ビデオゲームとイリンクスのほとり

ブログになる前の軽い話は以下で話してます。■Discord : https://discord.gg/82T3DXpTZK 『ビデオゲームで語る』 ■映画の感想は『映画と映像とテキストと』というブログに書いてます。https://turque-moviereview.hatenablog.com/ ■Twitter ID: @turqu_boardgame

映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

『ザ・スーパーマリオBros. ムービー』に涙した人は、歴史的傑作『スーパーマリオ オデッセイ』をプレイしよう

2023年4月。『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』が公開された。ネットの感想を見ていると時折「泣いてしまった」「涙が出てきた」という感想を見る。分かる。別に全然泣けるような映画ではないんだけど、そうなる。それは主に「ノスタルジー」というやつなんだけど、それだけではない。作品がスタートする前にSwitchでゲームを遊ぶ子供たちを描いたCMが流れる。ミスをして悔しがる姿から始まり、その後にクリアできた!と喜ぶさまざまな子供達を描くCMだ。単に任天堂の広告としてだけでなく、これから描かれる映画作品のテーマを端的に示したCMでもある。そのCMの最後、小学生ぐらいの子供が「できたよ」と静かに喜ぶ。それまで「やったー!」とか歓声を上げていた子供たちとは異なり、とても静かにクリアできたことを喜び、そして手で持ったニンテンドースイッチをこちらに見せようとしてくる。ビデオゲームの喜びとはこれなのだ。たった1人で遊び、たった1人で喜ぶ。もちろん友人たちと遊んでいる時なら興奮の声をあげる時もあるだろう。しかし基本的にはとても静かで、個人的な体験なのだ。あのCMが素晴らしいのは、この「個人的な闘いでしかない」ということのどうしようもないほどのノスタルジーなのだ。

そして『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』が素晴らしかったのは、この「個人的であること」をちゃんと示しているところだ。マリオは作中で父親から言われる。「何がしたいのか分からない」と。重要なのは、この親の理解のなさではない。親が自分たちが何をしたいのかよくわからないということをマリオ自身もよく分かっており、しかし、そのやりたいことを堂々と説得力を持って他者に語ることの難しさがあること。これこそがゲームに夢中になったかつての子供たちが抱えていたささやかな難問なのだ。夕食や風呂に呼ばれてもゲームを続けたいと思ったあの頃。大人になれば、ゲームをすることなんかより、食事に呼ばれたらすぐに食卓に来るべきだし、風呂が沸いたのならすぐ入るべきだと分かる。なぜならその背後には、食事を用意して作ってくれる親たちの姿があり、風呂を洗って準備してくれる人たちがいるからだ。しかしそれでもプレイを続けたかったゲーム。それはあくまで個人的なものだ。しかし、それでもかけがえのない何かを宿していた気がする。今回のマリオ映画が描けたものはそれなのだろう。個人的な体験から、少しだけ普遍的な何かに昇華させてくれたという嬉しさ。

そして実はその喜びを6年も前に実現したゲームがある。それが2017年にマリオシリーズのフラッグシップタイトルとして発売された『スーパーマリオ オデッセイ』(以下、オデッセイ)。同じ年に『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』という歴史的な傑作がリリースされたことで、『オデッセイ』はその影に埋もれてしまった印象がある。もし異なる年に生まれていたら、『オデッセイ』はその年のGame of the Yearをいくつも獲得していただろう。そのくらい『オデッセイ』は素晴らしいタイトルだ。

『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』に涙した人は、ぜひ『スーパーマリオ オデッセイ』をプレイして欲しい。ラストステージで流す涙は、映画のそれと同種のものである。そして『スーパーマリオ オデッセイ』に涙した人は、ぜひ『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』を見に行って欲しい。あの感動と同じものをもう一度味わうことができる。

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映画に対する感想は以下のblogに書きました。

『ザ・スーパー マリオブラザーズ・ムービー』を観た - 映画と映像とテクストと

 

「まじめな遊び、ふざけた遊び」(雑誌『広告』Vol.417所収)を読んだ感想

ゲーム研究者である松永伸司さんが、雑誌『広告』(Vol.417, 2023)に「まじめな遊び、ふざけた遊び」と題した論考を書かれている。とても面白かったし、毎回こういう話を読んで、自分の興味のある分野であるビデオゲームに引き付けて考えたりしてしまう。そのことを感想文のように書いてみたい。

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当該論考は、ヨハン・ホイジンガが考える遊び観とミゲル・シカールの考える遊び観、その2つの遊びに対する見方や考え方の違いを示し、それぞれの特徴やそのモードに類する具体的な事例(文化や慣習など)を挙げる。そして、その2つの遊び観は異なるものの、1人の人間の中に同居していることを示し、こうした遊び観を自己省察ツールとして用いることもできることを示している。

文化史家のヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』はとても有名な本だが、読み始めると結構読みにくい。面白い具体例も多く、読んで楽しい本ではあるが、ホイジンガが遊びをどういうものとして見ているかを、端的にまとめることが(私には)結構難しかった。本論考を読んで最初に思ったのは、そのホイジンガの遊びに対する見方が、非常に分かりやすくまとめられていて、これは大変ありがたいなぁと思った。ホイジンガの本を読み直した時などに、この論考の記述と引き合わせながら読むと理解がしやすいように思った。

タイトルにもなっている「まじめな遊び」と「ふざけた遊び」だが、「まじめな遊び」がホイジンガ的な遊び観に、「ふざけた遊び」がシカール的な遊び観に結びついている。私も以前、ボードゲームに関してトピックが少し重なるような話を書いたことがある。

【コラム】なぜゲームにおけるエンジョイ勢とガチ勢は分かり合うことができるのか。: 非電源ボードゲームで未来のゲームを妄想する

この「なぜゲームにおけるエンジョイ勢とガチ勢は分かり合うことができるのか。」というコラムで言っているガチ勢とエンジョイ勢が、先の2つの遊び観と被るところがありつつも、ピッタリと「まじめな遊び」と「ふざけた遊び」に対応するわけではない。

松永論文で語られる「ふざけた遊び」というのは、「流用的」という言葉で代表されるような、本来の遊びなり制度なりの目的から外れるようなことを目指す遊びの姿勢を意味している。それは少し「エンジョイ勢」という姿勢とは異なり、もっとより積極的な意義(危険性も)が認められている。「エンジョイ勢」の場合、「ふざけているわけではないが、まじめになりすぎない」みたい態度であり、それはシカール的な「流用と撹乱」をもたらすわけではないだろう。そこの「ズレ」みたいなものが面白いなと思った。

この「ズレ」が面白いと思うのは、シカール的な遊びの価値が、まじめなものへ接続していることを考えさせるからだ。体制や権力を、流用や撹乱によっておちょくることは、かなり正しいし、意義深い。見方によっては、それはかなりまじめな態度だと言える。「神エクセル」を笑ってSNSでネタにして遊ぶ人の方が、その神エクセルを使って非効率的な仕事を「まじめに」している人よりも、はるかにビジネス的にも作業効率的にも(実質的には)まじめである可能性がある。この「流用」や「ふざけ」の価値を効率性や正義に結びつけてしまいそうになることにはどこかアンビバレントな気持ちがする。上手く言えないが、「ふざけた遊び」は「ふざけているからこそいいのだ」とかいうようなやや乱暴な言い方をしたくなる気持ちがある。それはデュシャンの『泉』がまじめ腐った形で美術館に展示されるような問題と少し関連するのかもしれない。 

そう考えると「エンジョイ勢」のような態度は1番まじめさから遠いのかもしれない。純粋なスポイルスポートも相当なふざけ具合(まじめさから遠そう)だが、どの方向に対してもまじめから距離を取ろうとする態度は、なんとも独特のいやらしさがあるように思える。

またこんなことを考えたのは最近のテレワークに関する以下のようなニュースを見たからだ。

米JPモルガン、幹部社員に週5日の出社指示=社内メモ | ロイター

JPモルガンやゴールドマンサックスなどでは出社することを求めており、テレワークを例外的などと言って、やんわりと否定している。ホワイトカラーの極点のような企業が出社を求めると言うのは、意外な印象を受ける人も多いだろう。なんとなくだが、どの場所でも働けるリモートワークの方が効率的であるように思える。しかしもし仮にリモートワークよりも出社する方が(なぜか)ビジネス的にも効率的で正しいと分かってしまった時に、「出社を求めるなんてロートルだな」と笑っていた人は逆に「自由やプライベートの充実とかいう形式的なものにこだわって、それ自体が目的化している遊びに夢中になっている」などと言われてしまうかもしれない。「神エクセル」がそのような「実は効率的だった」となる可能性はほとんどないと思っているが、こうした「まじめな価値観」と接続して何かをからかい、ふざける態度が、ブーメランのようにこちらに跳ね返ってくることを想像すると、怖いような気がする。

本論考の中で松永さんが

とはいえ、シカール的な遊び心を重視するアヴァンギャルドの文化もまた、秩序と無関係ではない。

と言ってる話と関連する話でもあるだろう。ここでは2つの秩序への関連の仕方が書かれている。

1つは、シカール的な遊び心の発揮が秩序を「前提」としているという話。

もう1つは、シカール的な遊びが魅力的であるためには、撹乱的であってもある程度の秩序を必要とするという話。

後者の話が厄介で、シカールの遊びがホイジンガのそれとどのように違うのかが難しくなる気がする。

そんなことを考えていると、短気な私は「ふざけているのは、ふざけているからいいのだ」と言える道筋というのもどこかに欲しいと思ってしまうのかもしれない。

なにより、こうしたことを考えたのは、ビデオゲームという遊びについて考える時にいつも気になっているポイントがあるからだ。それはビデオゲームの重要な特徴として、『楽である』という面があるのではないか」ということだ。ただ、この「楽である」をビデオゲームの特徴だとすることからして、色々難しさがあるし反論も多いだろう。例えば、家庭用コンソールのゲーム機で遊ぶ人はもはや少なくなっており、昨今それを遊んでいるのはベテランのゲーマーばかりかもしれない。そして今のオンラインゲームなども決してヌルいゲームではなく、かなりの訓練と努力と才能がものを言う。「ゲームが楽」などと言うのは、かつて「リセット世代」などの言葉が流行った昔のイメージでの話かもしれない。一方で、私がビデオゲームを「楽さ」という観点から捉えたいのは、スマホゲームの興隆や無料ゲームの多さなどの一般に浸透しているという状況ももちろんあるが、なにより昨今のビデオゲームチュートリアルが充実している点に感じている。スマホゲームを含むビデオゲーム作品のルールは、今はものすごく複雑化している。攻略Wikiなどを見ると、信じられないくらい膨大な知識を得ないと遊べないよう気がしてくる。しかし人気のゲームには、そうした複雑なルールをちゃんとプレイヤーに学ばせる仕組みが備わっていることが多い。初回のチュートリアルの丁寧さはもちろんだが、簡単なクエストから徐々に難しいクエストを段階的にこなしていくことで、最終的にはかなり複雑な仕様をプレイヤーに教え込むことに成功している。そういう(一つの作品やシリーズに閉じているかもしれないが)「教養」をこんなにも「楽に」教えてくれる娯楽商品というのはあまりないのではないか。それはインタラクティブ性を備えたビデオゲームだからこそできる発展における重要な特徴ではないかと思うのだ。

これが「まじめな遊び」や「ふざけた遊び」にどう関わるかというと、私は「ふざけた遊び」の一つの特徴として「楽さ(らくさ)」があるのではないかと思うのだ*1。「まじめに」やることには苦労が伴う。時間も能力も努力も必要になる。しかし「ふざける」ことであれば、比較的誰でもできる。今ある秩序に刃向かえばいいだけだからだ*2。だからこそふざけ方にも「センス」が出たりするわけだが、それはある一定レベルの限られた「おふざけ」の話であって、「おふざけ」というのは基本的には参入障壁の低いものではないかと思う。チーターが嫌われるのは、それが通常の「まじめな」努力よりも低いコストで大きな利益を得ようとしているからであり、その「楽さ」への倫理的な非難であったりしないだろうか。また「おふざけ」が嫌われるのは、それが今ある秩序やゲームを壊すからというだけではなく、その「安易さ」や「楽さ」への嫌悪感もあるように思う。「おふざけ」を子供っぽさとして評価する時も、「誰でもできるようなこと」という判断があるからではないか*3

しかし、私はこの「誰でもできる」「楽」「参入障壁が低い」ということに、ある一定の無視できない価値があるんではないかと思っている(もちろん欠点もあるが)。松永さんの論考に例として書かれている「メタケトル」もやろうと思えば誰でもできるという点に一つ重要なポイントがあると思っている。そしてビデオゲームもまた、世知辛い現実社会とは全く別の領域で、今からでもコツコツ始めれば、その世界でのエリートになることができるということを、(他の娯楽に比べても)極めて短時間*4で叶えさせてくれるところに、実は独特の価値があるのではないかと思っている。もちろんその特徴は良いことばかりではないのだが。

 

*1:松永さんの論考で「まじめな遊び」「ふざけた遊び」はあくまで遊ぶ人の姿勢というかモードとしての特徴として書かれていると思うので、ここでいう「楽さ」というのは遊びの形式に属する特徴の話かもしれない。私には、何が形式で何がモードなのかよく判別がついてないのだと思う。例えば、文脈的という特徴がモードであるなら、もしかして「楽である」というのもモードとして解釈可能だったりしないかなと思ってしまう。いずれにしろ、ちょっと議論がズレてしまってるかもしれない。

*2:注釈28のリンク先にある記事に書かれているのが事実だとして、ピノンセリの指を切り落とすような「おふざけ」は私の主張からすると、既に「ふざけた遊び」にはならないということになるだろう。誰でもできるようなことではないからだ。もちろん『泉』のレプリカに小便をすることもまた誰でもできることではないかもしれない。しかし誰でもできるか否かに関わらず、松永氏の論考における「ふざけた遊び」は、秩序の撹乱に向かうものであれば、それは「ふざけた遊び」に分類されるものであるだろう。

*3:注釈20にある通り、「まじめな遊び」か「ふざけた遊び」かは成熟度の話ではない。その点で私の話はやや話がズレてしまっているかもしれない。ただ、チュートリアルの充実などは正に成熟の結果であろうし、「メタケトル」の簡易なルールもまた洗練と明確な目的意識の結果であると考えれば、同じだと言えるかもしれない。

*4:ここでは「時間」という観点のコストについてしか言及していないが、「心理的なコスト」とかそういう観点でのコストの低さというのもあるだろうと思う

傑作『チェインド・エコーズ(Chained Echoes)』は単なる王道RPGではない

2022年12月にリリースされた『チェインドエコーズ(Chained Echoes)』。Steam/PS4/Switch/Xbox GamePassで遊ぶことができる2DのRPG作品だ。(日本語対応済み*1)。

スーファミからPS1時代の日本のRPGを彷彿とさせるビジュアル。その端正なイメージとは裏腹に、現代的な完成度の高さに驚いた。クリアまで約50時間。まだやり込み要素が残っているが、これだけのボリュームと満足度の高いクオリティを併せ持った作品が、目の前で形になっていることは奇跡のように思える。

本作は7年の歳月をかけて、ほぼ1人の開発者によって製作された。製作者の名前はMatthias Linda。ドイツに住む彼によって、音楽、キービジュアル、背景美術*2を除くほぼ全てが作られている。

2022年にリリースされた作品ではなく、もはや古典作品としてずっと何年も前から存在していたような錯覚を覚える。『チェインド・エコーズ』はそれだけの風格を持った作品だ。

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本作は『FF6(1994)』、『クロノトリガー(1995)』、『ゼノギアス(1998)』の頃のRPG作品に多大なインスピレーションを受けている*3。その時代のRPGをプレイしていた人ならば多くのオマージュを『チェインド・エコーズ』に見出すことになるだろう。しかしそうした「懐かしさ」だけが本作の魅力なのではない。私はその90年代の日本のRPGには全く疎いが、『チェインド・エコーズ』にかなり夢中になってしまった。本作はとにかく遊びやすく、しかしそれでいて「遊びごたえ」が十分にある。作品内のあらゆる要素が配慮と熟慮に満ちていて、無駄と言えるような要素はほとんど綺麗に削ぎ落とされている。ゲーム好きなら一度は妄想したことのある「俺の考えた最強のRPG」を具現化したものだ。そんな妄想の産物としか思えない作品が『チェインド・エコーズ』である。

マップ上の移動・探索にストレスがない

本作をプレイし始めて最初に思ったのは、「操作キャラの移動速度が速い」ということだった。本作には移動におけるダッシュ操作はないが、ダッシュ並みのスピードでキャラクターが動かせる。このスピード感によって、移動にストレスがほとんどない*4。また、プレイしていくうちに分かるのだが、分岐が複雑だったりすることがなく、無駄に迷うことがないマップデザインになっている。序盤から、ボタンひとつで地図を呼び出すことができるので、分岐のどちらが行き止まりなのか事前に知ることができる。宝箱を探して、むしろゴールの方を避けて、最初に行き止まりの道を探索したいプレイヤーにも優しい仕様だろう。それでいて、地図を見なくてもちゃんとゴールまで導いてくれるようなルート設計がされている。そんなマップなのに、一本道のレールの上を歩かされているような感覚はさほど感じない。これは、一見すると歩いていけそうな場所が多そうなマップの見た目のデザインによるところが大きく、実際に移動できる以上の広がりが感じられるからだろう。このマップ設計における、自由度と親切さのバランスはロマンと遊びやすさを見事に両立させている。

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もちろん序盤は、マップの窮屈さを感じるプレイヤーもいるだろう。しかし、安心して欲しい。ゲーム中盤から更に自由にマップ探索ができるようになる。同じようなゲームプレイが繰り返され、「そろそろ慣れてきたかな」と思ったところで新たな要素が小気味よく追加されていく。ほぼ最後までこの「おもてなし」を続け、飽きる前に物語が完結する。本作は、たった1人の開発者によって作られたとは思えないほどの研ぎ澄まされた設計力で構築されている。いや、これこそが才能あるものによるワンマンだからこそできる洗練なのかもしれない。

単なる「王道」を超えるメタ性を持つ物語

本作は物語が素晴らしい。「物語」と一言で言ってしまうのは乱暴だが、セリフ、プロット(筋)、キャラクター設定など、物語を構成するほとんど全ての要素が高いクオリティで作られている。

しかしいかにも西洋RPG風の硬派な物語かというとそうでもない。日本のRPGであればベタとも言えるような設定や展開に満ちている。メカと魔法が両立している世界観や、身分を隠して戦う王女様、正直者の若き男性主人公、そして亜人の仲間達。どの要素を見ても、「元ネタはあれかな」と思うような設定が多く、その意味では2次創作的、同人的な雰囲気がないではない。しかしこの作品がチープな印象を免れているのは、演出や展開に従来作品をメタ的に見つめる冷静な視点があるからだ

例えば、物語の中盤で年少の王女様が仲間になる。口調は高飛車で、いかにもJRPG*5で出てきそうな高慢なロリっ娘キャラだ。こういうキャラ設定は日本のRPGにおける伝統芸のようでもあり、日本のRPGをよく知る人にとっては特に疑問にも思わないキャラクターだろう。しかしそうした「お約束」に慣れていない普通の感覚からすれば、相当に奇異なキャラクターである。本作は、単に日本のRPGのテンプレ的キャラとして彼女を描くのではない。彼女が高慢なセリフを言った後、言葉とは裏腹の心の声としての呟きが毎回、カッコ書きで挿入される。

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この心の声によって、このロリっ娘キャラには、単に高飛車な物言いの少女とは異なる一面があることが分かる。その上で、ここが『チェインド・エコーズ』の素晴らしいところなのだが、その心の声が、仲間内であってもほぼ外に開示されることがないのだ。これが、JRPGであれば、この少女が仲間と仲良くなっていく過程で「デレ期」がやってきて、高飛車だったはずの少女の「本来の姿」「可愛さ」をギャップ萌えとして分かりやすく描いてしまいがちだろう(例えば、思わず言っちゃったみたいな体で)。しかし本作は最後までこの心の声は心の中だけに閉じられる。こういう節度ある表現によって、JRPG的な子供っぽいキャラクター設定でありながらも、キャラとしての説得力と1人の人間としての尊厳が保たれている。かわいい少女だからと言って、可愛さを消費される「お約束」の存在ではない。そういう判断が本作にはある。こうした判断は、まさに従来作品を冷静に見つめて、「あえて期待を裏切る」メタ的な視点がないとなかなかできないことではないか。メタ的な視点がなければ、「ここではこういう風にするもんだろう」と従来の表現に寄せてしまうからだ。

本作はそれでいて、JRPG的な世界観を単に壊して、全く新しい世界を作り上げるのではない。リアルで硬派な『マスエフェクト』や『フォールアウト』のような西洋RPGの世界とは違い、日本のゲームやアニメで見たような雰囲気をあくまで醸し出す。つまり、JRPGが苦手としてきたリアルさや説得力の高い表現を見事に補って高いクオリティで仕上げるのみならず、日本のゲーム・アニメ的世界観をあくまで守ることも同時に達成している。『チェインド・エコーズ』は、見た目が日本のRPGだけど中身は西洋RPGだ、というような作品ではないのだ。

これは簡単なようで難しい。その文化圏にどっぷりと浸かってしまっていると、その違和感を正確に感じ取り、そしてその世界観を壊すことなく作り直すことはなかなかできない。日本は『ペルソナ3』のような新しいスタイルのJRPGは作れたが、意外に『チェインド・エコーズ』のような作品を作れなかったのは、この辺りに原因があるように思える。異なる文化圏が融合する面白さは、様々な芸術分野であることだが、『チェインド・エコーズ』は正にゲームという分野においてそれを示す作品となっている。

戦闘の緊張感とその演出

開発者のMatthiasはあるインタビューで少し興味深いことを言っている。

Matthias Linda Interview - How Chained Echoes Channels SNES & PlayStation RPGs - MonsterVine

インタビュアー : 『チェインド・エコーズ』のゲームプレイの中で、最も面白い部分はどこだと思われますか?

Matthias Linda : すごく面白い部分が1つだけってことにならずに、もっとあったらと望んでます。個人的に耐えられないことで、......でもまあ7年も経つとそういうものだと思うのですが......フィードバックで「ストーリーが素晴らしい」と聞くんです。物語はゲームプレイを繋ぐものではあるけど、ゲームプレイにそこまで関係しないものです。ゲームプレイそのものから言えば、戦闘システムが『チェインド・エコーズ』を、同ジャンル内でも他のゲームから際立たせているところだと思います。

本作の戦闘システムは、一回の戦闘ごとにHPとMP*6が全回復するタイプのシステムである。シンボルエンカウントではあるが、敵アイコンとの接触ではなく、敵とある程度の近さにまで近づくと戦闘に移行する。1番の特徴はオーバードライブという戦闘時にパーティで共有するゲージの存在だ。このゲージを上げすぎると不利になるが、ずっと最適なスキルばかりを使い続けると上がってしまう。時には最適でないアクションを取りながらゲージを上手く下げるなどの調整をするところに、本作特有の戦闘の醍醐味がある。

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また、成長システムは経験値によるレベルアップではない。ボスを倒すたびに「グリモワールの欠片」というアイテムを入手し、それによってステータスアップを行う。成長の自由度は薄く、ストーリーの進行度合いでかなりゲーム側で成長を縛る仕様となっている。ただ、このレベル上げがやりづらい成長システムのおかげで、戦闘は後半まで緊張感の続くものとなっている*7

私は本作のラストバトルにかなり苦労をした。そしてラストバトルはこのオーバードライブゲージの存在によって熱い戦いとなった。ゲームとしての戦闘システムと、「最後の戦い」という物語としてのイベントが相乗効果で熱い気持ちを滾らせる。私のプレイスタイルがたまたま作者の思惑にフィットしただけかもしれないが、素晴らしい体験となった。

エンディングの素晴らしさ

ネタバレになるので内容は一切述べないが、本作のエンディングは素晴らしかった。

90年代の日本のRPGには、どうしても一点物語上の難しさがある。それは「なぜ年端もいかない少年が世界を救うという、その年齢の少年が担うには大きすぎる理念を持ちうるのか」というところにある。もちろんそれを解消するために、これまでのRPGでも様々な物語上の設定は作られてきた。世紀の大事件に巻き込まれた主人公だったり、親友や家族との鮮烈な体験だったり、太古の救世主の末裔だったりと、様々な理由づけはなされてきた。少年という設定が用いられるのには、業界としての歴史的な経緯もあるだろう。しかし、どのように理由付けようとも「で、その世界の大人は何やっとんねん」というツッコミを綺麗に受け流すことは難しい。

しかし、『チェインド・エコーズ』のエンディングは見事にそれをやってのけている。しかし、決して派手なエンディングでも、美しい伏線回収があるというものではない。地味で、人によっては「え?」と肩透かしを感じるかもしれない。しかし、私は初めてこのエンディングを見た時に感激してしまった。このエンディングは、先にも書いたが、90年代の日本のRPG的世界観を壊すものではない。どこか軽薄で、戦争や圧政というリアルな重みから浮世離れした、そんなJRPG的な雰囲気を保ちつつ、しかし見事に「なぜ年端もいかない少年が世界を救うという理念を持ちうるのか」への回答となっている。本作が達成した美点はいくつもあるが、このエンディングの着地の見事さは、最後の締めとして最高のものだったと感じている。その美しさは、かつてRPGに夢中になり、いまや大人となってしまった多くの大人たちにこそ、しみじみと味わってほしい。なにより、ぜひ実際にプレイして確かめてみて欲しい。

本作にはその価値がある。

 

*1:2023.3.15現在、ローカライズ上の問題はいくつかある。女性が突然「俺」と男言葉を使い始めたりとか。しかし現在、日本語化にあたった方が様々な指摘を受けて真摯に修正対応を行おうとしてくれています。なお、以下2点以外は、ストーリー楽しむことやゲームを楽しむのに、現状の日本語でも十分な品質であると私は考えています。

【1.トロッコのスイッチ】東向けのスイッチが2つあったりして混乱するが、ローカライズ上のミスのよう。実態は東西南北の1つずつが割り当てられている。現状やってみて探るしかないが……。この点は以下のツイートでも指摘されている。

https://twitter.com/akane_sign/status/1637359709333364737?s=20

【2.道具のオーバードライブの使い方】「オーバードライブ(バフ)」などの道具の使い方が現状の翻訳だと分かりにくいかもしれない。オーバドライブを下げるタイプのスキルに合わせて、そのアイテムを使うと効果が発揮される。

*2:音楽はEddie Marianukroh、キービジュアルのいくつかをYo Kanzawa、背景美術のいくつかをAndrew Silvermanに頼んでいるとMatthiasにより語られている。

参考URL :Ten turns Interview with Chained Echoes Developer Matthias Linda

*3:彼のインタビューではインスピレーションを受けた作品として、その他に『幻想水滸伝2』『ブレス・オブ・ファイア』『天地創造』などを挙げている。

参考URL : Interview: Chained Echoes Developer - Matthias Linda - Lords of Gaming

An Interview with ‘Chained Echoes’ Developer Matthias Linda – SwitchArcade Special – TouchArcade

*4:この後で示すマップ設計の巧みさもさることながら、エンカウントする雑魚敵の少なさもまた、移動のストレスフリーに大きく貢献している。

*5:本稿では、日本のRPGというシンプルで中立的な意味でJRPGという言葉を使っていない。JRPGという言葉に潜むどこか幼稚さや不思議さを示す時にJRPGという単語を用いている。なお、製作者のMatthiasもまたインタビューでJRPGという言葉を使っているが、それはかなり中立的な意味で使われている。彼自身の日本のRPGへのリスペクトの深さは、本作をプレイすれば自ずと伝わると思う。

*6:ゲーム内ではTPという。スキルを使う時に消費するMPに近い数字のため、分かりやすさのため本稿ではMPと書いている。

*7:終盤、サブクエを消化することで、ラストバトルの戦闘はかなり楽になるのかもしれない。