ビデオゲームとイリンクスのほとり

ブログになる前の軽い話は以下で話してます。■Discord : https://discord.gg/82T3DXpTZK 『ビデオゲームで語る』 ■映画の感想は『映画と映像とテキストと』というブログに書いてます。https://turque-moviereview.hatenablog.com/ ■Twitter ID: @turqu_boardgame

映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

『It takes two』は「大切な人とプレイして欲しい1本」とかいう最大級のクソコメントがしたくなる傑作

It takes two』は、2021年最高の1本になりうる作品だ。1人では遊べない。もちろんコントローラー2個を器用に1人で扱うことができれば、プレイ可能かもしれないが、そんな虚しさ200%の遊びをする人は少ないだろう。

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このゲーム、とにかくよくできている。まずアクションとしての「手触り」が非常に良い。ジャンプもダッシュも実に手に馴染む感じがある。あまり3Dプラットフォームゲームに慣れていない妻と娘と一緒にプレイしたが、最後までクリアできたのは、この操作の気持ちよさが要因として大きかったと思う。 

そして、そのほんわかとした世界観からは想像できないほどにスペクタクルに満ちた映像表現もまた満足度を高める。アクションゲームとして単純に面白いことはさることながら、一つのステージをクリアするたびにド派手な爆発や巨大なオブジェクトの縦横無尽なモーション、豪勢なテクスチャやアセットのバリエーションによって、とにかく見た目にも退屈しない。一回の短時間のプレイでも十分すぎるほどにお腹を満たしてくれる。多くの人の評価にある通り、全般的にメカニクスも見た目もバリエーションが多く「贅沢な」ゲームである。

と、そんなわけでゲームとしてはどんな批評においても絶賛されている本作ではあるのだが、今ひとつストーリー(物語)については語られていないような気がする。しかし物語も決して出来の悪いものではない。その語りには色々と面白い部分があると思っている。それを本稿では書いてみたい。なお、以降、物語の後半、終盤の展開についても語る。

(追記 : 2022.9.14 論理展開を明確にするため、大幅に改稿しました。)

Dr.ハキムは災害のような存在

物語の観点から本作を語る前に、物語を進行させる役割のDr. ハキムについて、簡単に述べたい。Dr.ハキムは、両親から離婚をする話を聞かされた娘が、二人の仲直りを望み、その時に落とす涙によって呼び起こされた本の精霊のようなキャラクターである。Dr. ハキムは本作において物語の進行役のような役割を担っている。精霊のようなキャラクターと言っても、決して可愛らしかったり優しいキャラクターではなく、身勝手で道化的な振る舞いをする。そんな態度に、コーディ(夫)とメイ(妻)の二人は序盤から頭にキているが、結局はヨリを戻すという話において、その「ムカつきキャラ」が必要なピースとなっている点が面白い。

f:id:tuquoi:20210601163544p:imageDr. ハキム

恋人(夫婦)の険悪な関係が、以前の仲の良かった関係に戻る物語をドラマティックに描くのは意外に難しい。というのも「互いを人間として尊重し、適切で寛容なコミュニケーションをとれば仲良くなれる」などと言っても、話として盛り上がるものにはなりにくい。当然、何かの困難を2人が乗り越えるという話になることはとてもよくあるパターンだろう*1。ただ、そうしたプロットの場合、どうしても夫婦の一方、つまり当事者自身が活躍などをして、もう一方の当事者(相手)を感心させる、という流れになりやすい。

本作では、メイ(妻)とコーディ(夫)はオープニングで既に離婚を決めており、2人自身は仲直りをしたいとは思っていない。では誰が仲直りを望むかと言えば、それは彼らの一人娘ローズである。もちろん、娘が両親の関係修復を望むことは極めて自然なことである。だからといって「娘がかわいそうだから」という理由だけで、夫婦関係を維持・修復するような物語が、果たしてハッピーエンドと言えるかどうか、微妙だろう。

本作では、両親の関係修復を望む娘の涙が、娘ローズの意志とは関係なく、Dr. ハキムを召喚し、そのハキムが実に身勝手に仲直りを強制させる、という展開になっている。ここで重要なのは、夫婦関係の修復は誰かの思惑ではなく、ほとんど成り行きでその関係修復が進んでいくという点である。

更に注目すべき点は、Dr.ハキムとはマトモなコミュニケーションが取れないところにある。彼は人の話を聞かない。ただただ暴走機関車のごとく物事を推し進めようとする。Dr.ハキムの行動はいわば「災害」のようなものなのだ。彼がまともな会話ができて、コミュニケーションが取れる関係であった場合「余計なお節介はやめて下さい」という要請に彼は応えなくてはいけなくなる。しかし、聞く耳を持たないハキムは、この家族にとって、1人の登場人物というよりも、全くの外部的な存在となる。押さえておきたいのは、家族の愛情などによって、この家族が修復しているのではなく、災害のような環境の困難さによって「結果的に」修復する話であるということだ。これが後の考察とも関連する。

恋の継続を謳うことが意外に難しいのはなぜか?

男女2人の恋愛を描いたゲームである『フローレンス』(2018)というスマホゲームがある。また最近だと『マケット』(2021)という作品でもそうだが、これらの作品では恋愛の破綻が描かれている。昔からある「騎士が囚われの王女(Damsel in distress)を救い出し、2人は末長く暮しました」という古典的な物語は、今やゲームでもなかなか見かけない。姫救出物語の典型的な例と思えるマリオシリーズでさえ、2017年発売の『スーパーマリオ オデッセイ』では、最後に、マリオとピーチ姫は結ばれない。エンディングでピーチ姫は一人気球に乗りクッパとマリオを置き去りにして去ろうとする。ゲーム作品におけるジェンダー表現の変化として、こうした事は多くのゲーム作品に見られる最近の傾向である。ある種のリアリティを追求するにあたり「二人の男女が末長く暮しました」を素朴に描くことは端的に困難になっている。こうした傾向の理由はいくつかあると思うが、1つは社会の中におけるジェンダー観の変化が大きいだろう。そして、その理由とともに、「救出」はゲームという表現形式に合っている一方で、「その後の幸せな恋愛の継続」はゲームという表現形式に合っていないということが、より自覚されるようになったからではないかと考える。この考え方の背景には「プレイヤーキャラクター(PC)とノンプレイヤーキャラクター(NPC)の非対称性」がある。これについて少し詳しく述べたい。

救出の非対称性と恋愛の対称性

クラシックな救出をテーマとしたゲームでは、主人公は囚われの姫を救出するのに相当の苦労や努力を重ねる。一方で、囚われの姫の事情というのはプレイヤーのキャラクターに比べてどうしても描写が薄くなってしまう。これは映画や小説であっても同じタイプの物語であればある程度は同じだろう。しかし、小説や映画であれば、主人公と同じくらい姫側の描写を描くことは可能かもしれない(例えば同じくらいの時間やページ数をかけて描くことによって)。しかし、ゲームでそれをするのであれば、姫側もプレイ可能なキャラクターとして登場させない限り、どうしても非対称性が生まれてしまう。ゲームにおいては、同じ物語の登場人物と言っても、操作できるプレイヤーキャラクターと(PC)と操作できないノンプレイヤーキャラクター(NPC)はその立場が大きく異なってしまう。救出という行為をゲームで描きやすいのは、勇者による姫の救出という行為の非対称性が、PCとNPCの非対称性と合っているからだ。姫側を主人公と同等にプレイさせたら、それは単純な救出劇ではなくなるだろう。それは既に姫の「脱出劇」であり、おそらく主人公側の素朴で英雄的でヒーロー中心の救出劇にはならない。

そして、救出後の恋愛関係継続を地続きでゲームで描くことは更に難しい。恋愛関係が対等な互いの同意と好意によって継続するという前提からは、ゲームにおけるPCとNPCの非対称性はかなり都合が悪いからだ。これは映画や小説であっても、男もしくは女からの一方的な見方に終始した作品が「恋愛ファンタジー」としてやや否定的に捉えられてしまうのと似ているかもしれない。そしてゲームの場合、更に操作できる「量」によっても、両者を同一レベルで扱わないとゲームとして恋愛を描いても、どうしても一方的な(操作できるキャラの)視点に偏った恋愛劇になりかねない。辛うじて恋愛の成立までは描くことはできても(相手を目標物のように捉え、それをゲットするまでの物語として描くことができたとしても)、その恋愛関係を継続して維持するという段階の描写になると、操作の非対称性が邪魔になり途端に難しくなってしまう。ゲームで「2人は結婚して末永く暮らしました」というエピローグを付けることの難しさは、操作をしてもいないNPCのその後の人生を決定づけることへのためらいにある。これは救出する側が男性ではなく、女性の場合に逆転して考えてみると、よりイメージしやすいかもしれない。「囚われた王子様は、その女性剣士によって助けられて、その後、2人は結婚して末永く暮らしました」というエピローグを聴いて、「王子様自身は、どう考えていたのだろう?」という考えが頭をよぎるのだとしたら、逆に助けられるのがお姫様の場合には同じように「お姫様自身はどう考えていたのだろう?」と「なぜ思わないのか?」を考えてみると、より「2人は末永く〜」というエピローグを付けることの難しさが分かりやすくなるかもしれない。

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It takes Two』はそういう意味で、ほとんど破綻しかかった恋愛(夫婦生活)を無理やり継続させるという、極めてゲームという表現形式では難しい物語を描こうとしている。そしてそう考えると2人同時プレイを強要する本作のシステムは、恋愛継続の物語を描くため非常に都合が良い。それぞれが互いに相手に何を思うかを正にゲームナラデハの仕組みによって表現可能になるからだ。例えば、プレイヤーAは敵を倒すために相方であるBにもっとこう操作してほしいと思っている。しかしBの視点から見ると、Aが望むことは分かるものの、その通りに操作するにはAからは見えにくい障害があるため難しいのであり、そこに両者の意思疎通の難しさが生じる、という場面が本作では数多く発生する。これはまさに恋愛関係や夫婦関係で生じるコミュニケーションの難しさに似ている。

しかし、本作は、ゲーム特有の表現を使って夫婦の恋愛劇を描きたかったのかというと、そうではないと私は考えている。

むしろ、本作が真に描きたかったのは、ゲームを誰かと一緒にプレイするという行為そのものである、と考える。恋愛劇は、本質ではなく、表層的な飾りにすぎないのではないか。以下に、その点を理由とともには述べていきたい。

描きたいのは愛の魔力ではなく、ゲームの魔力

理由の1つ目は、本作の描く夫婦像が極めて保守的なイメージによって描かれているという点にある。夫のコーディは家事に専念していて、妻のメイが仕事一筋であることにコーディが不満を持っているという設定になっている。こうしたイメージはかつての専業主婦の妻が、仕事に夢中な夫に不満を抱くというテンプレ的なメロドラマ設定の男女逆バージョンに過ぎない。これを男女入れ替えて表現したら、おそらく「古臭すぎる夫婦像」として受け入れられなかっただろう。しかし、本作が現代の夫婦関係を時代にあった形でリアルに描くということに興味がないのであれば、このようなテンプレ表現であってもなんら不思議はない。現代社会のシリアスな夫婦の機微を描きたいわけではないのだから、今やスタンダードとなった夫婦共働きで現代的な夫婦像である必要がなかったのではないか。*2

理由の2つ目は、子供の描き方についてである。娘のローズは夫婦関係修復のためのキーパーソンであるのに、あまり何を考えているのよく分からない。離婚について相談をもちかけられる場面で静かに受け入れるような態度を見せた後で、部屋で一人になると両親の元サヤを望むという姿は非常に健気であるし、可哀想で心を揺さぶる。ドラマとして拙いわけではないが、人物の内面を深く描くようなドラマにはなっていない。また、ラストの「わたしが原因で離婚する」という素朴で幼いローズの誤解は、両親の離婚を自分が原因だと思い込むというよくある描写であり、とても自然ではあるものの、それまで物語として特に布石があったわけでもなく、かなり唐突にラストにそれが語られる。また、象のぬいぐるみが壊れてしまう鮮烈なエピソードも、ローズ自身の心情や親子関係を示すような要素があまり感じられない。もしもっとエモい物語を描きたいならば、ローズの切実さをより訴えるようなシーンがあっていいだろう。しかしそれはないし、エンディングもまたかなり淡白なのだ。やはりここにも夫婦関係や親子関係を濃密に説得力をもって描こうという意思は弱いと感じさせる。

こうした描写から、やはり本作は本気で夫婦愛や親子愛や家族愛を描こうとした作品ではないと思える。では、本作で、この夫婦の物語にはどのような役割があるのだろうか。私の考えでは、それは、夫婦愛や家族愛そのものを描くための物語なのではない、というものだ。つまり、物語の役割は比喩なのだ。何の比喩か。それはゲームの比喩なのである。繰り返すが、『It takes two』が描きたいのは、ゲームをプレイするという行為そのものである。特に、「2人で一緒にプレイする」という事象そのものなのだ。だから格闘ゲームのパロディや、マリオカートレインボーロードのオマージュが登場する。こうした子供の頃に2人でゲームを遊んだタイトルのパロディを出すのには理由がある。よくネットなどではゲームの2人プレイについて度々次のようなことが言われる。

「2人で遊ぶとどんなゲームも楽しくなってしまう」

あまり面白くない凡庸なゲームでも2人で遊ぶと自然と楽しくなってしまうということを意味するこの言葉。この協力プレイの魔力こそが『It takes two』の描きたいものではないだろうか。本作の開発者であるジョセフ・ファレスの過去作を振り返ると、彼のビデオゲーム一作目である『ブラザーズ : 2人の息子の物語』も同様である。兄弟の感動的な物語ではあるものの、『ブラザーズ』の圧倒的な魅力はゲームをコントローラーでプレイするということが果たすゲームならではの独特な演出にあった。その発想こそがキモの作品だったと言えるだろう(『ブラザーズ』は、残念ながらSwitch版が悲惨な出来の移植であるため、PC版を強くオススメする)。

では、夫婦愛や家族愛の物語というのは、単なる添え物であり、比喩でしかないのだろうか。一概にそうとは言えない面もある。本作の物語がゲームではなく、一般的な映像作品であれば、最後、夫婦が仲直りするという展開をただ漫然と見つめるだけになっただろう。そこに納得感や説得力は薄かったかもしれない。なぜなら、物語自体には説得力もリアリティも薄いからだ。しかし、ゲームである本作の場合、本作をクリアしたプレイヤーである2人には独特の空気が流れているはずだ。「もう一度仲良くなって良いかもしれない」そう思わせるだけの奇跡を起こしたのは、物語としての設定、プロット、台詞の秀逸さではない。「2人でゲームをして楽しんだ」という事実そのものだ。その事実があるからこそ、このやや拙い物語で許せてしまうのであり、理不尽に仲直りしても良いのである。そして何より、本作の持つ独特のノスタルジーがある。かつて一緒にファミコンスーファミをプレイした時のようなそういう良いことばかりが思い出せるような過去の煌めき。それがうまい具合に、かつての幸せだった恋愛期間とオーバーラップされて、巧みに物語内の夫婦愛を錯覚させる。様々なゲームシステムがごっちゃ煮にされているのは、ある意味で過去の回想であり、美味しいところだけをつまみ食いするようなノスタルジーに似た贅沢さでもあるだろう。It takes two』は、そうした畳み掛けるような物量によって、恋愛の魔力とゲームの魔力を混同させることを達成している作品である。

それゆえ、この夫婦関係を修復しようという強い意志を持つ登場人物は不要になるのだ。Dr.ハキムという災害のような存在がきっかけとして働けばいい。あとの関係修復の奇跡はゲームの魔力が担ってくれる。これは子供の希望によって、望まない夫婦関係を持続させるという、あまり「正しくない」物語になることも巧みに避けているという面もあるだろう。

誰とプレイするかが物語の説得力を決める

だからこそ、本記事タイトルにあるように「大切な人とプレイして欲しい」ゲームなのだ。そんな安い映画のプロモーションコメントみたいなことをつい言ってしてしまいたくなるのは、そのあまりにも贅沢な錯覚の旅路は、ゲーム外の「大切な人」との共有によって更に増幅されるからだ。いや、もしかしたら、プレイ後はプレイする前よりも、相手がもっと大切な人になってしまうかもしれない。そういう安っぽいロマンを心から信じさせるに足る実力を持っているゲームの傑作だ。人を気持ちよく錯覚の魅力に落とし込むことができるのが『It takes two』という作品自身の魔法であり、ひいては多人数で遊ぶゲームというものが本来的に持っている魔力なのだろう。

 

*1:映画『ダイハード』『トゥルーライズ』など

*2:本作における男女の単純な裏返しは随所に見られる。例えば、ゲーム中盤で、騎士と魔法使いに変身して進む場面がある。肉体派の騎士を妻のメイが、魔法使いがコーディになっている。格闘ゲームパートも戦うのは妻のメイである。TPSパートでも銃で敵を撃つという勇ましい役割は妻のメイが担っている。あまりにこの逆転が分かりやすくなされていて、ある意味素朴ささえ感じさせる。