があり、その副作用として、どうしても革命後の問題を描くのは不得手となる。

また『テイルズ・オブ・アライズ』は、権力体制への反抗というだけでなく、男女(ジェンダー)の問題などにもかなり配慮したセリフが出てきている。本作に95点(Excellent)を付けたGaming Trendというサイトでは

これまでのテイルズシリーズで悲しいことに蔓延していたジェンダー本質主義(女性はこう、男性はこうだ、など)

Tales of Arise Review — Get Up Stand Up – GAMING TREND

と書いているが、このようなイメージをこれまでのテイルズやJRPGには抱いていた人も多かったと思われる。しかし、本作ではかなり男女の役割を固定しないように表現することに配慮がなされている。決して徹底したレベルでそのようにできているわけではないが*2、そうした考えを自覚している事を感じさせるセリフが多く存在している。これは『FF7』や『ゼノブレイド2』や過去のテイルズシリーズと比べても、かなり自覚的であると言える。

 

個人の悪ではなく、社会構造や制度に潜む悪

具体的に『テイルズ・オブ・アライズ』では、どのようなセリフが出てくるかを見てみよう。

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「痛みを受けた者に忘れろとは言えない  ……簡単に答えを出せる話ではないな」

上記のセリフは、主人公たちの戦いが終わった後のことを予期するようなセリフである。海外レビューでも言及されていたが、本作は主人公たちがラスボスを倒し、支配体制を打倒した後の世界をどうするか?という話題が頻繁に出てくる。単に悪い奴を倒せば平和が訪れるということはない。支配されていたことの恨みをそれほど簡単に誰もが許したりできるわけではない。これはある意味、とても当たり前の話のようにも聞こえるが、実はゲームの物語としては難しさを孕んでいる。なぜなら苦労して強敵をせっかくプレイヤーが倒したとしても、幸せになれるとは限らないと言っているのも同然だからだ。

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↑「……哀れんで赦す。まさしく強者の所業よ!」

そして上記はラスボスのセリフである。赦すことさえ、それは強いからできるのではないか?これまでのRPGの主人公たちの世界を救うという行為の傲慢さを示しているとも言えるだろう。しかし、こうしたセリフを見ていると、リベラルというか、それこそJRPGに良く見られるポストモダン的な善悪の相対化(悪い奴にも事情がある)ではないかとも思える。しかし本作は「悪いことは簡単に許されるわけではない」し、「非難されるべきだ」という極めて現代的なツッコミがしつこいくらいにされる。

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↑「そして糾弾する権利は常に傷を受けた側のものだ。傷を与えた側の事情は関係ない」

上記のセリフは、奴隷を支配していた支配者側のキャラクターが語るセリフである。このキャラクターは反省して、最終的に主人公たちに協力し、奴隷解放のために戦うとてもJRPGらしいキャラクターである。しかし、そのキャラクター自身によって、「良い支配や抑圧などというものはない。どんな理由があれ傷を与えることなど許されない」という主張をさせる。これは非常に昨今の差別に関わる社会運動を意識したセリフだと考えられる。*3 このキャラクターも改心したから、単純に良い奴になるわけではない。この後にも「私を無理やり善人扱いしてはいけない」という旨の発言によりプレイヤーを牽制する。

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↑「しかし……。これは仕える主君の問題なのか?それとも忠節それ自体が間違っているのだろうか?」

そして、上記のセリフは中世的な世界設定を持ちがちなJRPGとしては、かなり踏み込んだセリフだと言えるだろう。多くのJRPGでは、素朴に忠節や忠義を美しいものとして描いている。また、別の場面では世界を救うためにヒロインのシオンが自死を選ぼうとするが、その自己犠牲は明確に主人公アルフェンによって否定される。本作は、忠義や自己犠牲というこれまで散々JRPGが使ってきた感動のための便利な概念に疑問を呈している。これは同シリーズの過去作『テイルズ・オブ・ヴェスペリア』(2008)で、ドン・ホワイトホースという義侠心に厚い男が、掟を重んじるために自死を選ぶというシーンが、かなりドラマティックなイベントとして用意されていたことと対比をなす*4。つまり、忠義や自己犠牲を尊ぶような社会制度の中で、本当の意味で奴隷が解放されたと言えるのだろうか?という実に真正面なリベラル的思考に触れている。

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↑「なのに、ここのダナ人は喜んで働いている…… ここに壊すべき壁はあるのか?」

そして、悪というのが単に1人の意思や個人の意思で作られているものではなく、制度や仕組みなど社会構造の歪みによっているということにも触れている。奴隷でも自主的に喜んで奴隷をしているなら、それで良いのだろうか?と上記では迷いが示されているが、最終的にそれは「良くない」とされる。本作には「幸福な奴隷はいない」という考えが一つの芯として貫かれている。こうした考えは、これまでJRPGが素朴に肯定してきた価値観に疑問を挟み、構造全体を変えなければ、本当の意味での奴隷の解放はない、という結論に至る。そしてその社会構造は、ラスボスの一つ手前のボスである『星霊』という敵が象徴することになる。

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↑「星霊、お前が生きたいという思い、それは誰にも否定できない。だがそのために俺たちに滅べというなら、俺たちはお前と戦う!」

『星霊』に悪意はないし、特定の思想やイデオロギーを主張したりはしない。それは正に「制度」であり、その制度は自身がシンプルに存続していくことを求める。特定の個人の思想によって悪がもたらされているのではない。それゆえ、この「制度」は極めて「シンプルな悪」になっている。「悪をシンプルに描いてしまっては深みがない。悪者にも悪者の事情があるのでは?」というのは、これまでの数多くのJRPGが囚われてきたドグマだったと言える。しかしこうした今までのJRPG的な考え方こそ、実は非現実的で、それこそ子供っぽいファンタジーなのかもしれない。こうした現代的な気づきが『テイルズ・オブ・アライズ』には明確にある。

ポリコレだと言われない「巧み」さ

これまでに見たように、今回の『テイルズ・オブ・アライズ』はかなりリベラル的な考えを前提にした作品になっている。しかし本作に対してゲーム作品にありがちな「ポリコレに配慮しすぎ!」というような批判はほとんど出てきていない。もちろん「この世界観にしてはリベラルすぎるだろww」というようなコメントもあるにはある*5が、それでもかなり少ない。そもそもポリコレだからと言って何が悪いのか?という議論をすると(極めて本質的な議論ではあるが)、本稿の主旨から外れてしまうのでそこには踏み込まない。ただ、少なくとも、ある種の「巧みさ」でもって、「政治的!」と言われないような作品になっている点については、非常に面白い達成をしている作品だと言える。

本作の海外レビューを読んでいると、本作が「伝統的なJRPG的スタイル」を維持している事を称賛している記述がよく見られる。10点満点を付けたGOD IS A GEEKでは次のように書いている。

そのルーツやファンの愛するものへのリスペクトに満ち、かつ、現代的なゲーム業界における品質と楽しい体験をもたらすものを有している

Tales of Arise review | GodisaGeek.com

本作が旧来的な厨二的モチーフを持ちつつ現代化したことを、賛美する気持ちはよく分かる。ややもすると、JRPG的である事、日本のアニメ的である事自体が、どこか反現代的で反ポリコレ的であることのように思われかねない中で、JRPGであっても「普通に」リベラルであり、かつそれが殊更リベラル過ぎるとは感じられないように作る事が可能であることを『テイルズ・オブ・アライズ』は証明した。

こうした達成はどのように成し遂げられたのだろうか。海外のレビューを読んでいると度々、本作に対して"nuance(d)"という表現が出てくる。日本語のニュアンスとほぼ同じ意味であるのだが、おそらく本作が「何か大きな違いとして目立っているわけではなく、ささやかな違い」でもって作品を作り上げている点を示していると思われる。つまり、本作は声高にリベラルな価値観を称揚するわけではないが、普通の声量で、ほとんど当たり前のこととして、リベラルな価値観が表現されている。そのため、本作がいくらリベラルと言っても「え、その程度なの?」という批判は十分にありえるだろうし、実際にGame Spotというゲームメディア(メジャーなゲームメディアでは最も低い70点を付けた)では次のようにも言っている。*6

虐待と抑圧された人々の解放というのは、取り組むには挑戦的で先進的な主題である。そして概して『テイルズ・オブ・アライズ』はその材料を上手く取り扱っている。しかし、時に、物語が提示する困難な倫理的問題に対して表面的なレベルまでしか掘り下げられなかった点があったことについては期待外れだった

Tales Of Arise Review -- Wake Me Up Inside - GameSpot

『テイルズ・オブ・アライズ』という作品がこうした抑圧や搾取や差別と言った問題に対して、画期的な視点を何か提案できたとは私も思わない。「他人を許そう、他人との違いを認め合おう」という程度の教訓で留まっていることは確かである。しかしそれでも良くも悪くもJRPGの代表のように思われていたテイルズが、ここまでの表現を達成したことについては、大きな意義を感じる。多くのクリエイターに「このくらいは政治的であって良いんだ」という勇気を与える部分は大きいのではないだろうか*7。そしてシリーズ最速で100万本を売り上げたことで、この方向性は「世界で受け入れられるポリティカル表現とは何なのか?」ということをマーケティング的にも模範的に示す例になったのではないだろうか。本作の海外レビューの多くはある種のこうした達成への「ご祝儀」的な側面があるかもしれない。今後はもしかしたら、この程度の表現では、例えJRPGであっても「当たり前でしょ」と捉えられるかもしれない。そのような意味でも、本作というのは日本のゲームにおける一つの時代の節目を示す重要な作品になるだろう。一方で、本作が受け入れられたのは、単に作品が巧妙であったからというだけではないだろう。時にJRPGファンはオルトライト的な価値観を持つとイメージされがちであるが、むしろほとんどのJRPGファンは素朴に現代的なリベラル的価値観を既に内面化して受け入れている、ということを示しているように思う。そして、このような作品が商品となって多くのファンから高評価を受けることは、JRPGを愛するファンにとって、まだまだ厨二であっても良いのだと希望を与えてくれた作品になっているのではないだろうか。

 

*1:奥田氏は『7~モールモースの騎兵隊』シナリオや『テイルズ・オブ・ヴェスペリア』のディレクターの一人でもある。また『TOV』のノベライズも担当している。参考URL→ テイルズ オブ ヴェスペリア 公式ブログ

*2:追記2021.12.30 特に今作にもある温泉イベントについては、普通に批判があるだろうと想像する

*3:差別問題がテーマとなった『テイルズ・オブ・リバース』(2004)という作品があり、中でもピーチパイ演説と呼ばれるスピーチが名演説と言われる。「あなたの(ピーチパイを)美味しいと感じる心に、種族はありますか?」という演説だが、食文化の多様性と種族的なアイデンティティとの繋がりを全く無視した物言いでもあるだろう。『アライズ』では各個人の食の好みはバラバラであるというエピソードが出てくるが、こちらの方がよほど多様なあり方を承認している。素朴に「心は同じ」と唱えてしまう『リバース』の方が傲慢であるとも言えるだろう。

*4:自己犠牲ということであれば『テイルズ・オブ・ベルセリア』(2016)の感動シーンとして名が挙がるライフィセットのベルベット説得シーンがあるだろう。しかし、『アライズ』におけるシオンの自己犠牲を否認するアルフェンに比べると、『ベルセリア』の当該説得シーン(腕ぐらい食べていいよ)はとても素朴な「感動的」シーンだと感じられる。

*5:【TOARISE】ジルファは奴隷層の出身なのにリベラルな思想持ってるよなwww: まちまちゲーム速報

*6:なお、本作に対するリベラル的な批判として、異性愛恋愛をノーマルなもの・当然であることのように描き過ぎ、というのはあるかも知れない。6人いる操作キャラ全てが、男女でカップリングするように設定されている。ここまで素朴であるのは、最近のゲームとしては珍しいと言える。なにより、ラストのハッピーエンドを結婚(と思われる)イベントによって締めるというのもかなり素朴な描き方だろう。

*7:リベラルであることが政治的であるのか!というリベラル諸氏の文句は当然あるものと思うが、ここではそういう事が言いたいわけではない。

『eスポーツのナラデハを考える』を読んでの感想

ゲーム研究の松永伸司さんが以下の面白い論考を書かれていたので読み耽ってしまった。本当に面白い。

eスポーツのナラデハを考える

この論考は"eスポーツが他のスポーツ競技や将棋などの競技と比較して、独特に持ちうる特徴ってなんだろう?"という話だ。すごく当たり前の話のようでいて、みんなで共有化することで色々と不毛な議論を回避できそうな話題だ。例えば、僕たちが「eスポーツ」と聞いて「なんで"スポーツ"と言うのか?」と思う時というのは、実はこの周辺(あくまで周辺でしかないが)のことが気になりつつ問うている。フェンシングでは試合の判定において電気審判器を使っているからと言って、誰も現代のフェンシング競技を「eスポーツ」とは呼ばない。eスポーツはマインドスポーツ(麻雀やチェスなど)と近いような気もするけれど、ちょっと違うとも感じている。その辺りの不思議さが整理されていくのは大変面白い。特に議論の最初で明言されている「定義論がしたいわけじゃない」というのも重要だ。避けたい話題が何かというのは、実はかなり(わたしにとっても)難しい議論のルールなのだけど、正にこういう定義論とは少し距離を置いた話が聞きたかった。特に、私自身、eスポーツに全く興味がないゲーマーとして逆にちゃんと聞いてみたいと思っていたテーマだった。

気になったこと

この論考ではeスポーツのナラデハ特徴として以下の4点が候補として挙げられている。

  1. 「技」の内実が独特。
  2. フィクションの側面が相対的に強い。
  3. ルールの現実化の仕方が独特。
  4. 競技種目(プレイされるタイトル)が相対的に流動的。

これらについて、以下の2つの点が気になった。

1点目は、単に「分からなかった」と言うことなのだが、フィクションの面の強さの例として、なぜウメハラの背水の逆転劇が挙げられているのか、ちょっと分からなかった。この試合の凄さというのは、本当にルール的で、ゲームのシステムやルールを理解していないと、正直何が凄いのか全く分からないような気がする。単純に言って「ルールを知らない人が『すごい』という感想になるかな?」と思ってしまう。屈強な男であるケンが、(かなり逞しいとは言え)女性の春麗を殴り倒す様を見て「かわいそう、酷い」という感想が生まれる、と言う例であれば、確かにフィクションの側面の強さを意味しているような気はする。しかしそれは競技としての楽しみとは無関係であるようにも思うので、そうした例として考えるのはこの論の主旨と異なるだろう(松永氏の論はそういう例として出していないと思われる)。逆に言うとゲームの場合、男女混合で闘っても違和感がない、というのはフィクションとして「そのまま」フィクションとして見ていないからじゃないかという気もする。ある種のフラットな記号としてキャラクターを見ているから見れる、ように思う。しかし、ゲーム的世界観のフィクションとして見ているからこそ、その男女混合で対等に闘うことの違和感を感じてないのだ、という可能性も確かにあるのかもしれない。うーん、どうなんだろう。それはそうなのかもしれない。なお、ルールをよく知っている人が「フィクション込みでドラマを見いだす」というのは、もちろんあると思う。ただルールを知っていればいるほどその(フィクション込みで見いだす)割合は減りそうな気もする。

直感的に思うのは、いわゆる普通の肉体を使うスポーツって、びっくりするくらい分かりやすいという感覚がある。私はラグビーのルールを全く知らないのだが、高校生の時にテレビでラグビーの試合を見て単純に「面白いなこれ」と思ってしまった。なんというか人間の肉体が躍動感溢れて動いている様というのは「それだけで面白い」。その点、ビデオゲーム競技というのはびっくりするくらい分からない。フィクションとしてまあ「見れる」のだけど、「だから何?」というか、かなりそうした冷めた感想を(そのゲームを知らないと)抱いてしまう。長々とここで述べていることは、ルールを知らない人の感想から「フィクションの側面が強い」ということを表現することに上手く腹落ちしない感じがする、というだけのことかもしれない(なまじゲームを知ってるだけに)。ここでは肉体を鍛えた屈強な2人が素手で殴り合う戦いをフィクションとして見ても「それはそれですごいと思う場面でしょ」ということかもしれないが、うーん、松永氏が言うことが上手く理解できていない。ただルールを知っている人が単にそのルールを超えてフィクション的側面から、その試合に独特の感慨を抱く、というのはとても想像しやすいところはあるので、その方向からでは「フィクションの側面が強い」というのは理解できる。

2点目は、これは松永氏自身が言っていることだが、「流動的」というのをナラデハ特徴として挙げることの違和感だ。正に偶然的に(相対的に現状)そうであるだけのようにやはり思えてしまう。もちろん流動的であることはナラデハ特徴なのかもしれないが、そうであるならその事自体がビデオゲーム競技に本質的に関わる何か別のピース(概念)が欲しくなってしまう。また、私などは次のようにも考えてしまう。格闘ゲーマーがタイトルは変われど、やはり格闘ゲームというジャンルの中で様々なゲームでその技能を見せ続けているのであれば、それこそ、タイトルの変更はある特定のスポーツのルール変更やレギュレーションの違いのようなものとして考えれば良いのではないかと思う(この点は松永氏の論考でも示唆されることだが)。スト4とスト5は同じ競技のルール変更に過ぎない、また、ストリートファイターギルティギアもまた、平泳ぎと背泳ぎの違いくらいのもんじゃないかという風に見ては駄目なんだろうか。これは格闘ゲームにもスポーツにも全く愛のない私だからこその発想かもしれない。とは言え、現実的にビデオゲーム競技は流動的ではあるし、そのこと自体はその通りだ。実際数年で平泳ぎは廃れてしまって今は競技人口がいないんですよ、とか、新しい泳法の種目が数年に一回生まれる、なんて事は普通のスポーツでは起こっていないわけで、そこには確かに何かゲームという形式に特有の理由があるのかもしれない。ただ、あるとしてもそれは商品ビジネスとしての要因が強そうに思えてしまって、それをナラデハ特徴というのはどうしても抵抗がある。ただ私の感じている違和感を上手く表現できていない気がして、もどかしい(別に商品ビジネスとしての特徴がeスポーツというジャンルのナラデハ特徴として「伝播」してても良いので、あまり上手く「ナラデハ特徴でない」と言えてないことにもどかしさを感じる)。

以上のような点を考えると私としては候補に挙げられた4つの特徴は以下のように思える。

  • 1(技の内実)と3(ルールの現実化)はビデオゲーム競技のナラデハ特徴だ。
  • 2(フィクションの側面)は確かにナラデハ特徴であるけれど、「弱い」ナラデハ特徴に思える*1
  • 4はナラデハ特徴ではない。

その他に思ったこと

ビデオゲームの美学』を読んだときに、モニターという存在がクローズアップされて私としてはとても強く印象に残っている。ビデオゲーム競技としてもこのモニターというのはナラデハ特徴(には中々ならないかもしれないが)、少なくともかなり重要な特徴になるような気がしている。なぜそう思うかと言うと、ビデオゲーム競技では競技者と観戦者が見ているものがかなり「同じもの」であると思うからだ。これは普通のスポーツでは中々得難い特徴のように思う。選手の頭にカメラを付けてそこからの映像を観戦する、ということは普通しない。F1などのモータースポーツではオンボードカメラがあり、あれなどはかなり競技者と観戦者の視点は近いものになるかもしれない。しかし、ビデオゲーム競技、例えば「グランツーリスモ」の競技大会であれば、本当にその両者で全く同じというか、なんなら「命の危険の無さのような感覚」さえ、競技者と観戦者で同じである。こう言うと、ビデオゲーム競技の「ちゃちさ」を強調するようだが、ポジティブに考えることも当然できる。例えば競技者が画面のどの箇所を注目しているか?ということが普通のスポーツに比べてものすごく表現しやすい(例えば画面右奥のところに注目してる、とか)。これは観戦者にとって非常に競技者との一体感や技の巧みさの共有などがしやすいということに繋がるかもしれない。ただ、もちろんこれは「その点、将棋やチェスなどのマインドスポーツもビデオゲーム競技と同じではないか」と言えるかもしれない。将棋もチェスも、確かに競技者と観戦者でほぼ同じモノ(盤面)を見ている。ただマインドスポーツと言っても、ポーカーのような競技とはかなり異なるように思う。ポーカーであれば相手の仕草や表情などと、自分の手札、テーブルのカード、そうしたものを全て同時に見るような視点を競技者は持つ。しかし観戦者が実際の試合現場で見ようがテレビで観戦しようが、そうした視点は観戦者に提供されない(競技者の頭にカメラでも付けない限り)。上手く言えないが、ビデオゲーム競技の場合、基本的に競技者の一人称視点がそのまま観戦者によって観戦されるのに対して、その他のスポーツでは基本的に三人称視点で観戦されるという違いがあるような気がする。ただ、先に言った通り、やはり将棋やチェスなどはかなりビデオゲーム競技に近い。普通のスポーツ観戦がビデオゲーム競技観戦の対極だとすると、麻雀やポーカーなどはそのちょうど中間となるのかもしれない。少し視点は変わるのだが、ビデオゲーム競技の場合、競技をしている時に「対戦相手の顔や身体をほぼ見ない」というのが、私にはかなり独特に思える(将棋やチェスでさえ、もうちょっと対戦相手のことを見るだろう?と思ってしまう)。これはモニターの存在ということとかなり強く関係しているように思う。

 

*1:ここで突然「弱い」という形容を持ち出しているが、ナラデハ特徴に強いとか弱いという言い方をすることが果たして適切なのか。ここで私が「弱い」と言っているのは、この特徴は確かにナラデハだが、例えなかったとしてもビデオゲーム競技を競技者として行う上での影響は局所的だし、競技を観戦・鑑賞する者にとっても影響は限定的である、という程度の意味。まあ、限定的とか局所的という言い方もテキトーで、なんか申し訳ない