ビデオゲームとイリンクスのほとり

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クリアしなくても良いと思った瞬間に傑作となり、そろそろクリアしようかと思った頃に普通のゲームになる

2023年5月に発売された『ゼルダの伝説 ティアーズ・オブ・ザ・キングダム』をまだプレイしている。70時間以上プレイしているが、まだ3つ目の神殿をクリアしたところで、世界をフラフラしている。

このゲームを始めて最初の5時間ほどで、虜になってしまった。ずっと冒険していたい。クリアしなくてもいいから、ずっと遊んでいたい。そんなことを思った。ゲームというのは、クリアしなくても良いと思った瞬間に特別なものになる。そんな経験は多かれ少なかれゲーマーには思い当たることがあるのではないだろうか。

ゲームの定義論なんかを読んでいると、ゲームの特徴的な性質として「自己目的性」が挙げられることが多い。ゲームの目的というのは「ゲームをすること自体である」という意味だ。もちろん「勝つこと」が目的だという人もいるだろう。どっちが真の目的だとかそういう話ではない。ゲームに限らず、あらゆる芸術鑑賞には、そういう自己目的的なところがある。金儲けのためでもなく、何かのコミュニケーションのためでもなく、生きるためでもない。ただゲームをしたいからする。当たり前のことだが、時々それを忘れそうになる。そんな当たり前のことを忘れそうになること自体が、また面白い。

クリアのないビデオゲームというのももちろんあるのだが、買い切りのオフラインのビデオゲームでは多くの場合、「クリア」というものが設定されている。プレイヤーの中には、「とりあえずスタッフロールが出るところまでやるか」と一つの目安としてクリア設定をしている人もいるだろう。もちろんエンドコンテンツのようなものをずっと遊び続ける場合もあるだろう。将棋をはじめ、ボードゲームにはあまり「クリア」に相当するものはないことが普通だ。もちろん「クリア」のあるボードゲームもあるにはあるが、協力ゲームやソロゲームである場合がほとんどである。

ゲームにおいて、ここまで「クリア」というものが明確に重要なポイントになったのはいつの頃からだろうか。将棋や麻雀を「クリア」することはないのは当たり前だが、1人遊びのビデオゲームであっても「クリア」のために、そこまで昔はプレイしていなかったような気もする。ファミコンの『スーパーマリオブラザーズ』を「クリア」しなくてもずっと遊んでいた。そういう人は意外に多いのではないか。もちろん今のゲームほど親切ではないから「クリア」しなかっただけという側面もあるだろう。しかし「クリア」していなければそのゲームをちゃんと遊んでいないような気がしてしまうのだとしたら、「何に縛られているのか笑」と、なんだか自分で自分が可笑しいような気もする。今のビデオゲームにおいて、「クリア」させるのは自分なのか?それとも作り手がありがたくも「クリア」させてくれるのか。私自身、「クリア」に縛られているプレイヤーの1人としては、現代のゲームを遊べば遊ぶほどに、ゲームの「自己目的的」な特徴を、ともすると、忘れそうになる。

だから『ゼルダの伝説 ティアーズ・オブ・ザ・キングダム』を遊び、「クリアしなくてもいいかも」と開始5時間で思えた時というのは特別だった。このゲームが特別になった瞬間だった。こういう瞬間が味わいたくて、いい年をしてもいまだにゲームを遊んでいるような気がする。そして夢中の70時間が過ぎた。

しかし、そろそろ私はこの作品を「クリアしようかな」と思い始めている。この瞬間に『ゼルダの伝説 TotK』は、そのオーラが薄まり、普通のゲームに近づいてしまった気がした。いつかこういう時が来ることは分かっていたが、少し寂しい気もする。しかし、これもまた「悪くない」感じなのだ。普通にゲームを遊ぶ。クリアを目指して遊ぶ。それもまた悪くないのだ。