ビデオゲームとイリンクスのほとり

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映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

ゲームにおける”コラボ”はなぜ「嫌な感じ」がするのか?

スマートフォンのゲームでもそうだが、コンソールで発売される売り切り型のゲームでも、他のゲームや直接関係ないアニメや商品とコラボをする、というキャンペーンは数多く展開されている。コラボ企画の中には、正直「なんだかなぁ」と興醒めするような気持ちになるものもある。例えば、以下の記事のように『マインクラフト 』ではユニクロとコラボし、ゲーム内では専用のスキンを配布する企画を実施していた。

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『マイクラ』とユニクロのコラボ第2弾がスタート―ゲーム内スキン配信に加えUTme!でのオリジナルTシャツ作成も | Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト

私自身はこれを特に楽しい企画とは思わなかったし、最近やたらと『マインクラフト』がコラボ企画をやっていることには少しだけネガティブな気持ちを持つ。ただ、このようなコラボ事例はまだ可愛い方で、そこまで「嫌な感じ」はしない。「嫌な感じ」がするコラボ企画というのは、主に以下のような特徴があるケースと考える。

  • そのゲームに(私が)強い思い入れがある
  • コラボする両作品の間にコラボする強い理由や文脈がない
  • コラボによる特典を利用することで大きな得をする(使わないと損をする)
  • *1

1つ目については、コラボ企画それ自体の特徴ではないので、やや特殊なものかもしれない。ただやはり、好きなゲーム作品がコラボ企画をやっている時にはモニョモニョした気持ちになる。しかし裏返すと、特に好きでもないスマホゲームのコラボなどは、あまりなんとも思わない。とはいえスマホゲームのコラボ企画は凄まじい量が展開されており、以下のようなコラボ一覧のページを見ると、やや笑ってしまうような気持ちになる。

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【2021年12月】コラボ開催中のスマホゲームアプリをおすすめ順にまとめたよ! - アプリの森【あぷもり】

【2021年12月】コラボ中のスマホゲーム特集! 人気アニメや漫画を楽しもう | アプリ島 可愛いゲーム情報 

それでも、特に好きでもないゲーム作品がコラボをやっていてもそこまで「嫌な感じ」はしない。自分にとっては上記のようなスマホゲームがそうである。

では好きな作品がコラボをすると何が嫌なんだろうか。以前に「課金はどのように嫌われているか」という記事を書いたことがあった。その分類で言うと「反儲け主義」に近いのかもしれないとも考えた。つまり思い入れのある作品に対する商売っ気を強く感じてしまうから嫌な気持ちになるのかな?とこれまでなんとなく思っていた。

ダウンロードコンテンツや課金要素はどのように嫌われているのか? - 課金嫌いを分類する - ビデオゲームとイリンクスのほとり

しかし考えてみるに、別に儲けを志向するからといって常に嫌になるわけではない。あらゆるビジネスは儲けを志向しているわけだが、それだからといって即座に「汚い」とか「いやらしい」とは思わない。コラボを嫌がる気持ちには、もう少し別の理由もありそうに思う。それを2つ目以降の理由を見ながらもう少し考えよう。

コラボの必然性

嫌な感じがする2つ目の理由としてコラボの必然性の無さというものがある。逆に、そのコラボが「理由」や「必然性」や「文脈」を持っていれば、OKと思える。例えば、『大乱闘スマッシュブラザーズ』という作品はほぼコラボによって構成されているようなゲームである。しかし、このゲームに他のゲームキャラクターが参戦するのは、その発表なども含め、あまり反発心を私は抱いたりしない。これは「このゲームはそういうもんだ」という前提(文脈)が私の中に組み込まれているからだろう。人によっては任天堂以外のキャラクターがやたらと参入してくるのは、やや反感を持つ人がいるかもしれない。*2 しかしこのような態度も、逆にそれは「任天堂キャラなら、参戦することは妥当だ」というある種のコラボとしての必然性を感じていると裏返して言うこともできるだろう。

コラボによるプレイ上の損得

嫌な理由の3つ目はゲームとしての損得の問題だ。必然性の無さだけがコラボへの嫌悪感になるわけではない。例えば『Death Stranding』(2019)では、『Horizon Zero Dawn』(2017)という他のゲームのキャラクターや機械獣が、ホログラムとしてゲーム内に登場させることができた。これもゲームとして特に大きな意味があるわけではなく、ほぼ「見た目」に関する部分だけである。しかし、こうした「ちょっとしたお遊び」のコラボは先程の「必然性」というものをそれほど有していない。実際にスキンや衣装だけコラボする企画というのはとてもよく見るものだと思うが、これは「コラボ相手のキャラや世界観に全く興味のない人が不利にならないように」という配慮があるだろう。*3  コラボ対象の期間限定キャラを使うと、ゲーム内でとても高い効果を獲得できたりする場合、全く興味のないキャラクターをゲームに有利であるという理由から「無理やり使わさせられる」ような気がしてしまう可能性がある。これは人によっては嫌な気持ちがするだろう。

コラボのテンポラリー感が嫌

いずれにしろ、コラボするなら

  • (A)徹底的にゲームのメカニクスや世界観まで含めて取り込む
  • (B)ちょっとしたお遊びとして見た目変更などを少しだけ関わらせるか

の2通りのパターンがあるように思う。この(A),(B)という2つのやり方は全く両極端に見えるかもしれないが、どちらも上記に挙げた2つ目と3つ目の問題を解決しようとしているとも言えるかもしれない。(A)は(必然性の問題を解決するだけでなく)徹底的に組み込むことでコラボ企画のキャラやアイテムなどを使っても使わなくても損しないバランスでゲームを構築するかもしれないし、(B)は(キャラ使用の有利不利問題を解決するだけでなく)両作品の関わり合いを小さくすることで小さな必然性でも違和感がないようにしていると考えることもできるだろう。そしてこの事を考える上で、ちょうど直近で面白いブログ記事をTwitterで知った。

好きなアニメと1ミリも合ってないコラボ商品見ると引く - kansou

これはアニメのコラボ商品への残念さを表現した記事だ。とてもよく分かる。しかしこの記事を読んでいて、私は次のようにも思った。これはコラボ企画自体が悪いのではなく、コラボのやり方が悪い例だろう。つまり不出来なコラボは良くないと言う話だ。しかし私が本記事で言いたいのはむしろどんなに丁寧で誠実なコラボをしても別にあまり嬉しくないケースがある、ということだ。だから(A)のような真面目なコラボであっても、しっくりこない感じがある。要はコラボという概念そのものに宿る「嫌な感じ」とはなんだろう?ということが気になっているのだ。例えば『モンスターハンター:ワールド』では各種コラボをやっているが、その中でも『ウィッチャー』という他ゲーム作品とのコラボはかなり気合の入ったコラボだったと言える。専用の技やアクションまで取り入れられた特注とも感じられるコラボだった。*4  しかし、それでもこのコラボにはやはりしっくり来ない印象を持っている。結局のところ「たまにはそういう変わり種のイベントがあっても良いよね」という程度のものでしかなかったように思えてしまうのだ。このコラボは、新モンスターの追加アップデートや大型DLCとは全く異なるように私は感じる。

そう考えた時にこれまでに挙げた3つの「嫌な理由」と関連する一つの「コラボ(という概念)が嫌われるコラボ自身の特性」があるように思う。それは、コラボの「一時性」だ。例えば、『真・三國無双』と『戦国無双』との合体的な商品である『無双オロチ』というコラボ作品がある。しかし、これを単に「コラボ」と表現するには少し抵抗がないだろうか。元の両作品は非常にゲームシステムとして似たシリーズであるし、開発・販売する会社が同じなので、あまり「コラボしている」とは言い難いかもしれない。しかしコーエー自身はかつてこれを「夢のコラボ」と表現していた。

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この「コラボ」は現在巷に溢れる他のコラボ企画とはやや趣きが異なる。その主な理由が『無双オロチ』は既に「一時的な」作品ではないように思えるところではないだろうか。既にオロチシリーズとして本編3作品がリリースされている。私が「コラボ」を嫌だと思う大きな理由の一つが「これは一時的なものでしかなさそうだ」という感覚である。だからこそ『無双オロチ』には、コラボという感じが最早しないし、何作も出ている作品、例えばワンピースとのコラボであった『海賊無双』などには今更「コラボ」と表現することにやや抵抗感がある。逆にまだ初めてのコラボである『刀剣乱舞無双』にはなんとはなしに「コラボ感」が漂う(2021年の現時点において)。複数のシリーズ作品で継続してそのコラボコンセプトが使われ続けるとコラボ感が減るのだ。

このことは(A)のような丁寧なコラボ企画ならOKだという話とは異なる点が重要だと考える。つまり(B)のようなケースでも適用できる。例えば極めてささやかなコラボであるが、『龍が如く』における量販店のドンキホーテとのコラボは、もうずっと前の作品から継続して行われている。このコラボにも私はいわゆるコラボ的な嫌さを感じない。むしろ神室町*5にはドンキホーテはあって当然の存在に思える。一つの具体的な基準として、複数のシリーズ作品で継続して行われるコラボにはより一段レベルの高いコラボとしての適切さが備わる傾向があるように思う。『モンスターハンター:ワールド』の『ウィッチャー』コラボは、極めて丁寧で誠実なコラボであったと思うが、シリーズで継続していきそうだというところまでは残念ながら感じられなかった。あくまで一時的なものにしか感じられなかった、というのが、私のネガティブな感覚の理由としてあるように思う。ただ、『ウィッチャー』コラボはとても誠実さは感じられるので、そこまで嫌ではないし、これが次作品でも継続して行われるようになったとしたら、また違った感覚が沸くのではないかと思っている。

このコラボの一時性(刹那さ)は、コラボというものの本質的な特徴なのかどうかは分からない。単に現状の言葉の用法としての話かもしれない。しかしもしコラボと聞いて「嫌な感じ」を持つのだとしたら、そこにはこの永続しそうにない儚さの予感があるのではないだろうか。そしてそれはあくまで予感であり、その予感が『無双オロチ』のように時間的な継続性によってズレていくことがある。そうすると「嫌なコラボ」から「許されるコラボ」へと切り替わっていくということはあるのかもしれないと思う。

 

*1:もう一つの理由として「コラボ対象の作品やキャラが嫌い」というものがあるように思ったが、コラボが嫌なのかその作品が単に嫌なのか区別がつかないかもしれないと思い除いた。加えて、仮にコラボの主となるゲーム作品に特に思い入れがなければ、従たるコラボ対象作品が嫌いでも、そのコラボを嫌には思いにくいのではないかと思った。そこで、主たるゲーム作品への思い入れのみを、今回の3つの特徴(理由)に入れている。

*2:ペルソナ5』のジョーカーがスマブラに参戦した時に「ペルソナ本編が任天堂ハードでは出ていないのではないか?」というような意見が出たが、こうした意見はその典型(必然性を重んじる態度)であるだろう。

*3:こうした見た目だけのコラボ企画が多いのは、コラボにかかるコストが低いという点も大きな理由とは思う

*4:『ウィッチャー3』ではある主要な登場人物が全く違う異世界に紛れ込んでしまった経験を語るセリフがある。これなどは『モンハン』の世界にウィッチャーのキャラが登場するささやかな必然性に繋がっているだろう。

*5:神室町は『龍が如く』シリーズ作品で毎回舞台になる東京の街の名前。新宿歌舞伎町がモデルとなっている。