ビデオゲームとイリンクスのほとり

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『昭和米国物語』の「面白そう!」は何が面白そうなのか?

2022年1月7日にゲームメディアが報じた『昭和米国物語』というゲームのリリースは、瞬く間にネットでも大きな話題となった。すぐに過去の話題になりそうなバズり方ではあったが、私自身もこのゲームのPVを見て「絶対買っちゃいそう……」と思った(単純)。でもそのくらいインパクトがあった。

Showa American Story | Official Reveal Trailer - YouTube

色々な人の感想や印象を見ていると、結構「面白そう」とつぶやいている人を見る。確かにその通りで、このゲーム、不思議と面白そうなのだ。しかし、PVで見られるゲームプレイのシーンというのは割合からすると少ない。刀らしき武器でゾンビを斬るシーンや、バイクでゾンビを轢き殺すシーン、アサルトライフルやショットガンで敵を薙ぎ倒すシーン。どのゲームプレイのシーンも、他のゲームでよく目にしそうな、極めてありがちで凡庸なものにも見える。冷静になって考えてみると、一体このゲームの何がそんなに特別に面白そうに見えてしまったのか、正直よく分からなくなる。

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もちろんこのゲームを「面白そう」と評したからと言って、ゲームプレイやゲームメカニクスなど「ゲームの部分」が面白そうだと言ったわけではないと言うこともできる。何よりこの破天荒な昭和66年という設定や、文化的・経済的侵略を受けたアメリカという奇天烈なニッポンの面白さは自明である。また製作が中国のゲーム開発スタジオであることも独特の話題としての面白さを提供してくれている。海外の人がここまである年代の日本人のツボに直撃する要素を適切に(?)配置できた驚きは確かにある。多くの人の「面白そう」というコメントはあくまでこういうものを指しているに過ぎないのだとも言えそうである。

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↑主題歌が『それが大事』なのはやられた感があった

しかし、果たしてそうだろうか。これが例えば映画のPVであったとして、ゲームプレイの部分がなくなっても、「面白そう!」と思えただろうか。もちろんそれができた可能性はある。そのくらいとても面白い映像センスが感じられるPVではあった。とは言え、そうしたことを踏まえつつも、多くの人は意外にもゲームとして面白そうだと言っているのではないだろうか。ゲームだからこそ『昭和米国物語』がこれだけ「面白そう」に見えたのではないだろうか。では、そのゲームならではの「面白そう」感とは一体何なんだろうか。

私はこのPVが感じさせるビデオゲーム的な「面白そう」感とは、不統一感であり、デタラメ感ではないかと考えている。それはゴールデンゲートブリッジに掲げられている巨大な提灯であり、着物を着た自由の女神であり、新横浜と呼ばれるロサンゼルスである。しかし、そうしたトンデモニッポン的なものだけがデタラメなのではない。そういう面白さはアニメでも映画でもありうる。ただ、アメコミが実写化する際には、リアリティを高めるために衣装がコミカルな雰囲気を失ったりすることがある。リアリティなり世界観なりのために、元々持っていたデタラメさが均される(ならされる)ことは普通にある。私が感じるのは、そうした作品製作としては極めて真っ当な均そうとする良識を忘れたような、ある種のタガが外れたデタラメさがビデオゲームというメディアには許容するところがあるのではないかということだ。なぜだかよく分からないが、ビデオゲームというメディアには、不思議とデタラメさを許すようなところがある。例えば奇妙なニッポン要素以外にも、脈絡なく竹馬が出てきたり、刀によるスラッシュアクションがあり、ヤクザ的な組織があり、アニメへのあからさまなオマージュがあり、「例のプール」まで出てくる。モチーフが乱立する中に、ほとんど他の要素とフラットに「ゲーム部分」が入ってくるのだ。ビデオゲームというメディアにはこの「作品として統一感」にとてもユルい面があり、それはビデオゲームの核と言っていいはずの「ゲーム部分」さえ、その特権性を失わせる程の相対化の力を持っている。ビデオゲームは、プラットフォームアクションに突然シューティングゲームが混じるようなことが古くからあるメディアだ。カットシーンとゲームプレイでは全く異なる仕組みやエンジンで製作して、繋げられていることは珍しくもない。とはいえビデオゲームであっても「作品としての統一感」が重要視されることはあるし、それを目指して作られている作品の方が多いかもしれない。しかし全然違う要素が混じりあっていることへの抵抗の無さというのはビデオゲームの特色の一つとしてあるのではないだろうか。例えば、同じゲームと言ってもボードゲームにそういうユルさをここまで受け入れる受容文化はないように思う。なぜビデオゲームにそういう特徴があるのかは様々な歴史的経緯があるだろうが、それを突き詰めたいのではない。私が興味を持つのは、そのデタラメさを面白がるという独特の価値判断がゲーマーのコミュニティには普通に存在するという点だ。

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よく見た目が良いだけで面白くないゲーム、とか、お話は面白いけれどゲームメカニクスとしては凡庸なゲーム、というのがゲーマーの間でも議論の対象となる。当該作品の各要素をそれぞれ取り上げて、どの部分が優れているのか、どの部分が優れていることがビデオゲームにおいては大切なのか?ということが議論される。それは個々の観点は異なれども、映画でも漫画でも小説でも同じようにあることだろう。そして他のメディアと同様、そうした各要素が「統一されていること」は一つの美点として、ビデオゲームにおいても評価される。しかし一方で、ビデオゲームにはこの各要素が乱立したままに、ある意味バラバラのままで、どこを楽しんでも良い、なんなら自分の好んだ要素が他の要素を邪魔したり、矛盾していることがあっても、それが直ちに欠点になるわけではない。人の生命の倫理的な問題を扱う物語なのに、人をカジュアルに殺すことへの喜びを楽しむ要素があるゲームが、そのことによって真正面に批判されることは意外に少ない。むしろ玉石混交であっても楽しめるポイントが沢山ある方が良いゲームである、という価値観がかなりのウェイトでもって、ビデオゲームを評価する際の指針となっていると思うことがある。これは特定の主流でない要素が極端に良いから評価される、と言う話とは似ているけれど少し違う。もう少し「八方美人」や「器用貧乏」を愛でるようなところがビデオゲームにはある、ということだ。そして、この価値観は決して古くからあるわけではなくて、オープンワールドゲームが盛り上がってきた2000年代頃から盛んに言われる「自由度」の問題に繋がっているのではないかと思う。

「自由度が高い」はよく目にするビデオゲームに対する褒め言葉の一つだ。しかし普通に考えて「自由」であっても「楽しい」とは限らない。だから真面目なゲーマーはこうした「自由度」信仰に対してはある一定の警戒感を持つ。「自由だったら、それで良いのかよ?」と。しかしながら「自由度」を褒めるときに人は本当に「自由で楽しい」ということを求めているのだろうか?街で歩く通行人を意味もなく撃つ自由、味方を裏切る自由、道徳的な判断を覆す自由、いきなり自キャラを奈落に落として自殺する自由、ゲームにおけるこうした自由は、それを選んだ上で、プレイヤーたちはそのことから楽しさを享受しているわけではない。いや刹那的には楽しいけれど、別に何度もやりたいわけではない。むしろ僕たちが「自由度」を愛するのは、デタラメを愛しているということの言い換えではないかと思うのだ。(もちろんだが、『昭和米国物語』が「自由度」の高そうなゲームだと言いたいわけではない)

『昭和米国物語』が良いゲームかどうかは分からない。同開発スタジオの作った過去のゲームを調べると不安は増すばかりだ。しかし、そんなことはどうでも良いのだ。ビデオゲームらしい良質なデタラメさ*1をそこに見たからこそ、『昭和米国物語』は不思議と「ゲームとして」面白そうに見えたのではないだろうか。

*1:『昭和米国物語』は決してデタラメではなく、あの世界観で見事な統一が取られているのだ、というのは本稿に対する妥当な反論と思う。確かに日本のネットサブカル的なものという観点から統一は取られているとも思う。ただ、年代的なものを一つ取っても、80年代(ガンダム)、90年代(それが大事)、00年代(グレンラガン)、10年代(例のプール)と出てくるモチーフが様々な年代に渡っているし、もはや昭和というより平成ではないか?とも思う。もちろんあえて「昭和」と言っているとも思うが。だから私としてはデタラメだからダメ、と言いたいわけではなく、端的に不統一的なデタラメさもあると指摘できるとは思う。むしろ重要なのは、「良いデタラメさ」と「悪いデタラメさ」を議論できる、本作はキッカケにもなるかもしれない、ということである。