ビデオゲームとイリンクスのほとり

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傑作『バタフライスープ』が示すもの。私たちは「属性」の組み合わせではない

English version : Butterfly Soup. The importance of not limiting. - ビデオゲームとイリンクスのほとり

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『バタフライスープ』という傑作ノベルゲームがある。PCで日本語でもプレイできるので、是非多くの人にプレイしてほしい(ちなみに、お金を払うこともできるが、無料でもプレイ可能だ)。クリアまでは3~5時間。大きな分岐はなく、ほぼ読み進めるだけの物語だが、本作の紡ぎだすテキストは非常に説得力と魅力を兼ね備えている。

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『バタフライスープ』の舞台はカリフォルニア。アジア系が多く住む地区に一人のインド系のディーヤという少女がいる。彼女と周りにいる女子高生*1の4人が中心となり、彼女たちが参加する野球同好会での練習、試合、学校生活、悩み、そして恋が描かれる。

本作には波乱のドラマやあっと驚くような展開があるわけではない。描かれる姿は極めて日常的な姿であり、多くのプレイヤーにとってささやかな共感を呼ぶような物語だ。そんな静かなテキストの中で比較的ドラマティックに描かれるのは、その恋である。ディーヤは幼いころに、同じ地区に住む韓国系のミンという少女に恋をした。それは淡いあこがれのようでもあり、しかし確かに「好き」という感情を含むものである。


ディーヤがその気持ちを自覚するシーンでは、実に繊細ながら決して芝居がかることのない自然な感情の動きが表現される。同性である女の子に特別な感情を抱くことへの微かな抵抗感やとまどい。そんなシーンを味わうと、彼女たちをレズビアンだと、そうレッテルづけることに僕はわずかに躊躇いを感じてしまう。いや、確かに彼女はレズビアンであり性的マイノリティなのかもしれない。しかし、そういう存在だとレッテルづけて「済ませてしまう」ことに抵抗を感じる。それは本作『バタフライスープ』に対しても同様である。これはLGBTをテーマにしたゲームなんだと、ただそういう風に特徴づけることに少し抵抗を感じるのだ。

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自分のミンへの気持ちを否定するディーヤ

『バタフライスープ』の主要な登場人物は、バイセクシャルであったり、レズビアンだったりとセクシャルマイノリティを強く意識した作品であることは明白である。そのため、本作は「百合ゲー」であり「LGBTをテーマにしたゲーム」として当然語られる。それはもちろんその通りであるし、どこも間違ってはいない。しかし本作を「そうしたゲーム」として、決して単純に扱ってはいけないような、そんな気持ちにさせる何かがある。こう感じるのは、本作が「対象を限定づけないことの大切さ」を強く伝える物語であると思うからだ。


印象的なシーンがある。主人公のミンとその双子の兄弟ジュンソがまだ幼いころのエピソードだ。彼女たちは、アメリカに住む人口構成のうち、アジア系の割合が5割を超えていると思っている。なぜなら、彼女たちの周りにはアジア人ばかりがいるからだ(もちろんそれは、そういう「地区」だからだ)。そんな彼女に白人の友人ヘイデンはこう反論する。「テレビに出ている人がなんでみんな白人か考えたことあるか?」と。その事実はアジア系であるミンたちは当然認識している。そこでこう反論するのだ「いや、アジア系の両親は子供たちに俳優のような職業についてほしくないと思っているからテレビでアジア系の露出が少ないんだ」と。

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テレビでアジア系の露出が少ないのは、アジア系の親が「しっかり」しているからだと主張するジュンソ

僕らは、そんな幼い頃のミンやジュンソたちと似ている。属性を見て「これこれはXなんだ」と思い込んでしまう。問題が根深いのはそういう思い込み自体よりも、思い込みに「理由付け」がなされることだろう。なぜなら、理由付けによって「Xではない可能性」を積極的にそぎ落とし「Xではない可能性」への想像力を抑え込んでしまうからだ。

この「Xではない可能性」というのは『バタフライスープ』において、非常に重要な要素だと考える。例えばミンという少女の描かれ方は、正にそれを示している。彼女は「女」であり「アジア系」である。しかし、暴力を忌避するような性格ではないし、野球やテレビゲームが好きであるし、勉強は苦手だし、強権的な親には全力で抵抗をする。ミンはそういう「女である」「アジア人である」等の属性から逃れようとしている。彼女は属性やレッテルに付随する思い込みに対して「Xではない可能性」を常に(ほとんど理由なく)示し続ける。

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「女の子」であることから逃れるため、ミンは長い髪を突然切り落とす。

加えて重要なのは、彼女は「XでないからY」というように簡単には別のものにも断定できない点だ。ミンはピッチャーとしてナックルボールという変化球を投げる。このどこに飛んでいくか分からないナックルボールがミンという存在と重ね合わされていることは明白だろう。彼女は「Xではない可能性」を体現するからと言って、「XじゃないからYである」というものでもないのだ。彼女は何をするか分からない「常にXではない存在」であり続ける。彼女が破天荒に暴力的であるのは、理由によって何かを否定して別の何かに安住するのではなく、否定しつづけることそのものを表現しているからだ。「Xじゃない」ことそれ自体がミンという人物を特徴づけている。


では、そんなミンという存在は、ただすべてを破壊・否定しつくすのか。そうではない。そして、ここに『バタフライスープ』という物語が感動的である理由がある。ミンはどこに飛んでいくか分からないナックルボールのような存在であるが、それをちゃんと受け止める他者がいる。その他者がディーヤである。

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投げるのも、キャッチするのも難しいナックルボール

ディーヤだけはミンの投げるナックルボールを確実に受け止める*2。ディーヤというキャッチャーによってミンは「否定だけの存在」ではなくなる。ミンはただディーヤから愛されるだけではない。ディーヤを愛し、愛されることを望む。ディーヤとの愛によって、ミンはわずかに「ミンらしさ」を失う。彼女の普段からの暴力性は影を潜めてしまう。ルールを守り、正しく野球をプレイしてしまう。ミンがミンらしさをわずかに失うことを含めて、ミンはミンなのだ。そしてそれは他のキャラも同様である。

ノエルもアカーシャも常に「Xではない可能性」をはらんでいる。ノエルは親にとっていい子であり続けない可能性が示唆されるし、アカーシャは単に能天気なおフザケでは誤魔化せない悩みを抱えている。彼女たちは常に属性やカテゴリーから逃れる道に一歩足を踏み入れている。しかしだからと言って、今の在り方を全否定するわけではない。ノエルは親を軽やかに騙して、彼女なりの親との新しい付き合い方へと踏み込んでいくし、アカーシャはカミングアウトによってシリアスなキャラになるのではなく相も変わらずフザけたキャラであり続ける。何か表面的に見える属性やレッテルを否定しつつも、単に全否定するだけでは汲み尽くせない「余り」を抱える存在として生きているのである。


プレイヤーは『バタフライスープ』の様々なエピソードで描かれる差別や偏見への苦しみに共感する。しかしそれだけではなく、私たちは常にまだ形の定まらないそんな「余り」のようなものを抱えていることを気づかせてくれる点に共感する。それは1つの希望でもあるからだ。わたしたちは属性の組み合わせで語り尽くせる、そんな明確な形を持った単純な存在ではない。決して分類され切らない「余り」のある存在である。それは今ある世界を否定するだけのスパっと割り切れるキレイな世界でもない。今の自分から繋がるグチャグチャとした割り切れないものが残る世界だからこその希望がある。

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うまく、キレイにいかないことが決して失敗ではないことを静かに語りかけてくれる

『バタフライスープ』をプレイしていると、決して泣くようなシーンではないところで、不意に泣きそうになることがある。どんなに大人になっても『バタフライスープ』が身近であり、常に「余り」の部分を抱えることで、私たちは「うまくやること」「正しくやること」だけが進むべき道ではないことが示唆される。そんな割り切れない歪つな世界の、歪さゆえの優しさに、つい泣いてしまうのかもしれない。

 

 

 

*1:作品内では9年生とされている。9年生は、アメリカの多くで日本の高校1年生に相当する学年

*2:ここで、ディーヤがミンのナックルボールをキャッチできることの「理由が明示されない」ことは重要だろう

傑作インディーゲーム『セレステ(CELESTE)』ゲームにしかできない物語表現の極点

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セレステ(CELESTE)』は歯ごたえのあるアクションゲームである。クリアまでに2000回以上も死ぬことになったが、その旅は単に「歯ごたえがある」旅ではなかった。それは「自らを救済する旅」であった。それは一体どういうことなのか。単なるアクションゲームがどうしてプレイヤー自らを救うことができるのか。それを少し書いてみたいと思う。


セレステ』は横スクロールの2Dアクションで、"ジャンプ"と"ダッシュ"と"壁登り"という主に3つの操作で、針山や奈落を飛び越えながら進んでいく。非常にシンプルなゲームシステムだ。何度も死を味わう難易度だが、やり直しのためのリードタイムは短く、大きく進行を戻されることもない。本作のシステムは決して独創性があるものではなく、似たような作品としては『N++』や『スーパーミートボーイ』という作品が挙げられるだろう。しかしそれらの名作に勝るとも劣らない素晴らしいレベルデザインであり、単純なアクションゲームとして見たときにも『セレステ』は非常に高い完成度の作品である。

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しかし、本稿ではそうしたアクションゲームとしての素晴らしさを主に訴えたいのではない。本作を唯一無二の傑作足らしめているのは、その物語の存在にあると考えるからだ。物語がゲームとどのように融合しているのか。そのことを主に書いてみたい。

 

セレステ』の物語とは

まずは『セレステ』の物語はどのようなものか、それを簡単に見てみよう。(※以下、ネタバレ)

主人公Madelineは、なぜか山を登っている。その理由は分からない。山の名前はセレステ山。セレステ山を登る彼女は、途中、廃墟のようなホテルで自らの分身「わたしの一部」と出会う。その分身はなぜか山を登ろうとするMadelineを執拗に邪魔する。そんな妨害にも関わらず、必死に山を登り続けるMadeline。しかし旅の後半で、遥か下の谷底にまでMadelineは落ちてしまう。絶望するMadeline。そんな彼女に分身は語りかける。「だから何度も登るのを止めてきたのに」と。分身は彼女のネガティブな思考の化身なのだ。しかし、その後、分身とのやりとりの中で、山を登るのに分身が本当は必要な存在だと確信する。そのことに気付いた彼女は分身「わたしの一部」との融合を果たす。その力を身につけレベルアップした彼女は最後にセレステ山の山頂に辿り着くことに成功する。

細かい脇道の話を除くと、概ね上記のような流れが本作の物語である。ありていに言ってしまえば、自分の弱さを認めることが大切だと語る物語である。一見すると『セレステ』はそんなありがちで凡庸な物語に見える。抑制がききつつも効果的なセリフの数々は実に素晴らしいが、この物語自体に特別な仕掛けがあるというわけではない。

 

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セレステ』がMadelineの物語を語る上で達成したことは何か。それはゲームプレイが物語の解釈を構成するという点にある。『セレステ』の物語は、そのゲームプレイ抜きにしては十分に味わうことができない。もちろん、それは他のさまざまなゲームであっても大なり小なりそうである。ゲームプレイにおいて苦労して難題を乗り越えたからこそ、エンディングで感動を味わうことができる。その点はどんなゲームでも同じである。しかしながら、『セレステ』が物語とゲームプレイの融合という点で特別なのは、ゲームを遊ぶ際の「苦労」と「意義」の2つが物語解釈の重要なファクターになっている点にある。

 

ゲームを遊ぶことは「辛い」?

まずは「苦労」の方から見てみよう。
ゲームは何によって「苦労」を味わうのか。それは多くのゲームでは、強力な敵や謎解きや障害物などの存在である。この点は『セレステ』も同様なのだが、本作の主人公Madelineは、実は物語上、そうしたゲームに現れる分かりやすい敵や障害物とは違うものによっても苦しめられている。

Madelineは日々の生活の中で苦しんでいる。彼女はパニック発作や"うつ"を経験しており、人生に対してよそよそしく生きている。生きていること自体の、そこはかとない苦しみ。それは泣き叫ぶような苦しみではない。彼女はうつの体験を「海の底にいるようだ」や「閉所恐怖症なのに、一方で自分が曝されているにも感じる」と表現する。これらは決して分かりやすい苦しみではない。しかし、確かに存在する苦しみだ。

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セレステ』が凄いのは、こうした言葉では表現しづらい苦しみをゲームプレイを通してプレイヤーに伝えることに成功している点である。なぜなら、プレイヤーが味わう苦しみとMadelineのそれが「似て」いるからだ。ゲームの中で何回死のうとも、現実世界のプレイヤーには強い痛みがあるわけではない。しかしどこか心をザワザワとさせる不快さやイライラを感じる。何度も何度もカジュアルな死を繰り返し停滞感を味わう。なんとか進んだ先にもまだ道は続いていく。そんな閉塞感。『セレステ』は昨今のゲームでは珍しいほどに「達成感」を演出しない。チャプターをクリアしても、そこにプレイヤーを誉めそやす優しい人は出てこない。この「達成感を感じさせない演出」というのはかなり意図的だと考えられる。彼女は「何かを見つけたくて」山を登っている。彼女は「達成」を渇望している。なのに「これでもう十分だよ」という達成はなかなか得られない。プレイヤーの感じる閉塞感は、Madelineが感じる閉塞感の模倣でもある。

 

こうしたMadelineの悩みに対して、プレイヤーはテキスト以上に共感してしまう。プレイヤー自身もまた日常で「自分が感じているかもしれない閉塞感」をつい想像してしまう。プレイヤーはゲームで味わう「苦労」と日常で感じる「苦労」をオーバーラップさせてしまうのだ。


ゲームは「何のため」に遊ぶのか?

次にゲームを遊ぶ「意義」について考えてみよう。

Madelineは物語の後半で、谷底に突き落とされる。一度は絶望に陥るものの、敵対していた分身「わたしの一部」が本当は「怖がっている」ということに気がつき、物事の見方を変える。Madelineは敵であった分身と和解をする時に次のように語りかける。「怖がってても、別にいいのよ」と。

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この瞬間にこれまでのゲームプレイで味わってきたあらゆる「苦労」が昇華される。重要なのはそれが「達成感」のためではないということである。セレステ山に住む老婆は次のように語る。「癒しの最初のステップはな、問題と向き合うことなんじゃ」。

 

セレステ』は何かを達成したからこそ癒しを与えるのではない。「問題と向き合う」ことそのことをもって、癒しとする。そして実はそのことをプレイヤーは頭よりもずっと体で理解している。なぜなら、まさにそれがゲームをプレイする理由であるからだ。『セレステ』という難度の高いアクションゲームになぜ私たちは好き好んで立ち向かうのか。わたしたちは「さあ、達成感を得るために難しいゲームをがんばるぞー」などと普通考えない。ゲームの目的はゲームをプレイすることそれ自体なのだ。ゲームはクリアするためだけに遊ぶのではない。クリアすれば全ての苦労が報われるから遊ぶのではない。苦労もまたゲームプレイの一部であり、そこにもまたかけがいのない価値がある。そしてそれは人生とも図らずも似ていることに気づかされるのだ。わたしたちは何かを達成するためだけに生きているのではない。何かを得るためにゲームを遊ぶのではないのと同様に、何かを得るための人生でなくてもいいのだ。

だからこそ、Madelineが分身との融合を果たす瞬間は、言葉以上に、わたしたちは救われてしまう。困難を乗り越えたり、何かを得るということとは全く別の形の救いがある。それは「受け入れる」ことだ。私たちがゲームを一生懸命にプレイするということ、困難を受容することそれ自体が救いであることを物語とゲームプレイは教えてくれる。

 

「ただ生きていくことを肯定する」。言葉はキレイでも、「ただ生きていく」ことの意義はとらえどころがない。しかしこれがゲームをプレイすることに喩えられることで説得的になる。なぜなら「良いゲームは、ただプレイするだけでプレイヤーを充足させる」からである。『セレステ』というゲームのクオリティが人を楽しませるのみならず、ただゲームをするということを肯定させ、それが日々の人生の辛さを受け入れて生きていくことに重なる。ゲームとしての品質が、人生を肯定させるのだ。


人生とゲームが重なるとき

セレステ』は「人が生きる」ということを描く作品である。もちろん人生とゲームは違う。しかしそれを錯覚*1させてしまうのは、本作が「良きゲーム」であるからこそ感じられる体験を物語のテーマに見事に当てはめてみせるからだ。物語の主人公Madelineの感情が、ゲームプレイで感じるプレイヤーの感情そのままが当てはまるように感じられるからである。
セレステ』は、ゲームにしかできない物語表現を達成した傑作である。

*1:これが錯覚であるのは、セレステの後半は堰をきったように達成感を感じさせる演出やレベルデザインを施しているからだ

『ドラクエ11』になぜ我々はガツンとやられてしまったのか?

※本記事はドラクエ11の結末を含め様々なネタバレを含みます。

ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて』は名作である。これはプレイ開始当初には考えもしなかった評価である。しかしクリア後そのように評価せざるを得ないという気持ちになった。おそらくドラクエ11には両極端の評価が混在している。そのことについて少し考えてみたい。

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■欠点の多いドラクエ11

ドラクエ11には多くの欠点がある。その欠点はあまりにあからさまで堂々としている。『Witcher 3』や『Fallout 4』と言った世界の大作RPGをプレイしたことがある者にとっては驚くほど稚拙に感じられる部分が多い。

特に気になるのはマップやエリアデザインの部分だろう。端から端までそれほど時間が掛からず行き来ができるほど1つのエリアは狭く、その癖、隣のエリアや街に移動するには十数秒のローディングが挟まる。仮にそれぞれのエリアごとに凝ったギミックや様々な進行ルートが仕込まれているのであれば、こうした仕様を理解もできるが、ドラクエ11の各エリアはとてもシンプルで探索の自由度も低い。30年前の初代ドラクエ1をプレイするとそのワールドマップの移動の自由さに逆に驚くほどである。ドラクエ11は30年前というFC時代に回帰するでもなく、PS2ぐらいの10数年前という中途半端な時代に先祖返りしているように見える。それゆえ余計に陳腐に見えてしまう。

この他にも文句をつけようと思えばいくらでもつけることができる。見えない壁が数多く存在し、小さな段差が登り降りできない場面の多さに呆れた人は多いだろう。また、伝統芸だと分かっていてもカットシーンに吹替えがないことはとても不自然だった。シナリオの展開は序盤は特に眠くなるほど退屈であり、旅の途中で仲間になるキャラクターたちの魅力もあまり伝わってこない。戦闘においても、なぜ主人公がフィールド上で攻撃を先に加えているのに敵方の先制攻撃としてターンが始まる場合があるのだろう。と文句をつけ始めたらキリがない。

しかし世間でのドラクエ11の評価は高い。こうした世間での高評価と自分の感じ方の乖離に戸惑う人がいたことは十分想像できる。ドラクエ11は最近のコンソールやPCゲームを多くやっている人ほど困惑する出来のゲームだった。

しかし、最後までプレイした今となっては、私にとって「ドラクエ11はまごうことなき傑作」である。真に驚くべきは、こうした無数の欠点を全て「許せる」と思わせてしまう腕力なのである。ネットでは「物理で殴る」というスラングがあるが、ドラクエ11ほど物理で殴ってきたゲームはない。小賢しいコアゲーマーを正に腕力で殴り倒すゲームであり、素直に私はノックアウトされてしまった。

ドラクエ11とノスタルジー

ではドラクエ11がプレイヤーをKOさせた武器とは一体なんなのだろうか。それは一言で「ノスタルジー」ということになるのだと思う。ドラゴンクエスト30周年*1というタイミングで、徹底的にノスタルジーにこだわり、それを利用しつくした作品がドラクエ11である。そしてこれが可能なゲームシリーズというのは意外にあまりないようにも思うのだ。マリオやソニックなど長く続く人気タイトルはあるものの、ノスタルジーをこれだけ堂々と活用した作品はそうはない。

では、ドラクエ11が凄いのは単に懐かしさを感じさせる要素が多いからなのだろうか。そうではないだろう。ドラクエ11が凄いのは、そのノスタルジーを感じさせるための構造をそのままドラクエ11の物語の骨格としたところにある。そのことをドラクエ11の物語の流れから見ていこう。ドラクエ11のストーリーを「勇者」というテーマを中心に捉え、その骨格だけを取り出すと以下の通りとなる。

  • -----ゲーム開始(フェーズ1)---------
  • ①かつて伝説の勇者ローシュが存在した。それは語られるだけの古き存在である。
  • ②その生まれ変わりである主人公がいる。彼はいきなり序盤で勇者であることを否定される。
  • ③本編は主にその勇者の肩書きを取り戻すための旅である。
  • ④旅の果てに勇者のつるぎを手にしたところで、主人公はそれを魔王に奪われ、再び勇者であることを失う。
  • ------世界崩壊(フェーズ2)---------
  • ⑤そこから再度、勇者であることを取り戻す旅が始まる。
  • ⑥最終的に魔王を倒し、名実共に勇者となる。
  • ------クリア後の時渡り(フェーズ3)---------
  • ⑦主人公はあらゆる者を救うため、過去へと戻る。そして邪神を倒し、三度、勇者であることを取り戻す。
  • ⑧最後、その真なる勇者のチカラを伝説の賢者セニカへと渡す。そして間接的にローシュに真に勇者であることを取り戻させる。真エンドクリアとなる。


本作は大きく3つのフェーズに分けられる。それは上記の通り「世界崩壊」と「クリア後の時渡り」で分けられる。

フェーズ2が始まる際、④で世界が闇に包まれ主人公は海底王国からある浜辺へと舞い戻ってくる。その時プレイヤーはおそらくこう思うのだ。「ああ、ここ!この浜辺に戻って来たのか。懐かしいな!」と。

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↑懐かしのデルカコスタ地方。

 

そうしたささやかな「懐かしい」をクリア後は更に何度も味合うことになる。フェーズ3の⑦以降、各地で再び多くのNPCや景色や音楽と出会う。同じ世界を何度も旅をさせる。ドラクエ11はたった一つの作品の中で何度も「戻ってきた」や「取り戻す」を繰り返す。そして、それはドラクエシリーズの歴史とも通じる。何度も何度も世界を救ってきたことの模倣となる。では、こうした「戻ってきた」や「取り戻す」がどのようにノスタルジーと関わるのか、その点を以前放送されたあるテレビ番組での議論を元に考えてみよう。

■なぜ人は懐かしがるのか

Eテレでかつて『哲子の部屋』という番組があった。2015年5月28日の回で「人はなぜやたらと懐かしがるの?」というテーマが扱われ、そこでとても面白い場面があった。ゲストの批評家・石岡良治氏が「夕日が沈むいくつかの映像」を見せる。それらの映像を見ると、人は問答無用に懐かしいと思ってしまう。同番組に出演しているマキタスポーツ氏及び清水富美加氏もそう感じた。しかし実はその夕日の映像、日本ではなく異国の情景であり、しかも完全にCGで作られた夕日の映像まで含まれていた。つまり、リアルでは1回も見たことがないばかりか、この世には存在しない情景に懐かしさを覚えていたのである。しかし、それでも懐かしく思ってしまう。その番組では次のような言葉が語られていた。

『人は何かを懐かしむのではなく ただ懐かしがりたい』

懐かしむのにその「対象(何か)」は必要ないというのだ。しかしではなぜ人はそんなにも懐かしむのか。それを哲学者ジャンケレヴィッチの言葉を引用して「時間とは"逆行できないもの"としてしか考えられない」からとする。二度と取り戻すことができない過去だからこそ、人は懐かしむのだと。沈む夕日に象徴されるように時間の変化を直接目にした時に人は「取り戻せない過去」を見て取る。「夕日」それ自体が懐かしいのではない。夕日によって「時間の取り戻せなさ」が喚起されることで人は懐かしむのだ。

ここでドラクエ11の物語を振り返ると、副題の「過ぎ去りし時を求めて」とあるように、本作は「取り戻せない過去」を求める物語である。いや、「過去」だけではない、「勇者であること」や「破壊された故郷」なども取り戻そうとする。

 

しかし、本稿で主張したいのは、ドラクエ11は本当に取り戻せている物語なのか?ということである。むしろ逆なのではないか。④以降の世界や⑦以降の世界は、それまでの世界と同じようでいながら、一変している。それは「過ぎ去りし時」をまざまざと見せつけてくる。④以降の世界の変化はわかりやすいだろう。しかし⑦以降の世界も大きく変わっているのだ。見た目としては時渡り後の⑦以降の世界は④以前の世界と似ている。しかし、ウルノーガを再度倒した後の世界は大きく1回目のクリア時点とは変わってしまう。重要なのは決してかつての世界は取り戻せないというということである。その最たるものがベロニカである。(取り戻したいかどうかは別にして)ベロニカのいない世界はもう取り戻せない。ベロニカを失った悲しみの時は、真エンドを迎えた後には「過ぎ去りし時」になってしまうのだ。本作はタイムトラベルの物語であるのだが、意外にも『シュタインズゲート』や『オールユーニードイズキル』や『ビューティフルドリーマー』にあったような「ウンザリするような同じことの繰り返しとそこからの脱出」というモチーフが登場しない。「タイムトラベル物」ではあるが「ループ物」とは違うのだ。「ループ物」がはらむ過去改変の悩みや悲しみは影を潜め、ずっとドライに過去を置き去りにして次に進んでいるように見える。それは「似ているが異なる物語」を連続して味わうという体験であり、まさにドラクエシリーズを何作かクリアするような体験に似ているのである。

■取り戻せないものの象徴 ローシュ伝説

そして考えたいのは本作におけるローシュという存在である。ドラクエ3をやったことがあるプレイヤーはローシュたちを「懐かしさを感じさせる存在」と捉えるだろう。

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しかし重要なのはそうした30、40代の世代が懐かしいと思うことではない。筆者は、ドラクエの初期3部作をプレイしていない人が本作をプレイしてもドラクエ11はノスタルジーを感じさせると考える。それは、ローシュ伝説が「取り戻せない」という体験を巧みに感じさせるからだ。

物語の最後、裏エンドで、主人公は「ローシュ伝説」に僅かに介入をして、勇者ローシュにトゥルーエンドとも言える結末を取り戻させる。しかしここでプレイヤーは逆説的に二重に「取り戻しができない」ことを感じ取るのである。その1つは、その伝説のトゥルーエンドが実際はどのような結末になったのか主人公自身が(そしてプレイヤーも)具体的には味わうことができないということ。そして、もう1つ。それはプレイヤー自身の過去、即ち現実世界での「勇者だったあの頃」を思い起こさせはするものの、その過去を取り戻せないと感じさせるということだ。あの裏エンドのスタッフロールがその気持ちを否応なく強める。

ローシュそのものが懐かしいのではない。人はただ懐かしがりたいのである。ローシュはその象徴的な存在として「懐かしさ」を喚起する装置なのである。*2 大人になりファンタジーの世界を旅する者は、過去にどこかでファンタジー世界に虜になった過去を持っている。なぜなら、ファンタジーが「所詮ファンタジーでしかない」と理解するからこそ、「『あの頃』はもっと純粋にファンタジーを楽しめていたような気がする」と「あの頃」を創造してしまうからだ。そんな「あの頃」をローシュ伝説は喚起する。しかし、ドラクエ11は、プレイヤーをローシュとして体験させたりはしない。それはもう「取り戻せない過去」なのだ。

■なぜドラクエ11は中途半端に古臭いのか

なぜドラクエ11はこれほどまでに「中途半端な古臭さを持つ作品」であるのかを改めて考えよう。本作はFC、SFC、PS、PS2、DS、Wiiまでのあらゆるドラクエのキメラとして存在している。むしろ最新の『Witcher 3』や『Fallout 4』や『マスエフェクト』のように全く新奇な存在として存在してはならない。30年間の多様なシリーズ体験者、そのあらゆる人々にとってぼんやりと懐かしいはずの存在であるためには、見た目的にもシステム的にもPS2世代までの要素をつぎはぎした存在、そして決して過去のドラクエそのものでもない存在になる必要がある。そして、「ドラクエシリーズを過去何作もクリアしてきた」かのような近似体験を、3回のフェーズに分けたキメラ的ドラクエ11が模倣的に追体験させる。繰り返すが、それは本物の過去のドラクエシリーズの体験ではない。過去そのものを取り戻させないからこそドラクエ11は「ただ懐かしい」へとつながるのである。そこにローシュという存在が最後のダメ押しで挿入される。ローシュはかつて勇者だったころの象徴的な自分である。ドラクエ11の主人公がドラクエ3の主人公と似ても似つかないサラサラヘアーの線の細い主人公であることによって、プレイヤー自身は最初に疑似的に勇者であることを奪われる。しかし、その勇者らしからぬ主人公によってかつての自分(ローシュ)はようやく勇者たりえるのである。その上で畳みかけるように裏エンドのスタッフロールでプレイヤーは気が付いてしまうのだ「もうあの頃の勇者である自分ではない」のだと、どれだけゲーム内で勇者であることを取り戻しても、リアルとしての自分が勇者になることはないということを。ゲームの中の本物の勇者はサラサラヘアーのイケメン青年なのだ。明に言わなくてもプレイヤーは気が付いてしまう。「取り戻せない」のだと。「取り戻せない」からこそドラクエ11は徹底的に「ただ懐かしく」させる作品なのである。

ドラクエ11は過ぎ去りし時を求める物語であると同時に、過ぎ去りし時を取り戻そうとしても取り戻せないことに否応なく気付かせる体験である。そこでは、常に何かを置き去りにして、しかし少し後ろ髪を引かれながら前に進むしかないという、時間がもたらす切なさを見つめる物語でもあるのだ。ドラクエ11の主人公は正に「時間」を象徴した存在である。彼はどんな時も振り返らない。前に黙々と進み続けるのだ。勇者という存在が「過去への振り返り」と「前に進む」という矛盾をまとめ上げたところに、取り戻せないものの圧倒的な美しさが映える。ここにドラクエ11の秀逸さがあるのではないだろうか。(了)

 

 

 

*1:実際は31年目。2016年が30周年だった

*2:想像を逞しくすれば、ドラクエ9が懐かしくないのは、特に30代以上にとって、それが思い出補正を受けるほど過去でも、取り戻せない過去でもない「つい最近のこと」だからと筆者は考える。とは言え、8年前のゲームである。仮に当時ドラクエ9を10歳でクリアした子がドラクエ11を18歳でクリアするケースを考えれば、裏エンドのスタッフロールでドラクエ9を懐かしいと感じることもあるだろう。