ビデオゲームとイリンクスのほとり

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『eスポーツのナラデハを考える』を読んでの感想

ゲーム研究の松永伸司さんが以下の面白い論考を書かれていたので読み耽ってしまった。本当に面白い。

eスポーツのナラデハを考える

この論考は"eスポーツが他のスポーツ競技や将棋などの競技と比較して、独特に持ちうる特徴ってなんだろう?"という話だ。すごく当たり前の話のようでいて、みんなで共有化することで色々と不毛な議論を回避できそうな話題だ。例えば、僕たちが「eスポーツ」と聞いて「なんで"スポーツ"と言うのか?」と思う時というのは、実はこの周辺(あくまで周辺でしかないが)のことが気になりつつ問うている。フェンシングでは試合の判定において電気審判器を使っているからと言って、誰も現代のフェンシング競技を「eスポーツ」とは呼ばない。eスポーツはマインドスポーツ(麻雀やチェスなど)と近いような気もするけれど、ちょっと違うとも感じている。その辺りの不思議さが整理されていくのは大変面白い。特に議論の最初で明言されている「定義論がしたいわけじゃない」というのも重要だ。避けたい話題が何かというのは、実はかなり(わたしにとっても)難しい議論のルールなのだけど、正にこういう定義論とは少し距離を置いた話が聞きたかった。特に、私自身、eスポーツに全く興味がないゲーマーとして逆にちゃんと聞いてみたいと思っていたテーマだった。

気になったこと

この論考ではeスポーツのナラデハ特徴として以下の4点が候補として挙げられている。

  1. 「技」の内実が独特。
  2. フィクションの側面が相対的に強い。
  3. ルールの現実化の仕方が独特。
  4. 競技種目(プレイされるタイトル)が相対的に流動的。

これらについて、以下の2つの点が気になった。

1点目は、単に「分からなかった」と言うことなのだが、フィクションの面の強さの例として、なぜウメハラの背水の逆転劇が挙げられているのか、ちょっと分からなかった。この試合の凄さというのは、本当にルール的で、ゲームのシステムやルールを理解していないと、正直何が凄いのか全く分からないような気がする。単純に言って「ルールを知らない人が『すごい』という感想になるかな?」と思ってしまう。屈強な男であるケンが、(かなり逞しいとは言え)女性の春麗を殴り倒す様を見て「かわいそう、酷い」という感想が生まれる、と言う例であれば、確かにフィクションの側面の強さを意味しているような気はする。しかしそれは競技としての楽しみとは無関係であるようにも思うので、そうした例として考えるのはこの論の主旨と異なるだろう(松永氏の論はそういう例として出していないと思われる)。逆に言うとゲームの場合、男女混合で闘っても違和感がない、というのはフィクションとして「そのまま」フィクションとして見ていないからじゃないかという気もする。ある種のフラットな記号としてキャラクターを見ているから見れる、ように思う。しかし、ゲーム的世界観のフィクションとして見ているからこそ、その男女混合で対等に闘うことの違和感を感じてないのだ、という可能性も確かにあるのかもしれない。うーん、どうなんだろう。それはそうなのかもしれない。なお、ルールをよく知っている人が「フィクション込みでドラマを見いだす」というのは、もちろんあると思う。ただルールを知っていればいるほどその(フィクション込みで見いだす)割合は減りそうな気もする。

直感的に思うのは、いわゆる普通の肉体を使うスポーツって、びっくりするくらい分かりやすいという感覚がある。私はラグビーのルールを全く知らないのだが、高校生の時にテレビでラグビーの試合を見て単純に「面白いなこれ」と思ってしまった。なんというか人間の肉体が躍動感溢れて動いている様というのは「それだけで面白い」。その点、ビデオゲーム競技というのはびっくりするくらい分からない。フィクションとしてまあ「見れる」のだけど、「だから何?」というか、かなりそうした冷めた感想を(そのゲームを知らないと)抱いてしまう。長々とここで述べていることは、ルールを知らない人の感想から「フィクションの側面が強い」ということを表現することに上手く腹落ちしない感じがする、というだけのことかもしれない(なまじゲームを知ってるだけに)。ここでは肉体を鍛えた屈強な2人が素手で殴り合う戦いをフィクションとして見ても「それはそれですごいと思う場面でしょ」ということかもしれないが、うーん、松永氏が言うことが上手く理解できていない。ただルールを知っている人が単にそのルールを超えてフィクション的側面から、その試合に独特の感慨を抱く、というのはとても想像しやすいところはあるので、その方向からでは「フィクションの側面が強い」というのは理解できる。

2点目は、これは松永氏自身が言っていることだが、「流動的」というのをナラデハ特徴として挙げることの違和感だ。正に偶然的に(相対的に現状)そうであるだけのようにやはり思えてしまう。もちろん流動的であることはナラデハ特徴なのかもしれないが、そうであるならその事自体がビデオゲーム競技に本質的に関わる何か別のピース(概念)が欲しくなってしまう。また、私などは次のようにも考えてしまう。格闘ゲーマーがタイトルは変われど、やはり格闘ゲームというジャンルの中で様々なゲームでその技能を見せ続けているのであれば、それこそ、タイトルの変更はある特定のスポーツのルール変更やレギュレーションの違いのようなものとして考えれば良いのではないかと思う(この点は松永氏の論考でも示唆されることだが)。スト4とスト5は同じ競技のルール変更に過ぎない、また、ストリートファイターギルティギアもまた、平泳ぎと背泳ぎの違いくらいのもんじゃないかという風に見ては駄目なんだろうか。これは格闘ゲームにもスポーツにも全く愛のない私だからこその発想かもしれない。とは言え、現実的にビデオゲーム競技は流動的ではあるし、そのこと自体はその通りだ。実際数年で平泳ぎは廃れてしまって今は競技人口がいないんですよ、とか、新しい泳法の種目が数年に一回生まれる、なんて事は普通のスポーツでは起こっていないわけで、そこには確かに何かゲームという形式に特有の理由があるのかもしれない。ただ、あるとしてもそれは商品ビジネスとしての要因が強そうに思えてしまって、それをナラデハ特徴というのはどうしても抵抗がある。ただ私の感じている違和感を上手く表現できていない気がして、もどかしい(別に商品ビジネスとしての特徴がeスポーツというジャンルのナラデハ特徴として「伝播」してても良いので、あまり上手く「ナラデハ特徴でない」と言えてないことにもどかしさを感じる)。

以上のような点を考えると私としては候補に挙げられた4つの特徴は以下のように思える。

  • 1(技の内実)と3(ルールの現実化)はビデオゲーム競技のナラデハ特徴だ。
  • 2(フィクションの側面)は確かにナラデハ特徴であるけれど、「弱い」ナラデハ特徴に思える*1
  • 4はナラデハ特徴ではない。

その他に思ったこと

ビデオゲームの美学』を読んだときに、モニターという存在がクローズアップされて私としてはとても強く印象に残っている。ビデオゲーム競技としてもこのモニターというのはナラデハ特徴(には中々ならないかもしれないが)、少なくともかなり重要な特徴になるような気がしている。なぜそう思うかと言うと、ビデオゲーム競技では競技者と観戦者が見ているものがかなり「同じもの」であると思うからだ。これは普通のスポーツでは中々得難い特徴のように思う。選手の頭にカメラを付けてそこからの映像を観戦する、ということは普通しない。F1などのモータースポーツではオンボードカメラがあり、あれなどはかなり競技者と観戦者の視点は近いものになるかもしれない。しかし、ビデオゲーム競技、例えば「グランツーリスモ」の競技大会であれば、本当にその両者で全く同じというか、なんなら「命の危険の無さのような感覚」さえ、競技者と観戦者で同じである。こう言うと、ビデオゲーム競技の「ちゃちさ」を強調するようだが、ポジティブに考えることも当然できる。例えば競技者が画面のどの箇所を注目しているか?ということが普通のスポーツに比べてものすごく表現しやすい(例えば画面右奥のところに注目してる、とか)。これは観戦者にとって非常に競技者との一体感や技の巧みさの共有などがしやすいということに繋がるかもしれない。ただ、もちろんこれは「その点、将棋やチェスなどのマインドスポーツもビデオゲーム競技と同じではないか」と言えるかもしれない。将棋もチェスも、確かに競技者と観戦者でほぼ同じモノ(盤面)を見ている。ただマインドスポーツと言っても、ポーカーのような競技とはかなり異なるように思う。ポーカーであれば相手の仕草や表情などと、自分の手札、テーブルのカード、そうしたものを全て同時に見るような視点を競技者は持つ。しかし観戦者が実際の試合現場で見ようがテレビで観戦しようが、そうした視点は観戦者に提供されない(競技者の頭にカメラでも付けない限り)。上手く言えないが、ビデオゲーム競技の場合、基本的に競技者の一人称視点がそのまま観戦者によって観戦されるのに対して、その他のスポーツでは基本的に三人称視点で観戦されるという違いがあるような気がする。ただ、先に言った通り、やはり将棋やチェスなどはかなりビデオゲーム競技に近い。普通のスポーツ観戦がビデオゲーム競技観戦の対極だとすると、麻雀やポーカーなどはそのちょうど中間となるのかもしれない。少し視点は変わるのだが、ビデオゲーム競技の場合、競技をしている時に「対戦相手の顔や身体をほぼ見ない」というのが、私にはかなり独特に思える(将棋やチェスでさえ、もうちょっと対戦相手のことを見るだろう?と思ってしまう)。これはモニターの存在ということとかなり強く関係しているように思う。

 

*1:ここで突然「弱い」という形容を持ち出しているが、ナラデハ特徴に強いとか弱いという言い方をすることが果たして適切なのか。ここで私が「弱い」と言っているのは、この特徴は確かにナラデハだが、例えなかったとしてもビデオゲーム競技を競技者として行う上での影響は局所的だし、競技を観戦・鑑賞する者にとっても影響は限定的である、という程度の意味。まあ、限定的とか局所的という言い方もテキトーで、なんか申し訳ない