ビデオゲームとイリンクスのほとり

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「まじめな遊び、ふざけた遊び」(雑誌『広告』Vol.417所収)を読んだ感想

ゲーム研究者である松永伸司さんが、雑誌『広告』(Vol.417, 2023)に「まじめな遊び、ふざけた遊び」と題した論考を書かれている。とても面白かったし、毎回こういう話を読んで、自分の興味のある分野であるビデオゲームに引き付けて考えたりしてしまう。そのことを感想文のように書いてみたい。

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当該論考は、ヨハン・ホイジンガが考える遊び観とミゲル・シカールの考える遊び観、その2つの遊びに対する見方や考え方の違いを示し、それぞれの特徴やそのモードに類する具体的な事例(文化や慣習など)を挙げる。そして、その2つの遊び観は異なるものの、1人の人間の中に同居していることを示し、こうした遊び観を自己省察ツールとして用いることもできることを示している。

文化史家のヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』はとても有名な本だが、読み始めると結構読みにくい。面白い具体例も多く、読んで楽しい本ではあるが、ホイジンガが遊びをどういうものとして見ているかを、端的にまとめることが(私には)結構難しかった。本論考を読んで最初に思ったのは、そのホイジンガの遊びに対する見方が、非常に分かりやすくまとめられていて、これは大変ありがたいなぁと思った。ホイジンガの本を読み直した時などに、この論考の記述と引き合わせながら読むと理解がしやすいように思った。

タイトルにもなっている「まじめな遊び」と「ふざけた遊び」だが、「まじめな遊び」がホイジンガ的な遊び観に、「ふざけた遊び」がシカール的な遊び観に結びついている。私も以前、ボードゲームに関してトピックが少し重なるような話を書いたことがある。

【コラム】なぜゲームにおけるエンジョイ勢とガチ勢は分かり合うことができるのか。: 非電源ボードゲームで未来のゲームを妄想する

この「なぜゲームにおけるエンジョイ勢とガチ勢は分かり合うことができるのか。」というコラムで言っているガチ勢とエンジョイ勢が、先の2つの遊び観と被るところがありつつも、ピッタリと「まじめな遊び」と「ふざけた遊び」に対応するわけではない。

松永論文で語られる「ふざけた遊び」というのは、「流用的」という言葉で代表されるような、本来の遊びなり制度なりの目的から外れるようなことを目指す遊びの姿勢を意味している。それは少し「エンジョイ勢」という姿勢とは異なり、もっとより積極的な意義(危険性も)が認められている。「エンジョイ勢」の場合、「ふざけているわけではないが、まじめになりすぎない」みたい態度であり、それはシカール的な「流用と撹乱」をもたらすわけではないだろう。そこの「ズレ」みたいなものが面白いなと思った。

この「ズレ」が面白いと思うのは、シカール的な遊びの価値が、まじめなものへ接続していることを考えさせるからだ。体制や権力を、流用や撹乱によっておちょくることは、かなり正しいし、意義深い。見方によっては、それはかなりまじめな態度だと言える。「神エクセル」を笑ってSNSでネタにして遊ぶ人の方が、その神エクセルを使って非効率的な仕事を「まじめに」している人よりも、はるかにビジネス的にも作業効率的にも(実質的には)まじめである可能性がある。この「流用」や「ふざけ」の価値を効率性や正義に結びつけてしまいそうになることにはどこかアンビバレントな気持ちがする。上手く言えないが、「ふざけた遊び」は「ふざけているからこそいいのだ」とかいうようなやや乱暴な言い方をしたくなる気持ちがある。それはデュシャンの『泉』がまじめ腐った形で美術館に展示されるような問題と少し関連するのかもしれない。 

そう考えると「エンジョイ勢」のような態度は1番まじめさから遠いのかもしれない。純粋なスポイルスポートも相当なふざけ具合(まじめさから遠そう)だが、どの方向に対してもまじめから距離を取ろうとする態度は、なんとも独特のいやらしさがあるように思える。

またこんなことを考えたのは最近のテレワークに関する以下のようなニュースを見たからだ。

米JPモルガン、幹部社員に週5日の出社指示=社内メモ | ロイター

JPモルガンやゴールドマンサックスなどでは出社することを求めており、テレワークを例外的などと言って、やんわりと否定している。ホワイトカラーの極点のような企業が出社を求めると言うのは、意外な印象を受ける人も多いだろう。なんとなくだが、どの場所でも働けるリモートワークの方が効率的であるように思える。しかしもし仮にリモートワークよりも出社する方が(なぜか)ビジネス的にも効率的で正しいと分かってしまった時に、「出社を求めるなんてロートルだな」と笑っていた人は逆に「自由やプライベートの充実とかいう形式的なものにこだわって、それ自体が目的化している遊びに夢中になっている」などと言われてしまうかもしれない。「神エクセル」がそのような「実は効率的だった」となる可能性はほとんどないと思っているが、こうした「まじめな価値観」と接続して何かをからかい、ふざける態度が、ブーメランのようにこちらに跳ね返ってくることを想像すると、怖いような気がする。

本論考の中で松永さんが

とはいえ、シカール的な遊び心を重視するアヴァンギャルドの文化もまた、秩序と無関係ではない。

と言ってる話と関連する話でもあるだろう。ここでは2つの秩序への関連の仕方が書かれている。

1つは、シカール的な遊び心の発揮が秩序を「前提」としているという話。

もう1つは、シカール的な遊びが魅力的であるためには、撹乱的であってもある程度の秩序を必要とするという話。

後者の話が厄介で、シカールの遊びがホイジンガのそれとどのように違うのかが難しくなる気がする。

そんなことを考えていると、短気な私は「ふざけているのは、ふざけているからいいのだ」と言える道筋というのもどこかに欲しいと思ってしまうのかもしれない。

なにより、こうしたことを考えたのは、ビデオゲームという遊びについて考える時にいつも気になっているポイントがあるからだ。それはビデオゲームの重要な特徴として、『楽である』という面があるのではないか」ということだ。ただ、この「楽である」をビデオゲームの特徴だとすることからして、色々難しさがあるし反論も多いだろう。例えば、家庭用コンソールのゲーム機で遊ぶ人はもはや少なくなっており、昨今それを遊んでいるのはベテランのゲーマーばかりかもしれない。そして今のオンラインゲームなども決してヌルいゲームではなく、かなりの訓練と努力と才能がものを言う。「ゲームが楽」などと言うのは、かつて「リセット世代」などの言葉が流行った昔のイメージでの話かもしれない。一方で、私がビデオゲームを「楽さ」という観点から捉えたいのは、スマホゲームの興隆や無料ゲームの多さなどの一般に浸透しているという状況ももちろんあるが、なにより昨今のビデオゲームチュートリアルが充実している点に感じている。スマホゲームを含むビデオゲーム作品のルールは、今はものすごく複雑化している。攻略Wikiなどを見ると、信じられないくらい膨大な知識を得ないと遊べないよう気がしてくる。しかし人気のゲームには、そうした複雑なルールをちゃんとプレイヤーに学ばせる仕組みが備わっていることが多い。初回のチュートリアルの丁寧さはもちろんだが、簡単なクエストから徐々に難しいクエストを段階的にこなしていくことで、最終的にはかなり複雑な仕様をプレイヤーに教え込むことに成功している。そういう(一つの作品やシリーズに閉じているかもしれないが)「教養」をこんなにも「楽に」教えてくれる娯楽商品というのはあまりないのではないか。それはインタラクティブ性を備えたビデオゲームだからこそできる発展における重要な特徴ではないかと思うのだ。

これが「まじめな遊び」や「ふざけた遊び」にどう関わるかというと、私は「ふざけた遊び」の一つの特徴として「楽さ(らくさ)」があるのではないかと思うのだ*1。「まじめに」やることには苦労が伴う。時間も能力も努力も必要になる。しかし「ふざける」ことであれば、比較的誰でもできる。今ある秩序に刃向かえばいいだけだからだ*2。だからこそふざけ方にも「センス」が出たりするわけだが、それはある一定レベルの限られた「おふざけ」の話であって、「おふざけ」というのは基本的には参入障壁の低いものではないかと思う。チーターが嫌われるのは、それが通常の「まじめな」努力よりも低いコストで大きな利益を得ようとしているからであり、その「楽さ」への倫理的な非難であったりしないだろうか。また「おふざけ」が嫌われるのは、それが今ある秩序やゲームを壊すからというだけではなく、その「安易さ」や「楽さ」への嫌悪感もあるように思う。「おふざけ」を子供っぽさとして評価する時も、「誰でもできるようなこと」という判断があるからではないか*3

しかし、私はこの「誰でもできる」「楽」「参入障壁が低い」ということに、ある一定の無視できない価値があるんではないかと思っている(もちろん欠点もあるが)。松永さんの論考に例として書かれている「メタケトル」もやろうと思えば誰でもできるという点に一つ重要なポイントがあると思っている。そしてビデオゲームもまた、世知辛い現実社会とは全く別の領域で、今からでもコツコツ始めれば、その世界でのエリートになることができるということを、(他の娯楽に比べても)極めて短時間*4で叶えさせてくれるところに、実は独特の価値があるのではないかと思っている。もちろんその特徴は良いことばかりではないのだが。

 

*1:松永さんの論考で「まじめな遊び」「ふざけた遊び」はあくまで遊ぶ人の姿勢というかモードとしての特徴として書かれていると思うので、ここでいう「楽さ」というのは遊びの形式に属する特徴の話かもしれない。私には、何が形式で何がモードなのかよく判別がついてないのだと思う。例えば、文脈的という特徴がモードであるなら、もしかして「楽である」というのもモードとして解釈可能だったりしないかなと思ってしまう。いずれにしろ、ちょっと議論がズレてしまってるかもしれない。

*2:注釈28のリンク先にある記事に書かれているのが事実だとして、ピノンセリの指を切り落とすような「おふざけ」は私の主張からすると、既に「ふざけた遊び」にはならないということになるだろう。誰でもできるようなことではないからだ。もちろん『泉』のレプリカに小便をすることもまた誰でもできることではないかもしれない。しかし誰でもできるか否かに関わらず、松永氏の論考における「ふざけた遊び」は、秩序の撹乱に向かうものであれば、それは「ふざけた遊び」に分類されるものであるだろう。

*3:注釈20にある通り、「まじめな遊び」か「ふざけた遊び」かは成熟度の話ではない。その点で私の話はやや話がズレてしまっているかもしれない。ただ、チュートリアルの充実などは正に成熟の結果であろうし、「メタケトル」の簡易なルールもまた洗練と明確な目的意識の結果であると考えれば、同じだと言えるかもしれない。

*4:ここでは「時間」という観点のコストについてしか言及していないが、「心理的なコスト」とかそういう観点でのコストの低さというのもあるだろうと思う