ビデオゲームとイリンクスのほとり

ブログになる前の軽い話は以下で話してます。■Discord : https://discord.gg/82T3DXpTZK 『ビデオゲームで語る』 ■映画の感想は『映画と映像とテキストと』というブログに書いてます。https://turque-moviereview.hatenablog.com/ ■Twitter ID: @turqu_boardgame

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【日記】戦争とエルデンリング

2022年2月24日(木)。レビューが解禁され、明日発売を迎える『エルデンリング』が歴史的な傑作と肩を並べる高得点を獲得している。そして、現実世界の世界的なニュースとして、ロシアが明確なウクライナへの侵攻を行ったことが報じられている。

この2つには何の関係もつながりもない。あまりにも卑小すぎるものと、あまりにも大きな出来事がゲーマーの中では同一の時間に生じている。そして何が大きなことで何が小さなことなのか、それを明確に決定するような言葉を言いたくないような気持ちになっている。しかし、これは、虚しいとか悲しいとか辛いということでは、幸いにしてない(日本は今のところ幸運にも戦場になっていないから)。ただただ、羞恥に近いような、諦めのような、傲慢のような、見たくないものを見ないようにしているような、奇妙な感覚を味わっている。ただ『エルデンリング』が戦争というものと時間を同一にしていたことは、なんとなく覚えておきたいような気がした。理由はわからない。日記として、つい残してしまった。

『昭和米国物語』の「面白そう!」は何が面白そうなのか?

2022年1月7日にゲームメディアが報じた『昭和米国物語』というゲームのリリースは、瞬く間にネットでも大きな話題となった。すぐに過去の話題になりそうなバズり方ではあったが、私自身もこのゲームのPVを見て「絶対買っちゃいそう……」と思った(単純)。でもそのくらいインパクトがあった。

Showa American Story | Official Reveal Trailer - YouTube

色々な人の感想や印象を見ていると、結構「面白そう」とつぶやいている人を見る。確かにその通りで、このゲーム、不思議と面白そうなのだ。しかし、PVで見られるゲームプレイのシーンというのは割合からすると少ない。刀らしき武器でゾンビを斬るシーンや、バイクでゾンビを轢き殺すシーン、アサルトライフルやショットガンで敵を薙ぎ倒すシーン。どのゲームプレイのシーンも、他のゲームでよく目にしそうな、極めてありがちで凡庸なものにも見える。冷静になって考えてみると、一体このゲームの何がそんなに特別に面白そうに見えてしまったのか、正直よく分からなくなる。

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もちろんこのゲームを「面白そう」と評したからと言って、ゲームプレイやゲームメカニクスなど「ゲームの部分」が面白そうだと言ったわけではないと言うこともできる。何よりこの破天荒な昭和66年という設定や、文化的・経済的侵略を受けたアメリカという奇天烈なニッポンの面白さは自明である。また製作が中国のゲーム開発スタジオであることも独特の話題としての面白さを提供してくれている。海外の人がここまである年代の日本人のツボに直撃する要素を適切に(?)配置できた驚きは確かにある。多くの人の「面白そう」というコメントはあくまでこういうものを指しているに過ぎないのだとも言えそうである。

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↑主題歌が『それが大事』なのはやられた感があった

しかし、果たしてそうだろうか。これが例えば映画のPVであったとして、ゲームプレイの部分がなくなっても、「面白そう!」と思えただろうか。もちろんそれができた可能性はある。そのくらいとても面白い映像センスが感じられるPVではあった。とは言え、そうしたことを踏まえつつも、多くの人は意外にもゲームとして面白そうだと言っているのではないだろうか。ゲームだからこそ『昭和米国物語』がこれだけ「面白そう」に見えたのではないだろうか。では、そのゲームならではの「面白そう」感とは一体何なんだろうか。

私はこのPVが感じさせるビデオゲーム的な「面白そう」感とは、不統一感であり、デタラメ感ではないかと考えている。それはゴールデンゲートブリッジに掲げられている巨大な提灯であり、着物を着た自由の女神であり、新横浜と呼ばれるロサンゼルスである。しかし、そうしたトンデモニッポン的なものだけがデタラメなのではない。そういう面白さはアニメでも映画でもありうる。ただ、アメコミが実写化する際には、リアリティを高めるために衣装がコミカルな雰囲気を失ったりすることがある。リアリティなり世界観なりのために、元々持っていたデタラメさが均される(ならされる)ことは普通にある。私が感じるのは、そうした作品製作としては極めて真っ当な均そうとする良識を忘れたような、ある種のタガが外れたデタラメさがビデオゲームというメディアには許容するところがあるのではないかということだ。なぜだかよく分からないが、ビデオゲームというメディアには、不思議とデタラメさを許すようなところがある。例えば奇妙なニッポン要素以外にも、脈絡なく竹馬が出てきたり、刀によるスラッシュアクションがあり、ヤクザ的な組織があり、アニメへのあからさまなオマージュがあり、「例のプール」まで出てくる。モチーフが乱立する中に、ほとんど他の要素とフラットに「ゲーム部分」が入ってくるのだ。ビデオゲームというメディアにはこの「作品として統一感」にとてもユルい面があり、それはビデオゲームの核と言っていいはずの「ゲーム部分」さえ、その特権性を失わせる程の相対化の力を持っている。ビデオゲームは、プラットフォームアクションに突然シューティングゲームが混じるようなことが古くからあるメディアだ。カットシーンとゲームプレイでは全く異なる仕組みやエンジンで製作して、繋げられていることは珍しくもない。とはいえビデオゲームであっても「作品としての統一感」が重要視されることはあるし、それを目指して作られている作品の方が多いかもしれない。しかし全然違う要素が混じりあっていることへの抵抗の無さというのはビデオゲームの特色の一つとしてあるのではないだろうか。例えば、同じゲームと言ってもボードゲームにそういうユルさをここまで受け入れる受容文化はないように思う。なぜビデオゲームにそういう特徴があるのかは様々な歴史的経緯があるだろうが、それを突き詰めたいのではない。私が興味を持つのは、そのデタラメさを面白がるという独特の価値判断がゲーマーのコミュニティには普通に存在するという点だ。

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よく見た目が良いだけで面白くないゲーム、とか、お話は面白いけれどゲームメカニクスとしては凡庸なゲーム、というのがゲーマーの間でも議論の対象となる。当該作品の各要素をそれぞれ取り上げて、どの部分が優れているのか、どの部分が優れていることがビデオゲームにおいては大切なのか?ということが議論される。それは個々の観点は異なれども、映画でも漫画でも小説でも同じようにあることだろう。そして他のメディアと同様、そうした各要素が「統一されていること」は一つの美点として、ビデオゲームにおいても評価される。しかし一方で、ビデオゲームにはこの各要素が乱立したままに、ある意味バラバラのままで、どこを楽しんでも良い、なんなら自分の好んだ要素が他の要素を邪魔したり、矛盾していることがあっても、それが直ちに欠点になるわけではない。人の生命の倫理的な問題を扱う物語なのに、人をカジュアルに殺すことへの喜びを楽しむ要素があるゲームが、そのことによって真正面に批判されることは意外に少ない。むしろ玉石混交であっても楽しめるポイントが沢山ある方が良いゲームである、という価値観がかなりのウェイトでもって、ビデオゲームを評価する際の指針となっていると思うことがある。これは特定の主流でない要素が極端に良いから評価される、と言う話とは似ているけれど少し違う。もう少し「八方美人」や「器用貧乏」を愛でるようなところがビデオゲームにはある、ということだ。そして、この価値観は決して古くからあるわけではなくて、オープンワールドゲームが盛り上がってきた2000年代頃から盛んに言われる「自由度」の問題に繋がっているのではないかと思う。

「自由度が高い」はよく目にするビデオゲームに対する褒め言葉の一つだ。しかし普通に考えて「自由」であっても「楽しい」とは限らない。だから真面目なゲーマーはこうした「自由度」信仰に対してはある一定の警戒感を持つ。「自由だったら、それで良いのかよ?」と。しかしながら「自由度」を褒めるときに人は本当に「自由で楽しい」ということを求めているのだろうか?街で歩く通行人を意味もなく撃つ自由、味方を裏切る自由、道徳的な判断を覆す自由、いきなり自キャラを奈落に落として自殺する自由、ゲームにおけるこうした自由は、それを選んだ上で、プレイヤーたちはそのことから楽しさを享受しているわけではない。いや刹那的には楽しいけれど、別に何度もやりたいわけではない。むしろ僕たちが「自由度」を愛するのは、デタラメを愛しているということの言い換えではないかと思うのだ。(もちろんだが、『昭和米国物語』が「自由度」の高そうなゲームだと言いたいわけではない)

『昭和米国物語』が良いゲームかどうかは分からない。同開発スタジオの作った過去のゲームを調べると不安は増すばかりだ。しかし、そんなことはどうでも良いのだ。ビデオゲームらしい良質なデタラメさ*1をそこに見たからこそ、『昭和米国物語』は不思議と「ゲームとして」面白そうに見えたのではないだろうか。

*1:『昭和米国物語』は決してデタラメではなく、あの世界観で見事な統一が取られているのだ、というのは本稿に対する妥当な反論と思う。確かに日本のネットサブカル的なものという観点から統一は取られているとも思う。ただ、年代的なものを一つ取っても、80年代(ガンダム)、90年代(それが大事)、00年代(グレンラガン)、10年代(例のプール)と出てくるモチーフが様々な年代に渡っているし、もはや昭和というより平成ではないか?とも思う。もちろんあえて「昭和」と言っているとも思うが。だから私としてはデタラメだからダメ、と言いたいわけではなく、端的に不統一的なデタラメさもあると指摘できるとは思う。むしろ重要なのは、「良いデタラメさ」と「悪いデタラメさ」を議論できる、本作はキッカケにもなるかもしれない、ということである。

ゲームにおける”コラボ”はなぜ「嫌な感じ」がするのか?

スマートフォンのゲームでもそうだが、コンソールで発売される売り切り型のゲームでも、他のゲームや直接関係ないアニメや商品とコラボをする、というキャンペーンは数多く展開されている。コラボ企画の中には、正直「なんだかなぁ」と興醒めするような気持ちになるものもある。例えば、以下の記事のように『マインクラフト 』ではユニクロとコラボし、ゲーム内では専用のスキンを配布する企画を実施していた。

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『マイクラ』とユニクロのコラボ第2弾がスタート―ゲーム内スキン配信に加えUTme!でのオリジナルTシャツ作成も | Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト

私自身はこれを特に楽しい企画とは思わなかったし、最近やたらと『マインクラフト』がコラボ企画をやっていることには少しだけネガティブな気持ちを持つ。ただ、このようなコラボ事例はまだ可愛い方で、そこまで「嫌な感じ」はしない。「嫌な感じ」がするコラボ企画というのは、主に以下のような特徴があるケースと考える。

  • そのゲームに(私が)強い思い入れがある
  • コラボする両作品の間にコラボする強い理由や文脈がない
  • コラボによる特典を利用することで大きな得をする(使わないと損をする)
  • *1

1つ目については、コラボ企画それ自体の特徴ではないので、やや特殊なものかもしれない。ただやはり、好きなゲーム作品がコラボ企画をやっている時にはモニョモニョした気持ちになる。しかし裏返すと、特に好きでもないスマホゲームのコラボなどは、あまりなんとも思わない。とはいえスマホゲームのコラボ企画は凄まじい量が展開されており、以下のようなコラボ一覧のページを見ると、やや笑ってしまうような気持ちになる。

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【2021年12月】コラボ開催中のスマホゲームアプリをおすすめ順にまとめたよ! - アプリの森【あぷもり】

【2021年12月】コラボ中のスマホゲーム特集! 人気アニメや漫画を楽しもう | アプリ島 可愛いゲーム情報 

それでも、特に好きでもないゲーム作品がコラボをやっていてもそこまで「嫌な感じ」はしない。自分にとっては上記のようなスマホゲームがそうである。

では好きな作品がコラボをすると何が嫌なんだろうか。以前に「課金はどのように嫌われているか」という記事を書いたことがあった。その分類で言うと「反儲け主義」に近いのかもしれないとも考えた。つまり思い入れのある作品に対する商売っ気を強く感じてしまうから嫌な気持ちになるのかな?とこれまでなんとなく思っていた。

ダウンロードコンテンツや課金要素はどのように嫌われているのか? - 課金嫌いを分類する - ビデオゲームとイリンクスのほとり

しかし考えてみるに、別に儲けを志向するからといって常に嫌になるわけではない。あらゆるビジネスは儲けを志向しているわけだが、それだからといって即座に「汚い」とか「いやらしい」とは思わない。コラボを嫌がる気持ちには、もう少し別の理由もありそうに思う。それを2つ目以降の理由を見ながらもう少し考えよう。

コラボの必然性

嫌な感じがする2つ目の理由としてコラボの必然性の無さというものがある。逆に、そのコラボが「理由」や「必然性」や「文脈」を持っていれば、OKと思える。例えば、『大乱闘スマッシュブラザーズ』という作品はほぼコラボによって構成されているようなゲームである。しかし、このゲームに他のゲームキャラクターが参戦するのは、その発表なども含め、あまり反発心を私は抱いたりしない。これは「このゲームはそういうもんだ」という前提(文脈)が私の中に組み込まれているからだろう。人によっては任天堂以外のキャラクターがやたらと参入してくるのは、やや反感を持つ人がいるかもしれない。*2 しかしこのような態度も、逆にそれは「任天堂キャラなら、参戦することは妥当だ」というある種のコラボとしての必然性を感じていると裏返して言うこともできるだろう。

コラボによるプレイ上の損得

嫌な理由の3つ目はゲームとしての損得の問題だ。必然性の無さだけがコラボへの嫌悪感になるわけではない。例えば『Death Stranding』(2019)では、『Horizon Zero Dawn』(2017)という他のゲームのキャラクターや機械獣が、ホログラムとしてゲーム内に登場させることができた。これもゲームとして特に大きな意味があるわけではなく、ほぼ「見た目」に関する部分だけである。しかし、こうした「ちょっとしたお遊び」のコラボは先程の「必然性」というものをそれほど有していない。実際にスキンや衣装だけコラボする企画というのはとてもよく見るものだと思うが、これは「コラボ相手のキャラや世界観に全く興味のない人が不利にならないように」という配慮があるだろう。*3  コラボ対象の期間限定キャラを使うと、ゲーム内でとても高い効果を獲得できたりする場合、全く興味のないキャラクターをゲームに有利であるという理由から「無理やり使わさせられる」ような気がしてしまう可能性がある。これは人によっては嫌な気持ちがするだろう。

コラボのテンポラリー感が嫌

いずれにしろ、コラボするなら

  • (A)徹底的にゲームのメカニクスや世界観まで含めて取り込む
  • (B)ちょっとしたお遊びとして見た目変更などを少しだけ関わらせるか

の2通りのパターンがあるように思う。この(A),(B)という2つのやり方は全く両極端に見えるかもしれないが、どちらも上記に挙げた2つ目と3つ目の問題を解決しようとしているとも言えるかもしれない。(A)は(必然性の問題を解決するだけでなく)徹底的に組み込むことでコラボ企画のキャラやアイテムなどを使っても使わなくても損しないバランスでゲームを構築するかもしれないし、(B)は(キャラ使用の有利不利問題を解決するだけでなく)両作品の関わり合いを小さくすることで小さな必然性でも違和感がないようにしていると考えることもできるだろう。そしてこの事を考える上で、ちょうど直近で面白いブログ記事をTwitterで知った。

好きなアニメと1ミリも合ってないコラボ商品見ると引く - kansou

これはアニメのコラボ商品への残念さを表現した記事だ。とてもよく分かる。しかしこの記事を読んでいて、私は次のようにも思った。これはコラボ企画自体が悪いのではなく、コラボのやり方が悪い例だろう。つまり不出来なコラボは良くないと言う話だ。しかし私が本記事で言いたいのはむしろどんなに丁寧で誠実なコラボをしても別にあまり嬉しくないケースがある、ということだ。だから(A)のような真面目なコラボであっても、しっくりこない感じがある。要はコラボという概念そのものに宿る「嫌な感じ」とはなんだろう?ということが気になっているのだ。例えば『モンスターハンター:ワールド』では各種コラボをやっているが、その中でも『ウィッチャー』という他ゲーム作品とのコラボはかなり気合の入ったコラボだったと言える。専用の技やアクションまで取り入れられた特注とも感じられるコラボだった。*4  しかし、それでもこのコラボにはやはりしっくり来ない印象を持っている。結局のところ「たまにはそういう変わり種のイベントがあっても良いよね」という程度のものでしかなかったように思えてしまうのだ。このコラボは、新モンスターの追加アップデートや大型DLCとは全く異なるように私は感じる。

そう考えた時にこれまでに挙げた3つの「嫌な理由」と関連する一つの「コラボ(という概念)が嫌われるコラボ自身の特性」があるように思う。それは、コラボの「一時性」だ。例えば、『真・三國無双』と『戦国無双』との合体的な商品である『無双オロチ』というコラボ作品がある。しかし、これを単に「コラボ」と表現するには少し抵抗がないだろうか。元の両作品は非常にゲームシステムとして似たシリーズであるし、開発・販売する会社が同じなので、あまり「コラボしている」とは言い難いかもしれない。しかしコーエー自身はかつてこれを「夢のコラボ」と表現していた。

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この「コラボ」は現在巷に溢れる他のコラボ企画とはやや趣きが異なる。その主な理由が『無双オロチ』は既に「一時的な」作品ではないように思えるところではないだろうか。既にオロチシリーズとして本編3作品がリリースされている。私が「コラボ」を嫌だと思う大きな理由の一つが「これは一時的なものでしかなさそうだ」という感覚である。だからこそ『無双オロチ』には、コラボという感じが最早しないし、何作も出ている作品、例えばワンピースとのコラボであった『海賊無双』などには今更「コラボ」と表現することにやや抵抗感がある。逆にまだ初めてのコラボである『刀剣乱舞無双』にはなんとはなしに「コラボ感」が漂う(2021年の現時点において)。複数のシリーズ作品で継続してそのコラボコンセプトが使われ続けるとコラボ感が減るのだ。

このことは(A)のような丁寧なコラボ企画ならOKだという話とは異なる点が重要だと考える。つまり(B)のようなケースでも適用できる。例えば極めてささやかなコラボであるが、『龍が如く』における量販店のドンキホーテとのコラボは、もうずっと前の作品から継続して行われている。このコラボにも私はいわゆるコラボ的な嫌さを感じない。むしろ神室町*5にはドンキホーテはあって当然の存在に思える。一つの具体的な基準として、複数のシリーズ作品で継続して行われるコラボにはより一段レベルの高いコラボとしての適切さが備わる傾向があるように思う。『モンスターハンター:ワールド』の『ウィッチャー』コラボは、極めて丁寧で誠実なコラボであったと思うが、シリーズで継続していきそうだというところまでは残念ながら感じられなかった。あくまで一時的なものにしか感じられなかった、というのが、私のネガティブな感覚の理由としてあるように思う。ただ、『ウィッチャー』コラボはとても誠実さは感じられるので、そこまで嫌ではないし、これが次作品でも継続して行われるようになったとしたら、また違った感覚が沸くのではないかと思っている。

このコラボの一時性(刹那さ)は、コラボというものの本質的な特徴なのかどうかは分からない。単に現状の言葉の用法としての話かもしれない。しかしもしコラボと聞いて「嫌な感じ」を持つのだとしたら、そこにはこの永続しそうにない儚さの予感があるのではないだろうか。そしてそれはあくまで予感であり、その予感が『無双オロチ』のように時間的な継続性によってズレていくことがある。そうすると「嫌なコラボ」から「許されるコラボ」へと切り替わっていくということはあるのかもしれないと思う。

 

*1:もう一つの理由として「コラボ対象の作品やキャラが嫌い」というものがあるように思ったが、コラボが嫌なのかその作品が単に嫌なのか区別がつかないかもしれないと思い除いた。加えて、仮にコラボの主となるゲーム作品に特に思い入れがなければ、従たるコラボ対象作品が嫌いでも、そのコラボを嫌には思いにくいのではないかと思った。そこで、主たるゲーム作品への思い入れのみを、今回の3つの特徴(理由)に入れている。

*2:ペルソナ5』のジョーカーがスマブラに参戦した時に「ペルソナ本編が任天堂ハードでは出ていないのではないか?」というような意見が出たが、こうした意見はその典型(必然性を重んじる態度)であるだろう。

*3:こうした見た目だけのコラボ企画が多いのは、コラボにかかるコストが低いという点も大きな理由とは思う

*4:『ウィッチャー3』ではある主要な登場人物が全く違う異世界に紛れ込んでしまった経験を語るセリフがある。これなどは『モンハン』の世界にウィッチャーのキャラが登場するささやかな必然性に繋がっているだろう。

*5:神室町は『龍が如く』シリーズ作品で毎回舞台になる東京の街の名前。新宿歌舞伎町がモデルとなっている。