ビデオゲームとイリンクスのほとり

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名作『テイルズ・オブ・アライズ』は、「もう一度、厨二で良いんだ」と思わせてくれる作品

2021年9月。テイルズシリーズ25周年記念作品として、『テイルズ・オブ・アライズ』がリリースされた。海外レビューの点数の高さ(メタスコア87)に驚いた人も多いと思うが、クリアまでプレイしてみて非常にその評判の良さについても納得した。

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本作はバトルシステムが楽しくできているという点やフェイシャルCGや背景美術の質の高さなど、様々な素晴らしい美点があるが、個人的には脚本の丁寧さがとても印象に残った。本作のシナリオを担当したのは奥田孝明氏*1と平岡鉄太郎氏の両名だが、今後の作品についても期待したいと感じた。脚本と言っても決してストーリーのプロットが凝っているとか、伏線回収が見事だとか、世界設定がオリジナリティに富んでいるという事ではない。本作が最も素晴らしいと思ったのは、物語の主題(テーマ)に対してとても真面目にその問題を書こうとしている姿勢である。本作は奴隷からの解放というやや重めの物語を描いている。ゲームやアニメではよくありがちなテーマだが、多くの作品で単なる舞台設定でしかないという、浅はかになりがちな難しいテーマでもある。そうした不安は、プレイをする前ではかなりあった。しかしクリアまで遊んだ今、本作はそのテーマに決して恥じることのない、(あえて言うが)大人の鑑賞に耐える物語となっていた。

海外レビューで言われるJRPGの浅薄さ

本作が海外でも高い評価がされたのはJRPGの持つ幼稚なイメージを丁寧に覆した点にあるだろう。本作に満点(星5つ)を付けたニュージーランドのSHIDINGというゲームサイトでは本作のレビューで次のように言う。(以下、引用部分の太字は筆者)

抑圧的な帝国体制への反乱蜂起というのは、JRPGの定番である。奴隷による抵抗や地下抵抗組織の活動というのは、神々と戦ったり記憶喪失のツンツン頭のヒーローと同様、このジャンルに馴染みのものだが、これらの要素について、主題として掘り下げているゲームというのは少ない。

Review: Tales of Arise (PS5) - a JRPG thesis on oppression and liberation

ここでイメージされているゲームは『FF7』のようなゲームだろう。JRPGは帝国や体制への反抗というテーマを描きながらも、多く作品で深くそのテーマを描けていなかったとされている。

また、同じく満点(星5つ)を付けたDigitally Downloadedというサイトでは革命というテーマの難しさについて次のように書いている。

革命というのは常に正当な理由 --抑圧からの奮起--によって引き起こされるものだが、革命の後にやってくるものが良き結果であるとは限らない(良き結果であるかどうかも、その人のあらゆるものに対する価値観による)。大衆的なエンターテイメントは革命を主題として扱うが、多くの場合、単純に自由のための戦いにだけ焦点を当てている。そこに至るまでの個人的、文化的、政治的な緊張に触れているものは少ない。

Digitally Downloaded: Review: Tales of Arise (Sony PlayStation 5)

娯楽作品で革命を扱うことは多くても、どうしても単純にしか扱えていない。こうした問題は、特にゲーム作品ではよく見られることだろう。戦うということ自体がゲームという形式に合っているという事情があり、その副作用として、どうしても革命後の問題を描くのは不得手となる。

また『テイルズ・オブ・アライズ』は、権力体制への反抗というだけでなく、男女(ジェンダー)の問題などにもかなり配慮したセリフが出てきている。本作に95点(Excellent)を付けたGaming Trendというサイトでは

これまでのテイルズシリーズで悲しいことに蔓延していたジェンダー本質主義(女性はこう、男性はこうだ、など)

Tales of Arise Review — Get Up Stand Up – GAMING TREND

と書いているが、このようなイメージをこれまでのテイルズやJRPGには抱いていた人も多かったと思われる。しかし、本作ではかなり男女の役割を固定しないように表現することに配慮がなされている。決して徹底したレベルでそのようにできているわけではないが*2、そうした考えを自覚している事を感じさせるセリフが多く存在している。これは『FF7』や『ゼノブレイド2』や過去のテイルズシリーズと比べても、かなり自覚的であると言える。

 

個人の悪ではなく、社会構造や制度に潜む悪

具体的に『テイルズ・オブ・アライズ』では、どのようなセリフが出てくるかを見てみよう。

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「痛みを受けた者に忘れろとは言えない  ……簡単に答えを出せる話ではないな」

上記のセリフは、主人公たちの戦いが終わった後のことを予期するようなセリフである。海外レビューでも言及されていたが、本作は主人公たちがラスボスを倒し、支配体制を打倒した後の世界をどうするか?という話題が頻繁に出てくる。単に悪い奴を倒せば平和が訪れるということはない。支配されていたことの恨みをそれほど簡単に誰もが許したりできるわけではない。これはある意味、とても当たり前の話のようにも聞こえるが、実はゲームの物語としては難しさを孕んでいる。なぜなら苦労して強敵をせっかくプレイヤーが倒したとしても、幸せになれるとは限らないと言っているのも同然だからだ。

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↑「……哀れんで赦す。まさしく強者の所業よ!」

そして上記はラスボスのセリフである。赦すことさえ、それは強いからできるのではないか?これまでのRPGの主人公たちの世界を救うという行為の傲慢さを示しているとも言えるだろう。しかし、こうしたセリフを見ていると、リベラルというか、それこそJRPGに良く見られるポストモダン的な善悪の相対化(悪い奴にも事情がある)ではないかとも思える。しかし本作は「悪いことは簡単に許されるわけではない」し、「非難されるべきだ」という極めて現代的なツッコミがしつこいくらいにされる。

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↑「そして糾弾する権利は常に傷を受けた側のものだ。傷を与えた側の事情は関係ない」

上記のセリフは、奴隷を支配していた支配者側のキャラクターが語るセリフである。このキャラクターは反省して、最終的に主人公たちに協力し、奴隷解放のために戦うとてもJRPGらしいキャラクターである。しかし、そのキャラクター自身によって、「良い支配や抑圧などというものはない。どんな理由があれ傷を与えることなど許されない」という主張をさせる。これは非常に昨今の差別に関わる社会運動を意識したセリフだと考えられる。*3 このキャラクターも改心したから、単純に良い奴になるわけではない。この後にも「私を無理やり善人扱いしてはいけない」という旨の発言によりプレイヤーを牽制する。

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↑「しかし……。これは仕える主君の問題なのか?それとも忠節それ自体が間違っているのだろうか?」

そして、上記のセリフは中世的な世界設定を持ちがちなJRPGとしては、かなり踏み込んだセリフだと言えるだろう。多くのJRPGでは、素朴に忠節や忠義を美しいものとして描いている。また、別の場面では世界を救うためにヒロインのシオンが自死を選ぼうとするが、その自己犠牲は明確に主人公アルフェンによって否定される。本作は、忠義や自己犠牲というこれまで散々JRPGが使ってきた感動のための便利な概念に疑問を呈している。これは同シリーズの過去作『テイルズ・オブ・ヴェスペリア』(2008)で、ドン・ホワイトホースという義侠心に厚い男が、掟を重んじるために自死を選ぶというシーンが、かなりドラマティックなイベントとして用意されていたことと対比をなす*4。つまり、忠義や自己犠牲を尊ぶような社会制度の中で、本当の意味で奴隷が解放されたと言えるのだろうか?という実に真正面なリベラル的思考に触れている。

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↑「なのに、ここのダナ人は喜んで働いている…… ここに壊すべき壁はあるのか?」

そして、悪というのが単に1人の意思や個人の意思で作られているものではなく、制度や仕組みなど社会構造の歪みによっているということにも触れている。奴隷でも自主的に喜んで奴隷をしているなら、それで良いのだろうか?と上記では迷いが示されているが、最終的にそれは「良くない」とされる。本作には「幸福な奴隷はいない」という考えが一つの芯として貫かれている。こうした考えは、これまでJRPGが素朴に肯定してきた価値観に疑問を挟み、構造全体を変えなければ、本当の意味での奴隷の解放はない、という結論に至る。そしてその社会構造は、ラスボスの一つ手前のボスである『星霊』という敵が象徴することになる。

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↑「星霊、お前が生きたいという思い、それは誰にも否定できない。だがそのために俺たちに滅べというなら、俺たちはお前と戦う!」

『星霊』に悪意はないし、特定の思想やイデオロギーを主張したりはしない。それは正に「制度」であり、その制度は自身がシンプルに存続していくことを求める。特定の個人の思想によって悪がもたらされているのではない。それゆえ、この「制度」は極めて「シンプルな悪」になっている。「悪をシンプルに描いてしまっては深みがない。悪者にも悪者の事情があるのでは?」というのは、これまでの数多くのJRPGが囚われてきたドグマだったと言える。しかしこうした今までのJRPG的な考え方こそ、実は非現実的で、それこそ子供っぽいファンタジーなのかもしれない。こうした現代的な気づきが『テイルズ・オブ・アライズ』には明確にある。

ポリコレだと言われない「巧み」さ

これまでに見たように、今回の『テイルズ・オブ・アライズ』はかなりリベラル的な考えを前提にした作品になっている。しかし本作に対してゲーム作品にありがちな「ポリコレに配慮しすぎ!」というような批判はほとんど出てきていない。もちろん「この世界観にしてはリベラルすぎるだろww」というようなコメントもあるにはある*5が、それでもかなり少ない。そもそもポリコレだからと言って何が悪いのか?という議論をすると(極めて本質的な議論ではあるが)、本稿の主旨から外れてしまうのでそこには踏み込まない。ただ、少なくとも、ある種の「巧みさ」でもって、「政治的!」と言われないような作品になっている点については、非常に面白い達成をしている作品だと言える。

本作の海外レビューを読んでいると、本作が「伝統的なJRPG的スタイル」を維持している事を称賛している記述がよく見られる。10点満点を付けたGOD IS A GEEKでは次のように書いている。

そのルーツやファンの愛するものへのリスペクトに満ち、かつ、現代的なゲーム業界における品質と楽しい体験をもたらすものを有している

Tales of Arise review | GodisaGeek.com

本作が旧来的な厨二的モチーフを持ちつつ現代化したことを、賛美する気持ちはよく分かる。ややもすると、JRPG的である事、日本のアニメ的である事自体が、どこか反現代的で反ポリコレ的であることのように思われかねない中で、JRPGであっても「普通に」リベラルであり、かつそれが殊更リベラル過ぎるとは感じられないように作る事が可能であることを『テイルズ・オブ・アライズ』は証明した。

こうした達成はどのように成し遂げられたのだろうか。海外のレビューを読んでいると度々、本作に対して"nuance(d)"という表現が出てくる。日本語のニュアンスとほぼ同じ意味であるのだが、おそらく本作が「何か大きな違いとして目立っているわけではなく、ささやかな違い」でもって作品を作り上げている点を示していると思われる。つまり、本作は声高にリベラルな価値観を称揚するわけではないが、普通の声量で、ほとんど当たり前のこととして、リベラルな価値観が表現されている。そのため、本作がいくらリベラルと言っても「え、その程度なの?」という批判は十分にありえるだろうし、実際にGame Spotというゲームメディア(メジャーなゲームメディアでは最も低い70点を付けた)では次のようにも言っている。*6

虐待と抑圧された人々の解放というのは、取り組むには挑戦的で先進的な主題である。そして概して『テイルズ・オブ・アライズ』はその材料を上手く取り扱っている。しかし、時に、物語が提示する困難な倫理的問題に対して表面的なレベルまでしか掘り下げられなかった点があったことについては期待外れだった

Tales Of Arise Review -- Wake Me Up Inside - GameSpot

『テイルズ・オブ・アライズ』という作品がこうした抑圧や搾取や差別と言った問題に対して、画期的な視点を何か提案できたとは私も思わない。「他人を許そう、他人との違いを認め合おう」という程度の教訓で留まっていることは確かである。しかしそれでも良くも悪くもJRPGの代表のように思われていたテイルズが、ここまでの表現を達成したことについては、大きな意義を感じる。多くのクリエイターに「このくらいは政治的であって良いんだ」という勇気を与える部分は大きいのではないだろうか*7。そしてシリーズ最速で100万本を売り上げたことで、この方向性は「世界で受け入れられるポリティカル表現とは何なのか?」ということをマーケティング的にも模範的に示す例になったのではないだろうか。本作の海外レビューの多くはある種のこうした達成への「ご祝儀」的な側面があるかもしれない。今後はもしかしたら、この程度の表現では、例えJRPGであっても「当たり前でしょ」と捉えられるかもしれない。そのような意味でも、本作というのは日本のゲームにおける一つの時代の節目を示す重要な作品になるだろう。一方で、本作が受け入れられたのは、単に作品が巧妙であったからというだけではないだろう。時にJRPGファンはオルトライト的な価値観を持つとイメージされがちであるが、むしろほとんどのJRPGファンは素朴に現代的なリベラル的価値観を既に内面化して受け入れている、ということを示しているように思う。そして、このような作品が商品となって多くのファンから高評価を受けることは、JRPGを愛するファンにとって、まだまだ厨二であっても良いのだと希望を与えてくれた作品になっているのではないだろうか。

 

*1:奥田氏は『7~モールモースの騎兵隊』シナリオや『テイルズ・オブ・ヴェスペリア』のディレクターの一人でもある。また『TOV』のノベライズも担当している。参考URL→ テイルズ オブ ヴェスペリア 公式ブログ

*2:追記2021.12.30 特に今作にもある温泉イベントについては、普通に批判があるだろうと想像する

*3:差別問題がテーマとなった『テイルズ・オブ・リバース』(2004)という作品があり、中でもピーチパイ演説と呼ばれるスピーチが名演説と言われる。「あなたの(ピーチパイを)美味しいと感じる心に、種族はありますか?」という演説だが、食文化の多様性と種族的なアイデンティティとの繋がりを全く無視した物言いでもあるだろう。『アライズ』では各個人の食の好みはバラバラであるというエピソードが出てくるが、こちらの方がよほど多様なあり方を承認している。素朴に「心は同じ」と唱えてしまう『リバース』の方が傲慢であるとも言えるだろう。

*4:自己犠牲ということであれば『テイルズ・オブ・ベルセリア』(2016)の感動シーンとして名が挙がるライフィセットのベルベット説得シーンがあるだろう。しかし、『アライズ』におけるシオンの自己犠牲を否認するアルフェンに比べると、『ベルセリア』の当該説得シーン(腕ぐらい食べていいよ)はとても素朴な「感動的」シーンだと感じられる。

*5:【TOARISE】ジルファは奴隷層の出身なのにリベラルな思想持ってるよなwww: まちまちゲーム速報

*6:なお、本作に対するリベラル的な批判として、異性愛恋愛をノーマルなもの・当然であることのように描き過ぎ、というのはあるかも知れない。6人いる操作キャラ全てが、男女でカップリングするように設定されている。ここまで素朴であるのは、最近のゲームとしては珍しいと言える。なにより、ラストのハッピーエンドを結婚(と思われる)イベントによって締めるというのもかなり素朴な描き方だろう。

*7:リベラルであることが政治的であるのか!というリベラル諸氏の文句は当然あるものと思うが、ここではそういう事が言いたいわけではない。