ビデオゲームとイリンクスのほとり

ブログになる前の軽い話は以下で話してます。■Discord : https://discord.gg/82T3DXpTZK 『ビデオゲームで語る』 ■映画の感想は『映画と映像とテキストと』というブログに書いてます。https://turque-moviereview.hatenablog.com/ ■Twitter ID: @turqu_boardgame

映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

『リターナル』における”836”の謎とストーリー考察の限界について

2021年4月に発売された『リターナル(Returnal)』。PS5専用ソフトであるため、そこまで本数が出ているわけではないだろうが、概ね高評価を獲得している新規IPタイトルだ。30時間ほどでクリアしたが、とても面白いタイトルだった。私はこれまでローグライクと呼ばれるゲームが苦手だった。堪え性がなく、慎重なプレイが中々できないのだ。しかし不思議と「いつかローグライクにハマってみたい」という倒錯した願望だけはあった。シレントルネコFTLもガンジョンもデッドセルズも、どれをプレイしてもハマることが出来ず、歯痒い思いを抱いてきた。しかし、本作だけは例外的に楽しく、そしてローグライクが苦手な私でもクリアできる程よい難しさだった。ただ、本作は、ローグライク好きよりも死にゲー好きにとって相性の良い作品ではないかと思う。

f:id:tuquoi:20210513234310j:image

本稿では、作品のゲームシステムではなく、ストーリーについて主に語っていきたいと思う。個人的には複雑なストーリーを解体する分析や考察などはあまり書いたことがなく、そんな自分がこのような記事を書くのは、ためらいがあった。しかし、本作の謎の一つである"836"という数字について「こういう解釈はあるのでは?」と思いつき、それであれば逆に「ストーリーを頑張って考察しなくても良くなるのではないか?」と連想が進んだ。本稿では、この考え方を作品中に頻出する数字である"836"という数字から説明したいと思う。

 

悲劇の数が過剰である

まずは、本作の終盤のストーリーまでで、概ね多くの人が合意しているであろう部分について列挙したい。

  • 主人公のセレーネは死のループに囚われている
  • セレーネは母親との間に何かしらの確執がある
  • セレーネには子供がおり、その子との間にもトラウマの原因となる問題を抱えている
  • 自動車事故が起こっており、それはトラウマの大きな原因であるようだ
  • 死のループの原因は、トラウマにありそう
  • 白い影は宇宙飛行士のスーツを着た人影
  • "836"という数字がやたらと色々な場面に登場し、強調されている
  • セレーネは誰か(子供、母親)を置き去りにしてきたことを後悔している
  • 事故の原因となった宇宙飛行士はセレーネ自身だった(→ループ構造)

さて、これら以外にも様々な重要なポイントがある。以下に列挙するのは明確な証拠や繋がりは判然としないものの、なんとなく多くの人が気に掛かったり、思っていることである。

  • 惑星アトロポスの体験は、セレーネの妄想なのかもしれない
  • セレーネは宇宙飛行士の夢を持っていたが、その夢が叶わなかったのではないか
  • セレーネは育児において、ネグレクトした、もしくはされた経験がある
  • ぬいぐるみのオクトがクトゥルフっぽく不気味
  • 車椅子や地下室はなんらかのトラウマと関係ありそう
  • セレーネには堕胎の経験がある

さて、これらの事実を並べていくと、1つ気が付くことがある。それはトラウマになるような悲劇の数が多すぎないか?ということである。ループの謎がトラウマにあることはほぼ明白であると思うが、その原因となる数が多いというのは、実はかなり物語の構造として不思議である。なぜなら、プレイヤーとしては納得感が減ってしまうからだ。普通に考えれば、「ああ、これがトラウマの究極の原因なのね」とプレイヤーに思わせた方が物語としてはスッキリしているし、そのためには究極の原因は「1つ」の方が明らかにいいだろう。しかし、ネグレクト、自動車事故、宇宙飛行士の夢、母親との関係、子供の死など、どれもこれも全体として1つにつながらない断片的な事実が大量にある。これは明らかに「物語として損をしている」とも考えられる。事実、クリアしたプレイヤーからも「クリアしたのにモヤモヤする」との声が多くあがっている。
そして、多くの考察を重ねていっても、そこから浮かび上がる事実は、非常に証拠や根拠において心もとないのだ。そのことを次の2点を例として示したい。

 

オッドアイは人物確定の根拠になるか

1点目は、セレーネの身体的な大きな特徴であるオッドアイ虹彩異色症)についてである。彼女は瞳の色が左右で違う。下記サイトは非常に興味深い『リターナル』の考察サイトであるが、ここで自動車を運転している女性はオッドアイではないから、運転している女性はセレーナでなく母親のテイアではないか?という考察が述べられる。とても面白い考察だと思う。

hide.ac

しかし、シップログの「セレーネ・バッサスの個人ファイル(深緑の遺跡版)」には、『光彩異色症(トラウマが起因)』*1という文言がある。

f:id:tuquoi:20210513235312j:image

本当にトラウマで光彩異色症(オッドアイ)が起きるのか医者ではない私には判断がつかないが、ゲーム内テキストにあえて書かれている以上、そのような解釈が可能になるだろう。仮に自動車事故がそのトラウマだと考えると、事故前の状況であるなら、運転手がセレーネであり、かつオッドアイでなくても不思議はないという解釈も可能になってしまう(トラウマ前なのだから)。しかし、だからと言って運転手がテイアだという可能性がなくなるわけではない*2。「トラウマが起因」の文言は、運転手=テイア説を完全に摘んでしまうような証拠ではない。重要なのは、可能性が発散する点である。個人的には「トラウマが起因」というテキストは、まさにそういう議論や混乱が起こることを期待した製作者による「撒き餌」なのではないかと考えている。


堕胎は本当にあったのか

2点目は、セレーネの堕胎についてである。これはスカウトログ60(AST-AL-060)で述べられる。記憶があいまいだが、最終ステージである深淵にいく直前で解放されたログであり、発見した多くのプレイヤーが「え!そういうことなの?」と驚いたのではないかと思う。しかし、実はこの堕胎説、英語圏ではほぼ言及されていない。「abortion(堕胎) returnal」で検索しても全くそうした議論が引っかからないのである(→訂正*3*4)そこでスカウトログ(AST-AL-060)の英語テキストを確認してみたが、それを次の画像に示す。

f:id:tuquoi:20210513234512j:image

最後の部分だけ抜き出してみよう。

Everyone is overbearing and controlling and… I haven’t even told a single person about- If they fount out I was here, that we were talking…

これを直訳風に訳すとこうなるだろう。

みんなは高圧的で支配的だし…  このことは誰一人として話してはいません。もしわたしがここにいることや私たちが話してることを聞いたとしたら…

ではゲーム内の日本語テキストではどうなっているだろうか。
f:id:tuquoi:20210513234552j:image
比較のため、最後の部分だけ引用しよう。

きっとみんなアレコレ言ってくるだろうし このことはずっと秘密にしてる だから堕ろそうとしてることがバレたら……

比べると良くわかるが、英語(原文)では明確に「堕ろした」とは言っていない。英語圏で「堕胎説」があまり観測できないのは、これが要因ではないかと考えている。では、日本語ローカライズが原文を無視して勝手な創作をしているのだろうか。その可能性もないわけではないが、私としてはそう即断はできないと考えている。こうした大作ソフトの翻訳では、おそらく原文となるスカウトログ60のテキストだけではなく、補足資料としてのサブテキストが提供されるというのはよく聞く話だ。であるならば、そうした補足資料では、話している相手の医者は産婦人科医である等の情報が日本語翻訳者やローカライズ作業者には与えられており、それを加味した上で訳されているかもしれない。確かに「術後に運転できるか?」とか「知られたくない」というのは、かなり中絶手術を想起させる。しかし確定はできない。

ここで私が言いたいのは、堕胎の有る無しではない。繰り返しになるが、『リターナル』が提示する事実の不安定さである。情報をあいまいにすることで、情報量を増加させることは、むしろ製作者の意図なのではないだろうか。こうした情報が過剰で、全体として完全に理解できない物語として『リターナル』は意図的に制作されていると私は考える。


"836"が示すものとは何か?

さて、そのような過剰で不完全な物語をどのように解釈したらいいのだろうか。それを解くカギが"836"という数字である。この数字は脈絡なくさまざまな場面で登場する。

f:id:tuquoi:20210513234726j:image
f:id:tuquoi:20210513234723j:image
f:id:tuquoi:20210513234728j:image

一部のまとめサイト等では、"836"という数字がエンジェルナンバーだという説が取り上げられている。エンジェルナンバーとは以下のページによれば数秘術の要素である。人ごとに相性の良い番号であったり、繰り返し日常で目にする番号をエンジェルナンバーと言ったりするようだ。 simple.wikipedia.org

確かに"836"をエンジェルナンバーだと言っているサイトはいくつか検索されるが、その多くは「"836"をエンジェルナンバーとして解釈した場合にこうだ」と語っているものが多い。だからあらゆる番号に対して解説が書かれている。以下のサイトはその一例である。

real-step-up.seesaa.net

つまり、こうしたサイトは別に"836"だけを特別な数としているのではない。

 

逆に"836"をエンジェルナンバーとしていないサイトもある。以下のサイトはその例である。("エンジェルナンバー"と日本語で検索してトップに表示されるサイトの多くで、"836"はエンジェルナンバーではない)

angel-number.fun

また、アメリカのIGNが提供しているWiki Guide(ストーリー解説)でも、エンジェルナンバーとは言われていないが、「"836"が幸運を示す数字だと数秘術師(Numerologist)の間で言われている」との説が言及されている。

www.ign.com

つまり堕胎の話とは異なり、数秘術の話は日本語圏で言われているだけではなく、英語圏でも語られている。しかし、数秘術(Numerology)というのは、占星術などの占いのようなものである。つまり、そのまま鵜呑みにするにはかなり不確かで主観的な解釈の幅が大きい。もちろん厳密に数秘術を紐解けば、"836"の秘密が確固たるものとして見えてくるかもしれないが、本稿ではその立場を取らない。というのも、"836"という数字は、自動車事故や子供の孤独な体験など、不安や絶望といったネガティブな場面で頻出する数字だからである。エンジェルナンバーや幸運というポジティブさとは単純に整合しない。逆にだからこそ希望の数字なのだという解釈も可能かもしれないが、状況証拠的には少し無理があると考える。

 

では、どのように考えるのか*5私は"836"が「不思議数」である、ということに意味があると考える。不思議数(weird number)とは何か?それは、数学で用いられる用語である。不思議数とは、過剰数でありながら、(疑似)完全数((semi)perfect number)ではない数字を指す。では、過剰数とは何で、完全数とは何か、一つ一つ簡単に説明していこう。(以下の部分は数学の話なのでスキップいただいても本稿の主旨は理解できる。ただ数学と言っても中学生レベルである。)

過剰数(abundant number)というのは、その数字の全ての約数を足し合わせたときに、元の数字を超える数字である。例えば、「8」という数字であれば、約数は「1,2,4」である。その全てを足し合わせても「7」にしかならない。つまり、元の数字の「8」を超えないので、「8」は過剰数ではない。一方で、「20」は過剰数である(1+2+4+5+10=22で20を超える)。また、完全数については知っている人も多いだろう。約数をすべて足すと元の数字になる数字で、「6」が有名である(1+2+3=6)。疑似完全数とは、すべての約数ではなく、その一部を足した時に元の数字になるものである。で、ポイントはほとんどの過剰数は(疑似)完全数だという点である。例えば先に例として出した「20」は過剰数であり、かつ疑似完全数である。しかし、ある特定の数字だけが、過剰数でありながら(疑似)完全数にならない。それが不思議数と呼ばれる。

1から1000までの整数で、不思議数なのは、たった2つである。その数少ない不思議数の1つが"836"である。(ちなみにもう一つの不思議数は"70"である)

長々と説明してしまったが、私の主張したいことはこうした数学的な話ではなく、その「過剰数」「完全数」「不思議数」という名前である。"836"は、リターナルという物語自体を示している。不思議数の定義が過剰数でありながら、完全数ではないという定義のアナロジーから、「『リターナル』は、(情報が)過剰でありながら、完全でない不思議な物語である」ということを示していると考える。

 

例えば、多くの人がヘリオスをセレーネの子供の名前と解釈しているが*6カットシーンで現れる子供は明らかに少女である。ヘリオスは普通、男性の名前と考えるので、セレーネには別の息子がいたのではないかと考えたくなる。情報は曖昧にされたことでかえって増殖してしまっている。あれだけ重要な登場人物であろう子供の名前が判然としないのも、少女がセレーネ自身なのか、セレーネの子供なのか、はたまた妄想の産物なのかをあえて曖昧にし、情報が過剰になるように意図しているのではないだろうか。そしてこうすることで、物語の内容をめぐる解釈も過剰となり、完全に理解することが妨げられる。

 

更にもう一点、「不思議数」という名前についてである。不思議数というのは英語で"weird number"と呼ばれる。"weird"というのは、「奇妙な、説明しがたい、この世のものでない」を意味する英単語だ。そして、古英語では「運命」を意味する。「この世のものでない」というところだけでも、既に『リターナル』っぽさがあるわけだが、「運命」は更に本作と関係が深い。例えば、"weird sisters"というと、普通はシェイクスピアの『マクベス』に登場する3人の魔女が想起されるが、この魔女はギリシャ神話の運命の三女神と共通点を持ち、そこからイメージされたキャラクターだとされている。(以下は英辞書サイトによる"weird"の説明。最後にある"Origin(語源)"のところを是非見てみてほしい)

www.lexico.com

ギリシャ神話の運命の三女神(the Fates)と言えば、まさにクローソーラキシスアトロポスである。"weird number"を採用しているのは、惑星アトロポス(=運命の女神)の物語であることとのシャレなのではないだろうか。もはや強引な解釈と思うだろうか。そうかもしれない。しかし、複数の事実を整合的に並べていくと、どこかの時点で既存の事実と矛盾する。その矛盾を是正すると、またどこか別の事実と矛盾する。そうした事実の訂正を繰り返す作業は、まさしく『リターナル』のループ構造と同じである。そこで、わたしとしては「本作のストーリーは、過剰であるが不完全な物語であり、それは"836"という不思議数が象徴している」と考えることで、このループを終わらせたい。

 

ちなみに更に言うと、"836"というのは、不思議数の中でも、不可触数*7という性質を持つ最小の数字である("70"は不可触数ではない)。不可触、すなわちアンタッチャブルな数字でもあるのだ。これはセレーネの過去のトラウマが触ることができないことを意味しているのだろうか。さて、ここまで来るともはや妄想と推論の境目はよく分からなくなりそうだが、まさしくこういう妄想的な解釈の遊びこそが『リターナル』のセレーネの精神世界と相似形をなしていると言えるだろう。(終)

 

*1:ゲーム内では"光彩"と書かれているが、"虹彩"の誤りではないかという気はする

*2:もちろんニュース映像のナレーションでは「運転手のテイアさん」と言っている。しかしこのニュースは2つのニュース(事故と月面着陸)がごちゃ混ぜになっており、何が本当に正しいのかは判然としないという反論も可能かもしれない。またエンディングでは湖(川?)に落ちた車の車外に飛び出ることができたのは大人の運転手の方であり、手を差し伸ばしたものの子供の方は救えなかったというシーンに見えなくもない。運転手のテイアは助かって、子供のセレーネは沈んでしまったと考えると変になるようにも思える。加えて、運転手がテイアで、謎の深海の怪物に出会ったのもテイアなのだとすると、なぜそれがセレーネのトラウマになるのか、チグハグにも感じられる。『リターナル』は実にこういうチグハグさが多い。

*3:補記:2021.05.14 「全く引っかからない」は言い過ぎだった。Redditで中絶について言及している人はいる。しかしあまりその方向で議論は発展はしておらず、むしろ「術後に運転できるか?」の質問の方が(堕胎よりも)注目されるくらいである。堕胎を当たり前の前提として英語圏ではあまり議論はされていないと思われる(私の観測した範囲では)。「術後に運転できるか?」の方が注目されるのは、その方が自動車事故に連想が繋がりやすく、考察しがいがあるからだと思われる。

*4:補記:2021.06.08  その後のredditでの議論を見ていると、かなり堕胎を肯定する議論が出ており、また多くの人の支持を得ているようである。日本語訳の言う通り、堕胎はかなり「正解」だったかもしれない。参考→Returnal’s story “explained” : Returnal

*5:補記2021.06.03 なお、この"836"を普通に解釈するなら「自動車事故の発生した時刻が8:36で、これにより"836"という数字が特別になったのだ」という解釈になるだろう。つまりエンディングで"836"の謎はちゃんと解決提示されているのだ、という解釈である。まあ、もちろん、そうなんだけどね、でもそれだと寂しくない?というのを前提とした考察が本稿である。

*6:留守電のセレーネが子供のことをヘリオスと呼んでいるように捉えられる場面はある

*7:不可触数についても、簡単に説明する。不可触数は、「他の数字の約数の集合の和によって表現できない数字」である。何を言っているのか?という感じだろうが、例えば「4」は不可触数ではない。1+3と表せるからだ。1と3は「9」という他の数字の約数の集合である。しかし「5」は不可触数である。「5」を整数の和として表すのには3種類しかない(本当は他にもあるが説明を簡単にする為省く)。2+3、1+2+2、1+4の3つである。2+3の場合、約数として必ず含まれる必要のある1が含まれていない(=2と3のセットは何か別の数字の約数の集合にならない)。また1+2+2の場合、約数の集合は同じ数字が2つないため、1,2,2のセットは何か別の数字の約数の集合にならない。では、1と4を約数の集合とする数はあるだろうか。存在しない。「8」なら約数として2を含んでしまうし、「4」の場合、それ自身を約数として含まない。そんなわけで「5」は「他の数字の約数の集合の和によって表現できない数字」であり、不可触数である。私自身がちゃんと計算して確認したわけではないが、「836」も不可触数のようである。参考→836 (number) - Wikipedia

フィルカル『特集 ネタバレの美学』を読んで、ビデオゲームのネタバレについて考える

今さらだが、『フィルカル Vol.4 No.2』(2019)の「特集 ネタバレの美学』を読んだ。一部の記事は既に読んでいたりもしたのだが、今回通しで読んでみて大変面白かったので、その感想を書きたいと思う。特に私の好きなビデオゲームに絡んで考えることも多かったので、既に散々議論されている話かもしれないが、その点についても書いてみたい。

f:id:tuquoi:20210404141855j:image

 

ビデオゲーム作品の鑑賞は典型的な能動的鑑賞

まずは1つ目の「謎の現象学 ーミステリの鑑賞経験からネタバレを考えるー」(高田 敦史)。本論に入る前の整理の段階の議論がとてもスッキリしていて読んでいて気持ちが良かった。そして何より本論が始まって導入される「能動的鑑賞」は、ネタバレのメインストリートと思える場所の「悪さ」を非常に分かりやすく説明してくれていたように感じて、納得感が高かった。なにより、この「能動的鑑賞」というのはゲームを強く想起させる。

本論文でテーマとなっているミステリーだが、「誰が犯人か?」を強調するミステリーは英語圏では「パズルミステリー」と言われたりもする。パズルと言うと、それはかなりゲームに近い。

ゲームにおけるネタバレにもおそらく様々な種類があるが、いわゆるゲーム内物語としてのネタバレとは別に、ゲーム固有のゲーム的なネタバレというのものがあるだろう。一般的には攻略情報と呼ばれるものだ。攻略情報はゲーム特有のネタバレ情報の一つのあり方であるように思う。そして攻略情報は、明らかに「能動的鑑賞」を妨げる。「自分の力で攻略しなかったら、それは単なる作業じゃん!」という言い方などで表現されるのは、この論文が指すところのネタバレの悪さと同じものだろう。ただ攻略情報というとゲームの中でも特にビデオゲームによく見られるもので、アナログゲームボードゲームの攻略情報という言い方はあまりされない。近い情報に定石やノウハウ集のようなものはあるかもしれないが、それらはネタバレらしさが、攻略情報ほど無いように思える*1

本論文では、能動的鑑賞の事例として3つのタイプが挙げられている(P24)が、ゲームの場合は更に身体的行為というものがあるだろう。ビデオゲームなどで繰り返し鍛錬をすることで得られる身体的な(指先の)スキルは基本的にネタバレによって毀損される面が少なく、パズルの解法のようなネタバレが推理や予想など心的行為を大きく毀損するのとは対照的だろう。この辺りはゲーム特有のネタバレの美学というものがありそうな予感をさせる。

また、説明の第二段階(P31)以降の価値判断と価値享受の話も、正にゲーム特有の体験をイメージさせる。ゲームという商品が主に価値享受の側面に注力して作られた商品であることはおそらく多くの人が納得するところだろうし、それゆえ若干「下に見られる」的なところもあるだろう。何より鑑賞後というよりも、鑑賞中の経験が重要視されるところはゲームという形式の重要な性質とも絡む。

ラストで語られるネタバレの不可逆性(取り返しのつかなさ)というのは、ネタバレの悪さにおける一つの重要な柱なんだろうと思う。これは3つ目の森氏の論文でも感じたところだ。後でまた触れたいと思う。

ネタバレと認知的コスト

2つ目の論文は「なぜネタバレに反応すべきなのか」(渡辺一暁)。素朴な話として、冒頭の方で、パイロットとネタバレの事例があり、ああした事例提示によって「冷静に議論に入れる」というのはあるなぁと思った。どうしても「ネタバレは是か非か」という話になると、すぐに喧嘩っ早くなってしまいそうになる面もあり、それはそれで面白みであるのだけど、そういう「是か非か」の議論というのは中々発展しづらい面がある(そういう議論でも面白く発展させられちゃう才能のある人ももちろんいるのだろうが)。なので生死の問題とネタバレの問題をあえて比較するような事例が出てくると分かりやすく議論の範囲が限定される気持ちになり、良いなと思った。

こういう美学の議論の面白さというのは、議論がどんどんと狭まっていくその過程にあったりするので、それを行おうと様々な「ネタバレへの嫌疑」を挙げて議論をすすめていく本論文は読んでいて楽しかった。ただ、論の構成がかなり複雑な印象もあって、ラストの「無用なタスクを引き受けさせ」ることの悪さというのは直感的には理解しづらい部分もあった。というのも通常ネタバレというのは「鑑賞コストを下げる」という印象があるからだ。これはネタバレ情報を事前に知っておくことで重要な箇所に集中して効率的に鑑賞できるということでもあるし、無駄にハラハラしたくないから結末を知ってから読むというような事例からもイメージされるものでもある。もちろんその事は本文内にも明記されているが、一般的には「(ネタバレは)認知的負荷を下げる」方が理解しやすいと思う。

ただ、この「認知的負荷を上げる」パターンも、ビデオゲームの事例を考えるとより理解しやすいかもしれないと思った。

例えばゲームで、「このダンジョンにはいくつか宝箱があるが、全ての宝箱を発見すると、最後にもう一つ隠された宝箱が出現する」というようなネタバレがあったとしよう。このネタバレを見たことで、それが本当なのかどうか、または、隠された宝箱の中身が欲しくて、ダンジョン内の宝箱を全て発見するように隈なく探索するプレイをしてしまうかもしれない。この情報が嘘かどうかは置いておいて、こうしたプレイによって本来であれば「スッと抜けて大して苦労しないプレイ」が想定されていた序盤のダンジョンを、無駄に苦労してプレイヤーを疲弊させてしまう可能性がある。こうした経験はゲーマーであれば、何度か出会ったことがあるのではないだろうか。個人的にはネタバレによって負荷が上がる経験は、映画や小説などよりもゲームの方が実感としてある。

本論文のようにやや直感的にはレアなケースとしてのネタバレの悪さを提示しているように思える説も、こうして別のメディアや形式に移して考えることで、「たしかにそれあるかも」と思えた。私としてはそう考えることで、翻って、「小説や映画でも同じようにネタバレで認知的負荷が上がるケースって、やっぱりあるかも」というように改めて本論文に沿った視点で見ることができた。そういう思考の旅のきっかけに本論文はなった点が、とても面白かった。

ネタバレの倫理的悪さの分析

3つ目の論文は「鑑賞前にネタバレ情報を読みにいくことの倫理的な悪さ、そしてネタバレ許容派の欺瞞」(森功次)。

観賞前にネタバレ情報を読みにいくことの倫理的な悪さ、 そしてネタバレ許容派の欺瞞 森 功次 | フィルカル

この論文は特集の中でも、ネタバレ否定の最右翼、タカ派として異彩を放っていて面白かった。本論文の煽り性というか、キャッチーさはさることながら、(もちろん筆者は「大真面目に」書いていると思うのだが)ネタバレを巡る世の中の議論の捻れのようなものを感じさせるところも味わい深い。

一般論として、芸術の批評とか鑑賞ということを考える人で、素朴に「ネタバレ悪!」と思うような人はあまりいなくて、だからこそそういう通念によって見落とされてしまう要素が明確に言葉になっていることが面白かった。「工夫を発見する楽しみ」とか、もちろん分かっていても意外にちゃんと言葉にしていなかったなと思う。というか心の底で馬鹿にしていた自分に気付かされるようなところがある。

その上で、本論文を読んだ時に感じた違和感を3点挙げる。

1点目は、鑑賞効率(P85、P89)についてだ。これは2つ目の渡辺氏の論文にも関わることかもしれない。森氏の論文では、ネタバレ情報に事前に自発的に接するのは、鑑賞効率を重視して「アートワールドで重視されてきた姿勢をーー軽視することだろう」と語っている。これ自体は基本的にはその通りだと思う。ただ、鑑賞効率を高めるという価値観が、本来的な鑑賞に良い影響を与えるケースをもっと積極的に擁護する道はありそうだ。特に「二度目、三度目の鑑賞からでも得られる価値」というようにネタバレの不可逆性に立った森氏の説明は諸刃の剣にもなるのではないかと思った。

これは、ビデオゲームについて考えることで発想したものだ。ビデオゲームは一つの作品を味わうのに50時間以上掛かることが珍しくない。これは映画であれば25本を見る時間に相当するわけで、こうした大作ゲームの場合、一本のゲームを2度、3度と鑑賞することが珍しい。そのためか、その1回目のプレイを如何にプレイヤーに飽きずにプレイさせるかに、現在のゲーム製作では多大な労力がかけられている。で、これはゲーム特有というわけではないのだろうが、ゲームにおいて良く見られる事象として「ゲーム実況動画を見ることでそのゲーム作品を再びやる気になる」というケースが結構あるのだ。これは途中でやめてしまったゲームをネタバレによって再開させるケースだ。森氏はネタバレの不可逆性の問題点(かけがいのない1回目の鑑賞を捨てること)を示し、これはこれで全くその通りで問題だと思うのだが、一方で失われてしまった1回目の鑑賞の機会をネタバレが回復することがある。ネタバレがなければ0であったものが0のままであることもまた「捨てる必要のない芸術的メリットを捨てて」いることに相当しないだろうか。*2

2点目は、有意義なバーター論法への反論(P91)についてだ。ここは正直言うとちゃんと自分が理解できていないだけかもしれないが、「他人の鑑賞をも正確に予測しなければならない」という問題はネタバレ否定派にも当てはまるのではないかと思った。松永氏の森氏への反論(P117)にも近いような気はするが、全知全能でないのはネタバレ否定派も同じで、それがより良い鑑賞につながる保証がなく「データが不正なまま」な点は同じではないかと感じた。ネタバレもしないが、自発的なネタバレ接触も別に容認するという意見であれば、「何もしてない」ので「不正な取引」ではないが、他者の自発的なネタバレ接触の倫理的な悪を咎める以上、それにはやはりネタバレ許容派と同様の全知全能が求められてしまうのではないだろうか。

3点目は、商業主義によるネタバレの悪さ(P96〜)についてである。この議論は非常に面白いと思ったし、確かにそういう面もあると思う。ただ、どちらかと言えば商業主義によって「ネタバレしない」場面の方が私は気になってしまう。なのでこれは反論というよりも私の個人的な違和感を表明しているだけの話かもしれない。最近のビデオゲームでは、ゲーム機本体の機能として実況機能が付いている。ボタン一つで簡単にゲーム実況が配信できるのだ。しかし一部のゲームでは、特定のゲームのセクションを配信禁止に設定していることがある。もちろんその配信禁止箇所は、そのゲームソフトを作る制作会社の意向によって決められている。例えばエンディングのみ配信禁止にしたり、一方でほとんどのストーリー部分を禁止設定にした作品もあり、様々なケースがある。これらは、いわば商業主義によってネタバレ禁止が行われているケースであるとも言える(もちろんそれは商業主義という理由によるだけではないが)。こうしたネタバレ禁止を目的とした配信禁止措置は特に海外において批判されることが多く、おそらくそれは自由なゲーム鑑賞を妨げるものとして批判されている。以下のリンクはそれに関連した記事の一つである。

「『ペルソナ3』を配信させてほしい」と90分懇願し続けるVTuberの配信が話題に、「#CallioP3」運動へ発展。ただし一部ファンの暴走に批判も | AUTOMATON

個人的にはネタバレするという方向性だけではなく、ネタバレしないという方向性においても商業主義が優先するのであれば、同じような気持ちの悪さを感じる。先に示した記事などは、まさしく商業主義によってネタバレ許容の方に腐敗した例とも言えるかもしれないが、一方で(ゲーム制作会社による)ネタバレ禁止が悪しき商業主義として批判されているケースと見ることもできる。「商業主義に基づいたネタバレ禁止はどういう悪さなのか?」という議論ができそうに思った。

ネタバレに関わる対立する規範

4つ目の論文は「ネタバレは悪くて悪くない」(松永伸司)だ。18のネタバレパターンの分類は非常に読んでいて気持ちが良かった。またネタバレ議論の対立が、「美的自由の規範」と「美的努力の規範」の対立であると捉え直されるのは、とても説得的だと感じた。

かなり普遍的な議論なので、本論文をビデオゲームに絡めるのはやや強引かもしれないが、ビデオゲームでは「美的自由の規範」がかなり強く意識される面があるのではないかと思った。鑑賞者の行為を促すビデオゲームという形式は、プレイヤーの自由というか自律性というか、そういうものを尊重する文化が鑑賞文化にも製作者側の意識においても、広まっているような気がする。ゲームにおいてネタバレが問題になることはあるが、問題となるのはやはり物語の筋をバラすようなパターンが多く、それは決してゲームという固有の形式に依存する話ではない。一方で、いわゆる攻略情報のネタバレがゲーム特有の問題だと考えるが、一般的に攻略情報を見るということが、サスペンス映画やミステリー小説のネタバレ接触ほど、忌避されていないように個人的には感じる。このあたりは、単にゲームがプレイヤーの自律的な行為に依存した形式だからというだけでなく、ゲームの攻略情報はたった一言でネタバレしにくい、などの性質も関与してそうで、色々考えたくなるところがある。例えば、ミステリーのネタバレなど、犯人の名前という短い言葉ひとつで、鑑賞経験に大きな影響を与えるということが、重要な特徴のようにも思える。また、5つ目の論文の感想にも後述するが、多くのゲームが複数の挑戦を備える構造であるため、そのうち一つをネタバレされても作品全体に対する鑑賞経験への影響が他のメディアに比べて少ないのではないかとも思う。とまあ、色々考えを巡らすことができて大変楽しい。

あと個人的に松永氏の文章は「註釈から垣間見える気持ち」を勝手に読み取るのが好きで、本論文でもそういう楽しみがあった。(私の勝手な思い込みも多分にあると思うので、特に言明しないけど、ムフフって楽しんでる)

ネタバレ感想の構造

5つ目の論文は「見破りましたか?騙されましたか?ー「ユージュアル・サスペクツ」感想文の分析ー」(竹内未生)。自分がこうした概念分析の手法について馴染みがなく、この論文で示される意義というのを十分に理解できていないかもしれないが、色々と考えを発展させることができる議論だと感じた。特にネタバレというと「是か非か」のような議論(感想の応酬)になりがちで、それは未鑑賞者を想定した議論であることが多い。既鑑賞者に向けたネタバレの構造というのはとても面白い研究対象だと感じるし、事実、ネタバレ擁護者の多くはこのあたりに擁護する根拠を置いている場合も多いだろう。

また、「ラストシーン」への着目も面白いと思った。というのは、この視点によりビデオゲームのネタバレの特徴が現れるように思うからだ。ゲーム特有のネタバレ情報として、本稿ではずっと攻略情報というものを取り上げているが、攻略情報がラストシーンやどんでん返しというものと(小説や映画と比べると)ほとんど結びつかないような気がする。いや、もちろんラスボスのネタバレというものはあるのだけど、それは中盤のボスのネタバレとあまり価値の位置付けとして変わらないし、変わる部分としてはやはり物語のネタバレ的なものでしかないように思える。つまりゲーム固有のネタバレから見えてくることの一つに、ゲームが持つ「繰り返し構造」があるのではないかと思った。映画や小説の場合、仮に挑戦を用意するものであっても一つの作品が一個のまとまりある挑戦として作られる一方で、ゲームは一つの作品の中にその挑戦が繰り返し複数用意されるものである。おそらくこの構造の違いは、ゲームのネタバレ感想の構造にも影響を与え、映画のネタバレ感想とは異なる構造で書かれるということが、ゲームのネタバレ感想文を分析したら見えてくるかもしれない。

本論文で一点気になったのは「回収されない伏線」(P139)についての議論だ。キントが左手で思わず払うというシーンは、普通に考えてラストシーンで直接的に回収されていると考える。正に「障害は嘘だった」という結末で片が付いている。ここでおそらく示されるのは「気付かれない伏線は、伏線なのか?」という問題であるだろうと思われるので、私の疑問はそういう意味でイチャモンに過ぎないかもしれないが、「「回収」がないものも「伏線」」(P142)というような言い方には若干の違和感を感じた。ただ、「言われなきゃ分からない伏線に対するネタバレはネタバレなのか?」というような疑問は面白いトピックになりうるだろうと思う。

 

ネタバレの悪さの「度合い」

というわけで、5篇の論文についてそれぞれ感想を書いたが、最後に個人的に気になっている点を書いて終わりたいと思う。

私はネタバレを基本的には避けて作品を鑑賞しようとするが、ネタバレをあまり強く否定しすぎることにもやや嫌悪感を感じている。私がネタバレ忌避の態度で気になるのは、ネタバレ警告文の存在だ。私はあらゆるネタバレ警告文が、美的に少し許容できない。

今、手元に2016年に発行された新海誠特集のユリイカがある。この雑誌に載せられた批評文のほとんどにネタバレ警告文が付いている。毎回毎回太字で強調されたネタバレ警告文を読んでいると「ユリイカ新海誠特集とか買う奴で、ネタバレを気にしてる奴なんか、おるのかいな?」と若干の気持ち悪さを感じてしまう。

私がネタバレ警告文で気になっている点を整理すると以下の2点だ。

1つはネタバレへの配慮が度が過ぎているのではないか?ということ。先程のユリイカのように、なんというか、やや慇懃無礼に感じるほどのネタバレ配慮のドレスコード化が進んでいることが少し面白くない。

もう1つは、少し言及したがネタバレ警告文というものがどのように書いても、美しく表現できないという点だ。批評文を書きたい人で、自らの文章にネタバレ警告文を入れたい人っているのだろうか。この歪でどうしてもはみ出してしまうメタ的な性質を持つネタバレ警告文は、文章の中で美しく潜り込ませることが難しいように思う。

特に2つ目の「ネタバレ警告文の美しさの問題」で言いたいのは、個人的な美的センスの問題もあるのだが、ネタバレの悪さというのは「ネタバレ警告文の醜さという『どうでもよさ』」と拮抗する程度に、「悪さのレベルが低い(=あまり悪くない行為)」ではないかと思うのだ。今回ネタバレ特集を読んで、今後は更にこういう「ネタバレの悪さはどの程度悪いのか?」という議論を読んでみたいと思った。

 

*1:アナログゲームやポードゲームの多くが、対人戦であることがその一つの理由にはなりそうである。『パンデミック』のような協力プレイ型のボードゲームには攻略情報(=ネタバレ)があり得るように思う。

*2:0とか1とかいう言い方は少し森氏の議論とズレるような気もする。ゲームの場合、ある程度の攻略情報の提示により、明らかにその鑑賞体験が上がるということがよくある。難しかったゲームのシリーズが最新作で難易度が下がることで、評価が上がるということは頻繁にある。それと同じことがネタバレによって引き起こされる例というようなものをここで芸術的メリットとして考えた方が(0とか1とか言うよりも)適切かもしれない。

傑作『HAVEN(ヘイブン)』が描いた愛は何が特別だったのか?

イチャラブRPGとして話題になった『HAVEN』。2人の主人公のあまりのイチャイチャぶりに精神的なダメージを喰らった人も多いと思う。とにかく最初から最後までこのカップルはイチャイチャし続ける。しかしこのどうしようもなくバカっぽい物語はとても素晴らしいものだったと、クリアした今、強く感じている。本作を『Spiritfarer』という、少し話題になったインディー作品と比べながら振り返ってみたい。

f:id:tuquoi:20210318231713p:plain

HAVEN(ヘイブン)

死をどのように迎えるかの物語『Spiritfarer』

まずは比較対象である『Spiritfarer』を簡単に紹介する。

f:id:tuquoi:20210319015305j:image

この作品はアクションや成長要素というシステムが多少はあるものの、全編通してひたすら素材を集めて、キャラクターたちと会話をして、特定の場所にお使いをする、ということが主となるアドベンチャーゲームだ(建築やクラフトやスキルというような要素はある)。

物語のテーマとしては「死」を扱っている。主人公はスピリットフェアラーとなって、死を迎えた人が悔いを残さないように、生前やり残したことを消化させて「成仏」させる。肉体的な死から精神的な死を受け入れるまでの特定期間のサポーターがスピリットフェアラーの役目だ。非常に印象的で対称性の強いビジュアルと優しい音楽によって、静謐だが厳かな死の受け入れの儀式が美しく描かれている。プレイ後の感覚として「何かありがたいものを見たな」という気持ちにさせてくれる作品だ。

f:id:tuquoi:20210318202932j:plain

崇高で美しい見送りのシーン。『Spiritfarer』

クリアまでのゲームプレイの感覚としては序盤でゲームの大半の魅力が出切ってしまうため、後半の盛り上がりが薄く退屈な印象が強かった。

物語として見た時にも、とても優しさに満ちて素敵な面はいっぱいあるものの、個人的に「今ひとつな作品だったな」という感想を持った。その時はうまくそれが言葉にできなかったのだが、『HAVEN』をプレイすることで『Spiritfarer』の何が不満だったのかがよく分かったような気がした。

 

欲望に忠実な『HAVEN』

『HAVEN』についても簡単に紹介をしよう。この作品はある惑星に駆け落ちをしてきた男女2人のサバイバルを描いたRPGだ。日本の古いタイプのコマンド型RPGの雰囲気を多分に残しながら、リアルタイムで進行するバトルが特徴でもある。キャラクタービジュアルから伝わるように、非常に日本のアニメ的表現であるが、フランスの"The Game Bakers"という開発スタジオによる作品だ。これより前には『Furi』というアクションゲームを製作している。これはPS+でフリープレイになったことがあるので、プレイした人も多いかもしれない。

f:id:tuquoi:20210318201904j:plain

ボス戦のみで構成されたストイックなACT『Furi』

未開の惑星「ソース」の大地を「フロー」と呼ばれる技術を使って軽快に飛び回るプレイフィールはシンプルながら楽しい。中盤から探索や展開に単調さを感じてくるが、そこを補おうとアイテムや物語によってプレイヤーを惹きつける要素を比較的丁寧に用意しているとも感じる。ただ人によっては中盤以降、かなり退屈に感じるかもしれない。

物語としては、母星で自由な恋愛が禁止されており、その星から駆け落ちをしてきた2人の恋愛模様が描かれる。「マッチメイカー」と呼ばれる母星でのパートナー選定&強制システムがSF的と言えばそうだろう。この作品はこうしたSF的設定が随所に配置されながらも、脚本の大半が「2人のイチャイチャ」に費やされているところが大きな特徴である。とにかくずっと仲良し夫婦漫才をやっている。そして隙あらばハグして、キスして、セックスしようとする。

 

f:id:tuquoi:20210318232056p:plain

野外でも家でもすぐイチャイチャしだす二人

また、本作は男女2人の主人公のうち、どちらか一方だけを操作するのではなく、操作対象が頻繁に入れ替わる。プレイヤーは男のケイでも、女のユウでもどちらでもあり、またどちらでもない。そして何より、本作の恋愛劇が特徴的なのは「相手に求めること」をひたすら描き続けている点だ。ユウもケイもどちらも相手に何かを求め続けている。この「求めること」を描き続けるためには、両方のキャラを操作させる必要があったと考える。

例えばこれが「求めること」ではなく「与えること」が主として描かれる場合を想像してみよう。途端に普通のゲームの物語になってしまうと感じないだろうか。というのも、多くのゲームで主人公は与える者であり、ギブ&テイクのギブをするのが、多くのゲームの主人公(操作キャラ)の役割だからだ。テイクは主人公にとって単なる報酬でしかないか、テイクする主体は魔物に困る村人か魔王に囚われた姫か依頼主である王様である。テイクする行為自体は、ゲームになりにくい。どちらか一方だけを操作させる場合、それは一方に「与える者」の役割を強調することになってしまう。しかし『HAVEN』の操作キャラを固定しないやり方は、「与える者」の強調を避けることにつながっている。

f:id:tuquoi:20210318233738p:plain

バトルにおいても攻撃と守りの役割は頻繁に交代する

一方で、『Spiritfarer』の主人公は逆に常にギブし続けるキャラクターだった。死を穏やかに迎えるために、ひたすら材料を集め続けて、見送り続ける。ギブだけをし続けて、結局は何を得たのか若干分かりづらいという点とギブすることに集約された表現は愛や死や生を表現するにはやや単調であったように感じた。優しさ一色で、主人公の屈託がとても見えづらかったという印象がある。与え続ける愛の形はもちろん尊いのだが、ゲームの尺の長さに耐えるだけの説得力を持てなかったところに『Spiritfarer』という作品への私の不満がある。 

f:id:tuquoi:20210318203024j:plain

どこか死の切実さを感じにくいSpiritfarerのテキスト

その点、『HAVEN』は欲望に忠実である。とにかく得ること(テイク)だけを求め続ける。一方だけが与える役割ではなく、あくまで自分たちの生存のため、そして終始テイクのための行為を2人で行う。

例えば、2人の逃避行カップルを描くゲームであれば、一方が未知の惑星で謎の病原菌に冒されてしまい、一方がそれを治癒するためのアイテムを探しに行くというクエストを用意してしまいそうである。けれど『HAVEN』では、そうしたクエストはほぼ存在しない。もし仮にそういうクエストがあった場合「与える者」を操作して、クエストをこなすことになるだろう。しかし、ゲームでやりがちなそういう「一方的に与える行為」が、『HAVEN』ではほとんど描かれないのだ。逆に「求めること(イチャイチャすること)」をひたすらカットシーンで見せ続ける。このように「求める(テイク)」が前面に押し出され、「与える(ギブ)」ということが後景に退いているのが、『HAVEN』というゲームの大きな特徴であると考える。

 

『HAVEN』の何が生々しいのか?

愛を表現するのに、「無償の愛」のように自己犠牲的に与えるものとして表現することは多い。もちろんこれが「愛は求めること(テイク)から出発するけど、本当の愛はむしろ与えること(ギブ)だよね」というある種のカウンター表現である側面もあるだろう。しかしギブによる愛の表現は既にかなり飽和しており、特にゲームにおいて「与える行為」がゲームになりやすいため、従来のゲームでは愛を描く時に「与える(ギブ)」行為に光を当て続けてきてしまったのではないだろうか*1。『HAVEN』はその点においてゲームとして一風変わった愛の形を描いているように思える。

 

ゲームの後半でケイとユウは大きな喧嘩をする。家出をしたユウをケイは探しに行き、地殻変動により互いに離れ離れになってしまう。そこで2人はあまりにあっけなく仲直りをする。離れたことで心細くなり「私のことまだ愛してる?」と尋ねるユウに、ケイは「いや、これまで以上に愛してる」と答える。はたから見ていると「もう知らんわ」というバカップルぶりであるが、これこそ恋愛の「どうでもよさ」というか「しょうもなさ」が見事に集約されている。

f:id:tuquoi:20210318234301p:plain

喧嘩後の仲直りのシーン。本当に犬も食わない。

よくドラマなどで喧嘩をしたカップルが、相手のために何か買ってあげて仲直りするという場面があるが、ああしたエピソードを見ると、既に何か買い物に行くという時点で仲直りしてるんじゃないの?と思う。何かを買い与える(ギブ)という合理的なメリットによって仲直りするのではなく、身も蓋もない言い方をすれば互いが互いを求める(テイク)からこそ全く脈絡なく仲直りするし、不合理に許しもするのだ。もっとあけすけに言えば、イチャイチャしたいから仲直りするのである。ギブの前に仲直りがある。ただ、欲しがる愛(テイク)は動物的で深みはなく、与える愛(ギブ)の方が人間的で深みがあるような気がしてしまう。しかし欲しがる愛(テイク)の底の浅さこそが恋愛というものの核ではないのか?という『HAVEN』の表現にはある種の説得力があるように思える*2

 

ラスト(グッドエンディング)では、この物語で唯一の一方的な与える行為(ギブ)が描かれる。この自己犠牲が死ぬほどではないが、しかし自らの身体をフリークス的にするという結末になっている点は開発側でも非常に考慮を重ねた結果でないかと想像する。社会正義や大義や秩序や平和のためではなく、ただ好きな人を守るという、そのテイクの「小ささ」をちょうど超えていく「ほどよい大きさ」のギブ。ここにも「大きな物語」にならないことを徹底しつつも、等身大でリアルな愛を描く『HAVEN』という作品の特質が現れている。

f:id:tuquoi:20210318235450p:plain

ラストのドラマのささやかさも『HAVEN』らしさだろう

そう考えると、2人のイチャイチャぶりを表現することに何か意味があったのか?と問われれば、その無意味さや下らなさにこそ意味があったのだと言える。あまりにも下らなくて映画やTVドラマだったら採用しない取るに足らない小さいエピソードは、インディー作品でも10時間ぐらいかけて描くRPGという尺のある表現形式だからこそ多く盛り込むことができたのかもしれない。そして、その小ささや無意味さや下らなさを大量に描いたからこそ、その愛の形はあまりに生々しく、しかし無視できない説得力を生み出したのではないだろうか。

 

この2人は、エンディングの後、末永く関係をうまく維持できたのだろうか。それは多くのプレイヤーがそこはかとなく想像する部分だろうが、また一方で「別にこの先、上手くいったかどうかは関係ないかな?」とも正直思える。それは恋愛というものの一つの側面を『HAVEN』は徹底して描いたからであり、その徹底ぶりゆえの満腹感が、「末永く幸せ」のような価値観を抑制させるのかもしれない。もし仮にギブを中心に据えていたら、それに見合う見返りをプレイヤーはクリア後にも求めてしまうかもしれない。しかしただ現状の2人の愛の形をそのままに受け入れ、未来を気にしない気持ちにさせてくれるのは、テイクを中心に描いた底の浅さを恐れない『HAVEN』だからこそ到達できた一つの境地でもあるだろう。

 

*1:Wiiパンドラの塔』は、ゲームとしては、その「愛=与える」の方向性の1つの極点かもしれない

*2:本作のストーリーにかこつけて言えば、テイクは、自由恋愛を禁止する母星の制度への、弱々しいけれど、結局は究極的な反抗の根拠になり得そうである。ギブは社会に還元できそうだが、テイクはあくまで自己中心的であり、だからこそ社会制度への揺るがない反抗心の源になりそうだ。