ビデオゲームとイリンクスのほとり

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『スノーランナー』が示唆する「男らしさ」表現の未来

2020年9月に日本語版がPS4で発売された『スノーランナー(SnowRunner)』。どういうゲームか一言で表現するならば「荷物を運ぶトラックシミュレーター」だ。荷物を運ぶために走る道路は、日常で見るような舗装された道路とは限らない。獣道のようなわずかに車輌の轍が見える道だったり、泥で車輪を取られるような道だったり、はたまた水没している道もある。そうした悪路をいかに工夫して踏破するか?ということがメインの課題となる。

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本作はめちゃくちゃ面白い。メタクリティックスでは81点*1だが、この作品の魅力に囚われると、かなり心を鷲掴みにされてしまう極端な魅力を持っている。気持ち的には90点以上を付けたくなってしまう。序盤にチュートリアルがあるものの、その後のガイドがそれほど洗練されているわけではないので、手放しで褒められる品質というわけではないが、それでも傑作と言いたくなるゲームだ。

 

本作では人間はたった1人しか登場しない。プレイヤーが操るドライバーが唯一の人間である。このアバターは車の外に出てくることがない。車の外から僅かに覗き見る限り、おそらく白人男性のキャラクター造形をしている。そしてそのアバターは一切変更することも衣装を変えることさえできない。ゲームの主眼が人間にないので、この仕様でも納得だが、とても割り切った作りをしている。

 

ゲームの中とは言え、トラックを運転していると自分に特別な力が宿ったような気がしてくる。何者にも負けない強靭さ。荒ぶるエンジン音は気持ちを奮い立たせ、その物理的な強さには有無を言わせない魅力がある。ハンドルを操作して車輪にそれが伝わるまでにタイムラグがあることも、いちいちハンドブレーキを外さないと発進できない煩わしさも、どこか「男らしさ」を感じさせる。泥道で車輪を高速回転させて、泥を巻き上げながら1m、2mと僅かずつ進んでいると、なんとも言えない快感がこみ上げてくる。自分を苦しめながら、でも負けない、負けないぞ、とアクセルを踏みしめる。マゾヒスティックな快感に、不思議な充足感を味わう。

 

トラックの進みは遅い。『GTA』なら10秒で到達する距離を30分掛けて進む。遅さこそが「男」である。コマネズミのようにちょこまかと動くのでない、堂々たるその姿。ほとんどアナクロニズムとしか言えないような、そんな「男らしさ」への物怖じしない傾倒の姿勢が実に面白い。いや、しかし、普段から自分はそんな「男らしさ」みたいなものが好きだったろうか。いや、オタクとしてむしろそういう価値観には反発心すら感じていたのではないか。しかし、そんなわたしさえ「男らしさ」の快感に目覚めてしまう。それを目覚めさせる力が『スノーランナー』にはある。

 

物を運ぶゲームとしては、最近リリースされた『デス・ストランディング』が思い浮かぶ。あれもまた白人男性が主人公の物語だった。しかし物語のウェイトが大きく、『スノーランナー』とは似ても似つかないところがある。なにより『デススト』は「男であることへの躊躇」のようなものがある。接触恐怖症だし、父親としても夫としても、その立場を失っている。アメリカを再び統一するというとても勇ましい目標が掲げながら、そのゴールには姉とも妻とも母ともつかない、曖昧模糊とした「母性的な何か」が据えられている。ノーマルな男女の物語は既に語ることはできないという時代的な確信が『デススト』にはある。そういう「ノーマルさ」にためらいを感じている『デススト』であっても、結局のところ最後は「赤ん坊の獲得」というような分かりやすいゴールに帰着する物語を描いていた。しかし『スノーランナー』は違う。そこには実態としての男も女も存在しない。ただ概念的な「男らしさ」に極端にこだわることで、逆説的にあらゆる性別的なモノを全て排除した、見方によっては『デススト』よりも遥かにラディカルな世界が描かれている。『スノーランナー』の世界には人っ子ひとり出てこない、どこかディストピアめいた世界だが、そこにフィクション的な意味合いは全くない。世界や環境は、ただ、プレイヤーが乗り越えるべき壁として存在している。力の権化たる巨大なトラックと荒廃した道路には、社会へのメッセージはおろか、なんらかの人間的な主張もない。『デススト』が「配達依存症」という言葉を使うことで白けてしまったような、そういう間抜けさが、『スノーランナー』にはない。ただ、登山のようなストイックさがある。

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スノーランナー』には物語と言えるものがほとんどない。ミッションに見られる僅かなテキストからも、物語は見えてこない。もし仮にこの「男らしさ」がテキストや物語として表現されることがあったとしたら、果たしてそれは実にベタで凡庸な現代的価値観への逆張りのように写ったかもしれない。しかし『スノーランナー』は言葉で語らない。ただ、トラックのスピードとトルクとパワーによって「何か」を表現する。物理的な力強さへの遠慮のない賛辞。もしそれを物語として表現してしまったら、どんなに「男らしさ」が好きな人間でさえ、この現代社会では今や鼻白んでしまうようなアナクロさだろう。それがただゲームのメカニクスとして描くことで、実に清廉で純粋で掛け替えの無い美しさのように見えてくる。「ただ、おれはこの重い荷物を運ぶために、そのためだけに大量のガソリンを消費して、地球環境を悪くするような排気ガスを撒き散らしている。ただ荷物を運ぶために、トラックを動かしている」。この絶妙に「政治的に正しくなさ」が、絶妙に「政治的に正しく」表現されるのは、これがゲームだからだろう。ゲームメカニクス*2で表現するという文体を持つ事で、物語やテキストが持つ「臭み」が良い具合に取り除かれている。

 

ゲームだから描けるロマンがこういう形で結実している点において、『スノーランナー』はゲーム特有の表現力を示す稀有な傑作であると思う。

 

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↑ロード画面に表示される「トラック関連マメ知識」。女性の存在を全く意識しないかというとそうでもなく、こういうテキストが現れるのは「時代だな」と感じられ、面白い。翻訳はちょっと変な気もするが……

 

 

*1:メタクリティックスは2020.09.24時点のもの。ちなみにPC版もコンソール版も全て同じ点数である。

*2:より正確に言えば、ゲームメカニクスだけで「男らしさ」が表現されているわけではない。トラックの大きさを感じさせるビジュアルやエンジン音などもそれを表現する重要な要素となっている。またゲームメカニクスと言っても、ゲームルールに近いような意味ではなく、もっとふんわりとゲームのプレイフィールに近いような意味でこの記事では使っている。